第三章 猫が鳴くとき
カフェバー『カッツ』。
クルトはイルマを伴って店に入るとしたら、やはりここしか思い浮かばなかった。
他に店を知らない訳じゃない。
これが彼女だったら、エーファだったら色々連れて行きたい場所はあった。
まずはショッピングから。
シャツにロングスカートという、清純お嬢様スタイルも嫌いじゃないが、若干クルトの趣味から外れている。クルトはどちらかというと年上か、せめて同い年の遊びなれた女が好みで、清純乙女を前にするとむず痒くていけない。
次にお食事。
腹いっぱい食うのはいけない。デートなら尚更。まず軽く食事して、次はバー、それか彼女が望むならばスイーツもいい。
そして次は――
時刻はいつの間にか夕方。まだ陽が高かったから気付かなかったが、ふと腕時計を見ると七時を過ぎていた。
「……ペットはお断りだ」
マスターは相変わらずな強面の顔を更にしかめ、短く言った。
猫と言わなかったのは店の名前を気にしてだろうか、とクルトは遠慮なく店に入りながら意地悪く考えた。
『カッツ』とは異国の言葉で猫という意味だ。別に猫も動物の一種なのだから素直に「猫なんか連れ込んでんじゃねぇよ!」と怒鳴ってもいいのに。まあしかし、顔が怖いので有名なマスターだが、クルトは今までこの男が怒鳴る所か声を荒げる所さえ見たことがなかった。
「まあそう言うなよ、このイルマは賢いからな、粗相なんぞ」
しねぇよ。
イルマの名誉の為に、そしてマスターを安心させてやる為に言ったのに。
ばちぃんと、まるでしなやかな鞭が無慈悲に地面を叩いたような、そんな身がすくむ音が店内に響く。
クルトの両耳は確かにその音を間近で聞き、やがて顔が、特に鼻や両目の下の皮膚がひりひりと痛み出すのをどこか他人事のように感じ取った。
「……粗相が、なんだ?」
ばちん
言ったのはマスターなのだが、再び乾いた音がし、また鋭い痛みと一瞬遅れでひりひりとする痛みがクルトを襲った。
「……それ、禁句で」
ようやく、クルトはそれだけマスターに返す。
「……ああ、そうだな。食事場でする話じゃねぇな」
もっともな事を言って、マスターはクルトの提案を受け入れた。
みゃあ
猫は素知らぬ顔で媚びるような鳴き声を上げる。
「……とりあえずコーヒー頼む」
ひりひりと痛みだした箇所を努めて無視して、クルトはカウンターに腰を落ち着けた。
知らなかった。
とん、とクルトが腰を落ち着けると同時にカウンターに飛び乗ったイルマを横目で睨みながら、クルトはしみじみと思い知る。
あの艶やかな猫の尻尾の、攻撃力を。
鞭で叩かれた経験など無いから絶対だとは言わないが、アレはそこらの鞭よりもずっと凶器に違いない。
〈アタシにも同じ物を〉
「は? 猫が――、いやいやちょっと待て、分かった、分かったからそれはやめてくれ」
イルマの尻尾がゆるりと机の上の自分の腕に向けられるのを見て、クルトは慌てて懇願した。
「どうした?」
「ああ、えーと、この猫ちゃんにも同じのを一杯」
「……ボウルでもいいか?」
「ああ、悪いな」
マスターは嫌そうだったが、断りはしなかった。
猫が好きなのかもしれない。だが、だからといって猫にコーヒーを提供するのは如何なものだろうか。衛生的にも……ってやめよう。これ以上思考するのは。無駄であるし、また鞭をもらうのは勘弁だ。
「ほらよ」
「サンキュ」
差し出されたコーヒーはいつものように香り高く、クルトの心を落ち着かせた。
ちらりと横を見ると、可愛らしいピンクの深めの皿にコーヒーがいれらている。イルマは不満げに目を細めているが、文句は言わなかった。
……やっぱり猫が好きなのか?
