第16話 回転花火〈Ⅱ〉 No One Lives Forever

 あの日、祖父が語った『真の敵』との遭遇は、突然訪れた。


 『仕事』の帰路だった。

 その時、私は祖父に同行していた。


 月のないくらい夜だった。

 人目を避けて、路地から路地へと走る私たちの前に、そいつは現れた。


 壊れかけた街灯の、点滅する灯りの下に、そいつは立っていた。


 喪服のような黒いスーツを着た美しい男だった。

 年齢は20代の若者にも、もっと上にも見えた。

 芸術的なまでに一部の隙もない見事な体躯は、男神の彫像のよう。

 彫りの深い端正な顔。黒眼の多い瞳は、憂いを帯びて伏せられている。

 長く腰の辺りまである黒髪は、一切光沢がなく、まるで凝縮した闇のようだった。


 だが、その男を際だたせていたものは、そんなうわべの特徴では無かった。

 それは圧倒的なまでの存在感だ。

 例え、百人、千人、いや数万の群衆の中にいたとしても、彼を見つけるのは容易だったろう。

 それほどまでに、その男は異質だった。

 まるで、細胞の一つ一つに至るまで、別の何かで出来ているかのようだ。

 その存在に私は、畏怖さえ感じた。


 例えばそこにいるだけで、相手を屈服させ得る者がいるとすれば、それは彼をおいて他にはないだろう。


 


