第四章 裏切りの根

 あの言葉は、と頭の片隅で弓弦羽は考える。家族葬で送るから参列は遠慮すると彼女はメールで告げた。母を射殺した男が参列を許されるわけはない。俺が焼香する姿など彼女は見たくも考えたくもないだろう。佳織の父母も娘を射殺した俺の顔なんて見たくないだろう。あたりまえだ!

 だが。あの「有り難う」とは何に向けられた言葉なのだろう。

 さようならという意味か。一時でも母に安堵してもらえたからという意味か。

 俺は悔やむ。

 でも俺は受け入れる。

 彼女が許してくれるわけはない。大人だから直裁に言わないだけだ。いいわけはすまい。絶対にしない。

 もし彼女が発病したら俺は行動する。でも。俺の傍に彼女がいてくれるわけがない。俺の顔なんて見たくないさ。

「……は優秀な幹部揃いですが、彼は別格です。弓弦羽大尉です」

 名前を呼ばれて物思いを中断した弓弦羽は、目の前の尊大な男に敬礼する。今日は何時ものフライトジャケットではなく、CGO幹部職員用ジャケットを着用している。

「弓弦羽滉です」

 スーツの左襟に議員バッチをつけた男は軽く波打つ髪の毛を揺らして鷹揚な態度で頷いた。

「異病から市民を護ってくれる君たちには常々感謝している。これからも頼むよ」

 衆議院議員仙北谷吉生(せんぼくやよしお)。四十九歳、三島市出身。東大在学中に司法試験に合格し、大学を中退して司法研修所に入った。弁護士登録後、労組関係を主に扱って十年ほど活躍した後、地方議会を経ずに主民党の公認を得て静岡第五区として衆議院選挙に出馬し初当選。その後副大臣なども経験し、次世代の後継者として注目されている。外国人地方参政権を慎重に考える勉強会や慰安婦問題と南京問題の研究会に属しているので、主民党内に於いては保守派となる。なので民治党応援者の支持も取り付けているが、難民受入推進派なのはあまり知られていない。以前は銀縁眼鏡をかけていたが、最近手術を受けて若返りを狙った様子だ。

 今日は大藪と弓弦羽の他、静岡地方検事局から細野主席検事と加苅次席検事が三島の仙北谷事務所を訪問した。ただし細野は昨日づけで静岡地方検察局に異動した。つまり目くらましの移動で、最高検察庁直属が真の姿だ。

「恐縮です。尽くします」

 真摯な表情を浮かべた弓弦羽だが、内心では悪態をついた。南スーダン問題で弓弦羽を血祭りにあげようとした議員連の最先鋒だったのに、今はそれを微塵も臭わせない。当時ネットの世論調査では、六割を超す市民が弓弦羽の行動を支持していた。主要メディアのそれでは、九割が弓弦羽を弾劾していたが。

「彼は職務遂行時に負傷しまして、現在療養中なのです。先生が現場の声をお聞きになるには最適かと思い連れて参りました」

 如才なく大藪が予防線を張った。気遣いの言葉を弓弦羽に掛ける仙北谷だが、その眼は左程の興味も浮かんでいない。明らかに二人の検察官を気にしている。

 仙北谷に促されて四人は着席した。男性秘書がお茶を運び、暫くは当たり障りのない会話が交わされる。大藪の話術に感心しつつ、弓弦羽は沈黙を守った。

「ところで先生。ニシキダ・グラッツェの宮藤社長をご存じですね。宮藤忠雄氏です」

「ええ。後援会で世話になっています。彼が?」

「先日、社長が入院する直前に面白い話を聞けましてね」

 仙北谷が一瞬瞼を震わせ、二人の検事に目を走らせた。

「入院したとは知りませんでした。おい、山崎君。お見舞いの手配を」

 脇で控えていた秘書が頷いてメモを取りだした。大藪がニッコリ笑う。

「いや、なに。仮病ですよ。今は会長の宮藤祥文氏共々、我々の保護下にあります」

 仙北谷が明らかに演技した。

「先生。説明してくださいますね?」

 細野主席検事が穏やかに、だが断固とした声で呼び掛けた。仙北谷の瞼と頬が痙攣を始める。

「先生が臨時国会を終えるまで待っていたのですよ。不逮捕特権は適用されません」

「私はなにも……いや、すまん。票を確保するためにやった。ガーディアンを集めて支持者を護らせ、それで支持者を増やそうと。前の政権運営失敗以来、主民党は支持率が爆下げだ。私もこのままでは……面目ない」

 仙北谷が面を伏せた。

「なるほど、票田の整備でしたか。六区当選の民自党糸山聖先生も同じことをやっていますよ。ノウハウを共有されたのですか。おかしいですね、民自党は政敵でしょう」

 ゆっくり顔を上げた仙北谷が頭を振る。

「……偶然だよ」

「研修中の警護士をスカウトしていた男は同一人物ですよ。そいつは仙北谷先生派と糸山先生派の企業それぞれに振り分けていた。説明してください」

 弓弦羽は目を細めた。手抜きだなと思うと同時に、CGOにも黙っていた検事局にも呆れる。どうせ情報漏洩を疑われる立場だよ、と内心毒づく。ならば俺の疑いも口外する必要は無いわけだと結論する。

 唇を引き結んだ仙北谷は口を開かない。落ち着きなく瞬きするだけだ。

「山崎さん! 動かないで」

 鋭い声を上げたのは加苅次席検事だ。先ほど立っていた場所より明らかに山崎の位置がドアよりになっていた。

「ご自身の立場がいかに悪いかお気づきですよね。先生は法曹畑のご出身だ。ある筋は内乱罪の適用が出来るんじゃないかと思索していますよ」

 身体を大きく揺らした仙北谷に弓弦羽は僅かに唇を歪めた。弁護士にこのブラフを噛ますからには、検察は全体像を掴みはじめているはずだ。それが自分の疑いと被るのかどうかだが。

 ゆっくりと噛んで含めるように細野が説明する。

「主犯の処罰はなんでしたっけね」

「内乱罪なんて……馬鹿げている!」

「告発内容を吟味して決定するのは検察の仕事です。犯罪者じゃありません」

 細野に続いて加苅も口を開いた。

「先生の行動は、結果として多数の市民を死に追いやった。それが大事なんです。死刑を免れるとお思いですか」

 仙北谷がシャツのポケットから煙草を取り出した。震える指で抜いたピースを咥える。が、銀無垢のライターを着火出来ぬまま、クリスタルガラスの灰皿でへし折って捨てた。

「市民感情がどう動くか。これも検察は考慮します。そうしないと怒りがこちらに向いてしまいますからね」

「国民の代表者が、有権者の信頼を裏切ったのですからねえ」

 二人が無表情に呟く。上っ面は真面目を装う大藪だが、その眼ははっきり笑っていた。弓弦羽も口を開く。

「この春、一人の警護士が殉職しました。その遺族に出所不明の弔慰金が支払われました。先生が手配されたそうですが」

 ああ、と仙北谷が頷いた。

「そのカネはどこから?」

「私のポケットマネーだ」

 検事二人と大藪の目が微かに動く。一方、山崎の態度が少しおかしくなった。

「証明できますか。口座から下ろしたとか、株を売却したとか」

「いや、タンス預金だからね」

「あれだけの金額をポンと出せるのだから、まだたっぷり残っていますね。そうでないと警護士が異病者を処理したときのボーナスが出せないし、もしものときの弔慰金もね。いかほどタンス預金されているのですか」

 その時はかき集める、と仙北谷が呟く。

「弔慰金を持って行ったのは誰ですか?」

「私です! 私が槌田と二人で運びました」

 山崎が叫ぶ。仙北谷も頷いた。

「そして引き替えに持参の領収書に金額、住所氏名そして捺印を?」

「そうです! 収入印紙はこちらで用意しました。でも先生に確認していただいた後、シュレッドしてしまいましたが」

 うんうんと頷いた弓弦羽だが、その目は冷たく山崎を見続ける。

「先生の口からお聞かせください。おいくら万円でしたか」

「い――」

「黙れ!」

 弓弦羽に一喝された山崎は床に尻餅をついて縮み上がった。仙北谷も顔色を変えて竦んでしまう。戦闘騒音下で命令を伝達できるように訓練された、幹部自衛官ならではの声量と気迫だ。

「に、二千万、円」

「領収書は確認しましたか」

「したよ」

「金額が違うんですが。一千万円でした」

 仙北谷があっけにとられ、二人の検事が薄笑いを浮かべる横で、大藪は肩を震わせる。逃げ出しかけた山崎だが、ドアノブを握ったところで弓弦羽に引き戻された。

 激しくノックされたドアの向こうから誰かが声を掛けた。弓弦羽に睨まれた仙北谷が震え声を張り上げる。

「何でもない。難しい話をしているんだ、邪魔しないでくれ」

 疑わしげにもう一度問うた声だが、重ねて否定されて人の気配は消えた。

「ご協力感謝いたします。話を戻しましょう。先生が信頼する山崎君と槌田君は、一千万円を自分のものにしちまったんですよ」

 仙北谷に睨まれた山崎は震えながら顔を背けた。弓弦羽は咳払いをして仙北谷の注意を自分に戻す。

「アレは個人の丸秘資金だったと。いやいや、先生が幾ら蓄財上手でも不足しますよ。五人死んだら一億。何人スカウトさせました? 警護士は警備会社の社員じゃない。戦闘実務要員は損耗が激しい。利口な先生は当然損耗率も勘案して立案したはず。していないのですか? 全財産を充当しても無理。戻らないカネを貸す人は限られています。票に化ける前に禁治産者になるのは確定。票田どころじゃありませんね、被選挙権もなくすのですから」

 仙北谷の瞬きが早まっていく。

「あまり軽く空手形を切ってしまうと、不平不満が元で露呈する危険性が大となる。同じ企業で勤務する身売り警護士は互いに情報交換しますよ。お前はボーナス幾らだってね。労使問題の辣腕弁護士だった先生が、それに気付かなかったと?」

