第3話


 その後、裕紀と三倉はお好み焼きを食べ、近所のショッピングセンターに行き、一応観光地らしき近くの寺に登り、何事もなかったかのように遊んで過ごした。思い出話や近況から、カープやサンフレッチェの話に社会問題と、当たり障りのない話題が続く。最初はそれに戸惑い、聞かなかったことにされたのだと悲しかった裕紀だが、結局それが一番良いのかもしれないと思い直した。

 受け入れることは出来ず、だが拒めば気まずくて間がもたない。ならば聞き流してしまおう、と三倉は思ったのだろう。彼らしくない選択のような気もしたが、お互いにもう青臭い十代の子供ではないのだ。三倉だってそれくらいの器用さは身につけただろう。

 裕紀も何とか気分を切り替えて、きっと最後であろう「親友」との時間を大切にすることにする。

(気持ち悪がられんくて良かった、うん……)

 酷く傷付いた顔をされたり、貶されたりしなかったのだから感謝しなければ。

 ふとした瞬間に物思いに沈んでしまう裕紀の少し前を、のんびりとした足取りで三倉が歩く。その距離感は高校時代と変わらない。いつの間にか、まるで高校を卒業してからの数年間など無かったかのように、ごく自然に裕紀は三倉と一緒に歩いていた。

 ほうぼうを巡っていると、瞬く間に時間が過ぎた。気付けば午後七時が近い。駅に向かうため、二人を乗せた車は海沿いの国道を引き返す。もうだいぶ日暮れは早くなり、辺りは夕闇に包まれていた。行きとは異なり、心地良い沈黙が薄闇の車内に満ちる。

 やっぱり会えて良かったな、と、ぼんやり裕紀は思った。今朝は随分早起きをしてきた。昼間に動き回った心地良い疲れで、うとうとと微睡みかける。低いエンジン音と滑らかな運転、柔らかい沈黙、全てが裕紀を眠りへ誘った。

 と、不意に車が道路脇に停まった。まだ海岸線のまっただ中である。

「……どしたん?」

 少し寝惚けた声で問うた裕紀に、うん、と三倉が曖昧に返してエンジンを切る。

「まだもちぃと時間あるけぇ、ちょっと話してこうや」

 そう言って車を出た三倉を、慌てて裕紀は追う。時間を確認すれば、予定の電車の時刻まであと十五分といったところだ。とても時間に余裕があるとは言えない。

 三倉を追って辿り着いたのは、今朝と同じあの浜だった。

 三倉は裕紀を置いて、さくさくと浜へ歩き出す。防潮堤を乗り越え、砂を踏み、まだ干潮の波打ち際まで進んで行く三倉の背を、裕紀は慌てて追った。

 今日は満月。入り組む瀬戸内の島々の隙間、遠く小島を望む海から皓皓と白い銀盤が昇る。大潮干潮の波打ち際は遠く、蒼白く浮かび上がる砂浜の上、まるで月を目指して海へ向かうような三倉の背も酷く遠い。小走りにそれを追った裕紀は、軽く息を切らせながら三倉の隣に並んだ。深い紫紺の水面が、月影にきらきらと光る。

 足元は次第に満ちる波打ち際、数度に一度、ひとつ高い波が押し寄せて裕紀の靴を濡らす。隣の三倉は無言で、その顔は明るい満月の蒼光と、海岸を彩る街灯や灯台の明かりに薄く照らされていた。

 ざぁん、ざざぁん、と波が打ち寄せては引いてく。ぷぁん、と遠く船の汽笛が響いた。

 どしたん、話って何? とその一言が喉に絡んで出てこない。結局裕紀も昇る月をボンヤリと見上げた。

「のォ……裕紀。俺は、お前が俺と居りとうのォて東京に出たんかと思うたんじゃ……。自意識過剰じゃ、ゆうて他のモンには笑われたけど。気になって、ずぅっと探しよった」

 どこか遠くに想いを馳せる声音で、三倉が言った。裕紀は三倉を見上げる。

 三倉と距離を置きたかったのは事実だ。だが、それは三倉のせいではない。非常に勝手な、裕紀の都合だった。

「――何でお前が、志望校変えたんか分からんかった。卒業して、引っ越しやら何やら落ち着いて、連絡しよう思うたら携帯もメールも通じんかった。誰に聞いても連絡先も分からんし、様子を聞こう思うてもコッチに実家もなァし、ほんまに生きとるんか死んどるんかも分からんでから……」

 ゆっくりと、三倉が裕紀へ視線を向ける。

 静かな声音、凪いだ表情、月光に照らされるそれは、感情を殺した無表情にも、万感の想いを込めた顔にも見える不思議なものだった。

「…………ごめん」

 他の言葉は出てこない。ただ、心配させて傷つけたのだと知って悲しかった。

 同時に、心配して、傷付いてくれたことが嬉しかった。我ながら醜い感情だな、と心の隅で苦笑する。

 自分ばかりが彼の姿を追っていたわけではなかったのだ。想いの形は違えど、三倉も裕紀との関係を大切に思ってくれていた。なら、それで良いじゃないか。今度こそちゃんとそう思えた気がして、裕紀はほんの少しの苦さを飲み込んで微笑む。

