第10話 最後の晩餐 The Last Supper

◆マルコポーロ警察署前


 取調室を出たジョンは、先に玄関で待っていたピートたちと合流した。

「遅かったね」

 数人の警官と親しげに雑談をしていたピートが、ジョンに気づいて手を上げた。


「じゃあな、後でメールするよ」握手を交わし、警官たちが去っていく。

「随分仲良くなったんだな……」

 警官に手を振るピートに、ジョンが恨めしげに言った。


「射撃補助ソフトのバグを直してあげただけだよ。

 こっちは、簡単な事情聴取だけだったし――ねぇ?」

 ピートの問いかけにケイが頷く。


「そっちは、そっちで熱烈な歓迎を受けたようだな」

 部長刑事が殴ったアゴの傷を見つけて、ケイが笑った。


「大丈夫か、ジョン」傷に手を触れて、ケイが聞く。

「ああ」ジョンが頷く。冷たい手が気持ちよかった。


「ふぅぅん……ねぇ。

 なんだか僕の知らないところで、二人とも随分と親密になったみたいだねぇ」

 ピートが意味ありげに含み笑いをもらした。


「別に……そんなんじゃないさ」

 一瞬、ルシィの笑顔が頭をぎり、胸の奥がズキリと痛んだ。

 何かに耐えるような顔をしたジョンを見て、ピートが慌てて手を振った。


「――――別に! 僕はジョンを責めているわけじゃないんだ。

 むしろ、逆さ。あの事件から、ジョンは何か思い詰めたような顔するから……心配だったんだよ。

 でも、ケイさんと出会ってからのジョンは、昔に戻ったみたいで、僕も嬉しい」

「そうか――――」ジョンは改めてピートの心遣いに感謝した。

「心配かけたな、相棒」肩に手を置いて言う。


「まったくだよ」ピートはあごを反らして言った。

「もともと僕は恋に生きる男なんだぜ。他人の恋路の心配なんかしてる暇はないんだよ」

 友の軽口に、ジョンは胸の奥に暖かいものが広がるのを感じた。

 こわばっていた体がほぐれ、傷の痛みさえ薄らいだ気がする。


 ふと視界の端に、二人の様子を一歩引いた位置から見つめるケイの姿が映った。

 やはりルシィの姉であっても、いくらよく似ていても、ケイとルシィは違うと、ジョンは改めて思った。


 こんな時ルシィならば、やんちゃな弟たちをたしなめる姉のように、または愛しい子どもたちを見守る母のように、真っ先に二人の輪の中に入って笑顔を見せたに違いない。

 だが、今その美貌に浮かんでいるのは、日だまりのような温かな微笑みではない。

 寂しげな達観した微笑だ。決して手に入る事のないものを見るような、そんな悲しい笑みだった。


 ケイはまだ秘密をもっていると、ジョンは直感した。

 彼女の特異な生い立ちだけではない、もっと大きな何かを隠している。

 その秘密が、彼女から笑顔を奪っているのであれば、俺が取り戻してみせようと、ジョンは自らに誓った。ケイの心からの笑顔を見てみたいと、素直にそう思えた。


 それは、亡き妻への未練であったのかもしれない。または、助けられなかった事への贖罪なのかもしれない。――――だが、それがどうだと言うのだ。

困っている女を助けるのに何か理由がいるのか? ――――それは、ジョン自身がいつも言っている事だった。


「ケイ」努めて明るくジョンは声をかけた。


「こんなところにもう長居は無用だ。

 ――いこうぜ」そう言って笑った。


「ああ……」ケイは一瞬戸惑った顔を見せた後、頷いた。


「――――あれ?」

 駐車スペースのバンに乗り込んだピートが首を傾げた。

「どうした?」

「何か……忘れてる気がするんだけど」

「気のせいじゃないのか?」助手席に座ったジョンがピートの肩を叩いた。

「――――そうかな?」

「そうだよ。行こうぜ」