 お茶を一口啜り、弓弦羽は続ける。

「二人が馬鹿な真似をした理由はなにか。先生もやったからですよ。某所から届いたカネから、自分の取り分をさっ引いた後は興味なし。領収書をちらりと見ただけで終えた。出資者への報告は口頭で済むからですね。全額をガメなかった点は評価しますよ、個人的にですが」

 エアコンで室内は寒い程なのに、仙北谷の顔には汗が噴き出している。

「票だけでこんな危ない橋を渡る奴はいませんね。期待できる旨味は、税務署を通さないで済むカネとさらなる権力を提示されたからでしょう?」

 じっと仙北谷を見詰める。

「先生が話に乗ると考えた人物がいた。先生は決断した。ばれなきゃいいのさってね。何故ばれないと考えたか。損をしてまで自分に不利になる行動をする馬鹿はいない。確かにそうです。でもね。不正手段は口外しなくても、手にした結果を自慢するのが人間の性です。不思議ですよね、札束の上に布団を敷いて寝てりゃばれないのに」

 顔を背けた仙北谷に肩を竦めた弓弦羽は声に出さず薄笑いを浮かべた。

「ま、先生の自由だ。全部背負って余生を刑務所で過ごす、いや、首に太いロープを巻かれるのも。だれも同情なんてしやしない」

 微かに仙北谷の肩が震えたのを弓弦羽は見た。

「山崎さん、お茶のお代わり貰えますか」

 大藪もお代わりを所望する。急須とポットは室内にあるが、山崎は震えるばかりで身動きしない。肩を竦めた弓弦羽が立ち上がって作業を始めた。その完全なまでの無関心さに仙北谷の瞬きは止らない。

「先生。決断してください。我々は本丸を衝きたい。棒で手を叩いても意味がない。頭を叩き潰さないとね」

 静かに促した細野を、仙北谷が真剣な眼で見詰める。

「先ほど、宮藤が保護されていると言っていたが」

「取引はいたしません。でも協力するのであれば、検察はそれを忘れませんよ」

「協力する。するから、私も入院させてくれ。正直怖くなってきた」

 揃って首を傾げた弓弦羽たちに仙北谷が慌てた。

「私だけじゃない。他の代議士もやっている。つまりだ、それだけの大金を動かせる人物が裏にいる」

 仙北谷が急に早口になった。

「ああ、囀ったら抹殺されると?」

 両手に茶碗を持って戻った弓弦羽が呟いた。その言葉が仙北谷には衝撃だったらしい。震えだした。

「そ、そうなるかも……いや、多分そうなる」

 上等なスーツの袖で額の汗を拭う仙北谷の様子に、弓弦羽は矢野俊之の名前を思い浮かべた。奴は過激派シンパが匿っていると捜査陣は見当を付けている様子だ。あいつが俺に剥けられた刺客だったのかと首を傾げ、溜息を吐いた。

「では嘘はなしで。録音しますからそれでもよければ」

「協力する。だから保護してくれ」

 細野と加苅がそれぞれボイスレコーダーを取り出した。日時と場所を吹き込んでから仙北谷に氏名と録音に同意した旨を吹き込ませる。

「今回の件で、私に資金とガーディ……警護士の資料を渡したのは岳下直徳(たけしたなおよし)だ。日本夜明けの会で党首をやっていたあの岳下だ。引退してからは宗教法人最終解脱達成会を主催している」

 弓弦羽は眼を瞬く。

「最初の接触は昨年十月だ。CGOの警護士制度を利用して、票田を維持拡大しようという話だった。資金は全て現金で岳下が用意する。賛同する代議士が各地にいるので、将来的には新しい政党を作って一気に与党になれる。その時は党の重鎮にするからとね」

「当然、賛同する政治家の氏名も聞きましたよね」

 細野に頷いた仙北谷は十八名の氏名をあげた。それを聞いて弓弦羽は気付いた。政党はばらばらだが、皆中部エリアの選挙区だ。

「糸山先生も賛同者と知ったので、ダブルブッキングしては不味いと考えた。欲深な奴を相手にしたら条件闘争がこじれて露呈するかもしれない。だから糸山先生と相談して、スカウト役を用意した。糸山先生が手配してくれた」

「なるほど。そのカネの出所は?」

「岳下は自分に寄せられた浄財だと言っている。渡されるカネの帯封に押された封印がばらばらだから、そうなのかもしれない」

「でも先生は疑っている」

「ああ。宗教法人の多くが金集めに必死だ。でも限度がある。最終解脱達成会の信徒数が莫大だとはとても思えない。どうやって宗教法人の認可を受けたか見当が付かない程度の集団だ。それなのに資金は豊富。私が受け取った額を先の人数で掛けたらね。不可能だと思う」

 細谷が受け取り総額を質問した。その返答に弓弦羽は眼を瞬く。咄嗟に二十を掛けての暗算をし、目眩を覚えた。

「宗教法人に対する特定寄付金は控除対象になる。でも新興宗教では財務大臣の認可は下りない。それ以外の寄付がどれだけ集まるね?」

 ああ、と弓弦羽が頷いた。

「大企業が絡むとか」

「このご時世に控除対象にならない大金を宗教団体に出資する馬鹿役員がいるかね。株主がだまっちゃいないよ」

 趣味の美術品蒐集に会社のカネを注ぎ込んだ製紙会社のワンマン経営者がいたがね、と即座に思った弓弦羽だが口には出さない。今は一般論で考えるべきだろう。

「警護士のスカウトはどのように」

「ワープロで作成された資料を元に候補を選んだ。氏名、現住所、職業、年齢、家族構成そして個人的な事情が記載されていた」

「個人的な事情ですか。具体的には」

「給与に不満があるとか、老親を介護していて経済的に苦しいとか。子供への仕送りに苦労しているとかもあった。あと消費者金融をよく利用するとかね」

 大藪と弓弦羽が目線を交わす。大藪の立場だと読めるのかもしれないが、弓弦羽が閲覧を許された資料にはない情報だ。二人だけの時に聞こうと弓弦羽は決めた。

「資料の出先については」

「CGO上層部に仲間がいると自慢していた。岳下は中部エリアの担当らしい。沖縄以外は担当者がそれぞれいるような話だった」

 弓弦羽が内心悪態を吐く。全国区の資料にアクセスできるのは総本部に出入りできる人間だ。各県本部に提供者を作るより、楽でばれにくかろう。それを元に配下に行動させる筈。となれば、中佐はやはり被疑者の一人になる。

 横目で大藪を見ると、明らかに機嫌が悪い。これはどう判断するかと弓弦羽の心は重くなった。沖縄に担当者がいないのであれば、弓弦羽の予想が補強される。

「岳下直徳との連絡は?」

「カネの受け渡しは岳下の部下と山崎が外で逢って。政治的な問題は私が直に相談する」

「今後岳下と会う予定は」

「八月一杯はない。九月はまだ未定だよ。月が変わってから相談するんだ。逢わないときもある」

 二人の検事が目線を交わした。

「今はこのくらいでいいでしょう。先生、何か持病はありませんか」

「高血圧と軽い糖尿病くらいだが。こっちでの掛かり付けは三島中央だ」

 細野と加苅が、また眼で会話する。

「軽い脳梗塞で早速倒れてください。この後直ぐ三人は車で移動して、その途中具合が悪くなった先生を病院に急送。事務所への連絡は個室に収まってからです。いいですね」

 三回も頷いた仙北谷の表情はすこし明るい。

「家族以外面会謝絶です。山崎さんと槌田さん以外に岳下との関係を知っている者はいますか? 結構、二人とも病室に詰めてもらいます。携帯等は我々が預かります」

 宮藤では救急車を手配したが、後で消防本部に怒られた。犯罪捜査への協力は惜しまないが、救急車を使うとはとんでもないと。

 病院が汚染されてないといいが、と弓弦羽は不安になった。だが細野たちには言えない。検察も侵蝕されている可能性がある。岳下をとかげの尻尾にされかねない。どうしたものかと思いつつ弓弦羽は腕時計を見る。午後になっていた。津佳沙は無事葬儀を終えたかなと考え、また溜息が漏れた。


 東部総合庁舎には大藪と弓弦羽だけが戻った。細野たちは仙北谷一行のサポートだ。

 ハンバーガーやホットドッグをテイクアウトした二人は早速大藪の執務室で相談をはじめた。が、弓弦羽は食欲どころか空腹感も感じていない。あの日からまともに寝てもいない。

「岳下直徳の情報を集めないと。俺は宗教に興味ないし、そんな政党覚えてもいないぞ」

 チリソースたっぷりのホットドッグを幸せそうに咀嚼し、アイスティーで飲み込んだ大藪が肩を竦めた。

「そんな元政治家を奴が信頼したというのがどうもな。俺なら罠だと思う」

 同意した弓弦羽だが、大藪に勧められた代物を胡散臭げにみる。やむなく齧りついた。奢ってくれた大藪に失礼がないよう、続けてかじりつく。

「誰かの紹介があったから面会した筈だ。肝心の所はすっとぼけやがった」

「途中でフケようとした山崎は、その誰かさんにご注進したかったんじゃないですか。仙北谷の監視役が副業とか」

 二つ目のホットチリドッグにかぶりついた大藪が満足げに唸る。夏になると無性に食いたくなるのだそうだが、弓弦羽は一本目の半分で持て余し始めた代物だ。口中で吹き荒れる炎を静めようとアイスティーを飲んでみたものの。

「大尉が暗殺を口にしたときの怯えっぷり。あれも引っかかるな」

「我々も危ないかも」

 残り三分の一となったホットチリドックを口に押し込み、最小の咀嚼で飲み込もうと苦闘する弓弦羽は平静を装って懸念を口にした。

「でも気付ちまったし動いちまった。もうとことんやるしかない」

「ですね」

 口内に吹き荒れる痛みに近い辛さが軽減されず、閉口する弓弦羽だが合いの手を入れた。弓弦羽はアイスティーでたっぷり舌を洗ってから、テリヤキチキンバーガーに食らいつく。