 ――ありがとう、心配してくれて。そう口にしようとした裕紀の頭を、突然三倉が抱き寄せた。

「じゃけぇ、もう居らんよならんでくれェや」

 長い腕でぎゅっと頭を抱え込まれ、胸元に押し付けられる。

「どがな風に好きとか、嫌いとか、よう分からんけど……お前を今日このまんま帰したら、はァ二度と会われんのじゃろ……? じゃったら帰さん。新幹線に間に合わんよんなるまで離しちゃらん」

 言われて、今さっき飲み込んだはずの苦くて熱い塊が喉元をせり上がる。

「……っ、そんなことっ、言わんでや……!」

 絞り出した声は無様に掠れていた。

「嫌じゃ。離さん」

 もう一方の腕が裕紀の背中を抱き、完全に腕の中に閉じ込められる。頭一つ分近く背の高い三倉が、俯く裕紀のつむじに顎を乗せた。

「俺の知らん所に行って、知らん奴らと仲良うなって、知らん髪型んなって、知らん服着て……どんどん俺の知らん人間になってくんじゃろ。俺のことなんぞ忘れてから、親友やら恋人やら作って……相手が男やら女やらそがなんどうでもええ。俺じゃないのが面白うない」

「離して」

「嫌じゃ」

「離してや! 忘れたり、せんけ……。絶対、忘れるわけないけ……!」

 忘れようとしたところで、忘れられっこない。きっと一生この胸に抱えて生きて行く想いだ。ぼろぼろと涙が零れる。言葉と裏腹に、裕紀の両手は三倉のシャツの背を握りしめていた。額を肩口に押し付ける。三倉の体温と鼓動が、肌で直接感じられる。忘れやしない。忘れられやしない。今五感で感じる全てを脳裏に刻み付けて――明日からを、生きて行ける。

 だが、きっともう会うことはないだろう。

 当たり前の友人のように付き合って、何も意識も期待もせずにいられるほど、この感情は軽い物ではない。一度知ってしまった胸の温かさを、腕の力強さを、忘れたふりが出来るほど裕紀は器用ではない。

「嫌じゃ。離されん」

 更にぎゅっと抱きしめられる。嬉しい。悲しい。離して欲しい。離して欲しくない。相反する感情は頭の中でせめぎ合い、言葉にならないまま嗚咽と共に溢れ出る。裕紀を閉じ込める腕も揺るぎもせず、ただ潮騒だけが響く海辺は時が止まったようだった。

 本当に、時が止まれば良い。ずっとこのままなら。

 そんな裕紀の願望を無情に押し流すように、満ち始めた波が足元の砂を攫って行く。ひと際大きな波が打ち寄せ、三倉にしがみつく裕紀のくるぶしを濡らした。もう、予定の電車は行ってしまっただろうか。

「なら……僕はどうすればええん?」

 震える声で裕紀は訊いた。どうすると言えば、許してもらえるのだろう。また連絡すると約束して、LINEのアドレスを交換して、長期休暇には帰省して会いに来れば良いのだろうか。この熱くて苦い想いを押し殺して。

「それを訊くんは俺のほうじゃ」

 そう言って、ぐしゃりとひとつ裕紀の頭を掻き混ぜた三倉が腕を緩めた。馴染んだ体温が離れれば、海風がひやりと裕紀を冷やす。名残惜しさをどうにか堪えて腕の力を抜き、裕紀は三倉を見上げた。月明かりに輪郭を溶かす精悍な顔が、柔らかく微笑む。

「俺はどがァすりゃあええ? どうしたらお前はずっと一緒におってくれる? 言うてくれりゃあ、何でもするで」

「何でもって……」

 そんな無茶な。手を繋いで、抱きしめ合って、キスをして、そして――努力する、で出来る行為ではない。そんな無理は欲しくない。悲しい思いをするだけだ。三倉の言葉が酷く無責任に思え、少し腹の立った裕紀は憮然と口をとがらせる。

