第四章 夢の終わりを告げるもの

 仕事を早めに切り上げ、森に向かったゲルトは言葉を失う。


 関係者以外立ち入り禁止。


 大きくはっきり書かれた看板。


 なんだこれは。


 森が誰のものでだって?


 驚きを通り越して呆れてしまう。馬鹿馬鹿しくさえもある。


 森は広く深い。その全てを知る者はいない。


 森の向こうに広がる世界を人々は知ってはいるが、それは森の中央部を避け周りを拓いた結果であり、森の全てが人によって開拓された訳ではない。中央部――というにはあまりにも広大な地域ではあるが――には猟師であるゲルトですら足を踏み入れた事はなかった。


 だというのに。


 苛立ちを覚えながらゲルトは己に出来る事を考える。


 メルディン社といえば大企業。こんな事をするからにはおそらく、法的根拠は用意しているに違いない。だとすれば、一般市民であるゲルトに出来る事はたかがしれている。しれてはいるが、己はエーファの名付け親。なにもしない訳にはいかない。


 さてどうするか……。


 ゲルトは看板の前で考える。


 とりあえず町長にでも相談してみようか。ゲルトには国の難しい事はよく分からない。所詮己は猟師なだけだ。役人ではない。


 夕方にはまだ早い時間だった。このまま町長の所を訪ねていっても問題あるまい。と、結論を下した時だ。


「失礼ですが、貴方は魔女の関係者の方で?」


 ゲルトは無言で声の方に振り返った。


 一体いつの間に現れたのか。ゲルトの後ろに男が立っていた。


 地味な男だ。人並みにすぐに埋もれてしまいそうな、そんなどこにでも居そうな男。ダークスーツもまるで闇夜だ。


「……あんたは」


「申し遅れました、私はこういう者です」


 胡乱げに問い返しても男は気分を害した様子もなく、逆ににこやかに名刺を差し出してきた。


 そこには一匹の黒猫が描かれ、その黒猫の真っ直ぐに伸ばされた尻尾の上にこう書かれていた。


 メルディン社特別顧問、ミハエル・フォグナー。


 なんとも胡散臭い名刺だ。


 ゲルトの眉間のしわが深まる。


「魔女の森に用がある貴方ですから、魔法というものはご存じですよね。私はその魔法の担当なんですよ。特別顧問なんて大層な響きですが、大した事はありません。お手当も大したことありませんしね、はは」


 軽く愚痴めいたものを混ぜながら男は身分を明かした。魔法という単語をいやに強調しながら。


「……魔術の間違いではないのか」


 魔法と魔術。


 少しでも魔をかじった者なら分かるはず。この二つの圧倒的な違いを。その差を。


 だからこそ言い間違える筈などないのに、ゲルトは聞き返していた。


「ふふ、残念ですが言い間違えではありませんよ。最も私自身は魔法使いではありませんが」

「……では何者だ」

「研究者ですよ、私の本質としてはね」


 男――ミハエル・フォグナーはそれ以上語らなかった。


 にこりと笑みを浮かべ、


「それでは本題にはいりましょうか。貴方はこの森の関係者の方ですよね」


 強引に話を進める。


 否定する事でもないので黙って肯けば。


「やはりそうですか、ちょうど良かった。向こうが少し手詰まりになってしまい、あの方がご機嫌斜めなんですよね。私は全く関係ないのに、おかげでとばっちりですよ。ノルマはこなした筈なんですが、全く困ったものです」


 男は肩をすくめ、何気ない調子でとんでもない事を告げる。


「ではそういう訳で、来て頂きましょうか。貴方が顔を出せばあの方のご機嫌も直る事でしょう」


 なんと一方的なお誘いか。こちらの都合などお構いなしだ。


「……おれにも都合がある。今日の所は一度出直しを――」


 ゲルトは丁寧に断りを入れる、入れようとした。


 しかし、そんなもの、


「申し訳ありませんが、私にも都合があります。だからついて来てもらいますよ、無理矢理にでもね」


 聞く相手ではなかった。


「力ずくか」

「そうなりますね、大人しくして頂けないなら」


 男の口調は変わる事は無い。まるで世間話をしているような、軽いもの。内容はひどく物騒になっているが。


「……」


 ゲルトは無言でミハエルと距離を取った。


 ミハエルはゲルトと森を挟むように現れた。逃げ場はない。


 昨日エーファが空を飛んできたせいか、今日はなんとなく普段は持ち歩かないナイフを忍ばせていた。忍ばせてはいたが、相手はまだ丸腰だ。先に抜くのは躊躇われた。


「やはり貴方は堅気の方ですね。相手に先手を許すとは甘いですよ」

「!」


 ミハエルの不穏な言葉と共に、ゲルトの足下に白く輝く方陣が現れる。


「一名様、ご案内」


 ミハエルの楽しげな声とともに、ゲルトの視界は光で覆われた。



 ――かしゃん



 夕食の支度をしていたアリアは、何かが落ちる音に驚いて振り返った。


「……あらまあ」


 見るとテーブルに置かれていたゲルトのマグカップが床に落ち、割れていた。


 ゲルトが仕事などで居ない時、また子供達も学校のこの時間。早めに夕食の支度をしながら、夫のマグカップを使って一服するのがアリアの密かな楽しみだ。自分の物がない訳ではない。家族の食器は一通り全部揃っている。では何故夫の物を使うのか、そう改めて問われると気恥ずかしい。何故って、ゲルトのマグカップで飲むとほっとするから。どうしてと言われても困る。だから一人きりの時にしかやらない。


 そのマグカップが、床に落ちて割れていた。


 それはもう、見事に真っ二つに。


 マグカップって落としたくらいで割れるかしら? 


