第三章 昼帰りの彼女と猫

 散々だった昨日とはおさらばだ。


 クルトは気合いを入れて鏡の前に立つ。


 美味しい仕事があると聞いて行ってみれば、まあ千歩譲って美味しい仕事だったけれども、なにやら怪しげな術をかけられ、否応なしに引き受ける事に。そんなの仕事だとは言わない。仕事とは、己自身で引き受けるかどうか決める。それが仕事だ。強制されるものではない! ……なんて勇ましい持論を掲げる暇もなく、仕方ないから事務所に帰ってみれば弟は使いっ走りにされ、その美味しい仕事を持ち込んだ張本人にお茶をご馳走になり、おまけに茶器まで。ありがたいけれども複雑。そして、昼飯を食って嫌な事はさっさと済まそうと行ってみれば。


「……」


 最近伸びてきた黒髪に丹念にくしを通し、整髪剤で整える。


 深い蒼に細い白い線が入ったスーツと、黒のシャツ。スーツの色に合わせて薄蒼色のネクタイをチョイス。


 こぼれ落ちる白銀の髪は月の滴のよう。


 白い肌は雪のよう。


 蒼と紫の瞳は極上の宝石だ。


 陳腐な表現しか思いつかないが、彼女は美しい。これまで見たどんな女性よりも。それでいて普通の女じゃない。


「気合い入ってるな、兄貴」

「まあな」


 どこか呆れた様子の弟に鼻歌交じりでクルトは答える。


 蒼のスーツはクルトにとって勝負服である。己の瞳の色である深緑にスーツの色を合わせても良かったが、その当時付き合っていた彼女が蒼の方が似合うと言ってくれたので蒼で揃えた。


「今日は俺一人で行くし、もうあの仕事も片付ける。お前は寝てて良いぞ」

「分かった」

「それじゃ行ってくる」


 最後に全身をチェックして、クルトは出かける。

 昨日は動揺し、慌ててしまい、みっともなく逃げるように帰ってきてしまったが、今日は違う。

 十分気合いも入れた。なにが起こっても動揺しない自信がある。

 だから――






「誰だお前?」


 予想以上だ。


 まさか男連れで帰ってくるとは。


 しかも自分より背が高く、がたいが良い。真っ正面から殴り合いをすれば勝ち目は薄い。


 昨日と同じようにあの薄気味悪い森を通り、館を訪ねてみれば彼女は留守だった。呼び鈴を鳴らしても物音一つもせず、さてどうしたものかと思案に暮れていれば、これだ。


「……アンタこそ誰だよ?」


 まさか恋人か? それはまあ確かに、恋人くらいいてもおかしくない年齢だろうし、あの美貌だ。言い寄る男は星の数程。自分だってその星の一つ。居てもおかしくはないが、不思議と全く思いつかなかった。


 彼女はまるで子供のようだった。だから男がいるなんて考えもしなかった。それはまあ、初めてとかそんなのにこだわるほど器量は狭くないから、どうでもいいといえばどうでも良かったが、ショックを受けたのは否定できない。


「お前の知り合いか?」


 クルトが尋ね返せば、男は彼女に問うた。


「……」


 彼女は眠たそうに、眼を瞬かせた。


 相当眠たそうだ。


 それはそうだろう。一体昨日のいつ出かけたかは知らないが、朝帰りならぬ昼帰り。一体いつまで遊んでいたのか……いやいや、遊んでいたとは限らない。そんな女には見えなかった。


 今の格好だってまるでどこかのお嬢様だ。彼女には夜のような黒い服が似合うと思っていたが、こういう格好もなかなか。帽子からあの白髪がこぼれているのも良い。




 にゃあ




 猫の鳴き声がした。


 柔らかな感触に足下を見ると黒猫が身体をすり寄せ、甘えてくる。


 安くないスーツにすり寄られ、一瞬顔が引き攣りそうになったが、彼女の手前堪える。


 昨日も居た猫だ。彼女の飼い猫だろう。イルマと、彼女はそう呼んでいたっけ?


