第17話 回転花火〈Ⅲ〉Love Is the Plan the Plan Is Death

◆惑星チリエリ ナスカル記念公園


「ただ今よりチリエリ惑星政府建国記念祭花火大会を開催致します。

 この花火は建国より続く由緒ある………」


 花火の開始を告げるアナウンスが流れるとあちこちで歓声が上がった。

 湖に半円状にせり出した中央ステージでは、祭りのクライマックスを飾るライブが始まっていた。


 ここ数年は、主星テラツーを中心として絶大な人気を誇る歌姫、ディオンヌ・クレイヴがトリを勤めていたが、今年は若手のアビスというグループがステージに上がっていた。


「ディオンヌじゃないのか……やっぱり体調を崩してるって噂は本当だったんだな」


 あちこちで歌姫のファンから落胆の声が漏れる。

 一方、大手の肝いりで売り出し中のアビスへの声援も多かった。

 色白で美形の男性ボーカルが手を上げると、一際大きな歓声が上がった。尖った耳に切れ長の目。まるで、エルフの様な風貌は、シルヴァ人のものだ。

 彼だけではない。メンバーの全員がヒューマンタイプの異星人で構成されたアビスは、美形揃いで、女性を中心にファン層を拡大していた。


 ◆◆◆


 中央ステージへと向かう人の流れに逆らうように、ジョンは人工湖沿いの道を歩いた。ステージから離れるに従って、視界を埋める程だった人の群れは段々数が減って行き、湖を半周した辺りでほとんどいなくなった。


 丁度ステージの反対側にあたるそこからは、ライブの様子が全く見えない。

 木々が生い茂り小さな林のようになっている場所で、林を避けるように、湖沿いの道が伸びている。


 ライブだけではなく、木が邪魔で花火も見えないので、人がいないのも道理と言えた。


 祭りの灯りも遠く、先ほどまでの喧噪が嘘のように、人々の歓声が風に乗って微かに聞こえるのみ。

 唯一、下腹に響く花火の音だけが、湿った夜の空気を震わせていた。


 人気のない所には付きものの、アベックの姿さえここにはない。まるで、そこだけが世界から切り離されたような、寂しい場所だった。


 ジョンは道を外れて、林の中に入って行った。

 迷いのない足取りでどんどん進んで行く。


 やがて、厳めしい鉄の扉がジョンの前に姿を現した。

 両開きの扉は鎖が巻かれており、年季の入った大きな南京錠がかかっている。


 ジョンは南京錠を手にとると、施錠されている棒の部分を強く引いた。


ガチン――


 大きな音を立てて、鍵が外れた。


――古い鍵だから、強く引っ張ると外れるんだよ。


 かつて、このことを教えくれた妻の声が蘇る。


「不用心だな」


 ジョンは誰に言うとなくそう呟くと、扉を押し開けて、中に入って行った。


 ◆◆◆


 林の様子とは逆に、敷地内は綺麗に整地された登坂が続いていた。

 木々に遮られて外からは見えないが、小高い丘になっているようだ。


 坂の上には、様々な形の石柱が見える。ここは、チリエリでもっとも古い共同墓地なのだ。

 あの石柱には、墓地で眠る人の名が刻まれているはずだ。


 今では星をあげての一大イベントとなった建国記念祭も、元はこの墓地で行われた、小さな集いが始まりであったと言う。

 もちろん、公共の墓地であるからには、入口にかけられていた鍵も祭りの日以外は外され、扉は開け放たれている。だが、記念公園が整備され、墓地にあった慰霊碑がステージ近くの広場に移ってからは、ここは、縁の者以外訪れる者も少ない、忘れられた場所になってしまった。


 ジョンにこのことを教えたのは、ルシィだ。そして、ルシィは育ての親のベスおばさんから、この場所と鍵のことを聞いた。


 供養のための花火に捧げた人々の祈りが、なぜか形を変えて願いが叶う奇跡の花火として伝えられていると、その時彼女は可笑しそうに笑った。


「人の欲は、尽きることがないな」と呆れるジョンに――


「だからこんな遠い星まで、人間わたしたちはやって来ることが出来たんだよ」とルシィは言った。


 その時の彼女は真剣そのもので、人の可能性を何処迄も信じているように見えた。


 坂を登り切り、形も宗派も様々な墓の間を縫うように歩く。

 途中、二つ並んだ墓に、花が供えられているのを目にした。

 真新しい白い花に、ジョンは口元をほころばせた。


 聖域独特の張り詰めた空気の中に、ジョンはなじみのある気配を感じていた。

 それがよく知る彼女のものであるのなら、本来ならば感じる事のない気配だった。


 気配を消す事など彼女にとっては、造作もないことだ。気取られることなく、ジョンの肩を叩く事さえ出来るだろう。


 それが、はっきりと存在を感じられるということは――――


「今からでも遅くないから帰れってことなんだろうな」

 そう呟いて、ジョンは苦笑した。


 彼とて、確信があってチリエリにやって来た訳ではない。

 ただ、マルコポーロの女帝から、文字通り命懸けで聞き出した情報がもたらした答えが、ここだったと言うだけだ。


 それすらも、単なる予感でしかない。

 だが予感は今、確信へと変わった。


◆◆◆


 死者たちに見送られ、ジョンは墓地を抜けた。

 苔むした石段を登ると、唐突に木々が途切れ、視界が開けた。

 そこはかつて、慰霊碑が立っていた所だ。


 かなり広い場所だ。

 精緻な細工が施されていたはずの石畳は、ところどころが欠け、雑草が伸びている。

 あちこちには、広場を飾っていたであろうオブジェの残骸が見える。


――ドドーン


 下腹に響く音と共に、夜空に大輪の花が咲いた。


 チリエリの紅い月――

 花火の光に照らされて、人影が浮かび上がった。


 細っそりとした手足。

 抱きしめれば折れてしまいそうな腰。

 小柄なシルエットから、それが女性のものと知れた。


 広場の真ん中で空を見上げていた女は、ジョンの接近に驚いた風もなくゆっくりと振り返った。


「おまえは、馬鹿だ」

 女――ケイが低く、抑揚のない声で言った。


 黒いパンツスーツに飾り気のない白いシャツ。手には鞘に納めた刀。

 白い肌は月の光を浴びて、微かに光って見える。

 両の目は紅く、燠火おきびのように妖しい光を宿していた。


 かつて、ジョンはその美貌にルシィの面影を重ねた。

 しかし、そこに亡き妻の姿を見ることはもうない。


 ルシィはルシィとして。

 ケイはケイとして。

 その存在がいつの間にか、ジョンの中にしっかりと根付いていた。


「追って来るなと言わなかったか?」


「そうかい?  俺には助けてくれと聞こえたぜ?」


 問いに、ジョンは肩をすくめた。


「安い挑発だな。スタッカー。

 ――それとも、自惚れか?」


 さも可笑しそうにケイは言った。


 クスクス――――


 笑う――わらう。

 まるで少女のように。


 クスクスクス――――


 何か――とても楽しいことが始まるとでも言うように。


 天を仰ぎ、両手を広げて赤目の魔女がわらう。

 それは現実ばなれした、不吉な光景だった。


「おまえは、誰だ?」


 思わず、ジョンは問うていた。


「――さあな」


 答えのかわりに女は、魔剣を抜き放った。

 両手を広げ、まるで抱擁をせがむように近づいて来る。


「その自惚れが、どれだけ高くつくか、教えてやろう。

 言っておくが――ごうの時のようなチャンバラが出来るとは、思わないことだ」


 その言葉に嘘は無い。あるべき事実をのべているだけだ。それは、何よりもジョン自身が良く解っている。

 姿を見た時から、そこにいるのが、次元の違う化物だと確信した。


 まともにやり合えば、一合いちごうも交わさずに、首が飛ぶ。勝負にすらならない。

 我知らず、ジョンは後ずさっていた。


「どうした。戦いに来たのだろう?

 なら、踊ろうじゃないか」


その言葉で、ジョンは我に帰った。

――戦う?


