カルマ

香罹伽 梢

拝啓――

拝啓

萩の花が風に揺れる頃合、父上におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。

こちらは無事、神籬学院に入学することが出来ました。

今、寮で新しい部屋を手配してもらい、一息ついたところです。落ち着きはしませんが。一人部屋の割りには随分と広く思います。

凪姉にもちゃんと会えました。かの泣き虫大将も、今や立派な生徒会長。自分がしみじみと言うのもなんですが、凪姉も成長したんだなと思います。いや、むしろ凄まじい成長です。

早速友人とやらも数人。いの一番に話しかけてくれた大雅は、寛大の極みにあるような豪快な人です。彼が隣にいてくれるお陰で、自分が周囲より浮くことはなさそうです。

あの大財閥のご子息だとかいう琴吹は、凪姉にちょっかいをだすだけでなく、此方にも不本意な仕打ちを与えてきます。歯牙にもとめておりませんが、凪姉への監視も含め、注意が必要かと。

他には、細々としたところまでご丁寧に指導して下さった風紀委員長の高倉先輩、笑顔がチャーミングな隣の席の栗原君、担任の古屋先生もいい人です。時折垣間見せる、そのサディスティック精神を除けば。

そんな素敵な学校なのですが、それよりも父上、大変です。


明後日までに守護獣を見出さないと、自分は早速退学させられることになりました。               


*  *  *


「初めまして、黒沢出雲です……」

名前を言うだけで、もう尻すぼみになってしまう。頭の中ではグルグル廻っている言葉でも、いざ口にするとなると話は違ってくる。次第に歯痒いと思う苛立ちもグルグルし出し、しかしそれは顔にすら表すことができない。

「……えっと、黒沢道場の長男です」

すぐさま教室がざわめいた。それと比例するように、鼓動はどんどん速くなっていく。

東の嵐剣、黒沢道場。五本の指に入る強豪剣道場となれば、言えばそれだけで自己紹介が済むと思ったのだ。しかしリアクションがこんなに大きくては逆効果だった。興味本位に注がれる視線が多すぎて、どうにかしてしまいそうだ。

視線の先に、自分の腰に差している刀があるのは見てとれた。やはり珍しいのだろうか。皆も同じく木刀を席に控えているのに。

「あの……その、分からないことだらけなので色々と手を貸してくれると有難いです。よろしくお願いします」

しかしそれには敢えて触れず、一刻も早くとお決まりの挨拶で切り上げた。

パラパラと拍手が起こり、そそくさと席につく。ホッとあからさまに息を吐くと、クスクスと微かな笑い声がした。

咄嗟に首を引っ込め数拍、今度は顔が熱くなる。やりにくいったらありゃしない。

「はい、じゃあ皆協力してあげてねー。今週からテスト期間に入るから……」

担任の古屋先生の若々しい声が、教室に響く。藍染の着物がよく似合っていた。

自分もその聴衆の一人に溶け込んでいった頃、ようやく改めて一息つき、火照りも取れていった。

神籬学院二年呂組。案内状を穴があくほど何回も確認していたが、それでもまだ自分がこの場にいるのが信じられなかった。

ファサッ……

「……ん?」

ふと、頭に違和感を感じた。そして、 遅れて伝わってくる温もり。

ファサッ……ファサッ……

ある一定のリズムをもってして、脳天に微かな重みがかかる。

されるがままになること数回、

「わっ、ちょっと小豆!」

鋭いささやき声が飛んでくると、ふっと頭は軽くなった。

声のした隣を見やると、軽く会釈された。

「ごめんね。コイツ、よく人にちょっかい出すの」

燃えるような赤い頬をし、どんぐり眼をくりくりと動かす。田舎臭いその無邪気な姿は、ちょこまか走り回るリスを連想させた。

「僕、栗原一磨」

「ああ……どうも」

そして、屈託のない笑顔でニコリと笑う。

その愛嬌から視線を逸らすと、

――落とした影が俺をすっぽり包むほど大きな犬が、同じようにして此方を見ていた。小豆というか、大豆でも比にならない。

真っ白な身体は耳の端から尾の先まで、モフモフという擬音が相応しい。身内なら迷わずダイブしているところだ。

なるほど、先程からの妙な感触は、此奴の尻尾にあったようだ。

――いや、問題はそこではない。

周りをぐるりと見渡すと、イタチ、蛇、山羊、オウム――。一人につき必ず一頭、何かしらの動物がついている。

先程は視線が多くてゆっくり観察できなかったが、改めてこうして後ろから見てみると、異様を通り越して壮観である。

「今日は作文の提出日ねー。書いていない人は制限字数二倍に増やすからー。それと、」

淡々と進むホームルームの中、獣たちは各々、静かにくつろいでいる。

「明日は彩葉会やるよー。久々にトーナメント戦でやるから、正式に文遣獣としてのポイントがつく。守護獣の氣のメンテナンスはしっかりしておいてねー」

そう、ここは守護獣の育成学校なのだ。


* *  *


人の心には、そのシンボルとなる獣が住んでいると言われている。犬、猫、鳥、鹿――。その姿は人によって様々だ。

そして、その心の真を見つめ返せた者のみが、己の獣の姿を表に出せるという。見出された獣は守護獣、またの名を文遣獣と言い、一生を主に仕えるのである。

追い剥ぎや辻斬りが横行し、治安が良いとは言えないこのご時世。人が幾日もかけて文を運ぶには限界がある。文遣獣と呼ばれるのはその職種に由来していて、環境や時間をものとしない守護獣は、郵便界において重宝されるのだ。故にその主を、手紙使と呼んだりもする。

しかし文遣獣は 、並大抵の人が飼い慣らせるものではない。そもそも守護獣は夢幻的なものだ。それを繋ぎとめておくためには氣という、万物の生き物が発する波動を合わせる必要がある。でなければ主との距離が空けば空くほど文遣獣の存在は薄れ、下手をすれば郵便物が届かない。

しかしこの低機能とは矛盾して、郵便は全国において必需である。

そこで、文遣獣及び手紙使の質を上げるべく、教育の場として設けられたのが、ここ神籬学院という訳だ。

訳なのだが……

ホームルームが終わるや否や、俺はしゃがみ込むなり睨めっこをしていた。

目の前では風格漂う亀が、巨岩の如く居座っていて、頑として動かない。

「…お前、文遣獣なんだよな?」

亀が文を運ぶというのは、俺も初耳である。 普通に考えたら仕事は人の何倍もかかってしまう。

しかし亀は質問には答えず、つぶらな瞳で俺を見上げるばかりだ。

問題はその腹に、俺の木刀と真剣が下敷きになっているということだ。

「どいてくれないか?大事なものなんだ」

「……」

……だよな。

登校初日早々ガックリと項垂れ、もはや諦めもついてきた頃、

「おお、悪い!そいつ俺のだ」

背後で、大きな足がドンッと地につくと、亀が浮いた。その隙に刀を引っ張り出す。

「あ……ありがと」

立ち上がり、それでも高さが足りずに見上げると、そいつはニカッとはにかんだ。

「珍しいな。二本差しなんて。やっぱり道場の息子は違うな!」

そして、そのがっしりとした腕で勢い任せに背中を叩かれる。

と思えばいきなり 神妙な顔つきになる。

「…お前、身体しっかりしてるな。叩かれても全然グラつかないし、何より筋肉のつけ方がしっかりしてる……」

「はぁ……」

「あ。俺、鳴瀬川大雅!大雅でいいよ」

起伏の激しい人だ。

「んで、こいつはイシガメの茂吉」

 茂吉はゆっくりと首を伸ばしてから、こっくりと頷いた。

「お前、この後予定無いだろ?」

「え?う、うん」

気迫に押されるがまま、俺は茂吉と同じく首を縦に振る。

先程の古屋先生の話によれば、明日の彩葉会だ。そのため今日は、自習という名の自由時間だという。

「そしたら学校案内してやるよ!」

「え?あー……うん。それは助かる」

断ろうとしたが思い直し、不自然な即席の笑顔で頷いた。

事実、この教室に辿り着くまでにも数回迷子になりかけた。人と接する一日の限界量はとうに超えていたが、有難い話ではあった。

「よし!そうと決まれば何処から回ろうかー。競技場?職員室?図書室なんかも――」

「一般生徒が明日の準備を怠るとは、随分と余裕なことだね」

その声に、大雅だけではない、教室の全員の口がピタリと閉じた。

「君は融通の利かないその亀を、動かすところからやらねばならぬだろう?」

輪郭の細い端正な顔立ち、女のような柔らかい髪、異国の血が混じったような、色素の薄い瞳。

容姿からして明らかに異彩を放っていた。

「初めまして。琴吹理央です。こっちは白狐のハク」

琴吹は不服そうな顔をする大雅を押しのけ、手を差し出してきた。

「ん、よろしく」

仕方なく、おずおずと握手に応じる。細い指を通して、ありったけの氣が感じられた。

その琴吹の横にぴったりと寄り添うようにして、ハクは此方を凛と見つめていた。

大型犬ほどはある身体は白銀に輝き、その尾は幾重にも分かれて盛大にたなびいている。

「九尾の白狐、か」

「フフ、歴とした神獣だ」

琴吹は誇らしげに目を細める。

自己の象徴である守護獣は、必然的に主のステータスをも表す。故に神獣はその存在があるだけでも、優等生という立派な肩書きになるのだ。そして何より、

『黒沢道場の長男と言ったな。となればその黒鞘の内、妖刀とお見受けする』

動物ではなく神獣となれば、人語を操ることだって容易い。言語で意思疎通ができるとなれば、実力にしても手っ取り早く数値が出るのは言うまでもない話である。

「えっと、この刀のこと?」

茂吉から取り返した木刀と、その横に一緒に差された刀。黒沢家に代々伝わる、紛れもない真剣だ。

『あぁ、とてつもない氣を感じる』

俺は感じない。氣を同調させて一体化させなければ、そもそもこの刀は持てないからだ。 普通の人が持とうとしたら地面から離すことすら出来ない。

生のあるものしか発しない筈の氣を持っているという点では、なるほど確かに妖刀と言える。

「へぇ。そんな良いものなのか?」

「君は目が利かんな。柄や鍔が相当凝っているだろ。発色も良い」

「んなもん知らねぇよ」

大雅が口をすぼめると、茂吉も同じく首を縮めた。

「じゃあ分かりやすく言ってやろうか。これ一本で国一つ買える」

「うわ……」

人の刀を勝手に売るな。

「はは、そんな大したものじゃないさ」

「いやいや、やっぱり凄いんだな!」

おどけた仕草をする大雅の足元で、茂吉もまた首を反らす。というか茂吉は首しか動かさない。

「そうでもないさ。君の家にある美術刀に比べたら」

見やると 、琴吹は不敵な笑みを浮かべた。

「ふむ、知っていたか。いかにも、俺は琴吹グループの息子さ」

琴吹、という苗字からしてピンときた。これだけ目が肥えているのも、そうであれば納得いく。

世界を股に掛ける大財閥、琴吹グループ。店に足を運ぼうものなら、その名前は何処を見たって目に付く、莫大なシェア会社を持っている大企業だ。

「これで俺が神獣を携えている点は納得いったろう?初めから持っている地位は、そのまま守護神に表れるんだよ」

「……そうだな」

皮肉な話だが、否定はできなかった。

才能がものを言う世界なりの厳しさなら、痛いほど身にしみている。

しかし大雅はまだ眉間に皺が寄っていた。

「けっ。要するに生まれつき運命は決まってるって言うのかよ。俺はそんなの御免だね。行こうぜ、出雲」

「待て。まだ話は終わってない」

そして茂吉をビッと指さす。

「その亀を連れてのろのろ歩くんじゃ、不憫だろという話だ」

「余計なお世話だ」

大雅が茂吉をヒョイと持ち上げると、

ボゥッ!