 明るく笑う男たち。警察署を出て行くバンの向こう。赤いアオザイを着た女性が腕を振り回し、怒りも露わに猛スピードで追いかけて来た。


「くぉら――私を――置いて行くなアル――――」



◆◆◆


「よーし、わかったアル。これは私に対する挑戦アルな。

 受けて立つアル。表へ出ろアル」


「解った、解った。俺が悪かったよ。ホント、全然気づかなかったんだ」

 置いて行かれたと憤懣ふんまんやるかたないポチをジョンがなだめた。

「そうそう、僕もまったく気づかなかったよ、ごめんね」

「私もだ」謝るピートにケイも同意する。


「人間は冷たいアル。みんな冷血漢アル。故郷の兄弟たちも泣いてるアル」

 ヨヨヨと泣き崩れるポチにジョンが冷ややかに告げた。

「冷血漢って……そもそも血液も何もないおまえに言われたかないが……」


「でも、遅かったねぇ。いったいどうしたのさ。迷ったの?」

 なおも「差別アル」と怒りが収まらないポチに、ピートが話題を変えた。


「……身元の確認とやらに時間がかかったアル。

 それに何枚も書類にサインをさせられたアルよ」

「意外と手続きが面倒なんだな、おまえ。ちゃんと連合に登録してんのか?

 まさか未登録ノラの異星人なんじゃないだろうな」

 ジョンが面倒ごとはもう御免だとばかりに言った。


 ポチのような異星人だけではなく、宇宙連合に加盟している星系では、住むにも働くのにも連合への登録が必要だ。特に異星人は、人類社会への影響もあり、登録の際にも厳しい審査が課せられる。


「失礼な! ちゃんと登録してるアルよ。登録カードはデータ化してここに入っているアル」

 ポチは首輪型のスピーカーを指さして声高に言った。


「ピューレス人は、特S級の特別警戒指定種だから何かと手間がかかるのさ。

 本来なら、一人で行動する事すら許されない程だからな」

 ケイが助け船を出した。


 異星人の中には、単に好戦的で力が強いだけではなく、有害なウイルスの保菌者であったり、体液が強酸性であったりと、その存在自体が脅威である者もいる。

 その中でも特に危険な種族は特別警戒指定種に指定され、あらゆる行動に制限が付く。


「特S級って最高度じゃない……ピューレス人ってそんなにやばいの?」

 ピートが驚いたように、ポチを見て言った。

「……ポチを見てると全然そんな風には見えないな」

 ジョンが呑気に同意する。


「人調との戦闘を思い出せ……」ケイがため息をついた。

「体の硬度を自由に変化させ、全身を武器化出来る上に、物理的な攻撃はほぼ効かない。

 おまけに液体化出来るから、小さな隙間からどんなところにも進入出来る。

 ピューレス人が暗殺者なら、その危険度は腕斬りの比ではないぞ」


 ジョンは、腕をドリル化したポチを思い出した。

「確かにヤバイな――――あいつがあんまりアホだから、忘れてたぜ」


「だがな……ピューレス人が特S級に指定される理由は、別にある」

 ケイは、まるで他人事のようにじっと話を聞いてるポチを見ながら言った。


「彼女――彼らが元々は、意思ある液体であるのは知っているな。

 惑星ピューレスの海の中から、意思を持ち、人類とコンタクトを取り始めた者がピューレス人だ。つまり――言い換えれば、ピューレスの海そのものが巨大な一つの生命体なんだ。

 ――ただ、生命体と呼んで良いのかは解らない。内蔵も脳も核になる物もない。なのに、生きている。意思を持ち、感情を持っている――少なくとも持っているように見える」


「それのどこが不思議アルか? 私は今も母なるムーヴと繋がっているアル。

 だから、考える事が出来るアルよ」

 ポチが肩をすくめて言う。


「ムーヴとは、ビューレスの海の事だが、例えばその彼女がどこかの海か川に落ちて、消えてしまったとしたら?