「違う。俺は――」


 ケイが訝し気に眉を寄せる。


「戦いに来たんじゃない。

 ――おまえを連れ戻しに来たんだ」


 その言葉に彼女は、一瞬大きく目を見開いた。

 紅瞳の奥に、怒りの炎が揺れていた。


「失望したぞ」


 湧き上がる怒りに耐えるように、ケイはゆっくりと息を吐いた。


「わざわざこんなところまで追って来るからには、何かしら勝算があるのかと思えば――連れ戻しに来ただと?」


 大きくかぶりを振り、吐き捨てるように言う。


「ああ。そうだ」


「――目覚めの口づけでもするつもりか? 馬鹿馬鹿しい」


 叩きつける殺気に、肌がビリビリと痺れた。女の中で、怒りが膨れ上がって行くのを感じ、ジョンは小さく身震いした。


 ――だが、逃げる訳にはいかない。


 ジョンは自らに言い聞かせる。


「良かろう。口づけをしようじゃないか。

 ただし、おまえの首を斬り飛ばした後にな」


 言うやいなや、無造作に魔剣を振るう。

 切っ先は届いてはいない。少なくともジョンにはそう見えた。

 ――だが。


「つっ――――」

 鋭い痛みに頬を押さえると掌に紅く、血がついていた。


 逃げようとする身体を鼓舞し、ジョンはその場に踏みとどまった。


「ここには、ルシィの墓もある。

 ――知っているだろう?」


「ふん。それがどうした」


 再び魔剣が振るわれ、反対側の頬に傷がついた。


「俺にここを教えてくれたのは、ルシィだ。

 ルシィは育ての親のベスおばさんから――あんたは、誰にこの場所を聞いたんだ?」


 更に斬りつけようとしていたケイが動きを止めた。

 真意を探るように、ジョンを見つめる。


「――母だ。私は母から聞いた。

 私たちの母とベスは、親友だったから」


 呟くように、ケイは言った。


「ベスおばさんもこの墓地に眠っている。

 それもあんたは知っているはずだ。

 この下にあるおばさんとルシィの墓に、新しい花が供えてあった。

 あんたが置いたんだろう?」


 ジョンが懐に手をやり、何かを取り出した。

 反射的に魔剣が閃く。


 刹那――差し出した手が切断された時の、焼けるような痛みさえ、ジョンは感じた。

 だが、それは彼の記憶が呼び覚ました幻にすぎぬ。


 ジョンが取り出したのは、武器ではなく写真。

 今どき珍しい、紙に焼かれたスナップ写真だ。


 手にしていたのが銃ではないと見るや、魔剣は太刀筋を変え、絶妙な力加減でジョンの手から写真を弾き飛ばした。


 吸い寄せられるように落ちて来た紙片を、ケイは掴み取るとジッと見つめた。


 古い写真だった。

 角は擦り切れ、色あせている。

 だが、とても大切にされて来た。

 そう感じられる写真だった。


「その写真は、ハイジから預かって来た。

 彼女の宝物だ」


 ケイからのいらえはない。


 写真には、若い女性が3人映っていた。

 皆笑っている。見ただけで仲が良いとわかった。


 背が高く、大柄な娘が前に並んだ二人の肩を抱いている。

 髪の色はピンクだ。わずかに面影がある。おそらくこの娘が若い頃のハイジなのだろう。

 今の女帝からは想像もつかない、あどけなさの残る顔をしている。


 前に並んだ二人の内、右側のブラウンの髪の娘は、ベスに違いない。

 気が強くさっぱりした性格を表すような大らかな笑顔は、この頃も同じだ。


 そして、ベスの隣で控えめな笑みを浮かべている長い黒髪の娘。


「それは、ケイ――あんただな」


 ジョンの言葉に、写真を持つ彼女の手が微かに震えた。

 確かに髪の長さこそ違うが、その娘の顔はケイにそっくりだ。


「馬鹿な――――何年前の写真だと思っているんだ」


「ハイジから預かったと言っただろう?」


 ケイは顔を上げ、ジョンを見つめた。


「――話したのか? あいつが?」


ジョンが頷く。


「スタッカー――おまえは信じたのか、そんな突拍子もない話を」


 ケイのそれは、問いかけではなく、呟きに近かった。


「なあ――この宇宙に、突拍子もない話というのは、案外ありふれているんじゃないかと、最近オレは思うんだ。

 ゼリーみたいな宇宙人もいれば、しゃべる猫だっている。

 だいたいあんたたち魔剣使い自体が突拍子もない存在なんだ。

 娘と同じくらい若く見える母親がいたって、なんてことはないさ」


 ジョンの言葉に、ケイは小さく微笑んだ。

 一瞬、張り詰めていた空気が緩んだ気がした。


「失礼なヤツだ――私は、若く見えるんじゃない。若いんだ」


 彼女のその言葉が、肯定の証だった。


「屍血病患者の中には、若返ったという記録もあるそうだ。

 そういう事にしておくさ」


 ジョンもつられたように笑う。

 ケイの実際の年齢がいくつであれ、彼女がそれよりも若いのは、事実だろう。

 若く見えるのではなく、若いのだ。彼女の言葉通り。

 それが、腕斬り一族の特異な体質によるものなのか。それとも他に原因があるものなのかは、ジョンにはまだわからなかった。


「私がルシィの姉ではないと――どうして、そう思ったんだ」


「身内だろうとは思っていたさ。

 ――きっかけは、そうだな。マルコポーロであんたといっしょにいるハイジを見た時だ。

 二人がなんだか家族……姉妹のように見えたんだ」


「姉妹……私たちはそんなに似ているか?」


 憮然として問うケイに、ジョンが慌ててかぶりを振った。


「もちろん、見た目は全然違う。

 オレが言いたいのは、二人の間の空気のことさ。

 友情とも違う、柔らかくて暖かい空気を感じたんだ。

 その……あんたはまた怒るかも知れないが、年は違うのにハイジが妹、あんたが姉のように見えた」


 ケイは考え込むように、目を伏せた。


「意外だな。

 おまえはどちらかと言えば、空気を読まないタイプかと思ったが」


「からかうなよ」


 苦笑し、ジョンが言を継ぐ。


「それに、影の国であいつ――轟があんたのことを母さんと呼んでいただろう? あの時は、錯乱してあんたに母親の面影を見たのかと思ったが……」


「――そうか」


 もう、戻ることはないと思っていた、親密な空気が二人の間に流れているのを、ジョンは感じていた。


「おまえの話は、終わりか?

 スタッカー」


「ああ――」


 終わりが近づいていると、そう思う一方で、これで全てが上手く行く――そんな考えが一瞬頭をよぎる。

 だがそれが幻想であることも、ジョンにはわかっていた。


「――なら、今度は私の話をしよう」


「あんたの話?」


 問う――問うては、いけないと思いながら。


「ああ――おまえを殺す者が何者なのか、知っておく必要があるだろう?

 私の中には獣が住んでいるんだ」


 その時、一際大きな花火が打ち上がり、閃光が彼女の面に影を落とした。

 ジョンにはそれが、仮面のように見えた。



 ◆◆◆ 



「死んだらどうなるのかと思ったが、案外生きていた時と変わらないな」


 私は目を開けると、そう呟いた。


 記憶が曖昧で何も思い出せない。意識に霞がかかったようだ。

 だが、巨大な黒い狼とその深淵のようなあぎとだけは、はっきりと覚えていた。

 そう――私はアレに喉を食い破られて――――


 傷の痛みはない。

 無意識に手をやると、痛みどころか、傷さえなかった。

 あんな大怪我をして、こんなことはあり得ない。となれば、私は死後の世界とやらにいるに違いない。


 黄ばんだ汚い天井が目に入った。

 狭い部屋だ。

 積み上げられた段ボール箱、薬品が並んだ棚。それらを無理矢理退かせて、スチール製のベッドが置いてある。

 私は、そのベッドに寝かせられていた。


「死んだらどうなるのかは、わからないな。僕は一度も死んだことがないから」


 返ってくるはずのない答えに、私は声のする方を見た。

 白衣を着た、背の高い男がこちらを見ていた。


 両手を白衣のポケットに突っ込んで、締まりのない笑みを浮かべている。

 色は白いというより青白く、いかにも不健康そうだ。

 プラチナブロンドの巻き毛のせいで子どもっぽく見えるが、30代前半といったところだろう。


 私は無意識に男が襲いかかってきた場合に、どう凌ぎ、どう倒すかをシュミレートした。

 体に力を入れてみる。

 大丈夫、動く。これなら、ベッドから上半身を起こしたままでも


 ――殺す?

