第15話 回転花火〈Ⅰ〉 Shape of My Heart

 窓から差し込む暖かな陽射しに誘われるように、俺はゆっくりと目を開けた。

 洗濯したばかりのシーツの白。

 日だまりの何とも言えない心安らぐ匂い。

 見慣れた室内。自宅の寝室だ。

 大きめのダブルベッドの上に、俺は裸で横になっている。


「ん?」


 傍らに温もりを感じた。

 横を見るとサラサラのブロンドが目に入った。

 ルシィが子猫のように背を丸めて眠っている。

 彼女も裸だった。


 とても長い間眠っていたような気がする。白い背中が呼吸に合わせて上下する様をぼんやりと眺めながら、俺はそう思った。


 俺は存在を確かめるように眠っているルシィの頬に触れ、口づけた。

 唇に彼女の体温を感じた瞬間、不意に胸の内に暖かいものが溢れた。

 あふれ出た想いは、頬を伝い滴となってルシィのまぶたを濡らした。


「むぅぅぅ」

 ルシィの長いまつげが細かく震え、彼女は目を覚ました。

 大きく伸びをして起き上がると、俺の顔を不思議そうに見つめる。


「あれぇ。どうして泣いてるの? ジョニィ」


 ルシィの言葉に、俺は初めて自分が涙を流している事に気がついた。


「あれ?」

 驚いて目元に手をやる。

 なぜか涙は止まる事なく、次から次へと流れていく。

 だが、それは不思議と心地よかった。

 まるで体の中に長い間たまったおりのようなものが、溶けて流れていくようだ。


「そっか――――恐い夢でも見たんだねぇ、よしよし」


 ルシィは、母親が子どもにするように俺の頭を抱きかかえると、そう言いながら優しくなでた。

 彼女の形の良い胸の間で、いつもお守りに下げている虫型のペンダントが揺れていた。


 俺がペンダントをジッと見つめている事に気がつき、ルシィはニンマリと意地の悪い笑みを浮かべた。


「お客さん、お目が高いねぇ」

 わざとらしくそう言うと、ペンダントを外し、差し出した。


「怖い夢からジョニィを守ってくれるように、特別に貸してあげよう」

 無理矢理押しつけられるように、ペンダントを受け取る。

 とたんに俺の背中を冷たいものが走った。


 これを受け取ってはいけない――――


 なぜか、そう思った。


 ルシィが持っていなければならない――――


 慌てて返そうと手を伸ばす。

 だが――なぜかルシィに届かない。


 ドドーン


 笑顔のルシィが遠ざかっていく。

つい先ほどまで、体を包んでいた温もりが急速に失われていく。


「それが、ジョニィを守ってくれるよ」

 ルシィの声。


 ダメだ――――


 ドドン――ドン――――


 一生懸命手を伸ばし、体を前に進めようとするが、ルシィとの距離は一向に縮まらなかった。


 ああ――どうして

 どうして、こんな大事な事を忘れていたんだ。


 俺は何かを伝えようとするが、辺りに響く大きな音にかき消されてしまう。


 遠く響く、その音に揺り起こされるように、俺の頭は覚醒していった。

 バラバラだった記憶が繋がっていく。


 ドドーン――――


 花火の音だ。

 そうか、これはいつもの夢だ。


 そこはもう、暖かな陽射しが降り注ぐ寝室ではなくなっていた。


 ルシィの後ろには、夜空が広がっている。


 ドーン――――


 夜空いっぱいに花火が打ち上げられ、光の花が咲いている。


 漂う緑の匂い。

 人々の喧噪。

 チリエリの記念公園。

 最後の夜だ――――


 だが、今夜のルシィはゆったりとした白いドレスを着ていた。

 髪は黒。

 手に刀身が黒い日本刀サムライソードを持っている。


「私を追うな」


 低く、哀愁を帯びたハスキーボイスで、女は言った。


「次に会った時は――――」


「待て! 待ってくれ!」


 女の言葉を遮るように、俺は咄嗟とっさに手を伸ばした。


 つぅ――――


 鋭い痛みと共に伸ばした手がかき消えた。


 ヒタリ――――


 のど元の冷たい感触――刃に背筋が凍った。


「私はおまえを殺す」


 耳もとで女の囁く声が聞こえた。

 次の瞬間。


「――――!!!」


 全身を貫いた焼けるような痛みに、俺は声にならない悲鳴を上げた。



◆メトセラ総合病院


「きゃあ」

 女の声がした。


 目を開けると同時に、ジョンは勢いよく起き上がった。

 体に追いつくように、ゆっくりと意識が覚醒していく。


 白いシーツを握りしめた自分の手が目に入った。

 傍らでは、黒髪の女がこちらを心配そうに見つめている。

 どうやら先ほどの声は、彼女のようだ。


 一瞬、夢の続きかと思い、ヒヤリとしたが、そうではなかった。


 ジョンは、ぐるりと辺りを見回した。


 飾り気のない広めの個室。

 微かな消毒液の匂い。

 ジョンが寝ているのは、スチール製の四角いベッドだ。


 どうやらここは、どこかの病院の一室のようだった。


「大丈夫?  私が誰だかわかる?」

 傍らの女が戸惑いがちに言った。


「ナタリー・ポートマンだと思ったんだが」


「ふざけないで頂戴。

 私は真剣に心配してるのよ」


「すまない、ナオミ」

 相手の様子に、さすがに悪いと思ったのか、ジョンは素直に頭を下げた。


「わかればよろしい。

 それにしても、相変わらずジャン・レノが好きなのね」


「違う。俺はジャン・レノが好きなんじゃない。『レオン』が好きなんだ」


「はいはい」

 抗議するジョンに、ナオミはヒラヒラと手を振った。


 旧時代の映画『レオン』は星暦でも根強い人気があり、何度かリメイクもされている。


「だが、ジャン・レノ主演以外、俺はレオンと認めないけどな」


「やっぱり、好きなんじゃないの。

 面倒くさい人ね」

 ナオミが苦笑する。


「でも、その様子なら大丈夫そうね。

 丸二日眠ったままだったから、心配したけど――」

「――まて。二日だって?

 今日は何曜日だ?」

 ナオミの言葉を遮ってジョンが問いを返した。


「土曜日よ――ジョン!