 ――――もっと直接的に、どこかの大都市の飲料水のタンクに落ちたとしたらどうだろうか?」ケイはポチの無機質な面を見ながら、薄く笑んだ。


 ジョンは、急に車内の温度が下がったような気がして、身を震わせた。 

 ケイが言わんとしている事は、ジョンにも解った。

 個としての境界が無いピューレス人が、人間の体内に入った場合、どうなるかは誰にも解らない。何も変わらないかもしれない――――だが、など、確かめようがない。


 それは確かに、下手をすれば、人類史上最悪のバイオハザードを引き起こす可能性があるという事だった。それどころか、人類の存続の危機に繋がりかねない。

 特S級――いや、それすらなまぬるい特別警戒指定種に違いなかった。


「ピューレス人がどれだけ危険かは、良くわかったが……だったら、なぜこいつが一人で出歩いてるんだ?」

 ジョンの視線の先では、特S級の危険生物が呑気に窓の外を眺めている。

「それは、彼女の身元引受人がミツルギの皇帝カイザーだからだ」

皇帝カイザー――それってもしかして、総帥の事?」ピートが聞き返す。

「そうだ。ミツルギグループ総帥、アレクサンダー・マクマソン・ミツルギが彼女の自由を保障しているんだ」


王様アーサーが何かあった時は全て責任を負うって言ってるわけか……そりゃまたどうしてだ?

