第四章 腹ごしらえは万全に

「狭い所だが我慢してくれ。兄貴もすぐに帰って来るとは思うが……まあ、ごゆっくりと」


 案内された部屋は確かに狭かった。入り口も狭ければ通された部屋も狭い。綺麗に片付けられてはいるが、狭い。狭すぎる。


 古びたビルの二階にある、『ボルツ事務所』。その看板だけでは何を仕事にしているのか全く分からない。何でも屋だから何でもするのだろうか……と、至極どうでもいい事を考えながら、エーファは案内された席に腰を下ろした。


「イルマ、イルマ」


 男はイルマをいたく気に入っている。先程から構いっぱなしだ。細長い棒に毛玉がついた玩具でイルマを弄んでいる。


「くぅううううっ!!!」


 イルマとああいう風に遊んだ事はなかったが、イルマは良く反応している。口ではなんだかんだといいながら、身体はきっちり反応している。あれか、抗えない本能ってやつか。


「……」


 エーファはしばらく一匹と一人を眺めていたが、いかんせん飽きた。元々エーファには愛くるしい小動物も含め、動物を愛でるという感覚がない。赤子ならばどれでも可愛いとは感じるものの、イルマも男も赤子というには勿論、幼子というにも齢は重ねすぎていた。


「ちょっとアンタ! アンタは一体ナニしにきたの!? ナニやっているのよそこでアンタはっ!!??」


 イルマの悲痛に満ちた叫びに、成る程もっともだとエーファは肯く。

 何しに来たのか。それは重要だ。ただぼんやりと退屈に時間を過ごしに来たのではない。



 ぐぐぅぅぅ……



 空気を鈍く震わす、重たい音。

 エーファは己の腹を押さえた。



 ぐぐぅぅぅ……



 再び鳴った音と共に、己の腹は震えた。腹の虫が蠢いている。空っぽな腹の中で、腹が震えていた。


「なあ、」


 エーファは男の方に顔を向け、声をかける。男はイルマと戯れ続ける。エーファになど目もくれない。


「……」


 無視される事にはある意味慣れていた。一人で街に降りると大抵の人間は彼女を無視したから。慣れたからといって傷つかない訳ではないが、対処法は熟知している。早速行動に移す。


「無視するな」

「ほげぇえ!」


 エーファはとして軽く小突いた。そのつもりだった。だが男は実に大げさな悲鳴を上げ、前につんのめり床にそのまま激突して、ぴくりとも動かなくなった。


「いいザマね」


 イルマは満足気だったが、実行したエーファとしては不本意な結果だ。話をするどころではない。やり過ぎた。


「おい」


 うつ伏せの男をひっくり返す。白目をむいていた。鼻血も少し出ている。顔を打った所為か。


「さあ、こんな所からはさっさとおさらばよ! 早く帰るわよ!」


 自分から来たがったクセに。

 息巻くイルマを冷めた目で見下ろしたまま、エーファは首を横に振る。


「森には帰れない。困った事になったと言っただろう」

「内容までは聞いてないわよ!」

「そうか」


 それきり一人と一匹の会話は止んだ。猫が苛立ちを含んだ目でエーファを睨んだが、エーファは無視した。それよりも気になる事ができたから。


 エーファのなにかが、何かを訴えている。それに懸命にエーファは耳を傾けようとした。そういうものが訴える中身は役立つものが多い。分かっているからこそ、エーファは全力でその声に集中した。昔はよくその声を聞いたが、最近はとんと聞かなくっていた。もう居なくなったさえ、思っていた。


 何故今更? 


 少しばかり疑問に感じつつも、声を聞く事に集中、しようとした。


「……ナニマジな顔して考えこんじゃってるのよ? アンタでも頭使うのね」


 しようとしたが、できない。


 ごちゃまぜだ。


 かつては確かに一つ一つあったもの達が、いつの間にか混ざり合っていた。確かに別々のものだったはず。だが今となってはもうその記憶すら怪しい。本当に別々だったのか、エーファの中ではもう全てがごちゃまぜになっている。絵の具の色を混ぜ合わしたような、存在だけのごちゃまぜではない。過去・現在・未来、時間軸さえぐにゃりと歪む。別のものにとっての過去が、あるものにとっては未来の末路。


「アンタのクセに無視してんじゃないわよ!」


 猫が彼女の足元に突撃した。


 これは一個。一つの個体。黒猫。名前はイルマ。


 じゃあ、わたしは?


