プロローグ2

「……(弱ったな)」


 森の奥、しかし魔女の領域の一歩手前のやや開けた場所。子供たちの格好の遊び場でもある。親たちは色々な意味で――例えば町から離れすぎているとか大型動物もいないことはないとか、魔女の家から近いとか――危ないからこの場所で子供たちが遊ぶのを嫌がった。しかし元々猟師小屋があり、子供好きの誰かが簡単な遊具を造ってからは、子供たちの人気の遊び場になっていた。


 そこに男が一人、途方に暮れて立ち尽くしている。


 男はこれから、森に棲む魔女の所に向かう途中だった。


 男自身はそんな事を一度も感じた事はなかったが、町の人間の中で魔女と一番親しいのは己らしい。少なくとも町の他の人間の評価はそうなのだが、男は実感した事がなかった。


 何故なら男にとって魔女というのは仲が良いとか悪いとか、そんな次元の話が通じる相手はではない。例えるならばお前は太陽と仲が良いね、と言われ、そうだと肯定する。魔女との仲を肯定する事はその例えと同じ事だった。


「……」


 見なかった事にして、先に進もうかとも考えつつも、もう一度、一度は視界から外したモノを隅に入れてみる。


 木の下で、子供が一人うずくまっていた。髪も真っ白でぼさぼさに伸び放題の、薄汚い白のぼろ服を着た子供だ。身体を丸め膝を抱え、ぎゅっと手は折り曲げた足に回している。顔も埋め、男が近くに来ても身動き一つしない。歳の頃は四、五歳程だろうか。

 

きつい臭いが、男の鼻を刺激した。

 

 辺りに親らしき人間が行き倒れている様子はない。


 森ではたまにあることだ。


 森は恵みを与えるが、同時に奪いもする。森は深く、森で迷う者は後を絶えない。


 男も何人か知り合いを森で亡くした。だが男は森を恨む気にはなれなかった。それは筋違いだと、男は考えている。


 行き倒れの子供でないとしても、町の子供でないことは確かだ。町の子供が今、外に出られるはずがない。だから男がここに、魔女の家を訪れようとしているのだから。


「……ここで何をしている」


 子供を見下ろしたまま、男は尋ねた。


 お前誰だとかどこから来たとか、そんな当然の疑問を男は口にしなかった。


 無論興味はあったが、それよりも男の頭の中にはある噂がよぎっていた。




 災いは森より来たる。




 誰が言い出したかは分からない。ただ子供たちが原因不明の病に倒れるようになり始めてから、この噂は急速に広がった。


 それを魔女だと直接口にする者はいなかった。


 魔女に恩義がある者そうでない者、関わりがない者ある者、それら全ての町の人間が魔女を恐れていた。


 だから口にはしなかった。しかし誰でもそう、少しは疑っているのは町の空気で良く分かった。




 馬鹿馬鹿しい。




 男は憤りをもって、この噂を断じた。


 そして、それでも魔女を結局の所頼ろうとする町の長たちにも、男は苛立ちを感じていた。それはそのまま、長老たちに請われるままに魔女の元へ向かう己にも重なる。


「……」


 子供は答えなかった。答える代わりに、顔を上げた。


 ぼさぼさの白い髪の下からは、冷え切った湖の底のような蒼い瞳と、異様な煌めきを持つ紫の瞳が不自然な程大きく、のぞいた。


「、」


 美しい、と、男は一瞬子供から臭う異臭を忘れる程に目を奪われた。


 二つの瞳はまさしく宝石だ。人の眼球というものはこんなに美しいものだったのかと、男はひどく驚いた。


 しかし同時に薄気味わるい寒気も覚え、なんとも言い難い感情に囚われる。何故なら子供は無表情だったから。


 まるで人形のよう。

  

 小さな唇は繊細な筆で一筆されたように、真一文字に結ばれていた。


 子供の髪も肌も服も全てが薄汚い白であるのに対し、その二つの色違いの瞳は場違いな程強烈な色彩を持っていた。


 異臭が鼻をつく。


 死臭だ。


 男は唐突に気づく。


 嗅ぎ慣れた臭いが混じっている。


 血の臭い腐った肉の臭い魚の生臭い臭い臭い匂いにおい。


「……」


 男は子供を見続けた。子供も男の視線をしっかりと受け止め、見つめ返してくる。外した方が負けだと、男は少し意地になった。


「……」


「……」


 沈黙のまま、男と子供は見つめあっていた。


 なにか話しかけるべきか。男は更に言葉を重ねようとしたが、やめた。子供は先程の質問に答えていない。じっと待つことにする。しっかりと目を合せてくる子供の様子を見るに、言葉が通じていない様子もない。