 ちょと、どこに行こうって言うの?」

 返事を聞くや否やジョンは、ベッドを降りようとした。


「ヤツに……ゴードンに聞かなきゃならない事が――――っっっ!!」

 ジョンはナオミの制止を振り切って体を起こした。だが、ベッドに置いた手に体重をかけたとたん、全身を稲妻のような痛みが走った。


「くっ――――ぅぅ」

 動けないどころか、あまりの痛さに息も出来なかった。

 脂汗が全身を伝った。


「言わんこっちゃない。

 あなたの全身の筋肉はひどい炎症を起こしているのよ。

 限界を超えて動き続けたツケが来てるってわけ」


 ナオミは、固まっているジョンを抱きかかえるように支えると、ゆっくりとベッドに寝かせた。


「つまり……これは」

『――筋肉痛』二人の声が重なった。

 その時――――


 ガチャ――――


 ドアが開いて、ピートが部屋に入ってきた。


「おっと。お邪魔だったみたいだね」

 ピートがおどけて言った。


 支えるために、ナオミはジョンの背中に手を回していた。

 二人の距離は、顔が触れそうなほどだ。まるでベッドの上で抱き合っているように見える。


「こここ――これは違うのよ!」

 妙な奇声を発してナオミが飛びのく。


「僕はどっちでも良いんだけど。

 スタッフがしょっちゅう様子を見に来るから、病室では、やめておいた方が良いと思うよ。

 もっとも、そういうスリルが燃えるって言うのなら、止めないけど」


「ピート」


「何かな?」


「あれから、?」

 ジョンがピートを見つめて言った。

 まったく慌てた風もない。静かな声音だった。

 だが、その瞳の奥にすがるような光を、ピートは見たような気がした。


「OK。説明するよ。

 ナオミにも説明しといた方が良いだろうし」

 ピートは諦めたように肩をすくめた。



◆◆◆



「まったく、街に戻って来るまでは、生きた心地がしなかったよ」

 影の国での顛末を話し終えたピートは、そう言ってぼやいた。


 ジョンが気を失った後、ピートは自分たちも拘束されるのか、それとも口封じに始末されるのかと気が気ではなかった。だが、彼の心配をよそに、ゴードンたちは、拍子抜けする程あっさりと引き上げて行った。


