不思議妻

@kuratensuke

第1話


不思議妻

                 十津川 会津

 

武田尾温泉


                 Ⅰ


兵庫県の山間部宝塚と西宮の地にその温泉はある。何でも、関ヶ原の戦いに敗れた豊臣方の落武者、武田尾氏が見つけたものらしい。若いころからこの地に親しんだ私は、武田尾の紅葉が好きで、よく、福知山線の列車で観にいったり、サイクリングをしたり、免許を取ると、ツーリングやドライブと洒落込んだ。また、今は無くなったが以前、福知山線は、単線で、電化もされておらず何処か忘れたが、操車場で列車同士がすれ違う間、待たされていた気がする。伊丹から放課後に友達と連れ立って列車で遊んだものだ、スピードが遅くて、ゆっくりとしていた。ゆっくり走るのを好いことに、手で開け閉めすることが出来るドアで、開けたり、閉めたりしてススキを取ったり、柿を取ったりして遊んでいた。車掌に見つかり、ときどきお目玉を貰うのだが、頓着せず悪いことばかりして高校生活を楽しんでいた。役所時代には忘年会が開かれたりして、何度も泊まり、極めて通いつめた土地である。今は列車で行くと、武田尾温泉口、武田尾と言う駅に出る、高い山肌の武庫川鉄橋を渡ったトンネルの、抜け穴の中にその駅はある。

その日、妻と私は、紅葉を観に武田尾に出かけて行った。秋も終盤に差し掛かり、紅葉も色褪せているか、と思えば、武田尾が山間にある事と高さが関係したのか、まだ紅葉は充分で見た目の景色は、鮮やかですこぶる美しい。

もみじや楓の葉が重なり合い、赤く染まる、何の木か名前は知らないが、黄色く染まる葉との色合いが堪らなく美しく、有頂天にさせてくれる。それらが二人の周りを包み込んで、日常生活から脱却させてくれた。

駅から降りてくると、右と左に別れる道に差し掛かるのだが、経験から右に折れて紅葉の美しい道を選んだ。写真を取りながら、妻の機嫌を取りとり、散歩していく、やがて大きな橋の袂に着き、左脇にある土産物屋でサイダーを二人で飲んだ。

飲み終わると橋を渡り、右に折れて見た。見たところあまり紅葉も無くて、ただの国道のように見える、引き返してまた橋の反対側の袂で折れ、橋を戻り、サイダーを飲んだ土産物屋に戻る。

また来た駅への道を歩きながら、

「今度左の方へ行ってみるか?」

妻は、無言で頷く、そうして、手を繋いでみるか、等と妻を茶化しながら散歩した。

程無く、道は川沿いに右にうねり、とある新しい旅館かホテルとも区別できない、ログハウス調の建物に出くわした。何処かな、と想像しながら、ホテルの名前を探しだしたが見つからなかった。

紅葉館は向こう岸だしなあ、また新しく進出してきたホテルグループだろう、とその時は合点した。そのホテルは、道のうねりと共に崖にそびえたつ、その下50mほどの川沿いにコンクリートで覆われた足湯らしいものが見えてきた。足湯の手前で石碑らしきものを見つけて立ち止まると、

「二〇〇四年台風被害慰霊碑」と大きな石に刻まれていた。二人はかれこれ、近くだからと、昼過ぎに芦屋の家を出た事もあって、その足湯に着くころには日が陰りだしていた。

近づいて見ると、数人の家族連れと一人の女の人が足湯につかっていた。

「混ぜてもらいますね」と、お愛想を言いながら私と妻も足湯に入る、少しぬるめの湯が足に滲みわたり、心地よい。旅の疲れとまではゆかぬが、歩いて数キロの道のりは足湯

につかるには充分な疲労であった。やがて家族連れは、そそくさと、足湯を後にして私達

が来た方向に帰って行った。

残された女の人と私たち夫婦は、それとなく、足を湯の中でブラブラさせたり、湯をもっと上の方まで掛けて見たりする。私などは、指の間に手の指を組み込ませ、曲げたり、戻したりしていた。