 あいつは、ピューレスの王女様か何かなのか?」

「人間たちと一緒にしないでほしいアルな。

 私たちにはそんなくだらない上下関係なんて無いアルよ。

 そもそも、みんな同じなんだから、そんなの意味ないアル」

 小馬鹿にしたように言うポチ。


「謎の危険生物だかなんだか知らないが、あいつに言われると無性に腹が立つな」

「まあねぇ……」ジョンの言葉にピートが苦笑を返す。

「私が自由に動けるのは、お師匠様とミツルギの王様が友達だからアルよ。

 昔お師匠様にとても世話になったそうヨ」


「白龍のじいさんとミツルギの総帥が知り合いねぇ……あのじいさんも謎だな」

 ジョンが腕組をして唸るように言った。


「ポチさんについては、僕は深く考えない事にするよ。

 その方が精神衛生上良さそうだし。

 それに僕は、可愛い女の子には分け隔て無く接する主義なんだ」

「おまえもブレないね……」

 ジョンがあきれたようにピートを見た。


「それよりも――――そろそろケイさんの事を話してほしいな。

 ゴードンに会ってから、何があったのかをね」

 ピートが何気ない風を装って聞いた。それは、彼なりの気遣いだったのかもしれない。


 ジョンとケイは互いに顔を見合わせ、頷いた。

「そうだな……順を追って話そうか」



◆クイーンズランドシティ KKKマーケット


「ルシィのお姉さんだったなんてねぇ……どうりで顔が似てるはずだよ。

 ――――ええと、野菜は……タマネギとニンジンと……なんだっけ?」

 ピートがひとしきり頷いた後、野菜をカゴへ入れていく。


「ゆっくり休んでおけ」と言う、どこか予言めいた朧の忠告もあって、一同はいったんホテルに戻る事にした。

 途中、ジョンは朝からあった事を――ケイから聞いた内容も含めてピートに話した。

 ケイの身の上を聞いた後でも、ピートに変化は無かった。

「なるほどねぇ」と一言いったきりだ。

 先ほどのポチの事と言い、ケイの事と言い、まるで変わらないピートの態度に、ジョンは驚きと共に、胸中で感謝の言葉を呟いた。


「ジャガイモだ。肉じゃがにはジャガイモだろう。

 ……まて、ピート。タマネギはあっちのクラシエ産を買おう」

 ケイがタマネギを棚に戻した。

「どうして? こっちの方が大きいよ」

「クラシエ産の方が小さいが味が良い。肉じゃがにはこっちの方が美味いんだ」

 ケイが別の棚から小振りのタマネギを取り出して言った。


「ふぅん……そうなんだ。僕も料理はするけど、そこまで考えて無かったなぁ。

 ところで……その、病気の方はもう良いの?」

 ピートが言いにくそうに訪ねた。ケイの屍血病の事を言っているのだろう。


「気をつかわせて悪いな……心配はいらない。

 病気と言っても生まれついてのものだから、普段はまったく問題ない。

 さっき倒れたのは、生理のせいだ。どうしても月経時には体調が崩れて、興奮状態になったり、貧血気味になったりするんだ」

「ああ……なるほど」デリケートな話題にピートが頭を掻いた。


「なあ……これ、本当に食うのか?」

 ジョンがカゴの中のイカを指さして言った。

「当たり前だ。ここのイカは刺身にすると、身が引き締まっていて美味いぞ。

 イカは嫌いか? だめだぞ、好き嫌いを言っては」

 馬鹿にしたように鼻で笑うケイに、ジョンが言い返す。

「馬鹿言え――――イカは食えるが……これは、足が10本以上あるぜ?」

「ええと……14本ほどあるね」ピートが苦笑する。


「大丈夫だ。味は変わらん」ケイが自信たっぷりに言った。


「せっかくの休息なら、私が腕をふるおう」というケイの申し出で、一同はホテルの近くで買い物をする事にした。

 彼らが泊まっているホテルには、共同で使用出来るキッチンがある。


 それは、初めて見せたケイの感謝の表れだったのかもしれない。

 ほんのわずかではあったが、ジョンはこの謎の女との距離が縮んだ気がした。


「私はこれが良いアル――――」

 物珍しそうに店内を物色していたピューレス人が何かを抱えて走って来た。


「これ、すごく美味しそうアル」

 嬉しそうに差し出したボトルには「元祖アルプスの超宇宙天然水」と書いてあった。


「…………」

 もはやつっこむ気力すら無くして、立ち尽くすジョンとピート。

 その時――――

「こんなところで何をしているの?」

 後ろで声がした。


「ナオミ! おまえこそ、何をしてるんだ?」

 振り返ったそこに見慣れた女性の姿を見つけ、ジョンが声を上げた。


「何って……買い物よ。皆で夕食を食べるって聞いたから、何か作ってあげようかと思って。

 どうせ、どこかで出来合いの物でも買って食べるつもり……」

 食材の入った袋を見せようとしたナオミの手が止まる。

 彼女の目は、ケイが手にした買い物かごを見ていた。


「今夜はこの星に来て以来、一番豪勢な夕食になりそうだね」

 ピートが明るい声で言った。

 皆の目がピートに集まる。


「食事はみんなで食べた方が美味しいし、料理もみんなで作った方が楽しいからね」

 心から楽しそうに笑うピートにつられたのか、ナオミとケイの口元にも自然と笑みが浮かんだ。二人は互いの顔を見ると、仕方ないわねという風に肩をすくめた。


