孤猿

@kuratensuke

第1話


白猿

                   十津川 会津



ある山に猿の親子がいた。

母は体に生まれつき障害が在り、左手首から先がないのである。

親子は、山の猿たちが住む山の中でも一番不便で水場に遠い、餌場にも最も遠いところで住んでいた。

餌を食べる時には当然いちばん後から他の猿の食べ残しを食べ、水場では踏み荒らし濁り切ってしまった水を飲んで命を繋いでいた。

他の猿たちはこの親子を疎んじて隅に追いやる、ただ、この山を仕切るボス猿は偶に様子を窺いに来ては母親に手を付けて帰る、この子はそのボスの子である。

子供がそろそろ他の猿たちとじゃれあったりして遊ぶようになると母猿は、なるべく身を隠すように山の上から子供の様子を伺うようになっていた。

他の猿たちが手の無い猿を疎んじるのでわが子の邪魔になり、いじめられるのではと考えそうするのであった。

たとえ一時でも母猿は小さな子ザルを授かり、偶に来る父猿と少しの間でも親子の時間が持てる事に幸せを得ていた。

やがてはこの子も父猿の様に山を仕切る立派な猿になる事を信じて、いじめられても何をされても辛抱に辛抱を重ねて毎日を過ごしていた。

生きていた頃の父や母がそうして自分を守ってきてくれたので自分もそうして子猿を守るのであった。

ある冬の事、若い猿何匹かを連れてボス猿はあの親子の処に向かう。親子は群れから外れたあなぐらで少ない食料を分け合いながら冬をやり過ごしていた。ちょうど眠りにつく頃、ボス猿の一派がやってきた。

あっという間に子猿は、父親の牙にやられて命を落とした。父猿が子ザルの腹を裂き、内臓を食う。

母猿の張り裂けそうな叫びをよそに若い猿たちは、次々に母猿の体を犯していく。

断末魔にも似た母猿の叫びはいつまでも続いた。漸く何匹かの猿が用を足したかのようで、子ザルの残り肉を喰らいながら出て行った。残骸となった子猿をほど近い広場で母猿が見つけたのは、他の猿たちが食い散らかした後である。

何んとか判別できる子ザルの顔だけになった頭蓋を抱え、母猿は雪の上を手首の無い足跡を引きながら弱弱しく暗闇を戻っていく。引きちぎられたような叫びを発てたが、子猿の肉で腹を満たし、母猿で慾を満たした他の猿たちには眠りの中で聞こえない。

猿たちは食べるものも無くなり空腹に耐えかねていたのだった。

ボス猿はどうにかしてこの危機を乗り切らねばならないと考えた。

出て来た結論は恐ろしいものであったのだ。

疎んじられ孤立したあの猿の親子の子供を殺し、急場の食糧難を乗り切ろうという結論だったのだ。

その日から母猿は群れを外れ姿が見られなくなった。他の猿たちは、母猿のその後には気にも留めずに何時もの様に過ごしていた。

やがて、猿たちを囲む山々にも漸く緑がもどり出し、少なからず花々が色づきだした頃、何時もの様にボスの石座で毛づくろいをさせていた猿に向かい、一匹の弱弱しい歩みを進める猿がいた。

体は少なからず白くなり黒い毛は残っていない程、手首の無い片方の手には毛をほとんど残さない小さな頭蓋を抱えていた。

逃げまどう周りの猿たちに目もくれず、一直線にボス猿に向かう。

目の前の光景にようやく気付いたボス猿の顔は赤から白く変わり、ひきつった顔でわめきながら、その場を飛び跳ねて山の方へと逃げて行く。

程無く山を上り終えると、此方を向き、頭を抱えた様子で見ている。恐怖にひきつった顔はボスの面影を消し去っている。白猿は、ゆっくりとボス猿の石座に頭蓋を置き、移ろう優しい目で見ている。漸くこの場に戻れたと言うようだ。

周りの猿たちは距離をおいてこの様子を見るともなし見ている。直視するには後ろめたく、恐ろしい光景なのであろう。

石座に置かれた子ザルの頭蓋の口元には、噛み砕かれて入れられたような木の実や食べ物らしき残骸が残り、毛が少ししかない頭には撫でつけられた手あかが残っている。

暫らくそうして子猿の頭蓋を見ていた白猿は、ゆっくりと立ち上がると広場を後にして、広場と直角を成す断崖絶壁に身を投げた。

驚く猿たちの群れは叫び声をあげながら崖の様子を見に来た。

暫らく喧騒が続き、おさまりを見せ始めた頃、ボス猿は山からゆっくりと降りて来た。

だが、周りの猿たちはボス猿を無視しだしたのである。ボス猿が毛づくろいの要求をしようとしたが、先程までの若い雌猿たちは知らないふりをしているのだ。

そのうちに、子ザルの頭蓋に向けて何処から取られたものか花がたむけられている。

それからというもの此の山々を支配するものとして子ザルの石化した頭蓋が置かれている。その石座には花や木の実が絶える事はなかった。

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