ⅵ∴神生∞界
チャイムが鳴り、教室の窓が開け放たれると、透けたカーテンが日差しに揺らめき、乱反射した白い光の軌跡が天井に映り込む。
授業の緊迫感は一気にほどけ、教室内は生徒達の雑談にさざめき立つ。その弛緩した空気の中、ひと仕事終えた黒沢は、教卓の上で授業で使用した資料を重ねて揃えている。
芽吹は机の上で手提げの学生鞄の口を開け、机の中の教科書やノートをしまいながら教室全体を眺め、違和感の原因を探していた。
教室には昨日のプロサッカーリーグの試合の采配について興奮気味に議論する男子達、机に腰を引っ掛けて帰りに寄る予定のファストフード店の期間限定商品を今日食べるべきかを話し合う雛乃達など、まだ大勢の生徒が残っていた。
教室と廊下を隔てる引戸のところで、そうだ、と何かを思い出し黒沢が振り返った。
「皆聞け、最近妙な事件があるみたいだから、帰る時は気を付けるように、いいな?」
その言葉はまるで一切の意味が無いかのように周囲の放課後の気配として騒めきに溶け込んだ。特別注意を向ける者は居ない様子だった。ただ一人芽吹がそんなことを感じ取ったその時、不意に身が凍りつくような感覚に襲われた。
学校の日常という状況に全く釣り合わない、何か濃厚な情念を帯びた視線が自分に向けられていたことに気付いたからだった。実際はほんの数秒だったかも知れないその無音の時間は、黒沢の眉がピクリと動くまで凍てついたままになっていた。芽吹は思わず黒沢から視線を落とした。
教室から出ようとした男子生徒の一人が引き戸の前で首をかしげた。一点を見据えるように佇む黒沢の視線の先にうつむく芽吹があった。やがて、何か異様な空気感を悟った他の生徒が黒沢を見つめる中、黒沢は真っ直ぐ芽吹の窓際の席まで歩いてきた。
「どうした、瑞樹」
「いえ」
「気分が悪いのか」
「いえ、大丈夫です」
「しかし、何というか。顔色が悪いぞ」
「あの、本当に、大丈夫なので」
「そうか」
黒沢は眼鏡を中指でグイッと直すと静まり返った教室の中で生徒の注目を集めていることに気付いた。
「何だお前ら。何かあったのか?」
教室内からは何の反応も無い。黒沢は小さく肩をすくめ、廊下の奥へ消えて行った。
突然芽吹の後ろで誰かが小さく噴き出した。
「ってか今の空気何なの」
芽吹が声に振り向くとそれは雛乃だった。雛乃は「ねえ、芽吹、何なの?どゆこと?」とピアスを揺らしながら芽吹の顔を覗き込んだ。空気ということを言われても、同じ場所にいても雛乃が自分と同じ印象を感じているかは分からない。その場に居合わせた人間が会話を聞いていたとして、間違いなく言えるのは、体調が悪そうに見えた自分を気遣ってくれた黒沢に対して大丈夫だ、と応えた、ただそれだけのことだ。雛乃の言っている空気というものが、それ以上のものを言っているのであれば、芽吹には余りに範囲が広過ぎる無茶な質問のように思えた。芽吹はただ一言素直に広い意味で「分からない」と応えた。
「芽吹さ、あんた気をつけなよ」首をかしげる芽吹に「ド変態野郎だって、黒沢は」と何かを下げずむような歪んだ笑みを浮かべながら雛乃は言った。全く状況が分からない、という素振りをしつつも、雛乃は雛乃なりに何かを理解しているような語気のある物言いだった。
「あいつさ、あんたに気があんのよ。教師のくせに」
芽吹の目は丸くなった。
「気付いてなかった?」
「・・・それは、何故そう思うの?」
「何故?そんなの直感。だって、あんた見る時の目が、キモいじゃん。そんなこと、このクラスの殆どが思ってるって、ねえ?夏美」
芽吹は困ったように笑った後、また一言「分からない」とポツリと応えた。
「つか、あー、何だっけ。そうそう、元々あんたに提案があったんだって。私達今日マックで時間潰してからクラブのパーティーに行くんだけどさ。もし誘ったらさ、あんたも来てみようっていう気になったりはしない?」
「パーティー?」
