第2話

——かっこいい!

 遠目に初めて航を見つけた、莉珠を思い出していた。白いワンピースを着て、真夏の日差しのなか。黒い日傘の落としたささやかな日陰に守られながら、莉珠は子犬みたいにはしゃいだ。莉珠は、それまで航のことは私の話でしか知らなかった。付き合い始めたと聞いて、早速この日こっそり航を見るために、授業が始まる少し前、予備校までやってきたのだ。

 あのとき、莉珠も大介と付き合い始めたばかりだった。お互いかっこいい彼氏ができちゃったねと、航に聞こえないように、それはもうすごいはしゃぎっぷりで、日傘に隠れて二人できゃあきゃあ騒いだ。

 その真夏の情景にフェードインするみたいに、復讐を思い立つ莉珠の姿が浮かび上がる。

——私が航に近づくから、瑠衣子は大介にいって、好きにさせたところで、振ってやるの。こっぴどく。作戦は二人で考えれば大丈夫!

 そんな提案、冗談の夢物語かと思って笑った。だけど、莉珠は大きな瞳でじっと覗きこむと、もう一度言ったのだった。

 ——ねえ、本気ですごいアイデアだと思うんだけど。

 莉珠のぷるぷるの唇が、頭のなかで、言葉のかたちに動く。莉珠を本能的に求めない男の子なんて、この世にいるわけない。だから莉珠は恐れたりしないんだ。私が莉珠以上に、大介を夢中にさせたらどうしよう、なんて。

 ——じゃあ、やってみる?

 私が答えると、莉珠は、そうこなくっちゃねと笑う。いつもの、小さな八重歯が覗く。

 この自信がきらきら宿ったみたいな八重歯が、私は、本当はあまり得意じゃない。

 ぴょんと立ち上がって、一番に手を挙げる莉珠は、いつもあの八重歯を見せて笑っていたから。公演の役決めオーディションのとき、莉珠はいつだって目当ての役に、誰より早く手を挙げた。

 ——はぁーい! 私やりたいでーす!

そうして、しっかりと望み通りの役を手に入れる。莉珠がやりたがるのは決まって、華のあるヒロインや、セリフの多い重要な役。だから、他にもやりたがる部員は多いのだけれど、そうなると誰ひとり言い出せないまま、すぐさま莉珠に決まるのだった。誰も、圧倒的に美しい莉珠を相手に、争いたいなんて思わない。

そうやって莉珠は、私の欲しかった役も、あっさりと持って行ってしまった。

中三の秋公演。中学最後の公演は、童話の「青い鳥」に決まった。私たちの演劇部は、既存の物語を演じるときには、結末を変えたり、登場人物を増やしたりと、少しだけストーリーに手を加えることがあり、「青い鳥」も、私たちの舞台のためのアレンジがなされた。もともとの大筋は、木こりの息子のチルチルとその妹のミチルが、魔法使いのおばあさんの病気の子供を助けるため、夢の世界に青い鳥を探しに行く、というものだ。そこへ、青い鳥を手にして欲望を意のままにしようと不順な動機で二人の行く手を阻む、ぶりっ子魔女のキャラクターを登場させようということになり、私は密かにこの役をやりたいと、思っていた。だけど、

——ニューヒロイン誕生じゃないこれ!? この役、やりたい! 私絶対これやる!

莉珠が私の隣で、大げさに飛び跳ねて、はしゃぎ出した。

——はいはい、テンションあがりすぎー。

いつものことと言った調子で、演出家の女生徒が笑う。

——だって、だぁって!

飛び跳ねるのをやめた莉珠の頬に、その頃肩の長さだった彼女の茶色い髪がかかる。それをすばやく耳にかけた莉珠の横顔に、右の八重歯が覗いた瞬間、私は気づいた。莉珠は全部わかってやっている。そうすれば、誰も莉珠のライバルになんて、なろうとできないことに。

私はそれまでだって、莉珠と一緒にいて、悔しい思いがなかったわけじゃない。いつだって注目を集めるのは、莉珠ひとり。私はどこへ行ったって、「莉珠と一緒にいる友達」なのだ。だけど周りにその気持ちを打ち明けたことはなかった。親友として、そういう気持ちを口に出してしまったら、何かが大きく崩れてしまうような、そんな気がした。それでもこのときだけは、役決めが全て終わってから、部内の友人に軽い調子で打ち明けた。

——本当は私も魔女の役、やりたかったんだよね。

友人は私に共感して、「瑠衣子は莉珠と仲いいから言わなかったけど、他にも同じように言っている子はいるんだよ」と言った。

それで大分気は済んで、私は莉珠に対する、からまった毛糸のような気持ちを忘れようと決めた。練習で、魔女役の莉珠とは毎日顔を合わせたけれど、公演に向けて私もやらなくちゃならないことは山積みだったし、日が過ぎるごとに苛立ちも徐々に薄れて、公演の日がやってきて。公演さえ過ぎてしまえば、完全に見なかったことにできるだろうと、そう思っていた。

だけどあろうことに、友人が莉珠に、私が本当は魔女をやりたがっていたことを伝えていたのだ。

——ねぇねぇ、瑠衣子ってさ、本当は魔女がやりたかったの?