私はふと、手持ちぶたさと無口な妻との間で間が持たなくなり、年の頃なら三十前後の見知らぬ女の人が気にかかった事も相まって、声をかけて見た。

「どちらから来られました?」

「そっちの方からです!」と指さした彼女。

何か茶化されたような気がして、私は押し黙った。

そっちの方とは彼女からすれば、私達やさっきまで居た家族連れが来た方向とは反対の方向を指さしている、言わば、山や川しか無く、道など何処にも無い。

そのくせ涼しそうな目をして石に座って足をブラブラさせている、頭か何か可笑しい人か、と思い、私は様子を見ていた。それからとりとめも無く、一言、二言、声をかけたが、返る言葉は、はい、と、いいえ、ばかりでつまらなくなってきた。

妻は横に座って先程から私たちのやり取りを聞いている。それから何時程、経ってしまったのか、辺りにもう陽の影すらなくなってきた、相変わらず、彼女は涼しい目で川の方を見ている。

私たち二人も、もう帰ろうか、と立ち上がった。

「ほな、お先、失礼します、もう帰りますわ!」

少し寂しそうに、彼女は頷いた。そして私と妻は靴を履き、歩きだした。振り返って帰り際、若い彼女に夜道は危険だと伝えたいので、老婆心ながら私は、言った。

「日、暮れて危ないでっせ、はよ出て帰りなはれや!」

彼女はきらりと目を輝かせ、

「出れないんです!」

と困った様子で言って、相変わらず足湯に浸けたまま、涼しい目つきで川を見つつ、足をブラブラさせている。

私は、足を出すと寒くて、長く足湯に浸かっていたいのだろう、と勝手に解釈して、その場を離れた。

帰り道、駅に着くと二人とも疲れたのか席に座り、少し眠り、やがて宝塚駅に着いたので、乗り換えるため電車を降りた。阪急に乗り換えて、居眠りをしながら座席に座っていると、ふと不安がよぎった。

「出れないんです!」彼女の一言が気にかかり、あれこれ思いを巡らせていると、いつもは、無口な妻が言いだした。

「さっきのあの子、大丈夫かな?」

「大丈夫って? 何が?」と返す、

「あそこの駅も、あの辺りも、もう真っ暗ちゃう?」

「そらもう一人で、帰りはるわな! 子供じゃあるまいし!」妻がやにわに、何気なく、

「靴も無かったで?」

言われて一瞬に、背筋に冷たい悪感を覚え、私は、或る思いに囚われた。幽霊、その言葉が思いつく。

「幽霊?」

妻も身を引きながら納得するように押し黙った。家に帰ると慌ててネットで検索してみた。記事見出しにはこうある、

「二〇〇四年十月二十日、台風二十三号により、武田尾温泉壊滅的被害を受ける。」

その他物質的な被害状況や家屋の浸水状況等などが、新聞記事になっていた。

人が亡くなった状況は書かれてはいなかったが、行方不明者リストがあり、当時の数名の行方不明者の中から年のころなら、該当する女性の名前も見つけた。

何でも、家族で療養がてらに温泉に来ていた一家族の行方が知れず、いまだ判らずじまい、との事であった。妻と私は、その夜、ベッドの中で、もし、今日会った人がその被害者の方ならと、想像して冥福を辞めなかった。妻がすり寄ってくるのを抱き寄せ、拒めない私がいた。                                   

                                    


















 

 


               Ⅱ



            マイバス

 


かれこれ4日目になる妻と私の欧州旅行である。5日前に関空を飛び立ち、アムステルダムでトランジットし、ロンドンに飛んだ、ロンドンで2日を過ごし、大英博物館やバッキンガム宮殿、コベントガーデン、ロンドン塔、ビッグ・ベン、変わり種は夫婦共々ファンである、シャーロック・ホームズのベーカー街221Bにも行った。フィッシュ・アンド・チップスも食べてみたけれど、硬くて歯の悪い私には不向きな食べ物だった。今は、大分良くなったらしいが、イギリスの食いものは不味いで有名だ。18世紀の産業革命辺りからますます顕著に不味くなった、働き過ぎて、食いものに頓着が向かなかったらしい、なんかの本で読んだ気がする。毎年ぐらい夏の終わりから、秋の終わりを見計らって妻と旅に出る。