「なあ、ナオミには――――」

「うん。僕が連絡した。

 ――――だって、チャンスは平等でないとフェアじゃないからね」

 小声で問うジョンに、ピートがしたり顔で頷いた。


「なんのチャンスだよ……」

 相棒の気配りにジョンは、苦笑を返すのが精一杯だった。


「ホント……楽しみだなぁ」

 そんなジョンの心中を余所に、ピートは脳天気に笑った。



◆ホテルYOUSUI 共同キッチン


「鮮やかなものね」

 タイに似た白身の魚を捌くケイの包丁さばきを見ながら、ナオミが感嘆の吐息を漏らす。


「刃物の扱いには慣れているんだ」

 サラリと物騒な事を言ってケイが笑う。


「――――あら、魚は煮るのね」

「ああ……焼き魚も悪くないんだが、そっちは肉料理だろう?」

 ナオミの問いに、鍋を取り出しながらケイが言った。

「そうよ……どうして解ったの?」

「血の匂いがしたからな……」

「怖い人ね……」ナオミが苦笑する。


「私も一応日系だし、実家もNEOトーキョーなんだけど、和食はあまり作った事がないのよ」

 トレイに肉を入れながらナオミが言った。

「和食は良いぞ。栄養のバランスが取れているし、歳を取ると和食の味付けの方が美味しく感じるからな……ん? 肉をジュースに漬けるのか?」

「嫌ね……年寄りみたいな事を言わないでよ。

 ――――肉は焼く前に炭酸ジュースに漬けておくと柔らかくなるの」

 ナオミが笑いながら言った。


「私にも何か手伝わせてほしいアル――」

 料理する二人を興味深そうに眺めていたポチが言った。

「じゃあ……イカをさばいてくれるかしら?」

「任せろアル」ナオミの指示に嬉しそうに頷くポチ。


「ねぇ……ジョン」

「――――ん?」

「なかなか良いもんだね、可愛い女の子三人が厨房に立つ姿ってのは」

「一匹変なのが混ざってるけどな」


 三人の様子をぼんやりと眺めながらジョンは苦笑した。

 共同キッチンはもともとホテルの厨房として使われていたところだった。

 設備も充実している上に、女性陣だけではなく、ジョンたちも並べる程広い。


「まぁ……仲良くやってくれているようでなによりだ」

「意外とうまが合うのかもね、ナオミとケイさん」

 ビートがお気楽に笑う。

「どうなんだろうなぁ……」ジョンが曖昧に頷いた。


「むき――――コイツ、なかなか切れないアル。手強いアル」

 ポチが包丁を手にイカと格闘している。

「かくなる上は、これで粉々に――――」

「まてまて、粉々にしてどうする」

 両手を刀状にして息巻くポチをケイがたしなめた。


「このイカは肉厚で弾力があるから、切りにくいんだ。

 まずはヌメリをちゃんと洗い流せ」

 魚を入れた鍋を火にかけたケイが、手取り足取りポチに教える。

「力任せに押してもダメだ。包丁のこの辺りを押しつけて――引く……そうそう」

「むむ……あっ! 切れたアル」

 ポチが小躍りして喜ぶ。ツインテールが触手のようにピョンピョンと跳ねた。


「可愛い……」その様子を見てピートがニヘラと締まりのない笑みを浮かべた。

「――――さて、僕も手伝うかな……ジョンも火の番くらい出来るだろ?」

 誘うピートにジョンもヤレヤレと重い腰を上げる。


「焦がすなよ?」ジョンを見てケイが意地悪な笑みを漏らした。



◆クイーンズランドシティ フリーウェイ


「――――車を出してくれたまえ」


 支社の視察を終えた後、ゴードンは何でもないような口調で言った。

 まるで、ちょっとそこでタバコを買って来てくれとでも言うような気軽さだ。

 だが彼は今朝、腕斬りの襲撃を奇跡的に逃れたばかりなのだ。はっきり言って正気の沙汰とは思えない。


「あ――――専務――それは」

 真意を測りかねて、アレクセイはさすがに言葉を失った。

 二の句が継げないとはこの事だ。


「――それから、同行するのは、君だけにしてくれ」

 更にそう言い出した時には、さすがに思考が停止し、この年若い上司に殺意さえ覚えた。

「専務、それはさすがに危険すぎます――――」思わず言葉に怒気がはらんだ。


「まあ、落ち着きたまえ」

 まるで他人事のように、ゴードンは笑った。

「僕もマルコポーロくんだりまで観光に来たわけじゃないんだ。

 大切な用があるんだよ」

 アレクセイの肩に手を置くと、耳元に口を寄せてそう言った。


「ですが――――」

皇帝カイザーからのめいだよ――――」

 さすがに、皇帝カイザーの名を出されてはアレクセイも黙らざるをえなかった。

 それでも、せき立てる上司に何とかSPを一人だけ付けると、自らハンドルを握った。


 マキシマの電脳街に車を止めさせたゴードンは「待っていてくれ」と言い残すと10分程姿を消した。

 やきもきしている車内の二人の心中を余所に、何も言わずに戻ってくると次の目的地を指示する。

 港、中央森林公園などそうやっていくつかの目的地を回り、辺りが夕焼けに包まれる頃、しびれを斬らしたアレクセイがついに口を開いた。


「専務……そろそろ本社へ戻られた方が良いのではないですか?