マスターに目を戻すと、マスターは決まり悪げに視線をそらした。
まあ、別にいいんだけど。
クルトは視線をコーヒーに戻した。
ゆらゆらと、その漆黒が揺れているように見えるのは気のせいだと知っている。正確には光の加減だが、クルトにはどうでも良かった。その揺らめきと同調するような感覚を想像する事でクルトは不思議な安心感を覚え、それが大事だった。
……。
まったりとした、沈黙が室内を支配する。
〈さて、話を続けましょうか〉
沈黙を破ったのはイルマだった。
顔を向けると、イルマはちょうどちろちろと舌をだし、コーヒーを舐めている所だった。
「……サインを欲しがった理由は?」
少し冷め過ぎたコーヒーに口をつけながら、クルトは尋ねる。
マスターがやけにでかい独り言だな、というように怪訝な顔をしたのが見えたが、口を挟む事はしなかった。すぐに己の仕事に戻る。クルトからは何をやっているのか全く見えなかったが、おそらくまた新しいカバーでも縫っているんだろうと見当をつけた。
〈あの子もそうだけど、魔女はこの国の人間じゃないの。印鑑も持ってないし、戸籍だってないのよね。だからサインしかないワケ〉
「なんで? 移民でも戸籍は取れるだろう?」
この国は比較的移住しやすい国に入る。仕事を持ち、国に税を何年か払えば戸籍も取れ、印鑑も取れる。
〈人の法は魔女を支配する法じゃないわ。それに国が出来る前から魔女はあの森と共にある。順番で言うなら魔女が先なのよ? 偉そうな顔しないで欲しいわね。まあ、近頃の連中は話が分かる人ばかりでアタシも楽なんだけど〉
猫が、一体どんな苦労をするというのか。
クルトは疑問に思ったが口には出さないでおいた。
〈あの連中は森が魔女のモノだって、勘違いしてる。だからサインを欲しがったのよ〉
「勘違い、ね……」
〈元々大地を誰かのモノとするのは勘違いよ。アタシ達に言わせればね。アンタ達人間からすれば合理的なシステムなんでしょうけど、なんて傲慢なのかしら。アタシなら恥ずかしくて生きていけないわ〉
「左様ですか」
適当に話しを合わせる。
そういった話はクルトにとってどうでもいい。興味もない。
〈疑問は解消されたかしら?〉
イルマは横目でクルトを見た。
「……どうして、答えてくれるんだ?」
改めて問われ、クルトは不思議に思う。何故イルマがクルトに付き合うのか、疑問に答えてくれるのか。そんな義理も必要性も、イルマにはないだろうに。
〈下心が気になるかしら?〉
「下心っつーか、打算? あんたはお人好しって感じじゃねぇし」
〈あら心外ね。アタシには下心があっても打算はないわよ?〉
それも人として、いや猫としてどうなのか。
クルトは喉元まで出かかった突っ込みを飲み込む。猫としてならむしろ正論でしょうと、逆に言われそうだ。猫の世界なんてクルトは知りようがないから反論できない。
「……じゃあなんだ、あんたの下心はなんなんだ?」
〈やぁね、直接聞くのは野暮ってもんでしょ? もっとじらして頂戴〉
「……」
こういう奴なのか。
クルトはイルマをまじまじと凝視した。
一見ただの黒猫。毛並みの良い、若々しい緑の瞳。
クルトの横で、ボウルの中のコーヒーをぺろぺろ舐めている。
どこにでも居そうな、猫だ。そこらに居る猫と変わらない。クルトには違いが分からない。
「それじゃ最後の質問。彼女は、なんなんだ?」
〈魔女見習いよ。まだ一人前の魔女じゃないの。継承はまだ終わっていないから〉
「魔女、ねぇ……」
〈このままじゃあの子は住む場所を失うわ。アンタの所為でね〉
「……」
己の仕事を完遂させる事が彼女にとって不利に働く事を、クルトは重々承知していた。もっとも彼女の事がなくてもあんな怪しい仕事、なにかやましい事に繋がっているに違いない。だから引き受けたくはなかったが、事情はどうあれ一度引き受けた仕事だ。
だから、完遂させる。己の全てをもって。それがクルトの、『ボルツ事務所』の誇りだ。
チンピラじみたクソッタレの生活は卒業し、立派、とは言えないかもしれないが、ちゃんとした社会人になる。
その為の誓いが、一度引き受けた仕事はどんな仕事でも完遂させる事。
単純明快。頭の悪い自分達には似合いの誓いだ。
だからこそ、絶対に破れない。破ってはならない。
破ればまた遠いあの日のような、暴力と理不尽の生活に逆戻り。
そんなのはごめんだ。もう二度と、戻りたくない。あそこから自分達は進化した。退化なんて有り得ないだろう?
「で、俺にどうしろと?」
〈アタシに聞く事じゃないわね、ソレ。アンタがやりたい事をやりなさいな。勘違いしないで頂戴、アタシはただアンタが気に入ったからついて来たの。ずっとあのコと二人きりの生活だもの。潤いが足りないのよね。だから少し息抜きにアンタを使わせて貰ったの。あの影薄い男が余計な事言わなければ話しかけもしなかったわよ〉
あのメルディン社の男に感謝すべきかもしれない。クルト一人ではとてもイルマが喋れるなんて気づかないだろう。だがやっぱり素直に感謝はできない。やり口が気に入らないし、あの男の存在そのものがいけすかない。
クルトはイルマのやや愚痴っぽい一方的なテレパシーを聞き流しながら、考える。
仕事はもう終わった筈だ。
明日あたり銀行の口座でも見てみよう。報酬が振り込まれている、筈だ。仕事は終わったのだから。だから、問題ない筈だ。明日からメルディン社の利害に反する行動を起こしても。
もう契約は終わったのだから。
「俺は……そうだな、彼女とお知り合いになりたいね、是非」
〈アタシをダシにお使いなさいな〉
イルマはあっさりと言った。
挑戦的にこちらを見ている。またこれだ、品定めをされている。あまりにもあらか様に。
「ああ、それは勿論。期待してるよ」
意地になり、特上の微笑みでクルトはイルマに答えた。何に対抗しているのか、自分でも良く分からないまま。まだまだ子供っぽい所があるという事だろう。
「……気味の悪い奴だな」
ぼそっと、マスターの呟きが聞こえた気がしたが、無視。
にゃあ
イルマは目を細め、鳴いた。
クルトには何を言ったのか、分からない。イルマの言葉を解するのはこの世でただ一人、イルマの主であるエーファだけである。
だから、
「退屈せずに済みそう」
という、とても嬉しそうなイルマの声を理解した者はいなかった。
「……コーヒーでも気に入ったか?」
「さぁね。悪巧みの顔にしか、俺には見えねぇけど」
にゃあ
黒猫はもう一度鳴いた。
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