 彼女は己の内面を眺めてみる。それは久しぶりの行為だった。彼女の日々は穏やかに過ぎていて忙しさとは無縁だったが、しかし己を内省するような、そういう哲学的な瞑想とでも言うべき思索する時間は持たなかった。必要がなくなったから。


 かつて初めて彼女が自己を認識した時、その時の己の内面はたくさんの扉がある真っ黒な空間だった。扉は一つ一つどこかに繋がっていて、覗き見するのが楽しかった。しかし注意も必要だった。あまりに覗き見し過ぎると、その扉の向こう側に置き去りにされる危険性があった。実際何度かあった……ような気がする。今の彼女の記憶では曖昧になっているが。


「ちょっとアンタ!!」


 黒猫が苛立たしげに彼女に向って、ほえる。

 名前を呼んで欲しいと、彼女は思った。



 コンコン



 軽いノック音が響いた。


「おい、さっきすげぇ音したが、大丈夫か? 部屋壊してねぇだろうな?」


 誰も答えない。男は失神したままだし、彼女はぼんやりと黒猫を眺めていた。当然黒猫に答える術はなかった。


「誰も居ないのか?」


 訝しみながら、部屋の外の男はドアノブを回した。ドアは開いている。


「しょうがねぇ奴らだな、あいつらは」


 ぶつくさ言いながら、しかし面倒見の良い家主の男は不審な物音がした室内へと、躊躇うことなく足を踏み入れた。


「灯りもつけっぱなしで、あいつら本当にガキだな」


 男が現れる。黒猫は面倒な事になったと、ぼんやりとしている己が主を仰ぎ見た。


「ん? んん?」


 現状を目にし、男は唸った。そこで彼女は現れた男に目を向ける。

 白髪の、年老いた男だ。どこかで見たような気がしたが、どこで、いつだったかは思い出せない。


「お前さんは確かゲルトのとこの……エーファとかいったか?」


 エーファ。


 名前。私の名前だ。

 名前を呼ばれ、身体が強張っている事にエーファは気がついた。


「お前さんがやったのか、これ」

「……少し、やり過ぎた」


 硬くなった身体をほぐす為、大きく伸びをしながら、エーファは素直に答えた。


「少しじゃないわよ」


 イルマは呆れきった調子で突っ込む。


「少し、ねぇ……」


 老人もイルマと同意見らしい。苦笑いを浮かべている。



 ぐぅうう……



 弁明を始める前に、エーファの腹の虫がまた鳴った。


「腹減ってるのか」

「まあな」

「偉そうに言うことじゃないでしょ」


 イルマが突っ込むが、唯一言葉が分かっているエーファは無視。


「ゲルトの奴は元気か?」

「ああ」

「そうか、ならいい」


 それきり老人は黙った。男も目を覚まさない。猫のイルマはもちろん喋れないが、無視された事に対してふくれ、なにも言わなかった。

 沈黙がおりる。

 エーファは居心地悪く身じろぎした。

 沈黙には慣れている、はずだった。魔女は身内には無口な人だったし、ゲルトは誰に対しても無口だ。

 親しい人間はその二人だけだった。ごく最近までは。

 明るい笑顔の少女が思い浮かぶ。と、同時に蘇る歓迎会での御馳走達。


「……腹減った」

「そうだな、いい時間だ。なんか食ってくか?」


 エーファは肯くのを躊躇った。金を持っていないのを思い出したからだ。昨日森から飛び出した時点で着の身着のまま。財布を持ってこなかった。


「金の事なら心配するな。訳ありみたいだしな、ゲルトの奴にでもつけとくさ」


 老人はにやりと笑った。大人の包容力抜群の、かっこいい笑みだ。

 エーファの口元にも笑みが浮かぶ。


「それは、いいな」






