第三章 戦闘のゆくえ
七惑星会談は、母星の大国・銀国を中心にその他の惑星の同盟国が様々な問題について語るためのものだ。今回の会談は双子星の今後についてが主な議題で軍事的な意味が強い。杜が出席するのもそのためだ。
会場である大型ホールには多数の警備員が配置され、重苦しい空気が流れている。
ホールは白いコンクリート作りで、平らな円筒の形をしている。杏華が待機しているのは、屋上の隅の貯水タンクの上の死角だ。鳳楊の情報によれば、敵が姿を現す可能性が高い場所のひとつがこの屋上だ。
屋上は金網に囲まれており、杏華の隠れる貯水タンクは階段に通じる出入り口のある小屋の上にあった。一段上にあるタンクの上からは、強化ガラスがはめ込まれた細長い天窓が直列に並んでいるのがよく見えた。暗殺者はこの天窓から杜を狙うらしい。
杏華はもし敵が現れたらどう倒そうか脳内シュミレーションしながら、敵を待ち伏せした。
防弾チョッキを着てヘルメットを被り、イヤープラグをつけてサブマシンガンを抱えると、立派な女兵士という感じがして、うきうきする。
空も快晴で、ぽかぽかした陽気が気持ちのいい午後だった。
何十分かたつと、階段に通じるドアが開き、警備員の制服姿の男が大きなスポーツバックを片手に出てきた。
まだ若そうな暗殺者は、使用する天窓から少し離れたところで座り込んだ。そして、スポーツバックからスナイパーライフルを出し組み立てだす。
杏華は静かにタンクの上で立ち上がり、サブマシンガンを男に向けた。
「変装してここまで来たんだ? 銃は前もって屋上までの階段かどっかに隠したかな」
杏華の声に驚いた男は振り向き、無言で拳銃を素早く出すと杏華に発砲した。
サイレンサー付の拳銃が軽く鋭い音をたてる。
しかし、相手が撃ってくることを予測していた杏華は、男が銃を向けるよりも早く、ジャンプしてタンクから下りていた。垂直落下の心地よい風に、杏華の赤い髪がはためいた。
外れた弾は貯水タンクに当たった。破裂音とともにタンクに穴が開き、水が漏れだす。
――降伏するかと思って話しかけたけど、やっぱこう来るよね。
杏華はしゃがむように着地した。足が少ししびれる。地面に着くと同時に、杏華はサブマシンガンを両手で構え、引き金を引いた。
低い銃声とともに、多数の弾丸が撃ち出される。空薬莢が大雑把な弧を描いて落ちた。
何発か男の足に被弾し、血しぶきがあがる。
男が呻く。ほんの一瞬だが、男の動きが止まった。
杏華はその隙をついて、男の右側に回りこむ。
男が撃ち込んできたが、杏華の動きのほうが速かった。弾はすべて外れ、床のコンクリートを削る。
杏華はすばやく距離を詰め、男の横におどり出た。そして、跳躍して空中で前蹴り。
鈍い音をたてて、蹴りは頭に命中した。
確かな感触。筋肉質な杏華の脚から繰り出される衝撃は重い。
男は鼻血を吹きながら、横に倒れた。
あまりにあっけなさに、杏華は思わず拍子抜けした。
男は両目を半開きにして動かないが、息はあった。足の銃創を軽く確認したが、死ぬほどの傷ではなさそうだ。
「あーあ、気絶しちゃったか。他に仲間がいないか尋問する予定だったのに」
タクティカルベストのポケットに入っていたテープで男を拘束しながら、杏華は独りで反省した。
初めて実戦で敵を倒したわけだけど、喜びよりも戦闘にあっさり勝ってしまったことによる不安のほうが強かった。
具体的な根拠はないが、これで終わりではない気がした。
杏華がふと床に視線を向けると、気絶した暗殺者の近くに携帯電話が転がっていることに気づいた。拾い上げて画面を見る。通話履歴の画面だ。最後の通話は数十分前で、同じ電話番号がズラリと並んでいた。
――これって暗殺者のボスか何かの電話番号かな。鳳楊に調べてもらわなないとね。
杏華はインカムの通信ボタンを押し、会場外の監視車両にいる鳳楊に呼びかけた。
「こちら胡杏華、屋上にて暗殺者とみられる男を確保。敵の全貌解明の手がかりとなるであろう携帯電話も発見」
鳳楊の声が、ヘッドフォンから流れる。
『はーい、了解しましたー。やっぱそこだった? 人をやって回収させに行かせるから、しばらく男を見張っててねぇ』
ぷつりと通信が切れる。
天窓の下ではまだ会談が続けられていた。サイレンサーにより銃声は届いていない。
