五話 エレベーター


 五話  エレベーター


 九月一五日、今日で夏休みは終わり講義が開始される。再試期間の二週間、早々に再試を終えた僕に比べ、最終日である昨日までテストがあったハルは、今日から始業だと言うのにむしろテストから解放された喜びに満ちていて、学校が始まったことに感謝すらしているようであった。

 ……が、本当に感謝をしているわけではなかったようで、本日最後の講義である三現目の“医療機器・分析法”の授業は出席だけ取って出て行ってしまう。教授が板書をしているときだったとはいえ、荷物を持って出て行く姿はどう見ても“ちょっと抜け出す”ようには見えなかった。完全に戻って来るつもりはない。

 きっと部室に向かったはずだ。今日は水曜日。部会がある。基本的に部会は全員参加なので、部会のある昼休みまでは学校にいなければならない。

ただし、部会に来ない人間もかなりの数いる。一年生の女子の多くは部会に来ないし、二年生ではダイキとしらべがそうだ。

ダイキは昼休み、チャラい仲間たちと過ごすことを優先し、特に来るメリットのない部会には来ない。重要な連絡があれば、僕かハルが連絡する手はずになっている。――メールを送らなければ、あいつは連絡事項が届かなくなり、必然的に部会に出るしかなくなるのだが、僕とハルはついつい甘やかしてしまう。一年半共に行動して来た仲間であるし、あいつはだらしないわりに憎めないところもある。だから、部会に出ないことを注意こそすれ、それを責めようとはしなかった。

そしてしらべは、そういう集まりごとが苦手なのだ。マイペース。部会で知らされる重要事項はゆうがメールしているという。肝試しや心霊スポットめぐりなどを行う時は必ず来るのに、部会にはたまにしか来ない。気が向いた時だけ来て、気が向かなければ来ない。本当に自由な奴だ。

授業終了のチャイムがなり、みなカバンに教科書や筆箱をしまい、それぞれのグループで教室を出て行く。今日の講義はこれで終了。後期初日は、まだ実習が始まらないので午前中で解放されることとなる。食堂に向かう者、帰路に着く者、はたまた僕と同じように部会に出向く者、教室はすぐに空になった。

さて、僕もミス研部室に向かうとしよう。

部会があるというのも理由の一つだが、僕はハルに相談しなければならないことがある。

肝試しについて。

この周辺で幽霊が見られる場所を探したのだけれども、どこもすでに部の活動で回ったことのある場所だった。

同じ場所に何回も行くのは芸がないし、しらべに能がないと思われそうで嫌だった。かと言って、あまり遠くになり過ぎると、出不精のしらべは参加をためらうかもしれない。

このジレンマを解消するためにはどうすればいいか、それがハルに相談したい今日の議題であった。

あいつなら、様々な知識を持っているから、この辺りでも穴場の心霊スポットを知っているかもしれない。幽霊を見たと言う目撃証言はなくとも、以前陰惨な事件があった場所とか、そういうものでもしらべは食いついて来るはずだ。

が、部室に行く前に購買に寄って行こう。今日の午後はもう講義がないので取り立てて急な昼食を取る必要はないのだけれど、部会の日は部室で弁当を食べるのが習慣となっていた。

