プロローグ4 子供、湯船につかるの巻

「よう来たな」


 魔女の家に着くと、魔女は既に家の戸口の前で男を待っていた。


 黒いフードを目元深くまですっぽりと被り、手には曲がりくねった木の杖。黒のローブに複雑な刺繍が織り込まれた深い紫のマントを羽織っている。


 男も何度か見たことがある、魔女の正装である。


「お主が来ることは分かっておった」


 男が事の経緯を説明しようと口を開く前に魔女は言った。


「ただその童を拾って来るかは分からんかった。それは分かれ目じゃった。わしが見た二つの未来の」


 魔女は厳かな声で男に告げた。


 男は腕の中でぐったりしている子供を見た。


 はじめ、男は子供の事を見なかった事にして先を急ごうとしていた。どこの馬の骨とも知れぬ怪しい子供だし、面倒を避ける為に。


「……おれは正しい選択をしたのか?」


「正しい、間違った……どれも結果論じゃな、おまけに正しい言葉ではない。正しく言うならば都合良いか悪かじゃな」


「問答はいい」


「つれん男じゃ。つまらんのぉ」


「……」


 男は無言のまま子供を魔女に差し出した。男にははなから魔女の問答に付き合う気はない。それよりも男には町の人間から託された使命があった。


「おれがここに来た用件は分かっているだろう、時間がない。早くしてくれ」


「ほんにつまらん男じゃのぅ、久しぶりに顔を見せたと思えば茶の一つも飲まんと去ぬるとは。お主はもうちっと遊ぶことを覚えるべきじゃな」


「状況が状況だ」


「分かっておるわい。まるでわしが人でなしのような言いぐさじゃな、失敬な奴じゃ」


「そんなつもりはないが」


「冗談じゃ」


 にやりと、魔女の口元に深い笑みが浮かんだ。


「中へ入るがええ。薬は用意しておる」


 ああ、やはり魔女は魔女だ。これから起こる事、やるべき事をきちんとわかっている。


 男は肯いて、魔女の言葉に従う。

 魔女が先に家の中に入った。男も子供を抱いたまま、後に続く。

 いつ来てもその度に驚かされる、不思議な家だ。魔女の家は広い。男の家なら三軒は入りそうなくらいに広い。


 玄関を入るとすぐに応接間。魔女は自分の家にあまり人を入れたがらない。魔女によると他人を家に招き入れると家の『場』が乱れるとの事。男はよく分からないし興味もなかったからそれ以上を聞かなかったが、だから大抵の者はこの応接間までしか魔女の家には踏み込めなかった。


 男も大抵の者のその一人であった。今日までは。


「なにをしておる。こっちじゃ」


 男が応接間のソファに子供を寝かしつけようとしたら、魔女は奥の扉の前に立ち、男を手招いた。


「何十年ぶりかのう、この奥に他人を招き入れるのは」


 楽しそうに魔女は笑いながら扉を開けた。


 真ん中に螺旋状の階段がある。その奥には広い調理場。魔女一人しかいないのに、豪勢な話だ。


 魔女は螺旋階段を降りていった。男も続いてく。


 次の階は書庫のようだった。たくさんの本棚が並んでいる。本で埋まった書棚もあれば、ほとんど空いている書棚もあった。


 魔女は更に降りていった。仕方なく男も続いてく。


 螺旋階段はその階で終わっていた。妙な部屋だ。暖かく適度に湿っている。部屋は大きく二つに別けられていた。


 部屋の入り口は半透明のガラスのすり戸。暖簾といわれる、極東のカーテンのような看板のような布きれ。ガラス戸の半分を覆っている。そこには大きな文字でそれぞれ『男湯』と『女湯』と書かれていた。


