ⅴ∴YES×マザー×テレサテン=近親創刊号

床に転がった僕から伸びる手が、胴体と魂との繋がりを失った細長い女の指の隙間を握りしめている。


「こっちへおいで」


女の声には不協和音の地獄のように心を掻き乱す官能の匂いがあった。

そして意識にも昇らぬ程、当然自分にもあると信じていた僕の人間性は圧倒的な背徳によってその日完全に否定された。

ザワザワと僕の胸の内を巡る血液に沈んでいた獣は、そのむせ返るような女の臭いに目を覚ました。

獣の眼に宿っていた食欲に対する乾いた衝動の鈍い光は、僕の目に覆され得ぬ死刑宣告のように映り、次の瞬間に獣はエロスに窒息した理性に飛びかかり、僕は床に叩き付けられていた。

獣の歯は容赦無く僕の肉に食い込んだ。


その様子を離れた場所から眺めていた声の主は、身体から淡い光をにじませる女神だった。女神は僕がこの世に産まれる前から愛と絶望の全てを掌で転がして遊ぶ僕の“運命”そのものだった。

僕の理性は、僕の本能である獣をじたばたと殴り、蹴り、弾き飛ばそうとしたが、その圧倒的な野生は攻撃を加える度に怒りのよろこびに燃え上がってしまうようだった。

「やめろォおーッ!!」と、言葉による拒絶をしても、獣の顎の力は人間が培ってきた言葉をあっさり否定するように無慈悲に増していくばかりで、僕の皮膚は引きちぎられ、肋骨が露出し、闇の中で赤黒く内臓がぬめり光り、湯立った。

見たことが無い量の血液と、聞いたことが無い種の自分の声が命から吹き出し、その阿鼻叫喚あびきょうかんの中、僕の神経を死の恐怖が貫いた。

女神は僕に視線を落とし、その唇は妖艶に動いて“愛している”、とも聞こえる扇情的な声を静かに響かせた。


「死になさい」


理性の抵抗は薄気味悪く咽び泣き出し「いやです。お願いですから。何でもします、お願いですから助けて下さい」と懇願しだした。

涙と脂汗、鼻水に涎を垂れ流しながら、何故か僕の顔は笑っているような形をしていた。

噛み千切られ、皮一枚で上半身と繋がっている僕の下半身で怒張する性器からビクビクと精液が溢れ出続けている。

獣の暴虐と測りにかけても余りある醜さは、子供が見ても嘲り失笑したに違いない。

真っ黒な血の中にむせ返るような女の臭いに溶けた龍涎香りゅうぜんこうが血と精液が飛び散った床を裸足で踏みしめ僕に近寄り、艶かしく腰を下ろした。

女神によって後ろからゆっくり丁寧に起こされた僕は、下半身を辛うじて繋げていた皮膚と僅かな筋繊維がミリミリと小さな音を立てて千切れた音を聞いた。上半身だけが、内臓と血液を床に引きずり漏らしながら、抱き寄せられ、首筋にその接吻を受けた。

女神は愛している、とも聞こえる甘い声で再び呟いた。


「 死 に な さ い 」


目の前には暗く錆びた背徳の部屋の中で獣が千切れた僕の上半身から内臓をずるずると引きずり出す光景と血溜まりが広がっている。


「いやだあぁァあーッ!!」


背中から回された手は、しっかりと僕の体を抱き胸の辺りを指先で撫でている。

優しく微笑んでいる化け物のふくよかな乳房の柔らかさと暖かさが背中に押し付けられている。

僕の希望は全て搾り出され尽きた。この女には人間のような不完全な情は一切無い。為すべきことを為すだけなのだ。

僕は目を閉じ、かみさま、かみさま、と漏らしながら手を合わせた。

死ぬのであれば、せめて•••、せめて•••!

「早く、この僕の息の根を止めて下さい。恐いのはもう嫌です」

僕は咽び泣き懇願した。


「目を開けなさい。死の絶望を余すことなくその魂に刻み込み、二度と産まれぬように」


僕自身が顔を背けたくなるような薄気味悪さで僕の中の何かが慟哭する。それは存在性にしがみつく、僕自身という悪魔だった。それと同時に、彼の真実は神の元に帰ることを望んでいた。

僕の口が何かを呟く度に「死になさい」と女神は何度でも僕の存在性の全てを完全否定した。血の滴が穏やかな微笑みに浮いている。彼女は僕を一層深く抱き、その温もりは僕の沈黙を溢れ出させた。


『嗚呼、僕はただ世界に愛されたかった。』


その瞬間、僕の魂は“意志”の言葉の意味を悟り、両目を開けた。

獣は「女」になっていた。

その女に引っ張られ引きちぎられた内臓と、天使達の詩のように穏やかな笑い声が天井や壁にぶちまけられ、飛び散っていく様はどんどん加速していった。

僕は顔の前で祈り合わせた両手を額と鼻に押し付け、その恐怖をしっかりと目を逸らさずに見据えた。

想像し得る全ての存在性の叫びが、魂の歓喜の歌が世界の中心から木霊し始めた。


愛してる。


“何処までも伸びている呪文を読誦する天使たちの螺旋の葬列が私には見える。”


おかあさんのこと、すき?


ひたすら神は絶叫し続けて、世界は絶叫と愛のぬくい暖かさだけになり、光が増していき。


嗚呼、彼女は僕だったのだ。

何も無くなった。


あるもなし。

なにもなしもなし。


願いとは、僕自身の願いその物だった。


その日、僕は誘惑されるがままに実の母親を貪り犯し、結果的に殺し、そしてその肉を喰った。

床に転がった僕から伸びる手が、包丁により胴体と魂との繋がりを失った細長い女の指の隙間を握りしめている。

薬指には指輪の跡が未だに残っていた。


まな板の上の切断された乳房は、窓から注いだ満月の光に冷たく照らされている。


僕は嗚咽し、傍らに懺悔の舌根をやとい、雑巾で床を拭き、雑巾で床を拭き、雑巾で床を拭く。


《『幽玄妙香 〜神々の霊薬』

マッコウ鯨の食事はその95%がイカであり、捕鯨された胃の中から世界最大の無脊椎動物である大王イカが見つかることも度々あった。

マッコウ鯨の胃に蓄積するそれらの消化されず結石の付着したイカの嘴は、胆汁や胃液などで包みこまれ、体外へ排出される。

その琥珀色の塊が海水と日光にさらされ、海岸に流れ着いたものが芳醇な官能の芳香を放つ香料、アンバーグリス(龍涎香)である。

現在は捕鯨が禁止されている為、偶然拾うなどして人間が見つけることでしか入手ができなくなっており、合成香料が使用されている。

アンバーグリスは中国で龍の涎と呼ばれ、清朝の宦官は、ポルトガル人に頼みアンバーグリスと交換にマカオを失ったとされるほど珍重された神の霊薬である。》

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