700年の刺客
@kuratensuke
第1話
七〇〇年の刺客
十津川 会津
そこから先は、一寸先も見えないほど闇がまわりを覆う。
海に乗り出して三日、船旅もなかほどにさしかかる頃、大時化に襲われた。
船の明かりは消え果て、夜空に星ひとつない。
命が危うい状況で船は横から前後からと、所かまわず時化を浴びる。
私はマグリブ出のバクルと言う人と居た、船室の闇はいよいよ私を恐怖に落とし入れる。
彼に海の様子を調べてもらおうと甲板に出るように命じた。
彼は言われたように甲板上に上がって行き、再び船底にある部屋に戻ってくると、
「もはや万事、神にお任せするしかありませんイヴン様」
私の方に向かって言った。
其れから数時間の恐怖の渦の中で突然に経験した事のない嵐に襲われた。
風向きが変わり、我々が出発したサヌーブの町の近くまで舟が押し戻されてしまった。
商人たちはその港で降りたがっていたが、私は船のバランスを考えて船長を通じて彼らの下船を止めさせた。
やがて風は平常な状態に戻り、我々は再び船出したが、またしても途中まで航海したところで海が荒れ、前回と同じような有り様となった。
しかし、今回はその後順風となり、陸上の山々を望むと我々の船はカルシュと呼ばれる港を目指して進んだ。
ところが、我々がその港に入ろうとした時、彼方の山上にいる人々が我々に入ってくるなと言う合図を出していた。
恐ろしくなった我々は、軍艦が隠れていると思い込み、陸地にそって船を沖に戻した。
陸に再び近づいた時、船長に、
「其処に下りたいのだが」
と言うと、彼はこの海岸で下ろしてくれた。
遠くに教会が在るのを見てそこに向かって進むと、一人のキリスト教修道士を見つけた。
教会の壁には、ターバンを巻き剣を下げたアラビア人の絵が書かれていた。
片方の手に一本の槍を持ち、面前には火のともったランプが置かれている。
「この絵は何ですか?」
「この絵は預言者アリーの絵ですよ」
私は驚いた、想像との違いがあまりにも大きい。預言者アリーはこんな顔をしていたのか、驚きとともにこの絵の中に威厳さをも感じ た。
その夜はこの教会で泊めてもらう。
我々は鳥肉を料理したのだが、海の匂いがしみ込んでしまい、まったく食べられる代物ではなかった。
我々がおり立ったこの場所は、ダシュト・キフジャクの名で知られた平原の一地方であった。
トルコ語でダシュトは平原の事、この平原は草の緑もあり花も咲くが、樹木、山、丘陵や溢道もなく、したがって薪木もないので人々はタザクという獣糞だけを燃料に使っている。
彼らの長老などは、糞を拾い集め自身の服の袖に入れる。
この平原を旅する時には必ず荷車を使うが、平原は全体六ヶ月の距離が在る。
その内の三ヵ月はスルタン=ムハンマド・ウーズバクの領土、残りが彼以外の者の領土であった。
「うあぎゃー」
その声は声とも言えない、ましてや人の発する声でない断末魔のさけびであった。
首がもげ落ちザックリと断面が露わになる、独特のにおいを放ち、ザクロを割って血が滴り落ちている様である。
山の中での叫び声にこだまして周りの鹿か何かがざわめき、走り逃げたようだ。
「やっと殺したぞ」
「まさかこんな十津川の山の中まで追いこまねばならないとは……」
二人はトルコ産の葉巻たばこに火を付けた。
「兄貴、こいつの死体はどないする?」
「かめへん、そのまま鹿の餌か猪にでも食わせてまえ」
二人の男たちは、山の藪の中へ消えて行った。鹿が草をはみながらその様子を眺めている。
目が張り裂けんばかりに見開き、ザクロと化した人の頭を見ているものがあった。
「うっつ」嗚咽が走る。
「やっと声が出せるわい」
畑仕事を終え、山に芝刈りに来ていた五兵衛、凄惨な一部始終を見てしまった。
ターバンを巻いた外人らしき男たちが、一人の日本人で有ろう人間を惨殺して去って行ったのである。
辺りの様子を伺いながら、漸く息つく暇もなく我が家に戻ってきた。
「少し水を分けてください、手を切り、洗いたいのです」
戦慄が走り固まる、五兵衛は家の門前で、先程の男たちと又出会ってしまう。
「どうぞ、お使いください」
女房の小梅が、桶を出して手拭を差し出している。
冷や汗を溜めながら様子をうかがう五兵衛がいた。
「何を流暢な事しよるんよ、小梅……」
心の中で叫んだ。
大正期のここ十津川地方は、農業と林業、土木工事、川流し、旅館、茶店類、土産物屋くらいの産業しか無く、
山を越えて熊野の海に近い地域では、漁師は多数いた。
「お茶でもどうで……?」
「いや、先を急ぐのですいませんが、有難うございます」
「そない言わんと……」
「有難うございました」
そそくさと二人は五兵衛の家を後にした。
入れちがいに五兵衛が帰ってきた。
と言うより避けて、畑の影から二人が出て行くのを確かめてからの帰宅だった。
「おいよ、恐ろしいもん見てしもてよ」
「なんやさ」
五兵衛は後ろを振り返る。二人の姿は、坂を下り、もう見えないところにあった。
「人殺しよ」
言うや否や、
「おいやー」
「まだ聞こえるかもしれんよ、でかい声出すなよ」
「ほんまかえ?」
「ほいよ、簡単に殺したわよ」
「片方がおっそろしいほどでかい包丁みたいなかたな?鉈やなありゃ? で、ぶっつり、首きりよ、つい、それまでよ」
「父ちゃん、ほんでどうすんのよ?」
目を張り裂けんばかりに開け切ってこれ以上無い。
「ほないゆうたら血が洗い流されてたよう?」
「おっとろしいわよ」
「後の事は今は考えられんよって、ハヨ飯食うてハヨ寝よら……」
奇皇后スン・ニャンは、部屋にいた。お付きの女官たちがうちわを扇ぎ、寝屋の空気を冷ましている。
妊娠が八カ月を超え、体がこの頃においては火照って仕方ない。
皇帝の子を身ごもり、皇帝の寵愛を一身に受けている。
今や人生の最高の時であった。皇帝の先妻、タナ・シルリ皇后は、謀反の罪で絞首台に上った。
ヨン・チョル丞相の娘であった。兄のタン・ギセに謀反の罪が着せられて、一族郎党共に絞首刑になる。
「今世においても、来世においても、又その先の世においても、あなたはあなたの道を行き、私は私の道を行く。私に何があろうとも、あなたは気にすることなく、気づくことなく、生きればよい。私もあなたがどうなろうと気づくことなく、気にすることなく、生きよう。気が付けば、年老いて、あなたが居た事も、共に生き、愛した事も、二人の間に愛する子がいた事も忘れて私は死んでいくつもりだ、あなたもあなたの人生をこれからは、生き抜くがよい」
皇帝の妻になり、子が出来た時、あれほど命に代えて愛し合ったワンユ高麗王から言われた言葉である。
自ずと涙が滴る、止まらない涙とはあるものである。
タナ・シルリの陰謀により、ワン・ユとの間の子、マハを亡くした。
マハは最後まで父と母を憎み、死んでいった。
少しでも現世に置いて父母の本当の愛を受けて死ねたら良かったのに……、マハの悲劇は二人の中に深い傷を刻み込んだ。
骨肉の別れを二度も経験せねばならなかったのである。
しかし、スン・ニャンは子が出来、母になる事で、辛さも少しずつ和らいでくるのが不思議とわかるのだ。
「ワン・ユ殿は、私など及びもつかないほどの悲しみと苦しみを背負うてらっしゃるであろう」
スン・ニャンの気持ちは、はるかモンゴルの草原を走破して、高麗時代の良き日々に思いを寄せる。
少女時代の苦しい生活、ワン・ユとの楽しい日々、高麗の友達たち……。
そして元に占領されて高麗貢女として、此処、元の皇帝に仕えた。
アユル・シダラを孕み、漸く苦しみの上に建てた今の幸せの居城を壊したくない。
数々の人の死によって土台が築かれ、数々の人びとの憎しみや妬み、謀略の果てに健固な構えとなった。
しかし、人の世のはかなさゆえか、やがて朽ち果て崩れ落ちる運命が待っている。
うたかたの幸せゆえに、甘く、切なく、儚く、ゆえに愛しく美しい。
盛者に必衰の理であろう。
「ワン・ユ殿、いまどこをどうしてらっしゃるのか?」
人知れず、広い宮殿の片隅で枕を濡らすスン・ニャンであった。
馬を走らせること三〇日、漸く西域に近づいたワン・ユは、大ハーン帝国の一軍首領として馬を駆る。
金張汗国(キプチャク・ハーン国)の警備と安寧の為、体のいい左遷を余儀なくされた。スン・ニャンを独占した皇帝の策略ではある。
ワン・ユも判っていてこの仕事を受けた。
大キャラバン隊となった、ワン・ユの一行は、警備を他所に極北の地に有るという暗黒貿易の実態を調べたいと考えていたのである。
ワン・ユは、イヴン・バツータとは旧知の仲であった。
以前大旅行家のイヴンが、元を訪ねて来て二人は気が合った。多いに酒楽に興じたのである。
そこで聞く話は広く大きくてロマンが在る、ワン・ユは、スン・ニャンを皇帝に任せて大冒険に就いてみたいと考えた。
「電書バトを飛ばせ」
ワン・ユはキプチャク帝国の西の果てまできた。
しかし、イヴンの話では、まだまだ先に帝国はつながると言う。
果てしない王国が築かれているのである。チンギス・ハーンの偉大さが旅を行けば行くほど解るのであった。
せいぜいワン・ユの行程、馬を駆けること三〇日当たりでは、チャガタイ・ハーン国、サマルカンドに就く事ぐらいが関の山である。
そこでワン・ユは考えたのである。イヴンと一緒ならどこの国にも行ける。
待ち合わせは電書バト五日の距離でサマルカンドであった。
イヴンがこの港に就いた次の日、同行仲間の商人たちの一人はこの平原にすむ(キフジャク)の名で知られるキリスト教を信奉している集団のもとに出向いて、馬にひかれた一台の荷車を彼らから借りて来た。
そこでイヴンらはその荷車にのって、カファーの町についた。その町は海岸にそって長く伸びた規模の大きな町で、そこにはキリスト教の信者たちが住み、彼らの大部分はジェノバ人たちであった。
彼らにはダムヂールと呼ばれる一人の統治者がおり、イヴンたちは其処のイスラム教徒たちのモスクに宿泊した。
さて、モスクのもとに降り立って一時間が過ぎた頃、今までに全く聞いた事のない教会の鐘音が四方八方から聞こえてきた。
その事にひどく驚いたが、モスクのミナレット(塔)に登って、コーランを読誦して神を讃え、アザーンの呼びかけをするようにと同行の仲間たちに命じたところ、彼らはその通りした。
すると、突然に我々の前に鎧を着て武器を持った一人の男が入って来て、平安の挨拶をした。
イヴンたちが如何なる人かと尋ねると、その人は、自分は此所のイスラム教徒の法官であると、イヴンたちに伝えた。
さらに彼は、
「コーランの読誦とアザーンの声を聞いたので異教徒の町なのであなたたちが心配になり、それでご覧のように駆けつけて来たのです」と 言い、それから私たちのもとを立ち去ったが、その後も別段に不吉なことは何も起こらなかった。
次の日、町の統治者がイヴンたちのもとにきて料理を用意してくれたというので、彼のところでご馳走になった。
その町を一巡して判った事だが、町にはいくつもの立派な市場が有り、そこの人々はすべて異教徒であった。
イヴンたちが港の方に行ってみると、そこには大小の軍艦や客船が二百隻ほども浮かぶすばらしい港であった。
というのも、そこはまさに世界でもっとも名高い港の一つであったのである。
その後、イヴンたちは一台の荷車を雇って、キラムの町に旅した。そこは、崇高なるスルタン=ムハンマド・ウーズベク・ハーンの領土下にある規模の大きく壮麗な町。
その当時、彼により派遣されたアミールがそこをおさめており、彼の名はトウルク・トウムールである。このアミール(知事)の家来たちの一人が、以前にイヴンたちと道中で一緒になった事が有ったので、イヴンたちのもとに彼のイマーム(執事)のサド・ウッディーンとともに馬をよこしてくれた。
イヴンたちは、町のシャイフ(族長)であるザーダ・アルフラーサーニーのザーウイヤ(宮廷)に宿泊した。
このシャイフはイヴンたちに敬意を払い、大いに歓迎して献身的に接待してくれた。
彼は彼らの間で高く崇敬を受けた人物で実際に見たところでは、法官、説教師や法学者などといった面々が彼のところに平安の挨拶にやって来た。
このシャイフ=ザーダは、私に次の事を教えてくれた。
この町の郊外には一人のキリスト教徒の修道士がいて、修道院で信心の修行を行い、断食を重ねて四〇日間にもおよび、その後で断食を解くにも一粒の空豆を食べるだけである事、また彼には隠された事柄を見透かす超能力が有るのでぜひともイヴンをその人のところへ案内したい、とのことだった。
しかし、イヴンはワン・ユとの約束が迫っているのと異教の者という事も有り申し出を断った。
だが、その後になって彼について言われた事が、風の便りに真実である事が判った時、その修道士と有っておけばよかったと後悔した次第である。
イヴンの下に電書バトが届いたのはそれから三日後の事であった。
夕日に染まりながら鳩の群れが、砂漠をはるかに超えて飛んできた。
モンゴル語で書かれたワン・ユの書がしたためられていた。
「明日サマルカンドに発つぞ」
「此処からはキャラバン隊の水を確保して、食料を三日、用意しろ、余計なものは持っていくな」
キャラバン隊の隊長であるジュサイの声が響き渡る。
暗黒貿易の正体を知りたいと言う事であったが、イヴンには不吉な予感がした。
いくら、元帝国の一部となった地ではあるが、誰も近寄りたがらない未開どころか犬の臭覚に頼るしかない当に暗黒の地であった。
以前からイヴンも冒険家としての好奇心から暗黒の地へ踏み入ってみたいと思っていた。
しかしそこに入るには、ブルガールという町から、領地の間は四〇日行程である事、そこに行くには大きな苦難があって益少ない事、又そこに行くには大きな犬の引くアラバと言われる犬ぞりが必要な事、それしか方法がない事、等断念には理由が数多くあった。
が、高麗王の頼みと言われれば、仕方ない。
その荒野たるや氷で覆われ、人の足も駄獣の足ひずめもしっかりと踏みしめる事がかなわず、犬の爪のみが有効であった。
大きな資金力が在る商人のみが踏み入れることを許された。
百台近い犬ぞりアラバを擁して食料、水、薪をたくさん積める者、大商人しか不可能であったのだ。
そこには樹木も、石も、集落一つもない。
そこの地を案内できるのは当に犬のみであった。それも経験豊かな何度も往来した事のある犬のみが知る道であるのだ。
その犬の値段は高く、とてもイヴンには手が出なかった。
高麗王の資金力なら当然かなう、今回が又とないチャンスではあったのだ。
アラバは、犬の頭部と組み紐で結ばれていて、大きさにもよるが他の三頭ばかりと結ばれている。
先頭の犬は、他の犬を統率しながら走る。リーダーの犬は大変重宝がられている。
飼い主はこの犬を決して叱ったり、殴ったりはしない。
飼い主が食事をする時には、人より先にまずその犬に食事をさせる。そうしないと犬は怒って、逃げてしまい、飼い主が野垂れ死にしてしまうままである。
商人たちはたっぷりと四〇日をかけて踏破すると、暗黒の地で車を降りて、各人で持ってきた商品を置き、彼らの何時もさだめられた停泊地に引き返す。
翌日になって引き返すと商品が黒テンの皮や灰色リスの毛皮、アーミンという白テンの毛皮に変わっているのである。
その商品が満足すればその商人はその商品を持って帰る。
もし満足しないのなら、そのまま放置しておくとその暗黒の地の人々は毛皮をよりまして置いておくこともあるが、時には彼らの毛皮商品を引き揚げてしまい、商人たちの商品をそのまま置いてある時もある。
この様にして彼らとの売買を行うのであるが、そこに行った人たちは相手が誰なのか見たものがないので全く分からない。
売り買いの相手が判らないので、人間なのか、アラブ世界の妖怪と言われるジンなのかわからないままであった。
アーミンという白テンの毛皮は、インド世界では大変貴重がられて高値で取引される。
特質としてシラミが付かないのでシナの高官たちは首巻に使ったり、外套の襟に使ったりするのである。
数日後、サマルカンドに落ち合った二人の大隊は宿をとり、大宴会となった。
「ワン・ユ様、お久しぶりのお目どうりがかない共栄至極にございます」
「何年になる? あれから、十年近くはなろうか?」
「さようでございますね、あれから又旅を続けて、かれこれ大陸の半分は行き着くしたように思います」
「そうか、そちがうらやましい限りじゃ、旅の話は後からゆっくりと聞こう、其れより余に暗黒の地の貿易について詳しく話してくれ」
「私めも聞いた話でしかないのですが、大変危険きまわりない土地柄と聞いております」
「まあよいわ、ささ、此処へ来て旅の話を聞かせてはくれんか、たのしみでしかたないのじゃ、そちに会うため三十日も馬を駆ってきたのじゃ」
ワン・ユは用意された玉座に着き、そのそばの席に陣取ったイヴンは、旅の話を肴に大いに酒を交わした。
話もひとしお過ぎてワン・ユは酒場で女を買った、アミールの毛皮の外套を差し出すと、金髪の細身の女が寄り添ってきた。
「いくら欲しい?」
「毛皮で十分よ」と女は拙いモンゴル語で言う。
「あ、酒が欲しいわ」
「酒ぐらい好きなだけ飲むがよい」
二人は二階にある広い部屋で重なった。
ワン・ユの物は、長旅に疲れも知らず、大きくはれて、今にもはちきれんばかりである。
女は、裸になり、アーミンの外套をまっとって長い脚から金髪の股間をさらけ出している。
ワン・ユは初めての異国の女に堪らず貪りついた。
女の蜜壺もアーミンに滴らんばかりに溢れてワンユの腫れあがった物を歓喜の声と共に向かい入れるのであった。
「ああ、もっといれて、もっと……」
ワン・ユもスン・ニャンの体を思い出しては、何度も何度も果てるのであった……。
翌日からの暗黒の地行きの準備はかなりの苦労がいった。
食料、水、共に大隊の数に見合わせるのが大変である。駱駝や馬はもう使えないので、犬ぞりに見合う量と重さの調整は経験のないイヴンやワン・ユには想像もつかない状態であったのだ。
「イヴン、大隊を最小限にして行くしかないな」
「そうです、ワン・ユ様、暗黒の地に向かうにはよほどの覚悟が要ります」
「犬百頭、そり五十台が必要です」
「揃いそうなのか?」
「後二日あれば、ブルガールに到着するので、そこで又、仕入れることとしましょうぞ」
イヴンは膝まづいて答えた。
「まかせたぞ」
大隊は、サマルカンドを出発した。道行き二日ほど発った時辺りから、どこから来たのかワン・ユに物乞いしてくる少年がいた。
片目が不自由でおそらくは見る事は出来ないであろう。
「如何したのだ? 何か欲しいのか? 」
「ワン・ユ様、そのものは恐らく、煙草が欲しいのですよ」
隊長のジュサイが煙草を数本投げ落した。
コンスタンチン・ノーブルの市場で仕入れたトルコ産煙草である。
細巻きで出来ており、香りがきつくむしろハーブの煙草の様なものである。
十歳になろうかというその少年は拾い集めると犬の様に四本足で走りながらついてきた。
「うーうー」
犬たちに何か命令をしている、その後、不思議に犬たちはその少年の命令を素直に聞く様になった。
「こやつ、犬を自在に扱えるぞ」
ジュサイがその子を犬ぞりに乗せて、指示を飛ばしてみた。
「右の方に曲がるように言え」
「うおーわんわん」
その子が吠えると犬ぞり用の犬の大群は、右に進路を変えた。
「ワン・ユ様この子は使えます」
「よし、テンの黒外套を着せろ」
黒が雪や氷の世界ではよく目につく。
「もうすぐブルガールに着く、其れからこの坊主に暗黒の地の道案内をさせよう」
その夜ブルガールに着いた。
「今夜を境に命知らずの物たちとはいえ、地獄へと向かうのだ、大いに飲んでこの世に未練を残さぬようにしろ」
ワン・ユは大勢を目の前にして訓示した。
「それからこの子は、犬としゃべれる、大事にしろよ、怒らしてしまうと死の道にまっすぐ行くぞ」
ジュサイの一言で宴会は又今夜も始まった。
夜が極端に短く、また反対の季節には、昼間が極端に短くなるというその街は、スルタンが支配している。
スルタンもキプチャク・ハーン皇帝の軍の首領がくると言う行商人の噂を聞きつけ、十日の行程を掛けてブルガールに一日早く到着し、ワン・ユ、イヴンの一行を昼から待っていた。
「恐れ多くも賢くも、お目どうり頂き、光栄至極にございます」
スルタン=ウーズバクはいった。
「余の到着を一日前から待っていてくれたとのこと、礼を言うぞ、ついては、暗黒の地に向かう身じゃ、二度とお目にはかかれないかもしれん、今宵は大いに飲んで余を送り出してくれ」
ワン・ユは言った。
「この地方では暗黒の地をズルマと言います、くれぐれもお気お付け下さいませ、夜になると天から衣の流れが見える時もございます、そのときには、犬ぞりをお留めになり、しばし、眺めてくださいませ、下手に動くと衣の流れから光線の様なものが発せられ、人を死に追いやると先祖からの言い伝えがあります」
「ほう、そのような恐ろしいものが在るのか? ますます、楽しみじゃわい」
金髪の美女たちに囲まれてすこぶる機嫌がいい。
女たちはめいめいに踊りを披露し、艶めかしい。
「ほうお前は身が軽いのう、褒美を取らせ、金貨じゃ」
「ゆーゆー、うーうー、わんわん」
犬の頭となった子供も楽しそうに体を宙に舞わして、宙返りを頻繁にして見せるのであった。
イヴンはまだ、ラマダン月曜の祈りから帰ってきていない。
話によると夜の礼拝アザーンの祈りも済ませてから帰ると言う事だった。
暫らく氷ずくめの日々を過ごすのだ、ゆっくり拝めば良いわ、ワン・ユは独り言を言い、疲れて寝てしまった。
昼過ぎになってから、金髪の美女達の寝屋の中から体を起こすと、例の子供が心配そうに此方を伺っている。
「どうした、さあ、出掛けるぞ」
「ゆーゆー、わんわん」
起きて見ると、ワン・ユの起床を数百の隊員たちが待っていた。
犬ぞりの用意はもうすでに整っており、目の前には氷の何処までもつづく原野が見える。
駱駝や馬たちは此処のスルタン=ウーズバクに任せて、預かってもらうことにした。
「ワン・ユ様、早く出かけないと又すぐに夜になってしまいますぞ」
ワン・ユを子供時代から知る爺やがうるさく言う。
「解っておるわ、直ぐに出かけるぞ」
女の肉林を掻き分けてゲルを出て来たワン・ユは、身支度を済ませて子供の先頭のそりの後ろに座った。
「皆の者行くぞ、心して掛かれ」
「ワン・ユ殿が一番心せぬと……」
誰かが言った。隊員の爆笑が聞こえた。
ワン・ユは笑いながら、
「すまん、すまん、そうであったのう」
「女が離してくれませんでしたか?」
「もうよい、許してくれい、余が悪かったわい」
「ゆー、ゆー、わんわん」
子供の声と共に犬ぞりは動き出した、後から後から犬ぞりは続く、勇壮な眺めに見送りの女たちや町の者たちも呆気にとられた。
犬の鳴き声がしばらく続き、氷の道に消えて行った。
氷の煙に咽びながら数日、その夜、野営していると犬たちがやけに五月蝿い。
「何事じゃ? 」
「黒テン、見てこい」
黒テンと呼ばれだした犬使いの子は、外に出て行った。
モンゴルから持ってきたゲルは氷の上でもすこぶる過ごしやすい。
下にじゅうたん様の物を置くのと、おまけに煮たきもするのでほんのりと熱いぐらいである。
「うーうー」
黒テンが帰って来た、何やら外を見ろと言う。
外に出て見たワン・ユは驚いた。衣の様な天高く舞う光が見えた。そして大きくうねっている。
総勢百近くいる部下たちも大空を見上げている。
「あまり近くに行くで出ないぞ、殺されるという話じゃ」
「おー、うおー」
皆の感歎のうめき声がやまない。
美しい天体の見世物に一同が時間を忘れた。
翌日も夜になると美しいオーロラと呼ばれる天体現象が見れた。
其れから又数日、夜の事。犬が又遠吠えを始めた。ただならぬ事態が起こったのだった。
「おーい、かあちゃん、もうやめよらよ」
雨が降り出した十津川の五兵衛の畑は、ほんの三反近くしかないがこの辺りの農家としては、これでも広い方なのである。
先祖代々畑を耕し続けて来た。
杉の木の下で雨宿りをしながら、家から持って出た竹の水筒を腰から外して飲んでいる。
妻の小梅も頭にしていた日本タオルをはずしながらやってきた。
「とうちゃん、髪の毛が雨に当たるとさァ、余計に金髪じょ?」
「そうかよ、てっぺんから禿げて来よるんさァ、恥ずかしいわよ」
「五〇も超えて来たらさ、はげよるんもしかたないわさ」
二人はにっこりと見あいながら笑った。
村でも有名なおしどり夫婦の二人であった。
村の女たちは、若いころの五兵衛を嫌って避けていた、何故か小梅だけはそんな五兵衛が好きになり、夜ばいを掛けて来た五兵衛を受け止めた。
五兵衛の物は日本人には無い大きさで三〇センチ近い、小梅も最初拝観した際にたまげてしまい、自分の物に入れられる事を考えると逃げようかとも思った。
「おれのよ、でかいさかいに皆から嫌がれてしもてさァ、誰も相手してくれんの」
小梅はそれを聞いてあまりにも不憫に思い、一回だけという約束で受け入れた。
一回が二回、三回とついつい続き、毎日通いつめては何時も誠実に頭を下げては重なってくる五兵衛が何時しか小梅も好きになってしまった。
間具合が深まるにつれ、仲はますます深く親密になり、性生活は充実した。
最初はいたくて堪らなかった小梅もその内に慣れて来たのかこの物でないと如何しょうもなく淋しいと感じるようになった。