「個人的事情というやつだが。私が閲覧できるCGOの資料には、それに類するものはないんだよ。精神分析の結果はあるがね」

「中佐以上の立場にいるか、情報を引き出した連中が調査して付け加えたかのいずれかですね」

「資金力にものを言わせて、興信所も抱えているかもな。ようやるわ」

 汗を噴き出しながら満足げに咀嚼する大藪に呆れつつ、やはり中佐は信頼できるかもと弓弦羽は思う。弓弦羽が総本部に問い合わせれば真偽は判明する。メールで済む話だ。誤魔化すにしても、もうちょっと捻った嘘をつくはずだ。

「岳下がトカゲの尻尾にされる危険が高まりましたね」

 大藪が大きく唸った。

「気を付けて流れを見よう。頭が残っちまったらやばい……四つ買えばよかった」

 三つ目のホットチリドッグが入った箱を開けつつぼやく大藪に気付かれないように弓弦羽は顔を歪めた。甘辛両刀の大食漢なのは知っているが、大藪は痔主でもあったはずだ。外見と発言に似合わず気遣いの大藪だから、敢えてチリドッグで間を持たせているのかとも考える。あの日、大藪たちは腫れ物に触るような態度だった。柴多たちも。

 殴られて切れた口内の傷は治ったが、心の痛みだけはどうにもならない。

「岳下への訪問日が決まったら連絡するよ。神納君に顔を出してから帰るんだぞ」

 弓弦羽は頷きながらハンバーガーの包み紙を丸めた。激烈な辛みがまだ舌を焼いている。

「菅﨑班も上手くやってくれるといいが。繋がれば話が早い。いや、総本部は大騒ぎになるか」

 そうですね、と応じて腰を上げた弓弦羽は、ぽんと膝を叩いた大藪に動きを止めた。

「タコス屋が共栄町で開店するんだ。詰め所に差し入れするよ」

 譲はの眉が派手に下がった。

「ええと。タコスって辛いんですよね?」

「レッドとグリーンがあるがグリーン一択だ。夏の暑さなんて吹き飛ぶぞ」

 満足げに頷く大藪に弓弦羽の唇はへし曲がる。


「なんで静岡県警が出張るのですか。捜査の優先権は我々にあるはずです」

 身を乗り出して抗議する弓弦羽を苦り切った表情の大藪が手で制した。

「匿名希望のタレコミがあったんだとさ。ライフル銃で武装した男たちが本部建物の周囲をうろついている、おもちゃかも知れないが怖いから何とかしてくれとな」

 聞いた弓弦羽は眉を顰め、ソファに腰を戻した。

「それは何時?」

 昨日だと即答した大藪は、近所のドライブインに設置された公衆電話からだったと補足した。

「教団本部はここ。隣の家とはどう見ても一キロ以上離れてますよ」

 テーブルに広げた住宅地図を弓弦羽は指で突く。大藪は肩を竦めて応えた。

 富士宮の北、朝霧高原猪之頭の広大な敷地に宗教法人の本部がある。そこが岳下直徳の住み家だ。宗教法人のパンフレットによれば、古代ギリシャ風の円柱が目立つ壮麗な建物だ。でもその宗教は名前が示すとおり仏教由来だ。岳下はマイトレーヤを自称している。

 住宅地図によれば富士市と富士五湖を結ぶ国道一三九号線と、それの北側を通る白糸の滝に向かう県道四一四号線に挟まれた疎林に本部はある。国道と県道を結ぶ間道に正門があり、その南側が建物だ。敷地は縦四百、横三百メートルほど。

「昨日の通報で早速決定ですか?」

「県警本部の薬物銃器対策科が張り切っちまった。違法銃器は吃緊の問題だから県警が出動するとさ。総本部長も頷いちまった。こうなったら仕方ない」

 弓弦羽が鼻を鳴らした。

「普段は一般の猟銃所持者を虐めて気楽に仕事しているくせに」

「一般相手は保安課だ。薬銃対は刑事課だよ」

 訂正された弓弦羽が、もう一度鼻を鳴らした。

「では県警本部のくそったれ。包括すりゃ問題ありませんよね!」

「キャラメルを一箱舐めろ。というわけで県警機動隊が出動する」

 弓弦羽をいなした大藪が平然と続けた。弓弦羽が眼を瞬く。

「機動隊ですか? 相手は武装していると警察はみているのに?」

「県警の誇る特殊部隊だ。シズオカ・ライオット・ポリス、通称SRP。ドイツ製短機関銃と米国製自動拳銃を装備して、浜岡原発や静岡空港の警備をしている対テロ部隊だよ。SATは静岡県警にはいないんだ」

 弓弦羽は首を傾げたが、今度は沈黙を守った。

「指揮は県警が執るが、警察庁から菅﨑君が来る。というわけで、県警が岳下を確保して聴取してから、我々にも聴取の時間が与えられる」

「現場には出張ってくるなと。馬鹿にされたものですね」

 大藪が肩を竦めた。

「こう言われたよ。「そちらでも捜査なさっておられたし、検察からも言われたので見学しても構いません。」とな。県警は特小型警備車二台、銃器対策警備車一台、特型警備指揮車一台を投入するそうだ」

 眉を寄せた弓弦羽に、大藪は車両の意味を簡単に説明してくれた。

「そりゃまた。四〇人近いんじゃないですか」

「訓練は所詮訓練。実動は空振りに終わっても、結果いい訓練になるからだろう」

 頷いた弓弦羽はテーブル上の地図を見詰めて考え込んだ。

「日の出と共に突入するそうだ。見学に行くか?」

「臭いますね」

「説明してくれ」

 大藪は口を挟まず聞き入った。

「なるほど。だが、見学する奴が大人数で押しかけるわけにもな」

「地方検察庁に協力を要請しては? 検察は警察より上位です」

「オブザーバーの名目で、あの二人が来るそうだ」

「戦力にはなりませんが、監視にはなりますね」

 どういう意味だと大藪が問うたが、弓弦羽は半眼で考え続ける。

「湯浅君と私と中佐。三人ならいけますか?」

 そのくらいなら大丈夫だろう、と返事が戻った。

「九ミリカービンを用意したいのですが」

 大藪が考え込んだのは一瞬だ。

「警察を刺激すると今後なにかと抵抗される。カービンの弾倉は二本。拳銃の弾倉は目立たない範囲で好きなだけ。どうだ」

 また二本ですか、と呟いた弓弦羽だが了承した。

「よし。湯浅君には私から連絡する」

「御願いします。SRTはいつ動くのですか」

「明日の黎明だ。支部の車で行こう。今夜は此処に泊まってくれ。でも条件が一つある」

「なんでしょうか」

「神納君の許可が必須だ。直ぐにいけ」


 神納は執務室で紅茶とシフォンケーキを楽しんでいた。弓弦羽にも出してくれる。それをやりながら四方山話を交わしていたが。

「津佳沙ちゃんとは?」

 それきた、と弓弦羽は内心思う。

「いや、連絡は取っていない。葬式からまだ五日だ。あの状況だし、いろいろ大変だし。大人しく彼女からの連絡を待つよ」

 市役所への届けが結構複雑でと説明する弓弦羽に、神納は真剣に聞き入った。

「家族に死ぬなって電話しとこう。滉は明日行く気なんだよね」

「秘密保持もくそもないな。大丈夫か、あのタヌキ」

 肩を落とした弓弦羽に彼女は笑った。

「カバと一緒にするなってタヌキが怒るよ。一応私は佐官待遇だしね。彼女に伝えるべきじゃないのかな」

 弓弦羽が首を横に振った。

「何処に奴らの目と耳があるか解らない。例え……恋人でも駄目」

「ふうん。一緒に行くって、彼女が言ったら?」

 異病相手じゃないから警護士長の任務には該当しない、と弓弦羽は笑った。

「なるほど。まあ大丈夫でしょ。合格と」

 書類にサインした彼女は、それを封筒に入れて弓弦羽に渡した。

「中佐に渡して。それで家には帰るの?」

「カービンを取りに出張所には行くけど。家には用がないよ」

 首を横に振った弓弦羽に、彼女は一瞬失望を表わにした。

「そっか。ほら、さっさと帰れ。私、最近フラストレーション・トレランスが揺らいでいるんだよ。若くて健康な身体を制御するのも一苦労」

 そう言いながら彼女はタイトスカートから伸びる見事な足をゆっくりと組み替える。弓弦羽の目は本能の命ずるまま太腿の奥に吸い寄せられた。が、瞬きして視線を逸らす。それを認めた彼女は少し嬉しげな笑みを浮かべた。

「このソファで貸しを取り立てようかな」

「あ、それはあの世で倍にして払う。ごちそうさま」

 カップを置いて素早く腰を上げた弓弦羽に、彼女は舌を出してから明るく笑った。


 九ミリカービンの照準確認と弾倉の上部変形に起因する回転不良がないか確認すべく、五十メートルで二弾倉分六十四発を消費した。山野井に任せず自分で銃の機関部清掃と弾倉への補弾もする。

 軽く食事とシャワーを済ませた弓弦羽は仮眠室のベッドに潜り込んだ。予定では一時に総合庁舎を出発し、沼津から富士までを東名で、その後は有料道路経由で白糸の滝に向かう。万が一の監視を警戒し、国道一三九号は途中までしか使わない。県警とは白糸の滝で合流だ。

 明かりを落とした殺風景な部屋で弓弦羽は暫く寝返りを打っていたが、やがて静かになる。


 弓弦羽が運転する日産セレナが鱒の家駐車場に滑り込んだ。未だ暗い駐車場には一台の車も止まっていない。

 スマホで短い通話を終えた弓弦羽は、白糸の滝まで寝ていた大藪と公衆トイレに入った。全ての個室を確認するがこちらも無人だ。

 顔も洗ってすっきりした二人が車に戻ると、湯浅がトイレに向かった。真夏でも高原の朝は肌寒い。大藪は背中にCGOと白く染め抜かれたナイロンのジャンパーを着込む。弓弦羽はいつもの革ジャケットだ。戻った湯浅もジャンパーを着用した。

