18:時間経過と需要変動
「電気機器メーカーを辞めて、情報通信関連のソフトウェア開発会社を起業するんだ、って言ってたみたい。スマートフォン向けアプリとか、そういうのを作る仕事をするって……。お姉ちゃんには、『三十歳になったら、それを区切りに挑戦しようと思ってる』って言ったらしいよ」
「三十歳で独立して、起業か……」
たしかに、「夢」と呼ぶに相応しい計画かもしれない。
それも、かなり具体性を伴った目標に聞こえる。
「だけど、その、ああいう種類の仕事って――あくまで個人的な先入観だけど、かなり競争が激しくて、色々と難しそうな印象があるんだが……」
「まあ、誰が見ても簡単そうだとは思えないよね。もちろん世の中に気楽な仕事は多くないだろうけど、起業するとなれば尚更だよ。特定の業種に限らず、新しい事業は一定の
希月の見解は、とても冷静なものに思われた。語り口自体も落ち着いている。
「その話を聞かされて、お姉ちゃんはすっごく驚いたみたい。お付き合いして、もう何年も経っていたし、『そろそろ相手もプロポーズか、婚約ぐらいはしてくれるはずだ』って思ってたらしいから。――でも現実は逆だった。その人からは、『自分の身勝手に巻き込むわけにはいかないから、別れて欲しい』って言われちゃったんだよ」
「それで、二人は恋愛関係を解消することにしたのか」
「最終的にはね。だけど、そんなに簡単にはいかなかったよ」
希月は、そっと瞳を伏せた。
「お姉ちゃんは必死に食い下がった。その人が夢を追い掛けることで、生活が多少不安定になったっていい、全力で尽くすから捨てないで欲しい、って――泣きながら
それはそうだろうな、と思った。
「恋愛よりも夢を取る」と決めたなら、そこに自分以外の人生を巻き込むわけにはいかないだろう。
まして起業の場合、どんな
失敗すれば、莫大な借金を抱え込むことだってあり得るはずだ。
「香奈さんの交際相手だった人も、きっと悩んだんだろうな」
「そうかもしれないね。――でも、すっごく無責任だよ。少なくとも、真剣に交際していた女の子の側からすれば」
「……無責任?」
「うん、とんでもなく無責任」
希月は、断定的に言って、正面に向き直った。
「その人は、世間の恋愛市場価値を、まるで理解していないもん」
また、その話なのか。
やや辟易して、俺は思わず苦笑しかけた。
しかし、希月と目を合わせ、すぐに態度を改める。
そこに何か、いつも以上に深刻な自称「婚活女子高生」の面持ちを見て取ったからだ。
「妹の私が言うのもどうかと思うけど、お姉ちゃんは美人だよ。そのせいで交際相手だった男の人も、お姉ちゃんにはすぐに次の恋人が見付かると思ったのかもしれない。だけどね、そんなに単純なものじゃないよ、結婚を前提とした恋愛って」
「単純じゃないって、どういうことだよ」
「だってお姉ちゃんは、もうすぐ二十代じゃなくなっちゃうもん。あとほんの一年ちょっとで、三十歳になっちゃう」
「そんなこと……別に何歳になったって、やり直せばいいじゃないか」
「耳ざわりのいい建前だよ、そんなのは。じゃなきゃ、単に実のない慰めだと思う」
俺の意見を、希月は即座に否定した。鋭く、
思わず、ちょっと怯んでたじろいだ。
「何でだよ。恋人探しや婚活は、女性側の圧倒的売り手市場なんだろ? 以前に恋愛相談所で、おまえや天峰はそう言っていたと思うが」
「言ったよ。たしかに、二十代半ばぐらいまではそうだって。だけど、未花ちゃんはこうも言ったよね――『人生の時間は有限で、いつまでも同じ場所には留まり続けられない』って」
希月は、語気荒く畳み掛けてくる。
「恋愛市場における価値は、時間と共に移ろうものなの。それは厳然たる事実で、上辺で何をどう取り繕っても、みんな本音じゃ気付いているはず。――なのに、都合の悪いことには素知らぬ振りで、そんなに重いこと言うなとか、駄目なら早くあきらめろだとか、終われば何もかもいい経験だったはずだとか……本当に勝手すぎるよ。それが無責任じゃなければ、いったい何だっていうの?」
希月は、尚も語り続けた。
