ⅲ∴呪われた菩薩達

 ——聞いた?


 何をだい。


 神隠し。この学校の生徒にも行方不明者がいたらしいわ。


 いた、


 それがね、誰がいなくなったのか、誰も思い出せないんだって。


 それじゃあ最初から居ないのと同じじゃないか。そんな人間がいなくなったとどうして分かる。



 ——果たして、この世界は君の家から学校の間以外の経験は存在しないということだろうか。反対に認識すらできない何かが存在するのであれば、どれほどの膨大な可能性がこの世に詰まっていることだろう。



《『籠女』

 かごめかごめ かごのなかのとりは いついつでやる。よあけのばんに つるとかめがすべった、うしろのしょうめんだあれ》



 チャイムが鳴り、教室の窓が開け放たれると、透けたカーテンが日差しに揺らめき、乱反射した白い光の軌跡が天井に映り込む。


 授業の緊迫感は一気にほどけ、教室内は生徒達の雑談にさざめき立つ。その弛緩した空気の中、ひと仕事終えた教師は、職員室に戻ろうと、授業で使用した資料を教卓の上で重ねて揃えていたところ、眼鏡のレンズの隅にこちらに向けられている視線が映り込んでいることに気付いた。

 その元を辿ると、長い黒髪を後ろでまとめた女生徒が立っていた。


「どうした、何か用か瑞樹」


 真っ直ぐ教師を見据えたまま芽吹は口角を少しだけ上げると「黒沢くろさわ先生、くうって何ですか?」と尋ねた。


 黒沢は突然放り出された意識が遠退くような浮遊感から、はて、と目覚め、開いていた口と表情を締めて、咳払いをした。


「瑞樹、勉強熱心なのは大変結構だが、それは俺の専門じゃない」


 芽吹の視線と肩がほんの少し落ちたのを感じ取って、黒沢は続けた。


「安心しろ、確かに今日の授業のメインは仏教のことに関してだったが、空とは何か?なんて途方もない問題はテストに出さない。他のことにも言えるが、釈迦や仏教のことも世界史の教科書に載っている以上のものは出さない」


 落ち着いた態度で話に聞き入る芽吹の瞳には、産まれ持った純粋な知性の宿りを感じさせる透明感があった。

 しゅっと伸びたしなやかな線の肢体は少女らしい均等が取れていて、腹部の辺りで左手は右手の上に添えられ、その全てが真っ直ぐ通る声にも実に良く調和していた。


「テストに関してはしっかり対策しているので問題無いと思います。ただ個人的に興味があって」


「言うねえ。足元すくわれるなよ?」


 そうは言ったものの、芽吹の成績は実際教科問わず学年で常にトップクラスだった為、彼女の言葉は何にもぶつからず綺麗に黒沢の中に落ちた。

 黒沢は自分の発した言葉に茶化しているかの様な響きがあったかも知れないと、自分を少し恥じた位だった。


「最近読んでる本の重要なキーワードの一つとして、今日先生が授業の中でちらりと仰った空があるんですが、その概念がよく分からないんです」


 一体この少女は何の本を読んでいるのだ、と黒沢は頭を掻きながら彼なりの回答らしきものに当たるであろうことを話しだした。


「0や∞無限大か?」


「はい」


「しかし、君も俺もそれを。言葉を知っているだけだ。何故なら瑞樹が瑞樹である限りは0でも∞でもないからだ。だから空を識るには言葉でなくそれを体験するしかない」


「…体験」


 芽吹は重要だと感じたキーワードを繰り返した。体験、その言葉だけを抜き出して考えると、まるで何のことか分からなくなってしまう。

 そもそも今ここで交わされている空の会話を、果たして自分は体験していると言えるのだろうか、そういうことを考えさせられる内容の話だ、と芽吹は思った。


「つまり、こうなる。瑞樹は空をしっているか、イエスであり、ノーだ。何故なら空とはただの言葉だからだ」


 教室には昨日のプロサッカーリーグの試合の采配について興奮気味に議論する男子達、机に腰を引っ掛けて帰りに寄る予定のファストフード店の期間限定商品を今日食べるべきかを話し合う女子達など、まだ大勢の生徒が残っていたが、窓の外の昇降口の辺りからも生徒達が談笑する声が聞こえ始め、芽吹は頭の中のもやもやしたものが全く実を結ぶ気配は無く、そのことで黒沢や友人を待たせてしまっていることに気付き、取り急ぎ感じていることを言葉にした。


