12:お試しウエディングシーン

「皆さんは、まだ高校生や大学生の方々ばかりですから、まずはやはり将来の進路について熟考して頂くのがよろしいと思います。つまり、進学や就職に関してですね」


 オバサマは、司会者よりも幾分くだけた口調で、ゆっくりと切り出した。


「結婚するということは、所帯を持つということでもあります。配偶者と共に生活していく、ということですね。『一つ屋根の下で同じ暮らしを』なんて言うと、とてもロマンティックに聞こえるかもしれませんが、現実には当然色々な課題が沢山あります。――何と言っても、お金が必要になりますから」


 そこまで話したところで、オバサマはちょっと演壇の脇を眼差す。マイクを持っていない方の手を上げ、係員へ短く合図を送った。

 ホール内の照明が消えて、正面のスクリーンに映像が投影される。

 プレゼンテーション用ソフトで作成されたスライドだった。

「所得」「控除」「差引支給額」といった文字やグラフが映っている。


「皆さんの大切な人との生活を営み、家庭を築いていくための基盤がお金です。仕事をして、お金を稼ぐ……労働の対価に給与を得ること、これなくしては結婚もあり得ません」


 平均的な現代サラリーマンの額面所得と控除、そこから算出される手取り額を元にして、どうやって生計を立てていくべきか――

 オバサマは、そういったことを壇上で熱心に説明しはじめた。物腰は、たぶん努めて明朗で柔らかかった。深刻なものにならないような配慮があったのだと思う。


 けれど、内容は決して軽くない。

 ていうか、正直かなり重い。


 国民健康保険料、厚生年金/国民年金、所得税、住民税……

 次いで不動産賃貸借契約の話。

 水道光熱費、通信費、食費などといった最低限の生活費のこと。

 その他に被服費や交際費などを差し引き、月々どれぐらいの経済的な余裕が生ずるか。


 モデルケースから試算された数字が、スクリーンに次々と表示されていく。

 それを見ているうち、何だか急に自分の人生が不安になってきた。


「正直なところ、お若い頃は年収自体が多くありませんし、貯蓄を作ることも案外難しいんじゃないかと思います。趣味をお持ちの方も居られるでしょうからね。ですが、結婚資金を用意するためには、貯蓄は不可欠です」


 壇上のオバサマは、相変わらず明るく話し続けていた。


「そこで、家計のやり繰りが重要になってくるんですね。――結婚すれば、ほどなく女性は妊娠、出産ということだってあり得ます。いずれ産まれて来るお子さんのためにも、明確な将来設計を入念に立てておくべきです」


 これを聞いて、希月は今どう思っているんだろう? 

 気になって、ちらりと隣の席を横目で見た。

 すると、自称「婚活女子高生」は、食い付くように正面のスライドを凝視している。時折、手元をスマホの背面ライトで照らしながら、例の赤い手帳にメモを取っていた。


 ふっと顔を上げて、ホール内を今一度見回す。

 よくよく薄暗い空間で目を凝らしてみると、他のセミナー参加者も皆、相当真面目に聞き入っているらしき様子が見て取れた。


 ……いや。

 考えてみれば、ここに居るカップルの大半は、俺みたいに嫌々連れて来られたわけじゃなきゃ、若くても恋人と本気で交際している男女ばかりなのだ。

 むしろ当然の光景かもしれない。


 どうしよう、俺だけ激しく居心地悪いじゃないですかーやだー……



     ○  ○  ○



 ライフデザイン講習会が終了すると、セミナー参加者は同じフロアの別区画へ案内された。


 タワー十二階の外縁部にあたる場所で、壁一面が大きな嵌め殺しのガラス窓になっている。

 付近には、円形テーブルとアームレスチェアが設置されていた。

 ワゴンで軽食とドリンクが運び込まれており、カフェテリアみたいな趣きがある。


 現在時刻は、正午を二十分ほど過ぎた頃合。

 ここでいったん昼食を取って、次のプログラムは午後一時開始だそうだ。

 着席すると、講習会の内容が思い起こされ、疲労感に襲われた。

 チェアの背もたれに深く上体を預け、ぐったりしてしまう。


「逢葉くん、大丈夫? まだ今日のセミナーは、このあとが本番だよ」


 一方の希月は、向かい側の席に座って、アップルジュースをグラスからストローで吸い上げている。受付でもらったパンフレットを開き、しっかり中身をチェックする余裕さえ見せていた。