姉の香奈さんを取り巻く状況と、それを基礎付ける恋愛市場価値――
そして、厳しい需要変動のことを。
「過去の恋愛をあきらめたお姉ちゃんは、それでもどうにか失恋から立ち直って、また次の交際相手を探すことにしたんだよ」
とはいえ、同世代には既婚者が多く、すでに子供が生まれたりして、家庭を築きつつある友人ばかり。
新たに異性を紹介してもらおうにも、助力を得るのが難しかった。
そこで香奈さんは、思い切って結婚情報センター……
すなわち、「結婚相談所」を利用することにしたのだという。
○ ○ ○
こうして、希月の姉・香奈さんの「婚活」がはじまった。
だが登録直後、最初のコンサルティングを受けた際に、早速非情な言葉を告げられる。
「貴女ぐらいの年齢でしたら、夢見がちな理想は捨てて、どんどん相手の男性に求める条件を妥協していかないと、結婚のチャンスは減少する一方だと思ってください。――貴女自身の市場価値は、数年前より確実に目減りしています」
最初は香奈さんも、女性相談員が何を言っているのか、わけがわからなかったそうだ。
だが具体的な話を聞くうち、自分が置かれている立場を少しずつ理解しはじめて、血の気が失せるような心地になったという。
結婚を前提に交際を考えている男性は、その大半が二十代の相手――
それも、できるだけ若い女性を配偶者に希望している、と知ったからだ。
いや、香奈さんもおぼろげには「そういうものだろう」と察していた。
けれども、実情は想像をずっと上回っていたのである。
「もし婚活中に三十歳を迎えてしまった場合、その後の成婚率は大幅に減少することを覚悟なさってください。残念ですが、それが現実の需要です」
相談員は、事務的に説明した。
婚活の要点は、「結婚を望む男性が大概において、遠からぬ将来に子供を欲しがっている」部分にあるらしい。
例えば、二十七歳から婚活をスタートして、希望条件に近い異性を選別していき、何人かと「仮交際」を試してみるとしよう。
そのうち一人と、やがて「正式交際(本交際)」に発展し、婚約・結納交付に至るとする。
これらの段階を合計二年間で消化したとしても、入籍時には二十九歳でギリギリだ。
一方、途中で交際が不調となった場合は、早々と三十代の境界が見えてしまう。
そこから妊娠・出産を経れば、おそらく第一子は三十代に入ってから。
徐々に高齢出産を意識しはじめねばならない年齢だろう。
初産が三十五歳を越えるのは、一般に好ましくないとされている。
こういった問題を踏まえ、男性には
「そもそも子供が得られないなら、結婚すること自体に実際的な意味がない」
と考える人間が少なくないみたいだ。
無論、三十代以上の女性との結婚を望む男性が、皆無というわけではない。
ただ存在はするのだが、「女性が三十代以上でもかまわない」とする相手は、男性側も「市場価値」が比例して低下しがちなのだとか。
同世代と比較して明らかに年収が低い、非正規雇用者などで生業が不安定、借金を抱えている、性格的にかなり難点がある、酒乱癖や暴力癖がある、過去に複数回の離婚歴がある、などなど。
「それが結婚を巡る恋愛と、当事者間の市場価値や需要変動における実態です」
女性相談員は当時、そんな言葉で締め括ったという――……
○ ○ ○
「本当に香奈さんは、そんなキツいことを言われたのか?」
俺は、にわかには信じられず、目を二、三度、びっくりして瞬かせた。
これから婚活に取り組もうとしている女性に対して、相談員が(仮に事実であるにしろ)唐突にそんな話を切り出してきただなんて。
結婚相談所からすれば、香奈さんは業務上の顧客じゃないのか。
数々の指摘は、利用者に聞かせるには随分冷淡なもののように思える。
なのに、希月は正反対の印象を語った。
「うん。その相談員さんは、とても親切な人だったから」
「親切だって?」
「そうだよ。だって包み隠さず、婚活の現実を率直に話してくれたわけでしょう? 表向きだけ希望を持たせておくような人より、ずっと信用できるもん」
結婚相談所を利用するには、基本的に登録料が必要になる。
