25:近付くほどに遠ざかる、遠ざかれば……
十二月の冷たい風が、不意に車道側から吹き付けてきた。
長い鳶色の髪がふわりと踊って、宙に広がる。
希月は、それを片手で押さえ付けつつ、かすかに身体を震わせた。
もっともその仕草が、純粋に外気の寒さによるものなのか、それとも他の要因を伴うのかまでは、俺にはわからなかった。
「……曖昧で不確かなもののせいで、お姉ちゃんは恋愛に失敗した」
希月は、そっと噛み締めるようにつぶやく。
「なのに妹の私は、どうして曖昧で不確かなものに助けられて、逢葉くんと仲良くなったりしちゃったんだろうね」
その問いに相応しい答えを、残念ながら俺は知らない。
世の中というのは、往々にして不公正なものだ。
極言すると、人生の大部分が幸か不幸かは、曖昧な「運の良し悪し」で決まってしまうと考えられなくもない。
努力は未来をより良く変えるが、それは努力する幸運に恵まれた人間の特権でもある。
例えば、たまたま紛争地域の貧困国に生まれてしまった子供は、初等教育の機会すら与えられないことが珍しくない。
でも、この子はそんな哲学の話を、望んでいないと思う。
「希月は、以前に『勝てば官軍』だって言ってたよな……」
俺は、返事の代わりに訊いてみた。
「だったら過程はどうあれ、結果さえ伴えば、それでいいんじゃないのか。婚活が上手くいきさえすれば」
「客観的な事実が同じでも、本質は全然違うよ。進んで清濁併せ呑むのと、知らないうちに他人の都合で踊らされてるのは。……私は、納得いかないもん」
希月は、即座に否定する。口元が悔しげに歪んでいた。
「それじゃ、やっぱり曖昧な結果論になっちゃう。折角、現実を見て、難しそうなことはあきらめて、確実に努力すれば手が届く、身の丈に合ったものを選ぼうとしてきたはずなのに。そうやって頑張って計算しても、それが上手くいったのはたまたまだったなんて、いったい何を信じればいいのかな?」
車道の流れがぴたりと止まった。
歩行者信号が青を示す。
けれど希月は、まるで歩き方を忘れてしまったみたいに、動き出そうとしない。
その隣で黙したまま、俺も倣って立ち尽くした。
「……教えてよ。何を信じれば、正しく努力が報われるのか――」
もはや誰に向けてともなく、希月は囁く。
「どうすれば、未来が怖くなくなるのかを」
そうするあいだに、ここから離れた停留所で、到着したバスが車体を寄せるのが見えた。
○ ○ ○
二学期の期末考査は、十二月九日(水)からはじまった。
希月は、この日を境にして、朝から雛番まで迎えに来る頻度が減少した。
事前の予告通り、ひとまず土日以外は一日置きの間隔にするつもりらしい。
うちの母親には、「バイト先が年末で忙しくなって、しばらく登校前にも手伝わなきゃいけなくなった」と説明したそうだ。親類の経営している店だから、そういうこともよくあるのだ、と。
試験期間が重なったことも、丁度いい口実になったようだった。
定期考査は、十一日(金)までで終了し、土日を挟んで翌週からは答案が返却された。
クラス首席の座は、今回も遥歌がキープ。
篠森は成績を落とし、六位まで後退したとか。担任が心配して声を掛けていた。図書室での一件以来、まだ色々と悩んでいるのだろう。
かく言う俺も、ひとつ順位を下げて、クラス十一位だった。
希月の順位は知らない。あまり良い成績でないことは、たしかみたいだが。
いずれにしろ、今月も半ばを過ぎると、学校行事は終業式を残すのみ。
その先には、冬季講習期間もあるものの、いよいよ冬休みが待っている。
希月は、放課後に制服デートを要求することもなくなった。
それから当然、二人で登校しなかった日には、昼に手作り弁当を差し出してくることもなくなった。
一応、こうした現状については、天峰に連絡を入れて伝えておいたものの、それで何かが改善されるわけもない。
おまけに占星術研究会は、妙に近頃落ち着きがなく、部室を訪ねても人が出払っている場合が少なくなかった。
天峰が以前、「懸案を抱えている」と言っていたのは、本当みたいだった。
かくして希月とは、学園内での接点が減って、一緒に居る時間も会話する機会も、当然比例するように減った。
それは本来、俺にとって望ましい状況のはずだった。
これまで、ずっと身の回りで纏わり付かれて、あいつに悩まされてきた。
だがようやく、以前までの平穏な日常が戻って来つつあるのだ。
……にもかかわらず、まったく気分は晴れなかった。
授業中、希月の姿を何気なく探してみた。
つい先日まで、高らかに婚活中だと宣言していたクラスメイトの座席は、教室の真ん中付近に位置している。
希月は、机に向かって、無言で黒板をノートに書き写していた。
実は、以前から時折感じていたのだが、「本当の希月は、とても真面目な女の子なんじゃないか」と思う。
あまりに思考が極端で、押し付けがましい言動が目立つから、誤解ばかりが先に立ってしまうけれど。
今、少し距離が生まれてみて、殊更そんな気がしてくる。
たぶん、試験の成績があまり振るわないのは、日頃学業以外(主に婚活)で労力を費やしすぎているせいだ。
そして、とても真面目な希月絢奈は――
突飛な立ち居振る舞いと裏腹に、酷く臆病な女の子なのではあるまいか?
