17:希月絢奈は語りはじめる
じっと瞳を凝らして、希月は国道の向こう側を眼差す。
雨が邪魔して、街路の様子はやや見難い。
それでも、ほどなく喫茶「鍵-シュリュッセル-」を見付けたようだ。
「……ふむ。なるほどね」
希月は、人差し指を下唇に添えると、一拍挟んでうなずいた。
「下校途中に二人きりで、雨宿りを兼ねた喫茶店デート。古典的な王道展開だし、今更な気もするけど、基本を踏まえておくのは大切だよね。私としても望むところ」
「おまえは、いちいち何を言っているんだ」
だんだんツッコミ入れるのもうんざりしてきた。
でもまあ、喫茶店で時間を潰す方針に、取り立てて異論はないようだ。
「だったら、ひとまずあの店に入ってみるか。――外に出たら、すぐに走るぞ」
俺は、希月に目で合図を送ると、率先して自動ドアを潜った。
通学鞄で頭を隠し、雨を避けるように駆け出す。
すると希月も、すぐに後ろを追い掛けて来た。
国道沿いまで着いたところで、手押し信号機の歩行者ランプが青になるのを待つ。
横断歩道を渡れば、喫茶店は目の前だ。
木製のドアを開くと、店内は外観から受けた印象より広かった。
悪天候のせいもあってか、他に客の姿はない。
俺と希月は、奥に位置する窓際のテーブルへ座った。
雨で濡れたブレザーを乾かしているあいだに、店員がオーダーを取りに来る。
メニューを見て、俺はブレンドを、希月はローズヒップティーを注文した。
「ううっ、やっぱり少しは濡れちゃったね~」
希月も上着を脱いで、ハンカチで髪を拭いている。
「バス停や地下鉄駅まで歩いてたら、こんなもんじゃ済まないだろ。だからって、スーパーの中をうろつき続けていても、特に何もすることがないし」
「でも、いっそ全身びしょ濡れになっていたら、もっといいものが見れたかもしれないよ」
「……いったい何がいいものなのかなんて、いちいち訊かないからな」
「えぇーっ。逢葉くんは興味ないの? 濡れブラウスと透けブラジャー、二つセットで濡れブラ透けブラだよ」
「訊かなかったのに結局言うのか。しかも無駄にブラブラ韻を踏むな」
「たまには、健全な青少年の劣情を弄んでおこうと思って」
その目論見は、意図を明言した時点で破綻している。
こいつ、ホントにどうしようもねぇな。
……なんてやり取りを続けながら、複雑な気分になる。
それは、この危うい居心地の良さゆえだ。
この種の掛け合いに、俺は半月余りですっかり慣れた。
慣れてしまった。
もし、希月がごく親しい友人の一人に過ぎないのだとしたら――
こういった会話も、「取るに足りない悪ふざけ」とだけ思って居られたのかもしれない。
けれど、希月は俺を「婚活」の対象と見做している。
そして、俺は希月との交際を断り続けている立場だ。
そういう前提で考えると、この子と一緒に居続けている状況に対し、徐々に違和感を喪失しつつある事実は、およそ好ましいことじゃないと思う。
かつて天峰未花は、この関係性を「実質的には『仮交際』と似たような状況にある」と、評していた。
いまや俺とて、いささか抗弁し難い。
俺は、もっと断固として、希月を自分から遠ざけるべきなのだろうか?