「芽吹が弾けたらどんな風になるんだろうねって話しててさー。イメージできないもん。席が前後なのに殆ど関わったことないじゃん?うちら」
ガンダルヴァ。
突如芽吹の心に聞き覚えの無い言葉が浮かんだ。
「ガンダルヴァ?」
そう呟いた芽吹を唯と加奈子はさも意外そうに見た。
「そうそう、ガンダルヴァ。級長が知ってるのは何か少し意外。テクノとか聴くんだ?」
「Mana、デジャブについて教えて」
言い表せぬ不安に追い立てられた早足に廊下が揺れる。手の中の携帯端末のディスプレイに幾何学模様が広がった。魔方陣がぱたんと画面奥に倒れると、その魔法陣の中央に6枚の翼の生えた2頭身の天使のキャラクターの姿が浮かび上がった。
「芽吹、ネットでデジャブについて調べました。実際は一度も体験したことがない事柄に対して既にどこかで体験したことがあると感じる現象に対する名称です。脳神経学、心理学、スピリチュアリズム、超能力、また文学や映像作品の伏線としての利用等、様々なカテゴリからの考察があります。」
実際、体験。体験が実際である為の現実に今自分が確かにいると、どうすれば分かるのだろう。今こうして廊下を行く私がいるここが夢ではないと、そう無根拠に信じる以外に。そんなことを芽吹は思った。
「芽吹、屑嶋華子さんからメッセージが届いています」
Manaは手紙のアイコンを掌の上にふわふわと浮かせながら言った。
「ありがとう、メールを開封して」
「屑嶋華子さんからのメッセージを開封します」
Manaの姿はディスプレイから消え、友人からのメッセージが表示された。
[到着!昇降口の前のところに黒猫がいるよ!早くおいで(≧∇≦)]
屑島華子ははっきり言って孤立していた。いつもボサッとした硬い質の髪をお下げにして、顔に不釣り合いな大きさの眼鏡を掛けている。間延びした話し方で他の女子ともいまいち話が噛み合わない。アイロンをかけてもどことなくよれっとして見える制服のスカートは中途半端な丈で、とにかく醸し出ている空気がいつも何となくだらしない。しかし彼女が周囲に敬遠されるのは、別に理由があった。中学の時に蓋を開けた弁当箱の上に飛んでいる最中に死んだハシブトガラスが落ちてきたというエピソードに始まる噂話の数々だ。
・誰もいないところに向かって会話するように独り言を言っていることがある。
・周囲の生徒の携帯端末が同時に壊れる。
・触れてもいない硝子が割れる。
・親は過去に国内で某テロ事件を起こした宗教組織の幹部である。
・動物の虐待が趣味である。
・呪いに関する書籍を読み漁っている。
・深夜3時以降に動画サイトを見ていると画面の中に華子が現れ、神隠し現象の被害者の一人となってしまう。
その殆どは実際の話が何処かに飛んでしまうほど大きな尾ひれが付いたものであったり、或いは他者を貶めることに喜びを覚える少数の生徒によって広められた全く事実無根のエピソードだった。言い返すとか、やり返すとか、そういうことをやりそうに無いぼんやりとした華子の性格はストレスを抱えた生徒達の格好の的だった。
「なに見てんの」
「あー、雛乃ちゃん」
「ちょっと貸して」
「わー、返してぇー」
雛乃は華子から携帯端末を取り上げた。そして座席に座ったまま手をバタバタさせる華子の頭をもう片方の手で押さえつけ、ギリギリ届かない高さまで華子の携帯端末を降ろすと、それを上げ下げしながら表示されていたウェブサイトを見た。
「天使の・・、なんだよ、これ。夏美、屑島がまた変なもん見てるぜ。気持ち悪ぃ」
「なになに」
「あー、もう返してよう」
「ははは」
雛乃は携帯端末を手を差し出す夏美の方に放った。華子の携帯端末はくるりと宙を舞って夏美の指先に当たった後、床とぶつかる硬い音を教室の一角に響かせた。
「あー!」
華子は頭を押さえつける雛乃の腕を両手で持ち上げ、転げ落ちるように席から飛び出した。しかし必死の思い虚しく、華子が床に落ちた端末の元に辿り着く頃には、夏美によってそれは拾い上げられていた。
