第四章 羽ばたく翼を手に入れた

 夢を見ていた。


 空を飛んでいる夢だ。


 実際に空を飛んだ経験は無かったが、記憶はあった。辛うじて、うっすらと残っている。普段は思い出す事はないが、時折夢に見る。


 腕が大きな翼となり、羽ばたいている夢。


 飛ぶ感覚は覚えていない。ただその光景はよく覚えている。夢で鮮明に蘇る程に。


 大空を羽ばたいているのを、例え夢でも見るのは気分が良かった。


 しかしだんだんと、エーファとしての意識が勝ってくる。


 大空を舞う光景は徐々に薄れ、暗闇に。目を閉じている所為だ。


 強い光を感じる。その窓からの明かりの強さで、もう大分陽は高いようだとエーファは見当をつける。


 ごろんと、光から逃れるように壁側へと寝返りを打った。


 意識のはっきりしないこの状態。


 寝ているのか起きているのか。限りなく起きているが、まだ夢の中に浸かっている状態。


 エーファはこの状態が好きだ。


 様々な事を次から次へと、取り留めもなく思い出される、この時間が。柔らかなまどろみの中が。


 今日は、いや昨日、一昨日は色々あった。


 まずリサと出会い、パーティーとやらに参加し、たくさん食べて飲んで、話をした。


 もう一生分の話をしたのかもしれない。元々、話の引き出しも少ないエーファだ。話題の小説も、演劇も、音楽も全く知らない。スポーツも政治も興味ないから、話す事など限られていた。それでも気づけば結構な時間が経っていたから不思議だ。


 もうどんな話をしたのか、エーファの記憶は曖昧になっていた。


 普段どんな風に生活しているかとか、そんなとりとめもない話。好きな食べ物とか、好きな季節の話。どうしてそれが好きなのとか、そんな他愛のない話。


 確かリサは夏が好きだとか言っていたっけ? リサらしいと思った記憶がある。


 他には――


『この館に住む者に警告します!』


 唐突な大音声に、エーファの意識はぼんやりと覚醒した。


『この森はこれからメルディン社の私有地となります! 即刻立ち退きなさい!!!』


 少しでも常識のある者なら、こんな馬鹿げた宣告を耳にした所で真に受けないだろう。いきなり出ていけとはなんという横暴か。


 人権という言葉がある。人間に認められる権利。


 それには生命権とか、具体的に現在侵害されているのは居住権であろうか。そういう、人間なら生まれた瞬間から認められている権利がある。たとえ法に守られる一市民ではなくても、人道的にこれはどうなのか。別にやましい所は何も無い。不法占拠して居直っている訳ではないのだ。


 だから、エーファは取り合う必要は無いはずだ。そんな横暴に従う理由はない。


 なのだが、今ここにエーファは一人きりで寝ぼけていた。


「相手にしなくてもいいわよ。ナニ馬鹿な事言ってんのかしらね?」


 なんて、忠言してくれるイルマもいない。


「やれやれ、騒がしいのが来たねぇ……」


 なんて重い腰を上げ、よく分からない奴の相手をしてくれたばば様もいない。


「……」


 エーファは一人きりで眉を寄せ、考えた。


 ”どうしよう、何言っているのかさっぱり分からない”


 相手の主張が、エーファにはさっぱり理解できなかった。


 私有地とはなんだ? 森は森だろう、どうしたというんだ? 何故突然出て行かなくてはならない?