「なっ……」

俺が驚く横で、茂吉は口から盛大に火を吹いた。

しかしその火はハクの尾に阻まれ、毛先をチリリと少し焦がしただけだった。

「無駄な争いは辞めにしようか。どうせ明日には決着がつく」

その後ろで、琴吹の冷ややかな嘲笑がちらついた。

大雅は大きく舌打ちし、

「ふん。これだから――」

そこで言葉がプツリと途絶えた。

刹那、

リン――

研ぎ澄まされた空間を走るように聞こえる鈴の音と、

「御来光だ」

小さな琴吹の呟きと、

数拍遅れてどわっと押し寄せるざわめき。

「生徒会長が来るぞー!」

誰かが叫んだ。戦でも始まりそうな勢いだ。

「何なんだ一体――へぶっ!」

銃弾が飛んできたから伏せろ、と言わんばかりに、大雅が俺の頭を押し付けた。

自然とお辞儀する形になる。

「何ぼうっとしてんだ!生徒会長だぞ!」

同じような姿勢から、大雅は俺に耳打ちした。しかしその声には畏怖や焦りは見られず、むしろ何処か誇らしげだった。

「生徒会長、か」

生徒会長、学校生徒の中でも一番上に君臨する存在。ましてやこんな学校じゃその権力は計り知れないものがあるだろう。

俺は大雅の手を振り払うと、すくっと顔を上げた。

「おい!出雲!」

「いいから」

その格好のまま囁く大雅を制した。

皆が同じようにして腰を直角に曲げ、作り上げた緊張感。そんな花道に雪崩れ込むようにして行き渡る、強力な気配。確かに凄いものがあった。

だが、俺はこの気配を知っている。

リン――

その人の腰に付けている鈴が、涼しく鳴った。

「お久しぶりです、会長」

余裕綽々と、同じく顔を上げた琴吹が爽やかに挨拶する。

「ええ」

その人は素っ気無く言葉を返した。その二音すらも惜しむように。

やれやれとおどけるように肩をすくめる琴吹。しかしハクの尾は明らかに垂れ下がっていた。守護神は自身を映し出す鏡だ。…要するに、かなりしょげている。

右を見やる。ここは三階。窓の下は遥か遠くに見えるはずだ。

左を見やる。ドアの前では生徒らが頭を下げていて幅を取っていた。走って通り過ぎるには邪魔だ。

僕は琴吹と同じように、肩をすくめた。今日は逃げるのは諦めよう。

濃い氣の中を掻き分けるようにして歩くその人は、誰よりも美しく、凛々しく、逞しかった。

強い光を宿した瞳で前を真っ直ぐに見据えるその人は、眩しく、しかし誰をも惹きつける何かを持っていた。

神々しい二匹の狛犬を引き連れるその人は、確かに誰しもが首を垂れるに相応しい力を持っていた。

そしてその人は、

「――凪姉、石榴、柚子」

「……」

「っ!おい、君!会長に何て口の聞き方――」

スッと、その人は琴吹の言葉を塞いだ。有無を言わさぬ気迫だった。

「……出雲?」

澄んだ声は、気 の張った空間によく響いた。そして、

「出雲だ!」

『本当だ!』

『おう!出雲!』

「どわっ!」

飛びつかれた矢先、ふわっと甘い香りと共に視界は逆転し、遅れて更に飛びつくものが二匹あった。

「出雲ー!久しぶり!」

『元気にしとったか?』

『ちゃんと食べてるのか?相変わらず細いぞ!』

「えっと…う、うん。久しぶり。あと色々やめろ」

追い討ちとばかりに、床に盛大にぶつけた頭をわしゃわしゃと揺らされる。ぐらつく視界の隅に、皆の驚きで呆然とする顔がちらついた。

そう、その人は、

俗に言う俺の幼馴染であった。


* *  *


「ここが職員室なー。ちゃんとノックしてから入れよ。警戒心の強い守護獣もいるし」

「言葉も無しにドアをけたたましく開けて、猪に突進されたお前がいうんじゃない」

「うるせえ」

講義室でも書道室でも図書室でも、先程からずっとこんな感じだ。

大雅が先陣をきって案内し、琴吹がそれに横槍を入れる。お互い何を張り合っているのか、ぶつかれば一切譲らない。転校生を取り囲み新たな友情を育む感じの、ファンタジーを含んだような雰囲気は皆無だった。  ハクもそれを止めようとはしない。

更には、

「ねぇ、出雲ー。お腹すいた」

『すいた』

『すいた』

この一人と二匹まで着いて来たお陰で、事態は余計酷いことになってきた。普段の凪姉が一体全体どれほど権威のあるものなのかは知らないが、とにかく周りから視線を痛いほどに感じる。

「まだお昼の時間じゃないだろ…。これで我慢しな」

飴玉を三つ投げてやる。まったりとしたやりとりとは裏腹に、宙に舞ったポップな包みは一瞬にしてただの紙切れとなった。はらはらと散る紙を、俺は当然の如く拾わされる。……ゴミくらい自分で片せよ。

「ねえ凪姉、そもそも何しに教室に来たのさ」

「出雲の噂を小耳に挟んだから、散歩がてら様子を見に来たのよ。そしたら教室の一角で火が上がるもんだから、びっくりしたのよ」

元凶は茂吉らしい。大雅は気まずそうに目をそらした。

「授業は?」

「三年生ともなってくると、単位に余裕が出てくるわ。いくらでも休みは取れる」

そうヒラヒラと手を振る。相変わらず余裕なものだ。

「にしても、驚きだな。まさか会長と君が知り合いとはね」

琴吹の言い方にはいくらか棘が含まれていた。

「まぁ、ちょっとご近所でね」

駿美凪こと凪姉は、榊木神社の次期神主だ。そして、俺の道場のお隣さんでもある。

故に凪姉とは幼少年からの知り合いで、お陰で何度酷い目に合わされたか分からない。

『ご近所さんだとよ。小さいころから毎日毎日、境内で駆け回った仲だろうに』

石榴がカカカと笑う。その奥に鋭い八重歯が光る。

「え?そうなの?いいですねー。昔っからずうっと一緒だなんて、ちょっと憧れますなー」

大雅がニヘニヘと意味の含んだ視線を送ってくる。

「ちょ、ちょっと!そんなんじゃないって!」

凪姉が俺の背中を力任せにバンッと叩く。痛い。

何がそんなんじゃない、だ。境内を駆け回ったというより、毎日のように追い回された素敵な思い出を、俺は忘れはしないぞ。

『まあまあ、そう囃さんと。また凪が調子に乗るわい』

柚子は落ち着き払って石榴を嗜める。しかしその目が笑っている。…俺の味方は誰もいない。

阿吽の口でお馴染みの狛犬、石榴と柚子も、初等生に上がる前からの付き合いだ。釣り上がった目の延長線上には紅色の線が引かれ、その左目に生々しい傷跡が走っているのが石榴、垂れ目気味でその先の模様も面白くクルクルと渦巻き、その先に右耳に切れ目がある方が柚子。しかし、そう見分けが付くようになったのは割と遅く、僕が歳十つになった頃からだった。それまでは二匹の容赦無いじゃれつきが怖くて、まともに顔すら見ることが出来なかったのだ。

「それを言うなら琴吹も、ここまで一緒に行動するとは意外だよな」

「馬鹿なお前のことだから、亀と一緒にのろのろ歩いていきそうな気がしただけだよ」

「茂吉だっての。その問題なら解決してるんだから、そしたらもうお前は帰っていいぞ」

やんや言う大雅の横で、茂吉は大人しくぶら下がっていた。

最初、教室を出るなり早々、大雅は茂吉をザックに入れて背負ったのだ。

「って、え?茂吉の運び方雑すぎないか?」

「あんだけ人のいるところで歩かせたら踏まれる。それに、これなら俺が歩けばいいだけなんだから」

そう大雅らしくニカリと笑った。

氣のシンクロ率が高いほど、守護獣は質量を感じさせなくなる。大雅と茂吉の氣がピッタリ合っているのは、この短時間でもよく分かった。俺じゃビクともしなかった茂吉を、大雅は足を踏み鳴らすだけで浮かしたのだから。

いや、だからと言って……

「あのさ、それって琴吹がハクを大きなスーツケースに詰めて運ぶようなものなんだぞ?」

「んー……それはそうだな」

そこで納得出来るあたりが素晴らしい。

腕を組み、考え込むこと数拍。大雅はポンと手を打った。

「要するに、スーツケースも荷車だったら抵抗ないんだろ?」

その打開策とやらが、これである。

茂吉はボールネットに入れられ、ゆらゆら呑気に揺られていた。

視界が開ければいいという話ではなかったのだが……。まぁ、茂吉自身嫌そうではないようだし、もうこの際放っておく。

「いや、そうだとしても案内をお前に任すのは心配だった。次期生徒会長の、最有力候補としてはね」

「なりたいのか?」

「ああ。選挙は明後日だ。転校生の面倒を見るのは俺の初仕事になりそうだ」

「琴吹、支持率高いの?」

「失敬な。高いさ。だがあまり意味はないな。すべての判断材料は守護獣だ」

『守護獣が神獣であること。それが生徒会立候補に必要な第一条件だ』

そうハクは胸を張る。艶やかな毛並みにするりと光が走った。

「今年の二学年にはそもそも神獣が少ない。むしろ俺が出てやらないと席が空いてしまうだろう。会長に、もう一年も苦労をかけさせるわけにはいかないしな」

そして凪姉への目配せを忘れない。勿論凪姉もすかさず流すことを忘れなかった。

大した自信だ。しかし事実、今まですれ違った守護獣の中でもハクは見劣りしていなかった。

「それと、君自身に興味があってね」

「え?俺?」

琴吹はまっすぐに俺を見つめた。その目は、何かを貫いてしまいそうなほどに鋭くて――。俺は思わず目を逸らしてしまう。

「気になるんだ。何故君が、ここに居れる?」

「っ……」

一瞬にしてに空気が凍りついたのが分かった。

大雅は何か言いたそうな顔はしていたが、ぐっと堪えるようにして押し黙る。茂吉もすっぽりと甲羅の中に入ってしまった。

「どうやってこの学校に来たんだい?守護獣もいないのに」

「それは…」

ふと、凪姉を見やる。

凪姉は、微動だにせずに僕を見ている。その瞳の奥の色を、俺は読むことはできなかった。

いずれ聞かれるだろうと思っていたが、いざその時が来てみると、足元がぐらつくような感じがした。何の力も支えもないまま、俺は無防備にそこに立っていた。

「だから言ったろ?守護獣もいない生徒が学校にいるという事態は見逃せないんだよ。次期生徒会長としてね」

ハクが陽炎のように、めらめらと尾を揺らす。明らかに此方を警戒していた。

怪しい芽は、早いうちに摘み取りたいってわけだ。

「…今の俺がこの学校にいることは無意味なのかもしれない。俺一人ならな」

自己を見つめ直すための定期的な課題作文、実技演習、異様に多い休み時間――。どれも守護獣との絆を深めるため、つまり自分の心を見つめ、強めるための時間だ。確かに守護獣のいない俺には無意味な学校生活の一部分となろう。

