第二章 中将とのつきあい

 翌朝、空はぼんやりと曇っていた。

 杏華は杜の自宅のガレージに駐められた車の運転席で、杜が来るのを待っていた。

 杜の自宅は三階建てで、白い外壁と平らな屋根が特徴的だ。最新の警備システムで何重にも守られており、ガレージにも監視カメラと警報機がある。

 ガレージは家の一階にあり、玄関と接している。コンクリートの壁はきちんと掃除が行き届いており、生活感がないと言えるほどきちんとしていた。

 ガチャ。

 玄関が開く音がする。


 杜が来たと思い杏華は振り返った。しかし、そこにいたのは杜雪厳の息子・杜縁春ドゥ・ユェンチュンだった。

 これから登校するところらしく、学校の制服を着ている。名門学校の黒色のブレザーが、彼の金髪に映えていた。

 日中の縁春には自分たちとは違う目立たない警護がつくと、杏華は聞いていた。

「おはよう」

 車の窓を開けて、杏華がにこやかにあいさつした。

 しかし、縁春は杏華の顔をちらりと見ただけで、無言ですたすたと通用口から出て行ってしまった。

――シカトだと? まったくもう最近の男子学生は。

 杏華はほおをふくらませ、スイッチを押して窓を閉める。学生向けの広報活動をしていた杏華だが、思春期の子どものことはさっぱりわからない。


 しばらく待っていると玄関が開く音がして、杜が後部座席に乗り込んできた。

「よろしく胡少尉。孫少尉は今日は本部で情報収集をするため別行動だそうだな」

「はい、孫少尉は暗殺計画捜査のためおりません。中将の最初の行き先は首都警察総監庁舎ですよね」

「そうだ。八時までに頼む」

「承知いたしました」

 杏華は自動操作でガレージのシャッターをあけると、アクセルを踏み車を発進させた。

 家の外には田園と区画整理された空き地が広がり、ぽつぽつと住宅が建っていた。新興住宅地として開発したはいいがまばらにしか売れてないらしい。


 業務的なこと以外の会話が生まれず、お互い無言になる二人。

 沈黙を居心地悪く感じた杏華は、たどたどしく話を切り出した。

「そういえば先ほど、縁春君に会いましたよ。松昭初級中学行ってるんですね」

「息子に? 私には顔を合わさないが、少なくとも学校には遅れず行ってるようだな」

 杜の反応はとげとげしい。

 ――しまった、これは相当親子関係悪いぞ。

 そっとバックミラーを見ると、杜は渋い顔で窓の外を見ていた。

 家族トークは失敗だったことに気づき、杏華は口をつぐむ。

 沈黙をごまかすように、ギアを加速チェンジ。

 その後、目的地に着くまで二人は言葉を交わさなかった。走行音だけが鳴り響き、十五分前後の移動が、何倍にも長く感じられた。


 ◆


「第三コロニーでの反政府デモに、翠国の扇動者が関わっているのは確実だ。それなのに張議員はまだあの暴動を平和的だと言うのか」

 ドーム上の天井を持つ丸型の会議場に、杜の声が重く響いた。ざっと百人ほどいる出席者のざわつきが大きくなる。

 壇上の眼鏡の男性が杜に向って発言した。何人かの議員が拍手をおくる。

「そもそもあなたのような排他的な人物がいるから、こうしてデモが次から次へと起きるのではありませんか?」

 眼鏡の男性はいかにも正しそうな雰囲気をまとい、会場を味方につける。

 杏華は、全土で多発している反政府デモについての対策を話し合う会議に出ている杜の警護にあたっていた。

 会議場の扉付近に待機して、会議の内容に耳を傾けつつ、暗殺に備える。

 杜の一日は想像以上に忙しく、杏華は側についているだけでつかれてしまった。

 首都警察の人とスパイ監視網について話し合ったあと、司令本部に戻って書類のチェックやサイン。昼食は銀国軍要人と軍事協力についてのランチ・ミーティングで、午後はこのデモ対策会議。