見上げると、空は変わらず雲一つなかった。
「何もなければ、いいんだけどね」
杏華は太めの眉をひそませた。
◆
「失礼します」
そう言うと杏華は、七惑星会談の会場である会議場の裏に停めてある、移動監視車両の中に入った。
監視車両はワゴン車を改造したもので、三人くらいが座って作業できるようになっている。カーテンで覆われた薄暗い車内にはPCや機材がぎっしり詰まり、虫の泣き声にも似た作動音を絶えず鳴らしていた。
「杏華ー、おつかれー。あの暗殺者の男は病院送ったあとに取調べだって。とりあえず今日は、これで一件落着かなぁ?」
PCを前に座っていた鳳楊が杏華を迎える。鳳楊の他に人はいなかった。
「さぁね。あの男捕まえて済む話ならそれでいいんだけど」
杏華は頭を天井にぶつけないように注意しながら、鳳楊のそばに寄った。せまい車内の中で、鳳楊の長い手足は邪魔だった。
鳳楊が青い瞳に画面の光を反射させて、白く長い指でキーボードを叩く。
「さっきの携帯だけど、最後の通話記録の相手の発信場所が今わかったよ」
杏華はディスプレイに顔を近づけ、地図が表示された画面をのぞき込んだ。
「どこ? ここ?」
「そうそう、ここー」
鳳楊が画面に指差す。
杏華が詳細を読み上げた。
「東区水江町三番地……。ここ自体は田園だけど、近くに何かあるのかな」
「うーん、近くの建物、調べようかぁ? でも、単なる移動中かもねー」
鳳楊が新しくウィンドウを開き、周辺施設一覧を出した。
「あ、ちょっと待って。これ、この学校」
杏華が鳳楊の肩を軽く叩く。鳳楊は手を止め、杏華を上目遣いで見た。
「ん? この学校が、どうかしたぁ?」
「松昭初級中学って、縁春が通ってる学校じゃなかったっけ」
杏華はどうにも悪い予感がした。
「縁春ってー、杜中将の息子さん? もしかして、関係あったり?」
「わかんない。でも、一応、縁春についてる護衛の人と連絡とったほうが……」
杏華が言い終えないうちに、画面の左下に通知ウィンドウが開いた。
「あ、ちょっと待って。通信入った。もしもーし、孫鳳楊でーす」
鳳楊が裏ピースでキメて呼びだしに出ると、画面がテレビ電話に切り替わる。
映っていたのは七三分けの中年男性、二人を杜の警護に任命した情報部部長の黄大佐だった。
「やぁ、孫少尉。胡少尉もそこにいるのかな」
「はい、います」
思いがけない人物からの通信に、杏華は気を引き締めた。
「誰かと思ったら大佐ですかぁ。何の用ですかー?」
「君たちに非はないのだが、大変なことが起きてしまった」
黄の厳しい表情に、杏華は悪い予感を確信に変えた。
「杜縁春についてですか?」
「よくわかったね。が、今気づいても遅いんだな……」
画面の向こうの黄がこめかみに手を当て考え込む。
鳳楊は服の袖をいじりながら、
「死にましたかぁ?」
冗談にしても笑えない冗談。これが通常の反応なのだから孫鳳楊という男は恐ろしい。
しかし黄も杏華も、彼の人格破綻に付き合っていられる余裕はなかった。
黄がため息まじりに言う。
「杜縁春が、誘拐された」
「ああ、そういう」
まるでドラマの展開の予測をはずしたかのような反応の鳳楊。
杏華は、黄の言葉を深刻に受けとめ、状況について尋ねた。
「でも、彼にも護衛がついていたはずでは?」
黄は苦々しい表情で説明した。
「敵は本物の警護官を倒して、入れ替わったようだ。おそらく、そちらの暗殺はフェイクで、本命は杜縁春の誘拐だった」
「でも、彼を誘拐することにそこまで価値ありますかね?」
杏華は疑問を口にした。
杜縁春の誘拐は、杜中将の暗殺計画という大きなフェイクをしかけてやるには物足りない気がする。杜縁春の人質としての価値は、とても微妙なものに感じられた。
黄もその点に関して不審に思っていたと見え、言葉を濁した。
「確かに少々不自然だが、今の時点ではそうとしか考えられん」
画面越しの会話に飽きた鳳楊が、頬づえをついて首をかしげる。
「それで、僕たちはこれからぁ、どうしましょー?」
黄がまっすぐにこちらを見て、厳しい表情をする。
「これからおそらく犯人の犯行声明が杜中将宛に届くはずだ。君たちには会談後、杜中将とともに声明を待ちつつ、杜縁春の行方とその誘拐犯について捜査をすること命ずる」
「了解いたしました、黄大佐」
「りょうかーい。大佐」
二人はそれぞれの敬礼をした。