今日は何を食べよう。唐揚げ丼でも選んでみようか。あれはコショウとニンニクのアクセントが効いていてとてもおいしい。

丼コーナーから唐揚げ丼を手に取った僕は飲み物コーナーに向かい、そこで見慣れた背中を見つける。

僕はその背中を思い切り蹴飛ばした。

「おっ!? うおッ!」

 前のめりになるだけで倒れはしなかった。

 いったい何が起こったのか。そんな形相でこちらを振り返るその男。

「よ、ダイキ」

「カ、カナタ……、てめェ……」

 怒ってはいないだろうが、非難の目が向けられる。

「今日は何曜日だ?」

 しかし、そんな凶悪な視線は無視して、そう問うた。

「あ? なんだよ、いきなり。俺への謝罪はどうした? ……今日は、水曜日だろ」

「水曜日は何の日?」

「水曜日は水曜日だろ」

 今度は左脚目掛けて、ローキックをお見舞いする。

「うおッ! イテェ! つか、やめろッ! 蹴るのはいいけど、服が汚れる!」

 蹴るのはいいのかよ。

「部会だよ、部会」

「あァ? ……あァ……」ダイキの眼が泳いだ。「……わかってるよ! ちゃんと行くつもりだったさ。だからこうして購買で昼飯を買おうとしてたんだろ」

 それが事実かどうかはわからない。たぶん嘘だけど。ただ、まあ、“部会に行くつもりだった”と明言したのだ。もう言い逃れはさせない。

「ちょうどよかった。僕も部会に行くところだったんだ。一緒に行こう」

 ダイキの肩を抱く。

「いや……、ちょっと、一回教室に戻らないといけないから、後で行くよ。先に行ってて」

「とか言って、絶対に来ないんだから、僕が部室まで案内してやるよ。な?」

「な? って言われても……。あ、おまえ、友達を信用しないのかよ!」

「テメェは嘘が多過ぎるんだよ!」

「嘘ばっかじゃねえ! 本当のことも言うぞ!」

「そんなことは聞いてねえ! いいから、行くぞ!」

 ダイキをレジまで引っ張って行って、会計を済ました後、またしてもダイキの肩を抱く。

「わ、わかったよ!」今度は本当に観念した調子で言った。「じゃあ、友達に電話するから、ちょっと待ってくれ」

 携帯を取り出すと、ダイヤルを入力して携帯を耳に当てる。

「もしもし……うん……ミス研の友達に捕まった……ちょっと行って来るから……ああ、いいよ……うん、先に帰ってて……はい、じゃあ」

 どうやら友達を待たせていたらしい。

「やっぱ、部会に来る気はなかったんだな」

 会話の内容から考えられることは、どう聞いても部会には出ずに帰る予定だったということ。

「部室まで行くのめんどくせーんだよ」開き直るダイキ。ま、それは僕も否定できないけど。研究棟二号館は校舎からも購買からも遠い。「……とは言っても、本当は出なきゃいけないもんだしな。見つかったもんは仕方ねえ、行くよ」

 もう無理やり引っ張って行く必要もなさそうだったので、二人で並んで歩き出す。ダイキは意外とさっぱりとしたところがある。無駄にごねたり、言い訳をしようとはしない。

「それにしても、合宿ぶりだな。カナタ、夏休みどうしてたよ」

 ダイキとは合宿以来会っていなかった。夏休みは特に学校に来る用事がないし、特別連絡を取って遊ぼうともしなかった。成績配布の日だって僕たち薬学部とダイキたちの生命科学部は日程が違うので、校内で遭遇するということはなかった。

「夏休みはバイト三昧だよ。あとは読書だな。おまえも夏休みはバイトと読書か?」

「そうだな、基本的にはバイトだよ。やっぱ、夏休みは稼ぎ時だし。本も結構読んだわ。家に帰ってから寝るまでの間に。レポートを書かなくてもいいってのは助かるよな。ゆっくり本を読める。ただ、おまえと違うことは、俺は合コンもめちゃくちゃ行きまくったってことだ」

「合コンねぇ。僕は興味がないや」

 合コンに行っても、たぶん知らない人と打ち解けられないし。

 緊張して、きっと楽しめない。

「辰巳さん繋がりの合コンが多かったけどね。自分のコネでも他大の子とやったりもしたけど。もしあれなら、今度俺企画のときに、おまえも誘ってやろうか?」

「ははは、遠慮しとく」

「そうだなー。おまえはやめといた方がいい。酒が飲めない奴は、行ってもたぶん苦痛なだけだよ。相手にもよるけどさ。知らない子と仲良くなるには酒の力でわいわいやるのが手っ取り早いんだよ。そういう点で、酒が飲めないと仲良くなりづらい」

