第2話


 ゆるりと弧を描く海岸線に、白い砂浜が細く続いている。途切れた先には磯が鼻っ面を出して松を一本生やしていた。今も変わらず後輩たちが走るのか、砂には幾つもの足跡が刻まれている。

 ふかり、ふかりと革靴が沈む乾いた砂浜の上を、裕紀は三倉の後を追って歩いた。チャコールグレイのスキニージーンズに砂がかかる。ああ、車に砂が上がるな、などと思いながら、裕紀のものより一回り大きな、三倉のスニーカーの足跡を踏んでみた。

 大きな歩幅、大きな足跡。すらりと高い均整の取れた長身に、実用的に鍛えられた逞しい筋肉。視線を上げると、五歩くらい先に大きな背中が見える。季節の割合いに薄着な長袖のシャツに、その立派な体躯の線が浮き出ていた。

 裕紀は三倉拓馬のことが好きだった。

 親愛、友愛の類でなく、その背中に触れてみたいと思っていた。

 高校時代から体格に恵まれていた三倉と違い、裕紀は骨格も細く筋肉もない。ひょろりとした、という表現が一番似合う薄い身体へのコンプレックスの裏返し。そう言い聞かせて気持ちを宥めていられたのも、気持ちを自覚してからせいぜい半年程度だった。

 羨望でも、憧れでもなく、ただ触れたいのだと自覚した途端に、三倉の隣は酷く気詰まりになった。シャツの襟元から鎖骨や胸元が覗くたび、無邪気にじゃれついてくる三倉の体温を肌で感じるたびに居たたまれなくなる。

 三倉を意識するようになってからの約一年は、裕紀にとって一番辛かった――と同時に、今までの中で一番幸せだった時間だ。二人だけならば気詰まりになったかもしれない部分は、増岡が上手く緩めてくれた。増岡を疎ましく思ったことはない。周囲から二人がお似合いカップルと見られているのも知っていた。

 だから、卒業を控えた冬休み明けに、二人が付き合い始めたという噂を耳にした時も「来るべき時が来たな」というのが最初の感想だった。卒業して、別れ別れになってしまう前に想いを伝えたい。誰だって思うことだ。無論、裕紀もそう思った。裕紀の場合は到底実行は出来なかったのだが。

 ただ、二人から直接何も言って貰えないのが酷く寂しかった。

 裕紀には伝える必要がないと思われたのか、伝えれば気まずくなると思われたのか。後者ならば事実なのだが、友人として信じて貰えなかった分のショックも加算されてかなり落ち込んだのを覚えている。そして、その遣る瀬無い気持ちの勢いのまま、志望校を隣県の大学から東京の大学へ変えた。家族の不幸などもあり、全てリセットしたくなったのだ。

 物思いに沈んで歩いていた裕紀の頭上が、不意に翳った。

 裕紀よりも頭一つ分背の高い三倉が、立ち止まって待っていたのだ。上段から降ろされた大きな手のひらが、俯いていた裕紀の頭をぐしゃりと掴む。

「うぁっ……!?」

 完全に不意打ちだった裕紀は思わずつんのめる。それを意に介した様子もなく、三倉はそのままぐしゃぐしゃと裕紀の頭を掻き混ぜ始めた。

 気恥ずかしいし、男同士と思えば何とも居たたまれないのだが、裕紀にとってこれは「初恋の相手との再会」なのだ。一応身だしなみには気を遣って、髪も出来るだけ整えてきた。それを三倉が全力で崩しにかかっている。

「ちょ、何するん!?」

 何とかその腕を払いのけて噛み付けば、予想外の晴れやかな笑顔が返ってきた。

「っへへ、言葉、訛っとるで」

 物凄く嬉しそうにニッカリと笑われて、しばし呆然とする。

 ぽかんと突っ立った裕紀を置いて、三倉はくるりと背を向けた。そのまま歩き出しながら、三倉は明後日の方向に喋り始める。

「それに、そうやって前髪おろしとるとやっぱり裕紀の顔じゃのォ! 髪は染めとるし、髪型も変わっとるし、格好も何かえらい洒落とるし。ほんまに裕紀なんじゃろうか思うたわ!」