 小さく疑問に思いながらも、マグカップは割れている。早く片付けねば。


 ちょうど明日、夫の仕事は休みだ。ちょうど良いから二人で出かけようか。二人で出かける機会はそんなにないし、いい口実だ。


 そう考えながらアリアは割れたカップを片付け、夕食の支度に戻った。





 夢が終わる。


 たくさん夢を見た。


 遠い昔の事、最近の事、そしてこうなれば良いという願望。


 たくさん夢に見た。


 リサと一緒に街をぶらつく事。良くは分からないが、とにかくギルドの仕事をこなしている自分の姿、薬を調合してるぽかった。イルマと共に初めて魔法を成功させる事。そして、その日に起こった事を魔女にあれこれと報告している自分の、楽しげな顔。


 夢が終わると、はっきりとエーファは自覚できた。


 何故かは分からない。分からないが、魔女ならこう言うのだろう。


 刻が来たのだと。


「……」


 目が覚めて最初に見えたものは、見慣れない布団、シーツに枕。


 明らかに自分の部屋ではなかった。


 いつも傍にいるイルマもいない。


 魔女もいない。


 エーファ一人、そこに居た。


 寝巻きも見慣れない物だ。サイズも若干大きい。


 ぼんやりしていると、下の方からじゅうじゅうと肉が焼ける香ばしい音と共に焼ける肉の香りがエーファの鼻を刺激した。


 むくりと起き上がる。


 刺激的な香りに腹も刺激される。


 空腹を覚えるのはいつぶりか。こんなにも強烈に腹が減ったと、感じるのはいつぶりだろう。口も渇いて仕方ない。身体が重く感じる。


 エーファはのろのろと起き上がり、部屋を出る。


 部屋を出た所で思い出す。ここはゲルトの家だと。森を出ていけと言われ、どうして良いか分からずに飛び出したのだ。


 ゲルトの家は魔女の館に比べると小さく狭いが、その分部屋と部屋との距離が近くて、なんていうか密度が高い。エーファには心地良い密度だ。魔女の館は密度が薄く、たまにふと寂しさと居心地の悪さを感じる事があった。


 キッチンに行けばアリアが料理していた。


 エーファが声をかける前に、足音に気づいたアリアが振り向く。


「あらおはよう、ってそんな時間じゃないわね。お腹空いてない? お昼起こしに行ったんだけど、あなたずっと寝ちゃってて起こすの可哀想だから、ずっと一日寝たままだものね」


 腹は減っていた。とても。


 肯けば、


「そうよね、朝から何も食べてないんだもの。お腹は空くわよね。そこに座ってて。すぐに用意するから」


「ありがとうございます」


 椅子に座って大人しく待つ。本当はすぐに水でも飲みたかったが、言い出せずにエーファは待った。


 アリアは一旦夕食の準備を止めて、昼の残りを温め直す。昨日の夕食の残りのシチューだ。子供達の好物でもあり、アリアの得意料理でもあった。


「残り物で悪いけど、はいどうぞ」


 少し多いかとも思ったが、鍋の残り全部を器に盛って、アリアはエーファに差し出した。後は夕飯に用意していたサラダとパン。


 小さく頭を下げ、エーファは無言で食べ始める。


 食べ始めるとぼんやりしていた世界が覚醒するかのように鮮明に、エーファを囲む。


 楽しげな様子で夕食の支度に戻るアリア。なにか良い事でもあったのだろうか、うきうきとしている。


 自分の家に比べると小さなキッチンだが、小綺麗に整理され、使っている人間の人柄が良く出ている。キッチンは食堂も兼ねていて、四人がけのテーブルは家族が座ればもう一杯だ。それぞれの席は決まっているらしく、椅子のカバーの汚れやくたびれ具合がどれも違い、独特の雰囲気を纏っている。今自分が座っている椅子は誰のか、エーファには全く分からなかったけれど。


 鮮明になる世界と裏腹にエーファの思考は停滞している。


 これからどうしよう。


 なにをすればいいのか。


 さっぱり分からない。ただ何かに急かされているのはよく分かった。大切な時間があっという間に過ぎ去り取り返しがつかなくなる、そんな焦りだけが暴れ出す。


 しかし、だ。


 エーファは暖かいシチューを飲み込みながら、自分に言い聞かせる。


 何をしたらいいか分からない。だったらどうしようもないじゃないか。過去の経験から言うとこういう時に下手に動いてもろくな事にはならない。じっと力を溜め、機会を窺うべきだと、これまでの経験が囁いている。だからその通りにしよう……と結論を下すものの、やはり落ち着かない。