「何というか、納得するまでには時間がかかりそうな気がします」


 黒沢はそうだろうそうだろうと頷くと、あけらかんとして俺もさっぱりだ、と笑った。


「でも、よくご存知ですね」


「はは、俺の言うようなことは一般教養だよ」


「一般教養……、ですか」


「そうだ、じゃあな」


 黒沢は廊下の方へ小走りで向かい、教室と廊下を隔てる引戸のところで、そうだ、と何かを思い出し振り返った。


「皆聞け、最近妙な事件があるみたいだから、帰る時は気を付けるように、いいな?」


 教室奥、窓際にある芽吹の席がある辺りから女子の声が「はぁい、先生を見たらロリコンのヤバいおにいさんが居たって通報しまぁす」とケラケラ笑った。

 黒沢は咳払いをして眼鏡を中指でグイッと直すと廊下の奥へ消えて行った。


 自分の席に戻ると、後方で何かこそこそ会話が始まったのが芽吹には分かった。

 何となく自分の話をされているような気がした。具体的な言葉は分からなかったが、何かを嘲るような少し淀んだ印象の気配が彼女の意識に上らない程度のところに漂っていた。

 芽吹は席に座ると携帯端末で友人の華子に[ごめんね、華ちゃん。少し遅れちゃった。すぐ行くから昇降口の前辺りで待ってて]と電子メッセージを送った。そして机の上で手提げの学生鞄の口を開け、机の中の教科書やノートを取り出した。


「黒沢センセとなあに話してたの?」

「ひゃっ!」


 急に耳元で声がして、思わず飲んだ息が胸に詰まり痛みを感じた。

 振り向くと、かしげた小さな頭に揺れたブリーチの明るいショートヘアをかき上げる意地悪な笑みを浮かべた顔がそこにあった。


「“ひゃっ”。ふふ、そんなに驚く?」


 金髪の少女は両手を顔の横で広げて青いカラーコンタクトが入った目を細めた。


雛乃ひなのさんか。吃驚びっくりした」


 芽吹は未だ苦しさがつかえている胸をとんとんと撫でた。


「私達今日マックで時間潰してからクラブのパーティーに行くんだけどさ。芽吹も来てみない?」


 芽吹と雛乃とは席が前後だが、こうして遊びに誘われるのは初めてのことで、会話を交わすこと自体も久しぶりのことだった。

 意外な提案に芽吹の胸の苦しさはすっと引いた。

「ありがとう。でも今日は予定あるから」芽吹は鞄に教科書とノートを丁寧に揃えてしまった。

 ふーん、とそれを眺めながら雛乃は自分の耳に付いている黒い三角形プレートのピアスをピンと弾いて、いかにもつまらないという感じを出して「あっそ、いーよ」と口を尖らせた。

 取り巻きの夏美なつみゆい加奈子かなこはその様子にやっぱりね、という反応をして何か別の話を始めている。

 芽吹は鞄の口を閉め、雛乃の方を振り返ると困ったような顔をして笑った。


「また機会があったら是非誘ってね。興味がないという訳じゃないから」


 予定という言葉が、拒絶の手段でないことを知り、雛乃の曇った表情は尖った口だけ残して晴れた。


「じゃあ未だ先の話だけど、ガンダルヴァが回す時にまた誘ってあげるよ」


 耳慣れない響きだった、ガンダルヴァ?回す?と芽吹は聞いた。


「あんた大丈夫?常識よ?ロリコンに習うことよりもっと重要なことってあんのよ?」


 雛乃は一層腰を預けた机に付いていない方の掌を胸の高さまで上げると心底から信じられないという感じで肩をすくめ露骨な位に呆れ返って見せた。

 芽吹には雛乃が表現した一連の流れの何もかもが飲み込めず、一瞬異国の人と対面しているかの様な印象を受けた。そして、どの部分が、と芽吹自身が判断することも無く、ただ一言「分からない」と呟いていた。