「ケイさんを迎えに来ただけって言うゴードンの言葉は、嘘じゃなかったんだね」


「じゃあ、ケイは――」


「ゴードンに付いて行ったよ」

 幾分言いにくそうに、ピートは言った。


 だとすれば、あの物々しい軍隊もごうではなく、最初からケイを警戒してのものだったのかもしれない。

 ピートの話を聞きながら、ジョンはそう思った。

 あの時、ケイに感じた力は、それ程のものだった。


「ゴードンは今どこにいるんだ?」

「さあ……」ピートが首を捻った。


「もうこの星にはいないわ」


「……」


「嘘をついても仕方がないでしょう?」

 ナオミは肩をすくめた。


「今夜辺り、ゴードン統括専務は急病のため帰星したと発表があるはずよ」


 ナオミの言葉を吟味するように、ジョンは顔を下げ、物思いに沈んだ。


「そう言えば、ピューレス人の彼女は、どこへ行ったの?」

 話題をそらすように、ナオミが言った。

「街に着くまではいっしょだったけど、気が付くといなくなってたね。

 彼女の様子もちょっと変だったな……」


「変?」ジョンが顔を上げた。


「ゴードンをじっと見つめて何かブツブツ言ってたよ。

 彼に会ったのかとか、繋がったのかとか」

「どういう意味?」

 ナオミの問いに、ピートは「わからないよ」と笑った。


「――でも……その……私はゴードン専務が連れてきたっていう部隊が気になるわね」

 ナオミは自問するように呟いた。


「ああ……あれか。何か知ってるの?」

 ピートの問いに、ナオミは、彼女にしては珍しく曖昧な笑みを浮かべた。


「これは、私たち企業人の間で噂になってる、都市伝説みたいなものなんだけど……」

 明らかにいつもと違った彼女の様子に、ジョンも体の痛みも忘れ、身を乗り出した。


主立おもだった大企業のトップクラスの人物が共同で運営する機関のようなものがあるらしいのよ。

 宇宙軍にも、どこの組織にも属さない秘密機関のようなものがね」


「それは――って話だねぇ」

 ピートが顔をしかめた。


「まあね。

 もちろん、監査委員会や人調の事を言っているわけじゃないわよ」ナオミもつられたように笑った。


 大企業――それも星間企業クラスになると、企業間のトラブルは規模も社会全体に及ぼす影響も馬鹿に出来ない。

 戦闘――下手をすれば戦争に発展しかねない。

 そういったトラブルを未然に防ぐために、連合政府が定めた連合法では一定のルールが設けられていた。

 そして、それを監視するため、各企業や一般から委員を選出した監査委員会と呼ばれる機関も設けられている。

 ジョンたちとやりあった人類史調査委員会も企業が合同でトラブルを解決するための機関の一つだった。


「目的は?」

「え?」

「そいつらの目的は何なんだ?」

 ジョンが問いを重ねる。


「まあ、そこはありがちな話よ。

 オーバーテクノロジーの管理だとか、不老不死の研究だとか。

 ――ただ、ひっかかるのは、彼らが魔剣使いを管理してるって話もあるのよ」


「以前なら、ただの噂だって笑ったかもしれないね。

 そもそも、魔剣使い自体伝説だし――でも、実際に見ちゃったからねぇ」

 ピートが苦笑した。


「ああ……魔剣使いは実在する。

 なら――そいつらも実在する組織かもってわけか?」

 ジョンがナオミを見た。


「そこまで単純な話じゃないでしょうけど。