「おまえは元気そうだな……。こっちは完全にいい迷惑だ」


 批難を込めて、睨み付ける。

 が、希月はどこ吹く風だった。


「うふっ。まあ、そう言わずに――折角だから、お互いイベントを楽しもうよ」


 セミナー参加のためとはいえ、いつの間にか俺のことを交際相手(虚偽)に仕立て上げておいて、勝手極まりない言い草だ。取り付く島もない。


 俺は、溜め息を吐くと、ワゴンから取って来たサンドイッチへ手を伸ばした。

 一口噛り付いてみる。

 ……美味い。

 白身魚のフライが、新鮮な野菜のあいだに挟まっている。ソースは上品なタルタル。フィレオフィッシュサンドってやつだな。

 軽食のセットには、他にローストビーフやサラダも添えられていた。


 参加費八百円取られたとはいえ、これだけでも値段ぶん以上の見返りがあるイベントと言うべきなのだろう。

 単に俺は、ここに無理やり居合わせることになったってだけで。


 あとで聞いた話によると、このセミナーの運営は、共催企業による営業活動の一環として宣伝広告費から一部賄われているほか、自治体の福祉関連補助費で充当されていたらしい。

 民間企業の出資はともかく、若年層の結婚促進に税金投入か。どうなんだそれ。



     ○  ○  ○



 予定の時刻になると、再び係員による誘導がはじまった。

 ただし、午後のプログラムでは、セミナー参加者が全員同時に所定の場所へ移動するわけじゃないみたいだった。

 通行証のナンバーに従って、カップル毎で何組かに分けてから呼び出されていく。


 俺と希月の順番が来たのは、全体の三組目。

 中央エレベーターまで引き返し、さらにタワーの上層まで昇ることになった。

 到着したフロアは、二十七階。一気に十五階ぶんも高所へ上がったわけだ。

 通路を少し奥へ進むと、おもむろに係員が立ち止まって移動先を告げた。


「ここから先は、男性の方は右手の部屋に、女性の方は左手の部屋にお入りください」


 どういうことだ? 

 ちょっと意表を衝かれた。

 けれど、俺が事情を飲み込めないでいるうちにも、他の参加者は指示通り二手へ分かれ、それぞれ男女で左右別々のドアを潜っていく。


「それじゃまたあとでね、逢葉くん」


 希月は、手をひらひらと振ってみせ、あっさり傍を離れていってしまった。

 こうなっては、俺も流れに身を任せるしかない。


 案内された場所は、高級感の漂うラウンジみたいな広い部屋だった。

 ソファやテーブルが並び、飲料を提供するカウンターがある。

 壁面には、今入ってきたドア以外にも、出入り口が二箇所存在していた。

 片方には「チャペル」、もう一方には「更衣室」というドアプレートが掛かっている。


 ――第六感的な閃きが、脳裏に警告を発していた。


 ポケットに捻じ込んであったパンフレットを取り出す。

 今日のスケジュールが記されたページを、素早く開いた。

 次のプログラムをたしかめる。

 午後一時から……

 あった、これだ。


【擬似結婚式~チャペル見学及びウエディング衣装試着体験会】。


 一瞬、軽い眩暈めまいに襲われた。

 ついさっき希月が「このあとが本番」と言っていたのは、このことだったのか! 