 祖父の言葉を、私は瞬時に理解した。


 アレは、いてはいけないものだ。

 そう確信した。


 あらかじめその存在を知っていたが故か。行動は、祖父の方が早かった。

 一拍遅れて、私も短刀を逆手に後を追う。


 ――速い。


 祖父雷也らいやのかつての二つ名は、その名が示す通り『いかづち

 全盛期を彷彿ほうふつとさせる――否、それすら凌駕する雲耀うんようの速度で祖父ははしった。


 同時に、男が顔を上げた。

 何かを感じたのか、右手を伸ばした。

 ――だが遅い。


 既に間合いに入っていた祖父が魔剣を一閃した。

 音もなく男の腕、次いで首が断たれた。


 全ては一瞬。

 不意を突いたとはいえ、あまりにあっけない決着だった。


 だが次の瞬間――――

 男は、何事もなかったようにそこにいた。


 腕も首も、元に戻っている。

 いっしょに斬られたはずの服も、ほつれすらなかった。


 それは再生というよりも、まるで斬られたという事実が、なくなってしまったようだった。


 私は自分の見た光景が信じられず、目をしばたたかせた。


 走り込んだ勢いから、祖父の肩が男に触れた。

 男の健在に気づき、祖父が離れようとした。


 しかし――――

 祖父の肩が男から離れない。

 よく見れば、触れた辺りから祖父の体が男の中へと沈み込んでいた。

 まるで男の体が底なしの沼であるかのように。


 見る間に祖父の体が黒く染まって行く。

 男のまとう闇が、祖父を侵食して行く。


 あまりの常識を超えた光景に、私の足はすくんでいた。


 祖父は魔剣を振るって逃れようとしたが、その腕を掴まれた。

 そのまま男は、自らの内に引きずり込もうとする。


 祖父の手から魔剣が落ちた。

 思考を停止していた時間は、一秒か、半分か。我に返った私は魔剣を拾い上げるとそのまま男の上半身をいだ。


 だが、それも先程と同じように一瞬で元に戻る。

 男が私を見て目を細めた。

 まるで、新しい玩具を見つけたように。


 私の体中を言いようのない恐怖が走り抜けた。

 今まで感じたことのない、絶望的なまでの無力感。


 ただただ、恐ろしかった。


 ついに祖父の体が男の中に没した。

 最後の瞬間。

 顔のほとんどを黒く染めた祖父の目が

 私に逃げろと告げていた。


 男が祖父にしたように、私に向かって手を伸ばした。

 同時に――――

 何かが男の体から飛び出し、私に襲いかかってきた。


 咄嗟に身を躱し、向かい合う。

 それは、巨大な――出てきた男の体よりも大きな黒い狼だった。


 ヴヴゥゥゥゥゥ――――


 紅い目を爛々らんらんと光らせて――

 鋭い牙がびっしりと生えた口を開け、そいつはうなり声を上げた。



◆惑星チリエリ


 惑星チリエリは、荒野と砂漠地帯が大陸部の大半を占める星だ。

 開発当初はこの星に人は住めないとも言われた。

 それでも飛躍的に進歩した惑星開発技術と、なによりも初期の移民団の努力によって、今では多くの人が住む星となった。


 そのせいかどうかは解らないが、頑固で我慢強い、一種の職人気質がこの星に昔から住む者たちの特徴でもあった。


 一日は標準時間で約22.5時間。年間を通して気温が高い。

 乾期と雨期があり、乾期は埃っぽく、機械の故障が多発する。

 お世辞にも住みやすいとは言えないような殺風景な星だが、オリハルコンを精製する希少金属の産地として、惑星政府はそれなりに潤っていた。



◆惑星チリエリ 首都ナスカル


 リニアを降りると、高台にある駅のホームからは、地平線に没する太陽が見えた。


 赤、橙、黄――鮮やかなグラデーションと上空から降りてくる濃藍の帳。

 自然が束の間見せる、荘厳な景色にジョンはしばし見入った。


 やがて、意を決したように歩き出した。


 駅の中は、たくさんの人で賑わっていた。普段の様子をジョンは知らなかったが、そこにはやはり、特別な日ならではの、浮き足立った、ふわふわした空気が漂っている気がした。

 そう、今日はこの星にとって特別な日。

 建国記念日なのだ。


 そして、ジョンにとっても忘れることが出来ない日。

 最愛の妻、ルシィが死んだ日でもあった。


◆◆◆


 この星の7月7日は、建国を祝って記念祭が大々的に行なわれる。

 当日だけではなく、前日、前々日から続く賑やかなイベントだ。


 駅を出ると、広い真っ直ぐな道の向こうに、緑豊かな森が見えた。

 あれが祭りのメイン会場である建国記念公園だ。


「花火の開始は、標準時間で午後9時からです。中央ステージ周辺は混み合いますので……」


 上空を旋回する広報用の自動端末ドローンからアナウンスが聞こえた。

 駅を出る人たちのほとんどは祭りが目当てらしく、足早に公園へと向かっている。

 ジョンは人の流れに押し流されるように歩を進めた。


 今夜のジョンは、いつものコートではなく、濃藍のジャケットを着ていた。

 さすがに、チリエリの気候でいつものコートは暑い。

 背中にはトレードマークの毛の生えた心臓がデザインされている。

 これも、コートと同じく防弾防刃仕様の特別製だが、いつもの出で立ちに比べて心許ないのは否めない。

 

 胃の辺りに、鉛を飲んだような重い感覚がある。

 頭では割り切っているつもりでも、やはり祭りの夜にこの星を訪れるのは抵抗があった。


「しっかりしろ」ジョンは小さく呟くと幾分足を速めた。

 進む度に、時間を遡っているような奇妙な感覚を、彼は感じていた。


 5年前のこの日、彼の隣りにはルシィの姿があった。

 生まれ故郷のはずだが、初めて来たかのようにはしゃぐ彼女に、ジョンはそんなに祭りが好きなのかと聞いた。


「女心がわかってないなぁ」

 ルシィは口をとがらせて言った。


「大好きな人と一緒だから、楽しいんだよ。

 大好きな人と一緒だから、どこへ行っても、初めて来たみたいに新鮮で輝いて見えるんだよ。

 ――ジョニィは、楽しくないの?」


 そう言って彼女は腕を絡めた。


「ああ……楽しいな」


 ジョンの言葉に、ルシィは満面の笑みで「良く出来ました」と答えた。


 その時の彼女の声、姿。それはまるでそこにいるかのように思い出せた。


「祭りの最後には、特別な花火があがるんだよ」


 思い出の中のルシィが言う。


「その花火が打ち上がった時に願い事をするとね――どんな願いも叶うんだって」


 どんな願いも叶う――――


 ルシィの言葉が予言のように頭の中で木霊こだまする。

 ジョンは無意識に、胸元に手をやった。

 汗ばんだシャツの下の固い感触――お守りのペンダントを握りしめる。


 その確かな手応えが、過去と現在の間を漂っていたジョンの意識をつなぎ止めた。

 辺りの喧噪が戻ってくる。

 水面へ浮上するように、ジョンは大きく息をついた。


 願いを叶えるという花火も、死者を蘇らせる事は叶わない。

 時はさかしまには、戻らない。


 ならば、魔法のような花火に願うのではなく

 自分自身の手で――――

 救える者を、俺は救おう。

 そうジョンは心に誓った。


 ――――ねぇ、ジョニィは何をお願いするの?


