ⅱ∴虚構への目醒め

《『インディヴィジュアル・ソウルズ』

 近代西洋魔術の理論的根拠にされたカバラ。

 カバラとは言葉の上では「受け取る」という意味であり、カバラの科学とは私達の全欲求における正しい受け取り方の方法論です。

「世界」と「あなた自身」、カバラの知恵を学ぶ時、あなたはこの二つのことを学びます。

 その理由はそれ以外のものは無いからです。球体、即ち宇宙がありその中心がある。これらがどんな法則に従って働いているのか、何がそれらを動機付けるのかを学び始めるのです。進化は何処に向かっているのか、進化の道程の何処に自分がいるのか、それらが人生でどのように実行されているのか、それに科学も関連させます。物理学、化学、生物学、それらを全て結びつけます。そしてカバラの知恵で説明することが真実であることが分かります。

 カバラは法則だけを説明します、特定の事象や学問のジャンルを包摂する一般的法則です。物質の背後で働いている力を説明します。この力に従って物質は反応し、集まったりバラバラになったりします。

 物質が静物、植物、動物、人間、精神的なものでも、カバラは全て「与える力」「受け取る力」で説明します。そしてそれらが各ステージでどのように振る舞うのか。どのようにそれらがつながり、全ての現実において様々な形態を成すのか。

 カバラは全世界を説明します。そしてより詳しく実際の力を説明するのです。この力は球体の外側に存在する力です。それがこの球体を支配し、この世の指揮を執っています。

 カバラがこれらのことをあなたに説明する理由は、あなたがこれらの力と繋がり、あなたが行動して全世界の指揮を執り始めることを望んでいるからです。》



 スピーカーから小さく流れるバッハのゴルトベルク変奏曲が私の心に届く頃には、その音は反射し、広がり、混じり合い、眠りから目覚めた直後のまどろみの様な甘い響きとなって、吹き抜けのホールの天窓から注ぐ日差しに溶けていた。

 チェンバロの旋律に照らされイメージの中に浮かび上がった本の壁は、大きな星型のステンドグラスが張られた天井迄伸びている。


 私は、空いた時間があれば、家から歩いて数分のこの図書館に本をよく読みに来ていた。

 地域でも有数の蔵書量を誇る籠目かごめ市の図書館の造りは天井が高く、その壁は、殆どが埋め込み式の本棚になっている。

 吹き抜けのホールにも本はぎっしり詰まっていた。何かの嫌がらせのような高さにしまわれている本に関しては、何かの嫌がらせのような長さのキャリーが付いている金属製の梯子を横にスライドして使わねば背表紙すら確認することが難しい。梯子の高い位置からホールを見回すと、建物自体が本で作られているかのような錯覚を覚える。


 床と天井以外どこまでも本の壁が続いていた。私が目当ての本を見つけた時、ホールには私の他に図書館の利用者は誰もおらず、コンクリートの白い床一面に天窓から注いだ日光が柔らかく沈んでいた。


 私はこの図書館の他の利用者を一日の内で片手で数えられるばかりしか見たことが無い。元々訪れる人は少なかったが、書籍のデジタル化が進み、利用者は一層少なくなっていた。その巨大な空間に自分の足音が冷たく響くのを感じながら歩いていると、私は世界に居るのは自分一人だけなのでは無いか、という物悲しさのような安心感のような、何とも言えない懐かしい感覚を覚えた。


(いいにおいがする)


 その懐かしさが何であるのかは思い出せないのだが、私の心の奥深くには同じ印象を受ける何かが眠っていて、ここに来ると、それが曖昧なメロディに合わせて小さく歌うのだ。


 私は長い長い梯子を下り、ホールのステンレス製のテーブルの前に等間隔で置かれたパイプ椅子の隅の席に腰掛け、やっとの思いで引っ張り出した本、『アメジストタブレット』を読みはじめた。


 物語は、女学生の主人公「芽吹めぶき」が謎の連続失踪現象、「神隠し」に巻き込まれるというもの。


 本の世界は、私の周辺を包んでいた空気と混ざりあっていき、やがて私はどこまでが図書館のホールで、どこまでが本の中に出てくる演劇部の部室なのかが分からなくなり、分からない、ということすら分からなくなっていった。



