第三章 サインと印鑑の違いの重要性
扉を開けて目に入ったのは大きな机。椅子はない。机の上には何も置かれておらず、何の為の机だろうと首をかしげてしまう。
さっと左右に視線を走らせ、彼女の姿を探す。
いない。
横に長い部屋だ。机以外には何も無く、左奥に扉があった。扉は開いており、まるで誘っているようだ。
知り合って間も無い男を、こんなにも家の奥に入れてくれるなんて。
高ぶる感情が思考を暴走させるが、冷静な理性が押しとどめる。
落ち着け。この生活感の全く感じられない空間。おそらくこの部屋は玄関の一部みたいなもので、彼女の生活圏は更に奥なんだろう。昔は応接間として使っていたのかもしれないが、今では彼女の元を訪れる人間は皆無なんだろう。昔は違うようだが、今の街の人間にとって魔女は忘れ去れた存在。『カッツ』のおっさんがそう言っていた。
がたん
ひどく乱暴な音がして、扉が開く。空気の動きで分かる。
そして、
ばたん
荒々しい音と共に扉が閉じられたのが分かった。
振り返ると、仏頂面した男が立っている。
「……なんか用?」
尋ねれば、
「お前に関係無い」
つっけんどんに答えられた。
にゃあと、猫が背中でどこか楽しそうに鳴く。この状況を理解し、楽しんでいるようだ。
そんな筈はないだろうけど。いや、魔女の猫ならもしかしたら――
「いつまで突っ立ったままでいるんだ?」
棘のある言葉にクルトの思考は妨げられる。
むっとしたが、特に言い返す言葉も思いつかなかったので、クルトは黙ったまま開いた扉の奥へと進んだ。
奥の部屋は広かった。クルトの事務所よりもずっと。三つぐらい入りそうだ――って、それは流石に言い過ぎだが。
部屋の真ん中には螺旋階段がある。変わった造りだ。階段の奥には大きな机と椅子が置かれ、その横にはキッチン。なかなかでかいキッチンだ。家庭用ではなく、業務用ぐらいにでかい。
そのキッチンに彼女は立っていた。
こちらからでは後ろ姿しか見えないので、何をやっているのかは分からない。
にゃあ
猫が鳴くと、彼女は振り返った。
「……そこに座るといい」
何が気に障るのか、彼女は不機嫌な顔のままで勧めてくれた。
「どうも」
近いからという理由で手前側の端の席に座る。決して彼女の後ろ姿を眺めていたいから、という下卑たオヤジくさい下心からではない。決して。
手前に、近くにある椅子に座る。自然な事だ。どこもおかしな所はない。
男はクルトと向かい合わせに、一つずれて反対側に座った。
「……」
睨んでる睨んでる。
男はクルトを睨んでいた。
彼女に睨まれるとは違い、男に睨まれるのはまあまあ気分が良かった。優越感が湧き出る。全く根拠のない優越感であるが。
「どうぞ」
かたん、と硬い音を立ててティーカップが差し出される。
変わった茶器だ。薄い緑色した半透明の陶器でできたセットで、ティースプーンは黒い。
来客用の物らしく向かいの男にも同じ物が出されたが、彼女は黒のマグカップを自分の席の前に置いた。
男の、隣に。
ごく自然な動作で、彼女は男の隣に腰を落ち着けた。そのあまりにもな自然の動作ぶりに嫉妬してしまう。
男も驚いている様子だったが、女しか目に入っていないクルトは気づかなかった。
「それで、お前はなんだ?」
彼女はクルトの正面に座り、真っ直ぐにクルトと目を合わせた。
「昨日も居たな」
「まあね」
クルトは出されたお茶を一口含み、味を楽しむ。
すっきりとした香りと味のお茶だ。しかし不思議と後味にはほのかに甘みが残る、他で飲んだ事のないお茶だ。
お茶。
お茶を楽しみながら、クルトは僅かに眉をしかめた。
心に引っかかるものがある。
なんだったけ? すぐに思い出せないのだから、大した事ではないのだろう。……とは思うが、何か引っかかる。
なんだっけ?
「それで、用件は?」
彼女の可憐な声で我に返る。
声には苛立ちが込められている。何が原因かは知らないが、彼女は不機嫌だ。特にクルトは何かをした覚えはないのだけれど。
「ああ、別に大した事じゃないんだが、仕事でね」
「仕事?」
胡乱げな声を上げたのは男の方だった。彼女は興味深そうに目を細めただけ。
反応が小さい事は残念だが、仕事自体はクルト自身には関わりあいがない物。俺に興味が無い、という事ではないと己を慰めながら話を続けた。
「紹介が遅れたな、俺はクルト・ボルツ。街で小さな事務所をやっている。依頼人は明かせないが、君のサインを欲しがっている人がいてね、その為に来た」
王国では、ペン等によるサインには法的効力が全くない。全てにおいて印鑑が必要で、出生と同時にその印鑑は両親によって作られる。大きさは大人の小指程。苗字は刻まず名前だけを刻み、また縁起の良い紋様をあわせる。世界に一つだけの、印鑑だ。
だからサインを欲しがるなんて、逆にすこぶる怪しかった。
「サイン、ね」
ますます胡乱げな視線を寄越してくる男は無視して、クルトは彼女だけを見る。
「それで、その……ここにサインを」
もっと何か言いたかったが、結局何も思いつかずにクルトは予め用意していた紙とペンを差し出した。
彼女は無言のまま、さらさらと躊躇無く書いた。
エーファ
たった、それだけを。
「ん」
何の問題もないように、彼女――エーファはペンと紙をクルトに突き返した。
「……エーファ、さん?」
クルトは軽く呆然としながら、その紙切れを眺めた。
あまり上手とは言えない筆跡だ。乱雑で、しかし筆圧は弱いのか、字は細く薄い。
苗字がない、という事は、あれだ……どういう事だ?
予想外の事にクルトの頭は混乱した。
戸籍をもたぬ、流浪する民だって親から子へと苗字は受け継がれる。
それなのに。
「用は済んだんだろ、とっとと帰れ」
男の言葉にかちんと来る。
だがその通りで、言い返す術がないのが現実だ。
仕方ない、名残惜しいが今日はここで引き上げるか。さっさと仕事の報告も終わらせて面倒をなくしたいし。
クルトはそう決めて、席を立つ。
「はいはい、それじゃね」
返して貰った物を丁寧に懐にしまい、非常に名残が惜しいが、二人に背を向ける。
「んじゃあ俺もそろそろ」
「ああ」
二人の会話が背中越しに聞こえた。
短い会話だが、とても羨ましい。
羨ましい。
自分には、一言もかけてくれなかったのに。
「イルマ」
未だクルトの肩に乗りかかっている猫にエーファは呼びかけた。
にゃぁあ
猫は長く、甘えるように鳴いた。
しかし、離れる様子はない。重みは消えなかった。
「……そう」
なにやら肯いている。表情は背後だから見えないが、声の調子は限りなく暗い。
「クルト、さん」
躊躇いがちに名前を呼ばれ、クルトは反射的に振り返った。
「イルマをよろしく頼む。あなたが気に入ったみたいだ」
そう小さく頭を下げるエーファは、とても悲しそうな様子だ。
自分が悪い訳じゃないが、ひどく胸が痛む。だが、同時にチャンスだとも感じている自分がいて、ちょっとだけ情けない。嫌いじゃないが。
「それは嬉しいね。それじゃちょっと、イルマちゃんを預かっても構わないかな?」
「イルマが望むなら」
にゃあと、上機嫌そうに猫が鳴いた。
それが答えらしかった。
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