29:ハルカトノカコ

 俺が遥歌と知り合ったのは、小学校四年生の春だった。

 三年生から一学年上がった際に、クラス編成で同じ学級になったのがきっかけだ。


 遥歌は、当時から男女問わず、みんなに一目置かれるような女の子だった。

 勉強の成績が良く、物腰は穏やかで、決して出しゃばるようなところはないが、いつも落ち着いていて不思議な存在感がある。他の同い年の女子と比べて、どこか少し大人びた雰囲気を纏っているように見えていたのかもしれない。


 それに何より、遥歌には「他人が嫌がることを、率先して引き受ける」という、誰にも容易に真似できない人間性があった。

 ――少なくとも周囲はそれを、彼女の美点のひとつとして、称賛して止まなかった。

 そういったわけで、遥歌の身近には、何かと彼女を慕う友人が集い、時として憧れにも似た視線を注いでいたように思う。


 そして、俺もまたそういった友人の一人だった。


 かくいう人気者の遥歌と、俺が当時他の同級生よりも接近できた要因には、偶然の寄与した部分が大きい。

 小学四年以降のクラス担任は、学級行事や日直の仕事で、児童に男女のペアを組ませるとき、必ずのである。


 男子で一番最初だったのは、「あいば・じゅんいち」で俺。

 女子で一番最初だったのが、「あけのみや・はるか」で遥歌。


 そういうわけで、俺と遥歌は少なくとも小学生だった頃、何かと二人で一緒に行動することが多かった。

 まあ、こんなことでもなけりゃ、育ちが良くて人気者の遥歌とは、いくら互いに自宅が近所だったにしろ、俺みたいに平凡な男子が仲良くなれる見込みは薄かっただろう。



 ところで遥歌は、基本的に律儀な性格だ。

 こちらから距離を置こうとしなければ、交友関係を軽んじるようなことをまずしない。

 そんな気質も手伝って、俺との親交は小学校卒業後も続いた。

 中学校では、同じクラスだった年も、別々のクラスだった年もある。

 けれど、いつも同じ通学路で登校したし、顔を合わせれば世間話ぐらいした。

 休みの日になると、たまには遊びに誘うこともして……

 その頃の俺は、徐々に遥歌に対する明確な好意を抱きはじめていた。


 だが、やがて中学校生活にも終わりが来る。

 三年生になると、俺は懸命に勉強し、卒業前には藤凛学園高校の合格通知を手にした。

 遥歌と同じ学校へ行きたいという、その一念が実ったのだ。

 中学に上がったばかりの頃は、自分が地元で一番の進学校に受かるとは思っていなかった。


 ――全部、遥歌のおかげだ! 


 感謝と歓喜の気持ちで胸がいっぱいになって、俺はこのときある意志を固めた。

 中学卒業の前に、遥歌に自分の好意を伝えよう――

 つまり、生まれて初めての告白を試みよう、と心を決めたのである。


 勝算は、かなりあると思っていた。

 身近な友人知人のあいだじゃ、俺と遥歌が小学校時代から親密だったことは、もう知れ渡っていて、むしろすでに付き合ってるんじゃないかと勘違いされることさえあった。

 実は一部じゃ「大人になったら結婚する」という約束をしてる、なんて噂まで囁かれていたらしい。

 第三者目線でも、その程度には仲が良かったわけだ。


 同じ高校に進学が決まったことも、俺の心を後押ししていた。

「遥歌の相手になるにあたって、自分なら相応しいはずだ」などと、些細な根拠を頼りにして、半端な自信を抱いていたのである。



 ところが、思い切って告白した結果――


「……ごめんなさい」


 遥歌は、酷く悲しそうに頭を下げた。


「私は、純市くんの気持ちに応えられない女の子なんです」



 その言葉を聞いたときのショックは、正直に言うと正確に思い出せない。

 ただ、かなりみっともなく取り乱してしまったことはたしかだ。


「お、俺じゃ駄目なのか。なぜなのか、差し支えなければ理由を教えてくれ」


 必死に声を絞り出し、眩暈でくらくらするのを堪えながら、そんなふうに訊いてみた。


「……あの、私も、実は純市くんのことが好きです。本当に、大好き。でも――」


 すると遥歌は、うつむき、もじもじしてみせる。

 俺は、無言で先をうながすことしかできない。

 じっと待ち続けていると、小学校来の幼馴染は頬を桜色に染め、恥ずかしそうに真実を打ち明けてくれた。



「私、自分が好きになった男性が、他の女性と仲良くしているところを眺めているときにしか、幸せな気持ちになれないみたいなんです」


「――はあ……?」



 当初、俺には遥歌が何を言っているのか、まるっきり理解できなかった。

 失恋という事実を突き付けられた直後だったから、動揺のせいで頭の中が整理できていなかったというのは、もちろんその一因だ。

 しかし、それ以上にもっと根本的な部分で、当時まだ中学生だった俺には、「世の中には変わった嗜好の女の子も居る」ということが、すんなりとは受け入れられなかったのだと思う。