「僕はそもそもそういう出会いは求めてない」

「馬鹿だなァ。別に合コンって言ったって、彼女作るだけの目的で行くわけじゃないんだから。この前も言っただろ、楽しく酒飲んで、他大に友達を作るのが目的だって」

「他大に友達も今のところ必要ない」

「はいはい、まあ、おまえはおまえで、俺は俺。それでいいんじゃない? おまえのそういう“お硬い”ところもおまえのよさだと思うし」そう言って、ダイキはけらけらと笑う。「じゃあさ、おまえは毎日バイトと読書しかしてなかったわけ? そりゃ、随分と淡白な夏休みを送ったんだな。何かイベントはなかったの?」

「イベント?」

正直に言えば、しらべにメールを送ったことがこの夏休み中の最大のイベントだった。僕が奥手なのを知っているダイキにすれば、その出来事は面白いことこの上ない話となる。

「……バイトの人たちとの飲み会はあったけどね。そこでちょっと下ネタの話とかしたし、女の子からも面白い話は聞けたけど」

 が、ダイキにはしらべのことは話さない。なぜなら、こいつはとんでもなく口が軽いから。きっと、僕の周りにいる人間にはあっという間に広がることになる。それはよろしくない。完全に避けるべき事態だ。

「バイト先の人との飲み会が夏休み最大のイベントかよ。おまえらしいな。けど、どっか遊びに行ったりしないと疲れない? バイトして読書してるだけなんて、俺だったら気を病んじゃうと思うんだけど」

「僕は合コンとか、そういうのは楽しめない人間なんだよ。それに、そういう場って、楽しいことばっかでもないだろ? 向こうの女の子に陰口言われたり、嘲笑われたりして。そうやって不必要に傷つくくらいなら、一人でいる方がずっとマシさ」

「それはおまえ、合コンに対する偏見っていうか、被害妄想だろ。普通にしてれば、別に悪いようになったりはしないよ。つーか、俺が言ってるのは合コンの話じゃなくて、普通に誰かと遊びに行かなかったのかって話」

 ダイキが呆れたように言う。

 僕だって好きで読書とバイトに明け暮れる毎日を望んだわけではない。

 ――そりゃ、しらべと遊びに行けたら、それは読書よりも素晴らしい時間を過ごすことができただろうが。

 叶わなかった夢だ。

 落ち込んでる時間があるなら、僕はその時間に本を読む。

「まあ、ただ、確かにおまえが言うように楽しいことばっかじゃなかったな。合コンに行って、ちょっと後悔するような事件も起きたし」

 ダイキはため息を吐くと、何かを思い出したように暗い顔になった。

「どうしたんだよ」

 事件。

 ミステリー好きにはたまらない響き。

 そして、ダイキの暗い表情に好奇心がそそられる。

「いや、これは言えない。ちょっと、警察が絡んで来る話だから」

 そう言うクセして、露骨に僕の興味を引こうとしているのが見え見えだった。

 口ではそう言うものの、本当は喋りたいのだ。

 ダイキは面白い話は全ての人に伝えようとする習性がある。

「そこまで言っておいて、今さら教えないだなんて卑怯だぞ」

 僕が手を引いてやる。

 そうすることで、本来は喋ってはいけないことでも、口にしてしまおうと思ってしまう。

「……誰にも言うなよ」

 ダイキは口が軽い。

 ちょっと引っ張ってやれば、あっさりと口を開く。

「誰にも言わないよ。僕は口が堅いからね」

「僕はってのもトゲのある言い方だよな。まあ、いいや」機嫌を損ねても、秘密の暴露は踏みとどまらない。喋りたくて仕方ないのだ。「……俺、辰巳さんと合コンに行きまくったって言ったじゃん? そのうち、いくつかは辰巳さんの家で宅飲みとかもしたんだけどさ、そこでちょっと事件があったんだよ」