「頼んだぞ」
と、黄が言い終えると通信は切れた。
「いやはやー。大変なことになっちゃったねぇ」
まったく大変だと思っていなさそうな調子で、鳳楊が両手を上げて体を伸ばした。
「そうだね」
杏華は縁春の安否を考えながら、生返事をした。
二人は杜が会談を終えるのを待ち、監視車両内のPCで捜査を続けた。しかし、杏華は縁春が今どのような目になっているかを想像してしまって、なかなか仕事にならなかった。
黄との通信後しだいに強まる、現在進行形で人が傷ついているという実感。
杏華は、これまでの自分を振り返った。
――多分、今回私に非はない。だからと言って、気にしないでいられるわけがない。
行き場のない感情に、杏華は荒っぽくキーボードを叩いた。
◆
会談後、杏華と鳳楊は杜とともに司令本部に戻った。犯行声明は、司令本部に着いてすぐにメールで届いた。
三人は杜の自室で、犯行声明の動画を見るためPCを囲んだ。杜が椅子に座り、杏華と鳳楊がそのわきに立つ。
窓の外の夕日が、部屋をオレンジ色に染めていた。
杏華は目だけ動かして、そっと視線を杜に向けた。杜の横顔は普段どおり冷静で、感情が見えない。
杜の向こうにいる鳳楊は本当の意味でいつものまま、PCの操作をしていた。
「じゃあ、始めますよー」
鳳楊がエンターキーを押して動画ファイルを開くと、画面に映像が流れ始める。
最初に画面に映ったのは、クリーム色の薄汚れた壁だった。思ったよりも高画質。
カメラが引いて、椅子に縛られた縁春が映った。制服を着たまま猿ぐつわをかまされ、意識を失っている。
杏華の心臓がドクンとはねた。見知らぬ人ならともかく、会って話した少年が暴力の対象になっているとなると、落ち着かない。
画面に映る部屋は、全体は見えないが広くはなさそうだ。何かの倉庫なのか、ダンボールが並んでいた。立方形の蛍光灯が、部屋を照らしている。
画面の端から痩せた男が現れた。
男は二十歳くらいに見え、頬はこけ、肌は黄土色でつやがなかった。服装は薄汚れたジャケットにジーパン。落ちくぼんだ目はぎらつき、無造作にのばした髪はぼさぼさである。
男は銃を抱えて縁春の後ろに立つと、カメラに目線を送って語りかけた。
「虐殺者、杜雪厳に告ぐ。無実の人間を殺戮し、真実を求める者を弾圧したお前の罪は重い」
男は大げさに銃を掲げ、声のトーンを上げた。
「お前は独裁国家・銀国にこの双子星を売ろうとしている。力なき民は耐え忍んできたが、我々は今ここに、抵抗の声を上げる」
銃をおろすと、男は乾いた唇を歪めた。
「我々がお前を裁くのは天命だが、お前に更正の機会を一度だけやろう」
気を失っている縁春に銃を向ける男。
「我々は、投獄されている同胞の解放を要求する。お前が我々の要求を飲まなければ、お前の息子は死ぬことになるだろう」
男は黄色い歯をむき出しにして笑った。
「猶予は一日だ。お前にとっての息子の存在の重さは知らないが、よく考えることだな」
男がそう言い終えると、画面は暗くなって停止した。
「これで全部か」
杜が画面を見つめたまま尋ねた。
鳳楊はPCの動画用のウィンドウを閉じて、
「はいそうですー。でも、顔をデータベースで検索かけたらぁ、こいつ、ヒットしたんですよー。どうやら、こういう人らしいですよぉ」
と、タブレットを出し、自慢げにプロフィールを読み上げた。
「
――ようですー。ってもう、もうすこし報告の中身に沿った話し方っていうものがあるでしょうが。
杏華は鳳楊のそのふぬけた語尾を今すぐやめさせたかったが、内容そのものに問題はなく、できなかった。
杏華の葛藤をよそに、鳳楊はタブレットから目を上げて続けた。
「あの会談に現れた暗殺者を杏華と取り調べた結果ですねー、そいつと秦は、杜中将の暗殺のために翡国に入国したみたいですよぉ。秦は意図的に軍のデーターにハッキングの跡を残し、縁春君の誘拐という無断行動に出たとかぁ。わざと会談の暗殺をばらして、陽動作戦に仕立て上げたわけですー。どうもこの誘拐事件は、本国の命令無視をした秦の暴走くさいですねぇ」
鳳楊がタブレットのカバーをパタンと閉じて、にっこりと笑う。
「結局これは、私怨によるものじゃないですかねぇ? そういう奴相手に取引とか無理じゃん、と僕は結論付けまーす」
――いい笑顔で言うことか!