なぜ、希月は婚活に熱心だったのか。
それは、実のお姉さんが恋愛で苦労していたからだ。
でも、身近な人間の苦労を見て、素直に「教訓にしよう」なんて考えられる子は、相当気がちいさいんじゃないかと思う。
仮に単純なお調子者だったら、「自分はあんなふうにはならない」と、何の根拠もない自信を持つだけだろう。そうでなくとも婚活に関して言えば、「まだ高校生なんだから悩む必要はない」なんて考える方が普通だ。
だけど、希月は居ても立ってもいられなかった。
不安で、怖くて、信じられなくなったからだ。
曖昧で、不確かなものが……
何より、自分自身の「未来」が。
だから、希月は戦うことにした。
この圧倒的現実に対して、打算の鎧で身を包み、粘り強く恋愛相談所に通った。
どんなかたちであれ、地道な努力が、いずれ正しく報われ、将来を請け合うものだと信じて。
他人に理解されず、薄気味悪いと思われても、婚活し続けたのである。
ところが、そんな婚活に成果をもたらしたものが、皮肉にも「近江同盟」を結び付ける集団心理だった。
打算ではコントロールできない、曖昧なものの気まぐれを、知らぬ間に頼ってしまっていたわけだ。
希月の失望は、どれほどだったろう。
……無論、それが「当初の努力あればこそ、導き出された結果である」と考えることも不可能ではない。
けれど、根が真面目な希月は納得しなかった。
曖昧で、不確かなものを怖れ、強い不信を抱くがゆえに。
そんな希月を、俺は笑う気にはなれなかった。
おそらく俺たちは、過去よりも将来に多くの時間を残している。
何もかもを妥協して、漫然と事実を受け入れながら生きるには、まだ早すぎるはずだ。
○ ○ ○
ただ、俺は希月のことを、そんなふうに色々と考えるようになっていたけれど。
すでに実情として、二人の関係性には、最近少しずつ距離が生じはじめている。
――それは、俺自身の実感だけではなかったようだ。
「おい。この頃どうなってんだよ、おまえと希月さんは」
昼休みの学食で、棚橋が白米を掻き込みながら問い掛けてきた。
今日は二人揃って、しょうが焼き定食を箸で
「どうなってるって、いったい何がだ」
「しらばっくれるなよ。先月中は昼休みと言えば、ほとんど毎日希月さんから手作り弁当食わせてもらってただろ。なのに期末考査の頃ぐらいから、おまえらが二人で昼飯食べること自体が二日に一回以下になった。今だってオレと学食に来てるじゃねーか」
こいつ、無駄に察しがいいなあ。
「それに朝こそ一緒に登校してるみたいだが、放課後なんかに学園内でイチャコラしてる場面を見ることも少なくなった。普通に考えておかしい」
「どこがおかしいんだよ」
「付き合いはじめて一ヶ月少々の高校生カップルが、そんな急速に落ち着いてナチュラルな雰囲気になるはずねーってことだ! そのへん憶測したら、おまえらのあいだになんかあったんじゃないかって、誰でもすぐに想像するだろうが!」
「誰でもはしねーよ!」
毎度ながら棚橋のやつ、高校生の男女交際に関して、思い込みや先入観が過剰だ。
……もっとも、その勘繰りがまったくの的外れとも言えない。
俺と希月の関係は、たしかに先月と比べれば変化した。
ただ、それは互いの何かが破綻したと言うよりじゃなく、もっと過去の時点まで遡行しつつある、と言った方が近い。
「そもそも、俺と希月が付き合ったって事実は、これまでひとつもないからな」
「おまえがどう思ってようと、オレから見たら付き合ってるようにしか見えねーんだよ」