「でも、一人じゃないからここに居る」

「……」

「……と、父上 が言っていたからここに居る」

「は?」

「実は俺自身が一番よく分かっていないんだ…」

遡ること昨日の今頃、僕は父上と手合わせをしていた。

動きを読み間違えて、見事に綺麗に小手を取られてしまった。そうして渇を飛ばされる。

そこまではいつもと同じだった。

だがその日は、父上は珍しくため息をつくと、

「出雲、お前今日で何年だ?」

唐突にそんなことを切り出してきた。

「え……何からです?」

意味が分からず、僕は何も考えずに聞き返した。

次の瞬間、

俺は外に放り出されていた。

何が起きたのか把握できず、呆然とすること数分、父上の守護獣が着替えやら何やら荷物を持ってやってきた。

「カイラ…一体これはどういうことだい?」

『お父様は、出て行けとのことだそうです』

「はい?」

麒麟のカイラはたてがみをたなびかせ、長い睫毛を伏せてそう言った。そして、ゆったりとした動作で僕に紙を握らせた。

「…ここはそんな急に行けるところなのか?」

それは、神籬学院の案内状だった。

『心配ございません。私がお供します』

「いや、交通の問題じゃなくて、入学試験とか学費とか色々…」

『そんなこと知りません。行きますよ』

「え、ちょっと待って、だから――うがっ!」

カイラの蹄が鳩尾にクリティカルヒットし、僕はそこで意識を手放した。

「気がついたら学校に着いてて、後は試験受けて、宿に泊まって、登校して――。で、今に至るわけなんだけど……」

『一人じゃないから見つけてみろ』と、案内状の裏には父上 の達筆な字が走らされており、そこで凪姉の存在を思い出したのは今朝のことだった。何かせびられるだろうと、慌てて飴玉を買いに行ったのも。

「ちょっと待って。試験受けたの?」

ここでようやく、凪姉も口をはさんできた。

「うん。よく分からないけど、ここにいるってことは受かったんじゃないか?」

「…一応聞くけど、試験内容は私たちが受けたものと同じ?」

「多分」

作文、面接、実技。どれもさして問題なかった。

しかし凪姉は頭を抱える。

「あんた、実技試験どうやって受かったのよ…」

「え?普通にやったけど?」

「確かに出雲の場合そうかもだけど!」

人プラス守護獣対、僕。いつもの父上との、理不尽たる立ち合いのスタイルだ。

というより、鬼の形相で真剣で迫ってくる父上に比べたら、木刀で的を狙うお遊戯なんて可愛いものだった。

「相手も相手よ!出雲だとは言え、普通の人間一人を守護獣と戦わせようだなんて…」

あまりの剣幕に、大雅の頬が少し引きつっている。茂吉はしばらく顔を出すことはないだろう。

「会長、これは由々しき問題では?」

琴吹は蒸し返せれば それで良いらしい。張り付いた笑みが厭らしかった。

「…とりあえず、立ち会った相手の特徴を教えて」

凪姉は奥歯でカリリと飴玉を噛むと、似つかわしくない苦い顔をした。


* *  *


大きな黒縁眼鏡に横に切りそろえられた髪に兎の守護獣と言うだけで、皆はすぐに顔をしかめた。そして俺も同じような顔になったのは、ご本人と対面してすぐのことだった。

「あらあら、皆さんでぞろぞろと何の用ですか?校則違反者が揃いも揃って!」

そうしてずかずかと詰め寄ると、

「鳴瀬川君、ワイシャツの下に黒シャツの着用は禁止です。それと、その守護獣の運び方は校則どころか動物愛護からしてアウトです!琴吹君はネクタイをちゃんと締める!あと、男のくせして香水なんてつけないで。それと会長!その腰に付けた鈴は何ですか?熊除けですか?」

吹き荒れるは規制の嵐だった。

もし彼女に『風紀委員長』の腕章がついていなかったら、茂吉はまた火を噴いていたかもしれない。第一、凪姉が黙っちゃいないだろう。その恐ろしさは俺が嫌というほど思い知らされてる。

「いやー。すいませんね」

愛想宜しく弁解しつつも、

「生徒会風紀長、高倉花梨先輩。あとは見ての通りだ」

大雅はボタンを留めながら囁いた。

「まさに絵に描いたような風紀の取り締まり役だよ。それどころか、風紀長は入学試験にすら首を突っ込める。そうやって、入る前から生徒を管理してるんだ」

『恐ろしいもんだな』

石榴がそのままの感想を代弁してくれた。

視線の先では、主が高倉先輩と揉めていた。

「いっつも思っていたんですけど、その鈴シャラシャラ五月蝿いです。外して下さい」

「嫌よ。大事なものなんだから」

これに関しては、今度は俺が頭を抱える番だった 。

凪姉がここに行くとなった時、俺があげたものだ。お守りを扱う神社の娘に鈴を渡すというのもどうかと思うが、それよりも問題なのはその鈴が家の庭の神木のものだということだ。罰当たりどころの騒ぎではないし、いま思うと顔から火が出るほど恥ずかしい。更にそれを凪姉がこんなに大切にしてるとは思いもしなかった。今や鈴の音は「会長の御来光」の前触れとして象徴的なものとなっているらしい。恐るべし小さな過ちの拡大の仕様。これも神木の力なのだろうか。

『あの鈴、肌身離さず持ってるよ』

「もう今となっては何も言わんよ…」

柚子は苦笑し、大きく欠伸をした。

「こら、そこ!何よコソコソと!」

「へいへい」

大雅が茂吉と同じように首を引っ込める。

「あら、確かあなたは…」

とうとう目を付けられた。

「あ、昨日はどうも…」

半歩引きつつ愛想笑いでごまかした。それすらできているのか怪しいものだ。

「そう、合格したのね。入学おめでとう。……校舎内での真剣の携帯はどうかと思うけど?」

「うっ……」

ピシャリと言いすくめられ、更に半歩下がった。

「そんなこと、今のこの状況下においては気にも留めない問題です」

入れ替わるようにして、ネクタイを直した琴吹が前に出る。そうでなければ発言権が認められないのだろう。

「そもそもこの黒沢出雲、存在自体が大問題です。どうして試験をパスさせたのです?」

「それはこの子に聞いて」

高倉先輩は、宙に浮いた琥珀色の水晶を押し出した。中で兎がくるりと回った。

「月兎の楓よ。あの場での審判は私じゃない。第一、一人の生徒が新入生の合否を決めてたまりますか。いつだって基準は守護獣。この子が黒沢君を選んだ以上、私は文句は言えないわ」

「かと言って、放置しておくわけにはいきません」

琴吹は尚も食い下がる。

『良いじゃないか、こいつはめっけもんだぞ』

「楓さん!」

呑気な兎を相手に、琴吹は声を荒げた。

「この凡人から何を見出したというのです?守護獣がいるという前提条件を無視してまで彼を選んだ理由は何ですか?」

酷い言われようだ。

『いい目をしてる。それだけだ』

「はい?」

『少なくとも、試験の成績は群を抜いていたよ』

「そうですね。私もその点は認めます」

高倉先輩が初めて大きく頷いた。

自分の将来について書きなさい、あなたの本校の志望動機は何ですか?、木刀で相手の持ち皿を一枚割りなさい――。

三者を除けば、ごくありきたりな入試内容だった。

ちなみに、高倉先輩の頭上にあった皿は五秒で仕留めた。

『僕はいい子を見つけるまでが仕事だよ。後のことは、それこそ会長がやればいいでしょ?』

「何で私に仕事を回すのよ」

「守護獣を仕えていなければ我が校への入学は認めないなんて、確かに前例はないけど校則にもないわ。そんなに気になるんなら、あなた方で片付けて」

「先輩、出雲には随分甘いな…」

「いや、違う」

誤解を招く前に大雅の呟きを潰す。

「あの人は楓に甘いんだ。例え自分のシンボルでも何にしても、 自分が対処しきれないものは尊重して、鵜呑みにしてでも受け入れる。それが先輩のスタイルなんだろうよ」

自分の能力の限界を認めること、そして零れた他を認めること。それは誰しもができることではない。もしかしたらその姿勢が、先輩が神獣を見出せた理由なのかもしれない。

「だったらこっちの言い分も聞いてほしいもんだがな」

「それは自分で対処できる範囲なんだろうな」

楓が居ても、今後校則が緩くなることはなさそうだ。

「やあやあ、皆。こんなところにいたのか」

「うわっ!」

見返ると古屋先生が、さも愉快そうに笑っていた。

「ハハハ、そんな驚かなくてもいいじゃないか」

いきなり真横からぬっと顔を出されたら、誰だってびっくりする。全く気配を感じなかった 。

「黒沢君、探していたよ。まだ学校のこと、何も説明していなかったからねえ。でももう大分その必要はなさそうだね」

涼しげな青の着物、藍には斬新な山吹色の帯、綺麗な編込みが施された草履。父上にも見習ってもらいたいセンスだ。

「生徒に悪戯しないで下さいよ」

「別にいいだろう?そういう顔、可愛いじゃないか。あ、大雅君はまだ作文出してないでしょ?明日までに出さないと二倍、明後日までには四倍と文字数制限が膨れ上がっていくけど」

「か、勘弁して下さい…」

「うん、その顔も好きだよ」

前言撤回。父上とは気が合いそうだ。

「先生、丁度良かった。今、彼のことで押し問答になっているんですよ。彼の生徒としての有無についてね」

「ふむ。そういえば黒沢君、 守護獣いないね」

「そういえば、じゃないです」

「まあまあ琴吹君。それよりも皆は、競技場には連れて行ってやったかい?」

「いえ、まだですけど…」

大雅の訝しげな様子に、先生はにんまりと大きく頷いた。

「じゃあ今から行こうか。話はそれからだ」


* *  *


「黒沢君は、彩葉祭についてどれくらい知ってるかい?」

重たいドアを開けると、溢れる歓声が耳を劈いた。視界いっぱいに広がる人、人、人――。誰もが中央の広場を固唾を呑んで見守り、時には席から興奮に身を任せて立ち上がっては絶叫する。