あの日公演が終わって、荷物を取りに行った二人だけの教室で、莉珠は言った。まだお互い舞台用の派手な化粧をしたまま。莉珠はまだ、どこか魔女役の面影を残したまま。

私はすごく驚いて、そして第一声なんて言ったんだっけ。私がはっきり覚えているのは、莉珠の言葉がこう続いたことだ。

——ねえ瑠衣子、気ぃ使わせちゃって本当ごめんね? 私、全然知らなくて。けどそんなお人好しじゃあ駄目だよぉ? 人生さホント。

お人好し。莉珠の手が、ぽんと肩に置かれたとき、ぎりぎりまで膨らんだ苛立ちの風船に、針が刺されたみたいに弾けた。

 ——駄目じゃないっ

 胸の底から声を出すと、莉珠の顔から一瞬にして笑顔が消えた。肩に触れたままだった莉珠の手が、静かに離れる。

 ごめん、と莉珠は言った。声は、彼女が一瞬にしてどこか遠くへいってしまったみたいにぽつりと小さく聞こえて、私はすぐにそれを追いかけるみたいに言った。

 ——ごめんっ

 頭のてっぺんまで、熱が登ってくる。それはもう怒りじゃなくて、恥ずかしさだった。だけど登ってくる感情は言葉にならなくて、私たちはただ二人、黙り込んだ。同じ背丈の二つの影が、少し離れて、西日に照らされて教室に長く伸びた。

 あの日別れて、私たちはぱたりと一緒にいることをやめた。部活も公演が終わって一区切りついたところで、その日を境に莉珠は現れなくなった。一緒に帰るのも、一緒にお昼を食べるのも、それぞれ別の友達グループに入ってした。もともと莉珠とは、中三からはクラスがバラバラになっていたし、お互いそれなりに同じクラスの友達というものがいたのだ。部活の仲間は突然のことで、どうしたの? と何度も聞いてきた。けれど、私はただ曖昧に頷くだけで、詳しいことは何も話さなかった。莉珠がそんなとき何て答えていたのかは知らない。

 一度偶然に、階段ですぐ近くを歩いた。私は友達と四、五人のグループで横に広がって階段を下っていて、莉珠が急ぎ足で私たちの間をすり抜けて追い越していった。私のすぐ隣を莉珠は通って行ったから、一瞬だけ仲が良かったときみたいに、莉珠はすぐ隣にいた。おはようって言おうかな、すごく迷ったけれど、莉珠は駆け足で次の瞬間には、届かないところまでその姿は遠くなった。それまで私は、きっと莉珠を怒らせたと思っていた。だけど、黙って追い抜いていった莉珠の背中に、自分と同じ淋しさを見つけた気がして、それは違うかもしれないと、そのとき初めて思った。

 莉珠が手紙をくれたのは、それから一週間も経たないうちだった。私たちはもう三ヶ月以上も話をしていなかったけれど、後ろに駆け足が聞こえて、振り返るとそこに莉珠が立っていた。

 「はいっ」

 莉珠は両手で大切そうに、カラフルな四つ折りの手紙を握り締めていた。そしてそれを、控えめに私のほうへ差し出す。廊下にはそのとき、私たちしかいなかった。真っ白な廊下には、一組から五組までの教室と、その全ての生徒たちのロッカーが向かい合わせで連なっている。授業が始まる直前の時刻で、廊下に並ぶ教室のなかは、どこも賑わっていた。私はたまたまロッカーに置いていた国語の教科書を取ろうとして、長い廊下にひとりきりだった。莉珠は、私が一人になる瞬間を、ずっと探していたのだろうか。

彼女はそのとき、少しずつ、ほんの少しずつ、本当に控えめに笑顔を咲かせていった。

 ゆっくり、ゆっくりと、起き上がってつぼみを咲かせる、可愛い白百合のように。目が合って、莉珠の桃色の唇の端と端が、ほんのり上がる。それから唇よりずっと控えめに赤らんだ頬のてっぺんが、丸くなった。白百合の花は、完全には咲かなかった。まだ少し俯いたままで、つぼみは両手を広げきらないままで。だけど、できかけのその瞬間、白い花は、背筋の伸びたバレリーナのように凛としていた。それは私の心にも、暖かい色の花を咲かせた。

 私はそのとき初めて、悔しい、という気持ちなしに、莉珠のことを綺麗だと思った。

 そして手紙に、あれでもないこれでもないと言葉を選んで返事を書いて、私たちは仲直りをしたのだ。

私と莉珠は高等部に進学してからも演劇部に入ったけれど、彼女は二度とあんなふうに一番乗りで手を挙げない。

 なのに、どうしても駄目なのだった。あの小さな八重歯がのぞく一瞬、私の気持ちはいつも嫌な鼓動を蘇らせる。ぐちゃぐちゃに絡まった黒い毛糸のように、なってしまうのだ。

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