「ご馳走様です」


「あら、もう食べちゃったの?」


「はい、ご馳走様です」


 それにまだまだ食い足りない。まだ飢えが修まらない。


「そう、子供達もあの人もまだ帰ってこないだろうから、のんびりしてて頂戴」

「……いえ、少し出かけてきます」

「そう?」


 アリアの声のトーンが上がった。ほっとしているのがよく分かるが、それは自分も同じ事。唐突にやるべき事が思い浮かび、ほっとしていた。


「はい、イルマも居ないし、ちょっと探してきます」


 イルマに相談していない。やれる事は残っていた。


「ああ、あの猫ちゃんね。居なくなっちゃったの?」

「知り合いの所に行ってしまって、その、預かってもらってる状態です」 


 食べ終わった食器をきれいに揃えて、エーファは席を立つ。


 焦るばかりの心が、少し落ち着いていた。





「ああちょっと待って、あなたの服捨てちゃったのよ。出かけるならあたしの服貸すから、ちょっと待って頂戴」


 エーファの血だらけの服を、アリアは深く考えるのはやめて捨てた。夫が何も言わないのだ、だからアリアも追求するのはやめた。それに目の前のエーファは健康そのものだ、どこも怪我をしている様子はない。


 本当ならばそんなエーファと、魔女だんて訳の分からない事をいう少女と関わるのはもうやめて欲しかった。もうあの少女も子供ではない。確かに一人前の大人とは言い難いが、しかしもう十分だろうとアリアは思う。


 しかし、アリアは口に出してそれを懇願するつもりはない。


 魔女を恐れての事ではない。アリアも街の人間だから、魔女の事は知っている。


 二十年前、子供だけがかかる謎の疫病が街を襲った。当時の街は今よりもずっと小さな町で、病院や医者なんてろくにいなかった。今ではとても考えられない事だが、病院の代わりを担っていたのは魔女だった。


 その疫病も魔女が調合した謎の薬で治まったが、町の人間は恐れた。今後もし似たような事が起こればその時も魔女に頼り切るのかと。魔女だけに、そんな古くさい物だけに頼るのかと。


 そんな時に持ち上がったメルディン社の誘致話。経済効果だけではない、町の近代化にも大きく寄与する。誰もが歓迎した。渋い顔をする者は時代遅れだと非難された。


 それから十年。


 辺境の小さな町だったグレイソンは国内でも有数の大都市に発展した。成功は誰の目に見ても明らかだ。


 確かにその発展の影で失われたものはあるだろう。二度と取り戻せない、貴重なものかもしれない。だが失われないものなど、永遠に続くものなどこの世にありはしない。だからこの発展は正しいものだ。


 子供達の教育水準も随分上がった。アリア自身の娘時代では大学はおろか高等学校さえ憧れの的だった。それが今や卒業して当たり前、大学に進学する者の数の方が多い時代だ。


 魔女だの魔法だの、勘弁して欲しい。もうそんな時代じゃない。夫だって街で仕事をしているこのご時世。次はエーファの番だと、アリアは願っている。しかし結局の所エーファはアリアにとって赤の他人。本人にその気がないなら、アリサにできる事はなにもない。


 アリアは夫を信じているからこそ、エーファを受け入れる。得体の知れない気味の悪い存在だけれど。


 もし、もし何かあれば最優先にゲルトが守るもの。それは自分達家族だと。そう信じているからこそ、アリアはエーファの世話を焼く。


「これなんかいいんじゃないかしら?」


 もう着なくなった、昔の服を引っ張り出して見せる。


 パジャマは夫がさっさと自分のを与えてしまったから必要なかったが、流石に外に出るなら夫の物はまずい。サイズも合わないし、元々ゲルトは物持ちが良く、数をあまり持っていないから後で捨てるのが勿体ない。


 チェック柄のワンピース。夜は少し冷えるから、深緑のジャケットも合わせて。


「洗濯物はこのカゴに入れておいて。後で取りに来るから」


 あの子は小さく肯いて、さっそく着替え始める。同じ女だから恥じらう事はないのだが、かといって眺めるのもどうだろう。アリアは部屋を出た。


 見るつもりはなかったが、見えてしまったあの子の白い肌。横からしか見えなかったが、背中もお腹の辺りも綺麗なものだ。傷一つない。


 昨日のあの血は彼女の物ではないのか。しかし服は破れていたし……


「駄目よ、駄目よアリア」


 つい考えてしまった自分を小さく叱る。


 関係無い事だ。詮索してはいけない。知って苦しむのは自分だ。知らないのが一番。


 そう言い聞かせ、アリアは夕食の支度に戻る。


 さてはて、どうやって夫のマグカップを割ってしまった言い訳をしようかと考えながら。

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