 なぜ、私は初対面の相手を殺そうとしているんだ?


「大丈夫かい?」


 私の戸惑いを不調と見たのか、男は心配そうに言った。


「本当の死神というのは、医者みたいな格好をしているのか?」


「医者みたいなんじゃなくて、僕は医者だよ。

 それから、医者の観点から言わせてもらえば、君は死んでいない」


「死んでいない?」


「ああ――ばっちり生きてる」


 男は気を悪くした風もなく、笑った。


 それにしても、なんて無防備な笑顔なんだろう。

 私はこんな笑顔を今まで見たことがなかった。


「馬鹿な……あんな怪我をして生きているはずがない」


「怪我? 怪我なんかしていなかったよ。


「私は? ――どういう意味だ?」


「い……いやぁ、何でもないよ。

 とにかく……僕が見つけた時、君は随分衰弱してはいたけど、どこにも怪我は無かった」


 バツが悪そうに頬をかいて、男は言った。

 後になって知った事だが、私は全身を血に濡らして路地に倒れていたそうだ。

 辺り一面は血の海で、手に黒い短刀を握っていた。

 彼が、と言ったのはそういう意味だ。


 だが、おびただしい量の血液で辺りが濡れていたにも関わらず、死体はもちろん、何かを処理したような後さえなかった。


 もちろん、そこに何かの事件性を感じずにはいられなかったが、この人は結局放っておくことが出来ず、私を連れてきたのだそうだ。


「見つけた? あなたが助けてくれたというのか?」


「質問ばかりだね。

 そう。僕が君をここへ連れてきた。

 ――僕の名前は、アベル。アベル・ライナー」 


「ありがとう。ドクターライナー。

 それじゃあ、ここは病院……には、見えないが?」


 差し出された手を握りながら、私は辺りを見回した。


「ここは、当病院の倉庫。

 うちの病院には、ベッドが3つしかなくてね。

 一つは診察用だし、もう一つは入院患者が使ってる」


「一つ余っているようだが?」


「3つめは、僕の寝床だ」


 そう言ってドクは、片目をつむって笑った。

 つられて、私も自然と笑みを浮かべていた。



 ◆◆◆


「驚いたな……」


 無意識に、ジョンの口から感嘆の声が漏れた。


 闇の男、黒い狼――ケイの話は想像を超えていた。

 突拍子もない話がありふれていると彼は言ったばかりだが、それでもたった今、彼女の口から語られた話は、極めつけだった。


 そして――――


「ドクターライナー……」


 ジョンは、その名に聞き覚えがあった。ライナーは、ルシィの旧姓だ。


「じゃあ、その男がルシィの――」


「ああ……父親だ。

 その時、私は記憶を失っていたからな。しばらくライナーのところで、世話になっていた。

 とは言え、あの男は医師としては優秀だったが、それ以外はからっきしダメだったから。世話をしていたのは、もっぱら私の方だったが」


 語るケイは、どこか楽しげだった。

 ジョンは、胸の内に嫉妬に似た苛立ちを覚え、それを悟られまいと、わざと大きい声を出した。


「そいつは、今どうしてるんだ」


「死んだよ――――」


 なんでもないことのように、ケイは即答した。


「まさか――」


「私が殺したわけじゃない。

 ――」


 冷たい笑みを浮かべ、彼女は続けた。


「よせば良いのに、怪我をしたチンピラを治療して、かくまった。

 そいつの誰も信じないような作り話よたばなしを信じたんだ。

 あげくに、そいつをかばって撃たれた。

 ライナーは、根っからの善人だった。

 ――そして、善人は長生きできない」


 そう言って、ジョンをジッと見つめた。


「俺は善人じゃない」


「だが、お人好しの馬鹿だ。

 自分を殺すと言っている相手をわざわざ追いかけて行くんだから。

 馬鹿でも生温なまぬるいくらいだ」


「えらい言われようだな」


 ジョンが苦笑した。


「その後、赤ん坊だったルシィを連れて、しばらくはハイジのところにいた」


 なるほど、それでハイジはルシィを知っていたのかと、ジョンは得心した。

 ケイを姉のように慕っていたハイジにとって、ルシィは可愛い姪っ子のようなものだったのだろう。


「じゃあ、その時にはもう記憶が戻っていたのか」


「記憶は徐々に戻っていたよ。

 ルシィが生まれる頃には、完全に思い出していた」


「それなら、どうしてチリエリに戻らなかったんだ?」


 その問いに、ケイは初めて困ったような顔をした。


「ルシィを腕斬りにするわけには、いかなかったからな。

 ――それに私自身の問題もあった」


 ――


 先程言った彼女の言葉が、ジョンの中で蘇った。


「あれは、比喩などではない」


 それを察したのか、ケイが呟いた。


「あの黒い狼は、まだ私の中にいる。

 ――いや、いるというより、溶けて、混ざって私の一部になっている」


 なぜか、ジョンはピューレス人の女のことを思い出していた。


 ――中身がどうなっているかは、誰にもわからない。


 その時ケイが言った言葉が、まるで今の彼女自身をさしているように聞こえる。


「アレは、闇の男に囚われていた。

 そして、そこから逃げ出すために私を利用した」


「利用? あんたの体を乗っ取ろうとしたとでも言うつもりか」


「私が抵抗しなければ、あるいは、そうなっていたかも知れないな」


「馬鹿な――」


 ジョンは激しくかぶりを振った。

 しかし、否定を口にしてみても、その考えを完全に消し去ることが出来なかった。


「そう考えれば、あれだけの怪我が綺麗に治っていたことも説明がつく。

 ヤツが私を襲ったのは、殺すためじゃない。私の体を奪うためだったんだ」


 ジョンは、改めて目の前の女を見つめた。


 若い女だ。

 どう見ても二十代前半に見える。

 かなりの大金が必要だが、老化抑制剤と手術により若さを保っている者もいる。

 しかし、そういった紛い物とは違う、体の内側から発される精気のようなものを、ジョンは感じた。


 だが、ルシィや轟の歳を考えれば、彼女はジョンの姉であるフローレンスよりもずっと年上のはずだ。


 おまえを殺す者が何者なのかと彼女は言った。

 その言葉の意味を、ジョンは実感していた。


「ジョン――――」


 不意に名を呼ばれ、ジョンは弾かれたように顔を上げた。


「私の中にいる者の名を教えよう――」


 ケイは歌うように言った。

 それは、託宣のようでもあった。


「アレは狼などではない。

 名は伯爵。

 不死の王ノスフェラトゥと呼ばれる魔剣使いだ」


 伯爵――――


 それは魔剣使いの中で最も有名な名だ。その名は伝説であり。また、と言われている存在だった。


 曰く――老いることはなく。


 ――如何なる手段をもってしても死ぬことはない。


 ――旧時代の遥か昔から生き続ける吸血鬼。


 その噂を知れば知るほど、あり得ないと思えてくる。

 噂には尾ひれが付き物だが、魔剣使いと言う噂に付いた最も大きな尾ひれが、伯爵だった。


 絶対死なない者など、宇宙広しと言えど存在しない。ましてや細胞一つからでも自己を再生しうるなど――

 それが、伯爵に対する一般的な認識だった。


 それは、もちろんジョンも知っている。

 白龍や腕斬りという、魔剣使いを実際に目の当たりにしても、伯爵については、眉唾物というのが正直なところだ。


 それがケイの中にいる?