 でも、その組織だか機関だかに所属する部隊は、黒ずくめで所属を現すものを何も付けてないらしいわ」


「…………」


 重い沈黙が場に満ちた。

 誰もが考えを巡らせ、そして出た答えは一つだった。

 

 これで終わったのだ。

 これ以上関わらなければ大丈夫だと。

 誰かがそう言って丸く収めてくれるのを待っていたのかも知れない。


 だが、そうはならない。

 なるはずがない――するはずがないと。

 そんな予感もあったのだ。

 否、それは確信に近かった。


 ナオミは、意を決したように顔を上げた。


「自分でも何を言いたいのか、よく解らないのだけど。

 大きな組織に属していると、たまにとてつもなくくらい穴が見える時がある。

 ああ、これ以上進んじゃだめだ。これ以上進んだらあそこに落ちて、そしたら二度と陽の当たる場所には戻れなくなる。そう感じる時があるのよ」


 そして、ナオミはジッとジョンを見つめた。

 まるで「私の言いたい事がわかるわね?」と言うみたいに。

 しかし、ジョンは何も答えず、続きを促すように見つめ返した。

 ピートは今にもナオミが怒り出すんじゃないかと、ハラハラしながら成り行きを見守っていた。


 そんなピートの心配を余所に、二人はまるで先に目を反らした方が負けだと言わんばかりに、黙って見つめ合っていた。

 事情を知らない者がこの様子を見れば、仲むつまじい二人に見えたかも知れぬ。

 だが、この時ピートの頭に浮かんだのは、そんなロマンチックな想像とはほど遠い「ばったり野生動物に出くわしたら、目を反らしたとたんに襲いかかられるんだっけ?」といったものだった。


 ナオミはあきらめたようにため息をついた。


「ねぇ、私はどうしたら良いと思う?」

 気丈な彼女らしくないすがるような声だった。


 これには、さすがのジョンも虚を突かれた。

 一瞬驚いたように目を見開いた後、困ったように頭をかいた。


「決まってるさ――――

 私のためにお願いと言うんだ。

 イイ女がそう言えば、大抵の男は言う事を聞いてくれる」


?」


「そう、」ジョンがニヤリと笑った。


「残念だけど、あなたはその大抵の男の中には入らないってわけね」


「すまない――――先約があるんだ」


 首に当たった刃の冷たい感触が蘇る。

 私を追うなとケイは言った。

 それまでの自分は全て嘘だと言った。

 だが、ジョンにはそれがどうしても彼女の本心だとは思えなかった。


「あの人を探しに行くのね」


 一瞬の沈黙の後、ジョンは頷いた。


「ああ――――

 



◆BAR フィーブルズ


 早い時間ではあったが、週末ということもあり、フィーブルズは多くの客で賑わっていた。


 体格も種族も異なる大小様々、多様な客が店内を埋めている。

 奥の特別席には、巨大なダンゴ虫のような、グルン人の姿も見られた。

 彼らは液体を直接飲むことが出来ないため、気化させた特別製のドリンクをボンベから吸い込んでいた。

 頭(らしきところ)がゆらゆら揺れているので、どうやら酔っ払っているらしい。


 今夜のステージは、上半身が人間、下半身がヘビの女だった。巨大なバストを揺らし、文字通り体をくねらせて踊っている。


 酒とタバコの匂いに何種類もの体臭がブレンドされた、酒場独特の空気。耳の後ろにまとわりつく喧騒という名のBGMは、いつの時代であろうと同じだ。そこが母なる星から何光年、何億光年はなれた異星であろうと変わりはない。