 この会議が終わったら軍の特殊部隊の訓練を視察して、その後はまた司令本部でデスクワークという予定になっている。


 ――処刑の命令とか、逮捕・尋問の許可とか、書類のやりとりからしてすでに怖いんだよね。

 一介の護衛である杏華に書類の詳しい内容などわかるはずもない。それでも、杜がかなり苛烈な方法を使ってテロリストやスパイを取り締まっていることはわかった。

 杜は身内を何人も殺した翠国を憎んでおり、それが彼の強硬政策につながっているというのが、もっぱらの通説だ。杜を否定するつもりはないが、政治的見解が個人の過去に影響されるのはしかたがないことだと、杏華は思った。

 ――でもま、動機が何であれ、あの人はあの人なりにこの国のことを想って行動してるんだし、悪いことはしてないよね。

 杏華にとっては中将のことは所詮他人事だが、彼をめぐる状況は気の毒に感じられた。

 杏華はあくびをこらえて、姿勢を正した。午後はつい眠くなってしまう。

 その後約30分間、眼鏡の男は一人で延々と語っていた。会議はなかなかまとまらず、時間だけがどんどん過ぎ去っていった。夕刻に、会議は結論が出ないまま終了した。


 二人は再び車に乗って次の目的へ向った。行きと同じように、杏華が運転席、杜が後部座席に座る。

 雲の隙間からのぞく夕日が、曇り空を赤く染めていた。

 建ち並ぶビルの窓ガラスに、太陽の光が反射し少しまぶしい。

 杏華がバックミラーで後ろをうかがうと、杜がその広い背中を後部座席に預け、小さくため息をつく様子が映っていた。

「少し眠る」

 そう言って目を閉じる杜の顔が夕日に照らされ、一瞬、とても脆いものに見えた。杏華は、胸の奥が締めつけられたような気がした。

 ――独裁者とか言われているけど、私の前で今寝てるんだよね、この人。

 隣にいても他人だったはずの人が突然近づく、そんな感覚に動機が少しだけ早まる。

 いつのまにか、周りの風景は市街地から郊外へと移り変わっていた。

 杏華はせかされるようにアクセルを踏んだ。後ろから迫る宵闇を背に、二人を乗せた車は走る。

 東の空には満ちかけた不完全な円形の妹星が、青緑色の光を薄く放ち、輝いていた。


 ◆


 杏華と鳳楊が杜の警護についてから三日がたった。

 夜、杜とともに彼の自宅に戻った杏華は真っ先に二階に上がった。自分が滞在中に使っている部屋に戻らず、まず鳳楊の部屋に向かう。

 杜の家は親子二人暮しには広すぎる物件で、護衛二人分の部屋の確保にも問題はなかった。

 杏華がベージュの木製のドアをノックをすると「はぁい」と間延びした返事か聞こえたので、部屋に入る。

 鳳楊は家の監視情報を見たり、情報を集めたりするために持ち込んだPCや機材の前に座り、何やら作業していた。外出していないらしく、服装はドット柄のシャツにジーパンとラフなものだ。

 キーボードの音が、カチャカチャと絶え間なく響く。

「何か新しい発見はあった?」

 杏華が急かされるようにきいた。

「いやぁ、ないよー」

 大型ディスプレイから目を離さずに、鳳楊があっさりと答えた。

「今日も進展なし、か」

 杏華は舌打ちをした。


 暗殺計画の捜査も二人の任務である。

 しかし、暗殺者の人相すらなかなか解明できず、杏華はあせっていた。

 まったく手がかりがなかったわけではない。

 鳳楊が電気の使用量が急増した空き家をリストアップして絞り込み、暗殺者のアジトを突き止めるなど、一定の成果はあった。鳳楊がかなり優秀な人材というのは嘘ではなかったらしい。