あるいは、そうなのかもしれない。
天峰とか、うちの母親とか、希月に肩入れする第三者が複数居るために、俺も強く拒否することができずにここまで来た。
それは、俺と希月の双方にとって、失敗だったのではないか。
そうだ、しかも――
俺なんかじゃなく、希月との交際を真剣に望んでいる人間は、他に居る。
やがて、注文の品が運ばれてきて、テーブルの上に並べられた。
店員が下がるのを待ってから、俺は思い切って口を開く。
「なあ、希月」
浅く息を吸い込み、居住まいを整えた。
こちらを見て、希月はきょとんとした表情になる。
「近江征志郎ってやつのことを、覚えているか」
「おうみ、せいしろう?」
鸚鵡返しにつぶやいて、希月はちょっと眉を顰めた。
それから、五、六秒ほど考え込んだろうか。
しばし間を置いてから、急に「――あ。ああ~……」と、すっかり失念していたテストの答えでも思い出したような声を漏らす。
「たしか、以前に合コンで会って少しだけ話したことがある、あの陸上部員の近江くん?」
希月は、確認を求めて問い返してきた。
うなずいて、肯定してみせる。
「ちゃんと覚えていたか」
「まあ、一応……。別に意識して覚えていたわけじゃないけど」
どうにも、希月は興味がなさそうな口振りだ。
あまり芳しい反応じゃない。
それどころか、こちらを疑わしげな目つきで眼差してきた。
「どうして近江くんのことを、逢葉くんが知っているの?」
「実は、ほんの数日前だが、近江と会って話す機会があった。――そのとき、俺とおまえの関係について、あいつから問い質されたんだ」
隠し立てしても無意味なので、はっきり事情を説明する。
「俺は、希月と付き合うつもりはない、と答えた」
「ふうん……。そうなんだ」
希月は、ごく何でもない様子で言った。
動揺した素振りは、微塵も見て取れない。
本心がどうかまではわからないけれど、表面的には平然としたものだ。
それで、俺はもう少し踏み込んで話すことにした。
「近江は、おまえと話がしたいと言っていたぞ」
「知ってるよ」
希月は、ガラス製のポットから、手元のカップへローズヒップティーを注ぐ。
「恋愛相談所のSNSコミニュティ経由で、近江くんから何度かメッセージが届いてたもん。『いつでもいいから、二人で会ってくれないか』って。――まあ、私からは一度も返信したことないけどね」
「
「……会ったら、きっと『付き合ってくれ』って言われるから」
紅茶を一口飲んでから、希月はゆっくりと顔を上げてつぶやいた。宝石みたいに大きな瞳が、こちらを真っ直ぐ見詰めている。
射抜くような鋭い眼光を感じて、俺はやや面食らった。
「わかってて避けてるのか」
「当たり前だよ。ラブコメ漫画の主人公じゃないんだから、そこまで鈍感じゃないもん」
「あいつの話だって、いっぺんきちんと聞いてやってもいいじゃないか」
「告白されても断るだけだから、誰も得しないよ。私も近江くんも嫌な気分になるだけ」
希月は、すっと視線を紅茶の上へ落とした。
紅く透き通った液面を眺めながら、大儀そうに嘆息してみせる。
「私としては、メッセージを何度も無視してる時点で、その辺りを察して欲しいんだけど。どうして、男の子って空気を読んでくれないのかな」
……それを、おまえが言うか……
むしろ希月が俺に付き纏う執拗さは、よっぽど近江より酷いと思うが。
ただ、その点はひとまず横へ措こう。
どうやら、近江には決定的に脈がないらしい。
目の前の自称「婚活女子高生」は、最初から眼中にまったく入れていない、といった態度だ。
これはいったい、どうしたものか。
ちょっと困惑していると、希月は紅茶の湯気越しに、こちらを再び正面から眼差してきた。
「そうやって、私に逢葉くんとの交際を、遠回しにあきらめさせようとしても無駄だよ」
浅はかな算段まで、見透かされている。
現状打開は、相当の難事みたいだ。
このままじゃ、希月の意志は覆るまい。
だが同時に、この子の異様な頑なさは、俺の心証に強い作用を与えた。
ずっと心の底で、薄く沈殿してきた懐疑の念を、にわかに掻き回し、表層まで浮上させようとしたのだ。
希月絢奈について、いまだ把握し得ない謎の答え――
なぜこの子は、女子高生でありながら「婚活」をはじめたのか?
なぜこの子は、配偶者に「ほどほど」であることを求めるのか?
