第一章 街の何でも屋 ボルク事務所
森の街グレイソン。
王国の西に位置し、魔女の森とも言われる広大なメルバの森に最も近い街。昔は小さな町で、メルバの森に生える特殊な草花を目当てにした者がたまに訪れる、本当に小さな町だった。
森の向こうにはメルー大山脈。その向こうは隣国だが荒れ果てた荒野がただ続いている。森の向こうへと行く者は皆無だった。森の向こうは険しい山と荒れ果てた荒野、得るものは何も無い。だからグレイソンには森以外何もない町だった。
十年前までは。
「我々メルディン社はこの計画の成功とともにこの街を本拠地とするつもりです。ですから、この仕事はとても重要で絶対に成功させなければならないのです。ご理解いただけますかな?」
メルディン社。
世界有数の企業だ。情報サービスから衣料・食料品まで幅広く扱う総合メーカー。
グレイソンが近年急速に、王都に次ぐ程の大都市に発展したのはこの世界企業が深く関係している。
十年前にメルディン社の工場が造られた。そしてメルディン社は街の整備に力を尽くし、グレイソンを都市へと発展させたのだった。
クルトはにへりと笑った。
「分かります。分かりますとも」
自分の適当な返答に依頼人の男が満足げに肯くのを、クルトは笑みを貼り付けたまま冷めた心地で眺めた。
どこにでも居そうな男だ。だが、だからこそ逆にクルトを警戒させた。
茶髪に茶色の瞳。どこにでもありそうな黒眼鏡に地味な焦げ茶色のスーツ。
一見ただの優男だがクルトの経験上、こういう人間ほどくえない人間だった。
「そんな大層な仕事に俺達をご指名、ありがとうございます」
大げさに頭を下げて見せ、クルトは唐突に席を立った。
「でも悪いですね、俺も忙しい身でして――」
すいません。
と、断ろうとした時、依頼人は先程と同じ、満足げに肯いたままのいい顔のままで告げた。
「申し訳ありませんが、貴方に選択権はない」
「は?」
ああ、やっぱり勘は当たりやがった。
苦々しい思いでクルトは男を見た。男は変わらず満足気な笑みを浮かべ、クルトを見ている。
クルトを脅迫しているというのにおだやかな物腰だ。だが、逆にそれが迫力を持っていた。
「呪術というものをご存じですか? それを予め貴方にかけさせて頂きました。断れば不幸が貴方を襲うようにね」
「はあ?」
呪術。
聞いた事がなかった。
最もクルトは魔術に詳しい方じゃないから当てにならなかった。それはクルトの弟分も同様。
「ふふ、私共を訴えますか? それはやめておいた方がお互いの為だとは思いますが」
クルトはとりあえず一度立ち上がった席に不本意だが座り直した。
「別に、はなから泣きつくつもりはねぇよ」
それほど上等な身分の市民でもない。
クルトは苦々しく己の身の上を顧みた。
叩けば埃がでるのはきっとお互い様だ。ただしこちらが街の何でも屋二人に対して、向こうは世界有数の大企業様。象と蟻の比喩も、きっと向こうが大きすぎて不適切だろう。
やはり来るべきではなかった。この場に来た事を腹の底からクルトは後悔した。もうお手遅れだが。
「それでは、本題に入りましょうか」
男の満足気な笑顔を苦々しくクルトは眺めた。
男はそんなクルトに構うことなく、満足げな笑顔のままで話を進めた。
話が終わり、メルディン社の応接間を出ると、クルトはとっとと自宅も兼ねている事務所へと戻った。
『ボルク事務所』
自分たちの苗字をそのまま事務所の名前にした小さな事務所。
三階建ての小さなおんぼろビルを借りている。一階部分は飲み屋のような喫茶店で、朝のモーニングから深夜のバータイムまでずっと営業している。二、三階部分がクルト達が借りている物件で、二階を事務所、三階を自宅として使っている。
「帰ったぞ!」
勢い良く扉を開け、二階の事務所に入る。
出迎えの声はなく、入り口近くの受付には誰も居なかった。普段ならば弟のロルフの定位置だ。
受付といっても机を置いているだけで、呼び鈴は置いていない。事務所は小さく、扉を開ける音はどんなに用心して開けたとしても、部屋のどこに居ても聞こえた。