 しかし、杏華がその場所に踏み込むと、敵はアジトを移してしまったらしくもぬけの殻だった。作戦は空振りに終わってしまったのだ。

「あのさ、鳳楊。昨日の失敗を踏まえて、これから私たちがどう動くべきか、話し合いが必要だと思わない?」

 ドアを閉めながら杏華は、つとめて平静に尋ねた。

「ふぅん、そうだねぇ。また今度やればいいんじゃない?」

 鳳楊はよそ事に忙しいらしく、いい加減な受け答えだ。


「ちゃんと返事してよ、もう!」

 杏華が怒って近づくと、PCの画面が見えた。

 杏華は目を疑った。ディスプレイに表示されているのは、カラフルに彩られたオンラインRPGのフィールドだったのだ。

「はぁ? 仕事してるかと思えば、今までずっとゲームやってたの? 勤務中だよ? 馬鹿じゃないの!?」

 杏華が怒鳴りつけると、ゲーム画面から目を離さないまま、鳳楊はのんびりと答えた。

「だって僕、遊ばないと死ぬしー。これが僕の真面目なの。言っとくけどぉ、アジトが空振りだったの、僕たちは失敗したわけじゃないからねぇ? 全力尽くした結果、うまくいかなかったんだから、それは失敗じゃなくて、運が悪かっただけ。だから僕は落ち込まないし、反省もしなーい。アニメも見るし、ゲームもするの」

 まるで語尾に音符がつくような調子だ。

 めちゃくちゃな鳳楊の理屈に、杏華はついに実力行使に出た。


「言い訳にもならないたわごとはいいから、休憩時間以外は仕事しろ! このたわけ!」

 杏華が、キーボードを叩く鳳楊の腕を勢いよく掴む。

 驚いた鳳楊が、杏華に力負けしてバランスを崩した。

 ガタン!

 椅子が倒れる。

 鳳楊と杏華は、折り重なるようにして床に転んだ。PCデスクの上を避けた結果、鳳楊を押し倒す形になってしまった杏華。掴んだ手首は思っていた以上に細く、非力だった。

 鳳楊は、目を丸くして自分に覆いかぶさる杏華を直視している。

 杏華は鳳楊が黙っていれば超弩級の美形であることを、初対面以来やっと思い出していた。

 体格のよい杏華に組み敷かれる鳳楊の体は、細く薄い。シャツ越しに、ぬるい体温が感じられた。

 鼻と鼻がぶつかりそうなほど近くに、鳳楊の顔がある。おそらく鳳楊が間食に食べたのであろう、チョコレートの甘い匂いが鼻をつく。

 乱れた亜麻色の前髪のすき間から、薄い色の長いまつげが縁取る青い目がのぞいた。

 繊細な顎からラインを描く首筋。蛍光灯に照らされた白くきめ細かい肌。どこをとっても綺麗だった。

 予想外の出来事に杏華が固まっていると、鳳楊がゆっくりと唇を開いた。

「杏華、重いんだけどぉ」

「え、あぁ、ごめん」


 杏華は慌てて手を離し、体を起こした。鳳楊も起き上がって、髪を直す。

 悪いのは鳳楊だったはずなのに、なぜ自分が謝っているのだろうと杏華がもやもやしていると、二人の後ろでドアノブが回る音がした。

 ガチャリと扉が開く。

 振り向くと、立っていたのは顔をしかめた杜だった。二人の口論をきいて来たのだろう。

「痴話喧嘩は楽しいか。家の外で続けてもらってもかまわんぞ」

 杜に見下ろされ、杏華は慌てて立ち上がった。

「すみません、中将」

 ――これは痴話喧嘩ではなく喧嘩ですので!

 心の中で修正したが、口には出せなかった。

「ごめんなさい、中将。杏華が僕のこと、気になってしょうがないらしくてー」

 座ったままの鳳楊が、上目遣いで杜を見上げる。

 杜が二人に交互に視線を送った。

「孫少尉のサボりぐせも大概だが、胡少尉ももう少し静かにするように」

 あきれた声で注意すると、杜はドアを閉め立ち去った。

 二人っきりに戻った杏華と鳳楊。


「あんたのせいで、恥かいたじゃん」

 杏華が顔を赤くして鳳楊をにらむと、鳳楊は面倒くさそうに立ち上がった。

「ごめんなさーい。これでいい?」

 ――いつかこいつを泣かせてやる。

 再び実力行使に出たい気持ちを我慢し、杏華は鳳楊に背を向けた。

「じゃあねぇ、杏華」

 鳳楊の声が後ろから響く。

 何でもなかったような調子なのが、また腹が立つ。

 杏華は無言で、鳳楊の部屋を後にした。


 ◆


 ピピピピピッ。

 夜、杜の家のキッチンに軽い電子音が鳴った。白と銀色を基調にまとめられたカウンターキッチンはよく片付いており、清潔感がある。

 Tシャツにジャージを着てキッチンに立っていた杏華は、キッチンタイマー止め、調理台の上に置かれたカップ麺のふたをはがした。

 湯気が立ち上がり、人工香料の匂いが広がる。

 箸で麺のかたまりをつかむと、杏華は大口を開けてほおばった。チープなうま味と、もそもそとした食感がおいしい。

 夕食を済ませたのに関わらず空腹を感じた杏華は、杜が入浴するタイミングを見計らい、夜食を食べるためキッチンに来ていた。カップ麺をすする姿を、上官に見られるのは避けたかった。