 自らにそう問うてみても、実感がわかない。


「仮に――あんたの言う黒い狼があの伯爵だとして、そんなに簡単に他人の体をのっとることが出来るものなのか」


 ジョンは喉の奥に張り付いた何かを引きはがすように、口を開いた。


「無理だな――せいぜいが他人そっくりに化ける程度だろう」ケイはあっさりと言った。


「それなら――――」

「だが、それは相手が普通の人間の場合だ。

 私たち一族の体質を忘れたのか?」


 ジョンを遮るようにケイは言葉を重ねた。


 


 ジョンは内心でそう毒づいた。

 そう、そんなことは、

 屍血病――彼女の特異な体質と吸血鬼伝説の符合は、以前に彼女自身が指摘したことだ。


 吸血鬼――――

 ジョンはモリオンの神託を再び思い出した。

 全ては示唆していたのだ。

 このことを。


 だが、ジョンはあえてそれを無視した。

 出来れば無関係であってくれと願ってさえいた。


 それを誰あろう彼女自身の口から指摘されるとは――

 なんという皮肉。


「伯爵――初めの吸血鬼は、私たち一族に深い関わりがある。

 先祖だという者もいる。

 仮にそうなら――今、ここにいるのは、もう私ではないかも知れない。

 ――私が誰なのかと聞いたな?」


 彼女の紅瞳が視界いっぱいに広がったような気がした。。

 命を、心を――全てを目の前の女にゆだねてしまいたいという衝動が、一瞬ジョンを襲う。


 抵抗するように首を振り、ジョンは後ずさった。


「その答えは私にもわからないんだ。ジョン」


「た……たった一つ、信じられることがある」


 喘ぎながら、ジョンは何とか言葉を吐いた。


 つなぎ止めなければ――強く、そう思った。

 目の前の女をつなぎ止めなければならない。

 ――強く、そう願った。


「あんたが、ルシィをベスに預けたのは、娘の身を案じたからだ。

 自分の中にある鬼が、知らないうちに愛する者を傷つけるのを恐れたからだ。

 ベスもあんたの気持ちを察したから、ルシィを引き取ったし、そのことをルシィに一言も話さなかった」


「何が言いたい――!」


 ケイは湧き上がって来る感情を振り払うように、魔剣を横一文字に薙いだ。

 稲妻のような斬撃だったが、そこには迷いがあった。

 それが、ジョンの命を繋いだ。


 ジョンは、体ごと投げ出すように前へ飛んだ。

 姿勢を低く、踏み込むケイの足元へ転がる。


 後ろでも横でもなく、前へ――

 死の刃は、ジョンの額から数ミリのところを掠め過ぎた。


 すれ違い、ジョンはすぐさま起き上がると更に飛んだ。


 振り返ったケイの目に、距離を置いて立ち上がるジョンの姿が写った。


「いいぞ、ジョン――やれば出来るじゃないか」


「ケイ――あんたのルシィへの愛を、俺は信じる。

 そして、娘を想う母親の心が、あんたを救う!」


 自らを鼓舞するように、ジョンは言葉を口にした。



 ◆◆◆



 その時、不意に花火の音が途絶えた。辺りは静寂に包まれ、祭りの喧騒も消えた。

 最後の花火が打ち上がる瞬間が近づいているのだ。


「いよいよフィナーレの花火が打ち上がります。

 準備のため、しばしお時間を頂きます。打ち上げ予定時刻は……」


 アナウンスも上の空に、誰もが固唾を呑んでその瞬間を待っている。夜空を見上げて、それぞれの願いを心に描きながら。


 願いが叶うという、奇跡の花火を――――


 立ち上がったジョンは、右足を引いた半身の構え。左手を上着の中に入れている。


 ケイは刀を両手で握り、切っ先を正面に据えていた。俗に言う正眼せいがんの構えだが、体はやや前傾している。


「まさかとは思うが、合金製の義手なら魔剣を止められると思っているわけではないだろうな?」


 ケイは、懐に入れたジョンの左手を見て言った。


「まさか――」ジョンが笑った。


「それなら――いや、よそう。

 いずれにせよ、これが最後だ」


「そうだな、これが最後だ。

 実のところ、あいつとやり合った時の傷も完治してないんだ。

 長々と付き合ってやれそうにない」


 それを挑発と取ったのか、ケイは鼻で笑った。しかし、実際その言葉は嘘ではなかった。普通なら、まだ入院が必要な状態だ。

 今は緊張と興奮状態のため、感覚が麻痺しているに過ぎない。


「私は――――」


 ケイは、ジョンをジッと見つめ、自らの内に答えを探すように呟いた。


 疼きにも似た激しい渇望を彼女は感じた。

 目の前の男をバラバラにして、肉も骨も、魂すらも、存在の全てを自分の物にしたいという衝動。

 そして何よりも、紅く熱い血潮を全身に浴びて、喉を鳴らして最後の一滴まで飲み干したいという乾き。


 殺人衝動――だがそれは憎しみではなく、むしろ逆の感情から来るものだ。


「私の中には抑えがたい衝動がある。

 コレは、どうやら相手への想いが強ければ強いほど大きくなって行くようだ。

 ――愛が私を救うと言ったな。

 逆だ。愛が私を破壊する。

 そして、愛がおまえを殺す。

 ――


 それはいびつな、だが純粋な愛の言葉。


「出来れば、もっと色気のあるシュチュエーションで、その言葉を聞きたかったぜ」


 ジョンの心は決まった。


 それは自分のためではない。他の誰かから助けを求められた時、憎まれ口を叩きつつも、差し出された手を握ってしまう、この男のさがゆえ。


 そして、彼自身は決して認めはしないだろうが、そんな時こそ、限界を超えた力を発揮するのが、ジョン・スタッカーという男なのだった。


 実際、ケイの力量は、ジョンを遥かに超えている。

 そのことを解らぬジョンではない。

 だが、望みはあった。

 誰あろう、ケイ自身の言葉がジョンにそのたった一つの希望を信じさせてくれた。


 たとえそれが、文字通り一縷いちるの望みであったとしても――


 己が成すべきことを成すのみ。


 ジョンの意識は、その一点に集中していた。



  ◆◆◆




 そして――――

 忘れられた墓地で対峙する二人は、同時に動いた。


 ジョンは、銃を抜き――ケイは一陣の風となった。


 銃を抜いた時には――否、行動を起こそうとした時には、ケイの姿はジョンの視界から消えていた。

 剣術における先の先。相手が目標を見失い、だが、抜き放った手は止めることが出来ない絶妙のタイミング。


 ――しかし、ジョンに迷いは微塵もない。


 それもそのはず、彼の目的は

 当てる必要がないのだから、見えていようと、いなかろうと関係がない。


 一方、ケイにはジョンの動きがはっきりと見えていた。

 何か策があるのかと危惧していたが、相手の重心、腕の動きで左手に握っているのが銃であることは、すぐに見抜いていた。


 そして案の定、ジョンの手には愛用のカスタム銃があった。


 義手での抜き撃ちは、利き腕である右手に比べて動きが僅かに遅い。


 ケイにとっては、据え物を斬るようなものだ。

 もう一歩踏み込み、直接首を落とすことすら可能。


 いや――油断は禁物だ。


 ケイは一瞬わき起こった思いを打ち消すと、万全を期すべく、目の前の左腕に魔剣を振り下ろした。


 この時の逡巡が、勝負の全てだった。


 ジョンの体は万全にはほど遠い状態にあった。

 否、たとえ万全であったとしても、今のケイの動きをとらえることなど出来はすまい。


 彼女が直感の通り、直接首を狙っていれば、それで勝負はついていた。

 それどころか、足を狙おうが、胴をなで斬ろうが――――

 ケイはいかなる方法であろうとジョンを殺す事が出来たのだ。


 ――――


 奇しくも、それは影の国で、轟とまみえた白龍がとった方法と同じだった。


 ――腕斬りと呼ばれる所以ゆえん

 銃を持った腕を落とし、首を斬る。

 腕斬りの技。


 捉えることの出来ないジョンにとって、たった一つ予測出来る技。

 銃を向ければ、ケイは必ずそこに来る。

 腕を落とし、首を狙う。

 いかに神速、神業であろうと、それだけは確かだった。


 そして、どのタイミング、刃がどの角度からどこを斬るかまで――

 

 否、知っていた。


 なぜならば、あの日より。

 繰り返し見た悪夢の中で、嫌と言うほど体験したからだ。

 合金製の義手になっても、未だに腕は幻の痛みを訴える。


 こと腕斬りの技に関する限り、ジョン・スタッカーほど詳しい人間は他にはいない。


 だが、タイミングがわかったからといって、この技が防げるわけではない。

 神速の斬撃を躱すことなど不可能だ。


 それはただ、どこを斬られるかがわかるというだけ。

 宇宙で最高の硬度を誇る、オリハルコンの魔剣を止め得るものなどあるはずもない。


 ――――そのはずだった。



 ◆◆◆


 ジョン・スタッカーに確実な死をもたらすはずの黒い刃は、しかし届くことはなかった。


 振り下ろした刀は、確かにジョンの左腕を捉えていた。

 たとえ、それが合金製の義手であろうと関係はない。


 だが――――


パキン


 と――――不意に乾いた音が鳴り響き、ケイは手ごたえに違和感を覚えた。


 ――!!


