第四章 必要がない時はしまいましょう
新市街はビルが多い。どれも似たような形のビル群。違うのは掲げる看板の種類や形だろうか。どれも似たような造りで、ぱっと見で違いが分からない。ちょっとでも歩き出せば同じ所をぐるぐる回っているような気にさせられる。そう、まるで道に迷ったように。
「……(ここはどこだ)」
ゲルトは一人途方に暮れていた。
これから取引先の会社に向かわなければならないのだが、そのビルがさっぱり分からない。
そもそもゲルトは街のビル群は苦手だった。何度来たって同じ所で迷う。妻や子供達と買い物に来てもしかり。一人ではすぐに道に迷ってしまい、家に帰るのにも一苦労する。
会社の同僚達や家族の者に言わせれば街で迷うのはどうかしているらしい。やかましいぐらに街は己の町名や区名を主張しているではないかと。道路にも番地表記がされている。だから、迷う方がどうかしていると。だがそう言われても困るというものだ。
迷うのだから。なんでと言われても、現に今迷っているじゃないか。
そう声高にゲルトは叫びたかった。
やらないけど。
しかし、生き辛い世の中になったとつくづく思う。人に道を聞いても無視されるし、うろうろと迷っているだけで不審人物として通報された。
ゲルトはこれまで猟師を生業としていた。それが胡散臭く思われる理由の一つらしい。
森を見れば今でも思い出す。このビルが多く立ち並ぶ新市街では森が見える所は少ないけれど、見える場所はあった。高いビルの窓から、あるいは屋上から、ふっとビルとビルとの隙間から森はのぞいていた。
懐かしい。
今ではほとんど森へは行かなくなった。
猟師をやめ、そう頻繁に行く理由が無くなったのも大きいが、何よりも妻や子供達が森に入るのを嫌がった。それが大きい。下の子はそれ程嫌がってはおらず、むしろ行きたい素振りも見せるが、母親と姉に遠慮するかのように森には行きたいと口には出さなくなった。
家族が森を嫌う理由を、努めてゲルトは考えないようにしていた。むしろ森自体が嫌いなのだと思い込むようにしている。なぜなら森に住む魔女見習いの少女――というには些か年を重ねているかもしれないが、ゲルトにとってはいつまでたっても子供みたいなものだ――を自宅に招く事には反対しないからだ。むしろ好意的である風にも見える。
だから妻は彼女を嫌っているのではない。一人の人間として、あの少女は嫌われてはいない。
あんなに綺麗な顔をしてもその美貌を自慢する事もないし、他人を美醜で見下しも賞賛もしない。性格も素直だし、少し世間知らずな所もまた可愛らしい。娘達の良い玩具になっていた。街のある事無い事吹き込まれて、よく遊ばれていたっけ?
取引先の会社にどうにか辿り着き、約束のものを渡して帰る道すがら、ゲルトは昔を懐かしんでいた。
今日はいつもより仕事が早く終わった。そのまま帰ろうとしたら先程のお使いを頼まれ、今に至る。まさかお使い如きで道に迷うとは思わなかった。辺りはすっかり暗い。夏で陽は長くなっているというのに、この暗さ。
「……(やれやれ)」
ゲルトは無言で頭を振った。
あまりに深く考えると嫌気がさしてくる。これ以上考えるのはよそう。道に迷った己が悪いのだ。猟師としてでは生きていけなくなった世の中を恨むのではなくて、すぐそこだから、なんて言ってお使いを押しつけたあの野郎を恨むのではなくて、内省しよう。己が道に迷わなかったらいいだけの話じゃないか。
ばさばさ。
大きな翼のはためき音に、ゲルトは下を向いていた顔を上げた。
重い翼のような物のはためき音だ。森でも聞き覚えのない、不気味な音。
上空に何かいる。
反射的に銃を構えようとして、銃がない事に気付く。ナイフだって持っていない。必要ないし危ないからと言われて、何も持たなくなったのはいつからだろうか。
「……やれやれ」
己を強い存在だと思った事は一度もない。家が代々猟師の家だったから命の儚さ強さ、全てを見て感じていた。
ばさばさ。
上空のそれは、だんだんと近づいてくるようだった。音が大きく聞こえる。