 ずるずると麺を食べていると、廊下から足音が聞こえた。扉が開き、上下青のスウェットを来た金髪の少年が姿を現す。

 縁春だ。

 残り汁を飲み干し、杏華が尋ねる。

「縁春君も夜食?」

「水飲みに来ただけ。夜食とか太るだろ」

 縁春はぶっきらぼうに答えると、冷蔵庫を開け冷水筒を出し、コップに水を注いだ。

 縁春と話したのはこれで初めてだった。礼儀知らずだが年相応の言葉遣いに、少し安心する。父親との仲はともかく、普通に話せる男の子らしい。

「私は仕事があるからいいの」

 杏華はすまし顔で返し、ゴミ箱に容器を捨てた。


「……うちの父親、暗殺されそうなんだっけ?」

 縁春が冷蔵庫に冷水筒を戻しながら言った。

 冷蔵庫を向き背を向けて、表情は見えない。

「私がそうならないようにいるんだけどね」

「死ねばいいのに。あんな奴」

 冷ややかな調子の縁春の言葉に、杏華はドキリとした。

 普通に話せるのと、家庭に事情があるのとはやはり別の問題らしい。

「杜中将のこと、嫌いなの?」

 バカみたいな質問だと、杏華は思った。でも、それ以外の言葉が見つからなかったのだから、しかたがない。


「……あいつは母さんと俺を見殺しにした」

 縁春がわずかに振り向いた。

 怒りに震えたつぶやきが、白く整然としたキッチンに響きわたる。

「あいつには母さんと俺と、みんなの命より、テロリストに屈服しないことの方が大切だった。そして母さんは、あいつの命令で使われた毒ガスで死んだ」

 縁春の横顔は険しく、コップを握った手に力が入るのが見えた。


 杜縁春の母であり、杜雪厳の妻だった人は、ニ年前の第三コロニー博物館占拠事件の犠牲者の一人だ。

 新しくオープンした大型文化施設の中核であった博物館の開館初週に事件は起きた。旧翠国領土である第十一コロニーからの翡国軍撤退を求め、翠国人テロリストが博物館を占拠したのだ。最新鋭の防火扉が武装勢力を助け、突入は困難だった。