「…ええ、少しだけ!」

あまりにも熱狂した空間に気圧されながらも声を張った。でないと届かない。

この学校は一学年につき伊組、呂組、波組の三組に分かれている。各組が文遣獣の強さを競って代表を出し、そして組対抗戦で勝敗をつける。  そのシステムから伊呂波を文字って名づけられたのが、この彩葉祭だ。

トーナメント戦でやれば当然順位がつくため成績にも影響するし、何より優勝組には全体にボーナス点が加算される。現金ではあるが故にここまで白熱するのだ。

以前、凪姉が彩葉祭の代表になったと手紙で知ったときに、父上から教えてもらった。

明日二年呂組がここを使うなら、今日は二年伊組の試合だろう。

「そうかい。なら話は早いかな。試合を見れば分かるだろうよ。この学校の本当の意味をね」

中央では、二区分に別れたエリアで各々が激しく飛んだり跳ねたりしていた。その周りに纏わりつくようにして、守護獣が動き回る。

「一対一なはずだよね?なんで四人いるんだ?」

『エリアは東西に分けてどんどん試合をしている。何せ制限時間なしに勝敗がつくまでやるものだから、一エリアじゃ一日に全員回しきれないんだ。頭につけた皿を割った方が勝ちだよ。これについては説明の必要は無いね』

楓が水晶の中で跳ねながら、説明してくれた。

つまり、入学試験でやったことをそれから三年間もまたやるというのか。

「今の大人たちは能がないからね。何をするにもワンパターンだ。まあ、文遣獣の数自体が減っている以上、あまり贅沢な教育をさせるわけにはいかないんだろう」

木刀が守護獣に阻まれた反射で、選手は咄嗟に後ろに引いた。その隙に、守護獣の間を縫うようにして相手が剣を突き出す。

一部始終を、先生は面白そうに眺めていた、しかしその目は冷静に双方を追っている。

「贅沢な教育?」

「昔は彩葉祭だって、武器は木刀のみなんて決まりは無かった。生き残れない奴が悪い、そうして生徒をふるい落としにかけ、無事卒業する生徒は最初の半数だった。でもその半数でも今の生徒数より多かったから、何ら問題無かったんだけどね。今じゃそうはいかないでしょ?」

先生は寂しそうに優しく語る。

「それでもまあ、今も犠牲者は出ちゃうんだけどね」

そして右下を指差す。

「あれが、弔人だよ」

「っ……」

鼓舞する人ごみの中、茶の頭巾を目深に被り、項垂れたままビクともしない者が数人いた。

目が合ったわけでもないのに、身体が一瞬強張った。気配や氣どころか、全く生気が感じられなかった。

「彼らも、元を辿れば一介の生徒だった。でもああいう姿になってしまったら三日後に、この学校を去らなくてはならない。何故だか分かるかい?」

「…守護獣を、失ったから」

「そうだ」

守護獣を失うと自己も失い、蛻の殻のようになってしまう。それは都市伝説程度に聞いてはいた。

「じゃあ、どうして守護獣を失ったと思う?」

「それは…」

悔しいが、これに関しては首を横に振った。弔人自体初めて見たのだ。

「テロにあったんだ」

「…文狩りですか」

「正解。頭の回転が速いね」

守護獣を文遣獣として育てる最大のリスク。それが、文狩りに遭うことだと言いたいのだろう。

文遣獣が運ぶのは必ずしも安全な手紙とは限らない。政府の息のかかった機密文書も中にはある。いや 、むしろ日常に紛れた影の本業とも言うべきか。

郵送中、手紙の内容は文遣獣が消化してしまっているため外からは分からない。しかし、――根後そぎ消すことはできる。

故に見境無く守護獣を襲うテロ、文狩りは今も尚後を絶たないのだ。

「文遣獣が消されれば、二者の間の取引もチャラになるだけじゃない。手紙使の受けるダメージも相当なものなんだよ。そうして守護神郵便界そのものを衰退化させていき、最終的にはこの世界のネットワークを完全に遮断する…なんて、大きな夢を掲げたテロ集団も無きしにもあらずさ」

「そのための学校だと?」

「そうだ。自分をみつめて守護獣と仲良くやっていきましょうなんて、そんな生易しいものじゃないんだよ。自己を確立させることで守護神の存在を強化し、武芸で身を防ぐ術を学び、そうしてお国のためにしっかり働けるようにする。それがここの『教育方針』さ」

ゴクリと生唾を飲む。

これだけの人と熱誠に溢れていながら、途端に周りがうすら寒く感じた。

「つまり守護獣を失えば、」

遠くで、陶器のようなものが割れる音がした。歓声がより一層高まる。

「ここにいる意味はなくなる」

粉々に砕けた皿を前に、膝をつく生徒。しかし彼の目にはまだ光があった。

――その光は何処から宿されたものなのだろう。

ドクンと大きく脈打った鼓動が、全身をかき乱すようにして廻った。

「生徒会が不死身の神獣を持つ者から選ばれるというのも、これで納得がいくだろう?」

不死身であれば、弔人になることはまず無い。神獣の持っているものは権力ではなく、その特性を生かして与えられる権利が多いということか。

「そして黒沢君には守護獣がいない。つまり、その時点でこの学校にいても仕方がないと琴吹君は言いたいんだろう」

「ええ。必要あれば、俺が最後まで面倒見ますよ。退学届けの管理も、生徒会長の仕事ですから」

「まあまあ琴吹君、焦らないで。こうは考えられないかな?しかし黒沢君は決して弔人ではないと」

琴吹は眉をひそめる。随分嫌そうな顔だった。

「…つまり、退学処分の対象にならないと?」

「そうだ。そしてこうも言える。彼は守護獣を持つという前提の、一つ前の状態であるだけだと」

「!」

一同各々に電流が走ったように目を見開いた。

「そういう可能性を見出したから、高倉さんの守護獣は黒沢君を通した。違うかい?」

『さあね。僕に守護獣の有無は分からないよ。人は必ず獣を飼っている。それを引き出せるかどうかの話なだけなんだから』

先生は小さくため息をついた。

「やれやれ、君も悪戯好きだね。…ところで黒沢君、」

「はい」

「ここまで話しておいた上で、まずは君の意思を尊重したい。…これからどうしたい?」

「っ……」

昨日今日と流されてここまで来た。だが、それもここまでだ。

無常な文遣獣のシステム、綺麗ごとじゃ済まない学校の事情。それを知った上でも、俺はここに残るのか?

「出雲…」

凪姉が大音量に掻き消されそうな声で俺を呼ぶ。

ハッとして振り向く。石榴と柚子と共に不安そうに此方をみやる顔が、昔のか弱い凪姉と重なった 。

「……皆は、それを呑んだ上でここにいるんだよな?」

凪姉や大雅、琴吹や高倉先輩までもがすかさず頷いた。

「それは、純粋に守護獣を大切にしたいからっていう動機じゃ不十分か?」

「いいや」

大雅が茂吉を持ち上げた。茂吉は甲羅からようやく顔を出して伸びをする。

「手紙使はあくまで副業だ。いざという時の駆け込み寺みたいに構えてる程度の仕事。それでも技術がゼロじゃ困るから、ここでしっかり学んでる。何よりそれが、守護獣を『守る』ための手段だからな」

そうして茂吉を抱きしめる。茂吉はさして嫌がりもせず、じっと大人しくしていた。

「…先生」

「もう答えは出たみたいだね」

俺は神妙な顔つきで、ゆっくりと息を吐いた。

「俺はこれからも学校に通います。まずは自分を見つけるために」

空気が少し和らいだのが分かった。琴吹を除いて。

「うん、そうかい」

先生も満足そうだった。ただ、その笑顔の意味が少し違った。

「じゃあ黒沢君には特別に宿題を出そうかなっ」

「え?」

お転婆娘の如く無邪気に、先生は俺の肩に手を置く。

「明後日までに、自分の守護獣を見つけなさい。期限を守れなかったその時には、」

嫌な汗がツツツと背中を伝った。

「――私が退学届けを書いてあげよう」

こうして俺の、本格的な学校生活が幕を開けた。


* *  *


「結局それって、弔人と変わらない扱いじゃない」

「うん」

「いきなり転校して来て右も左もよく分からないっていうのに、あの先生も容赦ないのね」

「うん」

「だいたい、皆も人任せすぎるのよ。なんでよりにもよって私が出雲の責任を取らされるわけ?」

「うん」

「ねえちょっと出雲、ちゃんと聞いてる?」

「集中しろって言ったのは、凪姉の方だよ?」

「……」

しばらくして、後ろで硯を引き寄せる音がした。

日も沈み、寮は大雅の隣に手配してもらった。そこまでは良かった。しかし、

「出雲ー!まだ手紙使の仕事教えてない!」

束の間の安らぎは、凪姉の乱入により僅か数分で崩された。

夜は一日一通、実家と手紙のやり取りをするのが仕来りらしい。文遣獣の実技演習も兼ねて、そうでない文書を運ぶ文遣獣のカモフラージュということで一役買っているという。弔人を増やしたくないのは誰だって同じなのだ。

という訳で今日のありすぎた出来事を、 凪姉と背中合わせになって丁寧に書きとめている。

筆がいつもと違うというだけで落ち着かない。思えば毎日鍛錬ばかりで、高校に行くのと凪姉に引きずり出される以外に、家から出ることなんて滅多になかった。

「でも凪姉、俺はこれ書いてどうすればいいの?」

「出雲の分は石榴が送ってくれるわ。一応手順は覚えておいて。明後日までに出てくる守護獣のためにも」

「それは凪姉の中では確定事項なんだ」

「勿論。…っと。はい、柚子。よろしくね」

短時間にしてはかなりの量の紙を、柚子は大人しくくわえた。そしてそのまま咀嚼する。

俺も石榴に出来上がった手紙を食わせた。

人がものを運ぶことの欠点、それは中身が外部に洩れることがあるということだ。しかし文遣獣は紙をその 場で消化し、現地で具現化する。この過程が国の道具として使われる決め手なのだ。

「で、これってどれくらいで戻ってくるの?」

窓から飛び出した二匹を見送りながら、俺は聞いた。

「すぐよ。一分も経たないわ」

「…俺らの家ってここから山三つくらい越えるよね?」

「私たちと守護獣じゃ、流れる時間が違うからね。相手からまた手紙を受け取って、少し過去に遡るようなかたちで戻ってくるわ。ほら」

「うわっ」

足元に、もう二匹がいた。

「おかえりなさい。それとカイラもご苦労様」

気がつくと、カイラが澄ました顔でそこにいた。

『こんばんは凪さん。うちのものがお世話になります』

「全くよ」

酷いもんだ。

「相変わらず綺麗ね、流石出雲のお父様の守護獣だわ」

今のは聞き間違えだろうか。

「お父様は元気?この時期は地域の行事で忙しいんじゃない?」

『ええ、相当滅入ってらっしゃいます』

「まあ、こんな時に親の手を煩わせる息子が何処にいましょうかね」

「一方的に煩ってるだけだから」

「よく言うわ。それはお父様からの有難いお言葉でも見てからにしたらどう?」

「その言葉、そっくりそのまま返すよ。凪姉は父上を買い被りすぎだ」

『そうそう、お父様からお返事があるんでした』

すると、カイラのたてがみがメラメラと紫紺の靄を帯び始めた。そして薄く一面に広がると、文字がゆっくりと浮かび上がってきた。

『案外元気そうで何より。精々励め』

相変わらず、ぶっきらぼうな文だ。

「やっぱり手厳しいわね」

「ここまではまだマシだよ」

『今日は出雲がいないので、こっちは相手してくれる者がいなかった。仕方ないから滝行してきた。今全身が筋肉痛で辛い。

ついでに言うと妻も構ってくれない。湿布が背中に届かないのに貼ってくれない。寂しい。

退学したらしたで、早く帰ってきてちょ』

「ぬおああああっ!」

読み終わるとすぐに煙を振り払う。文字は無駄に落ち着き払ってスッと消えた。

自分で追い出しといて何を言っているんだあの馬鹿親父は!