周りは住宅街。もう真っ暗で、出歩いている人は見えない。静かなものだ。これほど大きな音ならば家の中に居ても聞こえそうなものだが、不思議とどの家の戸も閉められたままだ。気配を窺っている様子もない。家の中と外界とはまるで別世界なのかもしれない。彼らにとっては。
まあ太りすぎたコウモリかなにかだろうと、ゲルトはそれを気にしない事にした。
我が家はもうすぐそこだ。
まだ夏だが、夜になると少々冷える。早く暖かい我が家に戻りたい。
と。
ゲルトが我が家に想いを馳せた時。
ばさばさっ。
「ゲルトっ!」
大きな羽ばたき音と、影。そして祖母の名をつけたあの少女の、ひどくはしゃいだ声がした直後にゲルトは身体に大きな衝撃を受け、堪らずよろめいた。
頭上から体当たりされたようだ。向こうが直前で避けたお陰で直撃こそはしなかったが、結構な速度と重さで、まともにぶつかっていたら死んでいたかもしれない。
そのまま影は再び上昇したようで詳細は分からないが、おそらくそういう状況だろうと思う。かつて一度も人間に空中から体当たりされた事がないので、明言はできないが。
ばさばさと、羽ばたき音が徐々に小さくなる。
「ごめん、うまくまだ止まれないんだ。ぶつかってごめん」
そうかそうか、止まろうとして、勢い余って突っ込んでしまったのか。慣れない事をするからそうなるんだ……って、をい。
ゲルトは無言のまま立ち上がった。
そして声と羽ばたき音がする方に顔を向けた。
新市街と旧市街のちょうど境目辺りに位置するこの地区はまだまだ街灯の整備が遅れていた。家々の明かりしか夜の道を照らす物はなく、頭上の影を照らし出すにはそれらでは役不足だった。
目を凝らしてみても、ゲルトの目ではエーファの姿を確認する事は出来なかった。
「ちょっと待ってて」
わくわくしたエーファの声だけはよく聞こえた。
有り得ない。
人が空を飛ぶなんて。
ゲルトは瞬時にそう結論づけたが、同時に彼は現実をしっかり受け止める度量は持った人間だ。
なんの魔法かは知らないが、とにかく頭上でばさばさいっているのはエーファらしい。待ってて、と言われたからとにかく待っていよう。
ゲルトは待つ事にした。
それからしばらく、黒い影がゲルトの前に降りてきた。
それは黒い繭に黒い翼が生えたものだった。
「……(なんだこれは)」
ゲルトは言葉を失う。
あの繭の中にエーファはいるのか。
とん、と繭が地面に降りた。
すると繭の側面から人の手が突き出る。
白い、ほっそりとした手だ。
邪魔そうに繭を払いのける二つの手。
黒い繭の下から現れたのは。
「久しぶり」
間違いなくエーファだった。
何かよく分からない繭を被っていたり黒い翼が生えていたりしているが、エーファだった。しかも少し着崩れているが、シャツにロングスカートといういかにもお出かけ用の服装だ。
ゲルトはちょっと、いやだいぶ感動した。
エーファが一人で街に降りてきた事、服装がまともである事に。ちょっと前まで街に降りてくる格好といったら黒の三角帽子に黒ローブ、おまけにほうきまで持ったものだったのに。
繭や翼の事は目をつぶろう。またなにかしら魔法に失敗したのかもしれないし、まあ大した事じゃない。
「どうしたんだ?」
「ええとね、そうだな……なんて言うか、今イルマも居なくて私一人なんだ」
見れば分かる。
ゲルトは肯いた。
エーファは繭を払いながら、更に続けた。
「それで寝てたんだけど、人が来てさ、出ていけっていうからとりあえず出て来た」
「……出ていけ?」
「そう。なんて言ってたかな。エル……なんとか」
それだけではさっぱり誰かは分からない。おまけにゲルトは知る由もないが、エーファの情報は間違っている。正しくはメルディン社である。
「なんか森がその人達のものになったんだって。だから出ていけって」
「それで、出て来たのか」
「うん。よく分からないし」
あっけらかんとエーファは無責任に答えた。
ゲルトは頭を抱えた。
状況についていけない。