昨日、ロンドンを出てパリに来た、TGVの乗り心地は新幹線とほぼ変わらず好かった。車中では年を取った70前後の女の人と正面に向かい合い、隣にはそれより少し若いブロンドの女性が座っていた、妻は通路側の席に座る、トイレに近いからだそうだ。

青い目の年老いた老女が、珍しそうに此方を見ていた。話し掛けて見ようか、英語で言うには如何いえばいいのか、模索して見たが、否、間違っていたらどうしょう、等などと考える。

これはやっぱり男の俺から話し掛けないとだめだろう、そんな事を考えながら車中の時間は過ぎていく。程無く、気が付くと後ろから、咳の音がしだした、ゴホンゴホン、とかなり酷い、風邪を移されたら旅行台無し、と、避けることが出来るように、なるべく真ん中に陣取るように妻にひっついた。妻は相変わらず、周りの様子や景色が珍しいのか、人物観察などに余念がない。気まづくは無いけれどこんな時、如何にしていいのか、迷ってしまう私だった。

それにしても窓から見る景色は見事であった。田園風景が続くのだが洋画の田園風景が、この様な景色を見て描かれるのだな、と合点がいく。冬の景色なのだが少し海流や温度の差であろう、霧めいたものがたちこめて幻想的で美しい。黄土色に染まる麦畑であろう畑が面々と続く、写真で撮ると、それだけ切り取って幻想的な風景画になる。これは日本では無い風景である、そんな事を想いながら窓の風景を見ていると、前の女性が徐に立ち上がった、そして通路に出て何処かに行った。どうも前に座る東洋人が鬱陶しくなってきたのか、なかなか帰ってこない。やがて列車は、トンネルに入り、下降気味に海底に沈んでいく、いよいよドーバー海峡だなと感じた。暗いトンネルをくぐり終えると、急に明るくなり、其処はフランスで、ノルマンディーにはいった。前の女性と言えば、この頃、席に戻ってきた。さぞ、嫌な思いをしたのだろう、少し酒臭い。旅行は、同乗者によるから、この日は最低だったのかもしれない。1時間の遅れが、アナウンスされていたらしいが、私達夫婦は頓着が無かった。見るものが珍しく、遅れていようが、まだ乗っていたい気がしていた。やがて1時間遅れでパリに到着して、ガイドの人たちが待つ、モン・マルトルのホテルにバスで向かった。

途中には、凱旋門やナポレオンの墓があり、オベリスク様の塔を見ながら、パリの活気が伝わってきた、人々は一様に忙しそうにしている。人も多くて、辻かう交通の量は大変なものだ、ピーピーパーパー、クラクションが五月蝿い。変な気の抜けた音なので余計に調子が抜ける。おまけに、喚き散らすフランス語が、これまた五月蝿い。まるで、大阪のど真ん中の様な気がして来て、イギリスとラテン系の違いを確認した。大阪人は、ラテン系に入ると再認識し、‘イラチ’のフランス人が沢山いる事を知った。そうこう想いをめぐらしているうちにホテルに着いたので、荷物を降ろす。運転手が何もかもしてくれるのだが、此の男は素晴らしくハンサムだ、少々運転は荒かったが、市内はそんな運転ばかりだったのであまり気にならなかった。服装も運転手と言うよりは、ビジネスマン風で若いころのアラン・ドロンを思い出す。

そして次の日になった。その日のパリは、酷く寒く、暗闇に包まれていて、朝早くからマイバスに乗ってモン・サン・ミシェルに行く予定であった。ルが冠頭に着くのが本当らしく、ル・モン・サン・ミシェルが正解らしい、後でガイドに聞いた話である。

 私たちは、朝5時に起きて身支度を済ませ、ホテルを出ようとした。すると、何時もの様に妻の病気が始まった、煙草の火はちゃんと消したか、戸締りはちゃんと出来たか、酷い時になると乗り物に乗った途端に、そんな事を言い出す始末である。

何かあればホテルの人に任せればいい、と窘め、ずんずん歩いていく私であった。

ホテルは、モン・マルトルにあったのでメトロは程近い、1本目が来た時、乗ろうとするとドアが開かない、どうして開けるのか判らないまま無情にもメトロは、走り去る。やばい、遅刻する、と考えたが致し方ない。錯乱していると妻は、隣の車両を見ていたのか、