「じゃあ……きす、して」

 出来るものならば、今ここで試してみるがいい。無理と言われれば傷付くことは承知で、半ばやけっぱちで裕紀は言った。

 言った言葉の恥ずかしさに、更に口をへの字に曲げる。その唇を、柔らかいものが覆った。

「……っ!!?」

 ちゅ、と軽いリップ音のあと、間近で満足げな吐息が聞こえる。

 あまりにアッサリ降ってきた唇に、頭が追い付かない。

「ならこれで、はァ今日の新幹線は諦めるんじゃの?」

 よしよし、目標達成、とご満悦の三倉が、今度は額の生え際にくちづけを落とす。

「な、ちょ、そんな……普通に…………!」

 真っ赤になってわななく裕紀の顔を見て、三倉が面白そうに眉を上げた。

「意外と全然平気じゃったのォ。ゆうか真っ赤でかわええのォ」

 うははははは、と楽しそうに笑い、ぐしゃぐしゃと両手で裕紀の頭をこね回す。物理的にも精神的にもぐるぐる回る世界の中、裕紀は何とが次の言葉を返した。

「ゆって、じゃあ僕今晩どうすればいいんよ……!? こっちに泊まるトコ無いんじゃけど……!」

「そがなん、ウチに来ればええじゃなァか」

 さも当然、と断言されて更にめまいがする。どこまで期待しても良いのかサッパリ見当がつかない。どこまで分かっててやっているのかも分からない。お手上げだった。

 ううう、と困り果てて唸る裕紀にひとつ笑い、携帯を取り出した三倉が時間を確認する。

「あー、もう八時回っとるわ。足も冷たいし帰ろうで。夜もどっかで食べよう思うとったけど、これじゃァ店で目立つしのォ……ウチに何ぞ食うモンがありゃァええが……今一人暮らししとるけぇなァ」

 ふむふむ、どうしたものか。大真面目に思案顔をする三倉をかるく睨めつける。まるで何一つ重大事など起こらなかったような態度だ。非常に釈然としない。

「なんでそんなに普通なんよ……」

 一日分の気疲れがどっと押し寄せて脱力した裕紀の言葉に、うん? と三倉がひとつ笑った。

「全然普通じゃなァで? ――お前、お前を見つけるんに俺がどれだけ苦労した思うとるんなら。ネットやらフェイスブックやら大して使うたことも無ァのに。友美がアレならお前の名前で探せるかもしれん言うけ、検索したけど同じ名前のモンがようけ居るし。お前、写真も顔が分かるようなの載せとらんし、出身地やら卒業校やらも全然公開しとらんじゃろ」

 そういえばそうだった。ほんの知人との連絡手段としてアカウントを持っている裕紀は、ほとんど情報を公開していない。名前自体、ローマ字表記のみで漢字も分からないようにしてある。

「え、じゃあどうやって僕が分かったん?」

「んー、分からんかったけ、とりあえず可能性ありそうな奴にみなメッセージ送ってみた。三つ四つおんなじ名前があったかのォ……」

 のんびりそう言った三倉が、裕紀を見つめて目を細める。

「五年も六年もかけてやっと見つけたんじゃ。また逃がしてしもう分かっとって、離しちゃれるほど俺の心も広うない。お前の荷物がそんだけなの見た時から、絶対新幹線乗らせちゃるまァ思うとっただけじゃ」

 低く優しい声音で告げられる言葉が、甘いと感じるのは裕紀の勝手な願望か、それとも。勘違いでも良いから、その希望に縋ってみたい。そんな誘惑に、結局裕紀は抗えなかった。

「うん……なら、三倉のウチに泊めてや」

 吐息のように返した言葉に、おう、と三倉が頷いてからふと思い付いたように続けた。

「そう言うたらお前、まだ俺のこと名字呼びなんじゃいのォ。……そうじゃ。今日からお前、俺のこと名前で呼べーや。したら泊めちゃる!」

「はぁっ!? ウチ帰らしてくれんかったの三倉じゃろ!? なに言うとるんよ!」

 無茶苦茶だ! と怒る裕紀を置いて、三倉がばしゃばしゃと波を蹴って岸辺へ向かう。

「ほれ、早よせんと置いて帰るで!」

「ちょ、最悪……!」

 三倉の半分くらいしか無さそうな薄い肩を怒らせ、裕紀は怒って勝手な男の後を追った。防潮堤の上に立った相手が、いたずらっぽい顔で裕紀を見下ろす。そして、ふと水平線へ視線を上げて呟いた。

「――綺麗じゃのォ」

 その視線を追って、裕紀も後ろを振り返る。

 白い月に照らされた海が、きらきらと水面を光らせていた。砂浜に寄せては返す、白い波。浮かぶ島々は藍色の世界に沈む影絵となって、こんもりと繁る木々の葉を淡く光らせている。沿岸を走る道路の街路灯がその縁を彩る光の点描となり、景色を彩っていた。

 子供時代をずっと優等生で通した裕紀は見たことのなかった、月影に光る夜の海だ。

「うん……」

 頷いて、ぶるりとひとつ身震いする。十月の夜、足を濡らしてしまえばさすがに冷えた。光る海岸から視線を離し、再び三倉を見上げる。気付いた三倉がうん? と裕紀に視線を合わせた。

「三倉…………た、たくま」

 恥ずかしい。名前ひとつ呼ぶのが死ぬほど恥ずかしい。そのぼそぼそと呼んだ名を確かに聞き取ったらしく、三倉拓馬が笑った。

「帰ろうで! 裕紀」

 当たり前のように差し伸べられた手を握り、防潮堤の側面に足をかける。軽々と引っ張り上げられて、手を繋いだまま車へ走る。やがて発車する紺色のデミオを、白い月が照らしていた。

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