受付の奥にはシンクとコンロが備え付けられ、ここでお茶ぐらいは出せた。
留守番を言いつけた弟は出かけているらしい。扉に鍵も掛けずに、不用心な事だ。
「ったくロルフの奴……」
苦々しくクルトは呻く。
「仕方ねぇ奴だな、ったく」
壁に取り付けている洋服掛けに上着を掛けながら、独り呟く。
戻ったら言わなければ。
鍵を掛けないで出て行ったのはこれが初めてではない。以前にも何度かあった。その度にきつく言い聞かせて来たつもりだったが、この様子では改めれていなようだった。盗られて困る物も、昔に比べたら随分と増えたはずなのに。
「そんなにロルフさんを責めないであげて下さいまし」
「!」
後ろから掛けられた声に、クルトは不意を突かれて驚いた。
「あらあら、そんなに驚いた間抜け顔、折角の男前が台無しですわよ」
「……そりゃ、どぅも……」
男前と言われて悪い気はしない。たとえそれが百パーセントお世辞だと分かっていても、やっぱり悪い気はしない。
目の前にはお得意様が立っていた。
きれいな妙齢の女性だ。歳の頃は三十過ぎから四十代、少女のように無垢な笑顔が絶えない女性。色の薄い金髪の髪はふんわりとカールし、深い蒼の瞳はいつも楽しそうな色をたたえている。服装も少女みたいなふりふりフリルがふんだんにあしらわれた、まるでお人形さんが着るようなものだが、不思議と彼女が着ると落ち着きが出て、よく似合っている。
名をロゼッタ・マクシハイム。
どういう訳かクルト達を気に入り、なにかと仕事をくれたり回してくれたりする、この事務所のバトロン的な存在だ。
先程のメルディン社の仕事を仲介してくれたのも彼女だった。
「どうでしたかしらメルディンのお仕事の方は? お話は今日でしたわよね?」
首をかしげながら尋ねるロゼッタからは悪意を感じなかった。いやたとえあったとしてもクルト如きの若造では感じ取る事は不可能だろう。実際に彼女からの依頼の中で痛い目にあったことは一度や二度ではない。
「……ま、報酬の割には簡単そうではありましたが」
クルトは良い仕事である事は認めた。
呪術とかよく分からない術を掛けられたが報酬は破格で、仕事内容は単純そのものだった。
だからこそ胡散臭かったが。
まさか呪術というのには仕事が終わった瞬間に殺されるような、そんな呪いも付いているのだろうか? 絶対に有り得ないと言い切れないのが怖い。後で診てもらおう。
「そう、それはよかったですわ。紹介した甲斐があります」
ふふふと、柔らかく微笑みロゼッタはまるで純粋無垢な少女そのものだった。
不思議な女性だ。
何度痛い目にあったとしても彼女の事は憎めなかった。悪い気がないのかは疑問が残るが、なんとなく憎めない。にくい女性だ。
「ところでロルフはどこに? それにロゼッタさんがどうしてここに? もしかして仕事の話ですか?」
「ちょっとお使いを頼みましたの。何をお願いしたかは、ロルフさんが帰ってくるまでのお楽しみですわ」
「はぁ……」
「それとわたくしがここに居るのはたまたまですわ、近くを通りかかって、気になったものでしたから」
苦々しいを通り越し、クルトは頭痛さえ覚えた。
ロゼッタが我が物顔で事務所の留守を預かっていたのもびっくりだが、押し切られたロルフの押しの弱さにも参る。まあクルトだってロゼッタにはどうも頭が上がらないから、もし同じ状況に陥ったら果たしてどうなるか。結局同じ事になるかもしれなかったが、それはそれ、これはこれだ。いくらバトロン的女性とはいえ、いいようにこき使われて情けないぞ! と、こっそり兄貴面してロルフには言っとこう。
「さ、立ち話もなんですし、お座りになって。お茶でもいれますわ」
「どうも……」
ここは俺の事務所なんですけど。
胸の内だけでこっそりとうめきつつも、クルトはロゼッタの勧めに従って接待用のソファに腰を下ろした。
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