28:そこに純情が生まれる。
――射抜くような視線で、宝石みたいな瞳がこちらを睨み付けている。
俺は、ほとんど本能的に怯んでしまった。
希月の面差しは、ついいましがた見たものと、すっかり豹変している。口元は強く引き結ばれ、憎悪と似た昂りが窺えるかと思えば、泣き出しそうな気配にも感じられた。
「どうして――」
希月が、詰るように喚いた。
「どうして、逢葉くんがこんなところに居るの!?」
「アホか! おまえが夜中に一人で出歩いてるから、心配したんだろうが!」
「でも、それじゃあ朱乃宮さんはどうしたのっ」
俺の手を振り払おうとして、希月は駄々っ子みたいに何度も身体を
逃がしてなるかとちからを込めて、こちらもそれに対抗する。
「私のところに来たりしたら、朱乃宮さんが一人になっちゃうじゃない!」
「遥歌には、もう家に帰ってもらった!」
「なっ――なんで、そんなことになっちゃうのかなっ!?」
希月は、目を剥いて抗議した。
「だって逢葉くんと朱乃宮さんは……二人は、両想いなんでしょう!?」
「だから、勝手に誤解すんなっての! 俺は、遥歌のことをそんなふうに思ってねーし、あいつとの関係はおまえが想像しているようなもんじゃねーよ!」
睨み返して断言すると、にわかに希月は身動きを止める。左右の瞳からは、ほんの僅かに刺々しさが和らいだ。しかし入れ替わりで、そこに次は胡乱げな色が滲む。
「……どうして、私がここに居るってわかったの?」
俺は、スマホに連絡が取れなかったので、希月の自宅へ直接電話した経緯を説明した。
その際、香奈さんと話して、希月の行き先が中央区らしいと知り、星澄タワーの展望台に思い当たったことも。
「おまえこそ、どうしてあんな真似をしたんだ」
こちらの事情を一頻り伝えると、俺は改めて問い質した。
「あんなことって?」
「つまり、なんで俺のところへ遥歌を寄越して、おまえ自身はこんな場所に来てたんだよってことだ。……やっぱり、自分に香奈さんのことを重ね合わせていたのか?」
自分は実姉と同じように、曖昧で不確かなものに踊らされていた――
と、希月は以前に言っていた。
この子が展望台に居るだろうと見立てたのも、連想の根拠はそこにある。
だが、こうして居場所を突き止めてみても、憶測の正しさが証明されたわけではない。
俺は、きちんと希月本人から、企ての真意を聞きたかった。
「……そうだね。たしかに多少は、自分とお姉ちゃんをだぶらせていたと思う」
一拍挟んでから、希月はちょっとだけ掠れかかった声音で答えた。掴んだ手を通して、か細い身体がすうっと弛緩したのが伝わってくる。
「だけど、それだけじゃないよ。――むしろ私にとって、本当に大切な目的は、もっと別にあったの」
「本当の、目的だって?」
思わず息を呑み、鸚鵡返しに重ねて訊く。
希月の顔を、正面から見据えた。いまやそこには、自嘲的な笑みが覗いている。
「私は、証明したかった。目に見えない、曖昧で不確かなものは、決して誰のことも幸せに導いてなんかくれないってことを」
宝石みたいに大きな瞳が、一際強い光彩をはらんだように見えた。こちらを向いているはずなのに、焦点は落ち着きなく定まっていない。
「逢葉くんにも、以前に教えたよね? この展望台には、『夜景を眺めると幸せになれるジンクス』があるって」
「ああ……」
いつかの言葉を思い出して、うなずいてみせる。
すると希月は、まるで思いも及ばない着想を披瀝してみせた。
「だから、君を朱乃宮さんと引き合わせて、私は一人でここに来た。――そうすれば、ここに居ないはずの逢葉くんは朱乃宮さんと幸せになって、私はジンクスと反対に一人ぼっちで不幸せな子になれるじゃない」
「……お、おまえ、もしかして――」
俺は、ようやく希月の意図を悟って、唖然とした。
懸命に驚愕を押し止め、喉から声を絞り出す。
「ジンクスがアテにならないって、立証するためだったのか。曖昧で、不確かなものを否定したくて、こんな企みを実行したってことなのか?」
たしかめるように問うと、希月は黙って首肯する。
俺は、あまりに突飛な真相を知らされ、思考を整理するだけで精一杯だった。
まともな感覚からすれば、容易には受け入れ難い話だ――
あえて自分を不幸に貶めることで、幸せになれるジンクスを否定しようだなんて!