隣で凪姉も不自然な表情をしている。報復には十分だ。

「これで分かったろ!覚えておきな、剣術以外で父上はこういう人だ…」

言っててこちらが悲しくなる。何を隠そう、そんな阿呆に家を追い出された息子とやらはこの俺だ。

頭を抱えてうずくまる俺を、凪姉がわしゃわしゃと撫でる。やめてくれ…。

『お父様はそれでも、あなたのためを思って我慢なさっているのです。今朝なんて、いつもならあなたに押し付けていたニンジンを一人で…』

子供か!

「カイラ、父上に伝えといてくれ。絶対しばらくは帰らない!」

父上のお陰で、その決意は確固たるものとなった。


* *  *


昨晩はぐっすり眠れた。父上のいびきが聞こえない夜が、こんなにも安らかな眠りを与えてくれるとは思いもしなかった。

朝食後、軽く体を慣らしてから大雅や凪姉につれられて競技場に向かう。まだ道順がどうしても覚えられないのだ。

「出雲の家のほうがずっと複雑だと思うけどね」

「父上が無駄に作った隠し部屋が邪魔してるだけで、基本構造は至ってシンプルだけど」

「ちょっと待ってくれ、部屋ってそんな簡単にたくさん造れるものだっけ」

「安心しろ、大雅。お前はちゃんと常識人だ」

「あともう一つ。出雲、お前何処に行く気だ?」

「へ?」

扉にかけた手が、ピタリと止まる。

「何処って…観客席だけど?」

すると大雅は大げさにため息をついた。

「お前なあ、昨日の話聞いてなかったのか?」

「いや、聞いていた。今日は俺ら呂組の彩葉祭だろ?頑張れ!」

「つべこべ言わずに行くぞ」

「何故!」

抵抗虚しく大雅に引きずられるがままに、観客席に消えていく凪姉を見送った。

隠し部屋の有り難味を今日初めて知った。

「痛いって!というか俺、守護獣いないぞ?」

「出雲なら問題ない。むしろお前は大事な得点源だ」

「俺、守護獣を見つけるという大事な宿題があるんだけど」

「ショック療法っていうだろ?試合中に何かきっかけで出でくるかもしれないぞ」

「そんな無茶な!」

「どっちにしろ、上で観察してじっとしてるよりは何か動いたほうがいいって」

「動く、のスケールが大きすぎる」

そうこうしている内に薄暗い部屋に放り込まれた。

「ほら、これつけろ」

大雅から皿を差し出される。どうやらここは会場の裏口らしい。

「…大雅、お前は俺に、何を期待している?」

それでも大雅は手を引かない。

「あのな、確かに俺は人より剣術や勉学は長けているかもしれない。でも、それ以下でもなければそれ以上でもないんだよ。俺は…今まで父上に一度も勝ったことがないんだ」

「 ……」

「だから、正直に言うと守護獣が見出せるとも思っていない。俺はただの凡人で、これは皆より少し努力して得たものでしかないんだ」

「俺、琴吹に勝ちたいんだ」

「…?」

論線が直角に曲げられたような気がした。

「聞いたろ?エリアは東西に分かれるって。東の俺はいつも、西のあいつと最後にあたるんだ。でも俺だって、一度も琴吹に勝ったことはない」

へへへと、らしくなく弱弱しく苦笑する。

「今回、出雲のエリアは東だ。だから、俺はお前を倒して琴吹に勝つ。でももし出雲が俺に勝ったら、そしたらお前が琴吹を倒してほしい。いつも負けてる俺よりも、出雲が強いんなら」

大雅の氣は、昨日とは違っていた。闘志に燃えて活発に動き回っている。それは脇にいる茂吉も同じだった。二人の意志は、それほど強い。

「……人助けという面目で、昨日の案内の借りを返しておくよ」

「そうこなくっちゃ」

皿を受け取ると、空いた手で俺らは固く握手した。

悪くはなかった。


* *  *


コートに立つと、すぐさま眩暈がした。渦巻くようにして注がれる視線、嬌声は、俺一人で受けきれるものではなかった。

感覚を頼りに、ゆっくりと後ろを向いた。人ごみの中でも凪姉のところだけ、一際明るく見えた。

視線を元に戻し、大きく息を吐く。

「…あのさ、」

「おう!なんだ!」

大雅が元気よく答える。

「会場裏に二人同時に入った時点で気づくべきだったかもだけどさ」

「おう!」

「まさかさっきの約束から一歩踏み出した瞬間、初戦で当たるとは思わなかったんだ」

「そうだな!」

というわけで、先程までの友情ドラマは何処へやら、大雅は俺の前に敵として立っていた。

西エリアではあろうことか例の琴吹が猛威を奮っている。あの小豆が、栗原諸共吹き飛ばされていた。

「言っとくけど、友達だろうと容赦はせん!」

「勿論どうぞ。俺も一応この身なのでね」

合図の笛が鋭く鳴った。

瞬間、いきなり茂吉が盛大に火を噴いた。昨日とは比にならない威力だ。

「っ!」

熱さと眩しさに目を細める。奥で大雅の影が揺れ、的が定まらない。

「どうした出雲!動けよ!」

「るっせ!」

ガンッ!

木刀特有の鈍い音がした。正面からぶつかってこられ、俺は押されて仰け反った。

「茂吉、今だ!」

「うわっ」

いつの間にか後ろに回り込んでいた茂吉が火を噴く。すかさず俺は飛び上がり、大雅と交じ合いを解く。すかさず反転し体制を立て直すと、

「ぐっ!」

腹に鈍い痛みが走った。

「おいおい、普通守護獣を素手で投げるかよ…」

甲羅に閉じこもった茂吉が、俺目がけて飛んできたのだ。

「この試合にルール違反はないからな」

「ほう、何でもありか。じゃあこっちも行かしてもらおうか」

「ああ、来いよ!」

案の定、大雅は真正面から突っ込んできた。

下ではもう茂吉が投げられる気満々だ。おそらく俺の頭部に飛ばすつもりだ。

とりあえず、必ずしも剣を使って倒せというわけではないのは分かった。それに、相手はいくらでも守護獣に頼れるがこちらは一人。時間との勝負になってくる以上は、

――勿体ないけど次で決めるか。

俺はまだ動かない。神経を研ぎ澄ませ、間合いを読む。

まだだ、あと少し――。

頭の中で瞬時に組み込まれるビジョンを片手に、時が来るのを待つ。

――今だ!

次の瞬間、

俺は木刀を投げた。大雅は右に逸れる。

「はっ!こんなんじゃ当たらな――」

パンッ!

俺のかかとが、大雅の額にヒットした。皿は屑と散る。

目が覚めたように、会場はどよめいた。

「え?今の何だ…?」

「何って、回し蹴りしただけだけど?」

「いや、だってお前、目の位置がおかしかった。出雲は俺よりずっと身長が小さい」

確かに、いくら俺が普通に足を上げても大雅には届かない。

「そうだな。だから茂吉を使わせてもらったよ」

茂吉の甲羅は頑丈だ。投げても大丈夫なら踏んでも平気だろうと、ほんの一時だけ台になってもらった。

「茂吉と俺を足せば、体勢を崩した大雅にも届くだろ?」

「おい出雲、剣術とやらは何処やった」

「ルール違反は無いと言ったのはお前だ。それに、俺は武道よりも勝ち負けにこだわる」

「そうか…」

大雅は仰向けに寝転がる。…いや、そんな疲れるほど戦ってない。

「じゃあ後は、お前に任せて大丈夫だな?」

「ああ。――承知した」

ここまで来たら、後には引けない。


* *  *


「やあ、会長さん。出雲君のことが気になるのかい?」

「私も一人の生徒ですよ、古屋先生。駿美です。以後お見知り置きを」

「そうかい。さっきから出雲君、頑張ってるね」

「ええ」

「…浮かない顔してるね。君は何を期待していたんだい?」

「守護獣のことです。この試合がいいきっかけとなってくれるかと思ったのですが…その気配は微塵も感じられませんね」

「ということは、心当たりがあるんだ」

「ええ。…でもあの子は、それに気づいていない」

「……」

「ここは不本意ですが、琴吹君に煽ってもらうしかありませんね」

「ふふ、お主も悪よのう」

「あなたにだけは言われたくないです」


* *  *


それからの試合の事は省略させてもらおう。何せこちらは体力に限界がある以上、数十秒以内に片さなければ手こずるからだ。さして語ることも無い。

今問題なのは、次はその時間ではねじ伏せられない相手だろうということだ。

目の前では、琴吹とハクが悠然として氣を放っていた。

「やあ、まさか君とここで会うとは思わなかったよ」

「俺は会う気満々だったよ。約束した以上はな」

「はっ」

鼻で笑われ、一蹴される。

「君の原動力はそんな小さなものでいいのか。——こっちは全校生徒背負ってるんだよ!」

笛の音が会場一面に響いた。

先手、まずは様子見にと俺が出た。

昨日のハクを思い出す。 あいつは茂吉の火を尾で防いだ。要するに無効化がスキルということなのか?だとすれば、ただの人間の俺には何ら問題ないはずだ。

「せいっ!」

とりあえず、正面から振りかぶってみる。

カアンッ!