 例えば、遥かな大昔から生き続けている者が、もしいたとしたら、ここに懐かしい何かを感じたかも知れない。


 とはいえ、フィーブルズはハイジの店ということもあって、他の同じような店とは、多少雰囲気が違っていたのも確かだった。


 酔って暴れる者がいないのは、もちろんのこと、酒場ではつきものの異性に声をかける者さえ、比較的節度を保っているように見える。

 隠れて危ない取引を行なっている者も(表向きは)いなかった。


 それはとりもなおさず、ハイジという女傑がどれ程恐れられ、そしてうやまわれているかということの現れに他ならなかった。


 こうして見ると、先日のジョンの行動がいかに無謀で命知らずなものであったのかが知れようというものだ。

 だから、今夜ジョンが再び店に現れた時も、この前のいきさつを知っている客たちの間に少なからぬ動揺が走った。

 だが、当の本人がそしらぬ顔でカウンターにつき、こわごわ声をかけた者に手を振って返すのを見て――ハイジに気に入られたという噂を耳にしていた事もあって――皆、安堵に胸をなでおろしたのだった。


「ウォッカマティーニを」


 ジョンは目の前のバーテンに言った。

 前夜と同じ男だった。


「――ステアせずシェイクで」


 男はこの前の巻き戻しリピートみたいに、片眉を上げた。


「今夜のアンタはどこかの国のスパイってわけかい?」


「俺だって四六時中タフガイぶってるわけじゃない。

 ママのミルクが飲みたい時だって、マティーニが飲みたい時だってあるさ。

 それにしても、最近のバーテンというのは、皆そんなに物知りなのか?」


「それがプロの仕事ってものさ、ミスターボンド。

 ――ミディアムドライ?」


 バーテンは、スミノフの瓶を取り出しながら言った。


 ジョンは「もちろん」と答え、肩をすくめた。


 客たちは、ジョンとバーテンのやりとりを様子を見るように眺めていたが、どうやら今夜は何事もなさそうだと思ったのか、話をしようと近づいて行った。


 だが、店の奥からこちらへやって来る巨漢の姿を見たとたん、残念そうに舌打ちをすると、再び蜘蛛の子を散らすように離れて行ったのだった。


「座れよ、ブレッチ。奢るぜ」


「いらん」


 巨漢の用心棒は、ジョンの誘いを一蹴すると隣に腰を下ろした。


 バーテンはジョンのマティーニを置いた後、心配そうに横を見た。しかし、二人の間に剣呑けんのんな空気がないと安心したのか、慣れた手つきでバカルディをグラスに注ぎ、ブレッチの前に置いた。


