間章1 古き慣習を守るもの

「……困ったのぅ」


 立派な顎鬚をなでながら、老人は全く困っていない様子で呟いた。


 老人の前には一通の申請書があった。


 王国の辺境にある、とある森に関する申請書だ。もう既にその申請は通り、全く問題なく受理されていた。


「ほんにほんに、参りましたのぅ」


 これまた全く参っていない様子で相槌を打つ、頭の薄い老人が顎髭の老人の向かいに座っている。


 とある宮の一室。


 飾り気のない室内だ。机や座り心地のよい肘掛椅子といった必要最低限の調度品が、静かに目立たぬように配置されている。


「全く……今の若い者はしきたりを無下にしよって敵わん。暗黙の了承を知らんのかのぅ」

「知らんのでしょうねぇ……それとも、あるいは」

「あるいは?」

「世代交代、と言いたいのですかねぇ」

「じじぃとばばぁはとっとと死ねと」

「ほんにほんに、お互い耳が痛いですなぁ」

「なんのなんの。わしはもう引退したが、お主の所はまだじゃろう? だから耳が痛いのはお主だけじゃ」

「ほんにゃ、これは一本取られましたな」

「ほっほっほっほ」

「ほっほっほっほ」


 二人は楽しげに乾いた笑い声を上げた。


 やがて、顎髭の老人が少しだけつぶらな瞳を細めながら切り出した。


「さて、先にも言うたが、わしはもう隠居した身。そのようなわしの元にわざわざ、このような物を持って来てどうしたのじゃ、大臣殿。わしにはもうどうする力もはないぞよ」


 頭の薄い老人は皺を更に深くして、微笑んだ。


「御冗談を。隠居の身とはいえ、御前のお力は健在でございましょう。だからこうして、わたくしめは御前のお力を頼りに参ったのです」

「こき使いに来よっただけじゃろうが」

「ほほほ。そんな、畏れ多い」

「ふん、世辞にも飽きたわ。はよう本題に入れ」

「それでは畏れながら。魔女が亡くなりました」


 促され、頭の薄い老人がまとう空気が微妙に変わる。


「……そうか。ばばぁはもう死んでおったか」


 顎髭の老人はぽつりと、


「薄情な女だとは知っておったが、死んで挨拶もせんとはほんに薄情な奴じゃの」


 先に逝った古い友人をなじった。


「と、言うことはじゃ、あの森はどうなっとるんじゃ? 確か小娘を跡目に引き取っておらんかったかの?」

「左様です。ですが娘の方はまだ半人前でして、これがとても魔女とは言えぬ存在……森にはよく馴染んでいるようですが」

「そうか……」


 顎髭の老人は唸った。


 魔女がいれば、何も案ずる事はなかった。


 魔女は魔女だ。


 あの森は魔女のもので、それは誰もが知っていた。


 王国には王国の法があり、法的にはあの森は王国の物である。が、それはそれ、これはこれという、建前と本質があの森にはあった。


 魔女だから。そして、あの森は魔女の森だから。


 たったそれだけで、あの森は特別だった。


 顎髭の老人は知識として知っている。あの森の異常さを。


 王国お抱えの学者共の中に煩いのがいて、かの者は森の重要性をとくと説き、あの森を魔女などどいう胡散臭い非国民の好きにさせていいのかと、散々喚いていた。


 現役の頃は国王権限で丸無視していたが、どうも息子は考えが違うようだ。この申請書が通った事でよく分かる。


 魔女がいれば。


 彼女が存命していれば、どうとでも出来ただろう。王国の法など彼女はものともしない。ものともしない強さが彼女にはあり、己としても彼女に不必要に干渉する気はなかった。


 それは何代も続くこの国の伝統であり、慣習でもあった。


 稀に現れた野心に燃える暴君も魔女に手を出したが最後、恐ろしい最期を迎えたと歴史書は語る。


「さてはて、どうしたものかのぅ」


 口ではそう言いながらも、前国王ジークフリード・フォン・キルヒは分かっていた。これからなすべき事を。


 その為に目の前に座る老人はわざわざ訪ねてきたのだという事を、顔を見た瞬間から理解していた。


 現国務大臣クロイツ・フォン・ヴァルツ。


 彼の薄い頭を見た瞬間から、ジークフリードは分かっていた。


「それではお耳を拝借」

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