 待つほどのこともなく、四台の大型車両が駐車場に入る。遠目には白と青に塗られたバスに見えるが、県警SRPの車両だ。続いてシルバーのクラウンが。こちらは静岡地方検察局。下車した皆も用を足し、ある者は準備運動を始め、ある者は自動販売機でホットの飲料を買う。

 富士宮警察署のパトカーも四台到着した。県警本部の責任者と彼らが交わす会話を横で聞く弓弦羽が数回頷く。運輸会社のトラックが多数通過する国道は道路封鎖しない。そのかわり、覆面パトカーが路駐して監視している。検挙した連中を乗せる護送バスは白糸の滝で待機。無線は今は封止され、携帯電話でやりとりをしている。

「俺たちの持ち場は此処。情報は逐一無線と画像で送られる」

 菅﨑がノートパソコンをベンチに用意した。指揮車のカメラが捉えた情報は県警本部に一旦送られ、県警からネット経由で受信するのだそうだ。

「トイレと自販機があるここは最高の場所ですよ」

「自販機にホットの汁粉があれば、認めてやらんでもないが」

 大藪の呟きに皆の肩が震えた。

 東の空が明るくなり、周囲は蒼く染められた。国道と県道を結ぶ間道の出入り口をパトカーが封鎖する。弓弦羽のいる駐車場でも、県道側で閃く赤灯が見える。

 と、そちらから警官が一名走ってきた。報告を受けた県警の責任者は大藪を呼び、何か話し込む。

 大藪が戻るより早く、トヨタのスポーツクーペが駐車場に走り込んだ。

 黒い八六から降り立った二人に弓弦羽は慌てて歩み寄る。神納と瀬織だ。弓弦羽に気付いた瀬織は神納の腕を掴み、俯いてしまった。

 低くも気合の入った号令が弓弦羽の足を止めた。灰色のアサルト・スーツの上に黒いタクティカルベストを着、黒いヘルメットとブーツで固めた五十人ほどのSRP隊員が、各自手にした短機関銃を装填操作する。ヘッケラーのMP五シリーズだ。ついで右太腿に装着した拳銃を抜き、それも装填した。特徴あるスライド形状からスミス&ウエッソン社の自動拳銃だと解る。

「総員、乗車!」

 ライトを付けずに四台が駐車場を出た。弓弦羽たちと検事二人、そして菅﨑と制服警官八人が駐車場に残った。弓弦羽を無視して缶コーヒーを啜る神納の脇で瀬織は立ち尽くしている。

 意を決して弓弦羽は瀬織を手招いた。弓弦羽を意識しつつも近寄れないでいた彼女が小走りに走り寄る。彼女は白いシャツの上にサマーカーディガン、デニムパンツにパンプスの軽装だ。

「どうしてここに」

 困ったような笑みを浮かべた彼女だが。

「私は大尉の相棒ですから」

「異病相手じゃないんだぞ」

 問いたい話題に触れられない己を弓弦羽は呪った。

「大尉は仕事で来たんですよね。なら私も仕事です。中佐殿にも大尉のサポートをと命令されています。お忘れですか」

 急に表情が堅くなった彼女に弓弦羽は戸惑う。

「まったく……命令には従うね? 従わないなら私も強権を使う」

「はい、約束します」

 即答した彼女に苦笑いすると彼女も固く微笑んだ。困惑が顔に出ませんようにと弓弦羽は願った。

「ライブカメラを受信した。音声は指揮車から」

 菅﨑の声が掛けられた。皆がベンチに集まり、菅﨑の説明に耳を傾ける。

 その背後で目線を交わした弓弦羽たちは、スマホのヘッドセットを耳に装着した。

 パソコンのスピーカーから音声も流れる。ラウドスピーカーで警告したらしい。割れてしまって聞き取れないな、と弓弦羽が苦笑した。

 車載のサーチライトが照らし出す正門が画面に映し出された。敷地は盛り土されて道路面よりかなり高い。三メートル近いと思われる塀と観音開きの正門に邪魔されて、建物のドーム屋根が僅かに見えるだけだ。

 動きのないまま数分経った。二台の特型警備車が息を合わせて観音開きの鋼鉄門を押し破る。

 そこで停止した二台はサーチライトで建物を照射した。その間を特別警備車がゆっくりと進んで奥に進む。車体横の銃眼から複数の短機関銃の銃口が突き出されている。装甲兵員輸送車じゃないかと驚きの声を発した弓弦羽に、制服警官達は小声で笑った。

 カメラを搭載した車両が前進を停止する。前進を続ける銃器対策警備車の左右に、徒歩で進む隊員の姿が映像に捉えられている。危ないなと弓弦羽が呟く。それを聞いた大藪が理由を問うた。

「車両は脅威です。戦場では重火器でいの一番に狙われます。周囲の兵は車両から距離を保って散開し、敵の火点を捜索しつつ攻撃の巻き添えを――」

 眩い光が一直線に画面の右から中央に走った。先行した特別警備車が真っ白な光に包まれ、一瞬後赤黒い炎に包まれた。身体を震わせる爆発音が東側から轟く。梢越しに上った黒煙は小さなキノコ雲となった。

 スピーカーから悲鳴混じりの声が飛び出したが、聞き取る前に映像と共に消えた。また轟音が。

「くそ、対戦車ロケット砲だ!」

 弓弦羽の怒鳴り声が呪縛を破った。菅﨑が無線にがなる。けたたましい銃声が黒煙方向で湧いた。二種類の銃声が重なっている。また爆発音が轟いた。少しの間を置いてもう一度。朝焼けの空に黒煙が高く上る。

「門の二台もやられた。あの銃声はAKだ。軍用小銃だぞ」

「警官じゃ無理だ! 生存者を撤退させないと!」

 細野主席検事が喚く。皆の目が小型無線機を持つ菅﨑に向いた。

 菅﨑が頭を振った。

「車両は全滅、生存者は撃ちまくられて身動き出来ないと」

 皆が息を呑むなか、弓弦羽は慌ただしく地図を引っ張り出した。

「菅﨑、県警本部に電話! いそげ!」

 弓弦羽は折りたたんだ地図を開き、真剣な眼で睨み付ける。

 ややあって頷き、厳しい顔を上げた弓弦羽を菅﨑以外が見詰めた。

「陽動を掛けて敵を攪乱する。生存者を後退させるにはそれしか手段はない」

「警官隊の救出目的だな。よし、続けてくれ」

 大藪に促され、弓弦羽は住宅地図の等高線を指でなぞった。

「国道沿いの東側は平坦だから接近は難しい。こちら側、つまり西は此処に谷状地形がある。これとこれだ。敵は高台に阻止火点をおいて警戒しているはずだが、起伏があるから接近できる。

 湯浅中尉。君は警官隊を率いて門に進出、そして待機。俺は西から行く。西で騒ぎが起こったら、間近の火点を攻撃して警察の撤収を援護。巧妙に擬装された火点だからよく見極めるんだぞ。建物側の火点は撃つなよ。そっちは俺が引き受ける」

 きっぱりと頷いた湯浅は車に走る。

「警官隊は負傷者を道路に引っ張り出すのに専念してくれ。撃ってくる奴に狙いを付けるのが人間の本能だ。南スーダンで俺もそうだった。湯浅中尉が派手に撃ちまくるから大丈夫。やってくれるか」

 警官隊も頷いてくれた。だがその顔色は極めて悪い。

「中佐、自己判断による行動を認めてください」

「許可する」

 大藪が頷いた。二人の検事は狼狽するだけだ。

「大尉、私も同行します」

 脇で上がった声に弓弦羽は激怒した。

「駄目だ! これは戦争なんだぞ!」

「今までと何が違うんですか!」

「中尉も私も戦闘訓練を受けている。でも君は違う。似て非なるものなんだ」

 首を横に振る瀬織に弓弦羽は歯がみをする。

「私も経験を積みました!」

「命令だ! 反抗するなら職を一時解く!」

「……なら、途中まで!」

 にらみ合う二人に、大藪が声を掛けた。

「大尉、途中までという約束で。中継が必要かもしれん」

「中佐!」

 思わず大藪を睨み付けた弓弦羽だが、湯浅にカービンを収めたソフトケースを押しつけられた。

 その弓弦羽の肩を叩いた大藪が瀬織に向き合う。

「瀬織警護士長、大尉の命令に従うか?」

「はい!」

「だそうだ。大尉が責任を持って連れ帰れ。いいね」

「は。後で断固抗議します」

「好きにしろ。装備の確認を急げ」

 スマホを確認し、デルタの撃鉄を一杯に起こしてからホルスターに戻した。ついでケースから取り出した九ミリカービンの伸縮銃床を伸ばし、弾倉を叩き込む。自然と右手人差し指は用心金に添えられた。ついで左手でチャージングハンドルを一杯に引いて離す。滑らかな金属音が応えた。予備弾倉は湯浅に押しつける。目立つ格好の瀬織に大藪は自分のジャケットを与えた。

 短く瀬織と打ち合わせをした弓弦羽は、彼女を伴って疎林に飛び込む。先ほど見た地図の記憶が頼りだ。

 富士山が噴き出した溶岩の上にコケや草そして矮小な灌木が生えた地形は、大岩が連なる荒磯のように歩きにくい。一見落ち葉が積もって足場によさげとみえても、その下は岩の隙間で足首どころか膝まで飲み込まれたりもする。土壌が薄いから落ち葉が分解されずに残っていて足音を発しやすい。そして夏の今は矮木の葉が茂っているので見晴らしが効かない。