「それでは新郎役で参加の皆様、どうぞ更衣室へ移動をお願いします」


 またもや係員が誘導する。

 俺は、若干覚束ない足取りで、素直に隣室へ移った。

 もはや「まな板の上の鯉」だ。

 なるようになれ。


 更衣室では、俺以外の男性参加者も一緒に、貸衣装のクローゼットまで連れて来られた。

 服のサイズを訊かれ、それに合った着衣が手渡される。

 白いタキシードだ。

 自然と顔が引きつった。

 手荷物はロッカーに預け、受け取った衣装に着替える。もちろん、靴も履き替えた。


 そこでいったんラウンジへ戻る。

 コーヒーが出てきて、少しだけ待って欲しいと頼まれた。

 体験会を進めるにあたって、カップル毎にローテーションがあるらしい。


 もっとも、待機中も手持ち無沙汰にはならなかった。

 アンケート用紙を手渡され、記入を求められたからだ。

 ○×の設問が大半だったけれど、回答欄は案外多かった。

 志望している進路、将来地元を離れるつもりはあるか、など……


 しばらくテーブルに向かってペンを動かしていると、係員から呼び出しの声が掛かった。

 準備が済んで、俺の番が回ってきたのだ。


 ソファから腰を上げ、チャペルへ向かう。

 通路を抜けた先で両開きの扉を開くと、前方の空間が大きく広がった。

「おお……」と、思わず感嘆の声が漏れる。



 内部は、かなり特徴的な形状の聖堂だった。

 出入り口から扇形を成す構造で、天井は頭上にアーチを描いている。

 真ん中に幅広の通路があって、赤い絨毯が敷かれていた。

 いわゆる、ウエディングロードってやつだな。それを挟むように、アンティーク調の長椅子が並んでいる。

 室内の奥まった場所には、説教台が置かれ、背後に十字架が掲げられていた。


 しかし何より目を引くのは、さらに奥の壁面だ――

 豪奢なステンドグラスの左右は、ほぼ九割方がガラス張りになっていた。

 そこから、果てのない青空が見渡せる。もちろん、山々の稜線や白い雲、星澄市の街並みも。

 間違いなく、タワー上層でしか味わえない開放感だ。

 安っぽい表現を使えば、これぞ「天空のチャペル」ってやつだろう。


 ほどなく頭上のスピーカーから、女性の声でアナウンスが聞こえてくる。


<本日当チャペル三番目の新郎役・逢葉純市さんの御入場です>


 ぼんやりしていると、近くに居た係員からせっつかれた。


「どうぞ、説教台の前までお進みください」


 いかん、感心している場合じゃなかったな。

 ウエディングロードを歩いて、言われた通り説教台の前に立つ。


 やがて聖堂の一隅にある別の扉から、牧師服の男性が姿を現した。

 さすがに本物の聖職者ではなさそうだ。けれど、まあプログラムの主旨から察すると、その役割は自明だろう。

 牧師風の人物は、俺の傍まで来ると、自分の懐をごそごそと探りはじめる。

 そして、手のひらに納まるぐらいの化粧箱を、笑顔で取り出してみせた。


「催しが進んだら、然るべき際にこちらをご使用ください。これは模造品で、あとから返却して頂かなければなりませんが――きっと、新婦役のお嬢さんにも喜んで頂けますよ」


 まさか、とかすかに震える手で受け取って、小箱の蓋を開いてみる。

 予想に違わず、中身は白銀に輝く指輪だった。

 審美眼に乏しい素人には、とてもイミテーションだと思えない。

 ……ていうか、これを「然るべき際に使用」ってのは、つまりそういうことだよな。

 マジかよ……。


 戸惑いを抑え切れず、手の中の貴金属を凝視してしまう。

 と、そのとき再びアナウンスが聞こえた。


<――それでは、本日当チャペル三番目の新婦役・希月絢奈さんの御入場になります>


 慌てて指輪をポケットに入れ、今来たウエディングロードを振り返った。

 チャペルの出入り口を眼差して、そのまましばらく言葉を失ってしまう。


 そこには、希月が楚々として佇んでいた。

 レースとフリルでふんだんに装飾された純白のドレスを身に纏い、色鮮やかなブーケを手に持っている。鳶色がかった髪は結い上げられ、透き通るようなヴェールで包まれていた。眉目には薄くメイクが施され、いつにも増して造作が華やいで見える。


 あまりにも、反則的な可愛らしさ――

 いや、それとも美しさと形容すべきか? 