鳳楊のもはや人間とは思えない空気の読めなさに、杏華は絶句した。
杏華がおそるおそる杜を見ると、杜は鳳楊とは目をあわさずに立ち上がり、窓辺に立った。夕日がしっかりした杜のシルエットの輪郭を照らす。
「そうか、よくわかった。孫少尉、胡少尉、よく調べてくれたな」
杜の事務的なほめ言葉に、鳳楊は満足そうにくるりとドアの方に回った。
「じゃあ僕はぁ、この映像と送ってきたメールアドレスの分析を続けて、縁春君と秦の居場所を探しますねー」
鳳楊はそう言い残すと、一つに結ばれたゆるいウェーブの亜麻色の髪を夕日にきらきら反射させながら、軽い足取りで部屋を出た。
鳳楊の無神経な調査報告により、二人の間に微妙な沈黙が流れる。
杏華はあせった。適当な理由をつけて鳳楊と出て行けば良かったのだが、もう遅い。
無言に耐え切れず、杏華は立ち上がり問いかけた。
「中将は、どうするんですか」
これからの自分の予定を考えるための質問だったが、杜の返答は違った。
「私は、テロリストには従わない」
軍服をかっちり着込んだ広い背中を杏華に向けたまま、杜は答えた。
「はい」
杏華は声を震わせた。
――いや、私、そういうことが聞きたかったわけじゃない……。
意図していなかった話の流れに、嫌な汗が出る。
杜が振り返り、杏華の方を向いた。
鳶色の瞳が一瞬、夕日で赤く光る。まるで血の涙だと、杏華は思った。
杜の眉間に、苦悩のしわが刻まれる。
「私は一度、国のために家族を見殺しにした。何度でも、私は同じことをするだろう。だが、それは、愛していないからじゃない」
杜の声がいっそう低くかすれる。
声のトーンや息継ぎのひとつひとつから、杜の葛藤、苦しみ、後悔が感じられた。
「私は今回もまた、縁春の命ではなく、大義を選ぶ。その結果縁春が死んだとしても、父親の資格を失ったとしても、私は国のための選択をしなければならない。それが私が今まで流してきた血に対する責任というものだ」
顔を横にそむけて、杜は絞り出すように言う。
「だが、肝心なところで私は割り切れない。自分は本当は間違っているのではないのかと、いつも考える」
杜は杏華と目をあわせると、すぐに気まずそうに視線を戻した。杜の額に、後ろになでつけていた白髪まじりの黒髪が何本か落ちた。
杏華には、杜が泣き出しそうに見えた。よく見ると違うのに、そう思えた。
乱れひとつない立派な軍服で本当の姿を隠した、政治家としての責任と、父親としての情のはざまですり減った小さな存在。
杏華はそのとき初めて、杜は自分に護られる存在なのだと気づいた。
胸の奥に明かりが灯り、力が沸く。
杏華は、はっきりと力強く答えた。
「私は、失う側の人間でも決断する側の人間でもなかったので、中将のつらさはわかりません。私はまだ、自分のせいで誰かを死なせてしまったことも、何もできずに悪い結末を迎えたこともありませんから」
過去が違いすぎて、杏華は杜と感情を共有できない。一生消えないであろう、高い壁。
しかし、その壁も今は問題にはならない。壁を越えて杜に届く言葉を、杏華は持っている。
杏華は目をそらさず、まっすぐに杜を見つめた。
「でも今回は、私が、中将の選択を間違いにさせません。絶対にご子息をお護りします。だから中将は、ご安心して命じてください。誘拐犯の制圧を」
今の杏華は、救いようのない過去を前に何も言えない無力な第三者ではなかった。
杜が抱えている二律背反は過去ではなく、現在の問題だ。過去は変えられないが、現在なら変えられる。
そして杏華には、その二律背反を悲劇で終わらせない力がある。自惚れではない、たしかな自信だ。
「しかし、まだ敵の居場所は割れてないぞ」