 途中から弓弦羽は無音行動に切り替えた。踵から着地せずにつま先を軽く下ろして姿勢を保ち、ゆっくりと足の裏を接地させる。そして行く手を遮る枝葉は決して手で払いのけたり身体で押し退けたりしない。怯えるネズミのように時間を掛けルートを探りながら這い進む弓弦羽に瀬織は離れずについていく。

 先ほどまで高原の寒さに震えていたのが嘘のように汗まみれになったとき、弓弦羽は前進を止めた。手真似で瀬織に待機を命じてから這い進む。草の根元近くの隙間からゆっくり顔を覗かせた。そして眼だけ動かして周辺を探る。ここは二本ある高台の一本目の筈だ。

 慎重に探った弓弦羽は二つ目の高台に目を凝らす。下生えの隙間に男二人を認めた。顔面を迷彩ペイントしているが、落ち着きなく辺りを見回すその動きで所在がばれた。距離は八十メートルほどでほぼ水平だ。首が隠れるほど分厚い服を着ているのを見て取った弓弦羽は小さく舌打ちをした。

 複数の火点で相互支援させ、更に低地に伏兵を置くのが定石なので、周りを徹底的に調べる。

 が、他にはいないらしい。先の二人が大きく辺りを見渡すのは支援拠点がないからか。探りながら弓弦羽はその意味をじっくり考えた。

 先ほどより更に時間を掛けて弓弦羽は頭を引っ込める。

 真剣な目で見詰める瀬織に、弓弦羽は指を二本突き出してから草の向こうを指さした。彼女が頷いたのを確認してから、カービンの照準器に目を落とし、L字型照門を押し倒して百メートル用を起こす。倒れた一方が近距離の五十メートル用だ。

 拳銃弾としては高初速な九ミリパラベラム弾だが、ライフル弾と比べれば低速で弾頭重量が重い。距離が伸びるにつれて弾道は著しくドロップする。百メートル用で照準をすれば八十メートル先では上に着弾するから、万が一外しても修正がしやすい。

 ついでグリップ直上左側にある安全兼発射モード選択レバーを単発位置に親指で廻す。自衛隊は安全装置の使用を徹底して叩き込むが、南スーダンで実戦を経験してからの弓弦羽は臨機応変に対応している。

 顔の汗をぬぐい、深呼吸を繰り返して身体に十分酸素を取り込んでから先の場所に這い戻る。伏せたまま弓弦羽は槍を突き出すようにゆっくり銃を持ち上げていく。殆ど草を揺らさずに構えを完成した。伸ばした足のつま先を外に開き、身体を地面に密着させている。

 顔を極力傾けず、銃床にしっかり頬をおしつけて両目を開いての照準だ。全神経をピープサイトを通した棒状照星に凝らし、息をゆっくり吐き続ける。引き絞った引き金はある一点で止めている。涙の膜が上から下に降りるが気にせず全神経を棒状照星に凝らしつづけた。

 吐く息がなくなったとき、僅かに揺れていた照星が静止した。弓弦羽は静かにそして真っ直ぐ引き金を落とす。鋭い銃声が応えたが、極度の精神集中で全く気にならない。僅かな振動を感じた一瞬後、狙っていた男の顔面が砕けた。山勘の照準補正は合っていた。

 狙われた男が噴き出した血と肉組織を浴びて仰天した男が悲鳴を上げ始める。その開きかけた口に次弾を撃ち込む。口蓋に命中した弾丸は貫通して背後に脳味噌をぶちまけた。共に文句なしの即死だ。

 銃に頬付けしたまま、弓弦羽は辺りを警戒する。だが叫びも銃声も起こらない。

 二秒待って素早く後ろに這い戻る。目標を視認して照準し発射するまでに大体三秒掛かるのが一般的だからだ。それ未満で撃ってもまず当たらない。

 緊張の面持ちで待っていた瀬織に、弓弦羽は早口で囁いた。

「津佳沙は此処で待機。何があっても前進するな。何を聞いても声を出すな。誰かが近づいたらまず撃て、そして逃げろ。相手が顔見知りであってもだ。いいね」

 彼女の目に浮かんだ複雑な色に弓弦羽は気付いた。異病者でない普通の人間を二人、警告も無しに射殺した俺に対する嫌悪かと考えたが。SR四五を握り直した彼女が口を開いた。

「どうしても駄目?」

 首を横に振った。

「絶対に駄目」

 苦しげに顔を歪めた瀬織は顔を寄せて弓弦羽の目を覗き込む。

「独りぼっちにしたら絶対許さない」

 こみあげるものを押し隠して弓弦羽は頷く。彼女も頷き返してくれた。

 斃した二人の元に弓弦羽は匍匐で慎重に向かう。汗が目にしみ、膝が痛むが我慢する。

 戦闘服とボディ・アーマーに身を固めた二つの死体を確認した弓弦羽は、二人の装備に顔を顰めた。共産圏の共通小銃であるAK七四突撃銃の銃床折りたたみモデルとRPG七ロケット砲。破片型の手榴弾しゅりゅうだんも共産圏モデルだ。全て南スーダンで使いまくった思い出の品だ。銃に一切の刻印がない点も見覚えがある。そして此処には武器と弾薬しかない。

「悪い予感ほど現実になるか。勘弁してくれ」

 ぶつぶつ言いながら手榴弾の起爆部頂点に刻印された数字が五なのを確認してはジャケットのポケットに押し込みはじめた。気温二十度ほどで点火後五秒で爆発するという意味だが弓弦羽は信用していない。南スーダンでは一秒以上も短かったことすらある。刻印がゼロならレバーが弾けた瞬間爆発するゼロ秒フューズで、仕掛け爆弾作成時に用いる。この手榴弾の保管兼運搬箱には手榴弾本体とそれの二倍量の起爆部デトネーションユニットが収められている。半分は五秒起爆用、残りはゼロ秒だ。箱から出すときに目的に応じてそれを本体にねじ込むので思い込みは厳禁だ。一人が三個所持していた。最後の一つを手にした弓弦羽は考え込み、それだけはシャツの内側に落とし込んだ。

 ついでロケット砲弾のパッケージを確認する。一発は発射筒に装填されていたが、残り二発は砲弾部と発射薬部が分離されたままキャンバス地のバッグに収まっていた。にやりと笑った弓弦羽は転がるAKに物欲しげな視線を向けたが「重量過多だな」と小さく頭を振った。

 その時、近寄る気配に弓弦羽は気付いた。素早く密やかに地面に伏せ、そちらにカービンの銃口を巡らす。

 息を殺して待ち構えていると、十五メートルほど離れた草むらから、汗まみれの菅﨑が顔を突き出した。右手にSIG拳銃を握った彼は弓弦羽に気がつかない。

 暫く様子を見ていた弓弦羽は照準したまま囁きかける。

「ライフワークに励むのか」

 びくりとした菅﨑だが。

「どこだよ。安全だよな」

 弓弦羽は一瞬躊躇ってから銃を下ろした。ただし引き金に掛けた指を用心金に戻さない。

「静かに。ここだ。で、何しに来た」

 背広を汚した菅﨑が喘ぎながら這い寄った。先程まで輝いていた革靴は溶岩に擦れて傷だらけだ。

「監視がてら手伝うよ。後で何かあったら証言してやる」

 菅﨑は無残な死に様の骸から目を逸らした。

「射撃ド下手のくせに。まあいい、奴らのライフルを使え。急げ」

 ライフルを手にした菅﨑は湾曲弾倉の後部に飛び出たラッチを親指で前方に押して外した弾倉を掌で量り、装填の案配を確認する。ついでボルトレバーを少し引いて薬室装填を確認してから弾倉を戻した。更に弾倉底部を平手で叩く。銃を握って確認作業を済ませる間も菅﨑は人差し指を伸ばして引き金に触れない。次に予備弾倉を奪ってあらゆるポケットに押し込みはじめる。

 スーダンの経験を忘れていないな、と弓弦羽は満足した。AKは弾倉を回転気味に差し込むが、連結が不十分だと撃った瞬間外れてしまう。叩いて連結を確実にしろ、そして撃つ瞬間まで引き金に指を掛けるなと教えた。往往にして経験が浅いものは引き金に指を掛けっぱなしで行動する。恐怖に負けて引き金を引き始めているのに気付かないから怖い。驚いた拍子に暴発するからだ。

「レバーを一番下に下げて単射にしろ。俺が先にいく。十メートル間隔」

 返事を待たずに弓弦羽はRPGとバッグを背負いカービンを抱えて這いずり進む。

 建物を見た瞬間弓弦羽は停止した。激しい銃声が明瞭に聞こえる。喘ぐ菅﨑が弓弦羽の横に来た。伏せたまま弓弦羽は八十メートルほど先の白い大邸宅を指さす。

「等間隔で壁に銃眼。壁の向こうは通路だろうな」

「白亜の殿堂のしゃれた模様にしか見えないね。どうすんだ、これから」

 弓弦羽は菅﨑の袖を引っ張ってから這い下がった。

 砲弾パッケージから取り出した砲弾部に発射薬部をねじ込み始めた弓弦羽に、菅﨑が胡散臭げに声を掛けた。

「なにする気だ、おい」

 弓弦羽は顔をあげずに応えた。

「SRPの応射音、間隔が開き始めたよな。弾薬切れが近いんだ。盛大に陽動して撤収を援護する。直裁に言えば、大聖堂に大穴ぶち開けて突入、引っかき回す」

 一体化した砲弾の信管保護カバーを引き抜いて、頭からバッグに突き刺す。まだ安全クリップが信管に嵌まっているから、余程酷くぶつけたりしなければ大丈夫の筈だ。

「馬鹿、やめろ! 非戦闘員がいたらどうする!」

「白旗が突き出ていたか? 手を上げた奴がいたか? 居るとしてもアピールしない奴が悪いんだ」

 次の砲弾を連結する弓弦羽は手を止めない。

「でも」

「お前の抗議は確かに聞いた。責任は俺が負う。後方排気に気を付けろ!」

 カービンを背負い、RPG関連の荷物を抱えて先の場所に戻った。発射筒装填済みの砲弾最先端から、信管カバーとタグの付いた安全クリップを外す。

 RPGを右肩に乗せた膝射姿勢で、銃撃戦を繰り広げている正門側に近い壁に身体をむけた。砲口側のグリップを握る右手親指で撃鉄を起こす。グリップ左側面で撃鉄に連動して飛び出した安全ボタンを、これまた親指で押し込んで解除した。肩に押し当てた後ろ側グリップに左手を添えてRPGのバランスを調整しつつ振り向いて、後方に菅﨑がいないのを確認。