 雛乃は溜息をついてまた大袈裟に肩をすくめ、小さく2回頷くと、まあいいわ、と呟き、話を続けた。


「その時、芽吹がずっと見たかった世界を見せてあげる。産まれる前から見たかった世界をね」


 雛乃は鼻息を荒くして思い付く限り壮大でドラマティックな言葉を選んだ。

 産まれる前から見たかった世界、という言葉に芽吹の頭の奥底で沸き立つぼんやりした温かい光のような記憶が蘇った。

 ハッキリとは見えないけれど、それはとても切ない「さようなら」に似た気持ちだった。

 芽吹はその胸いっぱいの切なさを吹き飛ばさないようにそっと瞼を開けた。

 そして、「ありがとう、楽しみにしてる」とそこに居た全員に微笑むと、鞄をもって席を立った。

 芽吹が教室を出ると唯と加奈子が、はあ、と恍惚とした溜息をついた。

「芽吹って、何か超良い匂いするよね。何だろう。この匂い」

「うん、分かる」

 席を立った際、結んだ艶やかに揺れる髪や、芽吹の肌が生来持っている柔らかい甘さがふわっと漂い、雛乃とその取り巻き達は芽吹の姿が消えてしまう迄、それを目で追っている自分自身にすら気付かなかった。


「Mana、ガンダルヴァってなあに?」

 歩みに揺れる廊下を背景に手の中の携帯端末のディスプレイに幾何学模様が広がり、画面奥に倒れると、その魔法陣の中央に6枚の翼の生えた2頭身の天使のキャラクターの姿が浮かび上がった。


「ごめんなさい、芽吹、確認していいですか。がん、だる、ば、で合っていますか」


「うん、合っているよ。分かるかな」


 検索中の表示がほんの一瞬だけちらついた後、携帯端末のアプリケーションが滑らかな音声を合成する。


「芽吹、ネットでそれらしきものが見つかりました。ガンダルヴァ:インド神話の半神半獣の奏楽神団、大勢の神の居る宮殿で美しい音楽を奏でる。ソーマの守護者」


「ソーマ?」


「芽吹、屑嶋華子さんからメッセージが届いています」


 Manaは手紙のアイコンを掌の上にふわふわと浮かせながら言った。


「ありがとう、メールを開封して」


「屑嶋華子さんからのメッセージを開封します」


 Manaの姿はディスプレイから消え、友人からのメッセージが表示された。


[到着!昇降口の前のところに黒猫がいるよ!早くおいで]


(黒猫……?)


 少し急ぎ足で廊下の角を曲がる芽吹を追う黒いもやのようなものがあった。



 ——で、芽吹とロリコン教師は何の話してたの?


 仏陀が何とかって。


 ブッダ? 授業の話? にしてはやけに話が弾んでなかった?


 つかさ、級長気付いてないのかな。黒沢のいやらしい視線。絶対あいつ変態だよ。



 コロコロと転がっていた野球の硬式ボールが動きを止めた。校内の昇降口の前に生徒達の視線が集まっている。


「なんかやけにザワついてね?」


「あ、ほら、屑嶋だ、屑嶋華子くずしまはなこ。級長もいる」


 雛乃達が校舎から出てくると、昇降口の周辺は人集りが出来ていた。その輪の中心にはグッタリしている女生徒と、それを後ろから抱きかかえる芽吹が見えた。


「この野次馬はクズ子が原因か。得意の貧血?」


「頭から血出てる。」


 唯が応える。


「げ、じゃあまたカラスに襲われたとか、そっち系?」


 雛乃は表情を曇らせて人集りの中心の状況を確認しようと視線をやると芽吹の震える背中が見えた。


 華子は芽吹と話をしている最中、何かに気付き「危ない!」と声をあげた。

 芽吹が華子の視線の方に振り向くと、グラウンドからボールが不思議な軌道を描いて芽吹の視界に飛び込んで来たのである。芽吹の体が反射的にうずくまると、そのボールは華子の額にまともに当たり、彼女はその場に倒れてしまったのだった。

 私のせいだ、私が避けたりするから。自分の手に付いた友人の血を見て冷静さを欠いた芽吹に、周囲にいた一人が声をかけた。


「僕が保健室の先生を呼んでこよう」


 芽吹が声のする方を見上げた瞬間のことだった。


 周囲を包んでいた「今」の気配は無くなり、記憶で構成された数日前の図書館の中に自分が在った。長いテーブルの向かいに座った少年の視線と芽吹の視線は繋がっている。

 黒い長めの前髪で表情はよく分からない。灰色の薄手のパーカーに黒のテーラードジャケット、細身の黒のジーンズを履いた少年だった。

 どこかで見た覚えがある雰囲気だと芽吹は思った。年齢も同じ位、同じ学校の生徒だろうか。再び視線を手元の本の文書に落とす。芽吹の網膜に少し遅れて少年が長テーブルの上に置いた本のタイトルが蘇った。


(『呪われた子供達』・・?)