杏華の強気な調子に、杜は面食らった様子で苦笑する。苦笑でも笑顔は笑顔だ。杏華はほっとして、頬をゆるめた。
「あぁ、それはきっと孫少尉が見つけてくれます」
杏華が胸に手をあて、軽く笑った。
杜は意外そうに、杏華を見つめた。
「ずいぶん信頼してるんだな」
「まぁ、即席ですが相方ですから。彼、本気で殺したくなるくらい空気読めませんけど、こういうところは外しませんよ」
杏華が落ちついて語った。鳳楊の理解できないところも全部、許してしまえそうな気がするくらい、気分が良かった。
杜は、しばらくじっと杏華を正視した。
そして目じりにしわを寄せ、静かに微笑んだ。
「そうか、では今、私は命令しよう。胡杏華少尉に、敵の居場所を突き止められしだい突入し、敵武装勢力を制圧することを命ずる。その際、人質の安全に十分注意せよ」
それは軍人としての命令だったが、杜の声は柔らかい。若干の不安はあるものの、決意は確かなようだ。
普段の硬い表情とほんのわずかにしか変わらない微笑みだが、印象はまるで違って、おだやかだ。初めて見る杜の優しい表情に、杏華は思わず惚れてしまいそうになる。
「了解いたしました」
杏華は、今まで生きてきた中で一番丁寧な敬礼をした。
◆
夜、杏華は人気のなくなった繁華街の、飲食店の屋根に潜んでいた。簡素な造りの建物で、屋根は青い金属板で覆われていた。
夜影に紛れやすい黒を基調にした戦闘服が、杏華の姿を隠す。
空気は冷たく、静かな夜だ。
『こちら孫鳳楊でーす。胡杏華さんは準備できましたかぁ?』
ヘッドフォンから、監視車両にいる鳳楊の声が聞こえた。
杏華はマイクを近づけ、そっとささやいた。
「こちら胡杏華、テロリストがいると思われる建物に接近」
杏華はすぐ隣に建っているかつて食料品店だった空きテナントを見た。
淡いオレンジ色の壁に緑色の軒を持つその物件は、外からはニ階建ての小規模な建物に見えるが、地下に広めの倉庫を持っている。
杏華が様子をうかがうと、正面にはだれもいないが、裏にある一階駐車場の出入り口に見張りの男が立っていた。
『その廃食料品店に、敵さんと縁春君がいるはずだよ。僕が犯行声明ビデオを検証した結果、後ろに移ってる電灯のかたちが特徴的でねぇ。あの四角いデザインの電灯は、ある照明会社の商品なんだけどぉ、古いタイプで、ここらへんで使っわれてたのはその店だけなんだよ』
鳳楊が自慢げに解説を挟む。
杏華は敵に存在を知られないよう、慎重に声を発した。
「駐車場から進んだとこにある地下倉庫に行けば、縁春の部屋があるっぽいんだっけ?」
『うん、この食料品店、つぶれたの最近みたいでさぁ。防犯システムとか、ちょちょっといじったら使えたんだよねー。今、システムに侵入してぇ、監視カメラの映像見てるよー。縁春がいるのは、裏口から入って降りたところにある部屋だねぇ」
「鳳楊が監視カメラとか見取り図とかで私のサポートしてくれんだよね」
『するよー。でも、ホントに一人で行くの?』
「だって戦術班呼べないくらい、時間ギリギリだし。それに、これくらい狭い場所なら一人のほうが勝手がいいじゃん」
杏華が淡々と述べると、鳳楊がわざとらしく驚いてみせた。
『昨日の会談のときも思ったけどぉ、杏華の戦闘能力ってガチすぎてドン引きするレベルだよねー』
「え、何、もっぺん言って?」
『んー嫌だよー、怖いもん。それじゃ、本作戦の目的は、人質の奪還と武装グループの制圧でーす。ではでは、作戦開始ぃ!』
鳳楊が相手を一切考慮しないタイミングで始まりを告げる。
杏華はサブマシンガンを手に、深い藍色の空を見上げた。
頭上には、丸く満ちた妹星が碧く輝いている。妹星が明るすぎて、小さく光る他の星は見えない。