 今夜は惑星代表と市長も出席して、夕食会が予定されていますので……」

 アレクセイは、ハンドルを握る手に滲む嫌な汗を感じながら、努めて冷静を装って言った。


「キャンセルだ」

 窓の外を眺めながら、ゴードンは短くそれだけ言った。

「――――!」

「目的地は次で最後だが、今夜中に戻ってくるのは難しいだろう」

 驚くアレクセイに、ゴードンは語りかけるように言った。

 静かな語調だが、そこには有無を言わせぬ威圧感が込められている。

 命令する事に慣れた支配者の空気。圧倒的な迫力に気圧され、アレクセイは続く言葉を胸中に飲んだ。


「……それで……最後の目的地はどこなんですか?」

 喉の奥から絞り出すように、それだけを口にした。

 横目でその反応を満足げに見ると、ゴードンは口元を緩めた。アレクセイを縛る圧力がわずかに緩む。だがそれもつかの間、続いて彼が口にした言葉が、一同にさらなる衝撃を与えた。


「影の国――シャドーランランドだ」



◆ホテルYOUSUI


「美味ぁぁぁぁぁぁぁいぃ――――」

 ピートが叫んだ。

「今日程、箸の使い方をマスターしておいて良かったと思った事はないよ。

 この箸で触れただけで、まるで吸い込まれるようにほどける白身の絶妙な柔らかさ、口の中に広がる上品な味わい――――正直梅干しは苦手だと思ったけど、これは別だね。うん、煮魚に梅干しと言う日本人の言葉が今なら理解できる――――」