 歩幅の大きな三倉の背を、裕紀は小走りに追う。周囲に人影はないが、潮騒に負けじと声を張る三倉はかなり恥ずかしい。やめてや。と小さく裕紀は呟いた。頬が熱い。

「言葉もように標準語でから、都会人になってしもうたんじゃのォ、思うたら結構俺も――」

 言いさして、立ち止まった三倉が振り返る。

 大したことを言われているわけではない。分かっている。ただの友人としての言葉だ。そう己に言い聞かせても、裕紀の鼓動はばくばくと騒いで止まらない。

「俺も、結構寂しいわ。のぉ、裕紀。お前にとって、ここは……俺らは、俺は、もうように過去のもんなんか? 俺はずっとお前のことが好きじゃったし、ずっと一緒におりたかったんじゃけど、お前はちごうたんか?」

 真摯な声音が耳に刺さる。裕紀は止まった足に視線を落とした。浮かれ騒いでいた心臓が、突然全く別の意味でどくりと鳴った。

 違わない。だが、違う。「好き」の種類が決定的に違う。だからこそ、一番聞きたい相手からの、一番聞きたいと願った「好き」という単語が裕紀の胸を突き刺した。

 もういっそ、全てぶちまげてしまおうか。全て白状して、別れて、それでも昨日までと変わらない日常が帰ってくるのだから。たった一度だけ、再会しただけだと、本当に過去にしてしまおうか。悩む裕紀の拳が震えた。

「……増岡さんと、付き合っとったんじゃないん?」

 絞り出した言葉に、怪訝げな声が返る。なぜここで問われるのか、三倉には分からないだろう。

「ん? ……いいや?」

「けど、三年の冬休み明けに……」

「そんなん誰かの嘘で。俺と友美が付き合うゆう話になったら、お前に言わんわけないじゃろうが」

 心底呆れた声が、心外だ、と抗議する。嘘とは思えぬ声音に、裕紀は思い切って顔を上げた。これでひとつ、友人としての裕紀の心は救われた。

「……なら。僕が三倉のこと…………」

 好きだと言ったら? その言葉を、結局裕紀は口に出来ず黙り込む。ざざぁん、とひと際大きく打ち寄せた波音が、二人の間に響いた。言葉の代わりに溢れ出した涙と共に、裕紀は俯く。拳を握って黙り込んだままの裕紀に、そっと三倉が近寄った。

「何? 聞こえんかった」

 深く優しい声音が促す。思わずしゃくり上げると、ぽたぽたと涙の雫が砂を濡らした。言えない。言えば、「親友を」思い遣ってくれた三倉の優しさを裏切る。想いを言葉にも出来ず、だがこの状況で、ただの「数年ぶりに再会した親友同士」のふりをするのも無理だ。

 ふ、と残念そうな吐息が聞こえて裕紀は肩を震わせた。

「のぉ、俺はお前に何かしたんか? そんなに、嫌われるようなことがあったんか……?」

 問う声は酷く悲しげで、裕紀の頭の中は一気に混乱した。そんなわけはない。それだけは伝えなければ。鼓動が早鐘を打つ中、唇を噛んでそれだけ裕紀は決意する。

「違う! そうじゃのォて……! 僕は……!」

 真正面、目の前に三倉がいる。優しげな、少し悲しげな光をその目に浮かべて、真っ直ぐ裕紀を見ている。改めて、大好きだなぁと裕紀は思った。三倉のことが大好きだ。だがもう、その大好きな相手を裏切らずに済む方法を思い付かない。

「――僕は、三倉のことが好きじゃった。三倉が思うてくれるんとは違う意味で……その、三倉の、こいびとに、なりたかった…………」

 言ってしまった。変化する三倉の表情を見ることが出来ず、裕紀の視線は再び彷徨う。

 沈黙の中、潮騒と遠い海鳥の声ばかりが響く。傍らの道路を車が走り抜けて行った。

 ううーん、と三倉が唸る。困惑気味の声に、身を縮めて裕紀は審判の時を待った。

「どう……言うたらええか分からんのじゃけど……。そんなら、俺のことが嫌いとか絶交したかったいうワケじゃ無ァんじゃの?」

 そっと確認する問いに、うん、と頷く。

「なら良かった! 行こうで! 学校の前の通りにあったお好み焼き屋で昼食おうや!」

 問答無用で片腕を取られ、裕紀は砂の上でたたらを踏んだ。よろめく裕紀を危なげなく支え、三倉が裕紀を引っ張る。先ほどの言葉は本当に届いていたのか、と裕紀は不安になったが、三倉を引き留めてもう一度告白する勇気はない。結局、三倉に引きずられて車に戻った裕紀は、黙って助手席に収まった。

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