「俺の願いは――――」


 その呟きは、喧騒の中に溶け、そして消えた。



◆◆◆



 私は逃げた。

 誇りも自信も、何もかもを置き去りにして。

 ただひたすらに足を動かした。


 とにかく、その場を離れたかった。

 あの悪夢のような男から、少しでも遠く離れてしまいたかったのだ。


 圧倒的な恐怖と――

 凍えるような敗北感が私を突き動かしていた。


 祖父の事が頭をよぎったが、それもすぐに消えた。

 なぜだか、彼はもう戻らないという確信があった。

 あるいは、それは私自身に対する言い訳であったのかもしれない。


 男は追ってこなかった。

 だが、あの黒い獣――巨大な狼が併走するようについて来ていた。


 特殊な体質と、厳しい鍛錬によって、私たちは常人を遥かに超える速度で走ることが出来た。

 相手が例え野生の獣であろうと引けは取らないはずだった。


 だが、この黒い狼を振り切ることが、どうしても出来ない。

 それは、巨体に似合わぬ俊敏さでぴったりと私に付いて来ていた。

 いつでも仕留められるという余裕すら感じられた。


 なぜ襲いかかって来ないのか?

 最初、私の刀を警戒してのことだと思っていた。


 だが、それが間違いだとすぐに気付いた。

 狼は私を威嚇し、牽制し、時には回り込んで行くてを塞いだ。

 その度に私は、方向転換を余儀なくされ、路地の奥へ奥へと追い立てられて行った。


 そこには、あの男のものではない、この獣独自の意思があった。


 ――――間違いない。

 私は確信した。

 この獣は、なんらかの思惑おもわくを持って私を誘導している。

 おそらくは、あの男から離れようとしているのだ。


 これが私にとって好機チャンスなのか。

 ただ単に殺される相手が変わっただけなのか。

 仮にどちらであったとしても、この機会を生かすしか、私に出来る事はなかった。


 次の角を曲がった時だった。

 私の前に浮浪者風の男が現れた。

 こちらを見た男の目が驚愕に見開かれた。

 だが、男に出来たのは、そこまでだ。


 黒い影が私の横を通り過ぎたかと思うと、男の上半身が消し飛んだ。

 いかなる方法かは解らないが、狼が男を襲ったのは間違いない。

 奴が男に注意を向けた時間は、わずか一瞬。

 しかし、私にとって、それは十分な隙だった。


 狼がこちらを振り返る。

 そこへ、私は魔剣を手に突っ込んだ。

 不意を突かれた狼が慌てて身を躱すが、切っ先は足の付け根をえぐった。

 すれ違い、互いの位置が入れ替わり、向かい合う。


かわされたか……」

 喉を狙った必殺の刺突は失敗に終わったが、それでも成果はあった。

 狼の傷から血は出ていない。


 だが、狼は攻撃を躱そうとした。

 ならば――倒す事が出来るかもしれない。


 す――――は――――


 息を吸って、吐く。

 切っ先を後に向け、刀を隠すように体を半身はんみにした。

 集中を高め、相手の動きを感じる。


 私たちのいるところは、丁度ビルとビルの間の小さな空き地のような場所だった。

 建物から漏れる灯りが微かに辺りを照らしている。

 薄暗い事にかわりはないが、夜目が利く私にとっては十分な明るさだった。


 大丈夫だ。勝機はある。

 私は自分自身に言い聞かせるように呟いた。


 狼と私は、互いに睨み合ったまま、円を描くように移動した。

 空き地には、陰になって暗い場所もあったが、私には問題なく見通せる。

 仮に狼がチャンスとみて、襲いかかって来たとしても望むところだった。


 狼の体が陰に入った。

 私は視線をわずかに彷徨さまよわせ、誘いをかけた。


 と――――狼が足を止めた。

 かかったと、私は内心ほくそ笑んだ。

 しかし、相手には何の動きもない。


 どういうことだ?