エーファは森から出ていけと言われたという。その割には危機感の欠片もないし、ゲルトは一瞬単純に掃除の邪魔だからとかで一時的に追い出されたのかとも考えたが、即座に打ち消した。
「……森が、誰のものだと?」
「あー、なんて言ってたかな? 忘れた」
大事な事なんだが。
ゲルトは内心で大きくため息を吐いた。
どうせ話もろくに聞いていなかったんだろう。自分が興味が無い事には無頓着なエーファだ。今までは常にイルマや魔女が居たからそんな調子でもなんとかなっていたかもしれないが、魔女は亡くなり、イルマも傍にいない状況だって有り得る訳だ。今回のように。
そういう時に己を頼ってくるのは構わない。元よりエーファの保護者、後見人のつもりだし名付け親でもある。見捨てられる筈がない。しかしゲルトは魔女ではなく、ただの一般人である。魔女のように万能ではない。出来る事には限りがあるし、自分の生活もある。エーファばかりには構っていられない。
「そうか、まあ立ち話もなんだ。泊まっていけ」
「うん」
嬉しそうにエーファは肯いた。
その様だけなら可愛らしいのだが、張り付いた黒い繭と翼が異様だ。
「その羽は、どうにかならないのか?」
一体いつ生えたのかは聞かないでおこう。これ以上頭が混乱するのはごめんだ。だがこのまま家に帰ると妻は卒倒しかねない。子供達も気味悪がるかもしれないし、いやむしろ面白がるかもしれないが、最近微妙になってきている両者の関係に激震が走るのは必至だ。少しでも可能性は摘んでおこう。
「変?」
まじまじと翼に目をやって、エーファは聞いてくる。
「……まあな」
明言は避けた。
似合ってない事もないし、もし新しい魔法か何かでエーファ的にはイケてたのなら少し可哀想だ。ゲルト的にはアウトだが。
「そう」
傷ついた様子もなく、あっさりとエーファは肯いた。
そして。
躊躇う事なく翼に手をかけると、そのまま強引に翼をもぎ取った。
「!?」
言葉を失うゲルトに構うことなくエーファは何でもない顔をして、もいだ翼を無造作に投げ捨てもう一方の翼に手をかける。
止める間もあればこそ。
エーファは自らの手で残った翼ももぎ取った。
じんわりと、エーファのシャツの背中側から赤い染みが広がる。
「これで問題ないね」
もぎ取った翼を片手に、得意げな顔でエーファはゲルトに言った。まるで頭いいでしょ、誉めて誉めてとでもいうように。
興奮しているらしく、ほんのり頬が赤く染まっている。瞳もきらきら輝き、まるで光に当てた宝石のようだ。
もぎ取った翼からはまだ赤い血が滴り落ちていた。ぽつぽつと赤い雫はスカートを汚し、足下に小さな池を作る。
その様を見ていて、ゲルトはふと初めて会った時の事を思い出した。
あの時もやたらとはしゃいでいったっけ? 訳の分からない事を言うのも同じだ。昔に比べれば随分とましだけど。
エーファが楽しげな様子は見ていて悪い気はしなかったが、どこか居心地の悪さも拭えない。
己が場違いな世界に居るような、そんな決まり悪さ。同じ人間なのに。
だが、森と街とは別世界だ。森に街の法は通用しない。同様に森の掟も街では通用しないだろう。ならば森に住むエーファと己とは別世界の人間か。
昔は両者の間に交流は確かにあった。
街は恐れながらも魔女を敬い讃え、よりどころにしていた。それがいつからか街は魔女を忘れた。森に見向きもしなくなった。そして今は森には見習い魔女が一人、脳天気に日々過ごしている。本人曰く修行が終わるのはもうすぐらしいが、怪しいものだ。
つまり、何が言いたいかというと。
ゲルトは頭を振って纏まらない思考を振り払った。
魔女はもういない。
ゲルトはどこか他人事のようにその事実を改めて受け入れた。
いま森に、魔女はいないのだ。
あの時は魔女を頼ったが、その魔女はもういない。
ゲルト自身がどうにかするしかない。
この少女を守るのは己だけだ。
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