「ドアは手で開ける見たい!」と言う。

「早よ、言えや!」と、ばかり仕方なくもう一度、メトロの駅椅子に腰かけて次のメトロを待つ、アナウンスは、フランス語と日本語で言ってくれるのでこれは助かる。

やきもきしながらも次のメトロが来た。

今度は、新しいのか手で開けなくても自動で開いた、漸く、メトロに乗り、暫らく行くとパリの中心地に着いた、ヴァンドール広場の近くだと思う。メトロを出て、地上に出ようとすると、60絡みの日本人の女性に呼び止められた。日本語で彼女は、

「どちらに行かれます!」と言い、会釈してきた。

「マイバスですわ!」遅刻するかもしれないので少しぞんざいに答えた。

「私も、そちらに向かうので御一諸させてください!」

こんなパリの真ん中で一人、初老の女性が、不安そうに佇んで、恐らく、言葉の解る日本人を探していたのかもしれない。可哀想に思えた私は、

「よろしいよ! 一緒に行きましょ!」

とさっさと行く、こんなとき短縮できて大阪弁は、便利やな、と一人思いに耽った。

途中で

「なんで一人なんですか?」と聞いてみたら

「主人は、先に行っているので後から来ました!」との事だった。

何や、うちみたいに喧嘩して先に御主人さんは行きはったんかな、と心で思う。

目印で昨日ガイドが、言っていたジャンヌ・ダルクの騎馬像が、暗い所為もあり、全然見当たらない。時間は迫るばかりで焦って来た。腹が立ってきて、心の中で昼間とちゃう時見て言えや、と言った。朝方なのに街灯は、黄色く、光の量が少ないのか、辺りは真っ暗。ジャンヌ・ダルクは何処かな、と、行けども続くアーケイドの付いた通りに嫌気がさしてきた。

仕方なく、英語で通りに立っていた黒人のホテルのボーイらしい男に聞いた。

判らない、と返してきた、アカン遅刻やがな、と挨拶もそこそこに更に足を速めた。

漸く、ジャンヌ・ダルクらしい、昼間に見ると金色に輝くであろう、騎馬像に出くわした。言われたとおりではあったが、暗い時には分からない。

女の二人は、足は遅いが、急いでいるのが判るので必死についてくる様子、

「これ左やな?」妻に聞きなおしてみる、

「そう!」と頷く妻。

左に折れて見ると、マイバスの看板らしきものが見えてきた。

好かった、何とか間に合いそうや、と思いながら、ついて来た初老の女の人の様子を見る、と、チャッカリしたもので看板を見るや否や、私の前を通り過ごして前に出て来た、振り向いて、

「ありがとうございました!」とそそくさと、店の中に入って行く、呆気なく終わる一部始終を、理解出来ずに私達も後を追った。店の中に入ってみると、何処に隠れたのか

先程の女性の姿は、居無くなっていた。

ほっと、一息つく暇もなく、どうやらこの店では無いみたいだ、と気付く。どうも看板やチラシには、モン・サン・ミシェル行きのバスは無い。

それに気づき、妻と又、隣の店を当たる。数軒先で、その目的のマイバスはあった。

漸く、目的地に着き、車中の人となる事が出来た。朝が早いのと気疲れからか、私はすぐに眠ってしまった。

ガイドがモン・サン・ミシェルの説明をしていたらしいが、構わず寝ていた私を妻が起こしてくれたのは、オンフルールの漁港近くであった。

ここは、印象派の画家がよくモチーフにしているだけあって、素晴らしく綺麗な場所であった。

寝ぼけ眼の私にも、その美しさ、素晴らしさが、目に入り、眠りを覚まさせてくれた。

縦に背の高い、色取り取りのレゴ細工を見ているような景色。その前には漁港とは言え、日本では、高級なヨットハーバーの様子であった。

寒さが厳しかったが、トイレ休憩と観光を兼ねての下車であった。降りて見ると、そこは完全に凍りついて歩くのが危うい。

水を買いに出た私は、妻と港の奥の方まで歩いていく、どの景色も少し斜めなどにすれば、そのまま切り取って絵画になる。記念写真を何十枚も撮り終え、水を買い、トイレを済ませてバスに戻る。妻は、女性のトイレが長いのか、かなり遅れて戻ってきた。