 そう自問した時だった。


「小賢しい」


 嘲笑まじりの声が聞こえた。

 それは確かに目の前の獣の口から聞こえた。


 しゃがれた、ひどく聞き取りにくい声。

 おそらく、獣の声帯で無理矢理人間の言葉を喋ったため、こんな声になったのだろう。


「あの男の呪縛から逃れるためとはいえ、なんと嘆かわしいことよ。

 こんな小娘の茶番に付き合わねばならないとは――不死の王ノスフェラトウと呼ばれたこの私が」


「呪縛から逃れる? 不死の王ノスフェラトウだと?」


 私の問いに、狼は喉を鳴らして笑った。


「先代から何も聞かされていないのか――まあ良い」


「爺様から――――」

 狼の言葉に閃くものがあった。

 だがそれは、祖先の話、遙かな昔の話だ。

 私たちにこの忌まわしい血統を与えたと言われる者の話だ。

 ソレは、老いる事もなく、いかなる手段をもってしても死ぬ事もなかったという――――

 

「伯爵――――そんなまさか」


「思い出したようだな――――だが、遅い」

 狼が牙をむいてわらった。


 そこに至り、私は己の失策に、愚かさに気づいた。


 狼が喋るという超常の出来事に、つい聞き入ってしまった。

 注意をそがれてしまった。


「影が――――」私は辺りの違和感に気づいた。

 狼は陰の中にいる。

 だが、その陰は――

 あきらかに今、奴が潜んでいる陰は他のそれよりも濃く、不自然だった。

 