 旅行中だった妻と息子も人質四百七人に含まれていると杜が知ったのは、彼が事件の作戦指揮官に任命されてからであった。指揮官の交代の必要性も説かれたが、杜は留任した。

 杜が立案した作戦は、ビルの換気システムを使って特殊ガスを博物館内を注入し武装勢力を無力化した後に軍警察が突入というものだった。軍警察は博物館の制圧には成功した。

 ところが、計画よりも特殊ガスの効果が強く人質の一部は窒息してしまった。その結果、人質三十四人が犠牲になり、杜の妻も死亡した。

 この事件により杜は批判を受けた杜は一時辞職寸前になったが、国王の援護により逆に昇進することになった。


 ――そうだった。ただでさえテロで身内が死ぬとか救いようがないのに、この人たちの場合はさらに救いようがないんだった。

 事件の概要をはっきりと思い出すにつれて、杏華は血の気が引いていった。

 杏華が第三者の視点で冷静に考えると、杜に非がないとは言わないが、責めることはできないという結論になる。しかし、その視点を当事者に求めるのは不可能な話だ。

 かと言って、縁春に同意するわけにもいかなかった。何とかして、彼にひとこと言わなくてはいけない。それが第三者の大人の義務だと思った。

 杏華はなるべく相手を責めないように、慎重に文を組み立てた。


「どんな事情があっても、息子が自分の父の死を願うのを、母親は普通、嫌がると思うな」

 できるかぎりやわらかい声で、杏華は言った。

 その言葉に縁春の瞳が揺れ、力がこもる。

 杏華は、自分が相手の心のもっとも弱い部分を突き刺したのがわかったが、気づいたときにはもう遅い。

「母さんがあいつを恨まないのをわかっているから、余計に許せないんだ! あんな簡単に母さんが死んじゃったことが!」

 縁春が顔を背けて、声を荒げた。後ろ姿で表情を隠し、強がっているのがわかる。

 杏華が何も言えずにでかい図体で立ちすくんでいると、縁春は乱暴にコップをシンクに置いてキッチンを後にした。

 泣き出しそうな顔で、杏華の前を横切る縁春。


 バタン!

 大きく音を立ててドアが閉まる。

 杏華はそれをじっと見つめることしかできなかった。

 ――あの子を傷つけないようにしていたつもりだったのに、結局泣かせてしまった。出来の悪い大人だな、私……。

 ぼんやりと縁春との会話を思い出すと、自分の気の利かなさが嫌になる。

 数十秒後、ドアの向こうの廊下から、杜と縁春の口論が聞こえてきた。どうやら杏華と縁春が話しているうちに、杜が入浴を終えたらしい。

 父を避けて行動していたのに、縁春は最悪の心境のときに会ってしまった。穏やかな会話になるはずがない。

 ――あれって私のせいだよね。

 想定外の失敗の拡大に、頭がくらくらする。杏華は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。

「これ以上私が関わらない方が、あの親子のためだ。きっとそうだ」

 杏華は自分に言い聞かせるようにそうつぶやくと、縁春が出ていったのとは反対のドアを使って自分の部屋に戻った。静かに、俊敏に。


 ◆


 次の日の朝一番の杜の仕事は、司令本部の自室でのデスクワークだった。

 司令本部の中は暗殺の危険性が小さいため、注意を払うことも少なく比較的警護も楽だ。

 護衛の仕事にも慣れ余裕が出てきた杏華は、コーヒーをいれて杜に持っていくことにした。

 コーヒーの入ったタンブラーが二個入った籠を片手に、朝の日差しが差し込む廊下を進む杏華。タンブラーの中のコーヒーは結構な力作だ。

 杏華は杜の部屋の前で立ち止まり、ドアをノックし入った。

「コーヒーいれたのですが、飲みます?」

「あぁ、じゃあもらおうか」

 杜は机の上のPCを前に、書類を制作していた。ディスプレイの反射を抑えるため、部屋のブラインドは下ろされ、部屋は薄暗い。

 杏華は「どうぞ」と言って、机の空いているところにタンブラーを置こうとした。そのとき、杜と目があった。

「ありがとう」

 杜は小さく笑い、タンブラーを直接受け取った。杜の指は、節くれだっているが長い。

 急にのどの渇きを感じた杏華は、自分の分のタンブラーを手にコーヒーを飲み下した。結構熱くて厳しいが、すっきりとした酸味が際立つ味。我ながら美味だと感じた。


 杜も、作業を一時中断してひとくちコーヒーを飲んだ。そして、何かを思い出したように杏華の方を向くと、迷うように口を開く。

「昨夜縁春の様子がおかしかったが、胡少尉は昨日息子と何か話したか?」

 一応、杜も息子の理解を完全にあきらめているわけではないらしい。

 杏華は昨夜の縁春との会話を思い出し、返答に困った。かと言って嘘もつけないので、正直に話すことにした。

「はい。中将と息子さんの関係について少々」

 杏華はしぶしぶ答えた。杜が薄いしわに縁どられた目で杏華を見た。

「胡少尉には嫌なところを見せてしまったな。すまない」

 本当に申し訳なさそうな様子の杜に、杏華は恥ずかしくなって視線をそらした。


「謝らないでください。自分が言わなくても良いことを、勝手に言っただけなんです。中将は悪くありません」

 よせばいいのに、なぜか杏華は問いを口走ってしまった。

「中将は、自分が間違っていたと思っていますか?」

 杜の表情が硬くなる。

「二年前の事件のことでか?」

「はい。そうです」

 頭の中では人生で一番あせっているのに、声だけは妙に冷静に響く。

 ――バカだ私。中将にこんなこときいて、何を期待してるのだろう?