 光学照準器で慎重に低めに狙い、引き金を絞り落とす。轟音と共に砲口が跳ね上がり、弓弦羽の背後で草と土砂が飛び散った。弓弦羽の周囲は白い煙に包まれる。

 RPGはロケット砲と呼ばれるが、実際は無反動砲とロケット砲のハイブリッドだ。後方に発射ガスを逃すクルップ式無反動砲として発射された砲弾は、十メートルほど飛翔してからロケットモーターに点火される。発射時の後方排気は殺傷力が高い。

 中空で生じた白い輝点が一気に加速して壁に吸い込まれた。閃光が煌めき、直ぐ赤黒い火球に変わる。轟然たる爆発音が続いた。弓弦羽はバッグをひっつかんですばやく位置を変える。後方排気が派手なので発射位置をすぐに気取られるからだ。

 十五メートルほど離れた弓弦羽は足を止め、バッグから抜き取った二発目を素早く砲口に突き込み、回してロックした。安全クリップを引き千切った弓弦羽は建物の真正面を低めに狙い、ぶっ放す。

 命中を確認する手間も惜しんで一発目を放った場所に戻り、三発目を装填して炎と黒煙を噴き出す二発目の着弾点に打ち込む。この建物の内部構造が解らないので念を入れて二発同着とした。最初の一発は敵を動揺させるためだ。

 連中が用意していたのは一般的に対戦車榴弾と呼ばれる成形炸薬弾だ。爆発の超高圧ガスに後押しされて液体状になった銅の矢が目標物に穴を穿って内部を焼き尽くす。爆発は副次的効果に過ぎない。戦車を含む装甲車両が最適、ついで強固なコンクリート建築物、土嚢を積んだ陣地の順で効果は落ちる。山野で対人用として用いるなら対人榴弾を用意するのが普通だが。

 発射筒を放り出した弓弦羽は、耳を押さえて伏せたままでいる菅﨑の脇腹を小突く。砲撃の最中移動しなかった様子だ。

 顔を上げた菅﨑は建物の惨状に息を呑んだ。

「戦争始めやがって。このあほたれ!」

 顔を引き攣らせた菅﨑に、弓弦羽は苦笑いを返した。

「アホはおまえだ。時系列を正確に把握しろ。お前はここに留まって俺の突入を援護し、その後は待機!」

「馬鹿こけ。俺も行く」

 正門付近の銃声が一気に激しくなった。そちらを見た弓弦羽が小さく頷く。

「あの時とは違うぞ」

「お前にくっついてりゃ死なねえよ」

「好きにしろ。ウサギ跳び前進、俺からだ」

 カービンを腰撓めにかまえ、弓弦羽は中腰でジグザグにダッシュする。目標は自然の溶岩を利用したオブジェだ。背後で単発の支援射撃が始まった。壁の銃眼からも散発的だが応戦が始まる。弓弦羽は煌めく銃火の位置を目に焼きつけつつ走る。

 無事遮蔽物に取り付いた。すぐさまカービンを構えて銃火を閃かす銃眼に単射で撃ち込む。弓弦羽の周囲に弾着が集まり始めた。弾丸と溶岩の破片が弓弦羽の頭部を掠める。が弓弦羽は臆せず応射を続ける。

 飛び込んできた菅﨑が激しく喘ぐ。弾倉交換させるために弓弦羽は数瞬待つ。と背中を叩かれた。弓弦羽はその瞬間飛び出す。

 建物まであと四十メートル。遮蔽物は残り一つ。突っ込んでくる奴より、発砲する奴を攻撃したがる人間の本能を弓弦羽は信じた。


 黒煙を吐き出す大穴の脇に取り付いた弓弦羽は、喘ぎながら目にしみる汗に構わず壁の穴から覗き込む。が、通路の奥からの乱射を喰らって慌てて頭を引っ込める。だが敵の位置と銃火の数は大体掴めた。通路を塞ぐように発射炎が上下で閃いていた。数は五。普通に狙って反撃すると被弾は確実だ。ならば敵付近に跳弾させようと外から通路内壁を斜めに狙って十ミリオート弾を撃ちまくる。跳弾や砕けた弾片が中に潜む敵の脅威になればいい。すぐに菅﨑も辿り着いた。

 牽制射撃を内壁に斜めに叩きつけて撃て、と手真似も添えて菅﨑に伝える。二度目で意思が伝わった。小刻みに区切るフルオートで菅﨑が撃ち込み始める。デルタを握った弓弦羽は姿勢を低くして壁沿いに走る。

 おおかたこの辺り、と思う地点で足を止めた。通路で応射する敵の銃声が銃眼を通して間近に聞こえる。銃眼は正面を扇状にカバーする狙撃用の穴だ。外壁に取り付かれたら手榴弾を外に放るか、屈折した部位の銃眼から視認して狙撃するしかない。だがこの建物は単なる長方形だ。

 左右の銃眼を睨んで一瞬迷ったが、奥の銃眼の真下に這い寄った。そこは銃撃音がもっとも大きく聞こえる場所だ。撃鉄を下ろさず安全装置だけ掛けた拳銃をホルスターに収め、ジャケットの内ポケットから米国ESS社製のICEシューティンググラスを取り出して手早く装着する。十五ヤード離れた距離から鳥用散弾を撃ち込まれても割れない強度を誇る。爆弾片などから目を守るに最適な代物だ。透明、黄色そして褐色のレンズが選べるが、弓弦羽は暗がりでも対象物の輪郭を明確化する黄色レンズを装着していた。

 ついで取り出した手榴弾のレバーをがっちり握り締めてから安全ピンを引き抜いた。レバーをおさえたまま素早く身体を起こす。レバーを押さえていた指だけを緩める。内蔵された撃鉄が作動する勢いでレバーが弾け飛んだ。軽い着火音は銃撃音に掻き消されたが、ねじ込まれた起爆部頂点から噴き出す薄い煙が遅延フューズの着火を教えてくれる。暗闇なら噴き出す小さな炎も見えたはずだ。高度に訓練された部隊用として煙も炎も吹かない起爆部もあるが。

 三秒ほど待った弓弦羽は、銃眼に手首のスナップを効かせて放り込んだ。身体を低くし、指を広げた掌で両耳を押さえて口を開く。籠もった轟音と共に銃眼から爆風が吹き出した。

 耳から手を離し、もう一発手榴弾を取り出して中の反応を探る。

 静かだ。手榴弾をポケットに戻し、壁の穴に走り戻った。手探りでカービンの照準器を近距離に切り替える。唖然とした菅﨑が弓弦羽を出迎えた。

 もう一度穴に頭を突っ込んで左右を伺うが撃たれない。穴を潜って直ぐ伏せた。

スレート石板が敷かれた通路は、RPG弾が着弾した周囲だけ下地のコンクリートまでもが抉られ、内壁は頭が入る程度開いた穴の周囲をちろちろと這い回る火と共に燻る煙を吐いている。間に空間がある構造物では内側の空間で成形爆薬の爆発力は削がれてしまう。身体を接するコンクリートから伝わる猛烈な熱を弓弦羽は我慢した。薄まる爆煙越しに倒れ伏した人影を認める。銃火は五つだったはずだが、人影は六個見える。俺はツイている、と弓弦羽は自分を鼓舞した。

「次は?!」

 横で反対に銃を向けた菅﨑が喚く。

「奥に急いで移動! 岳下を捜す!」

 手振りも交え、弓弦羽も怒鳴り返した。二人は聴覚が痺れ、加減が出来ていない。

「岳下を確保すれば連中も諦めるよな?!」

「多分な!」

 弓弦羽は伏せた身体を少し浮かせた。腹に食い込む手榴弾が不気味だ。これに被弾したら一瞬で終わるさ、と弓弦羽は自分を慰めた。カービンの弾倉は残り八発の筈だ。

「ぼけっとするな、残弾確認!」

 菅﨑が慌てて弾倉を交換しはじめた。弓弦羽の想像どおりなら、この先九ミリ弾を補給する機会はない。早々に敵のAKを奪う積もりだが、今倒した連中は門に近いので無視する。時間が惜しい。湯浅はSRPの資材を使えるから心配は無用だろう。

「未使用あと一本! テリュウ弾はまだあるのか?」

「東大ならシュリュウ弾と呼べ。残り四発! 四だ!」

「一発くれ!」

「自分を吹っ飛ばすのがオチだ。駄目!」

 頷き交わした二人が身体を起こした。弓弦羽が先頭で菅﨑は後方を警戒して進む。

 角を曲がって三つ目の部屋を確認する寸前、少し開いたままとなっていたスライドドア越しに猛烈に撃たれた。数人のフルオート掃射だ。突っ伏した菅﨑を残し、這って弓弦羽はドア枠に達した。

 凄まじい勢いで分厚いドアが木っ端と化す横で手榴弾を取り出し、蹲った弓弦羽は安全ピンに左手を掛けて待った。向かいの壁で砕けた弾片が剥き出しになった首筋や顔面にぶつかるが我慢する。痛いが皮膚に食い込むほどの威力はない。目はICEが護ってくれる。

 三秒ほどで弾幕は急に薄くなった。中の連中が弾倉交換を始めた様子だ。撃ち続ける敵は床から一メートルほどの範囲に極短い掃射を繰り返している。立ち上がりざまに手榴弾のピンを抜きレバーを飛ばした弓弦羽は一○一、二○一、三とカウントしてから手榴弾を高めに放り込んだ。悲鳴混じりの絶叫に構わず指を開いて耳を覆い顔を伏せ、さらに口を開けた。

