第一章 森の先にあるもの
「なぁ、兄貴」
弟のか細い声にクルトは答えた。
「なんだ、我が弟よ」
クルトがこういう芝居かかった言葉使いをする時は、不機嫌か上機嫌かのどちらかだと、ロルフは長い付き合いの中で分かっていた。
分かってはいたが、泣き言は止まらない。
「なぁ、どうしても行かなきゃ駄目なのか?」
「さっきも道すがえら説明したよなぁロルフ君。俺達の仕事は魔女だかなんだか知らないが、ともかくこの奥に住んでる人間に用があんだよ」
いらいらと、クルトは足元を蹴った。
「で、でもよぉ……」
「お前の言いたい事は分かる」
尚も言い募るロルフに、クルトは同意を示しながらも強引に遮り言った。
「確かに普通じゃない。ここは普通の森じゃない。それは分かる」
「……」
ロルフは無言で、辺りを不安げに見回した。
物置なのか小さな小屋があり、その横には手作りのブランコとシーソーがある。それらは長い間使われていないのだろう、草木が生い茂り、覆い尽くしている。しかし誰なのかは知らないが、最低限の手入れは行われているようで、うっすらと獣道のように細い道が奥へと続いているのが見えた。
不気味だ。
ロルフはこういうのが苦手だ。寂れた廃墟、人から忘れ去れた誰かの墓地。そういう物悲しく切なく、哀愁漂う場所が大の苦手だった。
道が続く先は、おそらく魔女の館だろう。
うっそうと薄暗い森が続いている。
不気味な森だ。
光の加減の所為か、まさしく文字どおりに真っ黒な樹が所々生えている。
普通では有り得ない。
どう光が当たり、影が色濃くなろうと、樹が黒くなることはない……筈だ。
最も、ロルフもクルトも植物学者ではないから確かな事は言えないが。
「だが仕方ないだろう? ここで引き返す訳にはいかねぇんだ。ガキの使いじゃあるまいし、『できませんでした』じゃ終わらねぇんだよ!」
そりゃその通りだ。
ロルフは兄の言葉に納得する。
しかし、理屈が理解できても感情と身体がついてこなかった。
「……」
無言のまま、足元を眺め続ける。
ただいたずらに時が過ぎるのを乞う。時が全てを解決してくれる気がした。何もしなくても、何かが起こる。
こちらから動かずとも、向こうから何かがやってくる。
そんな気がした。
ただの気のせいだが。
「行くぞ」
兄の言葉に身体が勝手に硬くなる。
あれだ。
いくら大人だからといっても無理なものは無理だ。出来ない事はできないし、更に付け加えるならばやりたくない事はどうあってもやりたくない。
しかしそのやりたくない事を無理矢理する強がりが、大人を大人しめるたった一つの根拠かもしれない。
が。
無理無理無理。
いくら大人といえど、出来る強がりと出来ない強がりがある。
ロルフにとって、これは出来ない強がりだった。
みっともなくても構わない。無理はものは無理。
唯一兄の失望が心残りだが、仕方ない。例えるならば兄に「死ね」と言われて死ねないのと同じだ。
絶対に無理なものは無理。
「……」
ロルフは無言でブランコに腰掛けた。
横に三つ並んだブランコの真ん中の物は、どういう訳か一回り大きかった。大柄なロルフでも楽に座れる程に。
余程体格の大きな子供が居たのだろうか……そんな訳ないか。二人乗り用?……危ないな。
そんなどうでもいいことがロルフの頭をぐるぐる回る。
体格が大きい割に、ロルフはどちらかというと内向的な性格だ。
考えが煮詰まると逆に開き直り、なにかしらの行動に移す能動的なクルトと違い、ロルフはどこまでも受動的である。
自分一人では出来ない事がある。誰がなんと言おうと、世の中にはそういうものが絶対にある。
それにぶち当たった時、どうするのか。
一人ではどうにも出来ない。どうしようもない。そんな八方塞がりな、絶望的な状況。
そういう時、ロルフはどうするのか。
簡単だ。
ひたすら待つ。
誰かが、何かが起こるのをひたすら待つ。
無論常に物事は都合良く、ロルフの良いように運ばない。運びはしないが、事態が動けばそれで良かった。
後はどうとでもなる。だって、自分には兄が居るのだから。
自分と兄の二人がいれば、なんでも出来る。
これまで常にそう二人でやってきた。それで上手くいっている。だから、ロルフはこのやり方に疑問は持ったことがない。
それはまぁ、ちょっとだけ情けないかな、と思わない事もないが、構わない。結果が全てだ。
と、ここだけはカッコつけて結論づけるロルフだった。