 ジョンがマティーニのグラスを軽く掲げ口をつけた。

 ブレッチもそれに答えるように、グラスを上げて一口飲んだ。


 奇妙な光景だった。

 だが、この二人の間には何か通じ合うものがあるのかも知れない。

 バーテンは、心中でそう呟いた。


「ハイジは留守なのかい?」

 マティーニのお代わりを注文した後、ジョンが言った。


「ハイジさんと呼べよ。ヒューマー」

 ブレッチも空になったグラスを揺らしてバーテンを呼んだ。

 以前と同じセリフだったが、そこに責めるような響きはない。

「今夜は客も多い。この前みたいな馬鹿騒ぎは、また今度にしろ」


「そんなんじゃないさ」ジョンは笑った。

「仕事も終わったし、そろそろこの星を離れようと思う。

 ハイジには、世話になったからな。一言礼を言っておきたいのさ」


「貴様がそんな殊勝しゅしょうなタマかよ。

 ――――まあ、いいだろう」


 ブレッチはフンと鼻を鳴らして笑ったが、おっくうそうに立ち上がるとジョンを手招きした。



◆◆◆



「こいつは、驚いた――」


 部屋に入って来たジョンを見るなり、ハイジは驚きに目を見張った後、絞り出すようにそう言った。


 演技などではない。

 マルコポーロの女傑は、心底驚いているのだ。


 それだけではない。

 驚きによろめきながら立ち上がると、走り寄って(歩くようなスピードだったが)ジョンを抱きしめた。


 ジョンの視界の上下左右、隅から隅まで全てがピンクで埋め尽くされた。

 まるで分厚いピンクの布団で簀巻すまきにされたようだった。


「死ななかったんだね」


 感極まったのか、抱きしめる腕に力がこもった。


 比喩ではなく、骨がきしむ音をジョンは聞いた。

 なにより、なんとか歩ける程度に回復していた筋肉痛がぶり返し、さすがのジョンもうめき声を上げた。


「おっと」


 慌ててハイジが離れた。


「ね……熱烈な歓迎は、嬉しいが――アンタの部下がヤキモチを焼くといけない」


 酸欠と体の痛みに耐えながら、ジョンはなんとかそれだけ言った。


 二人が振り向くと、ブレッチは驚きのあまり、あんぐりと口を開けて立ち尽くしていた。


「せっかく生き残ったのに、アタシが死なせちまっちゃあ、元も子もないね」

 振り返ったハイジは、そう言って笑った。


 ハイジの言葉もブレッチの耳には届いていなかった。

 たった今見た光景が信じられなかったのだ。

 あれ程驚きと喜びを露わにした彼女は、初めて見た。だが、ブレッチが真に衝撃を受けたのは、ジョンを抱きしめた後、女主人の目に光るしずくを見たことだった。


 あれは確かに涙だった。

「まさかな」

 自らの考えを否定するように、ブレッチはそう呟いた。


◆◆◆


「ビルのことは、すまなかった」


 ソファに腰を下ろすなり、ジョンはそう言って頭を下げた。


「律儀だねぇ。

でもあいつは、あいつなりの覚悟でアンタに付いて行ったんだ。

 謝る必要はないよ」


 軽く手を振ってハイジが言った。

 動く度に、頑丈そうなソファが嫌な音をたてた。

 彼女が座ると、4人は楽に座れそうなソファがオモチャの椅子に見える。


「それに、ビルの兄貴の仇はキッチリとってやったんだろう?」


「――まあな。

 とりあえず、この星での仕事は終わったよ」


「そりゃあ、めでたい」

 ハイジは笑った。


「それで、この星を離れる前に礼を言っておきたいと思ってね」


「アタシは特に何もしちゃいないが――そうかい、帰るのかい」


「ああ……かもしれないがな」


「ほほう」

 肉に埋もれた目の奥に、剣呑な光が宿った。

 しかし、それも一瞬。

 破顔して彼女は言った。


「なんにせよ、帰る場所があるってのは、幸せなことさ。

 淋しくなるが、マルコポーロに来ることがあったら、お寄りよ」


「必ず、また来るよ」


 そう言って二人は握手を交わした。


「火を貸してくれないか」

 ジョンは、タバコをくわえると、何かを探すような仕草をした。


「マッチはないけど、良いかい?」


「贅沢は言わないさ」

 ジョンは片目をつむった。


 ハイジは年季の入った古いライターを取り出すと、ジョンのタバコに火をつけた。自分も細身のメンソールを咥える。


 以前も見た、彼女の愛用のライターだった。

 虫の意匠がほどこされている。

 ――――だ。


 ジョンは確かめるように、そのライターを見つめていた。


「アンタの故郷は、どこだい?」

 ジョンが呟くように言った。


野暮やぼだね。女の過去を詮索せんさくしようってのかい」


「もしかしたら、アンタの故郷は、随分ホコリっぽい所じゃないのかい?

