ⅶ∴空=mc∧2
ガンという鈍い大きな音と共に周囲が暗くなった。
それから暫くして、混乱の中、思わずぎゅっと閉じていた瞼を開いた。そこには上履きがばらばらと散らばるスノコの上に踏ん張り、斜めに傾いた下駄箱を一人で支える一人の男子生徒の姿があった。
「ぐぁーっ!割と重い、予定と違うぜ」
その様子を放心状態で眺めていた芽吹と華子に対し男子生徒は無理やり笑顔を作った。
「あのさ、マジで、重いんだけど。ちょ、無理だから、どいて。一回倒しちゃうから」
我を取り戻した芽吹は華子を抱きかかえたまま安全な距離を取った、そして何かを一瞬考えた後、華子を残して小走りで少年に歩み寄り、傾いた下駄箱を一緒に支えた。男子生徒は芽吹を見て「芽吹、そうか、よし」と頷くと「せーの!」という掛け声で一緒に押し返し、立て直した。
その場にペタンとへたり込んでいた華子は周囲にいた生徒達に紛れて「おー」と手を叩いた。男子生徒は額に
「ありがとう、潰れちゃうところだった。これ良かったらどうぞ」
男子生徒は産まれてから初めてハンカチを見たかのように目をぱちくりとさせた後「どうも、でも結構」と断った。
華子も立ち上がり「ありがとう」と礼を言った。
男子生徒は倒れかけた木製の下駄箱の方を見た。
「何でこんなものが勝手に傾くんだ?殆ど超常現象に見えたよ」
身長は174〜5cm位だろうか、少し長めの黒い前髪の隙間から色素の薄い虹彩の瞳が覗いている。
(また、デジャブ)
芽吹はこの男子学生をどこかで見たことがあると感じた。
「何か憑いてるんじゃない?」
男子学生はたいして深い意味の無い冗談を言う調子で言った。
「ごめんね、めぶちゃん、私かな」
憑くだとか、不吉だとかいう系統の言葉に敏感な華子がうつむいて芽吹の袖を掴んだ。
「どうして?何故華ちゃんが謝るの?」
「私そういうの引き寄せちゃうから」
芽吹は困った様に笑った。
「どんどん辛い方に自分から入って行っては駄目だよ」
二人が話している横で男子生徒は床に放り投げていた鞄を拾い上げ「じゃあ俺は行くんで」と言って埃を払った。そして何かに急かされているかのようにいそいそと昇降口から外に出た。芽吹はその背中にもう一度「ありがとう」と声をかけた。
華子が芽吹の顔を覗き込んだ。
「めぶちゃん、今の人ってめぶちゃんのクラスメイト?」
「どうして?」
「え、何でだろう。分かんない。さっき一瞬そうかなって思ったんだけどなあ」
芽吹はぼんやりと宙を眺めた。
「知らない人。でも、どこかで」
芽吹はふと周囲から異臭が消えていることに気づいた。周囲を見回す芽吹の視界に、生徒の間を縫ってその場から廊下の奥へ消える黒いモヤの様な人影が見えた気がした。
学校の裏にある高天ヶ原高台へと続く石垣。その壁面にジグザグと這うようにしてある階段を二人が登り終えると目の前が大きく開けた。
芝生の上を石畳みの道が真っ直ぐあずま屋まで伸びている。華子がそこを走っていくと、足元を照らす様に道沿いに設置された電灯が順々に灯った。
「うわー、真っ赤な夕焼け、綺麗」
華子は子供のようにたったか走っていく。芽吹は華子の向かうあずま屋に、昇降口で会った少年の気配を感じた気がした。目をこらすと、その気配はこちらに気付き振り向いた。そしてその幻は揺れた草木の陰影の中に霞んでいった。
「めぶちゃーん」
華子があずま屋の椅子に腰掛けて手を振っている。
低い唸り声をあげて巨大な白いプロペラがゆっくり回っている。
二人は並んで椅子に腰掛けて真っ赤に染まる街を眺めた。
ゆうやけは、とんぼをうちに、ひめにけり。
「俳句?」
華子の言葉に芽吹は心に浮かんだ言葉を呟いていた自分に気付いた。
