アメジストタブレット
高叢阿斗
現代の魔女
ⅰ∴多次原風景
幼い頃、私は気が付けばずっと歌っていた憶えがある。歌を歌と知る前から、体の内側から湧いて出る命がそのまま全身に現れていた。
メロディーのような笑い声のようなデタラメな振る舞いを見て、両親が手を叩いて喜んでいる。これは今の私が知る「私」が始まった瞬間の記憶。
私は歌うのが大好きだった。
将来何になるの?と今聞かれたら「分からない」と答えるけど、幼い頃は「歌手になる」と迷わず答えた。
私は公園で歌いながらしゃがみ込んで砂に楽譜を書いていた。多分それは誰に見せても口をそろえてラクガキだと言われてしまうもので、世界一の作曲家にも自分自身にも読むことが出来ないものだった。
しかし砂場に形を
その日も枝が揺れたとかの些細な出来事から、楽しい気持ちが顔を覗かせ、お日様が高い所に登るころにはそよ風は歌声になって枝を揺らした。
コップから注いだ水はプラスティックの鉢の土に落ちて、青い芽になり、紫色の朝顔になった。
手をひらひらさせながら私は柔らかく透明な光の香りの中で良い気持ちに身を任せていた。すると心の奥が震え、その震えは大きな波になり、どっと光が湧き上がると、何故か涙が出てきた。
何かおかしいと、気付いた頃にはもうボロボロに涙が溢れてしまっていて、太陽も、青い空も、その周りを丸く囲んだ公園の黄緑色の葉と揺れる枝々もぼんやり霞んで一つになった視界に「涙は悲しいことがあった時に出るのよ」というお母さんの声が聞こえてきた。
お父さんとお母さんが言い争いをしている時のことを「悲しい」と言うなら、全くそういう気持とは違っていたので、私は袖でゴシゴシと涙を拭いた。
以前に転んで膝を擦りむいた時には泣くどころか全然悲しくも無くて、血が出てくる様子をジッと見て、舐めたりしていたら「全く泣いたりしないんだなあ、おかしな子だ」とお父さんに言われてしまった。
悲しいものを悲しいと思わずに、泣いては変なところで泣くのだから、もしかしたら私は病気かもしれない。
少しだけそんな心配をしたのだけれども、気付けば、また私は日差しの中で空中にひらひらとラクガキをしながら歌っていた。
ふと、日向ぼっこしている野良の黒猫の耳がこちらを向いているのに気が付いた。
私は直感的に猫が雌だと分かった。
私はお客さんに向かって得意になってくるくる地球を回すと、猫は丸い目を一層まるくして、チラリとこちらを見た後、一つ大きなあくびをして、のそのそと何処かにいってしまった。
「今日黒い猫が私の歌を聴いていたのよ」
家に着くと私は一番に動物の観客がついた喜びを報告した。
しかし、お母さんは何かにイライラしていて、「猫は歌なんか聴かないわ。餌を欲しがるだけよ。」と、まな板の上の野菜を睨み付けてザクザク切りながら言った。
「私達のことなんて、どうだって、いい、のよ」
私はお母さんの笑顔を期待していたから、そういう言葉にビックリして頭が真っ白になってしまった。
「それにね、黒猫は不吉だから見ると嫌な出来事に遭うのよ」とお母さんは何故か意地悪な顔で言った。
「何で?」と聞いても、黒猫が嫌な出来事を連れてくる理由も、歪んだ笑顔の理由にも答えずに、「忙しいからあっちにいってなさい!」と怒鳴って、またザクザク野菜を切った。
自分にはまだ分からない大人の世界があるのだ、そして、それを知らないとこんなにも悲しい気持ちになるのだ、私はそう悟った。
それから数日後、仕事を終えて帰ってくる途中のお父さんを道端で見かけた。
私は声をかけようとしたが、足元にあの野良猫がいることに気付いた。
お父さんは鞄から、スティック状の携帯栄養食を取り出して猫にあげていた。
猫は、黒い艶のある毛で覆われた体をお父さんに擦り付けた後細かいクッキー片を食べていた。お父さんは嬉しそうにその様子眺め、雌猫の頭を撫でた。
私は何故か見てはいけないものを見てしまった気持ちになってしまって、少し離れた建物の影に身を潜めた。
そして数日前お母さんに言われたことと、目の前で起こっている出来事が頭の中でぐるぐる回ってしまった。
お父さんが正しいことを知らない筈はない。
じゃあ何故お父さんは見ると嫌な出来事に遭う黒猫に餌をあげて体を撫でているのか。
建て直すのに要したのは数日間ではあったけど、お母さんにバラバラに壊されてしまったお城の積み木で作った新しい家がまた潰れてしまったかのようなショックを感じた。
私は早歩きでその場から逃げ去った。
それがどんなものかは未だ分からないけれども、きっと世の中には黒い猫に関して何か難しい物の見方があるに違いない、早く大人にならないと。
そんなことを思いながら。
その日、久しぶりの家族3人揃っての夕食は会話が無く、その日もお母さんはイライラしていて、お父さんはうつ向いたままご飯を口に運んでいた。
カチャカチャという食器と箸がぶつかる音だけが響いていて、丸い蛍光灯の照明が冷たくジリジリと食卓を照らしていた。
何故二人が押し黙っているのか、「子供」の私はそれが何故かも聞いてはいけない気がした。
私は秋刀魚の塩焼きにまだラップがかかったままだったのに気付いてそれを剥がしたりした。
その後すっかり私の中で不可解な存在となってしまった黒猫とは不思議なことに何度も出くわした。
その度に私は猫の方を出来るだけ見ないようにして足早にその場を立ち去った。
私には黒猫を見かける度にお母さんのイライラは増していくように感じ、
「やっぱりあの黒猫が嫌な出来事を連れてくるんだ」と思った。
真夜中に目が醒めると、お母さんがお父さんに対して怒鳴るような声が聞こえてきた。
お父さんは何も言い返さず、じっと黙って耐えているようだった。
私はまた黒猫が現れたらどうしようかということを考えて、気分が悪くなってしまった。
そんなある日のことだった。
家の扉の正面にその黒猫が居たのだ。
まるで私が家に入るのを邪魔するかのようにちょこんと座っている。
私の存在を確認すると、猫は姿勢を崩し、ペタンとリラックスした様子を見せた。
私はギュッと猫を睨んで「あっちにいってなさい!」と叫んだ。
すると猫は最初に公園で会った時のように丸い目を一層まるくして、チラリとこちらを見た後、一つ大きなあくびをして、のそのそと何処かにいってしまった。
猫の姿が見えなくなると、私の中に、何故だか「悲しい」感情が込み上げて来て、私は声を出してわんわん泣いてしまった。
お母さんが出てきて「どうしたの?」と聞いてきたけど、
私は何も言えず、ただわんわんと泣いた。
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