 体に染みついた技は、思考を余所よそに首へとどめの一撃を繰り出す――しかし、そこで違和感の原因を彼女は見た。


 今、目で見ているものが理解出来ない。

 あり得ないことが起こっていた。


 振り切った魔剣は――ジョンの首を切り裂くはずの刀は――半ばから先が無かった。

 宇宙最高の硬度を誇るはずの、オリハルコンの刀が折れていた。


 伝説の魔剣使い。超絶の技を持つ暗殺者である腕斬りも、さすがに戸惑いを隠せなかった。

 時間にしてわずかな間、ケイは動きを止めた。


 馬鹿な――――


 声にならない叫びを彼女は、あげていた。


 仮にあの義手がオリハルコン製だったとしても、魔剣を折ることなど出来るはずがない――


 たとえば、折れたのが普通の刀であったなら、それがどんな業物だったとしても、ケイはここまで動揺することはなかっただろう。次の行動を選択したはず。戦うことを優先したはずだ。


 それが、ほんの一瞬とは言え、戦闘の最中にあって、戦うことを忘れた。

 折れた原因を探してしまった。


 それは隙とも言えないようなわずかな間。

 しかし、ジョンには充分な時間だった。


ガッ――――


 ジョンは銃身でケイの手から折れた魔剣を弾き飛ばした。

 その衝撃で、彼の手から銃が離れ落ちた。斬られこそしなかったものの、彼もまたダメージを負っていたのだ。


 しかし、それでも構わず左手で彼女の右手首を掴み、引き寄せる。

 体が触れ合うほどに密着したケイの目の前に、銀色に光る銃口があった。


 アラハバキ製M357、コルトパイソン357マグナムのレプリカ。

 ビル・ランスキーから託された、兄、ジョセフの愛銃だ。


 ジョンは右手で背中のホルスターから357を抜いていた。



◆◆◆



 手を握り、体を近づけた二人は、遠目にはペアダンスを踊っているようにも見えた。

 これだけ密着していればケイの動きは封じられている。その上、何をしようとすぐに察知できた。


 ハァ――――ハァ――


 互いの息遣いが聞こえる程の距離で、ジョンとケイは見つめ合った。


 熱く燃えるようだったケイの心と身体が、急速に冷めていく。

 狂気の炎を宿していたケイの紅瞳に、ジョンは理性の光が戻るのを見た気がした。


「どうして――――」


 答えを探すように、ケイはジョンの左腕を見た。

 手首の下には、刀の跡がある。

 だが、上着は切れているが、その下の腕は無事のようだ。


シャラン――


 と――――

 鎖が鳴る音が聞こえ、何かが刀跡から溢れ落ちた。


「――――!!」


 それを見たケイの面に、戸惑いと明らかな驚きの表情が浮かび上がった。

 言葉を失い、ただジッとそれを見つめている。


 金色の鎖に繋がれた、コガネムシのペンダントを。


 それはルシィの形見。

 ジョンが肌身離さず持ち歩いているペンダントだった。


「まさか――――」


 ペンダントは真っ二つに割れていた。

 背中にはまっていた小さな石は粉々に砕けている。


「貴様――これで刀を受けたのか」


 ケイはとがめるようにジョンを睨んだ。


「壊してしまって申し訳ないと思っている。

 でも、これしか方法がなかった」


 ジョンはすまなそうに目を伏せた。


「そんなことを言っているんじゃない!」


 ケイは激しくかぶりを振った。

 なぜ、ここまで動揺しているのか、彼女自身も分からなかった。


「わかっているのか?