 銃がすぐに不具合を起こしてしまうような」


「…………」


「そこでは、コガネムシの形をしたものを身につけていると、不幸を退け、幸運を招くと言われているんじゃないかな?」


「どうしてそう思うんだい?」

 静かに――ハイジは聞いた。

 何かをこらえているような声音だった。


「ケイの故郷がチリエリだからさ。

 アンタと彼女は随分親しそうだった。

 同郷だと考えた方がしっくりくる」

 そして、ライターを指差した。


「こんなもの、どこにでもあるありふれたデザインだよ。

 誰かに貰ったのかもしれない」


生憎あいにくとチリエリのコガネムシには詳しいんだ。間違いない。

 表面のくもりとわずかなへこみは、アンタの指の形にぴったりだ。相当長く使っていないとそうはならないよ」


 ジョンはジッとハイジを見つめた。

 深い哀しみを秘めた目で。


「参ったね」


 ハイジは両手を挙げて、お手上げのポーズをとった。


「アタシもまだまだだね。

 マイク・ハマーマッチョかと思ったら、ホームズきれものだとはね。

 その通りさ。アタシの故郷はチリエリだよ。

 でもそれが、どうだって言うのさ」


「――やっぱりそうだったのか」

 ジョンは呟いた。

 そこには、明らかな迷いがあった。


「誤解をしないでほしいんだが、俺はアンタが好きだよ。

 アンタは大した女だと思っている。

 アンタに気に入られて、俺も嬉しい。

 だから、正直迷っていたんだ――このまま何も聞かずに帰ろうかと」

 

「なんだいやぶからぼうに」

 ハイジは低く笑った。


「その上でもう一つだけ答えてほしい――――」


「スタッカー、その辺でやめておけ――――」

 ジョンの後で声がした。

 ブレッチだった。

 彼はジョンが故郷についての質問を始めた時から、静かに彼の背後へと回り込んでいたのだ。

 彼の手は上着の内側へ、ホルスターに納められた銃に触れていた。


「撃つなら撃てよ。

 ――――だが、この質問だけはさせてもらうぜ」

 そして、もちろんジョンもそのことに気づいていた。


 用心棒は一瞬戸惑とまどったように、あるじを見た。


「言わせてやりなよ、ブレッチ。

 これが最後になるかも知れないからね」


 もうハイジは笑っていなかった。

 それどころかあらゆる感情を感じさせない無機質なおもてだった。

 それは、まぎれもないマルコポーロの夜の支配者の顔。

 裏社会に潜む怪物の顔だ。


 ブレッチは、銃に触れていた手を静かに下ろした。


「ありがたい」

 だが、ジョンはその姿を前にしても、臆することなく不敵な笑みを浮かべた。

 挑むように、自らを鼓舞するかのように正面からその眼光を受け止めた。


「この部屋に俺が入ってきたときから――――どうしてアンタは、ケイの事を聞かないんだい?」

 一息に、ジョンは言葉を吐いた。

 まるで、胸の奥につかえていた物を吐き出すように。


「あれほどあいつと親しいアンタが、なぜ一言も聞かないんだい。いや、それどころかまるでケイの話題を避けているように見えるぜ」


 答えはない。

 ハイジは黙ってジョンの言葉を聞いていた。

 まるで、その言葉を吟味ぎんみするかのように。


 ジョンが一つ、長く息を吐いた。

 瞳には、また、あの悲しげな色がにじんでいた。

 その長い沈黙が、何より雄弁に彼の考えを肯定していた。


「――やっぱりそうだったのか」

 再びジョンは同じ言葉を繰り返した。


「ここに入ってきた時、アンタは心底驚いていた。

 あれで俺は確信したんだよ。

 アンタは、ケイの正体を知っていたんだな?