 昨日までは何もなかったのに。


「……」


 ちょっとだけ考えて、エーファは降参した。


 思考が行き詰まる。思考を重ねる事よりも、先程からある欲求が疼いて仕方ない。静める為にエーファは立ち上がり、窓際によった。


 窓からは館の前が一望できた。館の前に広がる畑、小屋。そう大した広さではないがエーファの生活には欠かせないものだ。


 それが無残に踏み荒らされている。


 館の前に集まっているのは銀縁眼鏡の女を先頭とした、赤茶色の制服に身を包んだ数十人の集団だ。女性ばかりでまとめられている。


 その集団に、エーファの畑は踏み荒らされている。


 むっとしたが、どうしようもない。彼女らを討ち滅ぼした所で畑はかえってこない。無駄だ。


 それよりも。


『無駄な抵抗はおやめなさい! いかに魔女であろうと、この通知は我がメルディン社が国王より正式に許可された物です! 拒否すれば法に則り、あなたを告訴します!!』


 こくそってなんだろう? 昨日といい、知らない事だらけだ。


 そんな呑気な事を考えながら、エーファは勢いよく窓を開けた。


 そして羽ばたく為に翼を広げる。


『なっ……』


 眼前の集団にざわめきが起こるが、エーファの興味は引かなかった。


 それよりも早く羽ばたきたい。久しぶり過ぎて、夢で見たようにちゃんと空を飛べるかどうか不安だ。だから早く試したい。


 窓枠に手をかけ、身体を乗り出して、翼を羽ばたかせる。


 ごうごうと風は起きたが、身体が浮かぶ程の浮力は生み出せなかった。


「……仕方ないな」


 エーファが面倒くさげに漏らしたぼやきを、銀縁眼鏡の女は聞き逃さなかった。


 エーファの翼に呆けていた女だったが、諦めがにじんだぼやき耳にし、はっと我に返る。


『そ、そうよ! 無駄な抵抗はおやめなさい! あなたの身柄に関しては――』


 ただ女は勘違いした。


 その呟きは翼だけでは飛べない事に対してであって、女の要求に従ってのぼやきではない。エーファは要求を受け入れる所か理解もしていない。


 エーファは少しだけ力を借りる事にした。今の己に足りない力を。


 力を借りるのに言葉はいらない。ただ思い念じればいい。ちょっとした力なら、それだけで分けてくれる。


 森は力そのものである。


 念じれば自分の身体を中心に空気が膨れあがるのを肌で感じる。ばたばたと、カーテンやシーツがめくり上がる音が背中越しに聞こえた。がしゃんと何かが割れる音もし、掃除の手間を考えると少しだけ気が重くなったが、空を舞う快感には抗えない。あんな夢を見た所為だ。


 良い感じだ、この調子なら翼を羽ばたかせなくても飛べそうなくらいに。


『に、逃げても無駄よ! どこへ逃げたって絶対に見つけ出してあげるわ! うちの会社の索敵能力なめないで頂戴!』


 女の警告はエーファの耳には届かない。聞いてもいない。むしろ何故追われるのかも分かっていなかった。


 ただ飛びたいから飛ぶ。


 女の襲来はきっかけに過ぎない。何事も無ければずっとエーファは眠り続けていただろう。 イルマが起こすのが面倒臭いのと面白半分で記録したところ、一週間眠り続けた事があった。その時は空腹により目を覚ましたのだが、もっと眠り続ける事も可能だったとエーファは感じている。それが異常な事だなんて、エーファは全く知らなかったけれど。


 窓から出る。


 極力ゆっくりと出たつもりだったが、勢いが余り、ぶおんと飛び出る格好となる。向かいの大木に激突しかけたので慌てて急停止をかけると、今度は浮力が落ち一瞬落下する、ちょうど赤茶色の集団の真ん中に落ちかけたが、ここで大きく翼を広げる。


 どんな色を、形をしているのか、エーファにはよく見えなかった。そんな余裕もない。ただ黒っぽいのだけはよく分かった。カラスのような漆黒ではなく、様々と混じった黒っぽい翼だ。


 自分にはお似合いだと、エーファは満足げに笑う。


「化け物……」


 誰かの呟き。


 確かに普通の人間には翼は生えないな、とエーファは冷静に肯く。


 純白の翼であったらまだマシだったかもしれない。見た目にも美しい。よく見たら薄い膜のような翼で、これはちょっと見た目が悪い。エーファもうわっ、と思うが、自分で作り出したものでないし、借り物だから贅沢は言えない。


 力一杯翼を羽ばたかせると、大きな風が起こる。飛び立つには十分な力が。上手くいきそうだと、エーファの笑みはますます深くなる。


 まるで獰猛な野生動物が狩りの獲物を見定めた時のような、ぎらついた光がエーファの双眸に宿る。事実その激情に間違いはない。エーファには明確に行きたい場所が思い浮かんでいた。


 頭は悪いエーファであったが、決断力だけは無駄にあった。


 頭脳の明瞭さとは状況の分析力とそれに基づく判断力である。詰め込んだ知識の量や、ましてや即断の決断力でもない。


 頭の回転が良い者は決断が早い。それだけ素早く分析、判断がなされているからだ。勘違いしてならないのは、決断力と判断力は全くの別物であるという事だ。決断が早いからといって判断が速いという事にはならない。傍目には同じに見えても、その中身は天と地ほどの差がある。


 エーファはこの状況を分析し、飛び立つという判断したのではない。エーファはただ決断した。ただそうしたいからという理由、それだけで決めた。


 あの人の元へ。


 昨日は、いや一昨日か? とにかく会えなかったあの人の元へ。


 己の名付け親である、ゲルトという男の元へ。


 それがどんな結果をもたらすのか、全く考えもしないでエーファは翼をを羽ばたかせた。


 ただ愛しい人を目指し、エーファの翼は空を舞った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る