実は五兵衛の髪は少し茶色い、何処となく色が白くて、小さいころから白人白人と茶化されたものであった。
母親はもう亡くなってしまったが、より一層白く眼鼻立ちが外人に近い顔立ちであった。
何故なのか考えた事はなかったが、一度小さいころに母親に聞いた事があった。
「母ちゃん、何で母ちゃんの髪の毛ゃら下の毛茶色いんよ?」
二,三度殴られた後に、
「高麗人の血が在るからや、もっと遠いヨーロッパの方から来てる血が在るらしいんよ」
「ヨーロッパってどっち方面よ?」
十津川の入り口に五條、熊野方面と書いた立て看板が在る、それと同じように聞いてきたわが子の質問が可笑しい。
本人が至って真面目なので笑いがこみあげて来たが、母は、仕方なく、
「朝鮮の奥のそのまたまた奥の方面」
と答えた。
その頃には、あまり興味も薄れてしまったのかそれ以上の追求はなく、鼻くそをほじりながら寝転んでしまっていた……。
そんな昔の記憶を思い出した。
外人の血が入っている事に気が付いたのはその時からだった。
村の皆からも小さい時から、でかチンやら、木偶の坊、うすらでか等と揶揄されて育ってきた。
スン・ニャンは、皇帝に呼ばれて紫禁城の皇帝の間にいる。
「アユは大丈夫か?」
「女官が今乳を飲ませておりますゆえに……」
「ワン・ユから連絡が在り、暗黒の地に入ったゆえ、金が足らないので送れという連絡じゃったわ」
「暗黒の地とはどうゆう所でございます?」
「ワン・ユの事ゆえ気になるのかえ?」
「いえいえ、ワン・ユ殿の事はもう忘れましてございまする、ただ、聞き慣れぬ恐ろしい場所の様に思いましたものですから……」
「余が行けと命令したのじゃ、どうもあの地で毎年何人もの人が死んでおるのじゃ、危険な地であるからこそワン・ユに調べさせておる」
「……」
「モスクワ公国王からも是非に調べてくれというお達しじゃ、自分の土地の中なのじゃが他人にしらべさせて、ずるいお人よ、しかし、ロシアンセーヴルなる毛皮などはそちにも送ろうと思うのじゃが、そう言った素晴らしい毛皮が取れる、特に白テンのアーミンという種類の産物は高価なものじゃそうな」
「ありがとう、ございます」
「キ・アン(スン・ニャンのモンゴル語)アユを連れてまいれ、わが皇太子の顔が見たいわ」
「後で連れてまいります」
「何でもよいわ、はよう連れてまいれ」
だだをこねる順帝トゴン・テムルであった。
順帝の先祖が切り開いてきた広大な帝国は、西域はトルコに至り、東は朝鮮半島を占領下に置いた。
チンギス・ハーンの血脈を継ぐ者は、神聖なる者となる(チンギス統原理)と言う血の掟があった。
順帝もチンギス・ハーンの四男(クビライ・ハーン)の血統を持つ、おもに北元地帯を支配してきた。
二度にわたる日本への元寇の襲撃は、クビライ・ハーンの時代である。
日に百Kmを走破してトルコまで占領してきた。
騎馬戦を得意とするモンゴル軍は、小さい時から遊牧民特有の移動生活ゆえ馬の騎乗を得意とすることから生まれた。
移動が自由自在でゲルという移動式家屋を主たる住まいとし、羊の遊牧で生計を立てて来たのだ。
順帝トゴン・テムルとイヴンとの出会いは、イヴン・バツータが、北京ではぐれたデリー・スルタン朝の使節を名乗り、元朝ボルジギン氏(チンギス・ハーンの元首領一族)の紹介で出会う事になる。
その頃の紫禁城の原型である木造の宮殿では丁度、奇皇后キ・アンを讃える行進をしてイヴン一行を迎えたと伝えられている。
ワン・ユと知り合って意気投合したのもこのころである。
ワン・ユはイヴンの話の愉快さに我を忘れた、酒を酌み交わし朝まで飲んだ。
世界は広い、一度その世界を何かの機会があれば訪れて見たいと考えていたのである。
暗黒の地に足を踏み入れてから、一月近くが経つ、隊員にも疲労の色が濃く出て来た。
一人気勢を吐くのが黒テンこと犬使いの少年である。
「ワンユー…様、い、い、犬が元気、なな、ない、なくなっている」
少しづつ、言葉が出来るようになってきた。
「さようか、もうすぐ着くから心配するな」
と言いながら、犬用に干し肉の大きな塊を犬の群れに投げ入れた。
腹に包帯の様なものを巻いたひときわ大きな犬が、最初に周りの犬をなだめて、干し肉を食う。
少しちぎって咥えて干し肉から離れると、喜んだ犬たちは、吠えながら貪りついてきた。
「ァ、あ、りがとう…ございます」
黒テンの少年は、自身の事のように喜んだ。
「黒テン、お前さん風呂に入らないと駄目、解るか? 臭くてたまらん」
そう言うワン・ユもひと月近く風呂に入っていないのだ、
「俺もひどいもんだな」
二人はそう言いながらお互い顔を見合せて笑った。
今や戦友という風に馴染んでいる。
「あの晩はひどかったな……」
或る晩の事、ただならぬ事態が起こった。
犬が鳴いて止まないので仕方なく、黒テンを見に行かせると、そこに大きな三mをゆうに超すような羆が立っていた。
「ワンワン、、、ユーユー、、様大変、大変」慌てて黒テンが戻ってきた。
「ガルルルー、グワングルルルー」
「キャンキャン」
ワン・ユと黒テンが外に出る頃には、人だかりが在った。
「弓をはなて!」
「目を狙え、両目ともつぶせ!」
羆めがけて、一斉に矢を放つ。
「ブシュー」「ブシュー」「ブシュー」……
「ガルルウー ギャン」
何本かの矢が目に当たった、その後、怒り狂いながら犬や人を手当たり次第に恐ろしい爪先でひっかけ回してきた。
オオカミの血が入っているハスキー犬が羆の体に何匹か噛みついて体ごと振り回されている。
「わんわん、ギャー」
そこらじゅうに血が降ってきた。
犬の顔が撥ねられて、ワン・ユの足元に落ちて来た、狂ったように暴れる羆に向かって黒テンが突進していった。
「やめろ、黒テン!」ワン・ユは叫んだ、しかし、叫ぶものの足が動かない。
羆の手の爪にすんでに当たろうかとする時、爺やが黒テンを抱きかかえた、その瞬間、
「ギャン」リーダーをしていた先頭犬のボスが体を張ってみずから羆の爪の餌食となってしまった。
「ヒュンヒュン」
十字弓から発せられる、矢が雨あられと打ちこまれていく、暫らくして何本かの矢が体中に当たり羆は息絶えた。
何人かの隊員も怪我をしたが、選ばれた勇者たちなので体も剛健であった。
「熊汁にありつけるぞ、これでしばらくは食い物には困らないぜ」
喜んでいる隊員の傍で、
「うーうー、わーわー」黒テンがボス犬の傍に寄り添って泣いている。
二m近い大きな体から腹綿が飛び出して、散乱している。
それを犬たちが悲しい声で叫び、咽びながら集まり舐めている。
薄白く灰色に染まった白夜の大地に赤い鮮血が飛び散っていた。
「黒テン、退くのじゃ、どうれ、わしが見てやろう」
危ういところを助けてもらった爺やが犬を押し分けて黒テンの元にやってきた。
「ようし、ようし、……、まだ息はあるな……」
持ってきた毛皮のバケツから水をすくうとはらわたを洗い出した、そうしてきれいに洗ったはらわたを傷がこれ以上無いのか確認しながら、破れた腹に戻していく。
それから、いつも氷の氷上を割って釣りに使う、針と糸を上手く折り曲げて腹を縫いだした。
「爺それで生き返るのか?」ワン・ユは聞いた。
「おそらく大丈夫でしょう、あとは犬の生命力次第です」
「ワン・ユ殿、お小さい時、狩りに爺と出かけて猪に腹を食いちぎられた犬がいましたでしょうぞ?」
「覚えておるぞ」
「あの犬も後で持ち帰り、この様にしましたら、あれから何年も元気に生きておりましたでしょう?」
「それはたくさんいたので覚えてはおらんが、蚤取りの時に腹に傷のある犬がおったのは覚えておるわ」
「それでございます、犬の生命力とは恐ろしいもので人間と違い恐ろしく強いものです」
黒テンは泣き疲れてしまい、犬の傍で寝てしまった。
「ようし、よし」だきあげて黒テンをテントに連れて行った。ワン・ユも後から傷ついた犬を引きながらテントに入る。
ようよう暗くなり始めたフィヨルドの白い大地に太陽が沈みかけていた。
「ほんとにあのときはひどい夜だったな」
ワン・ユは、元気になりつつあるボス犬のはらをさすりながら物思いから覚めてくるのだった。
「ワンワンユーユー、様、」黒テンが犬とワン・ユの間に割り込んで、チャッカリとしゃがみこんで、犬に餌をやり出した。
こうして見るとワン・ユは、子供の可愛らしさを改めて感じて、もし生きていたとしたら、と、わが子マハを思い出した。
上から覆いかぶさるように黒テンを抱きしめ、愛しそうに頭をなでるワン・ユであった。
漸く四十日の道のりを過ぎる頃に、目的地の暗黒の地の終点が見えて来た、
市場となるはずの建物が視界に入る。
「どうどう、止ま…れ」
黒テンが叫ぶ。
犬ぞりの一団が少し勢いあまり余韻で滑りながら、市場の前の小屋に着いた。
物々交換が基本なので、ワン・ユは、変えの商品がないのに気付かなかった。
「おい、如何したものかうっかりと変えの商品がないぞよ」
一同から笑いが漏れる中、
「羆の毛皮ならありますぞ、あれはかなりの高値がつくはずですじゃ」
爺やが庇った。
「途中で飯にした何匹かのトドの牙やら、皮なめしにしたものはございますが……」
「黒テンも白テンもあります」途中で隊員たちも捕まえたのであろう、
「それは要らぬわ、此処にもこれ、沢山置いてあるわい」
見事な黒豹の毛皮や、二mを超える虎の毛皮もある。商品の量が聞いていたものとはち
がって、沢山置いてある。
「どうもワシたちがくるのを知っていたかのようじゃ」と爺やが言った。
「構わぬわ、全部貰おう」
金貨の袋を置きながらワン・ユが言った。
「これだけあれば足りるであろう」
「十二分でございます、十二分でございます」皆が言った。
「皆の者好きなだけ持って帰れ」
わーっとばかりに皆が商品に飛び付いた。
今夜は労をねぎらいありったけの酒で皆が飲み食い、踊り、歌い、楽しい宴をすごしたのだった。
イヴンは一足先に、暗黒の地を北上して船の用意をしていた。
バレンツ海を北上して川船に乗り換え、モスクワ公国に入る予定であった。
国王には暗黒の地の調査の報告をして、その対価としてかなりの金貨と銀貨がもらえるはずであった。
皇帝はその資金をワン・ユにすべて渡すとしてくれている。資金においては裕福な旅であった。
有り余る資金は、隊員の労苦に答えるため、後でたんまりと分けるつもりであった。
イヴンには特にここまでの働きに感謝して多く渡すつもりだ。
「爺、金貨はあとどれほどある?」
「まだ皇帝からの援助が着いてはおりませぬが、金貨はまだ、金貨箱三〇個分はございます。銀貨においては五〇個分はゆうにございまする」
「そうか、それではここで別れる者たちに給金を分けて与えてやってくれい」
「黒テン、お前はどうする?」
「ワン・ユ様……と行く」
泣きながらしがみ付いてきた。
「よしよし、母はいないのか?」
「母死んだ……」
「父は?如何したんだ?」
「父……、俺、残して……、どど、どっつかいっつた」
「わかった、わかった、可哀想な事を聞いてしもうたわい」
黒テンの父親は、ウズベクの商人だったが、母親が死ぬと同時に黒テンを捨てて旅の商売に出てしまったのだ。
朝起きて黒テンは、父の姿を探したが、土でできた簡易な建物の中には、母の死体と飼い犬の白だけであった。
それからというものゴミ箱を漁り、食べ物を分けてもらうため小さい体で隣村まで出向いたりして来たのだ。
或る日、年老いた爺さんが近づいてきて、食べ物を与えるから此方に来いという。
喜んで黒テンが行くと、いきなり目を隠されて片方の目を木でほじくられてしまった。
何が起こったのか訳が判らず、黒テンはただ泣くばかりであったのだ。
其れからひと月後何とか、白の助けで食いものを探してもらい、飲み物を与えてもらい、生き延びて来たのだ。
それからというもの人の言葉は喋らなくなった。犬しか信用できなくなってしまったのだ。
ウズベキスタンには、子供の目をくり抜いて食うと年寄りの目が見えるという言い伝えでもあるのだろうか……。
時を経て一〇歳になった黒テンは何とか生き抜いてきたのだ。白は黒テンに寄り添いながら去年死んだ。
寂しさを紛らわすために犬がくると付いて行くようになった。
そんなおり、ワン・ユの一団が通りかかる、沢山の好きな犬が、唯一信用できる犬がいたのだった。
「ワン・ユ様と行く」
置いてかれては困るという思いから黒テンはしっかりとした言葉でしゃべった。
涙ながらに喋る黒テンをワン・ユは黙って抱き、肩車をして皆の周りを飛び跳ねて見せたのだった。
スン・ニャンの回りには怪しい動きがあった。奇皇后の宮廷官吏、所謂宦官の一人が誰かに殺されたのであった。
宮廷内は慌ただしい、宦官たちの動きは自ずと皇帝の耳にも入り、
「殺されたのは誰じゃ? キ・アンの警備に当たる者か?」
「そうでございます、キ・アン様のお付きの警備隊の一人でございます」
「誰が殺したのじゃ?」
「それが、さあ、未だわからず、今捜査中でございます」
「即刻、捕まえるように、アユの身辺でそのような危険なことが起こってはならんぞ」
「わかりましてにございます」
「キ・アンを呼べ」
「わかりました、すぐに呼んで参ります」
宦官はすぐにスン・ニャンを呼びに宮廷の奥の間に消えた。
やがて女官を引き連れてスン・ニャンが現れた。
「いかがいたしましたか?」
「アユの身辺を警備を固めるように……、それとじゃ、ワン・ユからの連絡が無い、彼奴め、どうも旅に没頭しておる様子じゃ、イヴンと か申す、一度有ったことがあるが……其方も会ったであろう、異国の冒険者とは言いよるが……他国のスパイかもしれん?」
「そうは見えませんでしたが……?」
「わしの耳にはそのような声も聞こえてきておる、ワン・ユもだまされておるのではないのか? 困ったものよ……」
殺人の調査は進まず、誰が宦官コタキを殺したのかわからなかった。数日が過ぎてコタキの同僚が気になることを言い出す。
「あの日の夜中過ぎにコタキの部屋に行ってみると、いや、わしは、夜中に酒を飲み過ぎたのか、小便に行きたくなり寝間を出て便所で用を足してコタキの部屋の前を通ろうとすると明かりがついておった、さっき、とうったおりにはついては無かったのだが?と不思議には思ったのじゃが、気にせず帰って寝てしまい申したのじゃ」
「なんと、夜中にか?何をしておったのか?不思議なことよ、物音はせんかったか?」
不思議に思った宮廷警備は、現場に行って部屋の中等の様子を調べた。
何度も様子は調べたのだが、怪しい物は出てこない、手がかり一つない。
朝早くに裸にされて、宮廷の池の橋のあたりに放り投げられていたのだ。
「何故?裸にせねばならなかったのか?」
コタキの背中には、生まれつき三っつの星のような痣があった。
宮廷を駆け巡って噂になった宦官コタキの死については、その後誰からとも無く忘れ去られて行った。
スン・ニャンは、アユの育児に忙しく翻弄していた。宮廷の女給に任せればいいことまでスン・ニャンは、マハを無くしたせいも有り、こと細かく息子の世話を買って出るのであった。
「コタキが殺されてからキ・アン様は、夜も寝ずにアユル様の面倒を見てらっしゃる、 あれではお体が持ちませんでしょう」
周りの女官たちも少し精神衰弱気味になったスン・ニャンを気遣う始末であった。
「ワン・ユ様、今どこをどうしてらしゃるの?」
アユルの口に乳を含ませながら、思いは常にワン・ユに有るのだった。
マハは、タナ・シルリの子として育てられてきた、ヨン・チョル丞相の一計である。子がなかなか出来ない娘のためと自分の地位を更なる確固とした物とする、暗略であった。
マハが生まれたのは、洞窟の中であった。
「ああん、ああ……、うっ……、早く早く生まれてきて……」
洞窟の中にスン・ニャンのうめき声が聞こえる。
ワン・ユとの子を今まさに生もうとしているのだ、しかし、追っ手が迫っている。宮廷貢女として元の皇帝の妾にされかけている。
スン・ニャンは逃げ出したのである。ワン・ユのもとへなんとかたどり着き、この子と幸せな生活をしたい。
貧乏でもかまわない、ワン・ユとこの子と三人で細やかでいい……暮らして行きたい。
「おぎゃー、おぎゃー」
ようやく苦悶の中から生まれた。
「男の子か、よくぞ、生まれてくれた」
ひとしきり抱きしめてスン・ニャンが力を落とす、否や、
「ここら辺かもしれんぞ、探せ」
タン・ギセの声が聞こえる。
「泣かないで」
スン・ニャンは、名も無い生まれたばかりの子の口を押さえた。
洞窟の奥に身を隠し、追っ手を巻こうとする。
「この洞窟が怪しい」
追っ手の声が洞窟の中に入ってきた。
「ジャリッ、ジャリ」
追っ手たちの足音がする。
息をこらえ、子供の口を押さえる、子供の苦しそうな目がスン・ニャンをとらえてはなさい。
その時、
「おぎゃー」
追っ手たちは、洞窟からでようとしていたが、スン・ニャンが苦しそうな我が子の口を緩めてしまう。
追っ手たちの声がこちらに向かってくる、おくるみで包み込み逃げようとしたが……、遅かった。
「スン・ニャン、がいたぞ」
数名の男たちに囲まれ、そのあとから、タン・ギセが現れた。
「スン・ニャン、こんなところで何をしている? おう、子が生まれたのか? 誰の子じゃ? 」
「し、知りませぬ……」
少しの沈黙の後、
「其方の子には違いないのう、まあ、よいわ、こちらに渡せ」
といい、嫌がるスンニャンから子供を取り上げた。
ワン・ユ様の子だということは口が裂けても言うまい、張り裂けそうな母親の気持ちをぶつけた。
「返して、私の子を返してくださいませ」
「わははは、この子は、そこの崖から落として殺してしまえ」
タン・ギセの高らかな笑い声とともに、スンニャンの意識が遠のいて行く、産後の疲れと、逃亡の疲れ、そして何より愛する我が子と引き裂かれた悲しさで……。
暗黒の地を抜けて、バレンツ海の海辺でイヴンと落ち合ったのは、馬を駆ること四日目のことだった。
「ワン・ユ様お待ち申し上げておりました」
イヴンが言った。
「船は見つかったのか?」
「ちょうどこの地の漁師のものが船頭にと息子をつけてくれました」
といいながら、下を見るとお辞儀をしながらひれ伏しているものがいる。
身の丈が、二m近い大男である、
「其方の名前はなんと言う?」
「ウルフ……」
片言では有ったが、
モンゴル語を使った、しかし、少し、知恵に遅れが有るのかオドオドしている。言葉も喋りにくそうであった。
「遠慮するなおもてを挙げい」
顔を上げたウルフの顔を見てみるとまだ幼さが残った中にも海の男と言う厳つい体がそれを十分に覆い隠していた。
「で、いつ発つのじゃ? 」
「今夜は、海が荒れております、二、三日中にはたてるかと思います……」
とイヴンは言った。
ウルフは、立ち上がると馬上のワンユの肩口近くまで身長が有った。髪は金髪で目はブルーに染まっている。長めの髪が肩まで有り、首から何やら骨のような物の細工物を垂らしていた。
「酒を所望する、旅に疲れてしもうたわい」
「こちらに」
イヴンは、ワン・ユ一行を酒場に案内し、宿の手配をした。
「ワン・ユ様、この者をおつれするのですか? 」
イヴンが、黒テンを指さしながら言った。
「そうじゃ、両親もおらんし、わしの家来としてこれから面倒を見ようと思うておる」
「そうでございましたか、言葉も覚えてきたようで……」
二人の話を尻目に黒テンは、ウルフと気があったのか二人で鳥の丸焼きにかぶりついている。
そして何やら、話し込んではうれしそうに笑い合っている。
「あのふたりはさぞ、気が合うようじゃのう? 」
イヴンは機を見計らって言った。
「ワン・ユ様、お話が有るのですが……、大事なことですのでお人払いを……」
人払いをしてワン・ユは、
「なんじゃ? 言うてみい? 金が足らぬか? 」
「いえいえ、金ではありませぬ」
そして数時間イヴンとワン・ユは、話し込んでしまう。
旅の疲れも忘れさせる話とは一体なんだろうか、実は、チンギス・ハーンの隠し金の話であった。
モンゴルの広大な大地にチンギス・ハーンの墓陵が有る、その中には金銀財宝が眠っている。
それを狙ってユーラシアの山賊どもが群がっているとのことだった。
ワン・ユには金銀財宝等まったく興味が無い、ただ、皇帝の墓に参ってみたい。そう思うのみであった。
イヴンもワン・ユ同様に金銀等には興味が無い、しかし、チンギス・ハーンの広大な墓陵には、行ってみたいという気持ちが有った。
ここから、舟往き三十日、大陸横断に三十日船で七日南下してモスクワにはいる。
その後の行程は、ワン・ユの事情も勘案しながら決めることとした。
とにかく、先行きを急がねばならない、もうすぐ季節も変わり、恐ろしいほどの冬将軍がやってくる。
この極北の地には、人知の及ばないことがたくさん有る。暗闇と寒さで人の心まで簡単に変えることが出来る。
自殺者が多いのもこの地方の特徴であった。寒さで身動きが取れず、うちに引きこもってばかりいるので強い酒をあおるばかりである。
そのうちに暗さと寒さで世をはかなんでくるようである。
「さむいのう、中に入らないと死んでしまいそうだわい」
ワン・ユはふと船の舳先で黒テンとウルフが仲良く言葉の練習をしているのを見つけた。
ウルフは船の舵を取りながら、
「わ、わんゆ、さ、ま、こん、にに、ちわ」
「こんにちわ」
黒テンが嗜めるように言う。
「ウルフ、ヘタクソ」
「もう一回」
「ワン・ユ様、こん、こんに、ち、ち、わ」
「だんだん下手になる」
いらいらして口を尖らす黒テンがウルフの肩に乗っていた。
微笑ましい光景を見ながら、ワンユはクスリと笑い船室に入って行く。
その直後のことだった、
「ドーン」
と一回船の横へりから衝撃を受けた。
船は大きく揺れ、危うく氷山にぶつかりそうになる。
「なん、なんだ?」
暗黒の地からはなれても大隊は総勢で二十から三十近くはいる。
甲板にあがってきた人数は、二十人ほどであった。
「下に居ろ、下に」
「上にくると船がバランスを失うぞ」誰かが言った。
「ブシュー、ブシュー」
高く水しぶきが上がる、クジラだった。大きなクジラが夫婦だろうか、二匹で泳いでいた。
「またこちらに来る、くる」
ウルフが必死に舵を取りながら、さけんだ。
その瞬間、
「ドーン」
また一発、船に一撃を加えてきた。
船倉から声がする。
「穴があいた、水が入ってきだしたぞ」
「海に飛び込もうとするのは、絶対にやめろ」
「寒さですぐ死んでしまうぞ」
どこからかわからない、あちらこちらから叫び声がする。
これ以上クジラの体当たりを食らうと船が沈む、そう思いながら、最後に面舵をウルフはきった。
大きく揺れながら、
「ギーギーギー」
面舵をとった船が百八十度方向を変えて行った。
前には、スレスレの寸でのところで氷河が有ったが舵が切れた。
なんとかクジラの攻撃を逃げ切り、艪を漕ぎ出した。
「ワン・ユ様、ワン・ユ様」
爺が心配して船底にあるワンユの部屋を見にきたが、
「グー、グー」
と、大いびきで寝ている始末であった。
爺は、思わず苦笑して、黒テンと船上に上がって行った。
こうしてワン・ユの一行は、ようやくの事でスカンジナビア半島の根元の部分にこぎ着けたのであった。
「ここからは、また犬ぞりで向こう三十日の旅になる予定でございます」
予め、イヴンが、アラバ隊のジュサイたちと分かれて犬で陸路を走らせて来ていたので犬たちは疲れも見せず、スカンジナビア半島の小さな港で落ち合う事が出来た。
ウルフも黒テンと気が合い、旅を続けたいという事で一緒に旅を続ける事にした。
それに船は地元の船大工に預けて修理が必要であった。
一行は、寒さにつらい思いもしたが楽しい旅を続けて、ユーラーの一地方の川を南下してウイースー地方に到着した。
モスクワまで後十日の旅となる時、事件は起きた。
「イヴン様大変でございます」
ジュサイがあわててイヴンのアラバにやってきたのは、明け方の事だった。
「盗賊どもに荷物を盗まれてしまいました」
「何?、ワン・ユ様の金貨等もか?」
「さ、さようでございます」
アラバでくつろいでいたワン・ユも聞きつけたのかイヴンのアラバにやってきた。
「確認してこい、爺」
「はは、……」
暫くして爺が戻ってきた。
「丸ごとやられております」泣きながら言った。
「うーむ」
「どうもおかしい」
アラバに積んでいた荷物は、順番が決まっていた。それを知っている者でなければこのように手際よく盗めるものではない。
それに後からわかった事だが、アラバの車の下が穴を開けられて物を盗み出されている。
「内通者がいるのう」
と、ワン・ユが言った。イヴンも頷くしか無かったのである。
奈良の県警本部から担当の刑事井上が来たのは、五兵衛が殺人を見てから十日の歳月が経ってからの事だった。
「奈良県警の井上じゃが五兵衛さんとこは此方かえ?」
後ろから慌てて、若い刑事が追いかけてきた。
篠田である。
「すいません、車を止めるとこが無くって」
太った柔道で鍛えた体を揺すった。
「なんや、殺人を見たらしいのう?」
ズケズケとした物言いで五兵衛を責め立てた。
「なんではよ警察に言いよらんの?」
「わしら、あんた、五條からわざわざ朝早よから来たんで、それも噂が立ってから来よるんやさかい、カッコつかんわい」
「なしてな?」
井上の質問ぜめに五兵衛夫婦は、辟易してきた。