「ピートうるさい――黙って食べろ」

 なおも賛辞を口にするピートを、ナオミが凄まじい目で睨んだ。

「おまえのステーキも美味いぞ……その柔らかくて」

 ジョンがなだめるように言う。


「どうも――」

 半ばやけくそ気味にナオミは言った。


 料理を終えた後、そのままホテルの食堂を借りて一同は夕食をとった。

 ケイは魚の煮物、肉じゃが、和え物、お吸い物、イカの刺身。

 ナオミは男達の食欲を考えてステーキとサラダ。

 それにピートが肴になりそうなものをいくつか作った。


 ジョンが言った言葉は、お世辞ではない。

 ナオミの料理の腕はなかなかの物だった。

 肉も上等、味付けも良いし、焼き加減も申し分無かった。

 だが――今回ばかりは相手が悪かった。


 ケイの和食の腕前は本物だったのだ。

 それもただ美味いだけではない。

 この時代では珍しい本格的な和食の料理人だった。

 特別凝った料理というわけではない。だが経験と真心を感じられる温かい家庭の味がそこにあった。


「里では皆、和食しか食べないからな。自然と覚えたんだよ。

 ――――そのかわり、他の料理はあまり得意ではない。

 だから今日は、ナオミの料理を見て、とても勉強になったよ」

 謙遜しているわけではなく、本心からケイはそう言って礼を言った。

 ケイのその謙虚な態度が、ナオミを打ちのめす言いよう無い敗北感に拍車をかけた。


「ねぇねぇ、イカは? イカはどうアルか?」

 ポチがジョンに尋ねる。

「イカ? ……ああ、これか。

 ――――歯ごたえがあって美味いな」

 イカの刺身を食べながら、ジョンが答えた。


「そうアルか! 美味いアルか! さすが私、料理も上手アルな!」

 体中をプルプルと震わせ、喜びも露わにポチが飛び跳ねた。

「まぁ……切っただけだけどな」

「切るのも料理の内アル。こいつはなかなか手強かったアルよ」

 苦笑するジョンにポチが抗議する。


 そんな二人のやりとりを微笑ましそうに見ながら、ケイが青い瓶を取り出した。

「それは……もしかして日本酒かな?」

 ピートが目ざとく見つける。

「ああ……食前酒にと思ったんだが、出すタイミングを逃してしまった。

 それに、いつゴードンから連絡があるかわからないからな」

 ケイの言葉に伸ばしかけたピートの手が止まった。

「そうか……そうだね」残念そうに手をひっこめた。


「――私が頂くわ」

 ナオミがグラスを差し出して言った。

 ケイが一瞬驚いたようにナオミの顔を見た。

「それでは、私も一杯だけ付き合おう」

 差し出されたグラスに日本酒を注ぎながら言う。


 それを見たジョンは無言で立ち上がるとグラスを二つ持って戻って来た。

 一つをピートに渡し、残った一つを差し出す。

「――――いいのか?」

 グラスとジョンの顔を交互に見ながら、ケイが問うた。

「美人二人と酒を飲む機会を見逃す程、馬鹿じゃないんでね。

 ――――それに、俺にとっちゃどちらも同じなんだ」

「同じ?」ケイとナオミ、二人の口から同じ言葉が漏れた。


「ゴードンの話にのって、腕斬りと命がけのやりとりをするのも、あんたたちと酒を飲むのもどちらも俺にとっては、同じくらい大事だという事さ。

 ――――やりたいからやる。当たり前のことだ。いけてる女に“お嬢さんハンカチを落としましたよ”と声をかけるくらいに」

 そう言ってジョンは片目をつぶった。

 二人の女は、今初めて目の前の男に気づいたとでも言うように、じっと見つめた。

 そして、互いに目を見合わせて可笑しそうに笑った。

「なるほど」とケイ。「仕方ないわね」とナオミ。

「それじゃあ、僕も飲まないわけにはいかないよね」とピートもグラスを出した。


「一杯だけにしておけよ」ジョンのグラスに酒を注ぎながらケイが言った。

「後でこれを飲んで」ナオミがグレーの錠剤を二つテーブルに置いた。

「酔い覚ましよ……市販はされてないけど。

 効果は抜群のはずよ。死人だって飛び起きるくらいに」

 何でもない顔で言うナオミにジョンが「怖いな」と苦笑した。

「私のせいで怪我でもされたら寝覚が悪いから、念のために……です」

「――――ツンデレ乙。

 ナオミ、顔が赤いよ。もう酔ったのかな?」

 ピートの軽口をナオミがすごい目で睨んだ。


 ジョンはグラス越しにその様子を眺めた。

 日本酒を少し、口に含んでゆっくり味わうように飲み下す。

「美味いな……」右手が自然と胸元のペンダントに触れる。


「それは――――」

「ルシィの形見さ」

 問うケイに、ジョンは胸元からペンダントを出して見せた。

 金属で出来た虫型のペンダントがジョンの手のひらで鈍い光を放っていた。

 背中の部分に米粒くらいの黒い石が埋め込まれている。


「最後の夜にルシィがくれたんだ。幸運を呼ぶお守りだって……形見になっちまったけどな」

 やるせない思いをぶつけるように、ジョンはペンダントを握りしめた。

 痛みに耐えるようなその横顔をしばらく見つめた後、ケイはそっとペンダントを握ったジョンの手に触れた。

 ヒヤリとした冷たい手の感触にジョンが驚き、ケイを見た。


「これはコガネムシだ。私たちの里では、コガネムシをかたどった品物を身につけていると幸運を招くと言われているんだ」

 ジョンの顔を見ずに、ケイは歌うように呟いた。

 遠い昔を思い出すように――――