 コクのある香りに、程よい苦み。普段飲むお茶とは全く違う、深い焦げ茶色の液体。一口含めば苦みが口の中に広がったが、不快ではない。


「変わったお茶だな」

「それはコーヒーだ。お茶とは違う」

「ふーん」


 実にどうでも良さげな相づちに、コーヒーを煎れたマスターはそれ以上の説明を加えるのをやめた。代わりに猫にも用意してやる。猫は嬉しそうにボールにすり寄った。


 一人と一匹がコーヒーを堪能している間に、マスターは食事の支度にかかる。


 元々はコーヒーとパンなどの軽食、バータイム用のお菓子類しか置いてはなかったが、あの兄弟が入り浸るようになってからは違う。あの兄弟は三度が三度飯を食らいに来るから、とても自分用に用意していた食料では足らなかった。冷静に考えればわざわざ食材を買い足してまで準備する必要はない。全くない。『カッツ』はそういう店ではないのだから。だのに、マスターは用意してしまった。それは多分己の立派な職業倫理のおかげだろう。己は食い物屋をまがりにも経営しているのだ。客が食べ物を所望したならばそれに最大限答えるのが筋だろう。そう思う事にした。


 今晩の献立は少し豪華だ。特製シチューとサラダ、パンにデザートまで。


「ほれ、できたぞ」

「失礼しますよ」


 マスターが料理を並べたのと、招かざれる客が現れたのは同時だった。


 夏だというのに、その客は黒いロングコートを一分の隙もなく着ている。背のあるシルクハットを被り、手にはステッキが。これからお城に行くような、ひどく場違いな装いの客だ。


「いらっしゃい……と言いたい所だが、表の看板は裏むけて置いたはずだが」

「承知しています」


 丁寧にシルクハットを取りながら、客は一礼した。


 金髪碧眼の、端正だがやや童顔の青年だ。見かけは人なつっこそうな、まるで子犬みたいな青年だが、口を開けば落ち着いた物腰の青年だ。


「ですが私は食事に入ったのではありませんから、ご安心を」

「何に安心していいのか分からねぇな」

「お邪魔はしませんから。少しだけ私の仕事をさせて下さい」

「客じゃねぇなら用はないんだが」

「はは、すぐ終わりますからちょっとだけ私に時間を下さい。さて、こちらに魔女見習いの娘さんがおられると聞いたのですが、あなたですか?」

「……ああ、そうだが」


 答えながらも、エーファの目はカウンターの上に置かれた料理に釘付けだ。


「初めまして、私はさるお方の使いの者です。ここに、あなたの現状を憂いた我が主人からの手紙があります」


 差し出されたのは簡素な紙切れ一枚。二つに折られてはいるが、手紙というよりはメモにしか見えない。


 マスターはひどく胡散臭い男を疑うが、手紙を渡された本人は気にする事無く手紙とやらを受け取り、開く。


 そこには簡潔にこう書かれていた。



 あの森は魔女のものである。



 そう一言だけ。そして、その横には金色の角印が押されていた。王国の繁栄を象徴する鳩の紋様が刻まれた、ジークフリードという名前の印が。


「今回のこの事態、我が主は大変憂いておられます。主の見解を申しますと、あの森は魔女の森であるのが一番、響き的にもカッコイイじゃないか、との事です。ですからあなたには頑張って頂かないと。私も微力ながら手伝うように申しつけられました。以後よろしくお願いしますね」


 金の角印を用いるのは王家の者だけ。ジークフリードという名前は前国王の名である。長く王国を善政し、大いなる発展に導いた王として、第一線を退いた現在でも何かと話題に上る人物だ。その影響力は息子である現国王すらも軽くしのぐとか。