 轟音と共にスライドドアの残骸が通路に吐き出された。爆圧で肺の空気を叩き出された弓弦羽だが、口を開いていたために肺にダメージはない。

 デルタを抜いて中に飛び込み、床でのたうち回る血にまみれた戦闘服姿の三人の頭部に一発ずつ撃ち込む。ボディ・アーマーを着用していても、カバーされるのは上体の中心部分だけだ。破片型手榴弾は数千の砕片を周囲にまき散らす。

 派手に咳き込みながら入ってきた菅﨑にドアの内側で警戒しろと命じ、弓弦羽はデルタの弾倉を取り替えつつ室内をチェックする。手榴弾の破片で殆どの液晶モニターは壊れたが、僅かに生き残ったモニター画面は正門と燃えさかるスクラップと化した二台の警護車を映していた。ここはどうやら敵の作戦指揮所らしい。となればお偉いさんかと断末魔に痙攣する連中の装備を確認し始める。と、生きていたモニターや照明が一気に消えた。警官隊が電線を破壊したらしい。

 三人は拳銃と携帯無線を装着していた。指揮官級だと弓弦羽は冷たく微笑む。これで敵は統合指揮を受けられない。連中の予備拳銃弾倉を抜き出した弓弦羽だが一瞥して投げ捨てた。実包が違うからカービンには使えない。小声で毒づきながら手榴弾の破片で傷ついたAK七四のうち被害が少ない一挺を選び、菅﨑に警告してから衣服用のスチールロッカーに向けて試射をする。十発ほど撃ったが問題なく回転する。照準合わせもしたいところだが、室内では距離が足りない。RPGで穴を開けた通路に戻れば五十メートルほどは確保できるが。

 ついで血まみれの死体を転がし、一つ当たり四本収まる弾倉ポーチからAK弾倉を抜き出した。湾曲したプラスチック弾倉が手榴弾片で損傷していないか目視点検しては外した弾倉ポーチに収める。この弾倉は三十発飲み込む。次の死体からも奪い、二個作った。手榴弾は見つからない。館内の敵は携帯していないならこちらが有利、敵を混乱させつつ移動して、と弓弦羽は希望的作戦を立てる。でも一時に敵が集中したら、数で圧倒される現実も頭に刻みつけた。

 弓弦羽はドアで警戒する菅﨑に土産を一つ渡し、ベルトに付けろと伝えた。爆圧で鼻血を垂らす菅﨑が作業するあいだ、弓弦羽が監視を引き受けた。通路の照明も消えている。天井に接する小さな窓から差し込む朝日だけが頼りだ。

「行くぞ。玄関にいた連中がそろそろ来る頃だ。後方に気を付けろ」

 ストックを縮めたカービンを背負い、キャンバス布製スリングを一杯に伸ばしたAKを肩に構えた弓弦羽が先頭に立つ。湯浅たちの状況を知りたいが、ヘッドセットをいつの間にか紛失した。

 進むにつれ、弓弦羽の苛立ちが強まる。その理由は建物の構造だ。根幹となる通路が建物内に配置されていない。例えるならアミダクジの縦線が至るところで壁に阻まれる構造で見通しが利かない。建物の中央部に向かうにつれて通路は暗さを増し、床近くの壁に埋め込まれた非常口案内の緑光だけがぼんやりと周囲を照らしている。AK七四の照星と照門に引かれた白い線を頼りに弓弦羽は前進を続けた。

 また通路が直角に右に曲がっている。角で止った弓弦羽は全神経を右の死角にむける。菅﨑が背中を押しつけてきた。その押し殺した荒い息づかいが弓弦羽の知覚を混乱させる。

 十秒ほど過ぎた。弓弦羽は滑らかに身体を晒し、通路の先にAKを指向する。闇に蠢くものはない。目は照準器に据えたまま腰を落として通路の床も探った弓弦羽は、身体を起こして銃口と共に探りながら前進を再開した。前方十五メートルほどで通路は左折している。その間にドアも非常口案内灯もこの通路にはない。

 角まで五メートルほどの場所で弓弦羽が足を止めた。すぐに後方を警戒する菅﨑がぶつかって止る。鋭く角を睨む弓弦羽が膝射姿勢を取った。それを背中で感じて振り向いた菅﨑が躊躇する。が、同じく膝射姿勢を取って後方警戒を続けた。

 三十秒ほども過ぎたか。角でちらりと何かが蠢いた。すぐ引っ込んだが、また出てくる。弓弦羽は微動だもしない。唇を引き結び、じっと待つ。こちらを伺っていたそれが動いた。つま先を滑らせるようにして足音を殺しながら前進してくる。その背後に三つの影が続いた。最後尾は後方を警戒している。

 先頭の奴が三メートルほどに近づいたその瞬間、弓弦羽は短い連射を放った。暗がりでAKの銃口制退機が太い炎を吹き上げ、戦闘服と防弾戦闘ベスト姿の連中と汗まみれな弓弦羽の顔を浮かび上がらせる。一撃で先頭の奴が崩れ落ちた。後続連中が慌てて撃ち出すが射線は上ずっている。そして不意打ちされた驚愕と恐怖が連中の指を固着させた。引き金を緩めずに全自動射撃を続けた結果、火線は一律右斜め上に向いてしまう。

 頭上を通過する凄まじい火線を無視して更に二連射を終えた弓弦羽は、天井や壁から降り注ぐコンクリートの破片と粉の向こうに目を凝らす。倒れた二人を残して奥に逃げた敵は闇雲に撃ちまくり、突き当たりの壁に派手な着弾の火花をまき散らしている。弓弦羽は立ち上がり、倒れた二人の頭部にトドメを放つ。

「おい、なにしてんだ!」

 叫んだ菅﨑に弓弦羽は五月蠅げに怒鳴り返した。

「こいつらを確保する余裕があるか? 放置して背中を撃たれたいのか?!」

 菅﨑は答えなかった。

「制圧するぞ!」

 菅﨑に叫んだ弓弦羽は銃を持ち替えて水平としつつ、靴底を床から離さず床に散乱する空薬莢を蹴散らして角に辿り着いた。機関部から飛び出した弾倉を自分の腹部に向け、銃身だけ通路から覗かせて撃ちまくる。追いかけてきた菅﨑が空薬莢を踏んで転倒した。弾倉が空になった。銃を引っ込めた弓弦羽は敵の応射がないまま弾倉を取り替え、装填レバーを引いて再装填を終える。もう一度牽制射撃を送りつつ頭を突出して向こうを伺った。非常口案内灯が中間と突き当たりで光を放っている。その灯りで左手前と右の奥の二つのドアを弓弦羽は見て取った。手前のドア付近の床で空薬莢が光っているが、奥のドア周りにはない。ドアの位置を記憶した弓弦羽は、AKで非常口案内灯を撃って破壊した。通路が一層暗さを増す。

 靴底を滑らせて駆けた弓弦羽は閉った手前のドア直前で立ち止まり、銃だけつきだしてドアに一連射かけた。同時にドアの向こうから応射が返る。素早く銃を引っ込め、左手でポケットから手榴弾を取り出してピンを抜いた。次いで右手だけでAKを操って、穴だらけになるドアの一点を目がけて指切り発射の全自動射をはじめた。室内の天井を撃つわけだが気にせず撃ちまくる。中に潜む敵はいきりたって撃ち返してくるが、殆ど射線の死角にいる弓弦羽に命中弾を与えるに至らない。

 弾倉が空になったとき、ドアに大穴が開いた。AKから手を離してスリングで首からぶら下げ、右手に手榴弾を移してレバーを弾けさせた。カウントしつつ大穴目がけて叩き込む。右腕を数発敵弾が掠ったが、なんとか手を引っ込めた。広げた指で耳を覆い、口を開ける。


 広大な建物の複雑な構造を呪った弓弦羽だが、今はそれが自分たちに有利だと考えを変えた。迷路のような内部を二人は移動経路と距離を記憶する特技をもつ弓弦羽の指示で移動する。敵は二人から四人程度の班を構成して侵入した敵を捜索しているが、照明不足の館内で敵は敵味方を識別しなくてはならない。

 一方弓弦羽たちは出会う相手全てが敵だ。その一瞬の差を生かし、弓弦羽たちはAKを撃ちまくって血路を開く。敵はトラウマプレート付のボディアーマーを着ているが、小口径高速ライフル弾を数発喰らえば防弾性能はなくなる。そして防弾ベストの重量と嵩が仇して敵は俊敏に動けない。

 ポケットの手榴弾を使い切った弓弦羽だが、その顔には冷たい笑みを浮かべている。建物内での銃撃音がそこかしこで轟きはじめた。混乱した敵は同士討ちを始めたわけだ。連中が怒鳴り交わす言葉は日本語ではない。以前どこかで聞いた覚えはあるが、戦闘に傾注した弓弦羽の頭脳は答えを出してくれない。

 一際重厚なドアの前でボディアーマーに身を固めた二人の敵が立哨していた。二人は全自動としたAKの引き金に指を掛け、落ちつきなく周囲に目を配っている。ここに来るまで見なかった光景だ。

 一目で人数、敵の装備そしてAKの安全兼発射セレクターの位置を確認した弓弦羽は頭を引っ込めて菅﨑と囁き交わした。正確には相手の耳に手を当てて結構な声量だが、周囲の戦闘騒音がかき消してくれるはずだ。

「中に重要人物がいるんだろう。奴かも」

 鼻血で顔が汚れた菅﨑が首を横に振る。

「たった二人だろ? 違うね、カネの番人だよ」

「中を見ないとな。よし、俺が狙撃する」

 弓弦羽はAKからカービンに取り替えた。伸縮ストックを伸ばして発射セレクターをバーストに切り替え、銃を左手に持ち替える。数回左肩に構え、身体を馴染ませた。構えたまま敵の死角内にあることを確認しつつ、ゆっくりと壁から距離を置く。利き目である右目は照準をはじめる寸前に瞑る。