「……仕方ない奴だな、お前は」
深く息を吐いて、クルトは呆れた調子で言った。
「ここで待ってろ。暗くなる前には戻るようにはするが、暗くなったら明かりを頼む。俺はお前の明かりを頼りに帰って来るからな、絶対に絶やすなよ」
すたすたと、既に歩き出しながらクルトはロルフに指示を出した。
「うん、分かった」
少し顔を上げ、空を見た。
まだまだ明るい。日が暮れるまで十分に時間はある。
「うん言うな」
「はいはい」
「はいは一回!」
母親のような小言に鬱陶しさを覚えるより、ロルフは安堵した。
クルトの機嫌が直った証拠だ。機嫌が悪いなら一々注意はしない。
「それじゃちょっくら行ってくるぜ」
「頼むぜ、兄貴」
「ああ、任せとけ」
兄は頼もしく頷き、森の奥へと入っていった。
くらいくらい、森の中に。
「……ここか」
今回の仕事は簡単だ。
クルトは胸の内で繰り返す。
ここまでの道すがら、ロルフにも同じ事を説明した。
呪術なんて訳の分からん物をかけられたが、仕事そのものは単純だ。
森に住む人間のサインを貰ってくる。
それだけだ。
それ以下でもそれ以上の難題ではない。
特殊なペンや紙に書いて貰う必要はない。なんでもいい。とりあえずサインを貰えれば、それでいい。
クルトの目の前には真っ黒な大樹があった。本当に大きな樹だ。樹齢は何千年とあるだろうか、クルトには想像もつかない。その樹を中心に森は開けていた。上を見上げればぽっかりと穴が開いたかのように、真っ青な空がのぞいている。緑で覆われた額縁の中に収められた一つの絵画のようでもある。
その樹の中が魔女の館らしい。根本に大きな扉があった。扉の横には呼び鈴を置いた台がある。
どこにでもありそうな、ごく普通の呼び鈴だ。真っ黒な台の上にちょこんと乗っかっている。
「……」
手に取る事を、クルトの何かが押しとどめた。
いかにも怪しい。
何故扉にノックがついているのではなく、わざわざ台に呼び鈴を置いてるのか。意味が分からない。
にゃあ
気づけば黒猫が足下にすり寄っている。
黒猫。
魔女にお似合いだ。
……気味が悪い。
身体が硬くなる。
途中で立ち止まった、ロルフの気持ちはよく分かる。クルトだってそうだ。仕事でなければこんな所一瞬たりとも居たくない。だが、一旦仕事を引き受けた以上最後までやり遂げるのが大人のルールだ。
ロルフに見せつけてやらなければならない。だって自分は、兄なのだから。
こほん
わざとらしい咳。
誰が見ている訳でもないから、取り繕う必要などないのに。
違う。
クルトは一人かぶりをふった。
己に取り繕う必要があった。誰よりもまず先に、まず己にカッコつけなければ。そうしなければ、クルトは先に進めなかった。
「……行くか」
猫を丁寧に避け、クルトは呼び鈴に手を伸ばす。
「イルマっ!」
誰かの名を呼ぶ声と同時に勢い良く扉が開いたのは、クルトの指先が呼び鈴に触れる前だった。
「っ!」
扉はクルトの方に向かって大きく開いた。かすりもしなかったが、その勢いの良さに身体がびくつく。
「さっきは悪かったって馬鹿猫! もう機嫌直せって、って?」
どーんと、勢い良く扉を開けたのは若い女だ。
質素な黒のローブを身につけている。頭には大きな黒の三角帽子。手には箒も持っている。
魔女だ。
どこからどう見ても魔女スタイルだった。
「……誰?」
女は帽子のつばを引き、顔を隠しながら短く尋ねた。
真っ白な髪以外、三角帽子で隠れ、女の顔はよく見えない。
身長はちょうどクルトと同じくらいで、女性にしては高い身長だ。辛うじてクルトの方が女を見下ろせた。
「……ここの人間か?」
逆に問い返せば、女はむっとしたようだ。
「それ以外に何に見える?」
顔を隠すようにしていた帽子をぐいと上げ、真っ直ぐにクルトを睨め付けた。
女の顔があらわになる。
綺麗な顔だ。街の女達よりもずっと、クルトの脳天を直撃した。
目筋が整っているのは当然として、強く惹かれるのは、目だ。
蒼と紫の色違いのつぶらな瞳。強い意志の輝きがある。
金持ちの人間がファッションの一つとして眼の色をいじるのは珍しい事ではない。クルトも何人か見た事がある。あるが、そのどれもが薄っぺらい色だった。目の前の女のような、鮮やかな色は見た事がなかった。
「何に見えると聞いている!」
女の苛立った声でクルトは我に返った。怒っていても可愛らしい声だ。
「あー、えーと、そうだな……」
