第3話
その日授業が終わると、予備校の前で莉珠が待っていた。五分前にはメールのやりとりをしていたけれど、彼女は私に手を振らない。だって、今日莉珠が待っているのは、私じゃない。莉珠はただ私が建物から出てくるのを合図に、中へ入っていくのだ。一瞬目を合わすと、莉珠は目で頷くみたいに、強気な笑顔で応えて歩き出した。その、口をきゅっと結んだ笑顔は、同じようにきゅっと結んでいたはずの私の気持ちを、少し乱す。すれ違うと、パフュームの香りがほんのりと鼻に触れた。降ろしたふわふわの長い髪の毛に、真っ白なコート。莉珠は今日、女子大生になる。教育学専攻の女子大生になって、進学塾に通っている高校生以下の子供への調査アンケートという名目で、航に声をかけるのだ。見た目はともかくとして、教育学専攻の大学生なんかに、莉珠がなりきれるのか、と思うけれど、なりきれなかったところで、それはそれでも構わないのだろう。そうしたら今度は、嘘をついてまで航に近づきたかった、という路線に変更するのだから。想像したら、嫌な胸騒ぎで溢れそうだったので、これからやるべきことに考えを向けた。
私はいまから、大介に会いにいく。大介と同じ最寄り駅近くに住む、実際と同じく高校二年の女子生徒として。実際の私の最寄り駅は、同じ路線の反対方面の端っこなのだけれど、だからこそばれなくていいかという考えだ。仮名を作っちゃおうか、なんて莉珠と盛り上がったけれど、結局慣れない仮名を名乗るところでわざとらしさが出そうだから、住んでる場所を偽る以外、そのままの自分でいくことにした。まぁ、どういうかたちで名乗るにしたって、会うのは三回までという決め事だ。三回目までになるだけ強烈に恋に落として、ぷつりと連絡をたって姿を消す。だけど仮に落とせなかったとしても、チャレンジは三回まで。後腐れが生まれないように短期決戦。キスはしない。寝ない。それが、莉珠と決めた作戦のルールだ。
あと少しで、二十時。「莉珠ともうちょっと話して帰るから、遅くなる」とお母さんにメールを打って、私は駅のすぐ横のコンビニで雑誌を読む仕草をしながら、じっと窓の外を見つめていた。
毎週木曜日は、野球部の後で後輩と学校近くでご飯を食べて帰ってくるから、決まってこの時間に駅から出てくるはず、と莉珠は言っていた。いつも駅についたときに大介が電話をくれるというのが、二人の日課だったらしい。
若い風貌の男の人が通るたび、ぐっと目を凝らす。けれど、黒い学ラン姿のはずの大介はまだ現れない。大介の顔は写真でしか知らないから、一目見てわかるかどうか、あまり自信がなかった。写真で見たのは、学ラン姿じゃなくて、休みの日のデートで撮ったというキャップ帽にパーカーのラフな姿だけだ。帽子の下の、小麦色の肌と切れ長の一重瞼を頭に描いて、窓の外を時折誰かが行き交う度に、それを重ねた。
この時間に駅から出てくる若い男の人というのは、思っていたよりも多かった。だけど来る人も来る人も、大介の顔とは合わさらない。見逃したんだろうか。二十一時十分をまわった腕時計をちらりと見て、このまま現れなかったら、何時までここにいよう。そう思いながら顔を上げた、そのとき、窓の向こうの浅黒い横顔にピンときた。真っ暗な夜のなかで、学ランを纏った大介は、顔だけ暗闇に浮かんだ不思議な姿で左から右へ、あっというまに歩いて遠ざかろうとしている。私は、急いで雑誌を置くと、大きな歩幅で進む大介に追いつかんとばかりに、かけ足でコンビニを出た。そしてためらう隙を自分に与えないまま、彼の背中に思いきり、声をかけた。
「あのっ」
大介がくるりと振り返る。大介は、一対の小さな目をきょとんとさせて、何かを発見した小学生の男の子みたいな表情だった。聞き返す言葉はない。だけど、不思議そうに私を見たその顔が、ん? と呼びかけに、応えていた。