「すんません、誰も知らん事やったら、黙って見んかった事にしよう思いまして……」
と五兵衛。
「アホ言いよったらあかんよ」
「ちゃんと警察に言うたらなあかんがな」
と篠田が言う。
「おとろして……おとろして」
「母ちゃんが、行商のクスリ屋さんに言わんかったらお蔵入りするとこやでな」
「小梅、クスリ屋に言うたんか?」
小梅は、苦しそうにしてお茶を入れようと台所の方に逃げて行く。
女の口だけは、止めるに止められないものだ、とばかりあきらめて五兵衛も腹をくくり、一部始終を井上たちに暴露したのだった。
現場検証が始まった。
「こりゃひどい仏さんやがね」
井上は、首をペンでつつきながら言った。
後ろにいた筈の篠田は、木の陰で嘔吐している。
「アホ現場見る前から吐いてどうすんねん」
「すんません、すんません」
現場についてきた五兵衛も堪らず吐きだした。
辺りに死臭が漂い、現場は、獣の食い散らかした害者の体がバラバラになって見るに耐えない状態であった。
「こりゃ、何が何だか何れが何れだか判らんようになってしもうとるな」
長年刑事を経験してきた井上にも凄まじくひどい代物であった。
「ちょっと待てよ、仏さんの……」
と言いながら上着の内ポケットから井上が取り出したのは、手帳であった。
「姜 換寿……」
「朝鮮人の人か?」
篠田が言った。
何人かの鑑識の人間が十津川の山の中で証拠品の押収に余念が無い。
「後は鑑識さんに任せて、わしらは、手帳を調べてみるかい」
井上は、さっさっと山をおりて行く。
篠田は、慌てて山の中に消えて行く井上を追う。
重そうな体が薮にあたり、不慣れな山道に今にも転げ落ちそうであった。
それから数日後、犯人は、大阪で捕まった。
ターバンを巻いた外人で当たって行くと思いのほか目立ったせいもあってか早く見つかった。
大阪に在住のトルコ人で韓国裏社会の者であったのだ。
関西の組関係の事務所に出入りが有り関係を持っていた。アヘン等を日本に持ち込み売りさばいていたらしい。
韓国を出て三年間、手下の者と探し続けたのが今回の事件の害者であった。
何故探していたのか、殺したのか、犯人たちは、殺しの理由を頑として口を割らないでいた。
十津川を管轄している奈良県警五條署の井上も犯人たちの口の堅さには閉口していた。
被害者姜は、日本に住んで五年ほどになる、潜伏している訳ではなく昼間は日雇いの仕事をして生計を立てていた。
休みの日には、釜ヶ崎の安宿からほとんどと言っていいほど出かけている。
どこへ出かけているのかは不明であったが、たまに訪ねてくる女がいたらしい、そこまでは調べがついている。
女の名前は、竜子、上原竜子であった。竜子の祖父たちは日韓併合後職を求めて日本に渡り、転々と職を変えながら京都府の朝鮮人部落で居住し、父と母は早くに強制労働がたたり亡くなっていた。
竜子は尋常高等小学校を出た後、仕事を探したが朝鮮人には就職が難しく、内職等で食いつないだのだが父母代わりの父方の祖母のために大阪の飛田で体を売るようになっていったのだ。
飛田に来た理由は、京都では何かと顔がさすと考えたのと、手っ取り早い金になる仕事であったからである。
大正期に出来た飛田新地は、西成の山王町にある。
難波新地の乙部遊郭が火事で焼け、こちらに移ってきた者も多かった。
百軒ぐらいの妓楼が立ち並び、当時は日本一と言われていた。
その店の常連客が、姜であった。
二人が仲良くなるのに時間はかからない、姜は日本名を今田と名乗っていた。
「カンジュ、今日は早く終わるから先に帰って待っててね」
「おう、わかった」
「飯は?」
「俺がなんか作っとこか?」
「優しいのね」
「いや、給料はいったからタッちゃんの好きなすき焼きでもして待っとくわ」
「うん……」
涙を隠しながら後ろを向いて頷く竜子であった。
二人はお互いのアパートを行き来していたが、最近は治安の悪さも有り、今宮恵比寿の近くの竜子の長屋に行く事が多かった。
竜子はどんなに嫌な客でも辛抱できる、カンジュのためなら、自分たちの小さな店を持つまでは……。と、毎日嫌なスケベなお客の相手も厭わなかった。
そんな時であった、
「カンジュ、カンジュなんか?……。ほんまにそうなんか?……、アイゴー、アイゴー……。」
「こんなになってしもて、なんや判らんやん、カンジュなんか?」
悲壮な叫びが警察の霊安室に響き続けた。
井上の事情聴取はこんなときでも続いた、早く事件を解決したい、こんな不可思議な事件はこの五條には珍しい。
井上は、竜子に面通しを頼んだ、二人の外国人を見せたが面識は無いようであった。
「あいつらが、カンジュを殺した奴らですか? 」
井上と篠田は、一瞬たじろいだが、隠していても仕方ないので、
「そうです、犯人です」
と言った。
「おうー、あーん」
叫びとも、嗚咽ともつかない悲痛な叫びがまた署内に響く、崩れ落ちてしゃがみ込んでしまい泣き続ける竜子だった。
スン・ニャンが気づたのは宮廷内の牢の中であった。
辺りは地下牢なのか、ジメジメとして薄暗い。産後の日立ちが悪いのか、下腹部に鈍痛が走る。暫くすると警備の兵隊たちが階段を下りてくる。
「あの女は起きたのか? 」
忘れる事の出来ない憎たらしい声がする。スン・ニャンは、寝た振りをしたまま、様子をうかがう事にした。
タン・ギセは暫くスン・ニャンの様子をうかがっていたが、立ち上がり、
「この女が目を覚ましたら、わしに連絡しに来い」
と言い残して去って行った。
それから三日後、皇帝がスンニャンを訪ねてきた。
「こやつが、逃げ出した女か?かわいい顔をしとるのう、余の側女につれて参れ」
その時点では、皇帝は、ワン・ユとスンニャンの仲を知らずにいた、
「まずは風呂に入れて、宦女の服装に着替えさせよ」
それを聞いて、
「こやつは宮廷を抜け出し誰の子か知れず生んだ女でございます、高麗からの貢女ですし、おやめになった方が後々皇帝の御身の上にはよろしいかと存じますが……」
タン・ギセが言う。自分の女として可愛がろうと腹づもりしていたが当てがはづれた。
「やかましい、かまわぬ、つれて参れ」
スンニャンは下を向いたまま黙っていた。皇帝の慰み者になるのも此所よりはましだと考えた、そして隙を見計らってまた宮廷を抜け出してやる、と考えた。
生まれたばかりで別れてしまった子供の事で頭がいっぱいでどんな事をしてでも探し出す、そう心に決めるのだった。
タン・ギセは、ワン・ユとスン・ニャンの子にマハという名前を付け、タナ・シルリの子として育てようとしていたのである。
タナ・シルリは、一度妊娠したのだが、流産し、それを隠すために妊娠しているふりをしていたのである。
皇太子を流産したとは皇帝に言えず、一族の野望にも影響を与えると考え、秘密に事を起こしていたのだった。
知っているのは、父であるヨン・チョル、兄タン・ギセ、御側用人の女官たちだけであったのだ。
ワン・ユ、スン・ニャンはその事を知る由もなく時は過ぎて行った。
ワン・ユたちは、内通者の捜索に忙しかった。
「この中にいなくなったり、既に任務を終えて国に戻った者に心当たりはないか?」
「ワン・ユ様、暗黒の地におりました頃には金銀ともに揃っておりましたので、おそらくは、船路の際としか考えられません」
爺が言う。
「ウーム」
唸るだけのワン・ユであった。
「まあ、よいわ、モスクワ公国につき次第、たんまりと金が入る、その時まで皆の者よ、辛抱してくれい、まだ何日かの金は残っておるから多分大丈夫であろうよ」
「がはははー」
皆とワンユも笑う。
みんなは、ワン・ユの大雑把さに呆れもするが、頼もしくも感じるのである。
これまでもこの鷹揚さで旅を続けて来れたし、多難な道のりでは有るが楽しくも有る。
みんなそうやってワン・ユを慕うのであった。
それからようやくモスクワ公国についたのは、三日ほど遅れた朝方であった。
すべてが凍り付くようで寒さが身にしみる、公国の使者がワン・ユたちに宿の手配をしてくれた。
公国の中央に位置するモスクワの都市は、クレムリンを中心に放射状にのびた都市であった。
キプチャク・ハーンの徴税人から身起こした、イワン一世から始まりモスクワ公国が成立した。
十三世紀、ルーシ(ロシア・ウクライナ・ベラルーシ)侵攻に始まるモンゴル支配は、
「タタールの頸城(くびき)」
とよばれ、過酷な統治時代が存在したと言われていたが、ルーシ諸侯を廃止せず彼らを通じて間接統治の関係をとっていた。
巨大な帝国の庇護のもと、むしろヨーロッパと交易は少なからず進捗し、特に高麗のワン・ユには厳しい貢税の納入、兵力の提供、ジャムチと呼ぶ駅伝の設置を義務づけ、監察官としてダルガチを置く事を命じられていた。
大ハーンのヤルリイクという特別証書を与えて彼らの統治権や既得権益を守っていたのであった。
「おお、やはり此所の女は美人ぞろいじゃのう、足が馬のように長いわ」
ワン・ユはご機嫌でその日は一晩に3人の女を所望したのだった。
その晩、宿の中は、ボヤ騒ぎがでるほど大いに宴は膨張し、近くにいた見づしらずのものたちが大勢集まり、酒や肉を食らわれてしまう始末であったのだ。
公国の王は、ワン・ユという高麗王の豪毅さに惚れ込んで、
「できますれば、私の三番目となる妻の子を是非に妻として捧げ申したいのですが……」
「よいよい、おかまい申されるな、このワン・ユ、明日をも知れぬ命ゆえ嫁等もらう気は毛頭捨て去りましてにございまする」
「まあ、まあ、良いではございませぬか?我が娘もこれこの通り美しゅうございますれば……、何処ぞに隠れたのじゃ、ナターシャ?」
その頃ウルフは、何を感違いしたのかその娘と床に入ってしまっていた。
娘も娘でワン・ユ等気にも止めずにウルフの愛撫に身を任せていたのだった。
「ウルフかわいい、私を旅に連れて行ってね」
「わかった、ナターシャ、一緒に行こう」
そばで眠る黒テンの鼾も気にせず二人は、朝まで愛し合ったのであった。
後でその事を知った、公国の王、イワン一世は、激怒したが二人があまりにもけなげに泣きながら懇願して来たので仕方なく許す事とした。
「好きにするが良いわ、少しばかり足らんようじゃが、お前の性分なら大丈夫であろう」
涙ながらに訴える娘には、大王も仕方が無いのか、何より、大男のウルフが声を上げて泣き崩れる姿には肝を抜かれてしまった。
こうして、ワン・ユたちは、公国を後にしてさらなる旅に出るのであった。
次なる旅先は、チンギス・ハーンの墓所が有るモンゴルの大草原である。
「キ・アン」皇帝の腕の中でキ・アンは頷く。
「そちとワン・ユの仲でどのような事があったか知らぬが、ワン・ユは死んだのじゃ」
「うう、くくく……。」
涙が止まらず嗚咽ばかりがあった。あまりにも急な出来事をどう受け止めて良いのかわからずにキ・アンは、泣くばかりであった。
「今日、密使があり、ワン・ユが旅の途中で盗賊どもと戦って崖から身を落としたらしい」
「あああ、ワン・ユ様」
キ・アンの涙は止まらない、枕に顔を埋めて皇帝になるべく気ずかれまいとするのだったが、無駄であった。
皇帝も知らぬ振りがいちばんと決め込んで震える肩を擦っていた。
キ・アンの頭の中にはワン・ユの優しい、眼差しや屈託のない少年のような笑顔が思い出されて朝まで眠れない。
「ワン・ユ様、出来る事なら私も後を追いたい……」
キ・アンはそうしたいと感じていた、しかし今ひとつ踏み切れないでいるのは、アユの事である。
未だよちよち歩きのこの子を残してどうして死ぬ事が出来ようか、また夜になり人が寝静まる頃、アユの顔を見ながら、
生きねば、という思いと死んでしまいたいというワン・ユへの思慕と交錯しながら……、毎夜泣きながら……、考えてしまう。
昼間には、このごろ何気のない事でも周りの人々に当ってしまい、焦操感と入り交じり、頭がおかしくなりそうな日々を過ごしていた。
そして、不明死した付き人の宦官はなぜ殺されたのか未だにわからないままである。
宮中には暗い影と、何とも言えない不穏な陰が入り乱れて、中にいるものたちを離さなかった。
「ワン・ユ様、アユが大人になり、皇太子の座をつかめたなら……、私はいつ死んでも……、いつお迎えがきても、どうぞその頃には、お迎えにきてくださいますように……」
日々やつれ果ててくるキ・アンを心配して皇帝は、祭りを開く事にした。
最近の暗い事ばかりおこる宮廷を明るく、活発にしたいと言う思いも兼ねてナーダム(モンゴルの祭り)を開催する事にしたのだ。
打楽器や吹奏楽器が華やかに打ち鳴らされ、宴を盛り上げて、ブフ(モンゴル相撲)の大会も開催する事とした。
国中から集められた、力自慢の男たちや、各地方の産物で市も開かれる。
「続々と、集まりますな」側近が言うと、
「この闘士の中から優れたものを見つけ出し、国の守衛に当らすつもりじゃ」
皇帝には腹案があり、国の警備や守衛に優れた人材を見いだす事と、市を開催してどの地方にどんな産物が穫れて国の税の元になるのか調べるつもりでいたのだ。
祭りも始まろうとする頃、
「皆のものよううく聞け、我がチンギス・ハーン殿が没後百三十年の歳月が経とうとしている、余は馬を駆り、墓陵へと足を向けようと思うのじゃ、祭りまで一月後、往復四週間ほどの旅になろうぞ」
「墓陵まで二週間、帰りに二週間ですな」
「十二分に参拝できようぞ」
「おおー」なぜか勝鬨か轟いた。
翌日から、皇帝は墓陵に向かい、町を離れたが、町はますます活気に溢れていた。
皇帝の狙いはこうであった、皇帝がいない隙に良からぬもの達が必ず出現する。
その隙に何やら行動を起こさないとも限らない、一網打尽にして皇帝の権力を民衆に見せつけ、地位を誇示し、各国の王達の耳にもやがてそれはこだましよう。
広大な土地を守り地位を確保するには、それも一つの手であった……。
馬を駆る事、三日。
「お命ちょうだいする」
叫びながら皇帝の御輿に突撃をする輩がいた、元ヨンチョル丞将、息子タン・ギセの部下達であった。
ヨン・チョル、タンセギ、タナ・シルリは処刑台の露と消えた。
しかし、部下達は取り残されて都を追われたが、山賊になり、海賊になりしながら飢えを凌いでいたのである。
恩義もある部下達は、復讐を決意し、この日を待ち望んだのだ。
ところが、御輿を遮って警備を助けた、凄腕の覆面の部隊が出現する。
「な、な何者?」
慌てた、タン・ギセの元部下達は、チリジリになりながら捨て台詞をはいた、
部下達が戦いを挑んだが、相手の部隊は、
「こやつら、口先ばかりで骨がないわ」
群がる輩をなぎ倒し、けりと剣の妙で部下達の隊を一網打尽にしてしまう。
見る間に死体の山が積み上げられた。
「覚えてやがれ、必ずや復讐してやる」
悪党の一味の姿が見えなくなると、覆面のもの達もそれぞれに何処かに身を隠してしまった。
「何事じゃ」
皇帝の顔が歪んでいた、
「大変でござりまする、皇帝の脇腹に矢が……」
先ほどの部下達の放った矢が、一矢皇帝の御輿に当り、皇帝の脇腹をかすめたのである。
「余は大丈夫じゃ、旅を続けるぞよ」
強がりをいいながらも顔が歪んでいた。
「皇帝陛下、これ以上は無理でございます、早く城に戻りお手当てせぬと化膿してしまい、お命が危のうござります」
「ええい、これしきの事でいちいち城に帰ってしもうたらチンギス・ハーンの末裔の名が泣くわ」
強がる皇帝を尻目に御輿は、帰途についた。
それの様子を高台から見ているものがいる。ワン・ユ達であった。
ワン・ユは生きていたのだった。
一時はタン・ギセの部下一味に命を狙われ、谷底に落ちた。
しかし、ウルフの助けによって命を取り留めたのだった。ウルフは漁師なので水に強い、泳ぎが得意である。
谷底に沈み、気を失ったワン・ユを担ぎ遠泳を行った。
向こう岸に泳ぎ着いたワン・ユを蘇生させ、命を救う。ワン・ユは、肩にタン・ギセの部下一味が放った矢を受けたのだ。
「どこまでも憎い奴らよ、金銀を奪った輩も彼奴らに違いなかろう」
「ワン・ユ様、ジュサイ様が、イヴン様の命を受けて奴らの後を追っております」
言葉もしっかりしてきたウルフが言う。
「ようし、今度は彼奴らのアジトを見つけて反撃に出てやるぞ」
「御意」
一同が合点しあった。
マハを殺したのは、タン・セギの部下のはなった矢であったのだ。
マハは、皇帝の寵愛をも受けずにいたのであった、我が子に間違いない確信がない子よりもアユル・シダラの方がかわいい。
皇帝はうっすらと血のなせる技か、知っていたのであった。
自分の子であるかどうかは、知らず知らずのうちに人はわかるものである。母にも無い、父にも無い物があったり、逆にあるはずの物が無かったりするのである。
十二歳になる頃、マハは、皇帝から皇太子の役目にはアユルにと告げられた。
それを知ったヨンチョルは、必要でなくなったマハを宮廷の中庭で、それも呼び出されたキ・アンとワン・ユの目の前で
「父、母は本当はここにいるお前の、それ目の前にいるワン・ユとスン・ニャンなのだ、それ打ち込め」
高らかに笑いながら去っていくヨン・チョル丞将であった。
矢をもらい倒れ込んだマハは、憎き敵と教え信じ込まされていた父と母の前で泣きながら叫んだ、
「お父様、お母様、すい、すいませんでした、知らぬ事とは言え、あまりにも不届きな息子でございました」
「もう、喋るでない、しっかりいたせ、……」
「大丈夫である、これこのとうり母の胸に戻ってくれた」
「高麗の王子よ、父もここにおるぞ」
父と母と子として初めて名乗り合う。
矢で背中から突き破れて脇腹からにじんだ血が止まらない。
ワン・ユ、スン・ニャン、その子マハは初めて親子と知ったその日に骨肉の別れも同時に味わった。
それからの数時間のマハの命の灯火は、親子三人の家族の灯火でもあった。
三人は、くしゃくしゃになった顔を寄せ合い、涙をすりつけあい、抱き寄せ合い、空白だった時間を必死で取り戻し合った。
スン・ニャンは洞窟で生んだ、殺されたと思わされていたこの子を少ない残された時間の中で、どれだけ愛しているのか、教えてやる手だては無いかを探った。
それでも無情に命は時を知り、マハは翌日の朝早く小さな震えと共に親の二人に微笑みながら、ワン・ユとスン・ニャンに衣抱かれて十二年のみじかい命を閉じたのだった。
「アイゴー、アイゴー、アイゴー」
あたりかまわず、鳴き声は響き渡った。
我が子を見送って、どれだけ経ったのだろう。
涙も枯れ果て憎しみが湧く時、ワン・ユとスン・ニャンは復讐を誓い合う、
「我が子、マハよ、復讐の力となり、あの世から手助けしてくれい、父と母はお前を無くした悲しみで生きる力も今はなくなってしまった、しかし、このままでは済まさん、この恨みを逆に力として生きていこうぞ」
出る涙も無い、それでも泣きながら、ワン・ユとスン・ニャンはその日のくる事を待ち望むのだった。
我が子マハの遺骨を形見としてわけあい、首から吊るすふたりであった。
チンギス・ハーンの根源は、上天(たかまのはら)より命(みこと)ありて生まれたる蒼き狼ありき、その妻なる蒼白(なまじろ)き牝鹿ありき。朕吉思(海または大なる湖)をわたりて来ぬ、唹難木連(オノン河)の源にブルカンカルドン(大肯特山)管盤(いわき)して生まれたるパク・チカンありき、とある。
パク・チカンから何代か前に渡るとドワ・ソゴルという額の中に一つ目(独眼)を持つ物が現れたという。三日でモンゴルの広大な草原を見渡し得る力を持っていた。
「そこの見えるのは、美しき女子じゃ」
付き人のものには、ただのいつもと変わらぬ草原しか見えない。
どぎまぎしながら、周りを見てみるが一向に判らないのだ。
「なにも見えませぬがソゴル様?」
「ォンン、ワン」
犬が鳴き出した、ようやく草原の彼方から馬と人間の隊列が黒い影として見えるようになって来た。
此所はモンゴルの大草原である大小さまざまな集団の抗争が耐えなく続く、ドワ・ソゴルはこの群雄割拠する草原を分ち、統合し、支配する人間を待ち望んでいる。
「どこかの蛮族でしょうか?」
「いいや違う、これから生まれる偉大な指導者の母なる人がやってくる」
暫く見ていると、ようやく形がはっきりと見えて来た、どうやら、神輿を囲んで隊列が仰々しく進んでくる。
神輿の中には、まだ、3歳にもなろうかという、小さな女の子が座っていた。
年頃になるとソゴルは夜な夜なアラン・ゴアの寝屋に現れて腹をさする、すると腹が光りだし、風船が膨らむようにおおきくなったり、小さくなったりする。
時には腹が波のように動き出し、二三度揺れては縮む、やがて光が消えていつものように何事も無いようにソゴルは寝屋を後にする。
その後何年かすると子供が生まれて、三人の子を授かった。
無論、父親はいない。
その最後の子がチンギス・ハーンの祖先ボドン・チャルであったのだ。
父無し子と馬鹿にされたりしたが、人の言葉を信じず、神からの授かり物と一生懸命に育てた。
それから何代かを経て神の末裔としてチンギス・ハーンが生まれ、大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。
死後、その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神となり、チンギス・カンの生まれたモンゴル部はウイグル可汗国の解体後、バイカル湖の方面から南下してきてモンゴル高原の北東部に広がり、十一世紀には君主(カン、ハン)を頂く有力な集団に成長した遊牧民となった。
ボドンチャルの子孫は繁栄し、様々な氏族を分立させ、ウリヤンカイ、ジャライルといった異族を服属させて大きな勢力となった。
やがて、ボドンチャルから七代目とされるカブルがモンゴル諸部族で最初のカン(ハン、ハーン)の称号を名乗り、カブル・カンの子孫はキヤト氏を称するモンゴル部の有力家系となった。
チンギス・カンの父イェスゲイ・バアトルは、カブル・カンの孫で第三代カンとなったクトラ・カンの甥である。
チンギス・カンはそのイェスゲイの長男として生まれ、テムジン( 鉄木仁もしくは鉄木真)という名を与えられた。
イェスゲイはタタル部族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来た。
この時ホエルンが産気づきオノン川のデリウン岳でイェスゲイの軍が下馬した時に出産した。
このためイェスゲイは、その戦勝を祝して出生したばかりの初の長男の名を「テムジン」と名付けた。
テムジンの生年については、当時のモンゴルに歴史を記録する手段が知られていなかったため、それぞれ一一五五年・一一六二年・一一六七年と諸説が述べられており、はっきりとは分からない。
父イェスゲイは、カブル・カンの次男バルタン・バアトルの三男という出自でキヤト氏の中では傍系に属したが、バアトル(勇者)の称号を持つ有力者で、モンゴル高原中央部の有力部族連合ケレイトの王トグリル(またはトオリル。のちのオン・カン)とも同盟関係を結び、ケレイト王国の内紛で王位を追われたこのトグリルの復位に協力したことで、一代で急速に勢力を拡大した。
テムジンが九歳の時に、父イェスゲイに伴われて母方の一族であるコンギラト部族のオルクヌウト氏族に嫁探しに出かけた逸話がある。この時、途中で立ち寄ったコンギラト部族の本家筋の人物だったらしいデイ・セチェンの家でその娘ボルテと出逢い、イェスゲイとデイ・セチェンはテムジンとボルテ両人に許嫁の関係を結んだ。
イェスゲイはその後のテムジンの養育をデイ・セチェン一家に頼んで自家に戻った。
しかし、程なくしてイェスゲイが急死し、その勢力は一挙に瓦解してしまう。
テムジンは、父の死の知らせを受けて直ちに家族のもとに戻された。
「母上、お久しぶりにございます、私が帰って来たからにはご心配召されるな必ずやまた盛り返してみせますぞ」
「おお、お前が来てくれるとは……、この苦しい生活もさぞや楽になる事であろう……、其処にいるのは誰じゃ?」
「母上様、許嫁のボルテにございます」
母と子たちは抱き合い、長の隙間を埋めるようにいつまでも離れなかった。
幼い子供たちを抱えてイェスゲイ家の管理権を握った母ホエルンは、配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中で子供たちを育てた。
テムジンが成人してくると、モンゴルの第二代アンバガイ・カンの後裔でキヤト氏のライバルだったタイチウト氏の人々は、イェスゲイの子が成長して脅威となることを怖れ、テムジンを捕らえて自分たちの幕営に抑留した。
「いつかまた、この牢獄のような生活から抜け出て、世間を見返してやる」とテムジンは心に誓うのであった。
「テムジン様、タイチウトの者が参ります」
料理の用意をしていたボルテが幕営の一角から声をかけて来た。
「テムジン、この頃においては、息災のようじゃのう、羊の群れもようよう増えて来たようじゃワイ」
「ありがとうございます、おかげさまでなんとか暮らしを立てておりまするに……」
「其方は羊の扱いもうまいそうじゃなあ」
「いえいえ、母を手伝うにつけ、覚えたにすぎませぬ」
「ようし、この中から元気のよいメスを百ほど持ち帰る事にするわ」
「いえいえ、まだ乳も出ぬ子供ばかりで、お役に立つとは考えられませぬ」
「うるさい、だまれ」
そういって、数人の男たちは、無理矢理にも羊を持ち帰ろうとした。