「やあイルマ、ご機嫌はどうかな?」


 名前を呼んでやると、猫はじっとクルトを見上げた。


 緑の丸い瞳が、真っ直ぐに見ている。


 まるで品定めをおこなっているような、そんな目つき。


 非常に居心地が悪い。


「お前は、昨日の……」


 ようやく彼女のその可憐な唇が開く。


 顔を向けると彼女と目が合い、どきどきと胸が高鳴る。その横で不審げに自分を見つめる男など目に入らない。


 覚えていてくれた。その事実に安堵する。


 昨日の今日だから、もし忘れられていたらショックで立ち直れない。片思いという状況は嫌いではないが、顔も覚えられていないような一方的なものは切ない。切ないのも嫌いじゃないが、やっぱり切ないのは楽しくない。


「何の用だ」


 昨日とはまるで違う様子の彼女。


 昨日は無邪気な子供みたいに元気一杯だったのに、今日はひどく気怠げだ。


 輝きのない紫と蒼の瞳。


 病人のように白い肌。


 髪もほつれた糸のようにざんばらに散っている。


 とてもいい。


 どちらかと言うと年上好きのクルトとしては今の状態の方がそそられる。


 好きな人にはいつでも笑っていて欲しいが、こういう疲れた様子もいい。なんともいえない色気がある。ぞくぞくさせられる。




 にゃあににゃあ




 クルトの足下で猫が鳴く。


 彼女の顔がしかめられた。


「イルマ」


 たしなめる口調だが猫はお構いなし。更にクルトの足に身体をすりつけ、甘い鳴き声をならす。


 猫は別に好きでもなんでもないが、ここまで甘えられると悪い気はしない。しゃがんで撫でててやると、猫はとんとんとクルトの腕から頭に上った。


「おっと」


 意外とずっしりな重みバランスを崩し、よろめきそうになる。だが彼女の手前、みっともなく尻餅つくのは勘弁だ。持ちこたえる、持ちこたえられた。よくやったと、自分を誉めてやりたい。


 そう、みっともなく尻餅をつかずに済んだ事にほっとして、しかし何でもないという風に装って立ち上がり、彼女を見ると。


「……」


 睨んでいる。睨まれている。


 ぎん、と、睨まれている。


 何故だ? 気に障る事をしたのか? いつの間に? 猫がスーツに身体をすりつけても嫌な顔一つせずに、なでてやってもしたのに。おまけに肩に乗っかられても文句の一つも言わずに受け入れた。


 彼女の猫だから。


 それだけの理由で、こんな暴挙も許している。


 なのに。


「イルマ!」


 強く猫の名前を、彼女は呼んだ。


 苛立ちが込められている。それは誰に対する苛立ちか。まさか俺じゃないよな、と思いたいが、怪しい。だって彼女の視線の先には俺しかいないじゃないか。他に誰がいる? 




 にゃあ




「……分かったよ」


 猫が鳴けば、非常に不満げにだが彼女は肯いた。


 なにが分かったというのか? まさかテレパシー? そういえば彼女は魔女らしいし、魔女といえば黒猫。今日は箒は持っていないが、そんな不思議な力があってもおかしくない。


「中へどうぞ。中で話を聞こう」


 すたすたと彼女はクルトの横を通り過ぎ、家に入っていく。扉はばたんと大きく音を立てて閉じ、もう一度開く様子はない。


 二人は残された。


「……」


 見れば、彼女の隣に立っていた男は難しい顔で何か考えている。


 彼女を送ってきただけなら、さっさと帰ればいいのに。


 そう願いたいが、もし、もし彼が彼女の恋人とかそういうイイ感じの関係だったら、このまま帰るなんて選択肢はないだろう。


「……」


 なにか声をかけるべきか。


 詳しく彼女との関係を聞きたいが、馬鹿正直に尋ねるのも気が引けたし、もし恋人ならショックで立ち直れない。仕事どころではなくなってしまう。それはあまりにも格好悪い。弟には自信満々で出かけてきたというのに、あんまりな成果だ。


「…………」


 更に熟考した結果、クルトは男を無視する事にした。


 居なかったものとして、気にしない。彼女だってそんなに親密そうな態度は取ってなかった。むしろ今背中に乗っている猫の方に気を取られていたし、うん。下手につついてやぶ蛇も勘弁だ。

 

 だから、クルトは男を気にしない事にして、閉じられた扉に手をかけた。


「おい」


 すると向こうが食い付いた。


「お前は、なんだ?」


 また同じ事を聞く。初めとは異なるテンションでだが。


 むしろこっちが聞きたいよ、なんてダサイ事はもう言わずに。 


「アンタには関係ないだろう?」


 さらりと切り捨てる。


「……」


 男は顔を歪め、沈黙した。


 ほっと、安堵する。


 クルトは顔では平静を保ちながら、胸をなで下ろした。


 言い返さない辺り深い関係ではないようだ。良かった。


「それじゃな」


 急いで背を向ける。


 頬が笑みで引きつるのが抑えられない。我慢しようとして、痛くなる。きっと今の自分はひどい顔をしている。こみ上げる笑顔を抑えようとして、失敗した変な顔。


 彼女にも見られる訳にはいかないから、しばし扉の前で静止。感情が落ち着くのを待つ。


 そして、




 にゃあ




 急かすような猫の鳴き声を合図に、クルトは扉を開けた。

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