 ――彼女が俺を殺すつもりだということも」


 ギシリと――――

 空気が軋む音をブレッチは聞いた。

 その瞬間に重力が何倍にも跳ね上がったような気がした。

 掌には、大量の汗をかいていた。


「もう、答える必要はないね?」

 ハイジは、獲物を見定める肉食獣のように顔を近づけた。

 低く、優しげとも言える声だ。

 それは質問ではない。

 ――言い残すことはないかと、言っているのだ。


 ゴキン――――

 ハイジの指が凄まじい音を立てた。

 ジョンの頭など、片手で掴めそうな巨大な手だった。

 いや、実際掴めるのだろう。そして簡単に潰してしまえるはずだ。


 背に冷たいものを感じながら、ジョンはそう思った。


 ハイジの手が伸びて、ジョンの左掌に重なった。その動きがあまりに自然だったせいで、身を躱すのが遅れた。

 力はほとんど入れていないはずだ。

 だが、それでも特殊合金製の義手が鈍い音をたてた。

縫い止められたように、ビクともしなかった。


「アンタを気に入っているというのは、嘘じゃないよ。

 だから――命だけは助けてやる。

 けど、BHの仕事はあきらめとくれ」

 まるで、聞き分けのない子どもに言って聞かせるように、ハイジは言った。


「さっきの続きをしようじゃないか。

 今度はもっと念入りに、情熱的な歓迎をしてやろう」


 まさに絶体絶命。

ジョンになす術はない。


「ボス、今回はそれくらいで――」

「――――ブレェッッチ!」


取りなそうとした部下の言葉を、ハイジは激しい語調で遮った。


「ブレッチ――アンタ、いつからそんな優しい男になったんだい?」


「いえ……そんな」


「宜しくない。

 そいつは、宜しくないね」


 ハイジの怒りは、荒れ狂う嵐のようだった。最も信頼する部下であるはずのブレッチでさえ、巻き込まれればただでは済まない、そう感じさせる程に激しいものだった。

 彼は、一瞬ジョンへ目を向けた後、それきり口を噤んだ。


「アンタは優しいな、ハイジ」


「――ほお?」


 空気が震えた。

 熱いものに触れた時のように、ブレッチが顔をしかめた。


 まずいぞ――


 胸中で彼は叫んだ。

 もちろん、それは今のジョンの言葉に対してだ。


 そんなおためごかしが通じる相手じゃない。

 それどころか――


「アタシをなめない方がイイと――確かにこの前言ったはずだよ」


 ブレッチの危惧は、現実のものとなった。

 ハイジの小さな目は紅玉のように血走り、顔も腕も露出している部分は、全て怒りで赤く染まっていた。

 それは、噴火寸前の火山を連想させた。


 ゆっくりとハイジは、片方の手をジョンの顔へと伸ばした。


 それでもジョンは慌てることなく、胸元へ手を入れると、肌身離さず持っていたペンダントを取り出し、それをハイジの目の前にかざした。


 一瞬、ジョンが武器を隠し持っていたのかと、ハイジは手を止めた。

 だが、その正体がちっぽけなペンダントだと知って、小馬鹿にしたように笑った。


「何のつもりだい?

 こんなものを出してどうしようって……」


 言葉は途切れた。

 彼女の目は、目の前のペンダントに釘付けになった。

 コガネムシのペンダントに――


「こ……これは、ケイ姐さんの……」

 震える声で、ハイジは言った。

 先ほどまでとは打って変わった、弱々しい声だった。

 万力のようだった手から、力が抜けた。


「違うよ」


 ジョンは首からペンダントを外すとハイジの掌に置いた。


「これは俺の妻、ルシィの形見だ」


 ジョンはそう言って、ペンダントを包むように、自らの手をハイジの手に重ねた。


 おおおおぉぉ――――


 女帝の口から、低く下腹に響く声が漏れた。

 それは、長く使えて来たブレッチでさえ初めて聞く、主の嗚咽だった。


 ボタボタと――驚く程の大量の涙が、彼女の頰を伝い、二人の手を濡らした。


「――なんてことだ」


 涙と鼻水でクシャクシャになった顔を向けて、ハイジは言った。


「アンタがあの娘の――――ああ、神様」


 涙に加え、一生聞く事はないと思っていた神の名が主の口から漏れた時、ブレッチは驚きを通り越し、思考を停止していた。

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