ソルという牧童が、出て来てこういった。
「この斑ばかりの羊たちは、乳もあまり出ません、こちらの白い大きな羊たちがよろしかろうと思いまする」
そういって、何気なくテムジンの横を通り過ぎる隙に羊毛刈りの鉈を手渡して過ぎる。
咄嗟に悟ったテムジンは、
「分かりました、そうまでおっしゃるなら差し上げましょう」
「馬から下りて手伝ってくださいますか?」
仕方ないとばかり、数名のものたちは馬から下りて羊を捕まえるために腰にしていたムチをほどきテムジンの方へとやってくる。
「グサッ」
ソルが先頭に立った頭らしきものを鉈で突き刺す。
「己何をするのじゃっ」残された数人が叫んだが遅かった。
テムジンとソルは、つぎつぎと首をはねて、見る間に頭蓋が五、六個草原に血の荒しとともに弾け飛んだ。
腹を刺された頭らしき男は、
「くうっつ、お頭が言うには、お前たちはもう三ッ日もすれば殺されるという事じゃ……」
と言いながら不敵な笑いを残したまま死んだ。
「テムジン様、今夜のうちにこの場から逃げ出しましょうぞ」
羊を数匹連れて来たソルは、羊の首を撥ねながら血を草原に注ぎ、先ほどの死人の血と見間違うように仕組んでいる。
「いずれにせよ、殺されるところじゃった」
手下の死体を片付けて、ゲルをたたみ終える頃、草原には先ほどの死闘が嘘のように美しい夕日が沈んで行こうとしていた。
テムジンはこの絶体絶命の危機を、タイチウトに隷属民として仕えていた牧民ソル・カンシラの助けによりようやく脱した。
成人すると、今度はモンゴル部の宿敵メルキト部族連合の王トクトア・ベキ率いる軍勢に幕営を襲われ、夫人ボルテをメルキトに略奪されるなど辛酸を舐めた。
このとき、ボルテを奪還するのに尽力してくれたのが、父の同盟者でもあったケレイトのトグリル・カンや、モンゴル部内のテムジンの盟友(アンダ)であるジャジラト氏のジャムカといった同盟者たちだった。
「まだ酔いが回ってないようじゃな?」
「今暫くすれば、奴らは、酒の勢いで眠りこけますでしょう、その時が攻め時でございます」
「早く、ボルテにあいたいわ、何をされたのかと考えると夜も眠れぬわい」
「トクトアの心臓をえぐり出して羊の餌にしてくれるわ」
漸く、一味が寝静まったのか、幕営の中が静かになった。
草原に月夜がまぶしい夜である。
テムジンとジャムカは幕営の中に入り、辺りの様子をうかがった、メルキトはいない。
「トクトアはどこにおるのじゃ?ボルテはどこじゃ?」
「テムジン様、此所はわたしたちに任せてボルテ様をお探しください」
テムジンは暗がりの中幕営の中を探した。
漸く、トクトアとボルテが寝ているところを見つけ出した。
すぐに、刀を取り出してメルキトの首めがけて一撃を食らわす寸前に、
「ぎゃあー」
あちら此方で断末魔の叫び声が発せられた。
その声でトクトアも目を覚まし、すんでのところでテムジンの一撃をかわした。
しかし、首に刀の刃があたり首から飛び散る血の勢いが見える。
「しまった」
とテムジンはすぐに、ボルテを抱えて幕営を出ようとする。
トクトアは首を押さえながら暗闇に身を隠したのか辺りに見当たらなくなる。
「テムジン様、迎えに来てくれましのか?」
泣きながら、ボルテが逃げるテムジンの首に強くしがみついて来た。
「くるしいわい、もそっとゆるりとしがみつけい」
「あい、申し訳ございませぬ」
その声はいつもの妻の声らしく弾んでいる。
暫く馬に股がるとふたりは、夜の帳に隠れるように見えなくなった。
この時幕営は焼き払われ、あとには何も残らなかったという。
モンゴルの大草原の上で久しぶりに夫婦は交わった。
「トクトアに抱かれて喜んだのじゃろう?」
嫉妬心にかられてテムジンは言う。
泣きながらボルテは、
「そのような御無体な事をおっしゃいまするな」
「腹が立って仕方ないわい、お前を好きにしたと考えるだけで腸が煮えくり返るのじゃ」
「いつもあなた様の事だけしか考えておりませぬ」
「本当か?」
「これこの通り」
ボルテは、濡れそぼる女陰をテムジンの手を取りさわらせて怒りをおさめるように導き入れた。
「ああ、テムジン様」
「おお、久しぶりのお前の体の味は、慣れ親しんだ具合がやはりちょうどいい具合だわい」
いつ間にか怒りも治まり、テムジンはボルテの体を何度も何度も味わう。
「ああん、テムジン、テムジン愛しい人よ」
腕の中でボルテは女の喜びにしたる……。
草原は二人の裸体を月夜の明かりで照らし出し、二人をひとつに解けささんとばかりに包み込むのであった。
このような境遇の中、ある事件により偶然テムジンと友人になったアルラト氏のボオルチュ、先祖代々テムジンの家に仕えていたウリヤンカイ氏のジェルメ、ソルカン・シラの息子チラウン、チンベ兄弟らは後のモンゴル帝国の有力な将軍となる遊牧騎士たちが、テムジンの僚友(ノコル)として彼のもとに仕えるようになった。
後にジェルメはジェベ、クビライ、スブタイの三人と共に「四狗」と呼ばれる重臣となる。「四狗」は戦で必ず先頭に立ち、敵を震え上がらせる役目を持つ。ボオルチュやチウランも後にボロクル、ムカリと共に「四駿」と呼ばれる重臣となる。「四駿」は戦ではチンギス・カンの傍から片時も離れず護衛する役目を持つ。
メルキトによる襲撃の後、ジャムカの助けを得て勢力を盛り返したテムジンは、次第にモンゴル部の中で一目置かれる有力者となっていった。
テムジンは振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになった。
テムジンはこうした人々を僚友や隷民に加え勢力を拡大するが、それとともにジャムカとの関係は冷え込んでいった。
あるとき、ジャムカの一族がテムジンの配下の家畜をひそかに略奪しようとして逆に殺害される事件が起こり、テムジンとジャムカは完全に仲違いした。
ジャムカはタイチウト氏と同盟し、キヤト氏を糾合したテムジンとバルジュトの平原で会戦した。
十三翼の戦い(一一九〇年頃)と呼ばれるこの戦いでどちらが勝利したかは食い違うが、キヤト氏と同盟してテムジンに味方した氏族の捕虜が戦闘の後に、釜茹でにされて処刑されたとする記録は一致しており、テムジンが敗北したとみられる。
ジャムカはこの残酷な処刑によって人望を失い、かえって敗れたテムジンのもとに投ずる部族が増えた。
流浪していたトグリル(左)を歓待するテムジン(右) (『集史』パリ本)
さらに、この戦いと同じ頃とされる一一九五年、ケレイト部で内紛が起こってトグリルが王位を追われ、その兄弟ジャガ・ガンボがテムジンのもとに亡命した。
トグリルはケレイト王国を追われてからわずかな供回りとともにウイグルや西夏、西遼などを放浪したと伝えられるが、テムジンが強勢になっていると聞き及びこれを頼って合流してきた。
テムジンとトグリルの両者は、トグリルがテムジンの父イェスゲイと盟友の関係にあったことにちなんでここで義父子の関係を結んで同盟し、テムジンの援軍を得てトグリルはケレイトの王位に復した。
さらに両者はこの同盟から協力して中国の金に背いた高原東部の有力部族タタルを討った。
「万里の城から北の白い野蛮人を根こそぎ殺せ」
テムジンの一声に控えていた数万の騎馬隊は、
「ウーンッ」
一声に声を上げた。
万里の長城が敵と味方の命の分かれ目になる。北側東方に位置するこの地にはタタール人という蛮族が住んでいた。
タタールとは野蛮を意味する。
「此方側は、低くなっているので上からの弓矢、槍の攻撃には弱い、土を積み上げて土豪を作れ、そして土を積み上げて城の向こうに容易に行けるようにしろ」
「ただし、向こうからは此方に来れぬように弓隊を城に配置するのだ」
三日がかりで土を盛り上げて、行き来を容易にする。
3千の弓隊がクモの子一匹とうせぬぐらいに配置された。
三日目の朝、草原の朝もやから黒い隊列が見え始めた。
万里の長城に隠れている数万の兵隊にも戦慄が走る。ざわついた中でテムジンが叫ぶ。
「まだだ、近くに来るまで今暫く辛抱しろ」
「まだ向こうには此方の様子はわかぬ筈だ」
息をひそめ、やがて少しずつちかずく馬の足音に五感を際立たせる。
漸く、馬の足音が止まり、此方の情勢に気づかれた瞬間、
「打てい」
テムジんが叫んだ。
弓矢が雨霰のように飛んで行く、高めに放たれた矢は、距離が有るので暫くの余韻の後に、
「ぎゃあー」
各所で断末魔の叫び声が聞こえだした。
「打て打てい」
テムジンは鳥肌を感じながらも熱り立つ。
弓をかいかぐり、城に到着した敵の騎馬隊と合戦が始まった。
あるものは、首をはねられ、あるものは槍に胴を打ち抜かれて血の海が広がる。
城の両端の方は未だ動いてはいないが、敵は端を狙い其処から打開しようと攻めてくる。
「投石開始」
テムジンの一声に、万里の長城を越えて大きな石ツブテが飛び交う、
「ヒュン、ヒュン」
弓の音もあいまじりながら、石が飛び交う。
「攻め落とせ」
テムジンの鍛え上げられた騎馬隊が造った道を越えて敵に雪崩うった。
見事に上から見ていると百戦錬磨の彼たちの優勢が見て取れた。波打つ敵陣に味方の騎馬隊が疾風のごとく切り込んで行く。
歩兵が行き着くまでに、戦勢は明らかだった。やがて、逃げ惑う敵の騎馬軍や歩兵がてんでバラバラに散り始め、死体の山が連なる。
朝から始まった戦いは、昼頃には決着がつき始める。
やがて煙と火の中でテムジンの一声が響く、
「動いているものは皆とどめをさせ、武将らしきものの首は撥ねて此方にもってこい」
見る間にテムジンの前には数十の首が恨めしそうに此方を睨んでいた。
「金の使いども、この首を土産とするがよい」
テムジンは馬からおり、はねられた首を一つ一つ眺める、やがて一つの首をつかみあげると、暫く眺めた後で恨みでこもる顔面を舐めた。
「おおーっつ」
一同から声が上がる。
「あはははーっ」
テムジンが笑う。首を投げ出し、コロコロと転がる様を見ながら、鎧の下からトルコタバコを取り出して思い切り吸い上げた。
煙を吐きながら、
「愉快愉快、あっはははーっ」その姿は、鎧越しに鬼と化していたという……。
この功績によりテムジンには金から、
「百人長」
(ジャウト・クリ Ja'ud Quri)の称号が与えられた。
また、同時にトグリルには、
「王」
の称号が与えられ、オン・カンと称するにようになったが、このことから当時のオン・カンとテムジンの間には大きな身分の格差があり、テムジンはオン・カンに対しては従属に近い形で同盟していたことが分かる。
テムジンは、同年ケレイトとともにキヤト氏集団の中の有力者であるジュルキン氏を討ち、キヤト氏を武力で統一した。
翌一一九七年には高原北方のメルキト部に遠征し、一一九九年にはケレイト部と共同で高原西部のアルタイ山脈方面にいたナイマンを討った。
一二〇〇年、今度はテムジンが東部にケレイトの援軍を呼び出してモンゴル部内の宿敵タイチウト氏とジャジラト氏のジャムカを破り、続いて大興安嶺方面のタタルをフルンブイルに打ち破った。
「余をよくも此所まで苦しめたものよ」
といいながら、宿敵ジャムカの目をくりぬいて二つともあめ玉のようにしゃぶり、吐き出しついでに首の無い体に小便を吐き出した。
幼少時の敵を打ててよほど嬉しかったのか、宿敵の亡骸を串刺しにして草原に放り出し、鷹や鳶の禽獣類の餌とした。
宿敵を撃った兵隊には、金銀惜しみなく与えて三日三晩酒と女で火照りをおさめた。
タイチウトには、幼少期ひどい目には有ったもののよく助けてくれた女奴隷がおり、テムジンの初めての女を知る相手をしてくれた。
テムジンはタイチウトには何もせず、奴隷共々金銀を分け与えて味方とした。
その分、
ジャムカには、女、子供の隔たりも無く殺戮の嵐と言わんばかりに殺しに殺しまくり根絶やしにする勢いであった。
「た、たすけてくださいませ」
すがる女どもを兵隊にことごとく殺させた。
よほどジャムカのものたちへの子供の頃の記憶が悪かったのであろう、殺戮は三ッ日間続いたという。
一二〇一年、東方の諸部族は、反ケレイト・テムジン同盟を結び、テムジンの宿敵ジャムカを盟主に推戴した。
しかしテムジンは、同盟に加わったコンギラト部に属する妻ボルテの実家から同盟結成の密報を受け取って逆に攻勢をかけ、同盟を破って東方の諸部族を服属させた。
一二〇二年には西方のナイマン、北方のメルキトが北西方のオイラトや東方同盟の残党と結んで大同盟を結びケレイトに攻めかかったが、テムジンとオン・カンは苦戦の末にこれを破り、高原中央部の覇権を確立した。
しかし同年、オン・カンの長男イルカ・セングンとテムジンが仲違いし、翌一二〇三年にオン・カンはセングンと亡命してきたジャムカの讒言に乗って突如テムジンの牧地を襲った。
テムジンはオノン川から北に逃れ、バルジュナ湖で体勢を立て直した。
同年秋、オノン川を遡って高原に舞い戻ったテムジンは、兵力を結集するとケレイトの本営の位置を探り、オン・カンの本隊を急襲すべく策をこらした。
「美しい女を3人連れて参れ、それに貢ぎ物と称して金銀を持たせてケレイトに油断を与えよ」
早速に命令通り、若く美しい女が集められた。
一人は奴隷として東方よりつれてこられた金髪の色のすきとうるごとく白い女であった。
命を取られるのではないかと女は、怯えたが、
「其方の美しさは誠に見事じゃ、近うよれ、酒を持て」
テムジンはすっかりその女が気入り、酒の相手をさせた。
「テムジン様、今二人美しい女子をつれて参りました」
「どれどれ、つれて参れ」
「これ此方へ、まいれ」
一人の女は、モンゴル人らしい目の切れ長な色のすきとおうるようなかぐわしさを讃えたこれまた美人であった。
「これはまた、美しい女じゃ、これ其方も此方に参れ」
同じく、酒の相手をさせて、テムジンは上機嫌である。
「これもう一人の女よ、面を上げろ、顔がよく見えぬではないか」
ベールをはぎ取った女の姿は、水も滴らんばかりの美しい赤い唇と青い目がきらりと輝く、女のような男であったのだ。
「其方は美しいが、男なのか?」
「ジャムカの生き残りにございます」
テムジンの目の色が変わる、怒りが込み上げてきた。
続けて、その女のような男は語った。
「テムジン様のお怒りは、母や父より聞かせられました、あのように虐待に次ぐ虐待をお受けになれば、当然に敵を討ちたくなるのも当たり前でございます、しかし、私めは、生き残り、女として恥ずかしめを受けて参りました」
「誰がそうしたのじゃ?」テムジンが聞くと、
「あなた様のお身内でございます」
「余の身内とな?はて、弟どもか?」
テムジンは、頭の中を探ってみる、しかし、思い当たる節は見当たらない。
「言うてみい、だれかを?」
「これより先はいくらテムジン様とはいえ言えませぬ、それよりも是非に、この大役を私めにお任せください、必ずや、功を奏してご覧入 れます故に……」
「テムジン様、一人、男を入れてみるのもよろしかろうと存じます故、そのものを潜り込ませてはいかがでしょうか」
いつも忠言を語る年老いた父と同じぐらいの年の武将が言う。
テムジンは、父の面影を其の者にいつも見ていた。それ故、言う事をいつも聞いている。
「よしわかった」
何とも煮え切らない思いも持ったのでは有るが、許す事にしてこの三人に大役を任せる事にしたのである。
とは言え、この男女は別としても後の二人の美しい女は殺すにはもったいない、もしかすると死ぬかもしれない危険な役目である。
「その方ら、今夜は、わしの床に入れ」
立ち上がりながら、テムジンは酒に酔った足取りで寝間に行こうとする。
二人の女たちは後を追った。
「面を挙げい」
オン・カンが言う。
「何とも美しい女子たちよ」
オン・カンは抱き寄せて開けた胸や足の根元まで摩りだして酒を飲んでいる。
「余のものになれ」
「いきなりご無体な…… 」
モンゴルの高原を女3人でどこへ行くとも分からずに、馬でさまよい歩いて二日、漸く餌に食らいついて来た。
従者の振りをしながら、テムジンの従者は、捕縛をさけるようにてんでバラバラに逃げた。
幕営につれてこられたのは、女三人、一人は男であるが綿密な化粧と着流し姿で相手を騙していた。
「どこへ行く予定じゃったのじゃ」
「道に迷い、女三人の旅役者の一行でございまする」
「どこへ参ろうともこのモンゴルの草原は、我が軍のものよ」
「聞けば、旅の空に、戦時が有るというおふれでご座いまする、それはもう心細うて、細うて」
「余の腕が一番の安全場所じゃ」
「それはそれは、オン・カン様と言えばこの辺りに知らぬものはいません、テムジンなどというならず者を早う攻め落としてくださいませ、何より妾たちは、これ、踊りの場が無ければ生きて行けませぬ故に……、安全が第一にござりまする」
「任せておけい、おぬしたちの平和は、余が責任をもつぞよ」
「おありがとうございまする」
てんでバラバラに逃げた筈の一行は、皆テムジンの幕営に逃げ戻り、
「うまく餌となり三人は、オン・カンのもとに潜り込みましてにござりまする」
「彼奴、の話だと三日の間待てという事じゃったな」
テムジンが酒を片手に言う。
「あの女男、使える奴でして、すべてお任せあれと言わんばかりの振る舞いにござりまする」
「そうか、どうせ死んでも惜しゅう無いわい」
「うぎゃー」
オン・カンの命は一突きの小刀でけりがついた。
突いた男女は逃げる用意を後の二人に促し、自身のベールを取った。
「あれー、もう一つの目がおでこに……」
逃げながら、女が叫んだ。
それから、一時間ほどの馬走を行くと、テムジンの大軍が入れ替わりに追っ手を吞み込んだ。
「ぎゃあー」
追っ手の数名は、テムジンの騎馬隊に踏み散らされ土にめり込む。
「続けー」
テムジンの一声と馬走の爆音がモンゴルの高原を切り裂く。
数時間後には、セングンたちはモンゴルの地中の肥やしと化していた。
オン・カン、セングンのこの敗戦により高原最強のケレイト部は壊滅し、ドワ・ソゴルの知略等で高原の中央部はテムジンの手に落ちた。
一二〇六年初春、オノン川上流での大クリルタイによって、テムジン、チンギス・カンとして即位する。(『集史』パリ本)
一二〇五年、テムジンは高原内に残った最後の大勢力である西方のナイマンと北方のメルキトを破り、宿敵ジャムカを遂に捕えて処刑した。
ジャムカの武将の心臓をあるだけえぐり出し、草原に捨てて野鳥の餌とした。
やがて南方のオングトもテムジンの権威を認めて服属し、高原の全遊牧民はテムジン率いるモンゴル部の支配下に入った。
翌一二〇六年二月、テムジンはフフ・ノールに近いオノン川上流の河源地において功臣や諸部族の指導者たちを集めてクリルタイを開き、九脚の白いトゥク(ヤクやウマの尾の毛で旗竿の先を飾った旗指物、旗鉾。纛。 tuq〜tuγ)を打ち立て、諸部族全体の統治者たる大ハーンに即位してモンゴル帝国を開いた。
チンギス・カンという名はこのとき、イェスゲイ一族の家老モンリク・エチゲという人物の息子で、モンゴルに仕えるココチュ・テプテングリというシャーマン(巫者)がテムジンに奉った尊称である。
チンギス・カンは、腹心の僚友(ノコル)に征服した遊牧民を領民として分け与え、これとオングトやコンギラトのようにチンギスと同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層を貴族(ノヤン)と呼ばれる階層に編成した。
最上級のノヤン八八人は千人隊長(千戸長)という官職に任命され、その配下の遊牧民は九五の千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成された。
また、千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にもノヤンたちが任命された。
テュルク・モンゴル系の騎馬軍同士の会戦(『集史』)
戦時においては、千人隊は千人、百人隊は百人、十人隊は十人の兵士を動員することのできる軍事単位として扱われ、その隊長たちは戦時にはモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められた。
各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴って移動し、一人の乗り手に対して三、四頭の馬がいるために常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる態勢になっていた。
そのため、大陸における機動力は当時の世界最大級となり、爆発的な行動力をモンゴル軍に与えていたとみられる。
千人隊は高原の中央に遊牧するチンギス・カン直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の任を委ねられた。
このような左右両翼構造のさらに東西では、東部の大興安嶺方面にチンギスの三人の弟ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンを、西部のアルタイ山脈方面にはチンギスの三人の息子ジョチ、チャガタイ、オゴデイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を分与し、高原の東西に広がる広大な領土を分封した。
チンギスの築き上げたモンゴル帝国の左右対称の軍政一致構造は、モンゴルに恒常的に征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定付けた。
クリルタイが開かれたときには既に、チンギスは彼の最初の征服戦である西夏との戦争を起こしていた。
堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、また一二〇九年に西夏との講和が成立したが、その時点までには既に西夏の支配力を減退させ、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせていた。
さらに天山ウイグル王国を服属させ、経済感覚に優れたウイグル人の協力を得ることに成功する。
と
チンギス・カン在世中の諸遠征とモンゴル帝国の拡大。
着々と帝国の建設を進めたチンギス・カンは、中国に対する遠征の準備をすすめ、一二一一年に金と開戦した。
三軍に分かたれたモンゴル軍は、長城を越えて長城と黄河の間の金の領土奥深くへと進軍し、金の軍隊を破って北中国を荒らした。
この戦いは、当初は西夏との戦争の際と同じような展開をたどり、モンゴル軍は野戦では勝利を収めたが、堅固な城壁に阻まれ主要な都市の攻略には失敗した。
しかし、チンギスとモンゴルの指揮官たちは中国人から攻城戦の方法を学習し、徐々に攻城戦術を身に付けていった。
一二一四年四月、金朝皇帝宣宗との講話によってチンギス・カンのもとに嫁いで来た岐国公主(画面左の馬上の人物)。
一二一五年、開封への遷都を責めて、モンゴル軍、中都を包囲する。(『集史』パリ本)
チンギスは一二一三年には万里の長城のはるか南まで金の領土を征服・併合していた。
翌一二一四年、チンギスは金と和約を結んでいったん軍を引くが、和約の直後に金がモンゴルの攻勢を恐れて黄河の南の開封に首都を移した事を背信行為と咎め(あるいは口実にして)、再び金を攻撃した。
一二一五年、モンゴル軍は金の従来の首都、燕京(現在の北京)を包囲、陥落させた。
燕京を落としたチンギスは、将軍ムカリを燕京に残留させてその後の華北の経営と金との戦いに当たらせ、自らは高原に引き上げた。
このころ、かつてナイマン部族連合の首長を受け継いだクチュルクは西走して西遼に保護されていたが、クチュルクはそれにつけ込んで西遼最後の君主チルクから王位を簒奪していた。
モンゴル帝国は西遼の混乱をみてクチュルクを追討しようとしたが、モンゴル軍の主力は、このときまでに西夏と金に対する継続的な遠征の十年によって疲弊していた。
そこで、チンギスは腹心の将軍ジェベに二万の軍を与えて先鋒隊として送り込み、クチュルクに当たらせた。
クチュルクは仏教に改宗して地元のムスリム(イスラム教徒)を抑圧していたので、モンゴルの放った密偵が内乱を扇動するとたちまちその王国は分裂し、ジェベは敵国を大いに打ち破った。
クチュルクはカシュガルの西で敗れ、敗走した彼はやがてモンゴルに捕えられ処刑されて、西遼の旧領はモンゴルに併合された。
この遠征の成功により、一二一八年までには、モンゴル国家は西はバルハシ湖まで拡大して、南にペルシア湾、西にカスピ海に達するイスラム王朝、ホラズム・シャー朝に接することとなった。
一二一八年、チンギスはホラズム・シャー朝に通商使節を派遣したが、東部国境線にあるオトラルの統治者イネルチュクが欲に駆られ彼らを虐殺した。
ただし、この使節自体が征服事業のための偵察・挑発部隊だった。
その報復としてチンギスは末弟テムゲ・オッチギンにモンゴル本土の留守居役を任せ、自らジョチ、オゴデイ、チャガタイ、トルイら嫡子たちを含む二〇万の軍隊を率いて中央アジア遠征を行い、一二一九年にスィル川(シルダリア川)流域に到達した。