 これは、ただのペンダントだ。

 オリハルコンの原石は、背中の小さな石だけなんだぞ!」


「やっぱりこの石は、オリハルコンだったんだな」


 ジョンは、安心したように息を吐いた。


「なっ――――」


 今度こそ、ケイは衝撃のあまり言葉を失った。

 よろめき、地面に座り込んでしまった。


「おい、大丈夫か?」


 その様子に、ジョンは銃を下げ、心配そうに覗き込んだ。


「お……おまえは……あの石がオリハルコンの原石だという確信も無しに、あんな無茶をしたのか」


 呆然と、ケイは独り言のように呟いた。


「確信ならあったさ」


「なに――――?」


「あのペンダントは、母親がルシィに残したとあんたは言っていた。

 なら、あれをルシィに渡したのは、あんたなんだろう?」


 戸惑いがちにケイは頷く。


「以前、魔剣には不死なる者を滅ぼす力があると、あんたから聞いたのを思い出したんだ。

 だから、大事な娘に残した御守りのペンダントに、魔除けの石としてオリハルコンがはまっているかもしれないと思ったのさ」


 その話を聞いたとたんに、ケイの形の良い眉が吊り上がった。


「馬鹿っ!」


 彼女の剣幕に、ジョンが仰け反る。


「なにが確信だ。それは確信とは言わん。ただの思い込みだ。

 ――それにおまえは知らないだろうが、オリハルコンの原石と言っても、何の加工もしていなければ、硬度にムラがあるんだ。

 大抵は石ころ程度の硬さしかない。

 おまえは、たまたま当たりを引いただけなんだぞ」


「うっ――――」


 ジョンは、青ざめた顔で呻いた。さすがにこれは知らなかったらしい。


 苦笑いを浮かべながら、ケイは「本当にそうなのか」と自問していた。

 あのペンダントは、彼女が持つ短刀と共に、彼女の母から、母は祖母から受け継がれて来た品だった。

 それなら何かがあるのかもしれない。


「とは言え……あんな米粒みたいな小さな石に、たまたま刀が当たって折れるなんて……おまえの強運も馬鹿には出来ないな」


 ケイは粉々になったペンダントの石を見て呟いた。


「それは違う」


 ジョンは左の義手を上げて言った。


「機械の手になっても、腕の傷は癒えてはいない。

 あの時からずっと痛み続けているのさ。

 目をつむれば、今でも斬られた時のことを思い出せるくらいに。

 だから、腕斬りの技なら、俺はもう一度やってもこの石で受ける自信がある。この米粒みたいなオリハルコンでチャンバラをやってみせるぜ」

 そう言ってジョンは片目をつむった。


 ――この小さな石には、想いがこもっているのよ。


 唐突に――ケイは、母の言葉を思い出した。彼女にペンダントを渡し、その想いがあなたを護ると言った母の声が蘇った。

 その姿が、声がかつての自分自身に重なった。


 ギリギリの瀬戸際で命を拾ったとは、とても思えないようなジョンの様子を見て、ケイはこの男には二度と勝てないだろうと直感した。

 技では完全に自分が勝っていた。負ける要素など微塵も無かった。

 だが、それでも心のどこかでジョンを殺したくないとそう思っている自分がいた。


 あの護り石は、愛する者をその手にかけるなという娘の意志であったのかも知れない。

 同時に、それは彼女自身の偽らざる気持ちなのかも知れない。


 ならば、彼女は実の娘に、そして自分の想いに負けたのだ。


 目を閉じ、深呼吸した。

 不思議と気持ちは静かだった。

 先ほどまでの燃えるような渇望はどこにも無かった。


 目を開け、こちらを心配そうに見つめる男の顔を見上げた。


「私の負けだ。ジョン・スタッカー」


 そう言って、彼女は手を伸ばした。



 ◆◆◆



「それは困るな」


 不意に、声が聞こえた。

 言葉を発したのはケイだ。

 だが、それは彼女自身の意思によるものではなかった。

 その表情が、見る間に険しいものへと変わっていく。


 彼女は忘れていた。

 最も警戒すべき敵が自分の中にいることを。

 身を焼くような衝動が、不自然なまでに消えていることを。


 それはまるで、獣が息を潜めて獲物の隙を伺っているかのようだった。


 あるいは、魔剣を折られたことで、彼女を縛っていた呪縛が解かれたのかもしれない。

 これで全てが解決したと安心してしまったのかもしれなかった。


 ――だが、それも無理からぬこと。


 ジョンが妻を亡くした夜から戦い続けて来たように、彼女もまた、闇を纏った男と出逢った夜より、戦い続けていたのだ。


 如何なる時も、寝ている間でさえ、片時も気を緩めることなく、己の内に潜む獣の手綱を握り続けて来た。


 だが、今――皮肉にも自身の本当の気持ちに気付かされたことで、その手綱がわずかに緩んだ。


 しまったと――そう思った時は遅かった。

 ケイの意識は、底無しの沼に沈むように闇に閉ざされていった。


「おまえ――――」


 ジョンもまた、彼女の変化に気づいていた。

 言いようのないプレッシャーに、全身から嫌な汗が吹き出し、目の前にいるのが全く異質な存在だと、本能的に理解した。


 慌てて体を離そうとした。

 しかし、消耗した体は、思った以上に重かった。


 ケイは――ケイだったモノは、予備動作も無く勢いよく起き上がると、ジョンの喉を鷲掴みにした。

 同時に左手で銃を持った手を押さえる。


「ぐっ――――おまえ……が……伯爵か」


 万力のような凄まじい力に、ジョンは呻き声を漏らした。咄嗟に振りほどこうとしたが、縫い止められたようにビクともしない。


 それだけではない。軽量であるはずの彼女の体は、全く動かなかった。


「好きに呼ぶが良い。

 所詮、人間たちが付けた呼び名だ」


 酸欠でチカチカと視界が点滅し、手から銃が滑り落ちた。

 ジョンは、途切れそうになる意識をつなぎ止めるために気力を振り絞った。


「やはり、女の細腕では上手く力が入らんな――!」


 伯爵は苛立たしげに舌打ちをした。

 ――が、何かを思いついたのか、ニヤリと笑んだ。

 邪悪な笑みだった。ジョンはケイにこんな笑い方をさせる存在に激しい怒りを覚えた。


 怒りに任せ、渾身の力を込めて激しく抵抗する。

 しかし、戒めは解けず、相手は揺るぎもしない。

 それどころか、無駄に酸素を消耗したせいか意識が朦朧とし始めた。


 ――まずい。

 ジョンがそう思った時だった。

 右手を押さえていた手が離れた。


 これを好機と、ジョンは自由になった両手で喉を掴んでいる腕を引きはがそうと試みた。だが、それも無駄に終わった。

 片手で高く差し上げられ、つま先立ちでやっと立っている状態では、何ともしようがない。

 首の骨を折られないように堪えるのが精一杯だった。


「しぶとい奴だ」


 不死の魔剣使いはそう呟くと、懐から短刀を抜いた。

 暗くかげった視界の端に、不吉な黒い刀身を見て、ジョンは血の気が引く音を聞いた気がした。


 彼の動揺を感じ取ったのか、伯爵は再びにんまりと嗤った。


「生身で久しぶりに味わう血は、さぞかし美味かろうよ。

 それに、おまえを殺せばこの女の未練も消えよう」


 ゆっくりと――まるで獲物の恐怖を味わうように、短刀がジョンの顔に近づいて来る。

 彼は咄嗟に短刀へ手を出そうとした――だめだ、手を離せば首を潰される。


 何か――何か手はないか――――


 まさに絶体絶命の危機にあって、ジョンは諦めず、逆転の手段を模索する。

 だが――――奇跡のような一手は、見つからない。



 ◆◆◆



ヒュー――――


 ――――と、その時。


 ドンという小さな音が聞こえ、そして火線がゆるゆると空へ伸びて消えた。

 ざわめきが、波紋のように広がり――一瞬の静寂の後。


ドーーーーーーン!


 空気を震わせる轟音が響き渡り、夜空に巨大な光の花が咲いた。


 赤、青、黄――様々な色に変化する光が、空いっぱいに広がっていく。


 それは、花火を見慣れた者ですら心を奪われる幻想的な光景だった。


 願いを叶える奇跡の花火――――


 ねぇ――――

 ジョニィは何をお願いするの?


 薄れ行く意識の中、ジョンはルシィの声を聞いた。


 何を願うの?


「お……俺の願いは――」


 刃の冷たい感触を首に感じた。


「こいつを――ケイを救いたい!