そして、何ら成果が上がらなくても、毎月料金を支払わねばならない。
なので実のところ相談所側は、利用者が甘い理想を抱き続けて、なかなか結婚できないでくれる方が利益になる。
長期に渡って登録料を請求できるからだ。
だから、その相談員は少なくとも、あこぎな商売人ではない――
と、希月は主張しているのだった。
「そんなお姉ちゃんを見ていて、私は『結婚するって、こんなにも大変なことなんだ』って知って……この一年ぐらいのあいだ、ずっと自分の将来が怖くて堪らなかった」
希月の声は、ほんの少しか細くなって、かすかに震えている。
あたかも、幽霊とか地底怪獣とか、そんな目に見えない曖昧で不確かなものを、掴みどころのなさゆえに恐れ、ちいさな子供みたいに怖がっているかに感じられた。
「世間では、お姉ちゃんと元交際相手の人のことを、やっぱり『恋愛なんて男も女もお互い様だ』なんて評するのかもしれない。お姉ちゃんも、男の人を見る目がなかったんだ、とかって言われちゃうのかもしれない。――でも、私がお姉ちゃんの立場だったとしても、同じ失敗をしてたんじゃないかと思う」
香奈さんの元恋人は、記念日の贈り物なども欠かしたことがなかったらしい。
知的で物腰も柔らかい男性だっただけに、妹である希月でさえ、破局の事実には「まさか」という気持ちが強かったのだとか。
たしかに香奈さんの立場なら、好きになった相手を信頼したくなるのは、尚更だろう。
そんな姉を安易に馬鹿にしたりできない、と希月は主張する。
「それで私はね、居ても立ってもいられなくなったんだよ」
希月は、ローズヒップティーを最後まで飲み干して言った。
生温くなりつつあった紅茶で、己の心を落ち着かせようとしているみたいだった。
「恋愛結婚を目指すのなら、できるだけ早く、自分の市場価値が高いうちに、はっきりした意思を持って行動しなきゃいけないんだって思った。高校生になって、バイトして資金面のやり繰りができるようになったら、すぐに自分なりの行動を起こしたの。学園内にある恋愛相談所のことも、実は受験前から知っていたんだよ。去年から風紀委員会には、自宅の近所に知り合いの先輩が所属していて、こっそり教えてもらっていたから」
「……そうやって、おまえの『婚活』がはじまったのか」
確認するように訊くと、希月はコクリとうなずいてみせた。
「うん。だから男の子とは、曖昧なお付き合いをしないって決めてるんだよ。必ず、結婚を前提にして――恋人候補をどんな人にするかも、自分でよく考えて、逢葉くんを選んだの。お姉ちゃんの元交際相手を見ていて、私はほどほどの男の子にしようって」
――イケメンで、デキる男を恋人にするのは、
希月は、姉の恋愛を通じ、そんな独自の哲学を持つにも至ったそうだ。
容姿に優れた男性は、恋人以外の異性からも好意を抱かれやすいから、気苦労が絶えそうもない。
また、今の恋愛に失敗しても、すぐに次の恋人ができるので、一度別れると決めると過去を振り返らないのではないか、と見立てているらしい。
さらに「才能がある人間は、突然野心が芽生えやすい」とも言う。
野心は、人生に不安定な挑戦を招く。
それは結婚によって、家庭の重荷を背負うことから、男性を遠ざけてしまう。
それゆえ、希月は俺――
逢葉純市を、将来の配偶者候補に選んだ。
「私は、曖昧で不確かなものを信じない」
希月は、決意表明の口調で言った。
もはやそれは誰に対して向けられているものでもなく、自分自身に言い聞かせている言葉であるかに聞こえた。
「お姉ちゃんは、不確かな恋愛を素直に信じ込んだせいで、掴みどころのない幻想に踊らされたんだよ。――ううん、今でも心のどこかで翻弄されてる。自分の幸せを願って、星澄タワーの展望台に一人で上って……そんなジンクスに頼ろうとなんかしてるぐらいなんだから」
俺は、すでに冷え切ったコーヒーに口を付ける。
強い苦味が舌に伝わった。
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