モンゴル軍は金遠征と同様に三手に分かれて中央アジアを席捲し、その中心都市サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチをことごとく征服した。
モンゴル軍の侵攻はきわめて計画的に整然と進められ、抵抗した都市は見せしめに破壊された。ホラズム・シャー朝はモンゴル軍の前に各個撃破され、一二二〇年までにほぼ崩壊した。
ホラズム・シャー朝の君主スルターン・アラーウッディーン・ムハンマド、カスピ海南東部のアーバースクーン島にて他界する。(『集史』パリ本)
ホラズム・シャー朝の君主アラーウッディーン・ムハンマドはモンゴル軍の追撃を逃れ、はるか西方に去ったため、チンギス・カンはジェベとスベエデイを追討に派遣した。
彼らの軍がイランを進むうちにアラーウッディーンはカスピ海上の島で窮死するが、ジェベとスベエデイはそのまま西進を続け、
カフカスを経て南ロシアにまで達した、彼らの軍はキプチャクやルーシ諸公など途中の諸勢力の軍を次々に打ち破り、
その脅威はヨーロッパにまで伝えられた。
一方、チンギス・カン率いる本隊は、アラーウッディーンの子でアフガニスタン・ホラーサーンで抵抗を続けていたジャラールッディーン・メングベルディーを追い、南下を開始した。
モンゴル軍は各地で敵軍を破り、ニーシャープール、ヘラート、バルフ、メルブ(その後二度と復興しなかった百万都市)、バーミヤーンといった古代からの大都市をことごとく破壊、住民を虐殺した。
アフガニスタン、ホラーサーン方面での戦いはいずれも最終的には勝利したものの、苦戦を強いられる場合が多かった。
特に、ジャラールッディーンが所領のガズニーから反撃に出た直後、
大断事官シギ・クトク率いる三万の軍がジャラールッディーン軍によって撃破された(パルワーンの戦い)。
バーミヤーン包囲戦では司令官だったチャガタイの嫡子モエトゥゲンが流れ矢を受けて戦死した。
チンギス本軍がアフガニスタン遠征中ホラーサーンに駐留していたトルイの軍では、
離反した都市を攻撃中に随伴していた妹トムルンの夫で母方の従兄弟でもあるコンギラト部族のチグウ・キュレゲンが戦死するなど、
要所で手痛い反撃に見舞われていた。
アフガニスタン・ホラーサーン方面では、それ以外のモンゴル帝国の征服戦争と異なり、徹底した破壊と虐殺が行なわれたが、
その理由は、ホラズム・シャー朝が予定外に急速に崩壊してしまったために、
その追撃戦が十分な情報収集や工作活動がない無計画なアフガニスタン・ホラーサーン侵攻につながり、このため泥沼化してしまった。
チンギス・カンはジャラールッディーンをインダス川のほとりまで追い詰め撃破するが、
ジャラールッディーンはインダス川を渡ってインドに逃げ去った。
寒冷なモンゴル高原出身のモンゴル軍は高温多湿なインドでの作戦継続を諦め、追撃を打ち切って帰路についた。
チンギスは中央アジアの北方でジェベ・スベエデイの別働隊と合流し、
一二二五年になってようやく帰国した。
西征から帰ったチンギスは広大になった領地を分割し、ジョチには南西シベリアから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地を、
次男チャガタイには中央アジアの西遼の故地を、三男オゴデイには西モンゴルおよびジュンガリアの支配権を与えた。
末子トルイにはその時点では何も与えられないが、チンギスの死後に末子相続により本拠地モンゴル高原が与えられる事になっていた。 しかし、ハーン位の後継者には温厚な三男のオゴデイを指名していたとされる。
これより前、以前に臣下となっていた西夏の皇帝は、ホラズム遠征に対する援軍を拒否していたが、その上チンギスがイランにいる間に、金との間にモンゴルに反抗する同盟を結んでいた。
遠征から帰ってきたチンギスはこれを知り、ほとんど休む間もなく西夏に対する懲罰遠征を決意した。
一年の休息と軍隊の再編成の後、チンギスは再び戦いにとりかかった。
一二二六年初め、モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の諸城を次々に攻略、
冬には凍結した黄河を越えて首都興慶(現在の銀川)より南の都市霊州までも包囲した。
西夏は霊州救援のため軍を送り、黄河の岸辺でモンゴル軍を迎え撃ったが、西夏軍は三十万以上を擁していたにもかかわらず敗れ、
ここに西夏は事実上壊滅した。
翌一二二七年、チンギスは興慶攻略に全軍の一部を残し、オゴデイを東に黄河を渡らせて陝西・河南の金領を侵させた。
自らは残る部隊とともに諸都市を攻略した後、興慶を離れて南東の方向に進んだ。
南宋との国境、すなわち四川方面に向かった。
同年夏、チンギスは夏期の避暑のため六盤山に本営を留め、ここで彼は西夏の降伏を受け入れたが、金から申し込まれた和平は拒否した。
ところがこのとき、チンギスは陣中で危篤に陥った。
「チンギス様」
「何じゃ?」
「あなた様の命はもう間近に死が近づいております」
恐れずに言う、ドワ・ソゴル。
「何じゃと?余の命が危ないと申すのか?」怒りに顔を歪める。
「縁起でもない事を抜かす」
手元にあった刀を取り上げて、切り掛からんとする時、
「うっ」心臓に変調が来た。
「おのれ、……」
倒れ込まんとする時、手にした刀がソゴルの首を撥ねた。
首は胴体を離れ、宙を舞い、密教の本経を唱える。
「摩訶般若、摩訶般若、……」
「おのれ、貴様……」
ソゴルは、様子を伺いながら、宙を舞う。
危険な戦場では、女は足手まといになる。
其のため小姓のソゴルはチンギスの相手をしていたのだ。
ソゴルの魔術により、チンギスは女にない男色の世界を知ってしまった。
チンギスの死期を感づき、ソゴルは心臓に異変がある事を感づいていたのだった。
本隊はモンゴルへの帰途に就いたが、
西暦一二二七年八月十八日、チンギス・カンは陣中で死去した。
モンゴル高原の起輦谷へ葬られた。
これ以後大元ウルス末期まで歴代のモンゴル皇帝たちはこの起輦谷へ葬られた。
彼は死の床で西夏皇帝を捕らえて殺すよう命じ、また末子のトルイに金を完全に滅ぼす計画を言い残した。
チンギスと歴代のハーンたちの埋葬位置は重要機密とされ、チンギスの遺体を運ぶ隊列を見た者は秘密保持のために全て殺された。
また、埋葬された後はその痕跡を消すために一千頭の馬を走らせ、一帯の地面を完全に踏み固めさせたとされる。
チンギスは死の間際、自分の死が世間に知られれば敵国が攻めてくる恐れがあると考え、自分の死を決して公表しないように家臣達へ遺言したとされる。
チンギス・カンの祭祀は、埋葬地ではなく、生前のチンギスの宮廷だった四大オルドでそのまま行われた。
四大オルドの霊廟は陵墓からほど遠くない場所に帳幕(ゲル)としてしつらえられ、チンギス生前の四大オルドの領民がそのまま霊廟に奉仕する領民となった。
元から北元の時代には晋王の称号を持つ王族が四大オルドの管理権を持ち、祭祀を主催した。
十五世紀のモンゴルの騒乱で晋王は南方に逃れ、四大オルドも黄河の屈曲部に移された。
こうして南に移った四大オルドの民はオルドス部族と呼ばれるようになり、現在はこの地方もオルドス地方と呼ばれる。
オルドスの人々によって保たれたチンギス・カン廟はいつしか八帳のゲルからなるようになり、
八白室(ナイマン・チャガン・ゲル)と呼ばれた。
一方、チンギス・カンの遺骸が埋葬された本来の陵墓は八白室の南遷とともに完全に忘れ去られてしまい、その位置は長らく謎とされてきた。
モンゴル帝国
モンゴル帝国のもとではチンギス・カンとその弟たちの子孫は、
「黄金の氏族(アルタン・ウルク)」
と呼ばれ、ノヤンと呼ばれる一般の貴族たちよりも一層上に君主として君臨する社会集団になった。
またモンゴル帝国のもとでは遊牧民に固有の男系血統原理が貫かれ、
チンギス・カンの男系子孫しかカンやカアン(モンゴル皇帝)に即位することができないとする原則(チンギス統原理)が広く受け入れられるようになった。
十三世紀の後半に、モンゴル帝国の西半でジョチ、チャガタイ、トルイの子孫たちはジョチ・ウルス、チャガタイ・ハン国、イルハン朝などの政権を形成していくが、これらの王朝でもチンギス統原理は根付き、チンギスの後裔が尊ばれた。
チンギス統原理はその後も中央ユーラシアの各地に長く残り、十八世紀頃まで非チンギス裔でありながら代々ハーンを名乗った王朝はわずかな例外しか現れなかった。
モンゴルやカザフでは、二十世紀の初頭まで貴族階層のほとんどがチンギス・カンの男系子孫によって占められていたほどであり、チンギス裔として記憶されている家系は非常に多い。
こうしたチンギス裔の尊崇に加え、非チンギス裔の貴族たちも代々チンギス・カン家の娘と通婚したので、
チンギス裔ではなくとも多くの遊牧民は女系を通じてチンギス・カンの血を引いていた。
また、チンギスの女系子孫はジョチ・ウルスの貴族層とロシア貴族の通婚、ロシア貴族とヨーロッパ貴族の通婚を通じてヨーロッパに及んでいるという。
また、チンギス・カン率いるモンゴル帝国の戦闘ぶりは、
「来た、壊した、焼いた、殺した、奪った、去った」
と評されている。
ある日、チンギス・カンは重臣の一人であるボオルチュ・ノヤンに「男として最大の快楽は何か」
と問いかけた。
ノヤンは、
「春の日、逞しい馬に跨り、手に鷹を据えて野原に赴き、鷹が飛鳥に一撃を加えるのを見ることであります」
と答えた。
チンギスが他の将軍のボロウルにも同じことを問うと、ボロウルも同じことを答えた。
するとチンギスは、
「違う」
と言い、
「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」
と答えたという。
ワン・ユは、とうとう起輦谷チンギス・カンの墓の前に立った。
「イヴン、この草原の少し盛り土の様なところを掘り返せば、墓に入る入り口が見えるのか?」
「そうでございます、ワン・ユ様、村の長老によれば此所の墓を先祖より守るよう命じられておるようでございます」
「そうか……、ウルフ、この大きな石の固まりをどけてみろ」
村の長老たちは、離れた場所から手を合わせながら見ている。ワン・ユの順帝ドゴン・テムルの親書、通行手形を見せたので信用はしているものの、気が気で無い様子であった。
「ガチンッ」
ウルフの鍬の一撃は、他の者を大きく上回って掘るのが早い、
「ワン・ユ様、何かにあたりました」
この頃には流暢な韓国語、モンゴル語を習得していた。
「ようし、其の石戸を動かせ」
何人かの、上半身を開けた筋肉の盛り上がった兵士たちが5人掛かりで石の戸を押し開けようとする。
「をおおー」
力む兵士たち、盛り上がる血管が石の重さを物語っている、筋肉の競演であった。
特にウルフの力は凄まじい、肩を入れて石戸に立ち向かうと少しずつ石戸、と言うよりもより大きい岩戸が動き出した。
「ギギーッ」
岩戸が開き、他の四、五人を押しつぶさんかと言う勢いで転げ落ちた。
「をおおー」
「気をつけろ、危ないぞ」
バラバラに逃げ延びた兵士の上に転がって来た。
ばっくりと開いた墓の入り口からは、墓らしい、きなびた苔むすようなすえた匂いがしてくる。それでいてひんやりとした空気が流れて来た。
中は、大きく広がり、鍾乳石の通路が広がっていた。
ワン・ユとイヴンを先頭に五、六人が中に入る。
「わわーッ、美しいのう」
「何ともこの世の者とは思えませぬな」
「足下がどうも滑るようじゃ気をつけなされ」
「火を、松明をつけろ」
黒テンとウルフが外に出て松明をつけに行く。
中には、道らしい道はない、かろうじて人独り分ほどの崖の出っ張りが有るのみである。
暗闇に怪しく続く崖の道は、奥が深い、白いつららのような鍾乳石特有の下がりものが辺り一面に広がっていた。
尖って下に落ちてくる事が有るとすればひとたまりも無い。それに水が滴り、行く手を脅かす。
「ゴーーン」
突然地鳴りのような音がして来た。どうも風が舞い、洞内が笛のようになっていて入り口が開いたせいか音がするようである。
「ヒュウウン、ゴーゴーーン」
「あれは何じゃ」
松明を受け取ると洞内の様子が見えて来た、大きな水蓮のような池がたくさん見える。
ちゃぽんちゃぽんと音を立てて水が滴る。
やがて、奥に行くと部屋のようなものが有った。
「おい、大きな、部屋が出て来たぞ」
そこは、人が千人でもは入ろうかと言うほどの大きな広間だ。
松明の明かりが中の様子を照らし出した、
「おお、ヒャーッ」
黒テンが叫んだ。
「どうした?」
ワン・ユが叫ぶと、広間の奥にまた入り口が有った。そして其の入り口を守るように立つ仁王のような体の大きな兵の像のような者が見える。
「目から、らら、蛇が」
黒テンが言った。
入り口を守る仁王兵の骸骨が有り、大きな目の穴から大きな蛇が目から目へと移動している様子が見て取れた。
「大蛇じゃ」
ワン・ユが言った。この兵隊たちは骸骨になりながらも入り口を守っている。
大蛇が目の中に隠れ去るのを待ち、ワン・ユたちは奥の部屋へと歩みを進めた。
「あっ」
イヴンが叫んだ。そこには……。
大きな石棺が人の背を越えて鎮座していた。
「チンギス・カン様……」
思わずワン・ユ達は叫んだ。松明に照らし出された大きな石棺にはモンゴル語で何か書かれている。
「大王、此所に眠る」
其の横には、大小三体の石棺が横に連れ添うように置かれている。
「チンギス様の妻、ボルテ様じゃ、他の分は生け贄となった妾たちだろうよ」
ワン・ユは言った。
皆はひざまづき、頭を下げた。
「あれは何?」
黒テンが叫ぶ。
見ると大王の墓の上に頭蓋骨が此方を睨むように置かれている。恐ろしい事に目となる穴が三ッつ有る。
「ひいーっ」
黒テンがまた叫ぶ。
「三つ目じゃ」
イヴンが言った。
「千里を見渡し、あの世とこの世を行き来出来ると言う、三つ目小僧じゃろう」
「伝説では、チンギス様の家来であったと言う事じゃ。」
後を追うようにワン・ユが付け加えた。
墓の頭の方には、鍾乳石の明かりと松明に照らし出されて、光り輝く金銀財宝の山が見えて来た。
「おおーっつ」
目もくらむばかりの黄金の山が松明に照らしだされて見えた。人の高さ以上の山である。
「恐ろしいほどの宝の山じゃ、略奪した物がここに隠されていたのか?伝説では、白き狼が守っているとの事、下手に触るでないぞ」
ワン・ユが言った。
「ヒュン」
「うつ」
ワン・ユが倒れた。
「ヒュン、ヒュン」
矢が次々と放たれてくる。
「危ない、ワン・ユ様」
ウルフがワン・ユに体ごと被さった。
暗い洞窟で何がおこったのか?中にいる者達は、逃げるのに必死で現状が読めないでいる。
入り口の方がやけに慌ただしくなって、やがて、数人の男たちが此方に近寄ってくる。
「どこかで見た事が有るな?」
ワン・ユは矢があたった左手を押さえながら暗闇を見渡して行った。
タン・セギの残党が洞窟の中に入って来たのである。
「お宝が有るぞ」
誰かが残党側で叫んだ。
「ワン・ユを殺せ」
また矢が飛んでくる、ウルフがワン・ユを抱えて、岩陰に逃げ込む。イヴン、黒テンも違う岩陰に隠れた。
「松明を消せ」
ワン・ユの声に松明が一つまた一つ消えて行く、
「相手は見えない筈じゃ」
ウルフが大きな石を投げる。
「ぎゃあーーー」
二人ほど谷底に落ちて行く、また、石を投げる。
「ガツッ」
今度は誰かの頭かなにかに当たったような音がした。
すかさず、
「うおーー」
声が谷底に遠のいて行く、体制を整えるため、両陣営が岩陰かなにかに身を隠して静かになった。
「おぬしたち、何ものじゃ」
洞内に響くワン・ユの声。
「誰でもよかろう、お前の命を取るだけの事……」
「誰に頼まれた?」
「聞かぬが花というものじゃ」
ワン・ユは皇帝の差し金であろう事は薄々感じている、其の時、ウルフが暗闇に任せて怒りとともに大きな石を持ったまま相手方の隠れている方に突っ込んで行った。
「うううをー」
どどどっと押し寄せて行く、
「ヒュン、ヒュン」
矢が飛んでいるようであるが、ウルフは石でうまくよけて突き進む。
「うわー、ぎゃー」
何人かの断末魔の声がしている。
「ぐしゃ、ぐしゃ」
石で頭を割り出した。恐ろしく強い。ウルフは、最後に石を投げた。
石は何度か撥ねて、数人の命を谷底に落とした。
辺りは静かになった、
「ワン・ユ様、もう大丈夫、ウルフがみんな殺しました」
黒テンが嬉しそうにワン・ユの懐近くに寄って来た。
松明がまた点けられた、ワン・ユの顔色が悪い、左手から入った矢が、心臓まで達しているようだ。
「わしは、もうだめな様じゃ……」
「何をおっしゃいます、ワン・ユ殿、しっかりなされまし」
イヴンは肩を抱き寄せて行った。
「いやいや、もう目が霞んで参ったわ、おぬしたち早く此所から逃げ出すのだ、カーン様のお怒りに触れたのかもしれんわ」
実際、ウルフの凄まじい攻撃をかすんだ目の中で幻視したのはウルフの背後に取り付いたチンギス・カンの亡霊であった。
石を持ち、敵の頭に凄まじい形相で打ち込んで行く、温和なウルフの行動では無い気がしたのである。
「何か違う力が働いていた気がした……」
ウルフ自身も思った。
「これをスンニャンに……」
そういい終わるとワンユが動かなくなっていた。手にあったのは、マハの骨の形見であった。
「ワンユ様……」
黒テンがこれ以上無いべそをかいて、ワンユの体にしがみついた。
「ああああー」
大きな鳴き声は洞内にこだまして、いつまでも止みそうにない。
皆でワン・ユを焼いて葬った。
イヴンは、初めて悪い予感が此所へきて当たった気がする。これまでは何かにつけてうまく乗り越えてはこれたが、運が尽きたのはこの場所であったのだ。
石墓を作り、骨の一部を財宝の中に有った金の壷につめた。
「これぐらいなら、カーン様も許してくれるよね?」
イヴンに言うと、
「そうですね、これぐらいならゆるしてくれるでしょう、何しろ墓を守ったワン・ユ様の骨壺だからね……」
肩を抱きながら、泣きじゃくる黒テンをつれて出た。
ウルフが岩戸を閉めると黒テンは名残惜しそうにその場を離れようとしない。
「黒テン、ウルフがいる、これからずっと……」
入り口には、死体の山が積み重なるように転がっていた。敵も味方も沢山いた。
幕営に戻ると、今度は爺やが激しく泣いてしまう。
「アイゴーアイゴー」
爺やの叫びは深夜まで続いたのであった。
皆、イヴンから事情を聞いて皇帝への憎しみを覚え、復讐を誓うのであった。イヴンも感づいていたのだ、皇帝の悪巧みと冷たさを……。
「一生懸命に働いたワン・ユ様を何故こんな事する?」
「そうだ、そうだ」
泣きながら訴える、黒テンとウルフ、ナターシャ姫夫婦であった。
「ナターシャ、生まれてくる子供にはワン・ユと言う名前を付ける」
「子供が出来たのか」
「うん」
恥ずかしそうにナターシャ姫が言う。今度は、大きな体を揺らして飛び上がって喜ぶウルフがいた。
「ウルフ、ワン・ユ様の生まれ変わりかも……」
黒テンが言うと、幕営の中では少し悲しみが取れて来たのか、笑い声が出てくるようになる。
そんな中でも爺やの復讐の意思は硬い。イヴンにも別の策を凝らす用意が有った。
「じゃあ、何かい?チンギス・カンの宝が十津川に有る言うんかい?」
「何とも突拍子もない話やの」
「……」
「証拠はあるんかい?」
「ウルフの子孫と、黒テンの子孫が此所にいると聞いた」
「だれなんよ?それは?」
井上には嘘をつかれてるとしか聞こえないのである。こんな異国の人間の与太話をまともに受けるわけにはいかない。
「五條の警察なめとんちゃうんかい」また裏拳を飛ばした。
またくるりとよけられて攻撃を受けられて悔しがる。
「なんで入らんのよ?」手を見ながら井上は嘆く。周りで笑い声が響く。
「あほう、何笑とんじゃ」タバコをすぱすぱ吸い続けた。
「兄弟が着いたやろうとはどういう意味なんや?」
「……、ブツブツ」
「またこれかいや、あほらしい」
電話が鳴った。
「はい、はい、井上や」「ふんふん、えーそうでっか」
電話を切った、井上の顔色が変わって、
「解放や」
「えっ」
「解放やがな」
「なんでですか?」篠田が言うと、
「治外法権やて……」
「ち、ち、治外法権?」
「解放してしまえ」
「えーー」
解放された二人はすぐに韓国経由でモンゴルからトルコに飛ぶと言う。
「外務省の偉いさんからの電話やからしゃあないわい」
「……」
先に国に帰った同胞や兄弟は、トルコでイスラム教徒の集落にかくまわれていた。
彼らは、実行犯ではないが日本の中での人探しは物量作戦でもあった、かり出されて日本中をくまなく探す予定だったらしい。
ただ彼らが帰った事からこの十津川の二人の消息がイスラム教本部に分かり、治外法権の政治的手段をとった。
スン・ニャンの父は高麗の軍人であったが、将軍が殺されて貢兵となり元に来て宦官にされる。
「かわいい孫も出来たのう……」
扉の向こうに娘と孫が暮らしていると思うと、打ち明けて孫をこの手に抱きたい。
スン・ニャンを抱いたように……。
母は、貢女として元に来るまでに体を壊し亡くなった。
「スン・ニャン、生きるのだよ……、そしてまた高麗に戻るのだよ……、私はもうだめ、あなたの父親は、軍人なの、背中に……」
「背中が何?……」
がくりと力が抜け、スン・ニャンの母は命を引き取った。激しい雨の中鎖に繋がれて、タン・ギセの容赦ない鞭を受けていた。
疲れと、栄養の不良が原因であった。
何度、
「お止まりください、母が……母が……」
「ええい、うるさい歩け歩け」容赦ない鞭が飛ぶ。
「アイゴー、アイゴー」スン・ニャンの鳴き声は、夜どうし続いたという。
「グサッ」短刀が腹を割った。
「いくらお前が父親でもこの事がばれては困るのだ……」
皇帝の短刀がさらに腹をえぐる。コタキは息絶えていく時、
「どうぞ、皇帝様、スン・ニャンと孫を末永くご寵愛くださいませ、お願いいたしまする……」
「……」
翌朝、裸にされた死体が宮廷の話題をさらった。
「せめて、裸にして背中の星の痣を見ればスン・ニャンも気づくかもしれん、せめてもの……弔いよ……」
皇帝はスン・ニャンの背中の同じ 痣をさわりながらつぶやく……。
「何かおっしゃりましたか?」
「いや何も無い」
くるりと背を返し、反対を向いて物思いに耽るのだ。
「彼奴の背中の痣を見たのは、貢兵として鎖につながらている時じゃったのう……、スン・ニャンのものと全くといって、同じものが有る のだ……」
皇帝が気づくのに時間はかからなかった。
ただ、スン・ニャン自身は自身で背中の様子を見る事は無く、知らないのか……、気づいていない様子であった。
スン・ニャンの父を殺した、皇帝は、ワン・ユの殺害をも考えている。
「余には、スン・ニャンの男関係は必要ないわ……」
貢女を皇后の地位にまで持ち上げてくるには従来の様式では無理であった。
父を殺し、前の男をも殺す、それが無理ならスン・ニャンを殺すつもりでいた。権力の座に有るもの民を束ね、配下を束ねるにはそれなりの努力を要した。
貢女を皇后の座にまで上らせるにはそれ相応の犠牲を払わねばならなかった。
ただスン・ニャンを殺すのは、惜しい。
出来ればワン・ユを殺し、皇帝の地位を守るこれしか無い。
後ろで何も知らず眠りにつくスン・ニャンであった。
十津川の事件も入り口である大台に初冠雪が見える頃になった。
漸く警察の努力が功を奏して来たのか、この頃においては娘がどうの、孫がどうのと親しむにつれ、口も軽やかになりつつある。
殺した二人は、命令による殺人であった。
イスラム系組織が動き、マフィアより質が悪い。何より原理的宗教観が人殺しを美化するのだ、ジハードであろう。
ただ害者は、何かを伝えに来たらしいのだ、二人と話していると断片的に了解できて来た。
しかし、骨格は見えていない、誰が何のため害者を殺したのか頑として口を割らないのだ。宗教者には変な意味での頑固さが備わっている。
肝心なところになるとラマダンの祈りのように口で分けの分からない事を言い出し、所謂仏教で言うところのお経を上げだす始末である。
長期戦になる事は、目に見えて明らかだった。
「害者はさあ、誰に何を伝えに来たのかえ?」
「ブツブツ……」
「祈りばっかやっとったらわからんわよ」
井上は気が短い方なのですぐ言動に出て心中穏やかではない、机を叩く、椅子を蹴る……、しかし二人は口固く黙りこくるか、祈りのようなものを捧げているのだ。
「はよ言うたれや、日本語分からん分けないやろ?」
「井上さん、これら、宗教的感化されとるから催眠術みたいなもんで言わん言うたら言わんと命令されて本人らが喋ろう としても言われ へんのちゃいますか?」
「そんなんあれへんやろう」
「警視庁の犯罪分析課に言うて吐かせる方法考えてみましょか?何やアメリカから分析官呼んで未解決、お蔵入り の事件調べてるらしい ですよ」
「犯罪者言うたらなあ、お母ちゃんが泣いてるぞとか田舎の事やら、小さい頃のお話で……、ほろりと来てからに吐露しだすもんと相場が 決まってんねん」
「そんなアホな、そればっかりじゃ犯罪者検挙出来ませんよ」
何やら、可笑しい、会話が続くと犯人たちは笑い出した。
「もう、ええやろう兄貴、こいつら大概悩んではるからな」
と韓国語で話した。
「日本語喋れ、今何言うたんなら?」
「兄弟たちももう母国に着いてる頃やろう」