「って夏美、おめえちゃんと取れよ。今のわざとだろ絶対」
端末を落としてしまったことに若干動揺した様子で雛乃は言った。
「まさか」
祈るように両手を胸の上で握り重ねる華子を尻目に、夏美は端末のディスプレイの上の指を滑らせている。
「夏美ちゃん、割れたりしてないかなぁ、先週買って貰ったばかりなんだぁ」
「屑島、なあに?このサイト。よく分かんない。天使の数字?ってなに」
夏美は華子の問い掛けを無視してひび割れたディスプレイに表示されたスピリチュアル系サイトの主要そうなキーワードを拾って華子に言った。
「さっきね、たまたま時計見た時に11時11分だったのね。よく見かける数字や出来事はね、天使からのメッセージなの。っていうかね、夏美ちゃん、割れてないかな?画面割れてない?」
「あー、スリーセブンがラッキーみたいな?それで1111のメッセージっていう表題なわけね。因みに、願ったことが叶いやすくなる、だってさ」
夏美の口の端が歪む。雛乃が噴き出した。
「あはは、クズ子今日も頭湧いてんな。もうあたしらも今春から高等部になったんだからさ、いい加減何とかしなよ、そういうの」
華子は顔を赤くしてうつむき「クズ子は、やだなあ・・・」と呟いた。
夏美は「はい、落としてごめんね。願い事叶うと良いね」と言いながら携帯端末を華子に差し出した。
「クズ子って変わってるよな。何だろ、あたしらと感性が違うっつうか、マンガのキャラみたい。それってさ、キャラ作ってんの?本気なの?」
「雛乃知らないの?クズ島って本物の魔法使いなのよ」
夏美がセミロングの黒髪を指先でくるくる回しながら歪んだ笑みを浮かべて言った。
「何だよそれ」
「クズ島ん家さ、カフェやってるみたいなんだけど、お店の中そういう本がたくさんあるんだって」
「そういう本ってどういう本だよ」
「だから、その、ふふ、魔法の使い方が書かれたやつよ」
二人の会話に背中を向けて華子は震える手の上で大きく斜めにヒビが入った携帯端末を見つめていた。
「そうなのか。家族丸ごと病院突っ込んだ方が良いんじゃね?やばすぎ。っつうかそんな本が書店で売ってること自体がやばすぎる。何が書いてあんの、それ、ん?」
雛乃は肩を震わせる華子に気付いた。
「どうした?」
雛乃は正面にまわりこんで華子の視線の先を追った。携帯端末にヒビが入っている。
「何だ、やっぱ割れてたんだ。ごめんな、悪気無かったんだって」
しばらく沈黙が続いた、華子には雛乃の言ったことが理解できなかった。もし悪気が無い、ということであれば悪気があるとはどういうことだろう、ということを華子は思った。
「だって落ちるなんて思わないじゃん?夏美がちゃんと取ってくれると思ったからさ」
そして雛乃は華子に顔を寄せて小声で言った。
「悪いのは夏美だって」
悪気があったか、どちらが悪いか、そんなこと以上に華子の心は買ってもらったばかりの携帯端末にヒビが入ってしまったことの悲しさで直ぐにいっぱいになった。
「どうしよう、割れちゃった、割れちゃった」
うわ言のように繰り返す華子を雛乃と夏美は見つめていた。
「割れちゃった」
「ぐちぐちうるせえな」
「だってお母さんになんて・・・」
「あーっ!」
不意に雛乃が絶叫する。
「何凹んでるのをいつまでもアピッてんだよ!どうせ契約の時保険とか入ってんだろ?不注意で落としたって言えばショップでただで直して貰えるっつうの」
「それが無理ならさ、得意の魔法で直しなよ」
夏美がニヤリと笑って言った。
「ぷっ、あはは、うん、そうしなよ」
雛乃が笑うのと周辺で聞き耳を立てていた他のクラスメイトも噴き出した。
去年はこの二人と一緒のクラスだった為、ほぼ一年間はこんな調子だった。そんな彼女が心穏やかに過ごせたのは妄想に浸っている時位だった。華子は一度空想の世界に入ると邪魔さえ入らなければ時間が許す限りいつまでもそうしていられた。その性質のせいか、頭の中でいつの間にか物語が組み上がっていることがしょっちゅうあった。それはただの現実逃避と言われてしまうものにあたるのだが、ある意味でこの特技が切っ掛けで芽吹とは親しくなった。