 俺の視覚が捉えた彼女は今、圧倒的な魅惑の結晶と化していた。


 唖然としていると、不意にスピーカーから管弦楽の旋律が流れ出す。

 メンデルスゾーンの『結婚行進曲』だ。

 その音色と共に、長いドレスの裾を引き摺って、赤絨毯の上を一歩ずつ進んでくる。

 ヴェールの下から覗く顔には、幸福そうな微笑が浮かんでいた。


 ややあって、希月が傍までたどり着く。

 二人で並んで、説教台の前に立った。

 それを見て、牧師風の男性は段取りを確認するようにうなずく。


「これより、チャペル見学及びウエディング衣装試着体験会の一環ということで――お二人には、ちょっとしたを楽しんで頂ければと存じます」


 なるほど擬似体験ね。

 つまりシミュレーションってわけだ。

 いやもう多くは語るまい。



「それでは――」


 ごほん、と咳払いを挟んでから、牧師役は口調を改めて続けた。


「新郎・逢葉純市。貴方はこの女性を妻とし、健やかなるときも病めるときも、嬉しきときも悲しきときも、富めるときも貧しきときも、彼女を敬い、助け、慰め……死が二人を別つまで、愛し続けると誓いますか?」


「……あ。え、ええと――」


 来た。「誓いの言葉」ってやつだ。

 しかしいざ問い掛けられると、咄嗟の返事に詰まってしまう。

 待て落ち着け俺。

 そう、これはシミュレーションなのだ。

 あくまでここで発する回答も、何ら拘束力のない試演の一種。

 だから、形式通りに答えるのに、迷うことも躊躇する必要もない。


 ……ないはずなのだが、その一言がなかなか出ない。

 ああ、やはり俺は自分の心に嘘は吐けないのか? 


 なんて妙な困惑と心理的圧迫感を覚えていたら、突然、脇腹の辺りに痛みが走った。

 希月が隣から、牧師役の目を盗みつつ、したたかに肘打ちを入れてきたのだ。

 微笑は少しも絶やしていない。けれど、それがむしろ怖かった。


「……ち、誓います……」


 痛みを堪えながら、俺は絞り出すように答える。

 当然、牧師役の質問は、新婦役にも同じように繰り返された。

「はい、誓います」と、希月は頬を桜色に染め、控え目な声で答える。

 その所作は清純そうで、ちょっぴりはにかむようにさえ見えた。肘打ちしてからの変わり身が早い。


 そんな俺と希月の様子を、牧師役の男性は満足そうに眺める。


「それでは、新郎は誓いの指輪を、新婦の指に嵌めてください」


 やっぱり来たか。

 二人で、互いに相手の側へ向き合う。

 いましがた渡された指輪を取り出すと、希月も左手を差し伸べてきた。

 女の子らしい、華奢な手のひらは、薄手の白い手袋に包まれている。

 それを脱がせて、手を取り、そっと薬指に指輪を嵌めた。


 ちらりと視線を上げて、希月の表情を窺ってみる。

 そうして、ちょっと驚いた。

 何しろ、この自称「婚活女子高生」、瞳がかすかに潤んでいるみたいだったのだ。


 なんだよ、こいつ……。

 あくまで擬似体験、謂わばの結婚式だってのに、いくら何でも芝居が過剰だろ。感情移入が過ぎる。

 ――芝居、だよな? 


 微妙な違和感を抱きながら、俺は希月の手を離すと、説教台に向き直った。

 牧師役が、二人に祝福の言葉を述べる。

 進行を見守っていた係員からは、ぱちぱちと疎らな拍手が起こった。

 さすがに誓いのキスまではせずに済むみたいだ。




 そんなふうに紛い物の祝福を浴びながら……


 誓いの指輪を嵌めるときに、自分が希月の手を握っていたことに気付いた。

 以前の話が事実なら、俺はこの子にとって、もしかすると初めての(手を握った)相手になってしまったのだろうか。

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