また韓国語。
「日本語喋れ言うトンや」
井上の張り手が飛ぶ、柔道2段、空手3段のかなり早い切り回しの空手、裏拳である。
するりとよけて、裏拳をつかんだ。
「離せ、こら」
井上の怒号が飛ぶ。
そして話しだした、二人であった。
韓国語とモンゴル語、トルコ語、日本語を交えて延々2時間ちかくの話は、夕方まで続いた。
さかのぼる事700年近く前の話から始まる……。
「井上さん、治外法権て?何なら?」
「他所の国の人間を裁くには他所の国の法律で裁きますと言う事や」
「あほらしいもんですわ?」
篠田が言うと、
「小梅、さけ持って来て」
と五兵衛。
「いやいや、五兵衛はん、酒だっか?」
「あきません、あきません」
篠田が止めたが、
「ほなちょっと飲みまひょか?」
「まあ、上がって上がって」
「これはうちの畑で取れたもんや」
「何これ?」
「これはね、むかご、山芋の種やな、湯がいて酒の当てにすんねん」
「これも食うてみて」
と言いながら、やおら立ち上がる。
干し芋をとるのにふんどしの横から巨大な芋が見えた。
「おいおい、でか、凄いなあんたのん、サツマイモの長いのん見たいやな」
「ごっついやろ、父ちゃんのん」
小梅もそろそろ出来上がって来たようだ。
「こいもやけど変わった味でうまいな」
篠田は話をそらそうとムカゴの話に戻した。
酒好きの井上は止めても無駄であった。
本人は、地元人との交流を警察もせなあかんと考えている。
一面理を得て入るが、どうも怪しい、何かと酒を飲む口実としか篠田には思えなかった。
「この頃は嫌な事件ばかりやからな、しんどうてしんどうて、たまにこうして地元の人たちと飲んだりして情報交換しなあかんわいな」
「そうだっか」
小梅も、
「もっともや」
と頷く。
この小梅、酒を飲むと癖が悪い、すぐ泣き出すし、脱ぎたがる。
恐ろしい女であった。
ものの一時間もすると、
「触りたいか?」
と、篠田を誘い出した。
「兄ちゃん若いからな、一日三回ぐらい出来るやろう?」
「もうやめてください、おばちゃん」
股の間の篠田のものをしごいたりする。要はものすごくスケベなのである。
酒が入ると自己崩壊してしまい、本来の有るべき姿に戻るのだ。
篠田がなんとか井上をつれて脱出しなければ、小梅と一緒に風呂に入る事になりそうだったのであった。
「にいちゃん」
と言いながら、モンペを脱いで股の間に手を入れさせようとしたりするのだ。
篠田は、
「やめてください」
といって触らずに手を離した。
そんな事を何度も繰り返しやってくるのだ。
終いには、
「まだ出来るで、兄ちゃんさえよければ、おばちゃん食うたら腹痛起こすかもしれんけどな」
これには、井上も大笑いしてしまう。篠田も腹痛がおこるほど笑い転げた。
栄川と言う十津川近辺の三級酒はすぐ開き、這うてでも帰るからと井上は言ったが、結局、寝てしまい、起きた時には昼近い時間であった。
五条署に帰って来たのは三時を大きく回ってしまった。
署長に大目玉を食らって、厠に何度も通うのも必定、散々な一日となる。
篠田と言えば、あまりにも癖の悪い三人を尻目に夕方には家を出て帰っていた。
漸く、夕方近くになって井上の体調が戻りだして来た頃、井上がひょんな事を言い出したのである。
「夜、裸に近い格好であの二人が寝ているのを見ていたらよ、父ちゃんの方が首から骨の飾り物みたいなもんぶら下げとるんさ」
「……」
篠田は何の事を言っているのかさっぱり見当がつかない。
「骨かなんかの首飾りと言う事ですか?」
「ほうよ」
「あんなもの日本には無いぞ」
「なんか、イノシシかシカの骨違いますか」
「ちゃうなありゃ?」
「なんやろかな」
「またこんど行くっ……」
口ごもった、篠田だった。あのエロババァは御免だ。
「もういいですわ」
付け足した。
黙りこくり、物思いに耽る井上がいた。
「あの父ちゃんはどことなく日本人離れしとんな?」
そういわれてみると篠田も合点が行くところが何カ所か有る。
髪が茶色いのやら、色が白いのやら、何よりもあの股間の一物は日本人のものではない。
背も日本人離れしていて六尺を超えているようだった。
犯人たちの言う人物は、あの親父かも知れない。
「篠田、あの親父の戸籍を調べてみるかい」
「すぐに役所でとりよせてみますわ」
飛び出した篠田は五時ぎりぎりで役所に入る事が出来た。
戸籍謄本を職権で取り寄せ、警察署に帰って来れたのは夜の七時を大きく回っていたのだった。
「今日は早く帰る」
と、置き手紙が置いてあった、井上からだ。
「そりゃ、嫁さんに今頃絞り上げられとる筈やろうな」
笑いがこみ上げて来たが戸籍に目をとうすのに集中しなければならないので、頭を振って忘れようとしている。
翌日朝早く、井上が出勤して来た、
「篠田はまだかい?」
お茶を女の子に入れてもらいながら、新聞に目をとうす。
「きゃー」
「わかい娘のしりは、ぷりぷりやなぁ、かあちゃんのとちゃうわ」
女の子は怒りながら、靴音高く逃げて行った。
十津川、熊野版には何の変化も無い。有るとすれば、アユの解禁、冬前の笹がけ漁や火振り漁のニュースぐらいであった。
「おはようございます」
「おお、来たか、おはようさん」井上は続けて、
「戸籍謄本はどないや?」
「やっぱ、外人か?」
「最後の方まで遡られへんかったんですが、韓国が関係してるのは間違いないですわ」
「あれはしかし、韓国系チャウで?」
「どちらかいうと、ロシア系やでな?」
「ほうですわ?」
「やはり見込んだ限りでは、あの五兵衛さんが子孫やろな?」
「そ、そうなりますねえー」
篠田は信じがたい事では有ったが、頷いた。そして、井上の話を聞くまでは、どこか信じがたかったものが現実味を帯びて来た。
すべての状況証拠的なものは、五兵衛を当人と指し示している。
数日後、井上と篠田は五兵衛の家にいた。
「五兵衛さん、胸の中のお守りみたいなもん何か言われ有りまんのか?」
「これだっか?」
と言いながら胸から出してみせる。
「これは母ちゃんから、先祖からの形見や言う事でもろたんですわ」
ぶらぶらまわしながら、井上に渡す。
「骨みたいなんと、お守り袋みたいなんが一緒になってますけど開けてみたよろしいのん?」
「あけたら、ご利益無くなる言うてましたがな……」
「大丈夫やろう?」
いいながら、小梅は篠田に近づいて来た。
篠田は思わず、後ずさりして干し柿の吊るしてある軒先の石段を踏み外しそうになった。
「まあ、かわいいな、逃げてはるわ」
「何や書き物が有りますな」
ちいさく、折り畳んだハングル文字のようなものが見える。それと、小さなのど仏の骨が二個出て来た。
少し頭を下げて、井上は小骨をよく見てみた。
「ワン・ユ……、これは、マハ……」
小骨には、名前のようなものが刻んであった。ハングル文字のようなものの下には、後で書き足したのかカタカナでそう書いてあった。
「上は分からんけど、下のは日本語や、後で書き足してんやろう」
「五兵衛さん、これ、捜査にいるから借りてってええか?」
「もう開けてしもたし、かめへんで、しかし大事にしてや」
それから、五兵衛は少し考え込む様子を見せてから、
「そんな字を、うちの古い墓にも書いてあるで……」
「ほんまかいな?」
皆で裏の墓場に行こうとたちあがる。
畑を越えて、崖になっている裏庭に着くと其処には崖にそって祠のようなものが有った……。
ばっくりと女陰のように割れた、洞窟の入り口が祠の後ろには繋がっていた……。
「ああっ、ワン・ユ様」
スン・ニャンは泣き崩れた。
其の前には、イヴン、黒テン、ウルフ他の一同が顔をそろえていた。
チンギスの墓から帰った一同は、元の皇帝に旅の報告をした後、スン・ニャンのもとにワン・ユの骨を入れた金の骨壺を渡した。
抱きしめながら、顔を擦り付けて泣くスン・ニャンの姿が有った。
「ワン・ユ様は、最後まで勇敢に戦い、死んでゆきました」
黒テンが泣きじゃくりながら言った。
「これも、ワン・ユ様から……」
骨の首飾りを見て
「アイゴー」
スンニャンの鳴き声は宮廷に響き渡る。
愛しい、ワン・ユとマハののどの骨を握りしめて泣き崩れる。
暫くして、正気を取り戻したかのようにスン・ニャンは、
「長い旅をしてこられたのじゃろう、疲れをいやしてたもれ……」
スン・ニャンが手を二つ叩くと、しばらくして若い女官たちがご馳走を運んでくる。
漸く重苦しい雰囲気が変わり、皆の顔が緩みだした、韓国式の琴の演奏が始まった。
「風呂に入るものもいるだろう、岩風呂に入るものは?」
爺やが言った。
皆、酒やら、久しぶりの美しい女たちに囲まれたのが嬉しいのか爺やの声は伝わらない。
「わしは先に酒よりもこれじゃな」と言いながら、爺やは風呂に行こうとした。女官が湯女として後を追う、
「わしにつきあってくれるというのかえ?」
「あい」と女官が言うが終わる間もなく、爺やの手が女官の胸に滑り込んだ。
「ひひひー」
「あい……」
ふたりは、韓国式の岩風呂に入っていった。
そんなある日の事、スン・ニャンは、皇帝が遠征で半年過ぎるのをいい事にすっかりアユルの子守りとなった黒テンを呼んだ。
「黒テン殿、これは何かえ?」
アユルのおもちゃであるが、誰かが掘り出したもののようであった。手が取れている。元々、何かを手に持っていたようであった。
暫く触っていると首が取れて中から手紙のようなものが出て来た。
「これを読む頃には、私はこの世にいないかもしれない、スン・ニャン、私のかわいい娘よ、力の無い父をゆるしてくれ。
アユルというかわいい孫をも手に入れて、いろいろな苦労も有ろうが、幸せになるがよい、いや幸せにならねばならない。
お前を近くから見ていられるだけで、そばでお世話をするだけで今の父には幸せこの上ない。
今日は、アユルの歯が抜けて、朝から慌てたお前の声が聞こえてきた。
そういえば、私たちもお前が歯が抜けて上の歯なら屋根に投げ上げたり、下の歯なら縁の下へと投げ入れて歯がなくなり面白いお前の顔を見て母さんと笑い転げていたものだった。
お前が生まれて、私たちも幸せだった、歯が抜けて大きくなるにつれて風邪は引かないか、腹は痛くないのか、そうこうしている間に美しい女になった。
将軍として戦いに明け暮れる私であったがお前の事や母さんの事は一日も忘れる事は無かった。
皇太后の慰み者と身を落とした今もただただ、お前たちのそばにいて、生活が出来る事だけが幸せと言うもの、これ以上は望むまいぞ」
後は切れてどこかに無くしてしまっていた。
涙を隠しきれず嗚咽とともにスン・ニャンは泣き崩れた。
これは間違いなく幼少の頃に高麗の将軍として死んでしまったと思っていた父からの手紙であった。
周りにいたというのは……。すぐに理解出来たのである。
「コタキ、コタキが父上であったのか?」
コタキの顔を思い起こしてみると、いつも私たち親子に優しく接してくれていた、熱い料理をアユルに与えるときは扇いでくれて、階段の上り下りには落ちぬように前や後ろに立って補助してくれていた、スン・ニャンにもおなかが大きい時には手を貸してくれたものだった。
それとなく分かる愛情をそばに居乍ら感じていたのだ。
やけに馴れ馴れしさも感じて疎ましくも有るときが有ったが……。
それを思うと、配慮の無い自分に嫌さを感じた、なんと父が側にいながらわからずに過ごしていたと言う自己嫌悪を感じられずにはいられないでいる。
嗚咽が止めどなくこみ上げてくる、涙となり目頭からほとばしる。止めども無い感情の嵐が消えないでいた。
「どうされました」
何も知らずにアユルが母の異変を感じて側に近寄って来た。母の異変を感じて一緒に泣いている。
呆気にとられて黒テンも分けも分からず涙してくれているのだ。
「何が有った?」
黒テンは聞いて来た。
「何も無いのじゃ」
スン・ニャンは、優しい二人に涙ながらに答える。
「何が有った?」
ウルフが番人として外から声をかけて来た。
「何も無い無い」
またスン・ニャンが泣きながら言う。
みんな優しい従者たちであった。
草原に幕寮を構えた皇帝は、遠征の傍らでチンギスの墓を訪問する。
中に入り、ワンユの墓を見つけた。
「この墓を掘り返して、外に出せ」
「しかし、皇帝、死んだものの墓を掘り返すとは如何なものかと……」
「ええい、かまわぬわワン・ユの墓等此所には置かぬ、掘り返して外に出せ」
所構わず当たり散らす。
「御意」
兵数名でワン・ユの墓を掘り返し、墓の外へと放り出した。
既に腐敗は進み、ミイラのような状態である。それでも原形はわずかに残っていたのである。
「どうか罰があたりませぬようお願いいたします」
兵たちは苦役をしながらも心の中で祈ったのであった。
墓を出たところにワン・ユの遺骸は置かれた。
其の夜熱にうなされる皇帝がいた、スン・ニャンの代わりにつれてこられた妾を抱きながら、いきなり頭痛をもよおした。
「薬をもてい」
何人かの医者が用意した薬はことごとく効かない。
熱にうなされながら、遠い日のきおくがよみがえる。
「コタキ、妾の乳を吸ってたもれ……、ホレ此方もじゃ」
皇帝が夜、小便に出たときの事であった、付き添いの女官に、
「母上様は何をしておられるのじゃ?」
「……」
女官は答えられない、
「ささっ……」女官の誘いにも十歳になろうかという皇帝は動かない。
「コタキ、コタキ」
宦官であるコタキには男の物は無いが鍛え上げられた筋肉隆々の肉体が有った。
「おお、」感涙の涙を流す皇太后がいた。
「母上」皇帝は幼い心に強烈な場面が焼き付く。
「グサッ」短刀が腹を割った。
「いくらお前が父親でもこの事がばれては困るのだ……」
皇帝の短刀がさらに腹をえぐる。コタキは息絶えていく時、
「どうぞ、皇帝様、スン・ニャンと孫を末永くご寵愛くださいませ、お願いいたしまする……」
「……」
翌朝、裸にされた死体が宮廷の話題をさらった。
「せめて、裸にして背中の星の痣を見ればスン・ニャンも気づくかもしれん、せめてもの……弔いよ……」
皇帝はスン・ニャンの背中の同じ 痣をさわりながらつぶやく……。
「何かおっしゃりましたか?」
「いや何も無い」
くるりと背を返し、反対を向いて物思いに耽るのだ。
「彼奴の背中の痣を見たのは、貢兵として鎖につながらている時じゃったのう……、スン・ニャンのものと全くといって、同じものが有るのだ……」
皇帝が気づくのに時間はかからなかった。
ただ、スン・ニャン自身は自身で背中の様子を見る事は無く、知らないのか……、気づいていない様子であった。
スン・ニャンの父を殺した、皇帝は、ワン・ユの殺害をも考えている。
「余には、スン・ニャンの男関係は必要ないわ……」
貢女を皇后の地位にまで持ち上げてくるには従来の様式では無理であった。
父を殺し、前の男をも殺す、それが無理ならスン・ニャンを殺すつもりでいた。権力の座に有るもの民を束ね、配下を束ねるにはそれなりの努力を要した。
貢女を皇后の座にまで上らせるにはそれ相応の犠牲を払わねばならなかった。
ただスン・ニャンを殺すのは、惜しい。
出来ればワン・ユを殺し、皇帝の地位を守るこれしか無い。
後ろで何も知らず眠りにつくスン・ニャンであった。
陽炎のように走馬灯のように思い出が断片として生まれては消え、消えては生まれる。
そしてワン・ユが現れ、笑う、まるで勝ち誇るように……。
「おのれワン・ユ、き、き様、余を下郎しておるな」
コタキも出てくる、そして同じように笑うのであった。
「きさままでもか、おのれ、殺せ殺せ」
「ああ、コタキ、愛しい私のコタキ……」
「母上、母上、わ、私めは此所にいます」
「わははは、何をぬかす小童のくせに……」
「母上母上」
コタキに馬乗りになって喜びに泣き叫ぶ皇太后、母上の像が見える。
三日三晩、うなされ、苦しみ衰弱しきった皇帝が有った。
「ワン・ユを元の位置に埋めなおせ」
皇帝は行った。
誰も何も言わず従う。
埋め直すと嘘のように皇帝の熱は下がり、家路に着けた。
女陰の奥は深く薄暗かった。
所々にろうそくのさした後が見受けられる、頃合いのろうそくを見つけては、マッチでつけて回る。
「篠田、これが先祖の墓じゃ」
五兵衛が珍しく篠田に声をかけた。というのも井上は途中の道でタバコを燻らせながらきているのだ。
「どないよ、有るか何か?」
井上が後から来ていうと、
「古い、墓が有りますわ」
「なんて書いとるんかのう」
「またハングルかなんかじゃな」自問自答する井上がいた。
「七百年前から有るんじゃ」
「ほうけ、古いもんじゃな」
「この洞窟で長い間眠りについとるんやろう」
大きな墓を中心に小さな墓が何個も重ならんがばかりに連なって置いてあった。
「七百年分は十分に有るんじゃろう?」
「凄い数じゃのう」
暗いお堂のような洞窟には、そこら中に墓が有った。
「みんなお前さんの先祖の墓かえ?」
「そうだす」
「なんと千個以上ン墓石じゃが?」
苔むす洞窟の中、井上と篠田は手を合わさずにおれない、衝動を覚えた。
実際にそうしながら、
「このハングル文字みたいなんは?」
「だれやらわからんわい」
「そやろな?」
「何が何だか分からんわい」
「あっ」
マムシの大きな奴が墓と墓の間を滑り抜けた。白っぽい固そうな皮に守られた大きな蛇である。
くっきりと三角の頭を持ち、間違いなくマムシの様体であった。
「守り神よ」五兵衛がいう。
「これの他に大きな蝦蟇がおるんよ」
「蝦蟇か?」
「もう何十年も住んどるんやわ」
「蛇に食われんのか?」
「両方一緒におるけど仲はええ」
「実に、分からん世界やな?」
「市村の家には山が有ってさあ、まだ分からん祠やら……、仰山有るわな」
小梅がようやくまともなことを言った。
「山の半分以上は父ちゃんの物よ此所らのよ……」
市村家の山は熊野街道をはじめとする紀州の山々の三分の二は所有されている。
持ち合い制度が有り、
先祖の代々から、山々を持ち回りで守って来たのである。
金銭的に苦労すると、違う山主が金で買い取る、しかし、また盛り返してくると買い戻す。と言った風に代々暗黙のうちに持ち回りして来た。
それから十日後の事、篠田と井上は五兵衛の家の前に立つ。
「市村五兵衛、逮捕する」後ろ手にされた五兵衛がいた。
小梅が泣き叫ぶ、
「父ちゃん」
「父ちゃん」
「……」
何も言わない五兵衛。
「小梅さん、一緒に来てよ」悲しそうな顔をして篠田が肩を持ちながら言う。
「どないなってんのか」小梅の悲痛な叫びだった。
事件当日五兵衛は、今田に呼び出され十津川の農協で出会った。
「今田言います」
「何なら?突然手紙よこしてからに……」
「いやあ、すいません突然お呼び立てしまして……」
「あんた、何もんやねん?」
「申し遅れました、手紙に書きましたように元王の家来の末裔になります。こんなん突然言われても信じ難いやろう思いますが、ホンマ、 すいませんでした」
「何や、狐につままれたような話やなぁ」
「墓の中には、宝と一緒にワン・ユと言う高麗王の骨が入ってますねん、この秘密を知ってるのは二人だけです。掘り返して山分けのおこ ぼれに預かりたいんですわ」
「あかん、お断りや、いくらなんでも墓は、掘り起こせんわい、罰あたる」
「そこをなんとか頼みますわ」
「ほんまの話なんか?」
「我が先祖伝来の古文書が韓国の家で見つかりましてん、改築中に出てきよりましたんや、ホンマだす」
「そやけど、それとあんたとは関係ないやろがな」
そう言って逃げながら小走りにくると、なれた道のせいも有り、うまく巻く事が出来た。
木陰に隠れて様子をうかがっていると後から山道に苦労しながら今田が来る。
「痛っ」
イノシシの仕掛けに足を取られた。思わず自分が仕掛けた罠なので出ようとしたが、煩わしさも有って思いとどまり止めた。
「どないでもなり腐れ」
其の後を追うようにターバンを巻いた二人連れが来たのである。
思わず、様子を伺っていると凄惨な殺害現場が目の前に繰り広げられた。
「五平衛はん、二人の屍骸はどこに埋めたんよ」
「……」
「墓のところちゃうか?」
「……」
「あのお守りに書いてあったのは、……」
もぞもぞとポケットからお守りと古い紙切れを取り出し、
「これが出て来たやろが、調べたら、『これを読む頃には、私はこの世にいないかもしれない、スン・ニャン、私のかわいい娘よ、力の無い父をゆるしてくれ。
アユルというかわいい孫をも手に入れて、いろいろな苦労も有ろうが、幸せになるがよい、いや幸せにならねばならない。
お前を近くから見ていられるだけで、そばでお世話をするだけで今の父には幸せこの上ない。
今日は、アユルの歯が抜けて、朝から慌てたお前の声が聞こえてきた。
そういえば、私たちもお前が歯が抜けて上の歯なら屋根に投げ上げたり、下の歯なら縁の下へと投げ入れて歯がなくなり面白いお前の顔を見て母さんと笑い転げていたものだった。
お前が生まれて、私たちも幸せだった、歯が抜けて大きくなるにつれて風邪は引かないか、腹は痛くないのか、そうこうしている間に美しい女になった。
将軍として戦いに明け暮れる私であったがお前の事や母さんの事は一日も忘れる事は無かった。
皇太后の慰み者と身を落とした今もただただ、お前たちのそばにいて、生活が出来る事だけが幸せと言うもの、これ以上は望むまいぞ』
と有ったんや。」
「それが父ちゃんとどういう関係があるんよ?二人の屍骸ってなんよ?」
「まあ、聞きなはれ」
篠田は、小梅を諌めながら小梅の横に座る。今日はふざけている場合ではない、小梅も神妙であった。
「当局で調べてもろたら、これは、スン・ニャン言う七百年ほど前の奇皇后と言われた、貢女から皇后にまで上り詰めた凄い人の父親が書いたらしいわ、字の読めんところも有るけど間違いないらしい、父ちゃんは、何らの関係があってこれを持ってはるんよ、父ちゃんは、なんぞ知ってるんやろう?これらの事に関して……、そやけど今は、二人を父ちゃんが殺してどこかに埋めたかなんかしてんちゃうか?」
「……やりました」
「そうか、どこに隠したんや?」
「同じとこ……」
「墓のとこちゃうんか」
「人殺しの有ったとこや」
「またあの辺にほったんか?」
「……」
「篠田、鑑識呼べ」
奈良県警から捜査員が集められて、今田が殺されていた場所を捜索すると二人のトルコ人が殺されて出て来た。
埋めてはいたものの、イノシシかなにかが掘り起こして顔面が白骨化して出ていた。
「墓に入ろうとする二人を見つけて思わずやってもうた……」
「そやろうな、墓の中の財宝を取ろうとしたんやろう」
「今田は、タン・ギセとか言う一味の末裔らしいわ」
篠田が言う。
「小梅はん、旦さんをお借りして行きますぜ」
「そんなんやったら私もや」
「小梅、ええ、黙っとけ」
五兵衛が怒鳴った。
「いいや、あんた、運ぶん手伝うてもあかんのやろ?」
「まあ、そらまあそうやな」
「まあ、泥棒を殺したんやから過剰防衛の延長みたいなもんやから、そんなにお咎めは無いわ」
「母ちゃんも行くだけ行くか」
竜子は、今日も客を取っていた。
長い行為を続ける客を払いのけ、
「もう今日は帰って」
「何じゃぼけ、もうちょいで行くとこやのにや」
行為を止められた男は、怒り心頭である。
竜子は、体を洗おうと風呂場に行く、おこった男は部屋を出て行った。
出る時、戸を蹴り上げて出て行く。
「アホが……」
燻らせたタバコの煙でむせながら体を洗う。
間もなく、女郎屋の女主人が駆け上がって来た。
「あんた、客おこらせて何してんのな」
怒鳴った。
「辞めますわ」
ちょうど服を着替え終わる頃だった。
「なんやあんた」
素知らぬ顔で竜子は店を後にする。
夕暮れ近くの飛田新地は、薄汚れた町に似合わず、赤い日差しが辺りを染めて美しい、それでも提灯の明かりがともりだした。
竜子の後ろから夕日が後を追う、とぼとぼと女一人歩く心の中で、十津川へと足を運ぼうと決めた。
調べが進むにつれて、事件の全容が分かって来た。
イスラム系の戦闘団体は、中東地域の戦乱が続いており軍資金目当てで国王の名で略奪を画策していた。それで目を付けたのがチンギス・ハーンの財宝であった。
元々は、自国の宝で、チンギスの略奪物であるとの事であった。取り返すという気が強い。
言い訳がましいが軍資金欲しさにひねり出した理屈であろう。
国境を隔てて争いが絶え間なく続く、そんな中でタン・ギセの部下の子孫が居た。噂の段階を通り過ごし、本当に行動するに至るにはよほどの経済的貧迫が伺える。
二人の人間が異国の地、それも十津川の日本の辺境と言う地で殺された。タン・ギセの恐ろしいほどの怨念を感じる。
一方、今田を中心とする韓国系のマフィアはイスラム系のゲリラ団体とは違い、金になればなんでもする組織である。
今田自身がタン・ギセの血を分けた子孫であろうと、どこでどう知ったかはさだかではなかった。
ただ、この組織どうしは対立関係に有り、チンギスの墓が今は分かりようが無いので金目当てに日本に渡り、五兵衛の墓を荒らすつもりであったのだ。
「五兵衛はん、大変な先祖さんが居たもんやな、七百年も探し回されるとはえらいこっちゃ」
「……大まかな話は、聞いた事有るんやが、先祖の話、しかしこんなに経ってから事件が起こるとは思いもよらなんだわ」
「事件を起こしたんは、アンタやがな、へへへ……」井上が親しみを込めて続けた。