ただの毛の塊なはずなのに、妙な音がした。

しかし構わずに、尾と尾の隙間から刀を差しこむ。

すぐに手応えがあり、思惑通り、亀裂の入った皿がまさに崩れ落ちようとしていた。

「はっ、ちょろい――?!」

尾が目の前を横切った。いや、そこじゃない。

視界が開けた瞬間、確かに捉えたはずの皿は元に戻っていたのだ。

咄嗟に後ろに引く。

「どうして?!ちゃんと当たったはず…」

「これがハクの実力だよ。こいつは守護獣の中でも、時間の流れが極端なんだ」

「…どういうことだ? 」

嘲るようにして、琴吹は俺を見下す。背景にある観客たちが、全て彼の手下に見えてきた。

「ふふ、つまり簡単に言えば、時間を少し前に戻せるんだよ。皿だって、割れる前に戻せば割れてないことになる」

「っ!卑怯な!」

「守護獣の力を最大限に使って勝つ。そのスタイルの何処に不正があるとでも?」

琴吹を倒したいと言っていた大雅の意味が、ようやく分かった。

…ああ、全部が気に食わない。

「人に課せられる力は、最初から決まっているんだよ。俺はそれに恵まれた。恨むんだったら、自分の運命を恨むんだな!」

「くっ!何だ?!」

足元がぐらつく。というより、全身がぐにゃぐにゃと曲がるようで、実際に視界も定まらなくなっていた。そして浴びせられる攻撃。遅い振りなはずなのに、バランスが上手くとれずにかわすのが精いっぱいだ。

「剣道場の息子だろうと、無理矢理時間を動かせば隙だらけじゃないか!」

「畜生っ…足が!」

自分の時間の流れが、ハクとすれ違う度に勝手に換えられていく。目が回りそうだ。耳鳴りも酷い。明らかに五感が鈍ってきているのが分かった。

「のわっ!」

大きな一撃をハクからくらい、コート端まで吹き飛ばされた。

地に膝は着いてしまったが、皿は何とか死守している。

しかしここまで来ると、

「どうした?息が荒いぞ?」

体力の限界が見えてきた。

「ふん。もうお終いか。やはり君も、守護獣もいなければ所詮凡人か」

大人げない罵声に、声を荒げて反論するほど俺も馬鹿ではない。だが、頭のどこかでプツンと、何かの切れる音がした。

「…確かにお前は、一知ったら十覚えられるような才能に恵まれている。十知れば百のことが覚えられるだろう。でも俺ら凡人は、十知ってようやく一覚えられるんだ」

「そうだろうな」

せせら笑う琴吹は、すかさずハクに次の指示を出す。

「その九九の差を埋める術は、お前ら達には無いんだよ。諦めな!」

「いや、ある!お前が百覚えるんなら俺は――」

飛びかかってきたハクをかわす。すかさず地がぐらつき、次の瞬間、俺の正面に切っ先が向いた。

「俺は万知って百覚えるんだよ!」

カンッ!

「何?!」

切っ先を切っ先で捉えると、流石の琴吹も驚いたようだ。動揺が木刀を通して伝わってくる。

無茶なことをしでかす馬鹿なところは、 やはり親譲りか。

「ない才能は努力で埋める。それが俺だ。量より質でどうにかできないなら、もう量を積むしかないんだよ」

「…ふん、なるほどね。じゃあ俺も万知ろうか」

「なっ…」

次の瞬間、俺は地面に叩きつけられていた。

「ぐはっ!」

「さあ、この差を君はどうするんだい?」

琴吹の影が揺れた。

つまり俺だけでなく琴吹の時間も動かすことで、更にズレを作るというわけだ。

「一つ、勝つ方法を教えてやろうか?」

「何だよ!」

楽しそうに踊る琴吹の刀を交えながら、俺は必死についていく。

「許可してやろう、その刀を抜くことを」

「っ……」

腰には、お守りのようにして律儀にもってきていた黒刀がある。

「守りたいんだろ?お友達との約束を」

「……」

一度引く。

ご丁寧にも、琴吹は次の俺の動きを待ってくれていた。声援に満ちていながら、俺は一人静かな空間を作り上げる。

視界の隅にちらついたのは、何やら野次を飛ばしている大雅と、

――凪姉だった。

凪姉は表情を一切表に出さず、ただ真っ直ぐにこちらを見ていた。

目を閉じる。落ち着け。

しかし心とは裏腹に、吐く息ですら震えていた。刀にかけた手は、確かな実感もなくただ置かれただけだった。

「俺からも一つ、言っておく」

「何だ?」

「…ここから先のことは、俺の手にも負えない。無責任で悪いが、自分の身は自分で守ってくれ」

「はっ、何だその余裕は。…早く来いよ!」

大げさな金属音と共に、鞘を捨てた。

刹那、

ハクがまた向かってきた。

一――

心の中のカウントと共に、身体の中を迸る血潮を感じる。

「ぐっ!」

かわし、また換わる景色を無理矢理修正した。

「何?!」

二――

グラグラと沸き立つように揺れる氣が、どんどん自分と近くなってゆく。

三――

意識が統一されていくにつれて俺の視野は狭くなっていき、もう足元もしっかりしてきた。

四――

「何故だ……何故効かない!」

時間を動かされないだけの強力な氣を固めれば、そんな小細工もう通用しない。

五――

全てが遅く見えてくる。俺はただ、ゆっくりと前にのめるハクに、

六――

キンッと何処か遠くで、ハウリングのような音が身体中に響いた。ドクンと気味悪い鼓動が耳につく。

途端、フラッシュバックするように頭の中を過ったのは、

七――

泣き虫だった頃の凪姉の、初めて見た怯えた顔だった。

八――

其れを振り払うようにして俺は刀を、

九――

ハクに振った。

十――!

斬ッと悍ましい音がして、遅れて毛が舞った。

スッパリと斬れた尾の向こうから、琴吹の唖然とする顔が覗く。

そこで俺は刀を投げた。

黒刀は宙に光り、空をきって地に突き刺さった。

「……俺の、負けだよ」

俺は真っ二つに割った皿を捨てると、立ち呆けたまま動かない琴吹を後にした。

試合が終わっても、会場はいつまでも静かだった。


* *  *


「忘れ物よ」

夕方、部屋に最大限の氣を張って引きこもる俺を訪れたのは、やはり凪姉だった。

大雅はドアの前で立ち止まる気配はしたが、俺の意図を汲んでか入っては来なかった。

「凪姉は、一人になりたい人の気持ちが分からないの?」

「分かろうとする気もないわ。それに、これは無いと困るでしょ?」

鞘に大人しく収まった黒刀を放る。

受け取った刀は、ずしりと重かった。

「…なんで普通に持って来れたの?」

「中の氣が、かなり不安定ね。逆に他人には合わせやすかったわ」

それでも、常人の出来る術ではない。

「……琴吹は、大丈夫か?」

「ただ尾が斬れただけよ。確かに一瞬意識が飛びかけたけど、今はもうピンピンしてるわ」

「でもハクは……」

「そうね。もう斬れた尾は元には戻らない」

「っ……」

淡々と言ってのける凪姉の言葉は、グサリと垂直に胸に刺さった。

氣を兼ね持つこの黒刀の恐ろしさを、俺は忘れかけていた。

幻夢の具現の守護獣を斬り、不死身の神獣ですら再生不能の傷を負わせる。ハクが刀に興味を持った時に説明しておくべきだった。でなければ、琴吹も俺を煽るようなことはしなかっただろう。

「私が怒ってるのはそんなことじゃないの。どうしてあの時、腕を伸ばさなかったの?途中棄権だなんて、らしくない」

「せめてもの償いさ。俺は負けたんだよ、少なくとも自分に」

「刀を抜く前、出雲はちゃんと忠告した。あなたが責任を感じることは何もないわ」

「でも俺は、また同じ間違いをした」

「まだ気にしてるの?」

「するさ。傷つけるだけの剣なんて、持つべきじゃない」

「どうして?なんで出雲は刀から手を離しちゃうの?」

「あれが限界なんだ。見て分かるだろう?黒刀の威力。あれ以上氣が統一されたら、俺はどうなるか分からない。実際ハクを斬った時、俺は理性を失いかけていた」

「……こっち向いてよ」

声はか細く、震えていた。

ハッとして振り返ると、

「私はっ……出雲がまた黒刀を抜いて、嬉しかったんだよ……?」

大粒の涙を零す凪姉がいた。

「お、おい。凪姉…。泣かないでよ」

「あともう少しなのに……」

「え?」

「出雲の馬鹿っ!意気地なし!へたれ!」

「それは理不尽だろ!」

しかし反論は届くことなく、凪姉は部屋から出て行った。

『……効いたか?今のは』

残った石榴がのんびりと聞く。

「ああ、かなりな…」

久しぶりに見た、凪姉の泣き顔。

「本当に、あの日以来だったな……」

『ああ、出雲が黒刀を初めて抜いたあの日から、凪は一度だって泣かなかった』

俺が黒刀を父上から譲り受けたのは、凪姉が石榴と柚子を見出してから三ヶ月ほどのことだった。

出来立ての守護獣を見せ付けるようにして、凪姉は毎日執拗に迫ってきた。早く黒刀を抜いて見せろと。

しかし俺は黒刀を抜くことはおろか、最初は持つ事さえ十分にできなかった。黒刀の放つ氣は、日頃剣を学ぶ黒沢家の血筋にしか操ることが出来ない。故にまだ剣術も半人前であった俺は、黒刀を動かすことが出来なかった。

そのため 、追いかけてくる石榴と柚子から、重たい刀を引きずって逃げ惑う日々がしばらく続いた。

黒刀を継ぐ者には、掟があった。刀は抜けるようになるまでは、肌身離さず持っていろと。でないと、折角歩み寄らせてきた氣がすぐに元に戻ってしまうからだ。

しかし抜けない刀はただの重りだ。次第に二匹に苛つくようになり、凪姉の思惑通りとも知らずに俺は鍛錬にのめり込んでいった。

早く刀を使いたい、そして凪姉と二匹に目にものを見せてやりたい。

その思いは確実に努力を積ませ、着々とその日は近づいてきていた。

そしてそれから一年経ち、俺は歳十つにしてようやく柄を握った。

無知というのは時に恐ろしい。このとき俺は黒刀の力なんて、何も知らなかった。

ただ、 初めて目にする黒い刃に興奮し、思うが侭に剣を奮った。

異変に気がついたときには、もう遅かった。

沸き立つ血が澄み切ったように冷め、五感が冴えわたり、頭の奥で何かが反響したその時――

ふと、石榴と柚子の動きが止まったのだ。そして、踊り狂うようにして俺に背を向け、

凪姉に飛び掛った。

びっくりしたのは凪姉だけじゃない。俺も同様困惑した。そして、何も考えずに手に握っていたものを振った。

「今更なのかもしれないけど、ごめんな」

『何を謝る。あれは誰も悪くない』

俺に撫でられ、石榴は嬉しそうに目を細めた。

そっと左目の傷に触れる。石榴はじっとしていた。

あの時俺は、とにかく無我夢中だった のだ。冷静を取り戻した時に目に映ったのは、

左目を切られうずくまる石榴と、右耳を切られ倒れこんだ柚子と、

――涙を流し、怯えた顔でこちらを見る凪姉だった。

初めて見る、凪姉の顔だった。

「何もかもが初めてだったよ。刀を抜いたのも、君らに勝ったのも、凪姉が俺を恐怖の対象として見たのも…。今日はあの日に戻った気分だ」

『そうか』

あの日から、凪姉は泣かなくなった。一度見せた自分の表情を取り繕うように。

俺はそれから今日まで、黒刀を抜くことはなかった。それでも今までちゃんと刀を差していたのは、何処かでまた取り戻せるチャンスを伺っていたのかもしれない。

そんな中途半端な覚悟だから、ここぞとばかりに見付けたタイミングに飛びつき、結局同じことをしてしまった。

『凪はあの時不安だったのだ。お前が罪悪感から、もう自分に関わってくれなくなると思ってな。だからとりわけ笑顔を努めるようになった。それだけ出雲を大事に思っていたのだよ。でも出雲はそれからも、お前なりによくやってくれた。凪が笑う所以には、いつだって出雲が絡んでいた』

「俺は、凪姉の期待に応えてやったことなんかない」

『いいや、十分さ。凪は出雲の隣にいるだけでも全然違う』

俺はゆるゆると首を振る。それこそ自分のせいじゃないか。

「…俺は凪姉を助けたかったんだ。なのに石榴たちを傷付けることになってしまった。それからもう分からないんだ。剣を振る意味が。守るために倒すとは、どういうことなのか」

『出雲は優しい心の持ち主だ。 だからその思いやりが、今お前を苦しめている。だがな、それは時に甘えでもあるんだよ』

「……」

石榴の目は、裂けようともしっかり俺を見ていた。

『それを凪はよく理解している』

「…凪姉は、何を望んでいるんだろう」

先ほどの切羽詰った様子の凪姉が浮かぶ。

もう少しって、一体何だ?