 ルシィ! 俺に力を貸してくれ!」


 残った力を振り絞って、ジョンは叫んだ。

 間近に迫る死も忘れた。ただ心から願い、力の限りに絶叫した。


「愚かな」


 嘲りも露わに、伯爵は短刀を持つ手に力を込めた。


 その時――――

 何かが、視界をよぎった。


「?――――」


 目をしばたたかせ、魔人は手を止めた。

 辺りに目を向けると、無数の小さな光が乱舞していた。

 微かに点滅を繰り返すそれは、蛍にも飛び交う火の粉にも見える。


「ルシィ――――おまえなのか」


 視界の隅、二つに割れたペンダントが光を放つのをジョンは見た。

 その光に答えるように、空中の燐光が点滅する。


「貴様の仕業か」


 伯爵はジョンを睨みつけると、改めて短刀を振りかぶった。


 すると、燐光は意思あるもののように伯爵の両手にまとわりついた。


「ぐぁっ――――」


 光が触れた瞬間、魔人は苦しげに顔をしかめた。短刀を取り落とし、ジョンを突き飛ばして離れる。

 両手の甲に火傷のような傷を負っていた。


 燐光は伯爵から離れると再び集まり、倒れたジョンを守るように二人の間に立ち塞がる。


「こいつは――?」


 無数の光が集まり人の形を成した。長い髪を二つに分けた細身のシルエットに、ジョンはピューレス人の女を連想した。


「そうか、おまえがカムイか――――」


 傷を負った両手を押さえ、伯爵は叫んだ。

 不死の王と呼ばれた魔人が明らかに動揺している。


 ジョン――オマエの願いを叶えよう。


 頭の中で、今度は何者かの声が響いた。そして、ジョンは見た。


 朧だった輪郭が徐々にはっきりとしたものとなり、女性の姿が浮かび上がった。

 空中投影ホログラムのようなそれは、儚げでこの世のものとは思えぬほどに美しかった。しかしそれでも確かな存在感があった。


「ああ……あ――――」


 ジョンの口から、嗚咽ともつかぬ声が漏れた。

 突き飛ばされ、倒れた体を起こそうとしたが、思うように動かなかった。


 それでも、這うように彼は手を伸ばした。

 決して帰ることはないと思っていた人がそこにいる。


 白いドレスを着た、ほっそりとした身体。

 柔らかいブロンドが風に揺れていた。

 ジョンに背を向けているが、それが誰かは間違えようがない。

 肌の暖かさ、彼を呼ぶ声――全てを――覚えている。


「ルシィ――――!」


 万感の思いを込め、ジョンは愛しい人の名を呼ぶ。

 想いは溢れ、声は掠れ、震えた。


「ジョニィ」


 ルシィが答える。

 朦朧とした意識の中、不意に視界が滲んだ。

 震える程の歓喜にジョンは涙を流していた。

 次から次へと、もう流し尽くしたと思っていた涙が止めどなく溢れた。


 しかしルシィは振り返らず、伯爵を――その向こうの母をジッと見つめた。


 幻の娘と闇に飲まれた母。

 奇妙な邂逅だった。

 伯爵は相手の意図を図りかねているのか、動けずにいる。

 両手の火傷は、いつのまにか再生していた。


「――お母さん」


 不意に、ルシィが口を開いた。


「――――!」


 その一言に物理的な力が備わっているかのように、伯爵はビクリと身を震わせた。


「お母さん!」


 娘が更に強く母を呼んだ。


 身の内から突然沸き起こった力に、伯爵は震え、大きく仰け反った。


 拮抗する二つの力に引き裂かれるように、女の身体は激しく痙攣した。

 やがて苦悶に顔をゆがめ、膝から崩れ落ちた。


 そこで初めて、ルシィはゆっくりと振り返り、ジョンを見た。


 彼女は微笑んでいた。

 柔らかな笑みだ。

 それはジョンが覚えている彼女の姿そのもの。


「そうか――――」


 目の前のルシィと思い出の中の妻がピタリと重なり、ジョンは全てを理解した。

 彼は伸ばしていた掌を握り、降ろした。

 そして、長く――長く息を吐いた。


 まるで身体の中にあった何かを解放するように。


「やっぱり――そうなんだな」


 もう会えないと諦めていた最愛の人がそこにいる。

 それだけで、全てを投げ出してしまいたくなる。

 たった今気付いた事実を忘れ、思考を止めてこの瞬間にいつまでも浸っていたくなる。


 だが、それは出来ない。

 そんなことを、誰よりもルシィは望んではいない。


 ジョンは激しくかぶりを振り、もう一度妻の笑顔を見た。

 彼女もまた、夫の顔を見つめた。


 時が、戻ったようだった。

 もう遠い昔のようにも思えるあの頃に。

 しかし、時は逆しまには戻らない。

 死者もまた、蘇りはしないのだ。


 このルシィは、本当の彼女ではない。

 何者かによって形を与えられた、彼女の想いだ。


 ルシィは、自分の死が母を悲しませると思ったのかもしれない。

 彼女の前から姿を消した自分を責めると思ったのかもしれない。


 ねぇ、笑ってジョニィ――


 最後まで、残されたジョンを気遣ったように。


 ジョンを、母を、残された愛する人たちのことを想ったのだろう。


「まったく――最後まで他人の心配ばかりしやがって」


 彼はそう呟いて笑った。

 泣き笑いのような笑顔で。


「なぁ――最後くらいは、弱音を吐いても良かったんだぜ?」


 幻だとは知りながら、ジョンは妻に語りかけていた。


 死にたくないと泣いても良かった。

 トラブルに巻き込んだジョンを責めても良かったと――――


 だが――――


 笑ってジョニィ。


 ルシィは最後まで笑顔だった。


 そんなルシィだったから――

 ジョンは彼女とずっと一緒にいると誓った。

 そんな彼女だったから――

 ジョンは自然に、愛するようになった。


 そして――――


 そんなルシィだったから、彼女を永遠に失ったことを、今日まで認められずにいたのだ。


 5年の月日が流れ――

 今、ジョンはやっとルシィの死を受け入れることが出来た。


 乗り越えた訳でも、後悔が消えた訳でも、もちろん忘れた訳でもない。


 ただ、ジョンの心の中にが出来ただけだ。

 ――ルシィの死という事実の。


 彼の心中を察したのか。

 ルシィは、頷き満面の笑顔を浮かべた。


 そして――笑顔だけを残し、彼女は溶けるように消えて行った。


 最後にルシィの口が微かに動いた。


 ごめんね――


 ジョンには彼女がそう呟いたように見えた。


 光の残滓ざんしが、ジョンを慰めるように頰を撫でた。



 ◆◆◆



 人の動く気配を感じ、ジョンは我に返った。

 眠りから覚めるような感覚に、目眩さえ覚える。


 目を向けるとケイが立ち上がっていた。

 いつの間に拾ったのか、手には短刀を持っていた。


 ジョンは一瞬身構えたが、彼女が柔らかい表情を浮かべているのを見て、体の力を抜いた。

 意識はかなりはっきりしていたが、無理が祟ったのか、体はまったく言うことを聞かない。

 なんとか上半身を起こすのが精一杯だ。


「元に戻ったのなら、手を貸してくれないか」


 ジョンの軽口に、しかしケイは首を振った。

 不意に、彼は言いようの無い不安を覚えた。


「ケイ? あいつは――伯爵はどうしたんだ?」


 繊細なガラス細工に触れるように、ジョンは問いを口にした。

「問題ない、大丈夫だ」という答えを期待して――否、祈って。


 だが――


 やはりいらえはない。

 代わりに、彼女は掌を彼に見せた。


 ――――!


 あっという間だった。

 制止を口にする間もない。彼女は掌に刃を当てると、迷いなく引いた。


 凄まじい斬れ味に、一瞬遅れて大量の血が彼女の手を濡らした。


「おい! 何を――――」


「大丈夫だ」


 慌てて起き上がろうともがくジョンを、ケイが制した。


「――大丈夫だ。よく見ろ」


 言い聞かせるように繰り返し、傷口を見せる。


「血が――」


 ジョンは息を呑んだ。

 血が止まっている。


 大量に流れていた血が、止まっていた。

 それだけではない。傷口も塞がり始めている。

 その治癒――再生と呼んでも良い力は、人のものではない。


「数分もすれば、完全に塞がるだろう」


 そう言いながら、ケイは傷ついた手を握った。


「伯爵は、消えてはいない」


 自分の手を見つめながら、彼女は言った。


「力を失ったわけでもない。

 それどころか、奴はもう主導権を奪っている。今は一時的に弱っているが、いつまた現れるかわからない」


「何か手があるはずだ」


 ジョンの言葉に、ケイは再び首を振った。


「もうこの身体は、奴の身体でもある。

 それ程に――同化が進んでいるんだ」


 そう言って彼女は傷ついた手を開いた。

 そこに傷痕はもうない。


「まだ……まだ他に何か――――」


「ジョン」


「そうだ――ナオミに相談して……メトセラならきっと」


「――――ジョン!」


 振り払うように、ケイは叫んだ。

 その声には、有無を言わさぬ響きがあり、そしてジョンは理解した。自分に出来ることはもうないのだと。


「ジョン――ありがとう」


 重い荷物を降ろすように、彼女は言った。

 それは、ジョンが今まで聞いたことのない優しい声音だった。

 胸中に、不安が再び頭をもたげた。


「私はあまり、良い母親では無かったが……まさか、娘に助けられるとはな」


 ジョンの視線を避けるように、ケイはルシィが消えた空間を見つめた。


「あの子は子どもの頃、王子とお姫様の絵本がお気に入りだったんだ。

 まだ小さい時のことだから、意味はわかっていなかっただろうが、それでもその話だけは、大人しく最後まで聞いていた。

 私がめでたしめでたしと言うと、にっこり笑った。

 ――現実はめでたしめでたしとは、いかなかったが」


 そう言って、ケイは目を伏せた。

 彼女の長い睫毛が震え、涙の雫が一つ、頬を伝った。


 嗚咽も漏らさず、悲しみに顔を歪めることも無く、ただ一雫の涙だったが、それは確かに慟哭だった。

 ジョンには、その一雫が激しい悲しみ故に砕けた魂の欠片にも思えた。


 血の気の失せたケイの横顔に、ジョンは刹那、母親の面影を重ね見た。

 その事実はジョンに大きな衝撃を与えた。

 いつも息子を邪魔者扱いし、罵ってばかりいた母。彼と姉を捨てた女のことを思い出したことはない。

 ――思い出したくもなかったはずだ。


「ルシィも王子を見つけたようだが」


 その声が、彼を物思いから引き戻した。

 ケイはジョンを見て、力無く笑った。


「王子と呼ぶには、いささか品がない」


「――ひでぇな」


 大きくなっていく不安に、ジョンの心は揺れていた。

 彼は胸中を悟られまいと、精一杯虚勢を張った。


「俺が品の無い王子なら、相手役の姫も二人いて良いはずだな」


「馬鹿」


 溢れそうになる悲しみ故か、それとも抑えきれぬ愛故か、ケイの端正な面が微かに歪んだ。


 だがそれも一瞬。彼女は気丈な女性の顔――あるいはそれは仮面であったのかも知れぬ――に戻った。


「ジョン――よく聞いてほしい」


 空気が張り詰めるのがわかった。


「ケイ――――」


「手はある」


 思わず口を開いたジョンを遮るようにケイは重ねた。


「――え?」


「一つだけ私に出来ることがある」


 突然切り出された言葉。それはようやく見えた希望の光にも思えた。

 だが――――


 この胸騒ぎはなんだ?