 薄暗がりの中、そこだけが昏かった。

 そして、そこから影が一直線に私の足下まで伸びている。


「しまった――――」慌てて飛び退こうとする。


「――――遅いと言ったはずだ」

 その言葉と共に、足下から、影の中から黒い槍のようなものが何本もこちらに向かって伸びて来た。


 それは影のように黒い――否、影で出来た槍だった。


 不意を突かれ、バランスを崩しながらも、私は必死に避けようとした。

 だが、影槍は私のももを、魔剣を握っていた腕を貫いた。


「ぐぅっ――――」知らず、うめき声が漏れた。

 手から刀が落ちた。


 次の瞬間、狼の姿は私の眼前にあった。

 狼は私にのしかかり、組み敷いた。

 巨大な足で私の腕と足を押さえた。

 はねのけるどころか、身動きすら出来ない。


 紅い熾火おきびのような両の目がこちらをのぞき混むように見つめている。


「負けはせぬだろうが、同じ手はおそらく二度と通じるまい。

 見習いとは言え、仮にも使なのだからな」


「貴様――」


「我が血を分けた子であれば、あるいは――――」


 言葉を遮り、狼は口を開いた。

 私の頭をひと呑みに出来る程、大きな口。びっしりと並んだ鋭い牙が見えた。そのまま無造作に、私の首に噛みついた。

 メキメキと骨がきしむ音が聞こえ、口の中に血が溢れた。

 おそらく気管が潰されたせいだろう。


 もう少し力を加えれば、その巨大なあぎとは、私の首を噛みちぎることが出来るはずだ。

 大量の出血によって体が冷たくなっていくのを感じる。

 ぼんやりと、私はここで死ぬのだと思った。


 しかし、いつまでたってもその瞬間はやって来ない。


 ズ――ズズ――


 朦朧とした意識の中で、私は異様な音を聞いた。


 狼が私の血を啜っている。


 それだけではない。

 冷たくなって行く私の体に、何かが入ってくる。

 まるで失われて行く命に、別の何かが成りかわろうとするかのように。


 そして何よりも、おぞましいのは。

 私の全身を貫く、体験したこともないような快感だった。


 傷の痛みも、死の恐怖さえ忘れる程の凄まじい快感の嵐。


 私は僅かな間に、何度も絶した。

 目の前に火花が飛び、何も考えられなくなった。

 今の状況どころか、ここがどこなのかさえわからない。


 狼が勝利を確信し、目を細めた。


 アア゛ア゛アァァァァァァァァァァァァ――――


 狂笑とも悲鳴ともつかぬ声を私は発した。

 それは意志ある声というよりも、音だ。壊れかけた機械が発する耳障りな雑音だった。


 実際私は壊れかけていた。この恍惚の奔流が後1分、いや数十秒続いていたら、脳は焼き切れ、私の魂は死んでいただろう。

 得体の知れない何者かに、身体を奪われていたに違いない。


 痙攣し、震える手が、背中の硬い物に触れた。

 それは、短刀。

 魔剣と同じ黒い刀身の短刀だった。


 意識は定かではなかった。

 だが、身体は敗北を拒否した。

 それは、私の一部となる程に続けて来た鍛錬の結果か、あるいは脈々と続く一族の血がそうさせたのか。


 私の手は、自身が驚くほど滑らかな動作で短刀を引き抜くと、目の前の狼の喉を真一文字に斬り裂いた。


 狼の目が驚きに見開かれた。

 やはり血は出なかったが、狼は私から離れ、苦痛に顔を歪めた。


「後少しのところで……」

 狼は口惜しそうに吐き捨てた。

 傷口から身体が徐々に崩れているのが見えた。


 私は落ちていた魔剣を拾うと、そのまま狼を両断した。


 横に、縦に――――

 十文字に断たれた、黒い影が闇に溶けるように消えていく。


 グッグッグッ――――


 喉を鳴らす獣の嘲笑が、最後まで私の耳にこびりついていた。


 グラリと体が傾いだ。

 急に重量が何十倍にもなったかのようだ。


 全ての力を使い果たし、私は前のめりに倒れた。

 助かったという気持ちはなかった。

 どのみち、この首の傷と出血では助かるまい。


 こんな深夜、路地の奥を偶然通りかかる医者などいるはずもない。


 ただ、自分が自分自身として死ねた、そのことだけに安堵し、私の意識は深い闇の底へ落ちて行った。



◆◆◆



 ジョンには、祭りの思い出というものがほとんどなかった。

 祭りどころか、家族でどこかに出かけたという記憶もない。


 もっとも、父親はものごころつく頃にはいなかったし、母親もジョンが小さいときに出て行ったので、姉のフローレンスだけがたった一人の家族だったのだが。


 そのフローレンスも、ジョンを養うために朝から晩まで寝る間も惜しんで働いていた。ジョン自身も姉を助けようと、子どもながらに出来ることは何でもやっていたので、祭りに浮かれている暇などなかった。