 声をひそめて喋る。部室に向かう道はほとんど人がいない。昼休みのこの時間、人が集まるのはバス停か、食堂、そして部室棟のどこかだ。研究棟二号館に近付くにつれ、人は減る。

「辰巳さんの家で?」

 二週間前、この道でハルとも似たような話をした。強姦され自殺した女の話と、留年して自殺した男の話。

 どうして僕の周りはこうも事件やら心霊現象やらが好きな奴ばかりなのだろう。ミステリー研究部という名の下には、そういう変な奴らが集まるのだろうか。

「普段はお酒を飲んでわいわいやって、鍋でも突(つつ)きながら楽しんで、無理にお酒を飲ませたりなんかもしないで、時間になりました、はい終了、じゃあねーっていうのが普通なんだけど、その日は辰巳さんのお気に入りの子がいてさ」

 この時点でもう、話の流れが見えて来た。

 深く踏み込んで、失敗したと思った。

 僕が嫌いな類の話だ。

 人間の醜い部分の話。

 軽蔑にも似た感情が僕の中で満ちて行く。

「無理やり飲ませて酔い潰したんだ。そして、ヤりやがった」

 ため息が出る。

 聞かなければよかった。

 面白くも何ともない。ただ単に、不愉快なだけの話だ。

「それって、犯罪だろ? 辰巳さんとおまえ、捕まるんじゃないの?」

 別に責めようってわけじゃない。他に言葉が出て来なかった。軽蔑というのは、すなわち感情が無になることで、ダイキの話に対して僕は笑いも悲しみも怒りも喜びも出て来なかった。

 関わり合いになりたくないという気持ち。

 それが本当の軽蔑。

 僕の言葉に、ダイキは笑って付け足した。

「俺は何もやってねーよ。つか、俺は全然その子タイプじゃなかったし。むしろ、辰巳さんの話を聞いて、マジかよって思ったくらいだ。俺はちゃんとやめといた方がいいっすよって言ったし、それでも俺の言うことなんか聞きやしなかったから、俺は辰巳さんが情事に耽っている間、コンビニに行って時間を潰してたよ」

 それでもきっと、通報されればダイキは罪に問われるだろう。

 その現場に居合わせたなら、止める義務が生じるはずである。

 でも、僕にダイキを責める気はない。

 なぜなら、仮に僕がダイキの立場だったとしても辰巳さんを止めることはできなかったからだ。むしろ、やめといた方がいいなんて言葉すら、出なかったかもしれない。目を白黒させながら、辰巳さんの家を飛び出すだけ。それが僕にできた選択だ。

「けど、辰巳さん捕まってねえじゃん。結局、その後、合意が取れたってことだろ?」

 今日はまだ辰巳さんの姿は見ていない。けど、捕まったとなれば絶対に周りの人間を通じて耳に入って来る。それに、もしそうなってたら、ダイキだって何らかの罰があるはずだ。ここでこうして笑い話なんてできない。

「……いや、たぶん、合意は取れてない。俺が戻った時はまだ寝てたし。服は、だいぶ乱れてたけど」

「……寝たまましたってことか?」

それにしたって、起きた時に気付かないものか?