「アンタの先祖、まだ調べてる途中やけど、バイキングの血が流れてるらしいで……、韓国から海を渡ってはるばる十津川に来るまで色んな苦労したんやろうからな……、一緒に来た、ウズベクの人もおったらしい……」
逃げる事は無いであろうという事で畳の間で取り調べは続いていた。
「小梅はんは、十津川の倉前の人やろう、この人の家系も大変やなあ、十津川の藩士の出らしいが、明治の十津川の大水害から熊野に出て 苦労して士官の道を探してたらしいが……」
「北海道に出て、十津川村作ってるわ……」
小梅がぼそりと言う。
「いずれにせよ、長い刑事生活でこんなややこしい事件は出会うた事無いわい」
井上が言った。
井上の話は延々と続き、取り調べも骨格が分かってくるにつれてこの事件の根の深さと時を隔てた怨念の恐ろしさが有った。
殺された二人のトルコ人の頭は、まるで原形を残しては居なかった。
ウルフの力が呪い写り、五兵衛の全身を動かしたのであった。石で頭をかち割った殺人は手口が似ていた。
墓の中で大きな石を持ち上げると、力任せに頭めがけて打ち下ろした。
「ごつん」
重い音がした。
「ぎゃああー」
暗い、目が慣れていない時なので辺りは見えない。
所構わず、五兵衛の石は唸りをあげる、
「ボコ、ドコン」
「グエー」叫びにならない声がして、暫くすると静かになった。
「ふー、ふーっ」肩で息をしなければならない。五兵衛が息つく暇無く、小梅が様子を見に出て来た。
「あんた何やったんよ!」
小梅の悲壮な声が背後からして来た。
血まみれになった五兵衛、ふらつきながら石を投げ出して、墓のほうから帰って来た。
「やってもうたわ」
「人殺しじょ」
思わず小梅が抱きつき、胸の中に潜り込んで来た。
二人で泣き止んだのは、死体を埋めてからの事だった。
「おっ、そうや、ウズベクの人の子孫は、十津川の中井さんところやから倉前とは親戚筋やなあ」また井上が思い出して話した。
「そやから、また二人は七百年の時をも越えてまた一緒になったんやなあ」
と、感慨深い井上である。
調べ上げられた調書を書くのは篠田の役目なのだが徹夜を覚悟で居る。
「井上さん、こんだけ多い調書書くのんは初めてですわ、しんどいしんどい」
「あほう、それも若いうちの経験じゃ、ありがたい思え、却っておもろい、こんな事言うたらあかんけどおもろい事件やで……」
「……ほうでっか」
小梅が言う。
「おもろいんでっか?」
少し悲しげでそれでいて薄ら笑いが見えた。
「ほうや、有名な中井庄五郎は小梅はんのおじさんだすわな?」
「…ン、まあ、そうなるわな…」
「幕末の剣豪か……」
篠田が言うと、
「そうやなあ、ウズベクの人の血が入っとんやな庄五郎はん……」
「毛深かったからにゃ、……犬が好きなんも有るんかな?」
小梅が言う。
「犬好きやわな、おまえは」落ち込んだ五兵衛が言った。
そうこうしていると、
「井上さん、お客やで」女の子が言う、いつも尻を触られたりしているので愛想が無い。
「彼氏が出来んわ、あいつは」井上はまた嫌みをいい、立ち上がる。
「おう」
「お世話になります」ぺこりと頭を下げて竜子が立っていた。
「どないしはりましたン」
「今田の骨挙げにこらして貰いました」
「そうだっか」
「篠田、あれはどないなってんや」
「……、調べますわ」
「何日か、かかりまっせ」
「……」
「泊まるとこなんか有りますか?」
「……」
「どないしょ、此所ら泊まるとこも無いわな」
「小梅、泊めたれ」
「そやな」
今日は帰れそうも無いので五兵衛が言うと、小梅が、
「井上はん、あしは帰れまんのか」
「大丈夫やろう」
「また後から聞く事有るやろうけど、また行きますから……」
「ねいちゃん、これも何かの縁やがな、帰って酒でものもらい」
いきなり機嫌が良くなり、
「父ちゃん、ゆっくりして来てよ」
小梅は、酒を飲まんとして家に帰る。非常にわりきりがよい。
「全く、女は強いわな」
井上が言うが、沈んだままの五兵衛が居た。
「……」
「アンタの母ちゃん、長生きすんでな……」
急に井上は可笑しくなって来た。
「あははは……」
みんな笑い出した。
高麗の港に立った二人はこれから異国の地へ死の船出を待っていた。
高麗の端がそり上がった瓦屋根の町並みに見える夜の風景は冷たく、月夜にどんよりとした雲が垂れ下がっていた。
雲の隙間から時折顔を出す月は、海を照らし出し、浮かんだ果物の皮や何か動物の屍骸が腐敗を通り越し浮いていた。
つんと鼻先を突く魚の臭いは、此所が漁師町である事を何度も気づかせてくれる。
少しの夜灯は、月明かりが消えた時、海の様子を照らし出してくれた。
海を抱いて出来た高麗の港は漁師舟しか見当たらず、それぞれがこの港の風景を象徴するように重そうに浮かんでいた。
一つは肩を引っ張られたように傾いた、一つは重みでそのまま浸水しそうで、また一つは船上で生活をしている船明かりと、煙が見て取れた、時折小便を流すのか船の腹から悪臭を放つ水が流れていた。
「日本に行こうというのは、おのれらかい?」
日に焼けた月夜に照らし出された筋肉がたくましい。
「そうです、よろしくお願いします」
「ワン・ユ様の知り合いやいう事やから仕方ないけど……」
「ただ仕事は手伝ってくれよ」
「わかります、手伝います」
「でかいの、立っとらんと舟紐はずせ」
「おう」
「おう?はい、やろ?」
「おう」
ウルフは機嫌が悪い。
「はいや」
「おう!」
気が気で無い黒テンが間に入る。
「はい言え、ウルフ」
「おう」
「……」
「……」
「……プッ」
「あははははー」
大笑いしだした。
意気が有った。
帆が軸になるこの船は、男丸と言う。
深い海に出るまでは、手で漕がなければならない。
乗組員は、この筋骨たくましい初老の男、ウルフと黒テンだけだ。
後から分かったが、この気難しい船長は乗組員を必要としない。
誰も乗らないのだ、人柄が皆から嫌がれていた。
ナターシャは泣きながら港まで来たのだが、子供が小さいのとこれからおこる死の道行きには連れては行けなかった。
スン・ニャンに後を頼んでおいて来た。
遠征から帰った皇帝は機嫌が悪く、すぐに二人に暇を出した。
「余の目に触れるな」
爺が飛びつき、剣を抜いたためその場で首をはねられた。
これでは、二人とも危ないとワン・ユの骨を託してスン・ニャンは皇帝に日本行きを提案した。
「二度も遠征に失敗した地であるが、余の名声を上げるにはそれが良いかもしれん」
「どうせ死んでもかまわん連中じゃ」
「早速に手配いたします」
スン・ニャンは高麗に親書を出し、二人を頼んだ結果である。
この気難しい高麗人の男は、コタキ、スンニャンの父の軍に居た。
気が荒く一人で行動する事を好む、しかし、将軍であるスン・ニャンの父には従順であった。
舟往き三日、昼過ぎから雲行きが怪しい。
薄い霧が海一面に淡くかかりだした。波は風呂敷をつまみ上げたように無数に騒ぎ立った。
風が急に帆柱をならして吹きすぎる。帆がバタバタと音を立てて止みそうに無くなって来た。
船が体を横にずらしだして来る。
右に今まで見えていた流木がいきなり左に見えるようになった。
「死ぬどー」
船長が言った。顔を見ると嬉しそうである。
黒テンはそれを見て狂ったと思った。
「おう」
ウルフも嬉しそうである。海に戻れた喜びが大きいのかもしれない。
黒テン一人が、頭を抱えて船倉に逃げた。
暫くすると、黒い鳥の群れのような物がこちら側に向かって飛んで来る。
よく見ると羽根の付いた魚だ。
「ようし、デカいの、働き時や、魚が飛ぶぞ網ですくえ!」
怒号が飛んだ。
「おう」
デカい網を物ともしないウルフの体が、右へ左へと動ごく。
「ビチビチビチチ」
トビウオの網漁であった、活きの良い魚が船上に撥ねる。
見る見るうちに魚の山が出来た。
黒テンが暫くして、船上の様子を伺うとウルフが水を得たさかな、まさしく其の者だ、右へ左へと腕を振りながら走り回っている。
山がどんどん出来て来た、
「もうええやろう」
船長が止めた。
ウルフは物足りなさそうだが魚は足の踏み場もないほど捕れた。
暫くすると、魚めがけて海鳥の群れがやって来た。
「キイーキイーッ」
「カアーカア」
「ミャーミャー」
色んな海鳥の宝庫となる。
ウルフが魚を捕られまいとして網で魚ではなく、とりを捕まえだした。
「がはははー」
愉快そうに船長が笑う。
二人は楽しそうに仕事をしていた。
二人がひとしきりして黒テンに気づくと、一瞬の間が有って、
「がはははー」
とまた大笑いしだした。
黒テンの船酔いのひどい顔が、げっそり目だけ輝かせて大きく見開かれて可笑しく、まさにそれが黒テンだった。
楽しい船旅は、日本側上陸の手前で断ち切られた。
上陸しようにも波が荒く、船が横にそれてしまい岸に着けるのが難しいのだ。何度繰り返してもうまくは行かなかった。
「ウルフ泳ぐぞ」
苛ついたウルフが飛び込もうとする。
「夜の海に飛び込んだら危ないぞ、冷たいし……」
しかし、波音が聞こえたかと思うや否や、
「どぶんっ」飛び込んだ。
「俺置いてくなよ」黒テン。慌てて飛び込もうとした。
「お前ら死ぬ気か?」
暫く、飛び込むのに躊躇していたが、
「パシャ」
小さい波音とともに飛び込んだ。
「アホらが……」
言いながら、仕方ないのか手を振っている。
見る見る手を振る船長の姿が小さくなった。
「がんばれよ」
そしてすぐに見えなくなった。
暗い海で波が容赦なく襲って来た、海ではすぐ沈む水とそうでないものがある。
この海の水は浮いて入られない、すぐに立ち泳ぎしていないと波とともに沈んでしまう。
「黒テン、背中に乗れ」
捕まえていた、太い腕で背中に誘う。
亀に乗った様に二人は泳いで行く、暗い海は容赦なく二人を吞み込みに来るがウルフは気にしては居ない。
まるでイルカのように海を泳ぐ、広い背中で黒テンはやがて眠気に襲われて来た。
明け方近くに長く続く砂浜にたどり着いた。
能登のこの地は長く続く砂浜があり、どの辺りに着いたのかまるで見当がつかない。
「腹減った」ウルフが言うと、黒テンが、
「俺も…」
「潜ってなんか取って来るか?」
たき火を焚きながら黒テンが、
「あっちに小屋があるけど、あっち行こう、寒すぎるわ」
「ようし、小屋に行こうぜ、俺は潜って魚取って来る」
浜から上がると低い木々を分けて行く、白っぽく浜焼けした小屋があった。
中には網や漁の道具があった。
真ん中を陣取っていろりがあった。裏はようよう高くなりだした木々の山があったので、薪にはこと欠かない。
拾い集めて来た木々をいろりにくべて暖をとった。
暫くすると、また眠気が襲って来た。
「……黒テン、黒テン」
夢の中で誰かが呼んだ。
「はい、誰?」
黒テンは、黒い人影に声をかける。
黒い影は、だんだんと大きくなり、黒テンに近づいて来た。頭が毛がないまる坊主状態だ。だんだん近づくに連れて姿が明らかになる。
白いきれを身にまとい、ーーなんと、目が三つある、化け物、黒テンが後ずさりすると、
「恐れるでない、ドワ・ソゴルと言うものだ」
「……」
「ようく聞け、これからお前たちは十津川という土地にたどり着く、そこにしかお前たちの住める場所はない。ワン・ユの骨をそこに埋めるのだ、そこが一番落ち着く所、日本という土地の隠れ部屋なのだ。……お前にわしの目を貸そう、ワン・ユの骨を無事届けるのだぞ……」
「ドワ・ソゴル……」
つぶやく黒テンをかまわず、影はさって行った。
黒テンが目を覚ますと、横に大きなウルフの体が横たわっていた。
「ガーガー」
いびきがうるさい。
夢の不思議さに呆然と暫く我を忘れていた、何れぐらい時間が経ったのか分からなかった。
我に戻ると腹が減っていたので周りを見渡すと、ウルフの食べ残しが山のようにあって、貝やら見た事もない魚が沢山並べてある。
いろりで焼き上げたのか、串刺しされた魚が油を火にくべながら黒くなっていた。
一つを取って食う、
「うまい」
貝がいろりの砂にまみれて焼き上がり、海水を噴き出している。うまそうに焼けた海も手で取り上げる。
「あっっつ」
慌てて貝をはなした、転がり落ちた貝がウルフの寝ている頬にあたる。
濃いひげにあたったが、ウルフはかまわずにいびきを立てたままであった。
暫く様子を見ていると、煙のようなものが立ちだした。
可笑しくなった、黒テンは暫く様子を伺う事にした。
「じり、ジリっ」
煙が多くなり、火が付きだした。
「あはは、ウ、ウ、ウルフ、あはははっ」
黒テンが腹を抱えて笑う。辺りに人間を焼いた時ににおう匂いがした。
「あっつい」
ウルフが叫んだ。大きな手でひげの辺りにあった貝をはねのけ、火を消そうとひげを刷り上げる。
手で撥ねられた貝は、コンコンと音を立てて、どこかに転がって行った。また事がすむと、
「ガーガー」ウルフは寝入った。
「がはははー」
笑いながら黒テンは、寝転んだ。
うまい魚を口いっぱいにほうばり、笑うとむせて来た、
「ゴホゴホ、水が欲しい」
辺りを見渡すと鉄瓶に湯が噴き出していた。慌てて飲もうとするとあつくて触れそうに無い。また辺りを見回し、手水鉢を見つけた。
水が入っているものかとふたを開けてみて見る、みずがあり手ですくい飲んだ。
「うまい」
此所の水はおいしい。澄んでいて大陸の濁った水とは違う、何杯もすくって飲んだ。
「はあー」
ひとしきり腹も満腹になって来たのか声を思わず上げた。
「がららー」
戸が開く、
「きゃあああー」裸に白いきれだけをまとった女が立っていた。
恐ろしいものでも見たようにうわ目で此方を睨んでいる。
「大丈夫、誰にも言わないで……」韓国語で喋ったが…てん、
「何ですか?」女は言った。この辺りは韓国からの漂流者が多い、土地柄見慣れては入る、住み着くものも多い。
しかし、金髪で色の白いものは見た事がない。
「何してるんです」
「いや、高麗からの流れて此所に来ました、助けてください」思わず言った。
暫くして、外が寒いのもあってかサキと言う女が恐る恐る中に入って来た。
「此所は私たち海女の小屋なんです」
韓国語が喋れるのか、聞き取れる。
「海女?それなに?」
「海で魚や貝を採って生活するのよ、女がやる仕事なのね」
それから、延々、丸半日話し込んだ。途中から起きたウルフも話に入り、話は弾んだ。
サキは、ウルフに興味を持ち出したのか最後のほうになると横に座り込んで膝を触ったりしている。
異国の大男の魅力に引かれて逞しい腕やら、太ももが気になる。そして何より、股間の大きな一物が気になって仕方ない。
「村の若いものにはこんなデカい持ち物を持ったものはおらんがね」心の中で触りたくて仕方ない。
「一度村に帰ってくらあ」
「酒も欲しいでな」
「友達のミヨも呼んで来るさかい」いろいろと前口上を残してサキは出て行った。
不思議な事に黒テンの目が見え始めた、失っていた片目が少しずつ光を得て来たのである。眼球は元々ないのだがよく凝らしてみると、自分の手の指が見える。かすかにまだかすんではいるが、今までとは違う。
ウルフもそれに気づいていた。
「黒テン、目が大きくなって来ているみたいや」
「なんか見えてきだしたわ」
「目がはえて来たんちゃうか」
「生えるって、そんな?」
そんな話をしていると、戸が、
「がらっつ」
少しひらいた。
太ももが着流しを割って裸のまま出て来る、艶かしくのばしたり曲げたりして誘うようである。
つけ根の近くまでまくり上げた着物の中から足が見える。火の明かりに照らし出されて黒テンとウルフは息をのんだ。反対側からも少し細身の長い足が出て来た。若い女の足が艶かしく戸の外に踊っていた。
暫く足の艶かしい踊りがあってそのうちにたまり兼ねたのか、
「あはははー」
「うふうふうー」
二人の女の声が突拍子もなく聞こえだした。
「来たで、待っとったんかあ」
サキがミヨとやらを連れて姿を現した。
「びっくりしたんか?」
サキは、ウルフの横に座りまた股間を触ろうとしていた。
ミヨはそれを見てびっくりしていたが、やがて笑い出した。
「この人ね、でっかい人ちゅうのわ?」
「なにがよ?……?」
「……チン、チン棒」
「がははははー」
大笑いをしながら二人の女は、着物の下から酒と魚を乳をさらけ出しながらいろり端に巻けた。
どうも道すがら飲みながら来たらしい。
とっくりに入った酒を茶碗に移しながら、
「のめえー」
「のめえー」
ミヨも言った。
二人が裸踊りを披露するのも時間がかかる筈もなかった。
黒テンの芽生え始めた目はまんまるに見開かれて瞬きする暇はない。初めて股間にあついものを感じて少年から青年に近づいた。
「いやあん、この子も立ってるわ」
「立ってないわ」
黒テンは、股間を押さえたが嘘はバレバレでどうみても風呂敷をつまみ上げたように股間のものが立ち上がっている。
「きゃああー」
触ったり触られたりして、そのうちに四人がどうなったかは想像するまでもなかった。
琵琶湖では、旅にでて初めて長く逗留する事になる。
どこに行っても四人の行動はすぐに人目に付き、長逗留出来ないのであった。旅から旅へと物乞いや、泥棒を繰り返して落ち着いた先は、沖島と言うごく限られた源氏の血を引く子孫だけの島であった。
この島ではすぐ話題にはなったのだが元々、源氏の血を引く七人の落ち武者が先祖として開拓した場所で流れ者には無頓着である。
ましてや、自分たちもよそ者としてやって来たので入らない詮索もなく、ごくごく当たり前の対応であったのだ。
此所で知らぬ間に積み重ねた悪行の結果か、サキもミヨもどちらの腹も臨月近い大腹を抱えていた。
ここでは、琵琶湖マスという油乗りの良いマスが取れて、京の町へ行けば大金が手に入る。
そこで、海女である女二人とウルフが居れば金は自ずと手に入った。
二人の女は、誰がどちらの子を産むのか知らずに居たが、ミヨは黒テンが好いているらしい、サキはもちろんウルフであった。
二家族は、それぞれに武者が立てたという竹に藁ひもで縫い上げた土塀塗りの小屋に住み、子が出来るのを待った。
京の町に売りに行く役目は黒テンが担った。黒テンの目はドワ・ソゴルの夢が本当らしく今ではすっかり見える。
ただ、片方だけが緑の色をしている。
この目は、黒テンもまだ気づいてない所があるのだが、夜でも見えて、遠くをすかしてみる事も出来た。
やがては時代の先も見えるように出来ていた。
京の町の花街に魚を卸しに行くと女の裸だらけである。それを楽しみにしながら今日も黒テンは歩いていた。
「黒テン、黒テン」
呼びかけるものが居る。
後ろを振り向いたが誰もいない。
「黒テン、黒テン」
また呼びかけられたのだが、姿はなく、行きこう人々が忙しそうに歩いているのみであった。
「誰?」
ワン・ユが京の着流しを来ていつの間にか黒テンの前に立っている。
「ドワ・ソゴルじゃ」ワンユの姿をして現れたのである。
「お前は何かを忘れては居ないかえ?」
「……」
「わしはそなたに託した願いあろう?」
「……」
黒テンは、思い出したように、我に返った。そこにはもうワン・ユの姿はない。
白日夢か、訳が分からずに家に帰り、この事を話した。
「そりゃ、ワン・ユ様の祟りかなんかかのう」
「いいやワン・ユ様は祟られるお方ではないわい」
「よし早速、旅立とうや」
身重なサキとミヨを置いて二人は十津川に向かう事にした。この頃には、サキとミヨの母親も里から来ていたので問題はなかった。
母親たちは、むしろ北陸の片田舎の生活より此所の生活のほうが良い生活をしている様子を嬉しく思っている。
サキとミヨももとより訳ありなのは了解の上、悲しくもあったのだが事情を考えると何か怖い思いもあり了承せざる負えなかったのである。
浮気封じという事で二人が考えだしたのは、下半身の急所近くに入れ墨を入れて、サキ、ミヨと彫り込んである。
「これで安心……」
「何じゃようこれ?」
黒テンは、笑いながら言った。
ワン・ユの骨壺を頑丈な漁で使う網で編んだ入れ物に入れてタスキ掛けできるようミヨが作った。
「ワン・ユ様暫く辛抱をしておいてくださいませ」
手を合わせて、拝んだ一同は沖島を後にして二人は船に乗り込んだのだった。
泣きながら、見送りに来る二人の若い妻たち、
「浮気すんな」
二人は叫んだ。
「おう」
二人は答える。
船は朝もやを縫って静かな沖島の湖に漕ぎいでた。
十津川までの道のりは遠く、不安だらけだ、しかし、使命感が大きい。
タン・ギセの残党は、アフガンのほうへ逃げた者と中央アジアに居座った者とが居た。
アフガン地方の者は、民族性から地元の者たちが中心となりテロ集団が出来ていた。
中央アジアに残った者は、違法の行為を繰り返す盗賊になり、旅人の脅威となっていた。
ワン・ユの首には莫大な賞金がかけられていた。皇帝の差し金であった、皇帝は一計を案じ、自分の身の安全とワン・ユの暗殺という一石二鳥を狙う。
双方の集団からウルフを殺す為手練が放たれている。ワン・ユが死んだ今は、仲間の復讐のためウルフを的にかけている。
やがてウルフたちが、日本に居る事を知った双方の族の者たちは、海を渡ったのだ。
ちょうど頃合いの石を見つけて二人は座った。奈良に差し掛かる。
峠を越えれば、奈良の盆地が広がっている。もう一息であった。
「はーっ、遠いなあ、ウルフ腹へってないか?」
「あかん、もうぺこぺこや」関西弁が板について来た二人であった。
「仕方ない、何かないか探そうや」
「この頃、ナターシャの事やら、子供の事、サキの事が気になって来てしょうがないわい」
「そうやろうなあ、お前、あちこちに女作ってしもたからなあ」
「……」
「……」
「一番気になるのは、もちろん子供たち、嫁はんは大事やけど……、故郷の父ちゃん、母ちゃんや、生きてるんかと……」
泣き出した。
「あほう、お前まだ、居るからましやろう、俺なんか俺なんか、わーん」
二人とも泣き出した。
「……」
二人を見ていた農夫たちは、呆気にとられて見ていたが、やがて、
「あはははー」
笑い出す。
大きな男と小さい男、一目で外人と分かる。
「あはは、腹も減ってんか?」
「ぐーぐー」
腹が鳴った。
恥ずかしそうに、手招きに応じて畑の側まで来た。
「スイカやろか」
手早く釜を使い、大きなスイカを取ってくれた。
割って食うと、果汁が滴り落ちた。
「うめえー」
「うまいなあー」
「なんぼでも食うたらええわ」
腹一杯にスイカを食う。落ち着くと二人は、申し訳ない思いと感謝の気持ちで、
「何か?手伝いましょうか?」
「力だけは百人力です」
「そうやなあ」
「父ちゃん、この米俵と野菜を家まで運んでもらおうや」
「分かりました」
と、黒テンに小突かれてウルフが背負い子で背負った。
「何や兄ちゃんが背負うと、背中に蝉がとまってるぐらいにしかならんな」
「あはははー」
皆で笑った。
峠を越えると、奈良の盆地にちょうど夕日が落ちて行く頃だった。
「きれいやなあ……」
と、其の時、
「ヒュン、ヒュン」
矢が飛んで来た。
ウルフの肩をかすめた、其の瞬間に米が、
「ジャーッ」
と道にばらまかれた。
ちょうど盆地に入る峠をおりきって来たので、道の横に身をかわした四人は、
「どこから狙われたのか」
「あの木の上やなあ」
黒テンの緑の目が察知したようだ。
「叔父やん、鉈貸してえなあ」
咄嗟に木の上の間者にむけ、強烈なウルフの鉈が投げられた。
「ぎゃああー」
頭を二つに割って間者が落ちて来たのである。
「ザザアー」
何人か他にも居たのか林からざわめきの音が聞こえる。
暫くして林から危険を避けてでて来た四人だが、
「何や兄ちゃんら、誰かに狙われとるんかい?」
「かも知れんわ」
黒テンが言った。
「どこのどいつが狙っとるんやろう」ウルフの疑問に、
「おそらく、お前がワン・ユ様の身を守った時に殺した奴らの一味やろう」
「おう」
「うっつ」
「どうしたん?」
「矢が少しかすめたんやが、毒が塗ってる」
「ああ、あかん」
黒テンが咄嗟にしゃがみ込んだウルフの肩口の傷を吸い上げた。
「ぺっ、ぺっつ」
つばと一緒に毒を吸い上げたのだ。
「ぺっつ」
何度か吸い上げて、青くなったウルフの顔から少しずつ血の気が引いて行く。
「ああー」
意識を失って行く、ウルフーー走馬灯のようにこれまでの思い出が頭の中で通りすぎて行った、
「黒テン、もうあかん……」
「アホか、死んだらあかんで、俺一人残して行くな、ナターシャと子供、サキとおなかの赤ちゃんどないすんねん……」
「ああー」
それから数週間、この世とあの世を行き来しながらウルフは死んだ。
黒テンの失意は大きい、泣きつぶれて飯も喉をとおらない。
知り合った農家の夫婦に納屋の一室をかりて雨風をしのいでいたが、いくら剛健極まりないウルフも命の炎を燃やしてしまったのだ。
「ありがとうございました、このご恩は忘れません」
「十津川の知り合いにこの手紙を持って行き、あんじょう計らってくれるやろう」
「あんまり気を落とさんときや」
骨になったウルフを抱いて、奈良の地を去った。
トリカブトの毒を矢に塗り付けてあった。
この地方は、トリカブトが沢山生える。おそらく敵はこの地方に詳しい、人物がいる。
咄嗟に黒テンは合点した。ドワ・ソゴルの目を付けてから妙に先が読める。
しかし、大の友達だったウルフの死は読めなかった。悲しみにくれ、一歩一歩十津川への道を歩むしかない……。
其の頃、スン・ニャンは皇帝の妻となり、奇皇后と呼ばれ、名声を欲しいままにしていた。
アユルも元服して皇帝の地位に登り詰めようとしている。