 そんな姉弟だったから、出かけるといっても屋台で売っているパンを近くの公園で食べるのがせいぜいだった。


 けれどたった一つだけ、ジョンが思い出せる祭りの風景があった。


 その日は、地元の商店街が主催する小さなイベントの日で、姉のフローレンスが働いていた店も屋台を出していた。

 ところが、フローレンスが酔客とぶつかって足を怪我してしまった。


 店主は、彼女の足に包帯を巻きながら「骨は大丈夫そうだが、今日はもう帰った方がいい」と言った。

 ジョンは、一人では歩くことも出来ない姉を放っておくわけにもいかず、結局二人で帰ることにした。


 うなだれ、帰ろうとする姉弟に、気の良い店主は1日分の日当と売り物のゼリービーンズを袋に入れてくれた。


 帰り道、怪我をした姉を休ませるために、ベンチに座って二人でキャンディを食べた。


 責任を感じてうなだれる姉を元気づけようとジョンは、冗談を言ったり、明るい話題を振ったりしたが、どれも空振りに終わった。

 やがて話題が尽き、二人黙ったままぼんやりと行き交う人たちを眺めた。

 程度の差こそあれ、皆楽しげで、祭りを満喫しているように見える。


 ジョンには、その人たちとの間に見えない壁があるような気がした。

 これから一生、自分たちはこの理不尽な壁のこちらから、あっちを眺めて過ごすことになる。決して壁の向こう側に行くことは出来ないのだ。そんな気がした。


 この幼き日の思い出は、ジョン・スタッカー少年の心に決して小さくはない傷を残した。

 それは癒える事なく、毒のように、ことある毎に彼の心を蝕んだ。


 そう――ルシィに出会うまでは。


◆惑星チリエリ ナスカル建国記念公園


 人波を泳ぐように、ジョンは公園内を歩いた。そうやって喧騒の中に身をおくと、どうしても傍らにルシィの気配を感じてしまう。


 ジョンにとってルシィはあちら側の人だった。

 子どもの頃に姉と眺めた、楽しげに笑いながら通りを過ぎていく人たちの一人だった。

 だが彼女との間に壁は無い。

 それどころか、ルシィはジョンの手を引いて、こともなくあちら側に連れて行ってしまう。

 壁の向こうへ――いや、そもそも壁など存在しなかったかのように。

 人が無意識に抱く警戒心、心の垣根のようなものを取り払ってしまう。この人は大丈夫だと安心させる不思議な魅力がルシィにはあった。

 そんな彼女にどれだけ助けられた事だろう。


 ジョンの心の中にある、孤独を知る者は少ない。

 この話を知っているのは、ルシィの他には姉のフローレンスと相棒のピートくらいだ。


 無愛想なところがあるくせに、しつこいくらいお節介。

 女好きで、喧嘩っ早いが憎めない男。

 時に無遠慮な程、ずけずけと距離を詰めて懐に入ってくる愛すべき好漢が、そんな葛藤を心に抱えていようとは、誰が知ろう。

 よほど親しい者であっても、彼の過去の話を新手のジョークだと思うかもしれない。


◆◆◆


 花火の時間が近づくにつれ、人は更に増え続けた。

 気温が調整され、比較的涼しいはずの公園内でさえ、汗ばむほどの熱気だった。

 花火の打ち上げ場所である人工湖の周りは、見渡す限りの人、人、人で、チリエリ中の人が集まっているのではないかと錯覚する程だった。


 チリエリにアジア系が多いせいか、共通語に混じって「祭」など漢字ののぼりも見受けられ、雰囲気はどことなく日本の縁日を連想させた。

 色とりどりの屋台が軒を連ね、広いスペースでは何人もの大道芸人がパフォーマンスを披露している。


 ふと、一人の大道芸人がジョンの目にとまった。

「アンラッキーローリーの腹話術」と書かれた大きな看板の前に赤い布をかぶせた大きめのテーブルが有り、豚と犬、猫、ウサギの人形が置いてある。


 背が高く、痩せた中年の男が人形を次から次へと持っては、腹話術独特の声色で早口に何か言っている。おそらくこの男がローリーなのだろう。

 どうやら、人形たちが男にダメだしをするというシナリオらしい。

「僕はこれでも一生懸命やってるんだよ」

 男――ローリーが問いかけるように観客を見る。

 どういう仕掛けなのか、人形たちがいっせいにローリーを見て――

「だからあんたはアンラッキーなのよ!」と決めセリフ。


 大爆笑とはいかなかったが、それなりの笑い声が観客の間に広がった。

 客のウケは別として、男の芸にジョンは感心していた。

 派手ではないが、多彩でレベルの高い芸だ。

 何種類もの声色を使い分け、場面場面で声の大小を調節し、電話のシーンでは電話越しのような声をまねて見せた。

 例の決めゼリフ。「だからあんたはアンラッキーなのよ!」は、人形が一斉にそれぞれの声で喋っている。

 サテライトTVにレギュラーで出演できるレベルだった。


 しかし――――

「おしいな」ジョンは苦笑した。


 ローリーという男の技術は素晴らしいものだった。

 だが、残念なことに彼は地味だった。

 影が薄い。存在感がないのだ。

 おそらく本人もそれに気付いているようだ。

 なんとかしようと努力したあとが伺える。

 しかし、今のところ大した成果は上がっていないようだ。


 ウサギの人形を片手に、観客に頭を下げているローリーを見ながら、ジョンはため息をついた。

 何人かの客が赤いトランクケースへ、小銭を投げ入れて立ち去って行った。


 ジョンも財布から100G札を取り出すとトランクへ投げた。

 思わぬ大金に、ローリーが驚いた顔を向け、慌てて頭を下げた。


 ジョンは男に向かって何か言おうとしたが、思い直してきびすを返した。

 葛藤は既に男の中にあった。


「ジョン・スタッカー」

 その背中に声が投げられた。

 腹話術の声ではない。男自身の声でもない。


 不審に思ったジョンが振り返ると、腹話術師が貼り付けたような笑いを浮かべてこちらを見ていた。いつのまにか、黒猫を抱いている。人形ではない、本物の猫だ。


「あんたが――」

「――私だよ」


 ジョンの問いにかぶせるように答えたのは、黒猫だった。


「失礼――私が君を呼び止めたんだ」

 そう言って黒猫は首を傾げ、目を細めた。

 腹話術独特の声ではない。まったく別人の声だ。

 本当に猫が喋っているように見える。


「――驚いたな」

 ジョンは嘆息した。

 これなら、男自身の地味さなど問題ではない。

 人気者間違いなしだ。

 だが、他の客は喋る黒猫を気にもとめずに、その場を離れていった。

 誰一人として、足を止める者もいない。

 