「私が自分のに気付いたのは、小学校五年生の頃でした」


 遥歌は、愕然とする俺に向かって、ぽつり、ぽつりと話しはじめた。


「当時十一歳だった私は、ある親戚のお兄さんに淡い憧れを持っていたんです。きっと、世間で『初恋』と呼ぶものがあるとすれば、あれがそうだったのだと思います」


 まず、この時点で虚を衝かれた。

 遥歌に対する思慕の情は、俺にとっては初恋でも、彼女にとってはそうじゃなかったわけだ。苦笑するしかない。


「そのお兄さんは高校生で、いつも優しく接してくれました。それで、私は勝手に片想いしていたわけですが……案の定、そういう魅力的な人でしたから、そのうち他の女性と仲良くなって、お付き合いをはじめたのです」


 それを知った当初、遥歌はかなり落ち込んだという。

 ところが、その後ほどなく、お兄さんの交際相手と顔を合わせる機会があったらしい。

 遥歌が「自分は特殊なんだ」と気付いたのは、そのときだったそうだ。


「とても不思議な気持ちでした……。せつなくて、胸が苦しいのに、どうしてなのか凄く心地好い気分になったんです。――心の痛みに、むしろ強い幸福感を覚えたというか……」


 しゃべりながら、いつしか遥歌の深海めいた瞳には、妖しい輝きが宿っていた。

 たぶん、このとき遥歌は、のだと思う。


「そ、それで、俺と恋人同士にはなれないと?」


「はい……。だって純市くんは、とても一途なところがありますから」


 俺の問い掛けに対して、遥歌はコクリとうなずいた。


「私とお付き合いするようになったら、他の女の子に余所見なんてしなくなるでしょう? ――そうなってしまうと、私はかえって満たされないんです」



 とにかく、こうして俺の初恋は、呆気なく終わってしまった。


 もっとも、「自分がフラれた理由について、すんなり納得できたか?」――というと、もちろんそんなことはない。

 それどころか、失恋直後の数日間は、柄にもなく頭を抱え、悩んで何も手に付かなかった。


 俺も遥歌も両想いなのに、なぜ恋人同士になれないのか? 

 遥歌は、このまま一生、誰とも恋人同士になったりしないのか? 

 それとも将来、あえて軽薄な男と交際し、相手の浮気を眺めて暮らすつもりなのか? 


 わけがわからない。

 包み隠さず言ってしまえば、俺には生涯理解できそうもないし、以後少なくとも高校生になっても、こうした恋愛観に共感を覚えた試しはない。


 一方、インターネットであれこれ検索してみて、なるほど遥歌が語るような恋愛のに当て嵌まる概念があるらしい、ということは後日知った。

 いわゆる「寝取られ(寝取らせ)」という嗜好だ。

 現代では、主にサブカルチャーコンテンツによってスラング化し、認知の広がった性愛傾向の一種だとか。

 だが、馬鹿げた虚構の産物と言い切れるかは微妙なところで、「過去には文学の世界でも、稀に作中で描写されることがあった」なんて説もあるそうだ。


 また、寝取られ嗜好は、の一類型だという見解もあるという。

 たしかに考えてみれば、遥歌にはそれらしい特徴が散見された。

 率先して人の嫌がることを引き受け、たとえ苦行でも努力を欠かさない。学級委員長の推薦を断らなかったり、いつも成績優秀で、品の良い立ち居振る舞いを続けている。

 その窮屈な生活態度を振り返ってみろ――

 それらがすべて、被虐的な快感を得るため、故意に自ら課していたものだとしたら! 


 実のところを言えば、俺が恋愛相談所に自分の個人情報が横流しされているとわかったとき、遥歌に対して複雑な心理を向けた要因も、この特殊な性質と無関係じゃない。

 もし、遥歌がいまだ俺に好意を持っているのだとしたら、希月の恋愛を斡旋することには意味がある。

 からだ。

 それゆえ、いったんは遥歌に疑いを抱かざるを得なかった。


 でも結局、そうした考えをすぐに自ら打ち消したのも、「寝取られ」嗜好に理由がある。

 恋愛相談所は、利用者の恋愛関係を詳しく把握しているため、特殊な恋愛観を持つ遥歌にとって、そもそも関わり合いになるには危険な組織なのだ。露見すれば、どんな噂が立つかも知れない。