半時ほどの休憩や観光の後、目指すモン・サン・ミシェルに向かう。車中でガイドが話してくれたことを要約すると、聖ミシェルが或る日、何処かの教会の神父にトンブ島に(トンブ、トンベは墓の事、墓島、墓山)教会を建てさせようと、夢枕に何度か立ったらしい。ところが、その神父は、感が悪いのか、何度夢枕に立っても理解し無かった。其処で聖ミシェルは、業を煮やし、親指で頭を触り、頭骸骨に穴を開けたらしい。(生命に危険は無かった)漸く、理解した神父は、トンブ島に教会を建てることにする。そういった話の流れで現在の姿になるまで1300年強の時間が流れている、との事だった。

成る程と、頷きながら話を聞いていると、早いもので6時間ぐらいのバス旅行が、あっ、という間の出来事だった。漸く、昼ごはんにあり付く、参道の手前の有名な卵料理店である。なんだか味は有る様な無いような、見た目の大きさと比較すると、なんだかフワフワなだけで高い割には満腹には程遠い、後にはでかい皿が残るだけ。

シードルも、値段の割には臭みが在る様で好きになれなかった。昨日、モン・マルトルのホテル近くで食べたパイとシードルの方が味が断然良い。因みに此の時、若い二人ずれの夫婦らしき人たちがいて、此のマイバスのツアー客では無いにも拘らず、紛れ込んで食事に入ってしまった。すると、数が足りなくなり2つ分、余分に作らねばならなくなった。

これは可笑しい、と、ガイドが再度チエックしたところ事前に頼んでないのに食ったやつらが判明した、中国人か、という気がした。可笑しくて仕方がなかった、ガイドの慌て様は無い、目が点になり空を彷徨っていた。事は中国人たちも一緒で、鳩が豆鉄砲を食らった体の雰囲気であった。旅ではこんな事があるから面白い。結局、中国人たちは高額な請求書を回されて、カードで支払っていた。

ここを出ると有料トイレばかりだと言うので慌てて、トイレに駆け込む。皆、用を足していた、若い背の高い男たちばかりなので足が長いのか、トイレの背の高い小便器に構えると、私等は引っ付いてしまうのではないか、と心配になった。何とか済ませて、外に出る。歩きながら、モン・サン・ミシェルに向かう。外は、晴れ晴れと天候にも恵まれて、美しい景色ばかりが広がっていた。

若い時に、来た事がある妻は2度目の観光である。心持ち左に折れて、正面に門を見る頃には、モン・サン・ミシェルの姿は見えなくなる。下から見ると、何だか、高い城壁だけが迫り、何が何だか外形が判らなくなる。門を右に曲がり、道なりに行くと、左右に土産物屋が軒先を連ねている。ホテルもあり、さっき食べたのと同じ卵料理店もある、何とかいうおばさんの店ということで、創業元らしかった。

軒先で歩みを留めて、暫らく見ていると、リズミカルに卵を溶いている二人の民族衣装の男と、焼くのが専門の一人の年配の女性が、立ったまま忙しそうに、大きなボールに入った卵を溶く。パカラン、パカラン、パッパと音がする、適度に出来上がると、これまた大きなフライパンに移し変えられ、ジューと言う音がする、パカラン、パカラン、ジュジュジュー、それのリズムの繰り返しだ。

面白くてリズムに乗っていると、ガイドが見えなくなった。慌ててその場を去る。長い坂と階段を繰り返しながら進むと、漸く、入口に着いた。入場料を払おうとすると、どうも様子がおかしい。今日は、No PAY らしい。何故かな、と聞くとストライキをしていた。何でも従業員用のここまで来るバスが、廃止されるらしいのだ、それを抗議しての事だった。

ラッキー、とか言う若いツーリスト達も居たが、金を払わないのが申し訳なく、抵抗があった。たった、5ユーロでこんな世界的遺跡が見られるのに値切るようでは、落ち着かない。