「ここ、いつも通ってますよね?」
「ん・・・・・・?はい」
大介は、不思議そうに私を見つめたまま。わけがわからなそうだけど、表情にはどこか優しさが含まれていて、拒まれてはいないのだとわかる。
「私、そこでよく立ち読みしてて。あの人いつも通るなぁって思ってるうちに・・・・・・気になるようになって」
言葉の隙間を、心臓が駆けていく。演技で言っているのに、どきどきした。
「彼女とか、いるんですか?」
「いや、いないけど」と大介は首をかしげて、私をじっと見る。
私と大介の間には、四歩ぐらいの距離がある。けれど、目線の高さが航よりはほんの少し低いのだとわかった。例えば月と太陽なら、航は月で、大介は太陽。そんなイメージを、莉珠の話を聞きながら持っていたけれど、こうして向かいあうと全然違う男の子だ、と改めて思う。
「私も、このへんに住んでるんです。だから、時々会ったりとか、ご飯、しませんか?そしたら私のこと、知ってもらえるし」
大介は一度短く宙を見上げてから、また私を見た。そして、あっけないくらい即答で答える。
「・・・・・・おう。いいよ?」
「・・・・・・いいんですか?」それは、セリフのはずだったけれど、私は心の底から尋ねていた。
「うん。だって、俺も地元に知り合い増えるの嫌なことじゃないだろ・・・・・・、一緒に飯食う友達いたら、まぁ嬉しいし。俺にとってマイナスなことって、特に、ないよな・・・・・・」
大介は物事をひとつひとつ思い起こして、整理するみたいに、宙を見つめながら言う。
「うん」
「それに」大介はまたチラリと私の顔を見る。大介はそこで息を吸って、なんだかそれが、本当は他に言おうと思った言葉があったけれど、飲み込んだ仕草に思えた。
「・・・・・・だって、今付き合ってくださいとか言ってるわけじゃないんでしょ?」
「うん」
「うん。じゃあ、いいよ? ぜひ、飯行きましょう。今度」
「はい。じゃあ」
私はどう切り出すべきかわからなくなった。先に口を開いたのは、大介のほうだった。
「うん、じゃあ、番号交換でもしますかね・・・・・・」
「うん」と私は、一歩、二歩、いいのかなと躊躇しながら、ゆっくりと大介のそばに歩き出す。大介も俯いて、黒いズボンのポケットから無造作に携帯を取り出して、私のほうに踏み出した。
すごい、本当に莉珠の考えたシナリオどおりに進んでいる。上手くいかないことはいくらでも想定していて、そのときは私がアドリブで頑張らなくては、と思っていたのに。私の心臓は、めいっぱいのスピードで駆けていく。
私は、莉珠と対等でいたかった。私だって、大介を落とす自信があるし、航が莉珠に夢中になるかもしれないなんて、少しも怖くはないんだ、と。
そのとき突然、沼に右足を取られたみたいに、地面がぐにゃりと歪んだ気がした。あれ、なんだろうと思ったけれど、構わずに進んで、一歩、そしてもう一度右足を踏み出した瞬間、パカッという音と共に、私は宙に右足を取られ、がくんっとその場に崩れかけた。
「わっ!」
とっさに目の前の大介の腕を掴んだから、前につんのめらなくて済んだ。
「おあ・・・・・・っ、びっくりしたぁっ」
私は大介から慌てて身を離す。するとまた、右足の地面が歪んで、今度は後ろに転びかけた。「あぁ、危ないっ」と大介の左腕が、私の背中にまわる。
「ちょっ、ちょっ、焦って動くな。動くな?」
ゆっくりと左手を離しながら、大介は、ふふふ、とこらえきれない様子で笑い出す。浅黒い肌と正反対な、真っ白な歯が見えた。私は、私の顔から少しそれた、大介の視線の先を確かめる。すると、去年買ってお気に入りだった、私の黒いブーツのピンヒールが、役目を果たして折れた姿でぽつんと、道路に転がっていた。
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