僕はその辺りの情報、詳しくないからわからないけど、いくらなんでもそんなの都合がよ過ぎる。

「……俺も実際の現場を見たわけじゃないから、確実なことは言えないけど、でも、辰巳さんの話だと、素っ裸にして、“自分でした”らしい……」

「…………」

 聞きたくなかった。

 知りたくもない情報だった。

「だから、たぶんヤられた本人も気づいてない。というか、ヤられてないもんな。寝てる内に、ちゃんと服は戻してたし、多少服が乱れてたって、本人は寝がえりでこうなった程度にしか考えないだろ。それに、酒を飲まないおまえはわからないだろうけど、目が覚めた時はそもそも服装なんか気にしてる余裕はねーよ。潰れた後は、頭痛と吐き気でそれどころじゃないからな。収まる頃には、無意識のうちに自分の衣服を直してると思うし。完全犯罪だろ。犯罪を知ってるのは辰巳さんと俺だけだよ」

 完全犯罪。

 そんな言葉を現実で耳にすることになるなんて。

 ミステリー好きの僕にしてみれば、それもまた甘美な響きではあるけれど。

 実際はただただ胸糞の悪いだけの事件で。

 美学もクソもない、汚らしい欲望の話。

「そんなもん、完全犯罪じゃない」

「そうだな、完全な完全犯罪じゃない。そもそも、俺が知っちゃってる時点で、外部に漏れることはすごい高いわけだし。って言っても、俺もおまえが言ったように共犯扱いされちゃうわけだから、ベラベラ喋れないわけで、そういう意味では完全犯罪ってことになるな。でも、もう完全犯罪じゃない。俺は自分で自分の首を絞めるようなまねはできないから、辰巳さんのことを警察に通報することはできないけど、おまえならそれが可能だ。なんたって、おまえは通報したところで、何の被害もないんだから」

 そう言われて、初めて気付いた。

 ダイキの目的に。

 ――これが狙いだったのか。

やられた。

 ダイキは辰巳さんの犯罪を知りながら、通報することが出来ない。

 人の罪を知りながら、どうすることもできない。そして、自分の手がいつの間にか汚れてしまっていて、それに気づいても自分では洗うことが出来ない。

 だから、僕を利用しようとしたのだ。

 自分の抱える重荷を、僕にも背負わせようとした。

 罪を告白することで、心は少しでも救われる。

 そして、犯罪者を裁く権利は僕の手に委ねられた。

“通報するかどうかはカナタが決める。俺たちはそれに従うだけ”

 それはすなわち、二人の運命を僕が握るということ。

 一見すると、僕は大きな権力を与えられたように見えるけど。

 それは重過ぎる。

 人の運命を左右することなんて、僕のような人間にはできない。

 ダイキが僕を見てニヤリと笑った。

「なかなか辛いもんでさ、誰かに聞いてほしかったわけよ、俺の悩み。おかげさまで肩の荷が軽くなったわ。サンキュー」

 最初からこういうつもりだったのだ。

 僕の気を引いて話を聞かせたのも、全てこれが目的だった。

「てめ、汚ェぞ……。今、ここで、携帯電話を取り出して通報してやろうか……?」

「できるならな。俺はできなかった。単純に捕まるのが怖いってのもあるだろうけど、そもそも通報ってどうやんだ? やったことねーからわかんねえよ」

 そんなことを言われたら、実際にやってやろうじゃないかとも思ったが、実際に携帯を取り出してみたら一一〇が押せない。笑ってしまう。その番号は、僕の日常を破壊する危険性を孕んだ番号だ。

 面倒なことには関わらないのが一番いい。

 だから、証言者なんて恨みを買う役回りにはなりたくなかった。

 けど、そんなことも言ってられない。すでに巻き込まれてしまった。事件を知ってしまった。これからは、この事件について考えを巡らさずにはいられない。

 クソ……。

「……おまえ、これが友達にすることかよ」

「ははは、むしろ、友達にしかできないことだろ。俺のことを大切に思ってくれる奴じゃないと、三秒で通報しやがるからな。辰巳さんの件は責任の押し付け合いと行こうじゃねーか」

「こんなことなら、購買でおまえを見つけるんじゃなかった」

「ちょうどよかったぜ、あんときは。わざわざカモがネギを背負ってやって来たんだからな」

 あははははははははははははっ!