 そんな大物が森は魔女のものだと認めているのだ。これは大変な事なのだが、


「……どういう事だ?」


 やはりエーファは分かっていなかった。イルマは無視を決め込んで、何の助言も与えない。ロルフに突き出された事を恨んでいるらしい。


「つまり、私はあなたが森を取り戻すお手伝いをしに来たという事です」

「取り戻す?」

「ええ。今森は奪われているじゃないですか。取り返しに行かれるんでしょう?」

「……」


 エーファは無言で手紙と男とを交互に眺めた。そして、最後にカウンターの上の料理達に目が戻る。


 マスターと、料理越しに目が合った。


「……まあ、先に食え食え。すっかり料理も冷めちまうわ」


 スプーン等の食器を置きながら、マスターは男にも席を勧めた。


「とりあえずあんたも、まずは座ったらどうだ? すぐに終わる話でもないみたいだが」

「ははは、私としては簡単な話のつもりでしたけど」

「嬢ちゃんにはそうでもないみたいだが」

「見習いさんには難しいお話でしたかね」


 可愛い顔に合わず、嫌みな奴だ。もっともエーファに気にした様子はなく、マスターが用意した料理をがっついている。


 男はエーファの隣に、席一つ開けて腰を下ろした。


「でも真面目な話、早く行った方がいいと思いますよ。なんだか向こうは人質取っちゃってますし」


 さらりととんでもない単語が飛び出してきた。エーファはやっぱり気にした様子はなく、代わりにマスターが口を挟む。


「人質? えらく物騒な話だな、おい」

「まあ私もそこまで直接的な手段に訴えるとは思ってなかったんですが、先程ちょっと森の様子を見るに、どうもそれらしい感じの女の子が居まして」

「女の子?」


 エーファの頭に過ぎったのはリサだ。そういえば遊びに行っても良いかと聞かれ、いつでも歓迎だと答えは覚えはあったが、まさか――


「お知り合いですか?」

「リサだったら知っている。後マルタとロッテも」


 知っている女の子といえばこれくらいか。


「生憎名前までは見えなかったのでどの子かまでは分かりませんが、可能性はありますね。あんな森に用がある人間はなかなか居ないようですから」

「野草取りじゃないのか?」

「魔女の森に野草取りですか?」

「古い町の人間ならともかく、最近この街に来た奴らは魔女の森なんぞ知らんだろう。気にもしてないんじゃないか」

「そういうものですか」

「そういうもんらしいな」


 それきりマスターと男の会話は止んだ。


 バックミュージックを流す蓄音機なんて気の利いた物を置いてない店だから、沈黙が降りると雑音がいやに響く。


 エーファがもぐもぐと食べる音、イルマがぴちゃぴちゃと舐める音。


 そして、どすどすと騒がしい複数の足音。


 彼ら、もしくは彼女らは『カッツ』を通り過ぎ、真っ直ぐに二階へと向かう。


 そして、


「ぬあ? な、なんだお前ら!? ちょ、何しやがる!!??」


 どたんばんと暴れる音と、ロルフの間抜けなな声。


 これは、


「穏やかじゃない様子ですね、上は」

「……行ってくる。留守番頼むぞ」


 放ってはおけない。大事な常連客である。


「構いませんよ」


 ロルフと知り合いらしいエーファに頼んだつもりだったが、返事をしたのは男の方だった。


「それよりも私もご一緒しましょうか? こう見えても腕に覚えはあるんですよ?」

「結構だ。俺の家壊すつもりか」

「いえいえ。でも、とても物騒な匂いがするものですから」


 同感だった。


 なにかヤバイ感じがする。あいつら、何に首突っ込みやがった!?


「私が行こう」

「ん?」


 口元を勇ましく拭いながら、それまで食事に夢中だったエーファが立ち上がる。


「嬢ちゃんが?」

「空腹は満ちた。準備は万端だからな」


 意味が分からない。


「いや、いいって。嬢ちゃんが行くとまたややこしい事になりそうだしな、」


 そもそもマスターとしては上の様子を見に行くだけの話だ。ロルフが何かヤバイ雰囲気になっているなら仲裁してやってもいいが、あくまで仲裁だ。話し合いで解決。暴力なんてもっての他。


「あいつらには聞きたい事も聞けてない。だからちょうど良い」


 淡々とそう一方的に告げると、エーファは扉に向かう。

 制止する間もあればこそ。


「ちょ、ちょっと待てって」


 マスターが止めるのも聞かず、エーファは一人店を出た。




 にゃおん




 どこか馬鹿にしたような、猫の鳴き声がやけに響いた。

 そして、



 どがんっ!!



 爆発音が轟くのはもう少し後の事だった。

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