 杜が、杏華をじっと見つめた。

「少なくとも世間では、私は誤ったことになっているな。胡少尉はどう思う?」

 杏華はこの会話を止めたかったが、今更だ。

 しっかりと杜の瞳を見つめ返して、杏華は答えた。

「結果はどうであれ、あの時に中将の選択以上にベターな選択はなかったでしょう。だから、中将は間違っていないと思います」

 新聞記事の感想みたいな言葉しか出てこなかったが、それが杏華の精いっぱいだった。


 杜はどこか遠くを見るように、薄暗い部屋に視線を落とした。

 低く静かに杜がつぶやく。

「私も、自分の考えは間違っていない、そう思ったからこそ決断した。それが正しいと思った。だがなぜ、私が間違っていないのなら、私の妻は死んだのだろう」

 杏華はそのとき、目に見えない、絶対に壊すことのできない壁というものがこの世には存在していることを実感した。杜が立っている孤独の影に、杏華は踏み出すことすらできない。

 杏華はどうにかして杜に、あなたは多分悪くないと言いたかった。

 しかしそれは、薄っぺらで幸せな人生を送ってきた杏華には、無理な話だった。

 杜は目をふせ、彫刻のような顔をわずかにゆがめる。

「私という男は、誰一人満足に守れない」

 杜は自嘲気味に吐き捨てた。

 杏華は、やっとの思いで声を絞り出した。

「そんなことありません」

 何にも響かずに消えてゆく、役に立たない言葉。肩幅の広い杜の体が、遠く見えた。自分が無力であることを、杏華は噛みしめた。

 杜は杏華の声に我にかえったらしく、ばつが悪そうに横を向いた。

「すまない、今日は私が胡少尉を困らせてしまったようだ」

「いえ、すみません。私こそ……」

 逃げ出したい気持ちでまごついていると、ポケットの中の携帯が鳴った。

 ヴー、ヴー、ヴー。

 振動する携帯の画面を見ると、司令本部にある個人のデスクで捜査している鳳楊からの着信だった。


「中将すみません。ちょっと出ます」

 軽く頭を下げて廊下に出て、通話ボタンを押す。

 間延びつつも弾んだ、鳳楊のはしゃぎ声が耳に飛び込んだ。

「大ニューッスだよ、杏華。なんと暗殺予定日時、割り出せましたっ! えっへん」

 今までずっと気まずい空気にいた杏華には、いつもならイライラするはずの鳳楊のマイペースさが心地よかった。

「え、本当に。すごいじゃん。どうやって?」

 穏やかに聞き返すと、電話の向こうの鳳楊はさらにうれしそうにくすくす笑い、語り出した。

「杜中将にまつわる情報にハッキングの跡がないかどうか、軍のデータベース調べたらさぁ、明後日の中将が出席予定の七惑星会談に関するもの中心に、不正侵入の跡が見られたんだよねー。警備計画とか、そういうのに。巧妙に隠してあったけど気づいた僕、すごくない? で、いろいろ分析してみたけど、暗殺者の仕業っぽくてぇー。だから多分、暗殺は明後日の会談だと思うな」

「さすが、性格はともかく優秀な男」

「えへへ、ありがと」

 皮肉というより冗談めかして杏華が笑うと、鳳楊は上機嫌に返事を返す。

 彼には嫌みの有無は関係ないのだ。


「それで鳳楊、暗殺者の詳細とかは?」

「それはわかんなーい。でも、盗まれた資料をもっと細かく見ていけば、暗殺者が隠れるかもしれない場所とかも、わかるんじゃないかなぁ?」

 鳳楊の調子のいい返答を聞き、杏華は今後の見通しがたって安心した。

「じゃあそれはよろしく。暗殺者の潜みそうなとこわかれば、そこを中心に護衛の強化を手配するのは私がやっとくから」

「りょうかーい。ではではまた後で」

「じゃあね」

 電話を切ると、杏華はほっと息をついた。

 ――鳳楊の電話がなかったら、気まずくてやってらんなかったな。空気読めない乱入に、今回ばかりは助かった。

 鳳楊に感謝しつつ、杏華は杜の部屋に戻り、再び護衛に従事した。

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