「中等部の時に芭蕉の何周忌かの記念で授業で俳句を書いたことなかった?夕焼けの内側に影だけになった蜻蛉が漂っている。逆光で分からないけど、多分あのトンボは赤トンボだろうって」
「綺麗。めぶちゃんの作ったやつだよね。とても綺麗で良い感じだ、それ使いたいな」
初め芽吹は使いたいという華子の言葉の意味が分からなかったが、華子の瞳の輝きを見て、それは彼女が執筆している戯曲の台詞として、という意味だろうと何となく思った。
そして、それは物語の主要な登場人物である“少女A”に関わる物として使われるのだろう、と。
何故ならそれまで華子が芽吹に読ませた戯曲に登場する“少女A”の人物像はまるっきり芽吹そのものだったからである。
演劇部員の女子高校生、後ろで結わえた黒髪、どこかで自分が言った覚えのある言葉の数々、芽吹がモデルでは無いという方が無理があった。
「うん、構わないけど、一つ前から気になってたことがあるの。聞いていい?」
「やったあ!で、何かな?聞きたいことって」
「やっぱり、この“少女A”って私がモデルなのかな?」
「ふふ、流石めぶちゃん、よくぞ見破った!」と華子は両手をパチパチと叩いて喜んでいる。
「じゃあ、この・・、天使だったかな?人間のフリをしている、演劇部顧問の“先生B”は、土方先生?」
「そう。へきるんだよ」
へきるんは音楽の教師で、弦楽部と演劇部の顧問も兼任していた。
「先生は何者なんですか?」
「私はね。実は金星から来たのだよ」
「先生、金星はガスの塊です。温度は500度あるって聞いたことあります」
「おや、君は良く知っているな。如何にも、その通りだ。だから、こんな星に生き物が存在する筈は無いさ。地表の温度が10分の1以下しかないのだからな」
先生は身長がとても高い。肌が白く、鼻が高い。髪の色素も薄く、本人が幾らそう言っても純日本人というのは少し無理がある気がする。(「日本人では駄目、金星人でも駄目、私がなに人であれば納得するというのか」)
教室内が騒がしい時などは生徒に対し「諸君ら、静粛にし給え」という言葉遣いをする。普段もその調子である。
先生は大学で西洋哲学を学び、その後何故か教員の資格を取った。チェロの達人でもある。
しかし一番の謎なのは、先生の性別だ。
自己紹介の時に自分の性別を言う人が殆どいないのは、ある程度の年齢を重ねれば普通一見してその性別は判断出来る為だ。
しかし先生の場合、中性的な顔立ちの男性と言えばそう見えるし、身長が高くスマートな身体の線をもった女性なのだと言われれば、そうも見える。
おまけに名前も
だから誰もが最初は性別を気にする。しかし一緒にいるとそんなことはいつの間にか忘れ去られてしまって、気付けばただ気持ち良く授業を受けている。
《『屋上の天使達』
「やあ、また会ったね。同じ一つの屋上にしても僕がいるココに君が辿り着いたのはちょっとした奇跡なんだ。まあ少しゆっくりしていってよ」
放課後の晴れ渡った秋の空の下、屋上から手摺にもたれ掛かり校庭を見下ろす人影があった。この存在はこの学校の関係者に紛れてはいたが、その実在は世界を回す車輪の中心にあり、実現される前の想いの世界で響き渡っている音楽の影が、この校舎の屋上に人の形として映っているような、そんな存在だった。
「私達は大体こうして学校の屋上に居る。というか全ての場所や時間に同時に居る。雨の日も雪の日も、台風の時もね。私達はいつもここから観える色々な縁の結びつきに影響を受けて歌をうたって過ごしている」
歌っていうのはこんな具合さ。
雨が降れば、ぽつぽつと“雨、雨、雨。”
雪が降れば、しんしんと“雪•••。”
台風の時は、ごうごうと“嵐ーっ!!”