ダイキは高笑いを上げる。

 本気でダイキを捕まえたことを後悔した。

 僕はこれから先、辰巳さんを見るたびにこの事件を思い出す。

 ……まあ、でもこれは確かに一人で抱えるには重すぎる荷物だ。許可もなく背負わされたとはいえ、ダイキ一人に任せておくのはあまりに大きい。

 親友の負担を、軽減してやることができた。

 そう考えれば少しはやり切れる…………かな?

 研究棟二号館に着き、僕たちはエレベーターに乗り込む。まだ若いとはいえ、五階まで階段を昇るのは骨が折れる。研究棟二号館はただでさえ、校舎から離れているって言うのに、その最上階だなんて。

 ボロくてデカい箱が吊り上げられて行く。

 現在のフロアを示すランプが一階から順々に点灯して行き、五階に着く。

 ガタン。

 いつも通り大きく揺れて、エレベーターは止まる。

 が、扉は開かない。

「ん?」

 ダイキと僕は顔を見合わせた。

 エレベーターが動いている気配もない。

 確かに五階に到着し、停止している。

「もしかして、故障か……? マジかよ、エレベーターに閉じ込められるとか、冗談にならねー」

 ダイキが不満を漏らす。このエレベーターは確かに古いが、しかし普段、故障をしたなんて話、聞いたことがない。

 とにかく助けを求めなくては。

 受話器のマークの非常用連絡ボタンを押そうとして、僕は別のボタンに目が行く。

  R

 屋上のボタン。

 その瞬間、エレベーター内部の証明が落ちる。

 暗闇に包まれる中、僕はハルの話を思い出していた。

 飛び降り自殺。研究棟二号館。屋上。心霊現象。強姦事件。

 これはエレベーターの故障なんかじゃない。

「おいおい、明かりも消えちまうなんて、いよいよマジだな。停電でもしたのか?」

「何、そんな呑気なこと言ってるんだよッ!」

 ダイキの声はあまりに呑気だった。顔は見えないが、音から欠伸でもしていることが伝わる。

「そんなテンパることもねえだろ。じっとしてれば、すぐに回復するさ。それか、救助の人がすぐに来る。こういうとき、一番いけないのは慌てて暴れることだ」

 そうか。ダイキは知らないのだ。

 合宿で僕たちが会話をしていたあの日、ダイキは一年生女子の部屋にいた。強姦されたことを苦にして死んだ学生がいたという話を聞いていない。

 この棟には強姦を苦に自殺した霊がいる。

 そして、僕の隣には性犯罪に関わった男がいた。

 自殺するほど苦しんだのだ。性犯罪者を憎む気持ちは計り知れない。ダイキは主犯ではないとはいえ、被害者の女性を見捨てたのだ。女の立場からすれば、許されることではないだろう。

「あああああ、ダイキ、てめえのせいだぞッ! 僕を巻き込みやがってッ!」

「あ? こんなときにまだ言ってんのかよ。確かに巻き込んだのは悪いと思うけどさ」

「そっちじゃない。いや、そっちもそうだけど、それだけじゃなくて……」

 コンコンコン。

 コンコンコン。

 どこからか、金属を叩く音がする。誰かが、この密室をノックしている。

「なんの音だ? 救助の人でも来たのかな」

 確かにその音はノックだった。しかし、それは僕たちを助けに来た人間ではない。

救助の人なら、あまりに早過ぎる。

ならば、それはむしろ……。

「幽霊だよッ! 僕たちを襲いに来たんだッ! 強姦されて自殺した女の霊が、この研究棟にはいるんだ!」

 天井、床、壁。あらゆるところがノックされる。傍にいるのが人間であれば、短時間のうちに箱の四方、上下を同時に叩くことなんてできない。

「……はっはっは、カナタ、性格が悪いなァ。こんなときに俺を怖がらそうだなんて。でも、俺はこの大学でレイプ事件があったって話も自殺者がいただなんて話も聞いたことがない。霊が出るっていう噂くらないなら耳にしたことがあるけど、それだってどこにでもあるありふれたもんだろ」

「違うんだよッ! 隠されてたんだ。ハルが調べた! 確かに過去に、強姦事件が起きていて、自殺者を出してる。噂なんかじゃない。事実だ」

 ダンッ!