 天峰は、俺と遥歌を親しい幼馴染とは知っていたけれど、この子が寝取られ好きな事実までは把握していなかった。

 それが皮肉にも、あの件の潔白を証明したのである……。



     ○  ○  ○




 ……さて、こういった話を、俺は極力淡々と語って聞かせたのだが。

 一通りの事情を知らされた直後、さすがに希月は愕然としていた。


「まあ、そういうわけだから何度も言ったように、おまえが考えている俺と遥歌との関係は、完全なだってことさ」


「……え、ええっ。で、でも、そんな――」


 希月は、俺と遥歌を交互に見詰め、何度となく瞼をしばたたかせる。


「逢葉くんは、遥歌さんとの恋愛の顛末が、それでよかったと思ってるの……?」


「そう改めて訊かれると、少し微妙な気分になるな。説明した通り、遥歌の特殊な嗜好については、今でも自分が理解できているとは思わないし」


 俺は、思わず渋面になって、希月と遥歌の二人から目を逸らした。


「だけど、たとえ理解はできなくても、今じゃんだと思ってる。どういう恋愛を望むのか、どんなふうに生きたいのかを、たぶん遥歌には自分で選ぶ権利があるからだ」


「朱乃宮さんの権利……」


 同じ言葉を口の中で繰り返して、希月は少し考え込むような仕草になった。

 遥歌は、いまだ展望台の床に座り込んだまま、ぼうっとした顔をしている。俺と希月が話している有様を眺め、時折「ふふっ、ふふふ……」と、にやけ笑いを漏らしていた。

 それを横目に眼差しつつ、俺は続けた。


「そう、権利だ。――かつて、俺と遥歌は両想いだった。でも、そういう感情面は別問題として、遥歌には俺と交際できないという理由や意思があった。だから、俺はそれを受け入れたんだ。どうせ無理に付き合っても、それじゃお互い上手くいかなくなるのは、目に見えている。……で、そうやって考えてるうち、自然と恋愛感情も消え失せたわけさ。遥歌はともかく、俺の方はな」


「それは、その、そういうものなのかもしれないけど……」


「逆に訊くけどな、希月。どうして、仮に両想いだったら、俺と遥歌が?」


 やや意識的に言葉を強調して、俺は問い掛けた。

 希月は、ついに黙り込んでしまう。

 ……きっと、最近まで「婚活女子高生」を自称していたこの子も、気が付いたに違いない。



「おまえだって、わかるだろう? ――そいつはたぶん、おまえが無意識に毒されている『偏見』とか『決め付け』でしかないんだよ」



 そうなのだ。

 曖昧で、不確かな、目に見えない何かの一種。

 そのなかでも、取り分け厄介なもの――

 それが、だ。


「互いに意識し合っているなら、必ず恋人同士になるべきだ」

「長年一緒に居る恋人同士なら、必ず二人は結婚するべきだ」

「結婚する以上は、一定の年齢までに必ず子供を作るべきだ」

 ……などなど。


 冷静に考えてみると、正直アホか、と思ってしまう。

「**なら、**でなきゃならない」って、そんな画一化された価値観ばかりを、他人が勝手に押し付けるなよ、と。

 俺が希月の婚活に対して、心のどこかで抱き続けていた違和感が何なのかを、やっと今はっきりさせることができた気がする。


 恋人同士や夫婦になることは、もちろん素晴らしいものかもしれない。

 結婚に憧れる気持ち、いずれは子供を得たいという気持ちもわかる。

 だから「婚活」という行為も、そのために努力し、コストを費やすことも、決して悪いとは言うまい。


 だけど、交際相手や配偶者と結ばれること――

 それが男女関係のすべてだなんて考えは、やはり偏ったものの見方だと思うのだ。


 もっとシンプルな、純粋な信頼関係から成り立つ男女の友情だってあり得るし、未婚の愛情が既婚のそれに劣るとは限らない。

 子供は家庭を明るくし、人生を豊かにし得るかもしれないけど、それだけが常に結婚の目的になり得るわけじゃないだろう。


 そういうを憎悪したからこそ、希月だって「近江同盟」が自分の婚活に介入していたことを、憤慨していたのではなかったのか? 


 ……当然、「しかし遥歌の寝取られ嗜好は、異性の不貞を肯定するものではないのか」という反論もあろう。

 いくら個人の価値観でも、許容されて然るべきものではないだろう、と。


 だがおそらく、遥歌もその点は弁えている。

 だからこそ、誰とも恋人同士になろうとはしないのだ。

 きっと将来も、異性と結婚したりはしないだろう。

 それもまた、遥歌個人の権利だ。

「どうしようもなく、異性が寝取られることでしか満たされない」という性質と折り合いを付けて、本人が独り身であり続けることを望むのであれば、受け入れるしかない。



「それとな、俺は遥歌にフラれたけど――その経験を通じて、前向きになれた部分もある」


「……どういうこと?」


 付け加えるように言うと、希月はまたしても戸惑いの表情を浮かべた。

 俺は、それに笑みで応じてみせる。


「けっこう世の中、びっくりするようなことも本当にあるんだって思うようになったのさ」


 世間一般を見渡して言えば、「寝取られ好きな幼馴染」なんて、まず普通は身近に居たりしない。

 しかしながら、案外世の中「事実は小説よりも奇なり」なのである。

 目に見えるものを盲信することが、いつも必ず正しいとは限らないだろう。



 これまで希月は、目に見えないもの、曖昧で不確かなものを嫌ってきた。

 そうした悪感情も、世間に蔓延る「偏見」や「決め付け」を翻ってみれば、わからなくはない。


 けれど、まだそのすべてを否定することが正しいかは、断じ切れないと思うんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る