芽吹とは同じクラスになったことは無いが、去年の1年の時から同じ演劇部だった。しかし特別親しい間柄になったのはここ半年のことだった。それまでどちらかというと華子は芽吹とのコミュニケーションを避けようとする節さえあった。それは彼女に対する強烈な羨望と、引け目のようなものを華子が感じていたからだった。
「うわあ、凄い・・・!」
その時、美の一つの完成形を感じさせる日本人らしい素朴な造形は、一本一本の指先にも抜かりなく表現されているように華子には思えた。そういう感情に出会う度に華子はいつの間にか時間が止まってしまっていたことを後になって知る。
舞台上で芽吹が物語を語れば、何でもない台詞すら詩のように深い響きを持った。そして反対に台詞の無い演技でさえ芽吹の持つ自然な間は、観る者全てを引き込んだ。
初めて芽吹の演技を見た後、それは未だ劇の途中だったが、華子は他の生徒に紛れて手を叩きながら半ば放心していた。そして「きっとあの人は産まれる世界を間違えたのだ」ということを思った。
一目でファンになってしまったのである。
何とか一歩でも近付きたい、その思いの強さは意識し過ぎるが故に、結果的に芽吹とのコミュニケーションを困難にさせた。
華子には元々思ったことを正確に言葉で表現するのは上手い方ではないという自覚があったが、芽吹を目の前にするとその弱点は余計に酷い形で表面化する。緊張で言葉に詰まったり、どもったり、語尾の声量が小さくなったりした。そして芽吹と話す度に「もう一度言ってくれる?」「それはどういう意味かな?」というようなことを言われた。
芽吹は分からないことには分からないと答えるタイプだったので、全く悪気は無いのだが、華子は芽吹にそういった形で発言を聞き返される度にショックを受けた。そして、帰宅後ベッドに潜り込み、失敗発言を回想しては自らに失望する、ということを繰り返すようになり、徐々に本当に必要な時以外は芽吹に話しかけないようになった。
しかしある日、二人の仲は大きく進展した。それは部活動終了後、演技に関する違和感について考えごとをしている華子に、芽吹の方から声をかけたことが切っ掛けだった。
華子は自分の演じている役柄にどうしても感情移入出来ないということを芽吹に相談した。物語の流れに対して不自然な台詞があり、演じている中で気持ちが寸断されてしまうというものだった。
そして自分が実際に演じる役の状況におかれたら、きっと台詞はこうであるに違い無い、ということを言った。芽吹の反応は「なるほど、確かにそうね」という肯定的なもので、同意を得られた華子の話には勢いがつき、別の話題にも広がった。
もっとこうした方が展開としては自分好みだということや、普段自分が考えている物語についての話にまで及んだ。芽吹は楽しそうに話す華子の話に「そう。そう」と頷きながら聞き入っていた。
「屑島さん、戯曲を書いてみたらどうかな」
「ええっ?私が?」
華子は照れ臭そうに鼻の頭を指先で掻いた。
「今の話、オリジナルなんでしょう?とても独特で面白い話だと思ったよ」
「何か恥ずかしいなぁ。ありがとう瑞樹さん。じゃあ、もし書いたら読んでもらって感想貰っても良い?」
「勿論、続きも気になるし。楽しみにしてる」
それを切っ掛けに華子は積極的に芽吹に話し掛けるようになり、週3日の演劇部の活動が無い日も、二人は一緒に登下校を共にするようになった。
華子は携帯端末のメモ機能アプリケーションで少しづつ物語を書き、ある程度溜まるとA4の紙にプリントアウトして学校に持ってきた。