「こっちじゃ」


 女湯、と書かれた方に魔女は入っていた。


 一瞬戸惑う男だったが、


「安心せい、わしらしかおらん」


 魔女の笑いを含んだ声に腹を決めて女湯と書かれた暖簾をくぐる。

 殺風景で広い脱衣所を過ぎるとまたガラス戸の引き戸が。

 魔女がからりと開けると、中から湯気が入ってきた。

 相当熱い。呼吸が一瞬詰まるほどの熱気が、男の元まで伝わってきた。


「そのまま湯へつけるんじゃ。暴れるようなら押さえつけてでもの」


 魔女は振り返り、男をあごでしゃくった。浴室に魔女は入らないつもりらしい。男に道を譲った。男は子供を抱く腕に少しだけ力を込めながら、浴室へ足を踏み入れた。


 熱い。


 むんむんと、湯気が沸いていた。湯船のお湯は沸騰しているのではないかと思うほど。また何かの薬草の臭いも充満していた。


 広い浴室だ。ベージュ色のタイルで統一された、飾りっ気のない広い浴室。湯船も大きく、大人でも悠々と泳げそうだった。


 男は言われた通りに屈んで子供を湯船につける。湯気は白い程に湯船から沸いていたが、男の腕が感じる温度は高くはなかった。むしろ生緩い。臭いの元の薬草の効果だろうか。


 子供の身体が湯に浸かった瞬間、子供の目が見開かれた。


「!」


 その目の開き方が、かっっ! というような気迫に満ちた目の開き方で、驚いた男はうっかり子供を湯船に落としてしまった。


 どぼん。


 水しぶきを上げ、子供は頭ごと湯船に浸かった――というか、落ちた。


「っ!」


 しまった。


 慌てて引き上げようと男は腕を伸ばしたが、魔女の杖が遮った。


「これで良い。これでもう大丈夫じゃ」


 横を向くと魔女がいつの間にか立っていた。


「これで、いいのか……?」


「良い」


「溺れるいるぞ、大丈夫なのか?」


 男は湯船をのぞき込みながら魔女に尋ねる。子供の目は両目とも見開かれたまま、湯船に沈んでいる。暴れる様子はなく、ただ目を見開き、沈んでいる。

 

 普通でない、ひどく恐ろしい状況なはずだが、隣に魔女が居るせいか男は恐怖を感じなかった。ただ心配だ。


「大丈夫じゃ。この湯は特別にはったものじゃからの。心配ない。それよりもお主は急いで町に帰らんとまずいじゃろう。早く薬を持って帰ってやれ」


「それは、そうだが……」


 男は子供から目が離せない。


「この童が気になるか?」


 そりゃそうだ。


 答えるのは躊躇われたが、男はちいさく肯いた。


 面倒事の臭いがぷんぷんとしたが、仕方ない。自分に嘘はつけない。ついたら後がしんどいだけだった。


「なら次に会う時にまでにこの子の名を考えてやれ。わしがつけてやっても良いが、それでは面白くないからのぅ」


「名前……?」


 名前をつける。


 それは特別な事だ。たとえこの先一生この子供と会わずに過ごしたとしても、この子供との繋がり、縁は名前をつける事でできてしまう。一生、この奇妙な子供との縁は切れる事はない。


 この子供が無関係の他者ではなくなってしまう。


「そうじゃ。この童にはまだ名がないからのぅ、お主がつけてやれ。その童が気になるのならば」


 男は即答しなかったが、頭のどこかではもう名前を考え始めていた。


 エーファ。


 いい名前だと思った。どこかで聞き覚えがあると記憶を辿れば、もう随分と前に亡くなった祖母の名前だった。


「さぁ、もう帰るがええ。もうこの童は大丈夫じゃ。わしに任せて帰るがええ」


「……ああ」


 男は立ち上がり、浴室を後にする。


「薬は机の上においておる。町長の奴にわたしてやれ」


「分かった」


 男が振り返ると、魔女は湯船の前に立ち、なにやら呪文を唱えていた。


 もう自分がやる事はなにもない。


 言われた通りに男は階段を昇り応接間まで戻ると、机の上にいつの間にか置かれていた小さな革袋を手にする。


 ずしりと重たい。町の子供たちを救う薬だ。大切に男は懐にしまう。


 魔女の家を出た時、男は何気なく振り返った。


 魔女の家は不思議な家だ。一本の大きな木をそのまま家にしていて、木のあちこちに扉や窓がついている。かと思えば大きな枝の先にはちょこんと小屋が乗っているし、なんとも不思議な家だ。家の周りには畑もある。


 男が子供の頃に初めてこの家を見た時、あまりの大きさに驚いたものだが、今はどうだろう。慣れてしまったのか男の図体がでかくなったせいか、その時感じた大きさを感じなかった。むしろ小さくなったような……。


「何を馬鹿なことを」


 かぶりをふって、男はつまらない感傷を振り払った。


 子供に構い、無駄な時間を過ごした。町の人間は今か今かと男の帰りを待っているだろう。急いで帰らなければ。


 またな。


 胸の内だけで呟き、男は町へと急ぎ足で帰って行った。











 それから数年後、古い森の魔女が死に、新しい魔女が生まれたところで物語は始まる。

 

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