『それは自分の胸に聞いてみな。凪はあの時見たんだよ、お前の一面を。そして以来、強く胸に誓ったことがあるのだよ。だから、出雲がここに来た事も喜んでいた』

「意味分からないよ。もう少しヒントをくれたっていいじゃないか」

『ああ、今日は夕焼けが綺麗だな…』

はぐらかし方が下手すぎる。

『そういえばあの日も、こんな空だったな』

「え?」

『ああ、そうだ。丁度一昨日がその日付じゃないか。…もう七年にもなるのだな。早いもんだ』

「よく覚えているな」

『勿論だ。忘れるわけがなかろう』

「一昨日…か」

『どうした?』

思い当たる節があった。

「……石榴、ひとつ父上に手紙を頼めるか?」


* *  *


「…故に、私の掲げる今後の本校の方針といたしましては……」

思わず欠伸が出る。体育館のあの教壇の前では、何を喋っても退屈に聞こえるらしい。

琴吹が思った以上に元気だったのは正直ホッとしたが、元気すぎる。人の上で、まさしく立て板に水の如く次から次へと言葉を並び立てていた。やっぱり昨日くたばらしておけばよかった。

生徒会選挙は昨日の彩葉祭とは打って変わって、誰もが話に注目しているわけではなかった。

それもその筈。今回の立候補者は定員ぴったり。信任投票となればさしてこちらが気にするものは何もない。

凪姉は最後の仕事を見届けるべく、候補者の後ろでどっしりと構えていた。

皆と同じパイプ椅子に座っているはずなのに、随分と貫禄があった。一年間で培ったものが成せる業なのだろうか。

「以上をもちまして演説とさせていただきます。ご清聴有難うございました」

ぱらぱらと起こる気だるそうな拍手。俺は手元の紙に最後の丸を書き込むと、すぐに裏返した。至極どうでもいい。

それよりも集中すべきは古屋先生から出された宿題だ。期限は今日。一体どうすれば――。

「…ん?」

足に、何かがコツリと当たった。

「なんだ、茂吉か」

見下ろすと、茂吉が頭を背中に擦り付けている。

「どうした?痒いのか?」

もしくは昨日踏み台にしたことへの抗議か?

意思を汲み取れずにいると、茂吉の甲羅に線が点滅し始めた。

読め、ということらしい。…だよな?

困惑しているのは、茂吉の甲羅から丸しか読み取れないからだ。ずっと丸が点滅している。

十三の丸が点滅してようやく、『大』の文字が荒々しく浮き出てきた。

そして『丈』『夫』『か』『?』

「…大雅、投票用紙を茂吉に食わせたろ」

昨日のことを気まずく思っているのだろう。何に対して大丈夫かと聞いているのかは正確には分からないが、あいつなりの親切は素直に嬉しかった。

お返しに、俺も投票用紙の裏に「特に心配ない」と書き込むと、茂吉に差し出す。

茂吉はもっさもっさと紙を食みながらノロノロと歩いていく。それ、食べずに渡してもよかったんじゃないか?

茂吉を見送っている間、俺は教壇から完全に視線を外していた。

だからこそ、

バンッ!

「なっ!…何だ?!」

音がするまで異変に気づかなかった。

振り向くなり、俺は言葉を失った。

人が、守護獣が、宙に浮いていた。

いや、違う。何か白いものが、皆を吊り下げていた。

「茂吉!」

反射的に飛び出したがもう遅い。

茂吉はその白い何かに絡まって、足をジタバタさせながら飛んでいた。

「茂吉!火だ!」

手当たり次第に叫んで見ると、

ボウッ!

案外指示は通った。半径三メートルほど範囲にあった白いものは焦げ、チリチリと細くなった箇所から茂吉が垂れ下がってきた。

俺はそこから木刀で切り落とそうとする。だが、

「っ…」

焦げた箇所はみるみるうちに元に戻り、結局また茂吉は上へと上ってしまう。

「くそっ!何なんだ一体!」

白いものを辿っていく。その間にも、幾人もの犠牲者が目に入った。――大雅も。

というよりも、生き残っている生徒がもうほとんどいない。

ちゃんと地に足を着けて立っている人は俺と、

…あと二人だけ。

教壇上の生徒会はほぼ全滅、凪姉たちも逃げ切れなかったらしい。

その前で、立ちつくした琴吹と、

――真っ白い犬と、小さな一人の少年がいた。

「栗原…!」

『はいはいどうも。皆大丈夫ー?ごめんねー、すべてはこの生徒会長候補、琴吹君のせいですよ』

マイクで大音量でがなり立てる栗原は、一昨日のあの無邪気な笑顔で皆を見上げていた。

『皆さん落ち着いて下さい。ここで騒いでも混乱が混乱を呼ぶだけです。ここは彼の話を聞きましょう』

琴吹は至って落ち着いていた。だが、先ほどの演説よりも幾らか回る口が速い。

『会長候補さん、僕はあなたを信認しません。結局琴吹君のしたいことって、こういうことでしょ?』

顎でこちらをしゃくった。

『自分のいいような学校づくり。たかが守護獣が神獣だからって、いいもんだよねー。そんなことでこうやって支配されることになるのは、僕は御免だな』

『これは君がしたことだろう、俺の演説の中身と何の関係がある?』

『そのまんまだよ、見てごらん』

小豆に目をやる。小豆の尾は四方八方に伸びていて、それが皆を絡めとっていた。その中心、一番白の集中するところに、ハクがいた。

『小豆の能力は複写。君の全てとなるあの守護獣の能力を使わせてもらったよ。だからこの状況の元凶は琴吹君なんだよ!』

なるほど。茂吉が焦がした小豆の尾がすぐに回復したのはそのためか。そして、一度捕らえられて時間を固定されてしまえば、もう逃げることはできない。

『…君の目的は一体何だい?』

怒りか困惑か、琴吹の声は深く沈んでいた。

『んー、そうだね。本当は立候補する気はなかったんだけど、あんな演説する君がやるくらいなら、』

対照的に、栗原の声は軽く弾む。

『僕が会長やろうかなーって』

「っ!」

小豆の体に、紅い模様が浮き上がってくる。それは石榴と柚子のものとよく似ていた。

『これだけの氣を吸えば、神獣になることだって容易いしね』

「…あの野郎!」

伸びてきた尾をかわし、勢いづいたまま目の前の障害物をなぎ倒して駆け抜ける。

すれ違う生徒や守護獣たちは大分ぐったりしてきていた。覇氣がもう随分感じられない。

対して小豆の周りには、溢れんばかりの氣が集中していた。

他人の力で獅子に成り上がろうだなんて、いい度胸してるじゃないか。

伸びてくる尾を振り払う。

カアンッ

無論、俺の咄嗟の攻撃は小豆の尾に阻まれた。

「ん?あ、黒沢君じゃん。そっかー、君は守護獣がいないから自由なんだね」

「…どういうことだ?」

「ふふふ…」

昨日の琴吹よりも不気味に、栗原は口角を釣り上げる。

「見え見えの神経衰弱のようなものだよ。まず守護獣を捕えて動きを封じ、その氣の種類から主を割り当て捉え、一気にまとめて氣を吸い上げる。主と守護獣どちらが助け合う間もなく仕留めれば、効率いいでしょ?」

「お前…!こんなことしてまでどうして!」

「気に食わないんだよ。こいつが」

指さす先に、ただじっと事の展開を見つめる琴吹の姿があった。動揺している様子はないが、

「ぐっ!」

かなり隙だらけだ。背後からすくわれるようにして、小豆の尾が纏わりつく。

「いっつもいっつも人のことを見下すことしか能のない奴。昨日だってそうだ。何が運命だ、才能だ、神獣だ!ずっとこの日を待っていたんだ…。僕だって本気出せば強いんだよ!」

そのまま、成す術もなく引き上げられる琴吹。首に尾が回っている。このままじゃ危ない。

「やめろ!」

「何?黒沢君だって昨日、散々な目にあったじゃない。本当は僕ね、あのまま君に勝ってほしかったのに」

「うるさい…」

琴吹を見やる。昨日はあんなに余裕ぶっていて、さっきだって教壇の上で澄ましてべらべらと喋っていたじゃないか。

――なんでお前がそんな目で俺を見るんだ?

「確かに俺だって 、琴吹のことは気に食わないさ。でもな、今のこの状況の方がもっと気に食わないな」

「……」

「俺はただ、皆が元ある姿になってくれればそれでいい。そのためなら」

木刀を捨てる。

「――自分を傷つけるだけの刀だって振るさ」

そうだ、それでいい。

どうせ去るだけの身だ。

俺は静かに黒刀を抜いた。


* *  *

「出雲」

いつしか父上は言った。

「正直言って、お前には剣術の才能はない」

「……それ、これから道場を継ぐ者に向かって言いますか?」

俺は不貞腐れて真面に顔を見ようともしなかった。

「はは、そういじけるな。だがな、出雲。お前には他に才能がある」

「……?」

「それを見つけられる日を、私は楽しみにしているぞ」

そう言って豪快に笑う父上と、隣で静かに見守るカイラ。

眩しかった。

だから黒刀を手にした日、俺は少しでも彼らに近づけたような気がして嬉しかった。

なのにいつからだろう、こんなに曲がって生きるようになってしまったのは。

使い方を誤り、踏み外して力を暴走させたあの日から、

俺は人を怖がり、億劫に思い、時には避け、引きこもることも多々あった。

人との距離の取り方が、分からなくなってしまった。

それでも、

表に出しては竹刀で俺を引っ叩く父上がいて、外に引きずり出しては悪戯してくる凪姉や石榴や柚子がいて、カイラに拉致されて学校に来れば、やんやと世話を焼いてくれる大雅や茂吉がいて、古谷先生が、高倉先輩が、琴吹が――。

俺は沢山の人に恵まれた 。

そうして、臆することなく接してくれる皆を前に、

傷つけることを恐れて勝手に傷ついていたのは、俺の方なんじゃないのか?