ウルフ、黒テンが去ってから早や数年の歳月が立っていた。
イヴンも黒テンたちが去った後、旅にでた。
今はどこを旅しているのか知る術もない、報奨金は十二分にはらわれた。
「イヴンの事、旅の空をどこかで眺めているであろう。」
スン・ニャンはお茶を入れながら、思い出に慕っていた。
すると茶を入れていつも使っている茶器が割れた。不吉な思いが頭をよぎる。
「誰ぞの身になんかあるのではないか?」
心配になる、特に気になるのはやはり黒テン達であった。
間者を飛ばそうぞ、ーーそう決めて数名の間者が用意されたのであった。
逐次間者からの情報で二人の様子はうかがい知る状態を作った。
暫くして、ウルフが死んだ事を知った。不吉な勘はこれだった。
「黒テンはどうしておる?」
「ワンユ様の遺骨を持って、十津川という所に向かっている様子でござりました。」
「十津川とな?」
「日本の僻地にござります」
「……」
ワン・ユの骨とウルフの骨を持って黒テンが十津川に向かっている事を聞いてスン・ニャンは、何かに突き動かされているような黒テンの行動を不可思議には思えなかった。
「何か事情があるのじゃろう……」こう言って、付け加えた。
「くれぐれも余の使いと分からぬように引き続き身辺を探り連絡するのじゃぞ」
「御意」
姿が消えた後で、
「無事思いを遂げてほしいものじゃ……」
また、物思いに耽るスン・ニャンであったのだ。
イヴンが去る時手紙を受け取っていた、
「私が去りましてから三日ののちにおよみくだされい」
「分かりましてにござります」
それから、三日後に開けた封書の内容は、皇帝の暗略でワン・ユが殺されてしまった事等が書かれていた。
スン・ニャンは驚かなかった。
「以前より承知の上じゃ……」
スン・ニャンは、皇帝がワン・ユに対しての異常な嫉妬心がある事を知っていた、恐らくは殺される事もあろう、と予想はしてはいたのだった。
しかし、今はアユルの事もあり、復讐の炎を今は消して生きてきたのだ。
父コタキも皇帝の手にかかった、この事は未だスン・ニャンは知らない。
スン・ニャンが飛ばした間者が居る事を知らないまま、黒テンの旅は続く、
「薬売りに頼んだ手紙でサキやミヨにもお前の死を知らせた、そのうちに知れるであろうよ……」
骨壺を手に抱えて黒テンは今や返事のないウルフに伝えたのである。
側にならべてワン・ユの骨壺にも手を合わせるのであった。こうして二つの骨壺を抱えて黒テンの厳しい山越は続く。
高野山に寄り道をして二人の霊を弔ってもらおうと考えた。ウルフとは延暦寺に立ち寄った、あの頃は、ウルフも元気だったのだ。
二人でかけながら延暦寺の根本中堂を目指した日が懐かしい。
いま、こうして金剛峰寺の参道を歩きながら黒テンは思いに耽る。
季節は、既に秋の気配がする。
思えば、琵琶湖の沖島を出たのは夏の朝であった。
朝もやを割って日が入り、湖面の光が眩しくサキやミヨの顔を照らし出したのが懐かしい。
紅葉にひと時の疲れを癒されながら、奥の院の参道まで来ると木が遮って、陽がささなくなり、暗く静かになった。
奥の院の橋を渡ると、読経の声しか聞こえなくなる。
思えば、ユーラシアの大陸奥深い地の生まれである自分が今こうして日本の辺境奥地に足を踏み入れている、感慨は深い。
遠くまで来たものである。道ですれ違うものが異人とばかり避けて通る、ウルフと居た時には感じなかった孤独があった。
奥の院の裏手に回り、大師様の眠る間際まできて手を合わせた。
「よくぞ此所まで来た、黒テン」
辺りを慌てて見直したが声がないのか他の人には聞こえていないようだ。
「黒テン、こっちじゃ」
心にだけ響く声がする。
大師堂を遮る木門の間、お堂の上の竜頭の上にあろう事か三つ目のドワ・ソゴルが見えた。
「大丈夫じゃ、他の者には見えもせぬし、聞こえもせぬわ」
笑ってこちらを見ている。
「もう少しの旅往きじゃ、用心して参られい」
そう言うと姿が消えた。
いつもの事ながら、狐につままられた面持ちで奥の院を後にした。
龍神地方を抜けて、十津川に入ろうとする。
今夜の宿にと入った熊野古道の王子堂であったが、其の夜不思議な夢を見た。
艶かしい手が黒テンの胸に伸びて来た。
そっと胸を手のひらで優しく愛撫して来た、時には一本の、中指だろうか、時には手のひら全体で……繰り返していると段々と下にゆき、とうとう股間で止まる。
中から一物を取り出すと、手で擦りだす、不思議と快感も伴ってきた。
「うっつ」
口の中で一物をしゃぶり、舌で亀頭を舐め上げて来る、当然に一物は唸りをあげてより大きく腫れ上がった。
その内に、手の主なる腕の根元のほうから顔がうっすらと姿を現して来た、此方を睨みつける美しい女の顔が見えだした。
其の口元は少し憂いを含み、笑っているようだ。
美しい女のなすがまま放っておくと、今度は長い髪を垂らして半身を起こして、股がるように腹の上に乗って来た。
手でつかんだ一物を自分の女陰にあてがうと一気に挿入して、快感が走ったと同時に大きく腰を動かしだす。
激しく激しく振り出した。
「おおう、あうう」
どんどん振り出した腰をひと時振り終えたかと思うと、最後に回転するように腰を二、三度ゆっくりまわす、と、同時に大きな声を上げて、
「あああん、おうおう、ああっつ」
小さくけいれんをして、果てて終わった様子で、同時に黒テンの胸にドッサと体を倒して来た。
重みがあり、熱い、息が上がっている体を暫く密着していると、顔を起こしては、やはり先ほど見た妖しい笑みを浮かべてきた。
其の顔をようく見るとどこかで会った顔のようであった。暫く眺めていると顔が少しずつ歪み、昼間も出会ったドワ・ソゴルになった。
「ハッツ」にもかかわらず、不思議と快感が続き果ててしまった。
ドワ・ソゴルは、髪を持ち上げておでこを見せて来た。黒くくぼんだ三つ目の穴だけがあった。
お前にこの目を貸していると言う、意味であろう。
しばらくしてこのドワ・ソゴルのおんな化身は消えて、うっすらとゆっくり、今度は、砂漠が目の前に現れて来た、暫く見ていると、どうもラクダか馬の上に乗っているのか高い位置から砂漠を見ているようであった。
そしてゆっくりと歩みを進めていた、砂漠の砂埃がおこるとやはり目を細めねばならなかったし、馬かラクダかの揺れも感じて来た。
最後に分かったのは、
イヴン様の目線でものを見ているという事がわかってきた。
今は、俺の目でイヴン様の行動が見えている、其の事が分かって来たのであった。
イヴン様は今砂漠を横断してらっしゃるのか、ー激しい熱さと砂埃のひどさに驚いた。横を見ると横が見え、上を見ると上の様子が分かった。
日差しのきつさは、日本の比ではなかった。どんどんと進むキャラバン隊の様子が分かる。
暫くすると、今度は、白いもやがかかり下には湖のようなものが見えてきた。
蓮のような物も見え浮いているのが分かる。琵琶湖なのだろうかーそれにしては、湖が小さい気がする。
暫く見ていると状況が理解出来て来た。
ワン・ユ様の目であった。
「ワン・ユ様」
思わず黒テンは叫んだ。
極楽浄土か、であろう、蓮池の前でじっと物思いに耽ってらっしゃるようである。
横で何やら声が聞こえて来る、
「黒テンが心配で……」
「うーーむ」
とワン・ユ。
横で聞き慣れた声がする。
「黒テン、どうしてるかなあ」
ウルフだ。
涙でて止まらない。
死んでも自分の事を心配してくれている、其の気持ちが嬉しくてたまらないのだ。
次に出て来たのは、
「あーー、早く出て来て……」
女の股間が見える。
たまに見える顔が曲げられて見えたり、見えなくなったりしている。
よく見ると、ミヨの顔であった。
どうやら、お産の最中らしい。
「あーー、痛い、早く出て来い……、うーーああ」
身につまされて胃が痛くなる思いがする。
思わず黒テンも手を握りしめていた。
手に汗する思いが暫く続くと、
「おぎゃー、おぎゃー」
大きな赤ちゃんが出て来た。
金髪で青い目をしていた。
「ウルフの子だ」
生んだミヨも驚いている。
暫くして、黒テンは怒りではなくて優しい気持ちが込み上げて来るのだった。
「どちらの子でもかまわない……」
「サキはどうしたのだろう……」
辺りを見回しても姿がない。
「あれーー」
ドギマギしているミヨが見て取れる。
どうしたらよいものかと悩んでいる様子でもある。
黒テンの子ではないのは明らかであるからだ。
黒テンは、可笑しくなって笑った。
「元気ならどちらでも良い」
男この子であった。
「あれっ」
ミヨが布団の上で疲れを癒している様子が見えたが、もう一人、赤ちゃんが居る。
赤ら顔のちいさい子供だ。……
目の前が白んで来て夢か幻は消えて行った。
朝が来たのだ、
「何とも不思議な夢じゃ……」
見渡すとお堂の中のーー不動明王であろう像の前に餅があった。
「かみさん、たばらしてよ」
片手で拝むと、ぱくりと口にした。
寝ながら食うと、また先ほどの情景を思い出していた。
「あれは正夢なんじゃろうか」
それからまた、餅を食いながら眠気に襲われて眠ってしまう。
今度は、何も見なかった。
も一度目を覚ますと、
「……うーーん」
あたりは、陽がさし込んで昼近い様子である。
「ぎー、ぎー」
お堂の戸を開けて外に出てみると、ひんやりとした空気が美味い。
「あーー」
あくびと一緒に大きく伸びをすると鳥の声がたくさん聞こえる。
落ち葉が広がる比較的広くなった道を骨壺を抱えて歩き始める。
それから、道行き半日、漸く十津川の入り口付近まで歩いて来た。
上り下りと険しい道のりではあったが漸く到着したのだ。
「ああー、此所が十津川か」
感慨無量の黒テンであった。
農具を担いですれ違う、四十がらみの女に聞いた。
「このかたの住まいは何方ですかい」
懐から出した手紙を見せて聞いた。
女は、少し怖がった様子で女がそれを見たが、
「わしやあ、字が読めんでのう……」
しばらく、手紙を見ながら悩んでいたかと思うと、
「ああ、橋本さんじょ」
「わかった、この字は橋本の家に宛てられてる筈じょ」
と答えてくれた。
それから言われたとうりに道を行くと、大きな百姓家が見えて来た。
「スンません」
「なんじゃえ」
出て来たのは六十近くのばあさんであった。
怪訝そうに見ているかと思うと手紙を見て、
「権兵衛はん」
笑った。
「父ちゃん、奈良の権兵衛はんからやで」
「あんじゃら」
背の高い七十にもなろうかという爺さんが出て来る。
手紙を取って暫く読んでいたが、
「ほう、大変なこっちゃなあ」
暫く考え込んでいると、
「よっしゃ、こっちにおいで」
黒テンはついて行く。
先ほど歩いて来た道に戻り、暫く行くと道から下るように細い道が繋がって、それを行くと小さい家が見えて来た。
「此処で住んでもええよ」
「……」
呆然としている黒テンを尻目にまた家に戻って行った。
「何やろう、なにかいてあったん」
とりあえず、家の中に入り、引いてあったござの上に横になる。
「あーーー、なんでもええか」
また眠りこけてしまった。
それから、次の日の朝まで眠り、腹が減ったのであたりを見回すと、軒先に干し柿や干し芋が沢山干してあった。
それを手当り次第に取り、口に入れる。
「美味い」
たらふく食い続けてまた横になる。
ボーーッとしながら縁側で寝ていると、
「米あったかよ」
昨日の爺さんが来て米俵を置いて行く。
「兄ちゃん、これを粥にして芋と一緒にい、煮込んだら最高じょ」
そう言ってまた帰って行った。
言われた通りにいろり端でやってみた。
所帯道具は何故か揃っている様子であった。
縁側と続いて玄関がある。
部屋は大きくは無いがふた間続きの部屋と台所に面して少し大きめの部屋があった、居間という所だろう。
「十分じゃ」
俵を開けてみると米が沢山入っていたし、アユの甘露煮、みそ、大根等が入っている。
「有り難や、当分凌げるわい」
こうして一週間ほど過ぎたある日の事。
「おい、兄ちゃん、母ちゃんが来たぞ」
そしてまた、爺さんはミヨを置いて帰って行った。
「ミヨ、……、母ちゃんも」
涙があふれて前が見えなくなった、今日は様子を伺うためか、爺さんは小道で振り返って此方の様子を見ていた。
「黒テン、来たわよ、これがアンタの子じゃ」
ミヨの母ちゃんが大きな男の子を抱かせてくれた、金髪であった。
途中で可笑しくなって来た黒テンは、
「くくくっ」
気を使い、娘のために嘘をついた母親が、申し訳なさそうに此方を伺っていると思うと可笑しくて堪らない。
「くくくっ」
「何が可笑しいんよ」
堪え兼ねてミヨが怒ったように言う。
「いや、こいつは、ウルフの子じゃろう」
「……」
「そっちの黒い子の方がわしの子じゃ」
「……なんで分かる…ん」
「分かるわい」
「……」
「明らかに違うやんけ」
「まあ、ええから、上がれ上がれ」
母親も申し訳なさそうに畳みに座った。
黒い髪の女の子も抱いてみると小さくて軽いけどよく笑う愛嬌よしであった。
「夢で、見た……」
どうせ信じないかもしれない、途中で話すのを辞めた。
それよりも、ミヨも母親も腹が減っていたのか芋粥に食らいついている。
「美味いやろう」
「おいしいわこれ」
「ほんまや、能登にはないわな」
「サキにも食わせた、……」
「サキは死んでな」
「……なんで?」
「この子を抱いて倒れたんよ」
黒い顔の子が圧倒的な目力でこちらに視線を向けたかと思うと、目が合った瞬間にニコニコッと笑う。
「産後の日立ちが悪かったみたいや」
「そんで、出てこんかったんや……」
「此所は何?……どないしたん」
「貸してくれるらしい、畑と田んぼを耕してくれるんやったらいつまでもかまへんて……」
「……沖島には戻らんのかいな」
「此所がわしらの故郷になるんやがな」
「ええーー」
「あかんかして……」
「母ちゃんが、どないする?」
「私はかまへんよ、父ちゃんも死んだし、子守りでもしながら……死んでくわ」
「何、寂しいこと言うてますのん、お母さん」
「もう年やからな……」
ミヨの母親は四十になった所であった。
「お母ちゃん、まだまだ行けるで」
「何が……」
「あっちの方もや……」
「……」
呆気にとられた黒テンであった。
「相変わらずや」
「此所までの道のり大変やったやろう」
「そうよ、迎えに来てほしかったわ」
話を聞くと、襲われて何度か危ない目にあったのだがその度に誰かが来て助けてくれたそうなのである。
お礼を言おうとするとすぐに消えていなくなった。
そんな事の繰り返しであった。
「スン・ニャン様の間者……」
黒テンは気づいたのであった。
「ありがとうございました」
と心の中で感謝した。
ミヨの母親は、もう一つの離れに住み着いた。目の前にあるのでミヨ達の農作業のおりには子供達の面倒を見ている。
畑も目の前の土地にあるので心配は入らなかった。
此所は丸山の千枚田にも近い土地柄なので平地が狭く、段々畑に必然的になってしまう。
取れ高も少なく、検地も出来ないほどの不便でややこしい土地柄である。
其の恩恵と言っては何だが御赦免の地であった。
当時、南北朝の煽りもあってか高貴な方の御隠れの場として重宝がられた。
よって御赦免であったかも知れない。
裏の段々畑の崖の奥には、此所の先祖の墓と思われる墓石群があった。
奥は鍾乳洞のようで入り口が女陰のように割れていた。
ここには土地の余裕があったので、ワン・ユとウルフの墓を作った。
「父ちゃん、ひさしぶりじょ、可愛がってよさ」
「……」
「こんなになっとるんよ」
黒テンの手を自分の股の間に持って来てさわせる。
「……」
そこは既にぬれそぼり、足の付け根までこぼれ落ちている。
なつかしい手が黒テンの胸に伸びて来た。
そっと胸を手のひらで優しく愛撫して来た、時には一本の、中指だろうか、時には手のひら全体で……繰り返していると段々と下にゆき、とうとう股間で止まる。
中から一物を取り出すと、手で擦りだす、快感も伴ってきた。
口の中で一物をしゃぶり、舌で亀頭を舐め上げて来る、当然に一物は唸りをあげてより大きく腫れ上がった。
その内に、手の主なる腕の根元のほうから顔がうっすらと姿を現して来た、此方を睨みつけるミヨの顔が見えだした。
其の口元は少し憂いを含み、笑っているようだ。
ミヨのなすがまま放っておくと、今度は長い髪を垂らして半身を起こして、股がるように腹の上に乗って来た。
手でつかんだ一物を自分の女陰にあてがうと一気に挿入して、快感が走ったと同時に大きく腰を動かしだす。
激しく、
激しく振り出した。
「おおう、あうう」
どんどん振り出した腰をひと時振り終えたかと思うと、最後に回転するように腰を二、三度ゆっくりまわす。
と、同時に大きな声を上げて、
「あああん、おうおう、ああっつ」
小さくけいれんをして、果てて終わった様子で、同時に黒テンの胸にドッサと体を倒して来た。
重みがあり、熱い、息が上がっている体を暫く密着していると、顔を起こしては、
やはり先ほど見た妖しい笑みをミヨは浮かべてきた。
「ミヨか?」
「どうしたん?」
「……」
全く同じ事がおこった。
そこに住みついてから七百年の歳月が経った。
小梅が朝早くから起きて五兵衛の所へ差し入れに行こうとしていた。
此所三日ほど竜子が泊まっている。
「竜子はん、わしゃあ、行くで、アンタまた飲み過ぎたんか」
「……」
「これやから水商売の女はあかんわよ」
「……」
「骨挙げせなあかんやろいに……」
アホ臭くなって心配は自分の夫だけで十分と考え、
「行ってくるに……」
「あーーい」
漸く返事が返って来たが、其の頃には竜子の事は他所に置いてさっさと小道を歩いていた。
竜子は起き上がり、シミーズの裾がパンツに食い込んだのを直しながら、
「ああーー」
大きな欠伸をして台所に行く。
ビールを取り出して一気に飲んだ。
「ぷはーー」
美味そうにさらに飲んで、飲み終わると同時に男が欲しくなって来た。
「カンジュ」
抱かれているのを思い出しながら胸をもみしだく、暫く揉んでいると股間が熱くなりパンツに手をしのばせた。
「ああん、カンジュ」
また寝間に戻り、手淫に耽る。
果ててしまうと、また眠気が襲って来た。
このままではいつまでも社会には復帰出来ない。
焦りとどうするのか道を考えねばならない、もう、体を売る商売はしたく無い、思いは激しく交差していた。
そうして、二、三日が過ぎる頃、篠田が尋ねて来た。
「竜子さん、やったね」
「はい」
「骨を取りに来てもらえますか」
「今からですか?」
「今からでも結構ですよ」
「分かりました、少し、待ってもらえますか」
「待ってます」
篠田は快く外で待つ事にした。
前の畑には、大根やら、白菜の畑があった。
「ほうう、これは立派な野菜や事」
「あげよか」
聞き慣れた声が背後から聞こえて来た。
「あちゃー、おばちゃんやがな」
「なんぼで抜いてもって帰りや」
「ホンマかいな、ありがとう」
逃げるように畑におりてゆき、適当な大根を二、三本頂戴する。
畑を上がって来ると、竜子が用意して待っていた。
「竜子に手出したいんやろう」
小梅にキンタマを握り上げられて言われた。
「あっ、痛たたあ」
「はよ連れてけ」
「無茶すんな、おばちゃん、相変わらず……」
竜子が早くしろと言わんばかりにハンドバッグをまわしている。
「はいはい、行きましょか」
二人は車に乗り込んで出て行った。
山を一時間ほど越えた火葬場に着いた。
「書類の手続きがありますから此所で待っといてください」
「はい」
暫くすると書類を篠田が持って来る。
火葬場の事務所で二、三カ所判をついて住所を書いた。
火葬場の手続きを済ませると白い骨壺を渡される。
骨壺をなでながらしょんぼりしている竜子に篠田が言った。
「これからどないしはるんですか」
「……」
「良かったら、警察の事務職募集してるから……」
「私のような汚れた女が行くような所ではないんで……」
「いやいや、今の子が結婚で辞めよるんで、欠員あるし……、それに井上さんも言うとりましたが、犯罪に関係した人の方が事件に目鼻が立つ言うとりましたよ」
「……」
「まあ、簡単な試験がありますねんけど、過去問あるし、だいじょうぶでしょう」
「考えます……」
「良かったら、試験まで五条の警察寮がありますから、そこにお泊まりください」
「でも……」
「試験がある時までですから……、かまわんと思いますね、こないだは、事件関係者やったから泊まれませんでしたが、今度は、試験関係者やから……」
ゴロが良すぎたのか、竜子は少し笑顔を見せた。
頭の中では、仕事をどうするか考えてはいたが、警察となると韓国籍等問題は多いのではないかと心配する。
「韓国籍は、心配ありませんよ、知り合いの代書屋さんに頼んであげるから……、コネは私と井上さんやから、百パーセント合格ですわ」
「でも女郎の……私が」
「阿呆言いなさんな」
「……」
「そやから、逆にええんや言うとりますがな」
「……」
どうも篠田は竜子に気があるらしかった。
竜子は篠田の誘いには、快い返事もしないでその日のうちに大阪に返って行った。
「お前がなんぼ言うても相手の人の考えも有るちゅう事やがな」
どうも面白くなさそうな篠田を連れて居酒屋で井上が言う。
「そうですね、人それぞれですからね……」
また新たな事件が起こると篠田は竜子の事も忘れて行った。
五兵衛は懲役十年、今は獄中の人であった。
弁護士からは、
「過剰防衛であるものの殺人で二人殺しているから、それでも、ましな方ですわ」と言われ、落ち着いたのであった。
また、襲って来るかもしれない敵は無くなってはいない。
五兵衛は小梅の事が心配であった。
「五兵衛さん、わしらもちょくちょく見回る事にするがな」
井上にそう言われて納得するしかない五兵衛だった。
先祖の因縁が七百年の時を越えても引き継がれている。今はもう頼りになるスン・ニャンの間者もいない。
ただ暫くは安泰ではあろう、またすぐに事件を起こすとは考えられないからだ。それがまた、七百年先なのか、千年先なのかそれは誰も知る由はなかった。
スン・ニャンは晩年奇皇后として息子アユルを皇帝の座にまで無事つかせて亡くなった。
奇遇な事に死んだ日はイヴンと同じ日であったのだった。
最後までワン・ユを愛した、順帝トゴン・テムルは側近に毒殺された、
「父を殺したのを私は知っておりました、父の苦しみを知って、死んで…」
断末魔に苦しむ皇帝の耳元でスン・ニャンは言った。
「スワッ」と目を開け、すべて了解した皇帝は死んで行った。
スン・ニャンの復讐は終わった。
ホータンの川の流れは、コンロン山脈を起点として夏になると現れる。何日もかけて雄大なタクラマカン砂漠をよぎる。
中国新疆ウィグル自治地区を白玉河、黒玉河と合流して北へ北へと流れて行く、タリム河に合流する頃には、四十日の日々がある。
イヴン達は此所でひと時の休憩を楽しんだ。泳ぎ、釣りをする。
舟の一種の魚が現れる、不思議な事に夏にしか現れない大河なのであるが魚がいる。
イヴンは、想う。
ワンユ様とモンゴルの草原を馬で走る事、チンギスの墓に近づいた四日目の事、
「わしの命はいつ無くなるか判らない、これをスン・ニャン渡してくれ」
そこにあったのは、スン・ニャンに渡す筈であった指輪であった。
緑色の宝石は光り輝いていた、
「これをお前に託すぞよ」
そう言ってワン・ユは、立ち去った。
帰国してスン・ニャンは、涙ながらに語った。
「これは、元を正せば、高麗歴代王妃に渡されて来たものじゃ、ワン・ユ様が私にとな……」
胸に抱きしめて泣きじゃくった……。
流れが続く、タリム河に合流する河の様子を見に来た、ふと考えたのは、そんな事だった。
合流できなかった二人を想ったのか……。
明るい夏の日差しを浴びて河の流れを見ていると二人の数奇な運命に翻弄された命を哀れに想う。
しかし、自分の人生と比較するとなんと豊潤であろうか、一概に言えないがそう思った。
「イヴン様、河が繋がりますぞ」
声にかき消された思いは、旅の空に遠く霞んで行く、
「おう、なんと不思議な事じゃ、」
河が繋がると同時に何処からか平たい船が流れて来た。
船には米俵のようなものが沢山積まれていた、
「ほーい、ほーい」
初老の船頭が長い舵取り棒でうまく河を渡って行った。
河を後にして馬行き四十日、
我々は、シャウワールの月の十日目、ハーツーン(皇族)=バヤルーンと一緒に、
彼女の保護のもとコンスタンチンノーブルに旅立った。
スルタンは、一旅程の所まで彼女に付き添って進み、その後、皇后と王位継承者、皇太子をを連れて引き返して行った。
すべてのハーツーンは、二旅程の所まで彼女を見送って旅した後、戻って行った。
彼女に同伴して、アミール=バイダラが五千騎の自らの軍隊を率いて進んだ。
彼女にとっては、一時の訪問と出産のための旅立ちであった。
イヴンはまた旅を続けていた、ワン・ユ達との事はすばらしい旅の経験であった。
忘れる事は出来ない……。
こうして旅の人イヴンは、スンニャンの死後、日を開けずこの世をさった。
思えば、ユーラシアの大半を踏破し、様々な国々で、要人と接し、冒険をした。
時に影となり、時には表舞台に立って……。
完
参考文献
大旅行記 イヴン・ジュサイイ
ウィキペデア チンギス・カーン
700年の刺客 @kuratensuke
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