 小突く程度だった音が、急に強くなる。

 思い切り拳をぶつけたときのような音。

「う、うわ……ッ、なんだ……? おい、いくら悪戯にしたって、エレベーターを止めるのはやり過ぎなんじゃないのか!」

「悪戯じゃねえんんだよ! 本当にいたんだ、悪霊が! 今、このエレベーターの外にいるのが、そうなんだよ!」

 明かりの一切ない空間では、時間が経っても眼は暗闇に慣れて来ない。

 けれどもダイキの息を飲む音で、ことの重大さが伝わったとわかる。

「ど、どうして! 今まで、こんなことなかっただろ。誰かがこんな風になってたら、すぐに噂になる」

「だから、おまえが霊を刺激したりするから、怒ったんだよ!」

「いつ俺が刺激した。俺が何したって言うんだ!」

「おまえは被害者の女の子を見捨てただろ! 強姦が起こるとわかっていて、みすみす逃げ出した。きっと、この幽霊はそれが許せないんだッ!」

 ダンッ。

 ダンッ。

 ダンッ。

 四方八方で叩かれる。

 逃げ出したい。けど、逃げる場所がない。僕たちは地上一〇メートル以上の高さに吊るされた箱の中に閉じ込められている。

 ダンッ。

 ダンッ。

「お、俺が悪いのか? 俺は、止めたぞッ! それでも無理やり進めたのは辰巳さんだ。俺はもうどうしようもなかった!」

「どうしようもないとか言い訳だろ! 辰巳さんを殴ってでも止めなきゃ駄目だったんだよ! それが被害者の心理ってもんだろうが!」

「無茶言うなよ! そんなことしたら、学校生活に支障を来たすッ! おまえも知ってんだろ! 辰巳さんのデカいコネを。学校中にあの人の仲間がいるッ!」

「だから、被害者にはおまえの都合なんか関係ねえっての!」 

 ダダンッ!

 ダダンッ!

 エレベーターが僅かだが揺れる。もはやノックなんてレベルではない。生身の人間が体当たりをしているような衝撃。

「や、やばくないかッ! さすがに! まさか、このエレベーター、落下したりしないよな……!!」

「知らないよ、そんなこと!」

 正面の暗闇がごそごそと音を立てる。視界がゼロのため、何が起こっているのかわからない。

もしかしたら幽霊が室内に入り込んだのではないか?

そう思った瞬間。

青白い顔が浮かび上がる。

「うわァッ!! ……って何だ、ダイキか」ダイキの手には携帯が握られていた。「こんなときにふざけてんじゃねえよ!」

「ふざけてねえよ! 助けを呼ぶんだよッ!」ごそごそやっているのは携帯を取り出している音だった。「……ってあれ、クソッ、電波が立ってねェ!」

 霊的なエネルギーが携帯の電波に影響するという話は、怪談でもよく聞く。最初からこういうときに携帯なんて不安定なものに頼ってはだめなのだ。

 僕も携帯を取り出してみるが案の定――ん?