ほんとにこいつ、何考えてんだよ。
屋上で告白されたときから、ずっと滅茶苦茶なやつだとは思ってたけど、破天荒もここに極まった感がある。
もっとも、希月自身にとっては、行動のいずれもが真剣そのものなのだろう。極端だけど、根は真面目な子なのだ。
だから、次にどんな言葉を掛けるべきなのか、俺はしばし迷ってしまう。
「――でも、駄目だったよ」
そうしているうち、希月が先に口を開いた。かすかに震えた声だった。
「折角、これで『曖昧で不確かなもの』を、否定できると思ったのに……なんで……」
一句ごと、ゆっくりと紡がれた言葉が、しかしそこでいったん途切れる。
はっとして、胸の詰まるような感覚に襲われた。
反射的に、掴んでいた希月の手を放す。
自称「元・婚活女子高生」の両目が、じんわりと潤み、今にも泣き出しそうに見えたからだ。
「なんで、逢葉くんは、わ、わっ――私の傍に、現れたりしたの……!?」
いまや希月は、半ばしゃくり上げながら呻いた。苦しげに顔を歪め、ちいさく
でも、そんな希月の有様を見て、どうしようもなく目が離せなくなってしまう。
「……もし、俺がここへ現れなかったとして――」
俺は、息苦しさの中に、奇妙な温かさが込み上げてくるのを感じていた。
「自分一人で不幸になって、おまえはそれで満足だったのか?」
「そんなわけないじゃない! むしろ最悪だよ!」
希月は、憤りも露わに叫ぶ。
その拍子に堪え切れず、とうとう左右の瞳から、大粒の滴が零れ落ちた。
たぶん、それは鬼ごっこで負けた子供みたいな、悔し涙だったんじゃないかと思う。
言っていることとやってることが、もう支離滅裂だ。
「……こっ、こんなの、ないよ……っく……。な、なんで、また、目に見えない、曖昧なものになんか……っ……」
えぐえぐと、希月は左右の手で、代わる代わる目元を拭っている。
この子が泣いたところを見るのは、これが二度目だ。
最初は、結婚体験セミナーだった。
まあ、かつての擬似結婚式では、こんなに派手に落涙してなかったし、単なる芝居か、俺の見間違いだったのかもしれないが。
――けれど、あのときの涙が、もし本物だったのだとしたら?
この子は、何を思って、あんなお嫁さんごっこで泣いたりしたのだろう。
希月が本心から、「曖昧で不確かなものは信じない」と言い、打算塗れの恋愛観を掲げているとすれば、あり得ないはずの涙だ。
ならば、あらゆる前提が、大きく変化してしまう。
未来に対する不安に怯え、急き立てられるように「婚活」していた希月。
だけど、心の底にあったのは、はっきり上辺だけでわかるようなものじゃなかったんだ。
ようやく、それを今になって理解した――……
「……ねぇ、逢葉くん……」
数秒の間を置いて、希月が俺の名前を呼んでいることに気付いた。
その声音は、少しくぐもっていて、すぐ間近から聞こえる。
「ど、どうして、君は、私のことを――いきなり抱き締めてるのかな……?」
そう。
希月は気が付くと、俺の腕の中に居た。
いつの間にか、手元に引き寄せ、包み込むように抱いている。
希月の身体は、こうして触れてみると、びっくりするほど華奢で、酷く頼りなく、いくらか加重しただけでも壊れてなくなってしまいそうだ。
もっとも、なぜ自分が突然、こんなことをしているかは不明だった。驚きさえ覚えている。
「……正直言って、俺にもわからん」
だから、包み隠さず本音で答えた。
そうしながら、両手はますます希月を求めている。
そっと、長い鳶色の髪を撫でながら、いっそう近くに抱き寄せた。顔の傍で、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
希月は、少しも抵抗しなかった。