そうこうして中に入ると、刑場だという説明があった場所に出る。人が二人で回すぐらいの人力水車の様な構造物と出くわした。荷物を上に挙げるものらしいが、罪人がこれを回して片方に乗せた荷物や人を、上の階に運ぶ為のものだそうだ。偶には死人や動物の死骸を乗せたらしく、見ているだけで気持ちが重くなって来た。

らせん階段を上る時の様にぐるぐると頂上に登っていく、まるで迷路の様。軽い眩暈を感じながら、登っていくと中庭らしきものに出る。其処から下を見ると絶景であった。

穏やかではあるが迫りくる潮が流れ、干満の差が激しいので命を落とした巡礼者たちも居たらしい。それに、潮の干潮時には地面が顔を出すのだがこの泥の様な地面が、また難物で底なし沼の様に人命を奪う。ガイドの説明を聞きながら、写真を取るのに忙しい私であった。

チャペルではゴシック様式とノルマン様式が一目で判然する、ここら辺がゴシックで、ここら辺がノルマン様式だな、とわかる。後ろ側の座席天井を見ると、ノルマン様式が残り、前の聖堂方面はゴシック様式が残る。

間に挟まれるように聖ミシェルの小さな像があり、聖堂と座席部分を別けて、正面左側の5m辺りの高さに鳥かごの様な物を持って、こちらの座席側を見ている。

出口辺りには、修道院塔の尖頭に立つ聖ミシェル像の実物模型がこちらを見ていた。改めてこの大きさの模型が塔の上に立っている事から考えると、モン・サン・ミシェルの大きさが判る。出口の像で3mぐらいの高さがあったと認識する、それが外に出て見て見ると意外にも小さくて見えない。そうこうして帰りの階段を下り、元の街並みに戻ってきた。

徒歩で雄大な景色を後にしながら、モン・サン・ミシェルの観光も終わり、パリに戻った。

パリに戻るともう辺りは、暗闇で街の明かりしか残っていなかった。

これから食事を如何しょうか、と考える。妻は疲れ知らずで、まだ観光してみたいという、夜の8時過ぎから行けるとこなんて知れている、明日、出直して朝から回ろうか、と言うが言う事を聞か無い。十も年離れてりゃしょうがないか、と諦めて妻に従うことにした。

妻は、ヴァンドール広場の方にずんずん歩いて行くのだが、シャンゼリゼ通りに行きたいらしい、方向が違うのは分かっていたが意地悪く従ってみる。程無く、不安げに此方を妻は、見だした。

「何処やろ!」

「そんなん知るかいや! どこ行くねん!」

「シャンゼリゼ通り!」

「こっちやがな!」

セーヌ川を渡って、凱旋門の正面からシャンゼリゼ通りは続く、寒いのだが人々の往来と、熱気でシャンゼリゼ通りは賑やかだった。

二人でソーセージのチーズ入りをほおばる。格別にうまい、腹が減っているので何でもうまい、早く飯食いに行こうと歎願する。妻もようやく納得したのか、レストラン探しに協力してくれ出した。オペラ座界隈に出向くことにした。メトロに乗り、また開かないドアを今度は、手で開けて乗れた。オペラ座に着くころには、十時を回り、治安が心配になってきた。

妻は、そんな気持ちとは裏腹に機嫌がすこぶる良い、いくら日本人の多い地域だとしても深夜の日本人の二人連れは、危険だろうと考える。そんな事を考えながら、オペラ座を右に見ながら、ガイドから紹介されていた、モダンなアール・ヌーボー様式の建物に入る。小さなテーブルが、用意されて二人は座り、タラ系の魚かなんかで腹を満たした。ワインを頼み、ビールを頼んだ、シードルも飲んだ、そうこうしていると酔いがまわり、パリにいる事を忘れ、ここに住みたい気がして来た。

ここは大阪の居酒屋と一諸の雰囲気である。形が変わり、言葉は違うが乗りや姦しいやり取りは、建物と言葉を除くとソックリである。

そうやって、パリの夜を楽しんでいると時刻は、十一時を回り、メトロが無くなる時間に近づいた。明日は、ルーブルやオルセー、オランジェリーの各美術館めぐりと決め込んでいたので帰ることにする。