 瞳はとても落ち着いた輝きを宿している。混乱しているようではなく、またぼんやりと生気がないわけでもなく。


 とても。


 とてもしっかりとした意志の感じられる瞳。


 男は逆にそれが気味悪かった。


 恐ろしいとも感じた。


 行き場がなく途方に暮れ、茫然自失としているという状況ならまだしも、子供は明確な意志をもってこの場にいるようだ。


「、」


 子供の唇が、ようやく動く。


 赤い唇の下から白い小さな歯がのぞく。そして更に下には真っ赤な舌、白い歯が並ぶ。


「いきてる?」


 最後の音が少し上がった。疑問形らしい。小首を傾げる可愛いしぐさをしながら、子供はゆっくりと立ち上がった。


「……まあな」


 否定することでもないので、男はうなずいておいた。


「そう、じゃころさなきゃ」


 まるで、そうまるで手を挙げて挨拶を返すような気取らなさで、子供はひどく物騒な言葉を吐くと共に、右手を振ろうとした。


 振ろうとした。


 男にそれが分かったのは、子供の様子をつぶさに観察していたからだ。男には子供が右手に力を入れたのがよく見えた。


 しかし、実際には右手は僅かに震えるばかりで少しも動かなかった。


「……あれ」


 子供が訝しげな声を上げた。


 不思議そうにまじまじと自分の腕を眺めている。


 指を開いたり閉じたり腕を回してみたり。


 ぎこちなさはあるものの、ちゃんと動いた。そしてよし、というように男に向かって腕を振り下ろそうとすると、


「なんで?」


 腕は動かなかった。


 不思議そうに見てくる子供に男は返す言葉を持たない。男にも分らないからだ。


「……それよりもだ、おれはお前の質問に答えた。だからお前もおれの質問にとっとと答えろ」


「いちりある」


 男の大人げない言葉にうんうんと、したり顔で子供はうなずいた。歳の割に難しい言葉を知っているな男は感心した。


「でもね、これたちもしらないの」


「……」


 これたち。


 子供がそう三人称で示す人物が子供自身だと気づくまで、男は数秒要した。


「……これたち?」


「?」


 男が子供の言葉を繰り返すと、子供は首をかしげた。


 どうして男が戸惑うのか分かっていないようだ。


 これたち。


 物を指す言葉で、決して人を指す言葉ではない。と男は思ったが自信はなかった。


 男はごく一般の民間人で、えらい学者でもなんでもないから、もしかしたら男の知識は間違っているかもしれない。もしかしたら一部の地域ではそう言うのかもしれない。言葉とは常に緩やかに変化していくもので、絶対だと思われた決まりもいつしか時代と共に変わっていく。


 それになんたって幼児語。男の常識は通用しない。男は常々何故食事のことを『まんま』と言うのか、理解できなかった。それと同じことだろうそうにちがいない。


 そう男は納得して、気にしない事にした。そうでもしないと話が進まない。


「まあいい。それで、おまえ名前は? どこから来た?」


「これたちはこれたち! なまえあったこれもいたんだけどね、これがふこうへいだっていうからなしにしたの。これたちあたまいいでしょ!」


「……ああ」


 よく分かった。頭がおかしいんだと。


 子供ははしゃいでいる。なにが嬉しいのか満面の笑みを浮かべ、その場で飛び跳ねながら、しかし時折不自然に右手の動きが止まるのが男には気なった。


 ――じゃ、ころさなきゃ


 殺さなきゃ。


 聞き間違いではないと思う。その瞬間、確かに殺気を感じた。

 

 チクリどころではなく、ざくりと肌を突き刺すような、強い意志。


「……」

 

 男は手の汗をズボンで拭った。


 そう、明確な殺意をもって子供は何か仕掛けようとした。しかし原因は分からないが実行に移せなかった。そして、今ももしかすると子供は実行中なのかもしれない。右手の不自然な動きがそれを表している、ように男は感じられた。


「……無駄な事はやめろ。おれはお前をどうこうしに来た訳じゃない。お前がもしここで人を待っているのだったらそいつが来るまで一緒に居てやってもいいし、道に迷っているのなら案内してやる」


「これたち、ここにいろっていわれたの」


 飛び跳ねるのはやめ、しかし右手の不自然な動きはやめずに、子供は答えた。


「待っているのか?」


「いろっていわれた」


「待っていろと?」


「いろって」


「……」


 要領を得ない子供の答えに、男は頭を抱えた。


 お手上げだ。

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