華子は自分が想像し得る最も綺麗な結末をイメージした。その瞬間の場所、時刻、感情、言葉。物語の登場人物達は皆そこに辿り着きたがっている筈だ、という根拠の無い確信のようなものを得ると、そこに向かって世界を作りはじめた。しかし実際に書き始めてみると登場人物は時に華子の思うような展開とは全く異なる方向に走り出し、物語は進んだり戻ったり、或いは前提となる設定が付け足されたり、大きく修正されたり、無くなったりもした。
その度に華子は修正版を芽吹のもとへ持って来た為、芽吹は同じような話を3度も4度も読まされることとなった。しかしそれを嫌がるということも無く、その度に彼女なりの素朴な感想を伝えた。
そんなことが暫く続いて、いつの間にか物語を書いて芽吹に読んでもらうことは、華子の一番の楽しみとなった。
その日も部の活動が無い日だったが、キリの良いところ迄書き終えたものを芽吹に読んでもらうということになっていた。華子は昇降口の正面でしゃがみ込んで校内に迷い込んだ黒猫をジッと見つめながら芽吹を待っていた。猫は丸い目を一層まるくして、チラリとこちらを見た後、一つ大きなあくびをして、のそりと立ち上がった。華子は慌てて腰を浮かし、顔の横で両手をわきわきと動かした。
「ああ、ちょっと待って。めぶちゃんがすぐ来るから。クロ助、クロ吉、ポチ!」
黒猫は振り向くと「やだよ」と一言吐き捨てるように言い放った。
「喋った・・・?」
目をパチパチと瞬かす華子の顔をみて猫は「ふん、そんなに不思議なもんかね」と鼻で笑うと、下校する他の生徒の隙間をのしのしと校門の方へ歩いて行った。
「喋った」と華子が頭を掻いたその時、華子は突如その腕を後方からがしりと掴まれた。
「え?」と華子が振り向くと、そこには芽吹の姿があった。顔が紅潮している。
「あー、めぶちゃん!もうちょっと早かったらなあ、今、クロん坊が、猫が喋ったのよ!やだよって!」
「華ちゃん、ごめんねちょっと、こっちに入ろっか、危ないから」
「わー。どうしたの、何かあったの?」
芽吹はそのまま少し強引な位にひっぱって華子を昇降口の中へと引き入れた。華子は腕を掴んだまま細い背中で呼吸する芽吹をきょとんと見た。芽吹は息を切らしながら振り返り華子の向こう、昇降口の正面にあるグラウンドの方を見た。
「ん?野球?」
華子がグランドの野球部の練習を見て言った。
バッターボックスには華子のクラスメイトの丸山が立っている。
「そう、・・・ふう、野球なの」
呼吸を整えながら芽吹は練習風景を眺めた。そして華子の方を向いて「ふふ、何も無いね」と少し困ったような複雑な笑みを浮かべた。
「こんなこと言ったら正気を疑われるかも知れないけど、ボールが飛んできて華ちゃんが怪我するような予感がしたの。本当に何も根拠なんてなくて、自分でも不思議なくらいなんだけど、何とかしなきゃって」
「何それ、それで、私を助ける為に走ってきてくれたの?」
華子は芽吹に抱きつき「わー、感激ー!」と絶叫した。周囲の生徒がその声量にビクッと震えて二人の方を見た。華子が芽吹を抱き締めたまま乱暴に右へ左へ芽吹を振り回すものだから、芽吹は少し目が回った。
「ま、待って、ほら、華ちゃん。他の人が何事かと思ってしまうから、ね、少し、落ち着こう」
芽吹はそう言って自分にしがみつく華子の背中をぽんぽんと叩いた。
その時のことだった。芽吹は違和感を感じて周囲を見渡した。そして周囲に言い表せぬ微かな異臭のようなものが漂っていることに気付いた。
卵を腐らせたような臭い。そう、それは丁度昔理科の実験で嗅いだ硫化水素のような臭いだった。そんなことを思った瞬間、芽吹は正面の光景にギョッとした。
「きゃ!」
その様子をたまたま目にしていた周囲の生徒の一人から悲鳴と驚きが混じったような叫び声が漏れた。木製の下駄箱が不自然に大きくグラリと芽吹と華子の方へ傾いたのだ。
「危ない!!」
芽吹は反射的に華子の頭を両手に抱いて姿勢を低くした。
ガンという鈍い大きな音と共に周囲が暗くなった。
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