「……ば、ばかっ……。や、やさしく、なんか――しないで、よぅ……」
代わりにぐずぐずと、小声で不平を並べはじめる。
そのくせ、こっちの胸に両手を置いて、そこへ自分の顔を擦り付けてきた。
こりゃ間違いなく、服の上は涙と鼻水でべとべとだろう。よだれだって付いてるかもしれない。
最低の醜態である。
……ところが、人間の感情というのは、まったく不思議なものだと思う。
このどうしようもなく、みっともない姿を見せられて――
俺は、おそらく初めて、希月絢奈という女の子を、本気で愛おしく感じていた。
ああ、我ながら何という不覚だろう。
希月は本来、およそ俺の好みの異性ではない。
たしかに容姿は可愛いし、料理の腕も立派なものだ。
だが、この一ヶ月半と少し、どれだけの迷惑を被ってきたか。
無茶で強引で面倒臭くて、やたらと手の掛かる自称「婚活女子高生(活動休止中)」、それが我がクラスメイトの希月である。
どんなに言い寄られたって遠慮したい。
ずっとずっと、そう思い続けてきた。
だというのに、なぜか俺は今この子のことを、どうしようもなく幸せにしたくて堪らなくなっている。
いったい、何がどうなっているのだろう。
戸惑いの最中、唐突に脳裏を
『その手の雪がなくなる前に』のワンシーンだった。
(――何もかもを、君に捧げたくて堪らないんだ)
希月を抱き締めたまま、危うく笑いが込み上げそうになる。
馬鹿な。
作り話の内容を、突然今頃思い出して、どうやら俺は安っぽい共感を覚えているらしい。
それも、これまでワガママ三昧で俺を振り回し、疎んじ続けていたはずの女の子を抱き締めて。
こんなふざけた展開があるものか!
とはいえ、人間は時として矛盾の塊だ。
打算塗れの女の子だって、本心では理想の花嫁を夢見ているのかもしれない。
きっと理屈よりも先に、何となくそうせずに居られなくなることだって、沢山ある。
尤もらしい説明なんて、何もかも後付けでしかないんじゃないかと思うことでさえ。
本当の純情は、ひょっとしたらそうやって生まれるんじゃなかろうか?
誰かに何かするとき、その見返りを相手にも求めたいとか、結果的にどう思われたいとか、それを浅ましいだとは言わないけれど。
誰かのために何かをしたくて堪らなくなる気持ちは、たぶん曖昧でも嘘じゃない。
だから俺は、じっと静かに希月のことを、抱き締め続けた。
か細い肩の震えが止まって、流れる涙が乾くまで。
……やがて、腕の中から泣き声が聞こえなくなり、鳶色の頭が少し動いた。
尚もしばらく待つと、ようやく希月が顔を上げる。
それを見て、俺は少し意外に思った。
希月は、頬から耳まで真っ赤に染めて、口元をあわわと不恰好に歪めていたからだ。
「――わっ、わわわ……わっ私たち、こ、こんなところでまるっきり、こっ恋人同士みたいなことを……」
「……はあ?」
今更、何言ってるんだこいつ……
なんて、一瞬思ったけれど、すぐに考えを改めた。
思い返せば、過去に希月から俺に交際を要求してきたことなら何度もあれど、こちらから恋人めいた行為に出たことは、実質的に初めてだった。
おまけに、希月はついこないだまで、こう見えて「男の子と手をつないだことだってない」ようなやつだったのだ。
はたと正気に戻ってみると、異性から抱き締められている状況は、こいつにとって思いのほか刺激が強かったのだろう。
「なるほどな……」
まじまじと、目の前にある希月の顔(※かなりぐちゃぐちゃ)を覗き込む。
「おまえ、実はかなり可愛かったんだな……。初めて知った」
「ふ、ふああぁッ!?」
突如、希月は目を剥き、奇声を上げる。水揚げされた魚みたいに口をぱくぱく開閉させて、頭からは
「なんだよそのリアクション。おまえ、これまで自分で自分のことを、散々可愛いでしょうってアピールしまくってたのに」