帰りの道のりは、日本語の怪しい店が立ち並ぶ通りを過ぎて、オペラ座に出、夜にも拘らず、写真撮影をしながらフランスの酔っ払い達とメトロに乗ってホテルに帰った。しかして私の写真には、夜のオペラ座しか写っていない。


翌日の美術館めぐりの日は、曇ってしまい、雲行きがあやしい。傘をと思うのだが適当な店が無い。日本ではコンビニという手が在るのだが、このあたりの地理に疎い二人である。仕方なくメトロに乗り、雨が降ってきたらその時だ、と決めて出掛けた。

セーヌ川を行くと、程無く、オルセー美術館が右手に見えてきた、畔のもともと駅舎だった建物である。中は広々としていて駅舎を彷彿とさせてくれる。中は日本人客が多いのか、あちらこちらから日本語が聞こえてくる、昨日の夫婦連れの二人にも会った。此の二人は横浜から参加していて、背が二人とも高く、美男美女である。

マイバスのモン・サン・ミシェルからパリへの帰り道、バスの中でお菓子をあげた、それに卵料理を食べた時やモン・サン・ミシェルの中でも一言二言会話した仲である。

息子夫婦と同じぐらいの年で結婚したばかり、夫婦共に27、8歳前後と聞いた。何故か、この二人が可愛く、話したくて堪らないので声をかける、

「よう御二人さん、また会いましたね、もう、他の美術館回りましたか?」

「ああどうも、いやまだこれからです、明日帰るので今日中に、全部回ろうと思います!」

と、快活な若者らしい返事が返ってきた、

「そうかいな、わしらも今からやがな!」

と言いながら、皆で喫茶店に入る。二人と話をしながら、昨日出会った変わったおばさんの話をした。

「それってマイバスの処まで一緒に連れてって居なくなる幽霊の事ですよ!」

と笑いながら二人は言う。

「えーっ! ほんまかいな? そんなんオンの?」

「少なくとも、東京では有名な、都市伝説的話しですね!」

ぞぞっと背筋に冷たい悪寒が走る。

彼等によるとこの幽霊は、夫にチケットを忘れたと怒られ、ホテルに取りに戻り、マイバスに帰ろうとメトロで戻る途中に誰かに殺ろされてしまい、セーヌ川に死体を投げ捨てられていた。無念が崇り、今でも御主人に似たような人を見つけると、声をかけてマイバスまで連れてきてもらうらしい。

「俺その人に似てたんかな?」怪訝そうに言うと、その夫婦は大笑いしだした。

「嘘ですよ!」二人でケタケタ笑う、奥さんなんか私の顔が、恐怖でひきつったのが面白かったのか、腹を抱えながら笑っている。

「大人をからかうのもええ加減にしなさい!」二人を窘めて別れる。

二人は楽しそうに笑いながら、コーヒーを飲んで帰って行った。妻がサンドウィッチを頼んでいたので、別れた後も椅子に腰かけていた二人だった。

が、妻が口を開く、

「でも冗談にしても、あのおばさん何にも持っていなかったよ! 私、変やなあ、と思ってたもん!女の人やったら、カバンかポシェットぐらいは持ってくるんちゃうかな!」

と又、気色悪い事を言い出した。

何にも持たないでバス旅行に出かけて来るのは確かにおかしい気もする、少しは持ち物を入れるポシェットか小さなカバンぐらいは持って出るかもしれない。ましてや、女性ならば尚更の事だ。

それからと言うもの、後で回ったルーブルやオランジェリー美術館の事は、上の空の私があった。頭の中でぐるぐると、あの時のおばさんの事を思い出しては消して、消しては思い出す。

こうやって、彼ら夫婦の話が一段落着いたかと思うと、又追い打ちを掛けるように不安を提供してくる。

妻はいつもそうである。武田尾の時もそうだが、何気なく帰ろうとして、好い気持ちに浸っていると、冷や水を浴びせるように不思議な事を言う。

多分霊感が強いのではないのか、不思議ちゃん、という言葉が流行りであったらしいが、妻にはそれがピッタリなのだ。

武田尾、マイバス、共に如何考えても幽霊は出た。兎に角、不思議ちゃんの変な想像力、霊感には圧倒され、閉口する私がいつもいる。セーヌの流れは鼠色に染まり、それを見ながら物思いに耽る私であった。                 


                               完

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