「このペンダントは……母の持ち物だ。私たちの母が幼い娘にお守りとして持たせた物だよ。

 ルシィ……あの子は、母の形見をおまえに託したんだ。

 誰よりも――己の身よりもおまえの事を案じていたんだな」


『ねぇ……笑って、ジョニィ』


 不意にルシィの最後の言葉が聞こえた気がした。

 ジョンの視界が一瞬ぼやけ、滲む。

 内側からこみ上げてくるものを、飲み込むようにジョンは残った酒を一気に干した。



◆◆◆


 夜の厨房に水の流れる音と、カチャカチャという食器の鳴る音だけが響いていた。

 手伝いを申し出る男性陣を部屋へ返し、ナオミとケイが二人で夕食の後片付けをしていた。

 疲れを知らないかに見えたポチも、さすがに疲れたのか、それとも他に興味をひく事を見つけたのか、ジョンたちといっしょに部屋へ引き上げていった。


「――――良いのか?」

 女二人が並んで洗い物をしている時だった。

 意外な事に、先にケイが沈黙を破った。

 だが、あまりに自然な声音だったので、ナオミは一瞬、それが自分にかけられた言葉だと気づかなかった。


「――――え?」

「あいつに何も言わなくて良いのか?」

「何を言うって――――」

「これが最後の夜かもしれないんだぞ」

 洗い終わった皿を置いて、ケイがナオミを見た。


「いつ死ぬかなんて誰にもわからない。最後の時がいつ来るかなんて誰にもわからないんだ。

 これが最後かもしれないとわかる事すらまれだ。

 ジョンはあんな事を言っていたが、腕斬りはそれ程の相手だ」


「意外とおせっかいなのね」

 ナオミもまた、洗い終わった皿を置いてケイを見た。

 水音が途絶え、薄暗い厨房を沈黙が支配する。


「私はただ、あなたにジョンを引き留めてほしいと思っているだけだ」

 ケイの表情がわずかに緩んだ。

「あなたが――引き留めれば良いじゃないの」

 喉の奥に張り付いた何かを引きはがすように、ナオミは言った。

 固い声音だった。――そしてその事に何より驚いていたのは、他ならぬ彼女自身だった。


「ゴードンの依頼をあいつに持ちかけたのは、私だ。

 ――――それに、私では無理だよ」

「どうして――――」

「ジョンが見ているのは、ルシィの面影だ。私じゃあない。

 あいつが抱いているのは、永遠に失われたと思っていたものが、もし取り戻せるならという、誰もが願う幻想にすぎない」

 そう言ってケイは、自分自身の失った何かを思い出すような、遠い目をした。


「――――信じられないわね」

「困ったな……何が信じられないんだ?」

「女の勘かしら? 昔から油断ならない人を見分けるのは得意なの」

「なるほど、優秀だ。いいエージェントだな」

 ケイは値踏みをするようにナオミを改めて見つめた。

「それはどうも……それに、あなたは勘違いしているわよ」

「勘違い?」

「私には付き合っている人がいるのよ」

 冷静に――少なくとも冷静であろうと努めてナオミは言った。

「それがどうしたんだ?」ケイが肩をすくめた。


「だから――――」

「付き合っている男がいるからと言って、ジョンとどうこうならない理由にはならんだろう?

 付き合っている男がいるからと言って、ジョンを好きになってはいけないわけでもない。

 ただ、そいつよりもジョンが好きになったという、それだけだ。

 ――――それに、あなたはと言ったが、とは言わなかった」


 一瞬、ナオミの脳裏に一人の男の姿が浮かび上がった。

 かつて、愛した男の姿だ。

 野望と行動力と夢に対する純粋さを持った男だった。

 そして、姉を亡くしたナオミを支えた男だ。

 だが、今の彼に昔の面影を重ねる事は出来なかった。

 時の流れと、彼が望み、そして得た地位がかつての輝きを奪ってしまった。


「やっぱり……嫌な人ね」

「遠慮がないだけだ」

 二人は再び見つめ合った。だが今は、そこに旧知の友のような、親密な空気がわずかに漂っていた。

「あなたの言うとおりにするのも癪だから、今夜はこれで失礼するわ。

 ――――だから、あの人の事をよろしくね」


「――――ああ。努力するよ」

 投げかけられた言葉の重さに、ケイは困ったように頷いた。


 二人の女はそうして別れた。

 共にそれぞれ立場があり、事情があり、秘密があった。

 そして、その胸の内には不器用な愛があった。


◆◆◆


 夜明けまでには連絡があると朧は言ったが、最初の連絡があったのは、10時を少しまわった頃だった。

 そしてそれは、ゴードンからでは無かった。


「専務はシャドーランドへ向かっている」

 ミツルギ重工マルコポーロ支社の社長、アレクセイ・バヴロフと名乗った男は、それだけ伝えるとすぐに通話を切った。


 連絡を受けると一同はすぐに身支度を調え、車に乗ってシャドーランドを目指した。

 ジョンもピートもケイも、誰一人としてその情報を疑わなかった。

 ポチでさえ、まるでこれから起こることを知っているのかのように一言も口をきかなかった。


 そしてフリーウェイを抜け、荒野の向こうに黒々とした不吉な影が見えてきた頃、ジョンのバディホンが鳴った。


 かすれ声に、最初は先ほどの男――アレクセイとは別の誰かだと思った程だった。

 ぜいぜいと息を切らし、恐怖に震える声で男は言った。


「ゴードン専務が……殺された」

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