 ジョンは自らに問うた。


「ヤツと同化して解ったことがある。

 あの吸血鬼が限りなく不死に近いのは、そもそも命がないからだ。

 死者がもう死ぬことはないように――」


 死者――――

 その言葉にジョンは、ケイと初めて会った時のことを思い出していた。

 あの凄惨な殺人現場。

 死の匂いが充満する地獄に現れた女。


 ケイからは死の匂いがした。

 冷たく妖しい死者の女王。

 生きながら死んでいるようだと思った。


「ジョン。腕斬りの魔剣に特別な力があるという話を覚えているな?」


 ケイはオリハルコンの短刀を握りしめて言った。


「おい! 待て、まさか――――」


 ジョンは立ち上がろうと必死でもがいた。

 不安は、現実のものとなった。

 彼女がこれからしようとしていることが、解ったからだ。


「だが、今なら――

 私という生者と同化している今なら。

 伯爵を殺すことが出来るのではないか?」


「やめろ!」


「伯爵だけを殺すことが出来るかもしれない」


「やめてくれ――」


 ジョンは気力を振り絞り、言うことを聞かない身体を立ち上がらせた。

 揺れる膝を拳で殴り、ケイへと手を伸ばす。

 すぐそこにいるはずの彼女との距離が遥か遠くに感じられる。

 空気がまるで濃密なゴムのように彼を阻んだ。


「二度も――俺を置いていかないでくれ」


 それは悲鳴に近かった。


「ジョン――」


 短刀を振りかぶる手が一瞬止まり、ケイの視線がジョンを掠めた。

 その瞳の奥にたゆたう迷いの色を、彼は確かに見た。

 彼女の中の恐れを見て取り、追いすがるように言葉を重ねる。


 魔を祓うオリハルコンの刃は、最古の吸血鬼を滅すのかもしれない。

 だが、それによって傷つくのは、大切な女の身体なのだ。

 失われるのは、かけがえのない人の命だ。

 吸血鬼のみを滅ぼし、傷が再生するなどと、都合良くいくとはとても思えなかった。


「ケイ――やめろ!

 俺がなんとかする。

 たとえアイツが出て来ても、俺がなんとかしてやる。

 何度でも、何百、何千回でもおまえを取り戻す。

 だから――やめてくれ」


 魂さえ震わせ、ジョンは叫んだ。



 ◆◆◆




 剣こそ全て――――


 剣こそ私自身。


 目の前のモノを切り裂き屠る冷たい武器が、私の本性。


 他人とは殺人対象でしかない。

 どう倒し、どう殺すか。


 それが、他人に対して持つ興味の全て。


 肉親に対しても、友と呼べる者に対しても、私の中にある凶器を悟らせまいと、距離を置いていた。

 いつか傷つけ、壊してしまうという予感があった。


 すぐそこにあった幸せから、私は自ら遠ざかった。


 だが皮肉にも、記憶を失い、アベルと出会った。

 ルシィが生まれて、私は初めて素直に誰かを愛しいと思った。


 いや、初めて愛しいという感情を知ったのだ。


 これからの人生の全てを、この子と生きて行こうとそう決心したのに――


 しかし、過去は私を逃さなかった。

 私は、自身の本質に再び気付かされた。


 あの獣が、新たな器に私を選んだのも偶然ではなかった。

 結局、私も心のない殺人機械にすぎなかったのだ。


 私だけが時から取り残されて、友が逝き、最愛の娘をも失った。


 たった一人残った息子さえ、心の在り処を探すように彷徨っていた。


 私の中から、再び愛が零れ落ち、冷たく乾いていくのを感じた。

 ずっと否定してきた、私の中の獣との境界が分からなくなっていた。


 このまま、ほんもの化物になる。

 それでも良いと思った。


 なのに―――


「ケイ――――!」


 精一杯私を呼ぶ、繋ぎ止めようと叫ぶ男がいる。


 ジョン・スタッカー。

 ルシィの伴侶。

 宇宙で2番目のBH。

 無愛想でタフなハードボイルド。


 ゴードンからは、全てが終わっても生きていたなら殺せと言われていた男だ。

危険だからと――


 だが出来なかった。

 私は彼を見逃した。

 殺せ――殺したいという内なる声よりも強く、私はこの男に生きていて欲しかったのだ。


「俺がなんとかする。

 たとえアイツが出て来ても、俺がなんとかしてやる」


 それなのになぜ、この男はわざわざ追いかけて来てこんな勝手なことを言っているんだ?

 せっかく見逃してやったのに。


「何度でも、何百、何千回でもおまえを取り戻す」


 うるさい!


「だから――やめてくれ」


 うるさい――!!


「ケイ!

 命に代えてもおまえを――」


 違う!


 私は――

 私はおまえを――



 ◆◆◆



 ポタリと――――

 水滴が石畳に小さなシミを穿うがった。


 ポタリ

 ポタリ


「馬鹿者――どうして貴様は――」


 頬を伝い、止めどなく流れる涙。

 月光を受け煌めき、落ちる。

 それは、あふれ出た彼女の心。


「ケイ――」


 ケイの体から力が抜けるのを見て取り、ジョンは安堵の吐息を漏らした。

 思い留まってくれたと、そう思った。


「ジョン――」


 すがるような表情で、彼女は愛する男を見た。


「私は――おまえを死なせたくない」


 吐息と共にそう言って、彼女は笑った。


「だから――今、一緒に行くわけにはいかないんだ」


 悲しげに目を伏せ、ケイは呟いた。

 ジョンは、心臓が一際高く鼓動を打つのを確かに聞いた。

 足下から冷たい感覚が這い上ってくる。


 今――ケイはなんと言った?


 一瞬思考が凍り付き、我に返ったジョンが慌てて手を伸ばす。


 だが彼女は後ずさり、首を振った。


「すまない、ジョン。

 これは……私の意地だ。

 おまえに頼って、おまえの心が磨り減っていくのを見るのは、我慢出来ないんだ。

 それなら、一か八かに賭ける」


 最後にもう一度、ケイは正面から彼を見つめた。

 その姿を心に刻むように。


「ケイ! ダメだ!」


 ――なんて


 ――なんて、俺は馬鹿なんだ。


 彼女の顔を見た瞬間、ジョンは理解した。

 そして、自らの愚かさを呪った。

 ケイに命をかける覚悟をさせたのは、自分なのだ。


 あいつは、思い直してなんかいない。

 その逆だ――


 ジョンに対する愛が。

 大切に思う心が、彼女に行動を決意させた。

 なんという皮肉――――


「よせ――――」


 必死で伸ばした手から身を躱し、ケイは下がった。


 そして――――

 彼女は両手で体を抱きしめるように、短刀で自らの胸を刺し貫いた。


「ケイ――――!」


 ジョンの目の前でケイの体がゆっくりと倒れていく。

 彼は這うようにして飛び込み、なんとかケイの体を抱きとめた。


「ジョン、すまない。

 私はこういう女なんだ。

 不器用――ッ――なんだ」


 咳き込み、血を吐いて彼女は弱々しく笑った。


「わかった――謝らなくていい。

 もう喋らなくてもいいから」


 ジョンは涙を流し、繋ぎ止めるようにケイの体を抱きしめた。

 目の前の女の体から、確かにあったはずの命が急激に失われていくのを、彼は感じた。


 脳裏に5年前の夜がフラッシュバックする。記憶が過去と今を行き来した。


 血の気を失ったケイの顔が、微笑みながら息を引き取ったルシィの死顔に重なる。


「どうして――どうして皆、逝ってしまうんだ」


 血を吐くような思いで、ジョンは声を上げた。


 失いたくないと――

 今度こそ失うまいと思ったのに。

 どこで間違ったんだ?


「おまえは間違ってなどいない」


 思いを察したのか、ケイは彼の頰を撫でた。


「――泣くな。男だろう?」


 そう言って彼女は力なく笑った。

 と――――

 不意に、その手から力が失われ、血に濡れた細い指が、ジョンの頰に朱を引いた。


「ケイ!逝くな!

 逝かないでくれ!」


 ――応えはない。

 女はただ、ゆっくりと瞼を閉じた。


 身を切るような悲しみと、救えなかったという自責の念、そして何よりも「どうして」というやり場の無い怒り。

 そんな激しい感情の渦が、ジョンの中で荒れ狂っていた。


「ああああぁぁぁぁぁぁぁぁ――――‼︎」


 考えることも、感じることも忘れ、ジョンはただ咆哮した。

 他に出来ることはなかった。

 ただ、獣のように声を上げることしか出来なかった。


 遠い星の、忘れ去られた墓地の闇に、男の声は溶けて消えた。




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