 ある日、芽吹は、突然人が変わってしまったかのようになった友人から警告のようなものを受ける。


「芽吹、これから君は死を体験する。そしてその時、本当の自分の名前を思い出すだろう」


 それが「神隠し」と騒がれている連続失踪事件に自分が関わることになる、ということの予言であることなど知る由も無く、私はいつもと様子の違う華子にただ困惑した。


「突然何を言いだすの?どうしたの?華ちゃん」


「お前はたった今、世界に見られている」


 感情が消え去ってしまったかのような友人の華子はそう呟く。部員達はそれを口を開けて眺めている。

 次の瞬間、友人は気を失って部室の舞台の中央で倒れてしまった。その時である。


 ——カツン。


 廊下の奥から足音が響く。


 私は本の世界の中に入ってくる別の何かの存在に気付いた。


 図書館のホールの奥から誰かが歩いて来る。足音の響きに、教室から図書館の世界に引き戻されると、私は『アメジストタブレット』の文面を呟いている自分自身に気付き、思わず口をつぐんだ。

 その呟きは身体の余韻に聞くところによると音読という程度にまで達してはいない小さなものだった筈だが、声の大きさとは別に、何かに没頭している状態の自分というのは完全に無防備で、身体の制御が自分を離れてしまっているような気持ちがする。


 私は小さく息を吐き、気を取り直して文書を目で追っていく、やがてこの本を読んでいた私はふと違和感に気付いた。

 ほんの少し前まで周囲を包んでいた現実感は霧散し、本を読む私という人生を「神」が眺めているような感覚に陥った。


 私は特別宗教的な人では無かった。それは特別無神論者ということでも無いのだけれど、私の直感によるところ、本を読む私を見つめる何かを名付けるなら、それには「神」という言葉が当てはまる、そういう感覚が自然と内から湧き出したのだった。

 この感覚は何だろう。意識がぼんやりして身体から分離しているかのような懐かしい違和感だった。


 ——カツン。


 芽吹にはその足音から、心だとか、本来人が持っている生命の躍動のようなものが感じられない様に思えた。


 芽吹は目だけでちらりと見た。足音の主は斜め向かいの席に腰掛けた。黒い長めの前髪で表情はよく分からない。灰色の薄手のパーカーに黒いジャケット、細身の黒のジーンズを履いた少年だった。どこかで見た覚えがある雰囲気だと芽吹は思った。


 年齢も同じ位、同じ学校の生徒だろうか。


 再び視線を手元の本の文書に落とす。私の網膜に少し遅れて少年が長テーブルの上に置いた本のタイトルが蘇った。


(『虐徒ぎゃくとの法悦』…?)



《『虐徒の法悦』

 古今東西、拷問と処刑の為に専用にデザインされた器具には、対象の人物をより一層苦しめ、またその後に死に至らしめるというプロセスを愉しむという目的の為に創造性が発揮されているものが多く見られる。

 ただ殺すという目的を達成するのであれば、もっと簡単な方法は幾らでもあるが、器具には装飾が施され、拷問を受ける人間との相関関係によってある方向性が示される。

 そこには苦痛の阿鼻叫喚や死を、ある種の芸術的な世界観に押し上げようとする設計者の意図である。


 古代のギリシャにファラリスの雄牛という真鍮製の処刑器具がある。

 外観は雄牛で中は空洞になっており、側面の扉から中に人間を入れることができるようになっている。

 下から火で炙ると、中で悶え苦しむ声が雄牛の鳴き声のように聞こえる、という設計者であり芸術家のペリロスの作品である。


 これは舞台であり楽器である。中で蒸し焼きにされる人間がその魂に当たる。

 火をくべられ、燃やされることによって産まれる魂の慟哭は、その演奏の度にその命が産まれ落ちる際のオーガズムを再現する。

 因みに実験として焼かれた最初の犠牲者は製作者であるペリロス自身であった。》



 そこまで読むと少年は本にしおりを挟んで閉じ、日が暮れていることに気が付き部屋の電気を点けた。


 灯った明かりに、本棚と、無個性な木製の机と水槽、椅子、ベッドが照らされた。

 少しだけ開いた窓の隙間から子供が家に帰る際のやりとりが聞こえてくる。


「また明日ね」

「また明日」


 毎日繰り返される同じ言葉。

 少年は机に突っ伏して夕日がゆっくり消えていくのをイメージした。

「またあした。あした。あした」と小さく呟いた。


 少年は立ち上がり部屋を出た。引き戸がバタンと閉まると、部屋には水槽のエアーのブクブクという音が取り残された。

 死んだディスカスはブラックライトに照らされ揺らめいている。

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