こういう風に世界を観察しながら過ごしていると、自然はいつも気持ちと歌声が一致しているということが分かってくる。
その歌声は時に風として流れたり、光として赤ん坊の顔を照らした時の笑顔だったり、死だったりもする。
「そして今日はこうして君だったり、私だったりして、自らの響きに耳を澄ませる」
すると、ほら、校舎から薄っすら歌声が聞こえてくる。》
音楽室にはベートーヴェンの歓喜の歌が響いていた。
瞳を閉じ、合唱の全体の旋律を感じながら碧流はピアノの伴奏を弾いていたが、その表情が少し陰り、演奏をストップした。
「現在、世界で最もポピュラーと言える音階はドからシ迄の平均律の12音階だ」
何事かと戸惑う生徒達に、碧流は椅子からゆっくり立ち上がると合唱の列を作った生徒達の前を徘徊し、少し話をするから、何となく聞き流しながら少し休んでくれ給え、と言って話を続けた。
「ピアノの鍵盤を見ると分かるように、この集まりが向かって右の高い方にも、左の低い方にもずっと連なって同じ組み合わせで並んでいる。こうして全てのピアノの鍵盤は途中で切れてはいるが、音の存在を意識した時から無限の音階が存在することになる。そこには始まりも終わりも無く、同じ構造が上の如く下にも、下の如く上にも無限に続いている。それ自体がまるで一つの宇宙のように」
碧流はグランドピアノの鍵盤に中指を這わせた。その感触が弦に届き、響板内で豊かに増幅され、音は音楽室内に真っ直ぐ響き渡った。
「単音はシンプルで美しい。ただ単調だ。美しい幸福も、ずっと聞いていたら飽きてしまうだろう」
碧流の中指は、そこから5度上、3度上、と鍵盤を押した。
「ここと、あそこと、その間。別の音と、その距離、関係性が存在して初めてその性質に表情の加わったハーモニーやメロディが起きる。音楽から離れると物理の世界でも起こっていることは同じだ。物質も、空間も、光も、重力も、時間も、材料は同じ一つのエネルギーで、それらの個性はその関係性を人間という視点から見た時にそう見える、というだけのことだ。他人が居て、その個性の違いから自分を知るように、緊張が無ければ、緊張からの解放は存在できない。相対的には幸福は不幸が無ければ存在し得ない影だ、とも言える訳だ。音楽ではこれをテンション、つまり緊張と、そこからの解放、テンションリゾルブ、と言う」
何故音楽の話と物理や、幸福の話が繋がってしまうのか、不思議だ、生徒の一人がそう思った。
「それは、音楽も、物理も、人間も、草木や鉱物も、全ては大きな一本の樹の枝だからさ。純粋性を極めれば同じ幹に行き着く。一芸に秀でる者は多芸に通ず、が意味するものはつまりこういうことさ」
心の中を読んだかのような碧流の話しぶりにその生徒はギョッとした。
「ここで私がしているのは音楽の授業だが、本当に重要なのは、音階でも、和音でも、メロディでもない。それらは表面的な出来事です。音楽だけでなく、絵画も、文章も、数式も人生も複雑な枝の一本に過ぎない。
授業を通して私が伝えたいのはシンプルな愛を感じる力だよ。音楽はそれが目に見えないが故に、とてもそこにアクセスし易いルートの一つと言えるだろう」
碧流は再びグランドピアノの椅子に腰掛け、そして両手で抜けの良いメジャーコードを短く叩いた。
「さあ、それぞれの個性が寄り集まったハーモニーを感じながら感情を解放しよう。音楽という枝から作曲者の心へ、その心が生まれる生命の樹への思いを寄せて。もう一度最初から」
その時、音楽室の出入口の引き戸がガラガラと開いた。
「遅れましたあ!病いん、でー・・??」
一斉に音の方へ振り向いた人影は窓から注ぐ白い光の中に溶けるように消えていった。
そして、音楽室には、光が床に落ちる静かな音と、引き戸を開けた女生徒の後方、廊下の奥から小さく響いてくる他の授業の音がひんやりとして鳴っていた。
「あれえ?誰もいない??」
間違えた?今何限目だろう?