《『呪われた子供達』

 正にその状況はあの日、子供達が同時に描いていた絵と酷似していた。近藤は直感した。子供達の特殊な能力は予知という範囲に収まるものでは無い、と。

「意識が個別の細胞に作用して、実際に一人の人間の行動に方向性を与えるように、子供達の集団的な意識が一連の同時多発的現象を引き起こす、ということもあり得るのかも知れない。或いはその逆だって」

「馬鹿馬鹿しい。目を醒まし給え。これは映画や小説では無く現実なのだよ」》


 そこまで読むと雛乃は本にしおりを挟んで閉じ、日が暮れていることに気が付き部屋の電気を点けた。

 そして手に取った携帯端末を暫らく見つめた後、電子メールを送信した。


[ねえ、遊都。逢えない?]


 その短いメールを送った後、雛乃はそのまま携帯の画面を眺めて返事を待った。その間、今夜一緒にクラブに遊びに行く予定だった友達からの電話があったが、それに出ずにメールの返事だけを待った。30分程が経過し、短いメールが返って来た。


[雛か、久しぶり。今日はこれから仕事だから無理だー 笑 店来てみる?]


 雛乃は直ぐにメールを返した。


[お店に行くのは無理だって言ってんじゃん、外で逢いたい。直ぐ逢いたい]


 そして、携帯をベットの上に投げた。これまでのメールのやり取りの傾向から、今日はもうメールの返信は無いだろうということを雛乃は思った。

 雛乃はその日の夕方に取り巻き達と別れた後にヘッドショップで買った銀色のパックを化粧ポーチから取り出した。パックの表面にはソーマと商品名が書かれた紙が貼られている。

 雛乃はメールを送った遊都かいとという源氏名の十代のホストに穢圡町えどちょうでナンパされた時のことを思い出した。初めてそのヘッドショップに行った時のことだ。


「大丈夫、余裕余裕。久々なんだから冒険に付き合ってよ。」


 遊都は雛乃の元クラスメイトだった。

 穢圡町のメインの通りから一本奥まった道沿いにある店の入り口には電気文字看板が一つ置いてあり、“ハーブ•アロマオイル•バスソルト”の字が流れている。暗い細い階段を登った所にあるボロボロのドアを開けると、数秒吸っただけで頭がぼんやりするようなテトラヒドロカンナビノール系の脱法ドラッグのニオイとインドネシアのガムランのBGMが溢れ出てきた。人間の六感全てが日常感覚からズレてどんどん曲がっていく。空間が、時間が、それを映す心ごと全てがぐにゃりとねじれる。

 店は3人ほどしか座れないような小さなカウンターバーの様な空間だった。窓は無かったが、店の中は蛍光灯がチカチカ光り、明るかった。エアコンが曲がって笑っているように見えた。

 銀髪の浅黒い肌の細身の青年がいらっしゃい、と商品のリストの載ったパッド型端末の画面を二人に見せ、ページを滑らした。遊都が商品リストを見ている。雛乃はその腕に抱かれながら物珍しそうにその様子を見ている。


 紙「紙系あ「紙系ある?」ある?」る?


 LSDは錠剤やカプセルタイプ等もあるが、極めて少量で精神に作用する為、1辺3〜5mm程度の正方形の紙に薬剤を染み込ませた物を舌先に乗せて経口で用いる方法が最もポピュラーな幻覚系のドラッグである。その為、アシッド、エル等の他、紙、とも呼ばれる。


 こ「これ最「これ最近入ってきたやつなんだけど、結構でてるよ」てるよ」よ


 空間が、時間が、それを映す心ごと全てがぐにゃりとねじれる。

 銀髪の浅黒い肌の細身の青年がいらっしゃい、と商品のリストの載ったパッド型端末の画面を二人に見せ、ページを滑らした。


「これでいい?」


 エアコンが曲がって笑っているように見えた。


「お願いします」


 芽吹は自分の声に目を醒ました。

 腕の中には気を失った華子が居る。助けを呼んでこようと言った男子生徒の姿が昇降口に消えた後だった。しかし、記憶はぼんやり霞んでいて現実感が無く、その印象は芽吹の脳裏で“そもそもその少年が本当にそこに居たのだろうか”という疑念に成長してしまうほどだった。空間が、時間が、それを映す心ごと全てがぐにゃりとねじれる。