「おい、僕のは電波が立ってるぞ」

「早く、助けを呼べよ!」

「言われなくても」

 誰にかけよう。少し迷うが、緊急事態に対応してくれて、なおかつ心霊現象だなんて胡散臭いものを信じてくれる人間は、ハルしかいない。

 とにかく、外部と連絡が取れることを確認するのが大事だ。それにより、気持ちにゆとりが持てる。

 数回のコールの後、電話の相手が出る。

「もしもし、ハルか!」

 ザザ……ザザザ………ザ…ザザ………。

 あああ……。

 あ……ザザ……ああ……ザザ……。

 僕は静かに電話を切った。

「どうして切るんだよ。ハル、何か言ってたか?」

「……今のはハルじゃねーよッ! 完全に今、繋がっちゃいけないもんに繋がってたわッ!」

 お決まりのパターンだ。ちょっと嫌な予感はしていたんだ。日頃、怪談を聞いていたおかげで、さほど動揺することなく電話を切ることが出来た。

 僕の携帯が鳴る。取り出してみると、見たこともない番号だった。というか、携帯の番号でなかったし、固定電話でもこんな番号は存在しないのではないかというめちゃくちゃな数字の羅列だった。

 それをダイキに見せる。

「う、うわあああああああああ。マジかよ……」

「冗談じゃねえよ……。どうしろってんだ。こんなとこじゃ、逃げることも隠れることもできやしない。墓場で幽霊に遭遇するよりも、よっぽど性質が悪いッ!」

 隣にダイキがいるからまだ救いがあるものの、一人でこんな状況になったら、きっと発狂していたはずだ。

 逃げも隠れもできない密室内での心霊現象。

 このまま何時間もこのエレベーターに閉じ込められているのだろうか?

 ダイキと身体を寄せ合い、恐怖を紛らわそうとするが、壁を打つ音と振動で、一撃を食らうたびに心臓が跳ねる。

 ダン、ダダン!

 ダダダン、ダダダダッ!

 段々と衝撃が大きくなって来ていないか……?

 まさか……。

「本気でこのエレベーターを落とす気なんじゃ……」

 ダイキが声を漏らす。どうやら僕と同じことを考えていたようだ。

「……さすがに、霊にそんな物理的な力はないだろ」

 ダイキの言葉を否定するが、それは自分に言い聞かせる目的もある。

「いや、でもよく映画とかでは……ッ」

「映画の話だろッ! よく思い出せ、実話に基づくホラーなんかじゃ、霊はただ驚かすだけだ。大事故が起こったとしても、それは交通事故とか、恐怖で判断を間違えた故に起こるものだ。霊に体当たりをされて崖の下に落ちた車はない」

「でも仮に……仮に人を殺すことができるほどの力を持った霊がいて……実際に人を殺していたとしても、それは誰も報告できないんじゃないか?」

「…………は?」

「だから、ホラーにおけるジレンマだよ。悪霊に取り殺された人がいたとする。しかし、悪霊に憑かれた人は死んでしまっている。じゃあ、その怪談は誰が最初に話し始めたんだ? っていう奴。同じように、本当は悪霊に殺された人がいたとしても、ただの事故として扱われて、誰にも知られずに取り殺された人だっているんじゃないか?」

 事件ではなく、事故として扱われる。

 それってどこか、完全犯罪に似ているな、とぼんやり僕は考えた。

 その瞬間だった。








 ダン。






身体が宙に浮かんだ。

 走馬灯が見えた。ダイキがゆっくりと浮かんで行き、宙にぷかぷかと浮いている様が網膜に焼きつく。

 見ると、僕も足が床についておらず、空を飛んでいた。

 十秒くらい浮いていたと思う。

 けど、実際は一秒に満たない滞空時間だった。

 ガタンと今まで一番大きく揺れ、一瞬身体が浮いただけだった。

 それでも僕とダイキは膝が折れ、その場に崩れ落ちる。

 ガタン。

 何の音かと思ったら、扉が開いた。自然光が差し込んで来る。

 研究棟二号館の五階。そのフロアが目の前に広がっていた。

 すぐには何が起こっているのかわからず、ダイキと顔を見合わせた。が、状況がわかって僕とダイキは思わず叫んでいた。

「う、うおああああああああああああああああ」

 エレベーターを飛び出すと、とにかくその場から離れようと駆け出した。

 とにかく、人がいるところへ。

 部室に行けば、ひとまず安心だと。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る