 なじみのある感覚をジョンは感じていた。

 極限の集中時に訪れる緩やかな時間ヴァレットタイムに似ている。

 まるで、男――いや、黒猫とジョンだけが世界から切り離されているようだ。


ようだから、ちょっと特別サービスをしてあげようと思ったのさ」

 黒猫は喉を鳴らして笑った。


「変わった芸だ」油断無く辺りに気を配りながら、ジョンは言った。


「驚かないんだね」


「言っただろう? 驚いてるさ。

 こんなに驚いたのはガキの頃、姉貴にサンタはいないと言われて以来だ」


「まあ、100Gの礼に練習中の新ネタをちょいと披露してみる気になったと思ってくれればいい」


「――?」

 ジョンはローリーを見て言った。

「そう、」黒猫が頷く。


 猫が喋るという異常な事態もこの時代ASであれば、まったく考えられないことではなかった。


 これが高度な腹話術なら、なんの問題もない。黒猫が極めて精巧なロボットだという可能性もある。中に入れる程の小型の宇宙人の仕業かもしれないし、変身能力をもった宇宙人かもしれない。また、極めてまれだがESP能力者による幻覚ということもありえた。


 ジョンは考え得る可能性を感覚的に処理し、ひとまず相手の出方を見ることにした。

 今のところ、黒猫から害意のようなものが感じられなかったからだ。


「じっくり楽しみたいところだが、人を待たせてるんだ。手短に頼む」


「解ってる――――死ぬよ」

 一瞬、猫の目が光ったように見えた。


「私としては、あまり干渉しすぎるのもまずいんだが、あえて言うよ。

 これ以上先に進めば君は死ぬ。

 例え今回命拾いしたとしても、待っているのは、破滅しかない。

 悪いことは言わない。今日はその辺で花火を見て、さっさと帰った方が良い」 


「アンタの特別サービスと言うのは、占いのことだったのか」

 ジョンは、肩をすくめた。


「占いなんかじゃない。もっと確実な未来の話だ」

 幾分気を悪くしたのか、黒猫は語調を強めた。


「だとしても――」

 ジョンは一歩近づいて、身をかがめた。喋る猫が現実であるかどうかを確かめるように。

「どうして、そんな事を俺に言うんだ?

 以前、猫の命を助けた記憶はないんだがね? 恩返しなら、多分人違いだ」


「そうじゃない。それに――私が君に助けられるとしたら、もっと先だ」

「――先?」ジョンが首を傾げた。


「話を戻そう」黒猫は背筋を伸ばし、小さく咳払いをした。見た目は猫そのものなのに、仕草がいちいち人間くさい。


「私が君にかまうのは、魔剣使いをこれ以上減らさないためだ。

 あまり、数が減るとこちら側の勝ち目が薄くなる」


「どういうことだ?」

「今はわからなくてもいい。

 ――――そろそろ時間だ」


「おい――」


「テスト代わりに自由に話をさせてくれると言うから、君を選んだ。

 影の国での経緯を見て、君に興味をもったから。だから、出来ればさっきの提案を受け入れてくれると嬉しい。

 ――さっさと帰って、寝て、全部忘れるんだ」


「それは出来ない」

 間髪入れず、ジョンは言った。そこには決して覆ることのない、強い意志が感じられた。

 黒猫は、一瞬眩しいものを見るように目を細めた。


「そう答えるのはわかっていたよ」

 諦めたように、黒猫は首を振った。

 その小さな体から、何かが急速に消えていくのを、ジョンは感じた。


「待て――おまえは誰だ?」


「アルフォンス・ハインミュラーというらしい」

 黒猫はすこし照れくさそうに笑った。


「――悪くない名前だ」


「ありがとう。ジョン・スタッカー」


 その言葉を最後に、今まで確かにあった何者かの気配は、跡形もなく消えた。

 同時に瞳に宿った理性の光は失せ、黒猫はただの猫になった。


 それまで虚ろだったローリーの顔に生気が戻り、その時、男は初めて自分が猫を抱いている事に気付いた。

 驚き、尻餅をつく腹話術師を尻目に、黒猫はニャアと一声鳴くと、人混みの中に消えていった。


 まるで締め切った部屋のドアを開け放ったように、外の熱気が流れ込んで来るのを、ジョンは感じた。

 ――喧噪が戻ってくる。

 その耳に、花火の開始を告げるアナウンスが聞こえた。


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