「どうしてなんだ、希月」
俺は、声を振り絞ってたずねた。
「おまえが近江を避けて、なぜそこまで俺を恋人に――将来の結婚相手に選びたがるのか。それが、どうしてもわからん」
近江征志郎は、長身のイケメンだ。
陸上部員のスポーツマン、学業成績も悪くはないと聞いている。棚橋によれば、女子(※希月を除く)からの人気も高い。
どう考えても、すべての面で俺が優る要素はない。
(――ちいさくても、慎ましやかな幸せほど、たしかで壊れ難いものだよ。妙な色気を出したり、高望みしたりして、あとあと失敗したくないもん)
かつて、たしかに希月はそう言っていた。
だから「ほどほど」の男子が相手でいいのだと。
そんな言葉にこの子の気質を垣間見た気がして、俺も一度は納得した。
とはいえ、だからって近江を突き放し、俺こと逢葉純市を選択する意図は何なのか――
相手は、明らかな優良物権なのに。
逃げずに瞳を見詰め返し、俺は返答を待った。
互いの視線が宙でぶつかり、どちらも譲るまいと言外に語り合う。
それから、十秒足らずの間を挟んで、先に口を開いたのは希月だった。
「こないだの日曜日。二人で一緒に、『結婚体験セミナー』に参加した日だけど」
突然、質問の答えからは、内容に距離のある話題を持ち出してきた。
「デートが終わって、雛番行きのバスを待ってたとき、私は途中で逢葉くんと別れて、先に帰ることにしたよね」
「……そういえば、たしかそうだったな」
ひとまず首肯し、言葉の続きをうながす。
希月の表情は、いつになく神妙で、はぐらかすような雰囲気がなかったからだ。
「実はあのとき、駅のすぐ近くを、お姉ちゃんが歩いていたの。――私の実の姉、
「ああ……」
「あの日の夜、お姉ちゃんは星澄セラフタワーの展望台に上ったんだって。あそこで夜景を眺めると、幸せになれるジンクスがあるらしいんだよ」
やっぱり、あの夜見掛けた希月そっくりの女性は、こいつの姉さんだったのか。
しかも俺たちがデートしていたのと同じ日に、そのお姉さん――
香奈さんも、星澄タワーに来ていたってことか?
「私たちが結婚体験セミナーに参加していた頃、タワー内の別フロアでは、本物の婚活パーティが開かれていたんだって。もちろん、大人同士が結婚相手を探す、正真正銘のやつだよ。……お姉ちゃんは、そのパーティに出席していた。私もあとになってから知ったんだけど」
「――何だって?」
俺は、反射的に身を前へ乗り出す。
思い返してみると、あの結婚体験セミナーは地元自治体と民間法人の共催イベントだった。
特に運営を主導していたのは、後者にあたる株式会社だと思う。
たしかハッピーチャペルとかいう名前の、ブライダル関連企業だったか。
それを踏まえれば、同じタワー内で同社が他のフロアを借り受け、平行して婚活パーティを主催していたところで、不自然なことじゃない。
むしろ、あそこは普段から、会場として利用されているのだろう。
「うちのお姉ちゃんね、一年半ぐらい前から、ずっと婚活しているの」
気のせいか、希月の目元が少し和らいだように見えた。
「お姉ちゃんは、私とけっこう歳が離れてるんだ。今二十八歳だけど、再来月には二十九歳。俗に言うアラサーだよね」
そいつはまた、驚いた。
まさか、姉妹揃って婚活中だなんて……
いや、たぶん年齢的に考えると、香奈さんの方は希月(妹)よりも、いっそう真剣に交際相手を捜しているんじゃないかとは思うが。
「もっとも、ほんの数年前までは、私もお姉ちゃんも自分たちが婚活したりするようになるだなんて、思ってもみなかった」
「そうなのか」
「うん。……お姉ちゃんは、以前にお付き合いしていた恋人と、きっとそのまま結婚するんだろうなーって。当時は本気で、そう信じていたから」
でも、そうはならなかった、と希月は言う。
当時の恋人と香奈さんは、交際が破綻し、別れざるを得なくなってしまったらしい。
「お姉ちゃんがお付き合いしていた相手はね、決して悪い人じゃなかったと思うよ。むしろ、基本的には真面目で、礼儀正しくて、優しい感じの男の人だった。星澄理科大の情報工学部を卒業して、佐倉電器に勤めてて、背も高い三歳年上のイケメンで……きっと誰に訊いても、優良物権だね、って答えたと思う。あの頃は、私だってそんなふうに思ってたもん」
星澄理科大学と言えば、地元で最難関の国立理系大学だ。
おまけに佐倉電器産業は、国内有数の大手総合電機メーカー。
「じゃあ、どうして……」
一瞬、その元恋人が浮気でもしたのかと思ったのだが、すぐに違うなと思い直した。
もしそんな別れ方をしていたなら、「真面目で優しい人だった」なんて感想は、この子の口から語られたりしていないだろう。
希月は、座ったまま、顔だけで窓側へ振り向く。
ガラスの向こうを眼差す瞳は、不思議な光彩を湛えていた。
「その人ね、夢を追い掛けたくなったんだって」
――「夢」。
「愛」や「理想」と並んで、人の心をくすぐる綺麗な言葉だ。
その響きは、俺も決して嫌いではない。
もっとも同時に、「夢」とは曖昧で、不確かなものを示す表現のひとつでもある。
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