 雛乃達が紛れる生徒の人集りの後方から、消毒薬と、ガーゼ、包帯を持った白衣の女が現れた。養護教諭は、はい、ちょっとみんなどいて頂戴、と言いながら野次馬を掻き分けて華子の元に辿り着くと、姿勢を落として何か話しかけている。


 応答は無い。


 芽吹に抱かれた華子の頭は人形のように力無くしな垂れており、額から垂れた血が首筋を伝い、学生服がそれを吸っている。


「クズ子の不幸が伝染るから早く行こう」


 雛乃は何やら寒気を感じて顔を芽吹達から反らせた。

 雛乃達は人集りの隙間を縫いながら、正門から市内の穢圡町の方に向かった。



 雛乃達の学校は穢圡町の外れにあり、多くの生徒はキャバクラや風俗店がある街中を通って登下校している。

 人間の欲望を絡め取る蜘蛛の巣のように膨大に張り巡らされた電線に滅茶苦茶に刻まれた夕暮れに向かう空が、古い雑居ビルの隙間から覗いている。

 雑居ビルの中に入っているテナントは常にコロコロ入れ替わった。豊胸、性転換、堕胎の手術をする無免許の闇医者、裏カジノ、高レートの裏パチスロ、ステージ上で生きた豚や人間の赤ん坊、ホームレスを青龍刀で切り刻むことを見世物にするバーがあるという噂もある。

 雛乃達はケラケラ取り留めのない会話をしながらその中を歩いていった。


《『医者の食事』


 先生、先生。蟹を食べるのが御上手ですね。


 解剖しているようなものですから。》



「ねえ、君達。良い金になるバイトあるんだけど、興味ある子居ない?」


 煙草を吹かしながら金髪にスーツ姿の男が雛乃達に声をかけた。この町に何人も徘徊している“夜系の仕事”のスカウトマンの一人であることが雛乃達にはすぐ分かった。


「あんたうちら幾つだと思ってんの? この制服見えない?まったく昼間っから」


 若くないと出来ない仕事もあるんだよね、月100万以上余裕で稼げるんだけど。そんなことを言いながらどこまでも雛乃達の横に張り付いて話を続けるスカウトに雛乃は舌を鳴らした。


「あんましつけえとこのまま穢圡町交番駆け込むぜ」


 スカウトは立ち止まって「ブス」と呟くと唾を吐いた。ブスという言葉にピクッと反応した後、雛乃の歩みはズカズカと早まった。それに従うように取り巻き達は慌てて小走りで付いて行ったが、その内の一人、夏美が立ち止まりうつむいた。雛乃は振り返りそれに気付くと、「はあ??」っと思わず声を上げた。

 夏美は「雛乃、ちょっと待ってて」と言って、スカウトの方に戻って行った。雛乃は額にシワを寄せ、腕を組み、アスファルトを踵でカツカツと踏んでいる。

 何やら夏美はスカウトの男と話をした後、携帯端末で連絡先を交換して戻って来て言った。


「遊都が今月誕生日なの。どうしても売り上げが欲しいって頼まれてるから、ソッコーで金が欲しいんだ」


 雛乃は夏美を睨んで黙っている。


「お前、まだあのクソホストと付き合ってるのかよ」


「うん。っていうか聞いてよ。オヤジとご飯食べるだけで3万以上、しかも日払いで貰えるって」


 夏美は興奮気味に言った。雛乃はしばらくその場で目をつぶって自分の思い通りにならない不快感に耐えていたが、夏美の言葉に「何それ、超おいしいじゃん!」と声を上げる唯と加奈子の声に、プツリと我慢の糸が切れたようだった。


「何かあたしかったりーわ。やっぱ今日帰る」


「え?ちょっと、クラブは?」


 唖然とする3人を置き去りにして雛乃はそのまま今来た道を引き返して一人で何処かに行ってしまった。


「何、あれ」


 取り巻き達は暫らく途方に暮れていたが、結局誰もクラブに向かうこと無く、そのまま人通りの増えてきた町の中、帰路に就いた。



 ベッドの上の携帯端末が遊都からのメール着信の通知音を鳴らした。


[だから無理だって言ってんじゃん。日本語分からない?またヤクでもやってんの?]


 雛乃は[さびしい]とメッセージを打ちかけて消した。部屋の中のエアコンが曲がって笑っているように見えた。

 救急車のサイレンの音が小さく街の方から響いた。

 やがてその音は昼間の青空とは異なる黄昏の籠目市内に溶けていった。

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