透明感のある輝きに、杏華は高揚感を覚えた。
風のない夜の空気に深く深呼吸し、緑色の瞳を輝かす。
「作戦開始」
杏華は低くつぶやくと、静かに食料品店に向って移動した。
◆
杏華は、食料品店の屋上に飛び移り、さらに駐車場入り口の上の軒に下った。
見張りの男の無防備な頭が見える。ふけのこぼれる茶髪。男は杏華の存在にまったく気づかず、ひまそうに体を揺らしていた。
杏華は音もなく男の背後に降りると、相手の口を手でふさぎつつ首筋を抱え込み、絞め技をくらわせた。頚動脈を圧迫しにかかると、男の鼓動が感じられる。
声も上げられず、男は数秒で気絶した。男の頭が下がり、体重がのしかかる。
『ひゃあー。杏華凶暴ぉ!』
監視カメラから一部始終を見ていた鳳楊の感嘆の声が、ヘッドフォンから聞こえた。
――凶暴って、首絞めただけじゃん。
杏華は男を地面に降ろすと、男の所持品を調べた。ポケットから鍵がいくつか出てきた。
杏華は心の中で軽くガッツポーズをすると、鍵をタクティカルベストのポケットにしまって駐車場の中へ進んだ。
一応警戒しながら入ったが、誰もおらず、車が数台止まっているだけだった。
太いコンクリートの柱が、入り口から射し込む妹星の明かりに照らされ青白く光っている。
奥に業務用の裏口が見えた。杏華は周辺に注意しながら進んだ。
裏口に近づくと、鳳楊が話しかける。
『その扉ね。そこ入ると、敵が正面に一人、右に二人いるから気をつけてー』
「わかった」
杏華はポケットから見張りの男から奪った鍵を一つ出すと、鍵穴に入れて回した。
カチャリと音がして鍵が開く。
――あ、ラッキー。一本目で開いた。
幸先がよくなった気がして、杏華は笑みをこぼした。
右手にサブマシンガンをかまえ、左手でドアノブを回し金属製の扉を押す。ごく普通にドアが開いた。
杏華の正面に一人、ソファに座った赤ら顔の男がいた。ドアを開けたのは仲間だと思いきっていた男は、見知らぬ女の姿に驚き、腰の銃に手を伸ばした。
杏華は右手でサブマシンガンのグリップを強く握ると、引き金をひいた。比較的軽めに作られたプラスチック製のサブマシンガンなので、片手で扱うのも容易だ。
景気のよい音を立てて、弾丸がバラバラッと打ち出される。
赤ら顔の男のシャツが、血に染まった。
『杏華、あと右に二人ね』
鳳楊の指示よりも前に、杏華は左の壁に身を隠していた。弾丸の何発かが、体の横を通り過ぎていく。
発砲が止む。
サブマシンガンを両手で持ち直し、杏華は壁から躍り出た。二つの人影を銃で横になぞるように撃つ。
二人の男はソファを遮蔽物にしようとしているところだったが、杏華の攻撃のタイミングの方が早かった。男たちが二人そろって崩れ落ちる。
確かな手応えを感じた杏華は、ダンボールだらけの廊下を走った。
『あ、次は左から人来るよ、人』
鳳楊の声に従い、杏華はサブマシンガンで現れた敵を撃つ。もともと相手の表情からの先読みが得意な杏華だが、鳳楊の監視映像による未来予測が加わり、もはや敵なしだ。
地下へ続く階段を駆け下りながら、杏華は撃ち尽くしたサブマシンガンを放り、ヒップホルスターから大型軍用拳銃を抜いた。金属的なずしりとした重みが頼もしく感じられる。
杏華は、突き当たりの扉を勢いよく開き、軍用拳銃をかまえた。
部屋には、縁春の首を抱え、銃を突きつける秦遵憲が立っていた。
犯行声明の動画通りの、たくさんのダンボール。倒れた椅子とビデオカメラ。杏華が開けたのとは反対側にも、扉があった。
「来たか、猟犬め。近づけばこいつを殺すぞ」
秦は杏華をゆっくりとにらんだ。想像してたより、落ち着いた様子だ。縁春は、秦の腕の下で硬直し、華奢な体を震わせていた。