「どうした? 早く言え」
女は何か期待している。わくわくと目を輝かしていて、まるで大きな子供だ。
「……」
居心地悪く、クルトは目を女からそらした。真っ直ぐに見てられない。なんだかひどく恥ずかしかった。なんでかはよく分からない。いや、女の真っ直ぐ過ぎる目が悪いのだ。かっかっかと身体が火照ってくる。今なら口から火だってはき出せる。それは言い過ぎ、嘘です、すいません。
くるくると思考は空転する。
サインを貰ってくるだけ。仕事はそれだけなのに。
クルトの口は動かない。
黙ったまま、ちらりと再びそらした目を女に戻した。
「?」
女は真っ直ぐにクルトを見ていた。
見られている。
あの蒼と紫の瞳が、真っ直ぐにクルトを見つめている。
見つめられている。
そう意識した瞬間。
「じゃ、そういう事で!」
クルトはくるりと女から背を向け、急ぎ足で来た道を戻り始めた。
にゃあ
猫の鳴き声がした。どこか呆れているような響きがあったが、考えすぎだろう。
この身体の火照りも全部が全部、気のせいだ。急に走り出したせいかもしれない。そう、クルトはいつの間にか走り出していた。己でも気づかぬ内に、何故か走り出していた。
「くそ、くそくそくそ!」
クルトは目に見えない、なにかに追い立てられるようにして、森の入り口まで走った。
走り続ける。
身体にしつこく纏わり付く、原因不明の熱を振り払うかのように。
「くそ!」
「……」
女は無言のまま男が立ち去った後も戸口に立ち、男が去った方向を眺めていた。
「なんだったんだ?」
女の呆然とした呟きに答える者はいない――筈だった。
「さぁねぇ?」
黒猫が答えた。
優雅に己の前足で頭をかきながら、黒猫はどうでもよさそうに答えた。
「ま、どうでもいいんじゃない? 用件も言わないで帰っちゃうような奴、こっちからじゃどうしようもないでしょ? 用があったらまた来るわよ」
「無かったら?」
「二度と来ないわね。いいじゃない、それ。静かに生活できて」
女は猫の気楽な言葉に顔をしかめる。
「それは、困る……」
「どうして?」
「だって……最近はお前以外の顔見てないし、そんなのつまらないだろ?」
「アタシにとってはどうでもいい事ね。アンタが愉快に暮らそうが一人寂しくひっそり暮らそうが、とりあえず生きてさえくれればアタシはどうでもいいの」
「……人はつまなら過ぎて死ぬ事もできるんだぞ」
「ちょっと、そんなデカイ図体して拗ねるのやめてくれない? すっごくイライラするわ! 何よ、そんなに気になるのなら追っかけてみればいいじゃない! ついでにアタシ以外の顔も拝んでくればいいじゃないの!」
「っ……」
女は黒猫の言葉に居心地悪げに身じろぎした。
「この根性ナシ! 一人じゃ街にも降りられないなんてどこのガキよ!」
「う、うるさい! ま、魔女様にできない事はない!」
「フン、よく言うわね。さっきも魔法失敗した癖に」
「あれはお前の気合いが足りないんだ!」
「はいはい、その何でもアタシの所為にする癖、いい加減直しなさいよ。アタシは常日頃アンタの傍に居るんじゃないんだから」
「……」
自らの使い魔に軽くあしらわれ、若い魔女は沈黙した。
やがて。
「……分かった」
若い魔女は決意する。
「これから街に行ってくる。街に行って、さっきの男を捜すついでに買い物もしてくる」
要するにただの買い出しなのだが、魔女はまるで重大な使命を告げるかのごとく深刻な顔をして使い魔に命じた。
「だからばば様の買い物リストをここに持ってこい。私は着替えてくる」
「はいはい」
黒猫は気怠げに返事を返し、さっさと自らの仕事を果たしに行った。
若い魔女は満足げにその後ろ姿を見送ると、自らも着替える為家の中に戻っていった。
こうして、森の魔女は街に降りる支度を始める。
魔女が街にとってどういう存在に成り下がったか。そんなことちっとも考えずに新米魔女は街へと繰り出す。
それがどんな騒動を引き起こすかなんて、やっぱり何にも考えずに新しい魔女は、
「……なに着ていこうかな」
なんて実に女の子らしく、お出かけの服を心を躍らせ、頭を悩ませながら選び始めた。
彼女の名はエーファ。
先代魔女が亡くなり、新たに森の魔女を継いだ新米魔女である。
それを知る者は、まだ誰も居なかった。
今はまだ。
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