「そ、それとこれとは、全然わけが違うんだよ! 私が言ってたのは、そういうのじゃないもん!」
希月は、急にぎゃあぎゃあ喚き出し、頬や額に無数の汗の粒を浮かび上がらせた。
うるせぇなぁ。折角、ちょっといい雰囲気だったのに。
あまりにじたばたと騒ぐので、俺は仕方なく希月の身体を解放した。
一、二歩下がって、彼我の間合いを取ると、ようやく落ち着いたらしい。
乱れた呼気を整えつつ、こちらをやたらと恨めしげな目つきで睨み付けてきた。
何だよ文句あんのか。
……などと、そんなやり取りをしていたら。
突如、俺の背後で、不審な物音が聞こえた。
希月も驚いた様子で、互いに顔を見合わせる。
聞き間違いじゃなかったようだ。
何事かと、警戒心を刺激されて、そちらを振り返ってみる。
一見したところ、辺りにおかしな様子はない。
相変わらず視界に映る光景は、展望台フロアの薄暗い一隅だ。
けれど、何か妙な気配を感じた。
誰かが居る。
そんな確信めいた感覚が、空気を通して肌に伝わってきた。
向かって左側、フロア中心寄りの壁面……その一番手前にある、支柱の物陰。
そこから、人の気配がする。
俺は、ゆっくりと慎重に、支柱の傍へ歩み寄った。
そうして、ちょっと身を乗り出すように覗き込んでみる。
そうすると――
「――お、おまえ……いつからそこに隠れてたんだ?」
思わず、頓狂な声が出てしまった。
支柱の物陰には、よく見知った人物が座り込むようにして、身を隠していたからだ。
さらさらした黒髪のポニーテールと、かすかにまなじりの下がった深海みたいな瞳。
それは誰あろう、我が幼馴染たる朱乃宮遥歌だった。
遥歌は、おもむろにこちらを振り向いて、目を合わせる。
その顔を見て、「ああ……」と、俺は嘆息を漏らしてしまった。
そこにあったのは、穏やかで品のいい、いつもの遥歌の面差しではない。
瞳にある種の淫靡さを湛え、呼気を荒げて興奮する、もう一人の遥歌だ。
「……ふ、ふふっ。じゅ、純市くん――私には、どうかおかまいなく……」
遥歌は、薄く頬を上気させながら言った。平時からは想像もつかない、まるで酔っ払いみたいに呂律の怪しい口調だ。
俺は、そんな遥歌の姿を目の当たりにし、すぐに事情を悟ってしまった。
さっき新冬原で別れたあと、遥歌は真っ直ぐ自宅へ帰らなかったのだ。
そして、代わりに中央区へ来た俺のことを、密かに背後から
なぜって? そいつは決まってる――
俺と希月がイヴの夜に会えば、もしかすると二人がいい雰囲気になる場面を、こうして物陰から目撃できるかもしれないと思ったからだろう。
遥歌は、そういう女の子なのだ。
だから、かつて俺はこの子に告白したけど、あえなく失敗してしまったのである。
その危険性を、希月のことで頭がいっぱいで、たった今まで失念していた。
「え、えっ? な、なんで朱乃宮さんが、ここに……!?」
希月も俺の隣に立って、遥歌を見て取るや困惑の表情を浮かべている。
まあ、それも致し方あるまい。
俺だって、この子を家に帰したつもりでここへ来ていたのだ。
遥歌がここに居る理由なんて、普通に考えたら理解できないだろう。
……でも、こうなってしまったからには、いっそ丁度いいのかもしれない。
希月は今まで、ずっと俺と遥歌のことを誤解してきた。
それが勘違いだという明らかな証拠を、そろそろ教えてやるべきだろう。
遥歌の名誉も慮って、これまで俺も大っぴらに話すことは避け続けてきたけれど、もう潮時だ。
「なあ、希月――」
俺は、いっぺん深呼吸してから、切り出した。
「おまえ、寝取られ嗜好って知ってるか?」
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