「降伏したら? あんたが引き金をひく前に、私があんたの頭を撃ちぬくよ」
杏華は拳銃をかまえたまま、静かに警告した。
不思議と怒りはなかった。理不尽な暴力になら怒りを覚える杏華だが、秦の行動に理不尽さは感じない。
縁春を人質として誘拐して殺そうとしていることは、決して許されることではないが、理由もなく殺された母親のため復讐としては筋が通っていると、杏華は思った。共感はできないが、理解はできる。
杏華は正義や良心というものの存在を信じているが、それですべての感情が片付くと考えられるほど、お人好しにはなれない。
「杜縁春、お前の父は私の要求をのまずにこの好戦的な女を送ったぞ。お前はまた見捨てられたんだ」
秦が縁春の耳に口を近づけ、唇を歪め毒を注ぐように言った。
「胡少尉、俺は……」
縁春は今にも泣き出しそうな顔で、助けなのかあきらめなのかわからない声を発した。
杏華は一瞬だけ縁春に視線を合わせると、そっと微笑んだ。縁春の瞳に安堵と戸惑いの色が浮かぶ。
杏華は視線を秦に戻すと、銃を構えたまま、はっきりとした声で言い切った。
「違う。中将は私を信頼して、この作戦を任せてくれた。縁春は絶対に死なせないと、私は中将に誓ったんだ。だからあんたはここで必ず私が殺すよ」
心の深いところから、怒りや憎しみとは違う強さが湧き出るのがわかった。多分、仁とか義とか忠とか、そういうものの力だ。
――この世はどうしようもないことばかりだと思う。きっとこの男も、この男なりの正しさを持っているんだろう。それなら私は、私の正しさで相手を打ち負かすだけ。
杏華の心に迷いはなかった。
秦は、杏華を奇異なもののように見ると、ぞっとするような声で嘲笑した。そして、真顔に戻って吐きすてた。
「そうはうまくいくかな。私は逃げ延び、こいつの死体を奴に残す。奴に息子の死を正当化できる理由を与えたりはしない。小娘と小僧ごとき、命を捨てずとも殺ってみせる」
秦は胸ポケットに手を伸ばし、小さい棒状の銀色のスイッチを取り出しボタンを押した。
部屋の照明が消え、真っ暗になる。
暗闇に乗じて逃げるのが、秦の計画のようだった。
「鳳楊、お願い」
『ほいさぁ』
杏華が呼びかけるのとほぼ同時に、鳳楊の掛け声が聞こえた。
一瞬で部屋に再び明かりが灯る。
鳳楊が防犯システムへの侵入を利用して照明を遠隔操作したのだ。
縁春を連れたまま奥の扉から出ようとしていた秦は、予定外の明るさにたじろいだ。
杏華はその一瞬を逃さず、白い蛍光灯の光に照らされる秦に三発、発砲した。一発は頭、二発は胸。
鈍い衝撃音が三度響く。杏華は右腕に重い反動を感じた。心地よいしびれが、体を駆けぬける。
弾は全て命中し、秦は倒れた。血溜りがひろがり、虚ろな瞳が天井を映す。間違いなく確実に、秦遵憲は絶命していた。
『それで敵は最後だよーん。おつかれっ! それにしても三発ってさぁ。容赦ないなぁー、杏華は』
鳳楊が無線で勝利を祝福する。
秦から解放された縁春は、震えたまま肩を抱いて立っていた。顔には秦の返り血がついている。
縁春は、そっと秦の死体を見下ろすと、すぐに視線をはずし、つぶやいた。
「そいつの目、閉じさせて」
杏華は無言でかがみ、そっと手で秦のまぶたを閉じた。まだ体は温かかった。
杏華は自分が一生消えない業を一つ背負ったことをかみしめた。
――でも、私は後悔しない。絶対にね
杏華は、その罪の重みさえも自分の強さになった気がした。
ゆっくりと立ち上がり、杏華は顔を上げた。
「帰ろうか」
晴れ晴れと微笑む杏華の言葉に、縁春は小さくうなづいた。
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