棚橋は、しょうが焼きを頬張りながらしゃべる。
「そいでもって近頃、希月さんがやけに落ち込んでるように見える。――ということは、問題はおまえが彼女に何かしたか、それとも何もしてやれていないかだ」
「……おまえ、何だか随分と希月の肩を持つなあ」
「ふっ。別に希月さんだから肩を持つわけじゃない。すべての男よりも可愛い女の子の方が、オレにとって明らかに尊いからさ」
気取った素振りで、棚橋はわりと馬鹿なことを言う。
正直者である点は認めるが、そういう台詞を人前で堂々と発するのは止しておけ。
折角の親切も、軽薄な下心があるようにしか思えなくなる。
「まあ、しかしながらオレも、おまえと希月さんのことにばかり、かかずらっちゃ居られない。もうすぐ年末だし、合コン戦士にも一大聖戦が近付きつつあるから忙しいんだ」
「何だそりゃ」
合コン戦士の一大聖戦って。ちっとも神聖に聞こえねーぞ。
と、内心ツッコミを入れたのだが、むしろ棚橋はこちらの見識の甘さを、鼻で嘲笑するような表情を浮かべた。
「決まってんだろ。クリスマスだよ、クリスマス!」
棚橋は、テーブルに身を乗り出して言った。プラスチック製の箸を真ん中から握り締め、拳を作って意気込んでみせる。
「
やっぱり、基本的な行動原理は下心みたいだった。
それにしても俺が知る限り、棚橋はいまだに合コンで連戦連敗らしいのだが、つくづくめげないやつである。そのしぶとさは素直に評価したいし、案外こういう男が人類で最後に生き残るのかもしれない。
「で、おまえの方はどうするんだ逢葉」
「どうするって、いったい何をだ」
「またそのリアクションかよ! 今の会話の流れで察しろ」
棚橋は、呆れ顔で
「近頃、希月さんが落ち込んでる。そこへもうすぐ、クリスマスが来る。――だったら、おまえが取るべき行動はひとつしかねーだろ! 言わせんなよ、こんなラブコメの基本的な展開を! 逢葉って、深夜のラブコメアニメとか興味ないのかよ!?」
おまえは深夜アニメと現実を混同しすぎだ。
「つまり、俺に希月を誘って、クリスマスデートにでも連れて行けと言うのかおまえは」
「それ以外の意味に聞こえたんだとしたら、おまえはオレのおすすめアニメ百選を、今日から一本ずつ視聴して行かなきゃならない」
おすすめだけでも百本ってことは、おまえは全部で過去に何本視聴してるんだよ。
「何度も言うが、俺と希月は恋人同士でも何でもないんだぞ」
「細かい事情は知らん。でも、今日までの実態を考えてみろ。――たとえ望んだわけじゃないにしろ、あんだけ何度も昼飯をご馳走になってたんだろ。それを作り続けてくれてた子が、傍目に見ても元気なさそうにしてるってのに、無関係を決め込んで何もしない気なのかよおまえは!」
「むっ……」
棚橋め、思いのほか痛いところを突いて来るな。
とはいえ、俺から希月をデートに誘う?
――それもクリスマスに、だと?
ようやく、あいつに纏わり付かれることから解放されはじめて、かつての平穏な日常が戻りつつあるってのに、それはどうなんだ。
もし、わざわざそんなことをしたら……
まるで、あいつが傍から離れていったのに、俺が未練を残しているみたいじゃないか。
だけど、棚橋の意見も、
希月のことを座視したままなら、薄情者呼ばわりされても致し方ない。
どうすりゃいいんだよこれ。
俺は、しょうが焼き定食を咀嚼しながら、思わず頭を抱えてしまった。
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