だから凪姉は、敢えて笑顔を見せようとした。その一瞬の怯えを取り消そうと、必死で――。

『私はっ……出雲がまた黒刀を抜いて、嬉しかったんだよ……?』

彩葉祭で凪姉が見たかったのは、俺が過去を拭い去ろうとした瞬間だったのかもしれない。

最後まで果たせなかったが。

だから今、もう一度チャンスを――

「やっ!」

氣を合わせて放つように、刀を走らせる。

斬れると尾は、ただの毛と化し空を舞った。

そしてドサドサと人やら守護獣やらが降ってくる。しかし、

「させないよ」

尾は無限に伸びてくる。

「クソッ…キリがない!」

ハクの能力を持った尾に太刀打ちできるのは、神獣をも切れる黒刀を持った俺しかいない。

呆然とする人の中、俺は一人だった。バクバクと五月蠅く鳴る心臓の音が、余計に俺を孤独にさせた。

黒刀の氣が、どんどん俺に近づいてくる。今すぐにでも目をつぶって耳を塞いで、その場にしゃがみ込みたくなる。

怖い――。

それでも俺は、

「っ…!」

誰かのために剣を奮う。

『出雲!』

自由になった柚子が、体当たりしてくる。

「のわっ!」

その横を、もの凄い勢いで尾が掠めていく。

『馬鹿野郎!後ろががら空きだぞ!』

「ごめん」

だが、今はそれどころじゃない。

一瞬、俺の視界が揺らいだ。

来る――!

しかし俺は、黒刀から決して手を離さない。

そのまま、ハクに向かって刀を振った時だ。

「っ!」

黒い靄が、刀の切っ先の軌跡に沿うようにして湧き上がった。

「何だこれは?!」

動けるようになっても呆然としているハクが見えなくなえるくらい、靄はどんどん濃くなってゆく。

途端、

咆哮が響いた。

「…お前は……」

俺は間抜け面で、目の前の光景を受け止めきれずに立ち尽くした。

『よう、遅いぞ』

艶やかな黒い身体に、更に漆黒の縦縞を走らせた逞しい身体。鋭い眼光と立派なたてがみは、その立ち振る舞い相手を竦めるだけの迫力があった。そして、もうもうと立ち込める黒煙のように広がる尾。

「何だあれは?」

「黒虎か?」

「いや、虎にたてがみは無い」

人々が好き勝手に騒ぎ出す。それを、

その獣は大きく遠吠えして鎮めた。

「お前は一体…」

『出雲と言ったか?俺は竜生九子の狴犴だ』

「竜生、九子…」

一言一言をかみ砕くようにして反芻させる。そうまでしなくては、目の前で起きていることが信じられない。

神獣には、伝説の中の伝説とされる四つの獣がある。

白虎、朱雀、玄武、そして青龍。

確かその龍の九つの子が、竜生九子だ。九子は龍になることは出来なかったが、それでも伝説中では各々が立派な神獣だ。

『出雲、これがお前の力だよ』

「俺の…?」

『ああ、お前は優しい。その優しさを囲むようにして、沢山の人が集まってくる。だからな、』

狴犴はまた吠えた。その咆哮は地を揺るがすほどに、とてつもない威力を持っていた。

『お前らかかれえ!』

その声を合図に、

自由になった守護獣たちが皆、飛びかかった。そして遅れて生徒らが、取り残された人を救い出そうと躍起になる。

『だからな、出雲。お前のために皆はいつだって応えてくれるんだ』

そうしてニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

周りを見やる。凪姉が、大雅が、琴吹が、皆が、それぞれに出来る限りの力を奮っていた。

『何をボサッと突っ立っとる。俺らも行くぞ!』

「!…ああ!」

俺らは突き走る。狴犴は、俺の前に回って攻撃を防いだ。時にはその声で一喝するだけで動きを封じる。その隙に俺はどんどん尾を切ってゆく。

「そういえばお前!名前は?」

『ここで聞くかよ!いっつも隣にいたあの姉ちゃん見てりゃ分かるだろ、お前がつけるんだよ』

「えっ」

この状況で考えろと?

「うーん…」

思案している間も、勿論バサバサ斬っていく。

「じゃあ、クロ」

『そのまんまだな』

「今はそれくらいしか思いつかない」

『そうか』

いいのかい。

「じゃあ行くぞ、クロ!」

『よっしゃ!』

クロが氣の中心へと飛びかかる。そして小豆を抑え込み、

『今だ!』

斬ッ!

俺は尾を躊躇なく切断した。

次の瞬間、

全ての白が、弾けて散った。

途端に抵抗をやめた敵に、皆は呆然とした。しん、と静まり返った空間で、

小豆のドサリと倒れ込む音が、大きく聞こえた。みるみるうちに紅の模様は引き、尾も元の形に戻っていく。

「小豆!」

『心配するな。いきなり大きな力が流れたから疲れたのだろう。眠っているだけだ』

見やると、栗原も琴吹の前で気を失っていた。

しばらく足元で眠る栗山をじっと見つめていた琴吹だが、

そっと抱えてやり、舞台を降りた。

残ったのは俺とクロだけ。

空いた教壇に目を着けたクロは、てくてくと歩いて行く。氣が掠めただけで、マイクは盛大にハウリングした。

『おい、てめえら!こんな学校をこれから支えていくのは誰がいいと思う!』

マイクを通さなくてもいいほどに、クロの声は地響きの如く隅々まで行き渡る。

対して皆は誰一人として口を開かなかった。

『最悪のクーデターの主犯も元凶も、生徒会長には相応しくない。かと言ってこの通り、他に立候補者も出ない!』

息を呑む音が聞こえてきそうなほど、空気がピンと張り詰めていた。

『そこでだ!この事態を収束へと導いたこの黒沢出雲に、ひとつ預けてみようってのは!』

「はい?!」

しかし俺の抵抗は、

ワッと湧き出た拍手と歓声によって掻き消されてしまった。

改めて見れば人ばっかりだ。皆が此方を向いている。

手を叩き、口を開き、

その中に、大雅や凪姉やあろうことか琴吹も――

「……ははは」

もう、どうにでもなれ。

どっと出た疲労に押しつぶされるように、俺は膝をつく。

そのまま、視界は暗転した。


* *  *


目が覚めると、景色はほんのりとオレンジ色に染まっていた。

「あれから放課後まで寝てるだなんて、呑気なものね」

そう顔を覗き込む凪姉の姿があった。

『いきなり氣を使いすぎたからな。限界値を超えて、身体のスイッチを強制的にオフにしたんだろう』

凪姉に撫でられ、クロが喉をゴロゴロと鳴らす。

「凪姉、随分慣れてるな」

「私はこの子のこと、ずっと昔から知ってるもの」

「えっ?」

「出雲が初めて黒刀を抜いた日。その時に微かだけど、姿が見えた」

『そうなんだよ。なのにこいつときたら、俺が覚醒してからずっと刀を抜かない!昨日だってようやく出れると思った瞬間投げられたんだぜ!』

「えっと……つまりさ、氣が一つになった時のあの胸騒ぎは、俺が黒刀の力に呑み込まれる瞬間とかじゃなくて……」

クロが大きく頷く。

『ああ、俺が守護獣として見出される前触れだ』

「何だよそれ!」

まどろっこしい。それがトラウマで俺はあれから七年も悩んでいたというのか?

「出雲のお父様も呆れていたわ。黒刀を肌身離さず差しておけと言ったのは、守護獣を見出すきっかけのためだけのことなのにって。出雲ったらこっちが怪我したせいで、まず黒刀を抜くか抜かないかでグズグズし始めたんだもの。でも守護獣は自分の力で見出さなきゃ、出雲は主になれない。ずっと黙っていたけど、正直歯痒かったわ」

「嘘だろ……」

あまりに気が抜けて、またベッドに倒れこむ。

昨日、直接父上に手紙で聞いてみたのだ。

父上の言う『あの日』の意味は分かったと。確かにそれから七年も経つとなれば、父上が痺れを切らして俺を追い出した理由も納得がいく。だが、それで何故守護獣の育成学校に連れて行かれるのかがどうしても分からなかった。だから、悔しいが教えを請うたのだ。

しかし、カイラから貰った返事には、

『知ーらんぺ。彩葉祭で勝ってたらよかったのにねー』

問答無用でその場で掻き消したが、あれはそういう意味だったのか…。

確かに昨日刀を投げずにいたら、クロは出てきただろう。

「まぁこうして守護獣も出てきて、無事出雲も立派な神籬学院の生徒になったし、良かったじゃない。それに今朝は凄い活躍だったしね」

「あれは無我夢中だったから……」

小豆の尾が断ち切られた時に、氣はちゃんと皆の元に戻ったらしい。おかげで、保健室に運び込まれたのは俺だけで抑えられた。

栗原はその時のショックで倒れたものの、今はちゃんと回復してしっかり個別指導されている。

琴吹は自主的に同じ場に赴いたという。彼らの問題が解決するのは、予定よりも早くなりそうだ。

「何はともあれ、前生徒会長として礼を言うわ。ありがとう」

そして、額に柔らかな温もりを感じた。

遅れて漂う髪のいい香りと共に、

「ば、馬鹿っ。そういうのは気安くするなよ!」

我に返った俺は顔を熱くした。

「あら、たかがキスで動じてどうするの?」

「動じるよ!下手したら凪姉の信者を敵に回す羽目になる!」

というより、ほぼ全校生徒だ。

また皆の前で大暴れすることは、もう無いであってほしい。

『まったく。これから全生徒の面倒を見ようって人が、情けない』

「……え?」

「え?じゃないわよ。拍手喝采で満場一致。よって今日から出雲が生徒会長よ」

「は?!」

「驚いている暇なんて無いわよ。これから仕事は沢山あるんだから。さあ起きた起きた!」

「えっ?嘘だ!ちょっと待て!」

凪姉に手を引かれ、保健室から引きずり出されると、

「出雲!良かったー!大丈夫なのかよ、会長さんよお!」

「うわっ」

大雅がすかさず抱きついてくる。

「なあ、俺に拒否権は?」

「また全校生徒を集めろっていうの?」

「うっ……」

『第一俺が許さん』

クロがガルルと歯を見せて威嚇する。

「ほら、行くわよ」

「ちょっと、凪姉!」

そのまま虚しくもグイグイと引っ張られるまま、俺は歩かされる。

『よっ会長!』

「おめでとう!黒沢君」

高倉先輩と楓が野次を飛ばす。全然おめでたくない。

「新会長だ!」

「見ろよ、あの神獣」

「前会長と幼馴染だってよ」

その後も、わらわらと野次馬が道を作り、たくさんの言葉を浴びせられる。

たった三日で人生が、こんなに変わってもいいものだろうか。目まぐるしくて、自身がついて行けてない。

――だが、

見やればクロが、意気揚々と歩いている。その姿は自信に満ち溢れていた。その後ろで大雅が心底嬉しそうに茂吉を抱えてついて来る。前では凪姉が、昔と同じように俺の手を引く。

悪い気はしなかった。

さて、今日のことをどう手紙に書こうか。

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カルマ 香罹伽 梢 @karatogi

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