額にガーゼを貼った華子は溜息で曇った顔を引っ込めると、音楽室の引戸を閉めた。
誰もいなくなった音楽室の空気に取り残された静けさは、しばらくその余韻を眺めていた。
日差しが白く床に落ち、境界はオレンジ色にぼやけている。
《『コンテンポラリー•アート』
◾︎4分33秒
五線譜を用いず、様々な色の図形等で書かれた図形譜というものがある。それらには特定の様式等は無く、演奏者が譜面を解釈する際の精神状態が、実際に奏でられる音を大きく左右する。つまり、図形譜は、その図形や絵を通して立ち現れる不確実な自分という混沌を表現せよ、という要請なのである。
ジョン•ケージは、コロンビア大学で鈴木大拙に禅を学び、「不確定性の音楽」の思想を推し進めた表現の作品を多く遺した。そしてそれは「偶然性の音楽」に辿り着く。
1952年に作成したこの「4分33秒」と呼ばれている曲の楽譜には3楽章全編を通して休止することを示すtacetが指示されている。
つまり一切楽器による演奏は行われることが無く、4分33秒(273秒)の間、演奏会場に聞こえてくる周囲のさまざまな雑音が空のキャンパスに描き出されるのである。
彼は音を型にはめる形で成立してきた西洋音楽の身体を滅ぼし、音を音として解放した。魂を譜面から、出来事が影響し合う世界に拡大させたのだ。
それは音楽を破壊することで表現される、“世界”の音楽的表現の一つの究極を指し示す指であり、指し示されていた「今」、「この瞬間」に、演奏者も作曲者も不在のまま生起するハーモニーは、正に止むことのない感動の世界を描き出している。》
「土方先生も登場人物のモデルになってたのね」
芽吹はうんうんと頷いた。
「へきるんなら主人公の“少年A”の相談にも乗ってくれそうでしょ?」
「“少年A”・・・」と芽吹は呟いた。
華子の書いている戯曲は日常的な世界観にファンタジーの要素を加えたものだった。現在までに書かれている分は、人々が次々に「光の国」と呼ばれる異次元世界へ去って行ってしまう、という現象を主軸に展開していた。その世界観で主人公的な位置付けの“少年A”は学校内から「光の国」へと姿を消した“少女A”を探し出す為に奮闘する。物語上二人は恋人の様な関係として書かれ、そのことが芽吹には少し気になっていた。
“少女A”を芽吹とした時に、それに対応する“少年A”の存在が誰のことを言っているのか芽吹には分からなかった。言い寄られたということはあったものの、芽吹は実際には未だ誰とも付き合ったことは無かった。
「“少年A”は、誰がモデルなの」
華子が鞄の中からクリアファイルを出し終えるのを待って芽吹は尋ねた。華子はクリアファイルを一旦膝の上に置くと目をキラキラさせ「それなんだけどね」とステレオタイプな噂好き中年主婦がするように掌を胸の前でぱたと倒した。
「“少年A”と“魔女”に関しては降りてきたの」
「降りてきた?」
「よく芸術家とかが言うやつよ。自分じゃない何かに動かされてるみたいな感じ。こういうの言ってみたかったんだあ、ふっふっふ」
「あはは、何かに没頭している時っていつの間にか時間が経過しているよね。私も経験あるなあ。しっかり役に入り込めた時はいつの間にか劇が終わっていて、心地良さだけが余韻として胸にあるの」
「反対に緊張して頭が働くと普通に喋ることができなくなっちゃうし、何か考えるって不安な時ばっかり。楽しいことばっかりだったらあっという間に宇宙終わっちゃいそう。っていうことは死ぬのは楽しいことなのかも??」
「う、ううーん?分からない」
「あ、そうそう、タイトルが決まったの」
そう言いながら華子は膝の上のクリアファイルを両手で胸の前にかざした。
クリアファイルにはシールが貼られ、そこには『アメジストタブレット』と書いてある。
「アメジスト・・・、タブレット」
「そう、アメジストタブレット」
芽吹の頭の奥底で沸き立つぼんやりした温かい光のような記憶が蘇った。
ハッキリとは見えないけれど、それはとても切ない「さようなら」に似た気持ちだった。
芽吹はその胸いっぱいの切なさを吹き飛ばさないようにそっと瞼を開けた。
吹き返す車のエンジン音に気付いた碧信号、自転車の鈴、子供のはしゃぎ声、誰かが呟くように小さく歌う声が芽吹には聞こえた。一つ一つの音が小さな泡の様に現れては消えていく。それらのさざ波のような木目細やかなざわめきが、遠くの団地の群れを真っ赤に染め上げながら高台との間に穏やかに揺り返している。
この感じを知っている。
何と言えば、何と言えば。
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