 左半身だけ晒して引き金を落とした。軽やかな反動と共に、三つの空薬莢が連続してはじき出される。手前の奴が頭の左側面を大きく砕かれて崩れ落ちた。だが痙攣した指が引き金を引いて、短い連射が床に放たれる。

 弓弦羽は腰を落として銃を振り向けようと焦る残敵の顔面を真っ向から狙う。焦った敵は引き金を引いた。壁に走る着弾が弓弦羽に近づくが、二発の九ミリ弾で上あごから上を吹き飛ばされて途絶える。弾が切れた九ミリカービンを捨ててドアに駆け寄りながら背中のAKを握った。

 AKを上向きとして腰撓めの牽制射を二連射放ってからドアを蹴り破る。天井材と壁の破片が雪のように舞い落ちる中、はげ頭を両手で抱えて伏せる男と蹲って身体を丸めた若い女二名を認めた。シャツとスラックス姿の男は慌てて着た様子で着衣が乱れている。女はパジャマの上だけだ。

 男に銃を向けたまま立哨の射殺体を中に引き込む。ベストの首後ろに縫い付けられた救護用のグリップがあるから楽だ。走ってきた菅﨑ももう一体を引きずり込む。菅﨑に三人のチェックを任せ、弓弦羽は死体から奪った弾倉をAKに叩き込む。パウチにも押し込み、余った二つはジャケットのポケットに押し込んだ。

「武装なし!」

「よし、弾倉を奪え!」

 弓弦羽は改めて室内を見渡した。豪勢なデスクと書棚、応接セットなどが置かれている。デスク後ろの壁兼用の窓をみた弓弦羽は顔を顰めた。先に撃ち込んだ銃弾が窓ガラスを粉々にし、穴だらけのカーテンが風にそよいでいる。その先には池と植物がみえる。中庭だろう。

 右壁の閉ったドアに短く二連射撃ち込んでから開く。寝室だ。こちらには窓がない。天井際の壁にガラスブロックが収められ、ある程度の採光を果たしていた。天蓋付きの巨大なベッドがドアから見て横向きに置かれている。防御にはこっちだと弓弦羽は決めた。

「寝室に入れ! 急げ!」

 震える三人は素直に指示に従った。こっちのドアで見張ってくれと菅﨑に頼む。十二発程使ったはずの弾倉をジャケットのポケットに押し込んでおいたそれと交換し、残弾が多いそれは捨てずにポケットに突っ込む。

 入り口から見てベッドに隠れる奥に三人を座らせた。パジャマが脱ぎ散らかされている。

「岳下直徳だな」

 薄暗がりで激しく震えるハゲが頷いた。生年月日などを質問すると正しい答えが戻る。本人で間違いないらしい。

「仙北谷先生から紹介されてね。歓迎してくれたな、この野郎」

「カネなら出せるだけ出す。だから殺さないでくれ! 頼むから!」

 必死の面持ちで懇願する岳下に、弓弦羽は眼を瞬いて見せた。

「なんだと?」

「俺の口を封じたいんだろう? でも俺を殺したら証拠をばらまく手はずだ。だから止めてくれ!」

 弓弦羽の眼が細められた。

 キングサイズのベッド脇に置かれた冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出した。一本菅﨑に投げ渡し、弓弦羽も大きく呷る。渇ききった身体に冷えた水はカンフル剤のように効いた。急に頭が冴えるのを感じる。もう二口、今度はゆっくり呑んだ。

「俺はCGOだ。そっちは警察庁。誰が暗殺者だって?」

 岳下の震えが少し収まった。だが疑わしそうに二人を交互に見る。その怯えと猜疑の色が入り交じった目に弓弦羽は苛立った。

「証拠の品が何処にあるか聞き出して、殺すつもりだろう?」

「そりゃ聞くが、お前にも法廷で証言してもらう。でも俺たちも危なく……おい、菅﨑。見なかったことにして撤収しちまおう」

「馬鹿こけ! ばれたら首だ」

「どうかな。警察のお偉方も、こいつには死んで欲しいらしい」

「どういうことだ」

 岳下が聞き耳を立てているのを、弓弦羽は視界の隅で確認した。

「こいつらの私兵は完全に待ち伏せしていた。西側で警戒していた連中を思い出せ。携帯していたのは武器と弾薬だけだ。常時警戒しているなら飲食物も用意する。俺たちの作戦は筒抜けだったわけだ。漏らしたのは誰だよ」

 菅﨑が唸った。

「タレコミ電話も仕込みの一環だ。一気に特殊部隊の投入を決定した理由は? 日本の警察は親切そして慎重なのがウリだ。警官を目の前で射殺されても我慢してきたのに、なぜ今回は最初から本気でかかった」

「俺には解らん!」

「考えるのを止めたとき、組織の歯車になるんだ。おい、岳下。お前は誰から忠告された」

「……ミロクのお導きだ」

 そっぽを向いて呟いた岳下に弓弦羽は肩を竦めた。

「あ、そう。じゃあお前は御仏に祈れ。俺たちは自分の命が大事――」

「考えさせてくれ!」

「お前が要求できる立場か!」

 一喝されて岳下が縮み上がった。女二人は震えながら手を合わせ、必死に祈り始める。ただし拝む相手は弓弦羽でも岳下でもない。

「本当に殺さない?」

「口約束が嫌なら好きにしろ」

「じゃあ逃げてもいいのか」

「馬鹿。お前の言う暗殺者が外にわんさかいるぞ。それも怒り狂ってな」

 言いつつも弓弦羽は様々な可能性を考える。SRPの全員が岳下の射殺命令を受けているとは思えない。抵抗されたら容赦なく反撃しろと命令するのがせいぜいだろう。まあ怒り狂っているのは確かだろうが。ベルトで堰き止められた腹部の異物を強く意識した。

「じゃあ……じゃあ、俺が保護を求めたら?」

「まずは確保する。話によっては保護しよう」

「保障が欲しい」

「仙北谷は護衛付きで病院に隠れている。そして俺たちは巻き添えで殺されたくない。そうなるとお前も生きて証言してくれた方が後々俺たちは安心できるわけでな」

 必死の面持ちで考え込む岳下の顎から汗が滴る。

「わかったよ。何を知りたい?」

「まずお前が抱えている証拠物件だ。コピーはばらまき用、オリジナルはお前が抱えているはずだ。それプラス、保険としてスペアを別場所に隠すよな」

 岳下が目を逸らした。

「それは……そうだけども」

「犯罪者は司法に協力してこそ評価されるんだよ。ほれ!」

 躊躇う岳下に素っ気なく弓弦羽が急かす。

「冷蔵庫を足下のカーペット毎横にずらしてくれ。床に隠し収納がある」

 大容量の冷蔵庫を滑り退かすと、床板に金属枠が付いた蓋が表れた。鍵はない。

「メモリーカードか。何が入っている?」

 中身を点検した弓弦羽は返事を待たずに冷蔵庫の天板にバッグを乗せた。突入者が訓練された奴で本気なら低く掃射するからだ。ド素人は腰から上を掃射する。冷蔵庫は拳銃弾ですら貫通してしまうから、中に入れても意味はない。

「主に会話記録だ。隠し撮りした映像もある」

「相手は? 小物は後で聞く。今知りたいのは、お前に指示を出した奴らの名前だ」

 なんで今、と呟いた岳下だが渋々口にする。

 一人は首相経験者で引退した鷺山圭介さぎやまたますけ

 二人目は同じく首相経験者で地方区では落とされたが比例区で返り咲いた館寛夫たちひろお

「どっちも今はまともな奴は誰も相手にしていない状況じゃないか」

 大企業の御曹司である鷺山は資金力はあるだろうが、館にはないだろうと続ける弓弦羽に岳下が激しく頭をふった。

「そう思うだろう? でもちがうんだ。鷺山は脳内お花畑だが金持ちだ。館は普通の家の出身だが、背後に巨額の資金提供者がいる」

「待て。どっちも政治的影響力はない。原発崩壊に責任がないと言い張った館は、嘘が暴かれて干された。鷺山に至っては除名処分される寸前に脱退した。それでも二人とも自分は悪くないと喚いて、国民に嗤われているぞ。こんな二人の口車に乗って踊る馬鹿がどこにいる」

 岳下が何か言おうとするのを弓弦羽は無視して続けた。

「口車に乗った政治家だって賭けだと理解している。今回の件は、政治家生命どころか本当の死活問題だ。ちまちまと資金の中抜きするだけの役得で動くかよ! 連中が御輿を担いだ理由は、その二人のバックに実力を持つ奴がいるからだろうが!」

「そんなのはいない。あんたの考えは理論的だよ。でも人間は感情で動く。往々にして非論理的な選択をするものだ」

「ああ、追い詰められて余裕を無くしたときはな。じっくり考える時間があれば、人は誰しも自分の論理で考える。理、欲、義理人情それに義務。それらが複雑に絡んで結論に至る。人情や義理で動くのは普通の人だ。だが政治家はあくまでも損得だけで考えて行動する。連中が好きなのは自分だけだ。鷺山や館に命あずける馬鹿はいないね」

「じゃあ、あんたはどう考える」

「あっさり名前が出た二人は被害担当役だ。お前もそうだ。お前が陰の親玉で二人は御輿だと思わせたい奴が武装ガードを手配した。連中には言い含める。家族の世話は任せろ。敵が来たら死ぬまで戦え。決して捕虜になるな。岳下と共に死ね」

 岳下の汗にまみれた顔が引き攣った。

「もう解るよな。警官が何人も死んだ今、犯罪者を皆殺しにしても誰も非難しない。最後まで抵抗したからやむなく射ちました、手当てしましたが死にました。被疑者死亡による書類送検で落着だ。全体像は闇に葬られる。鷺山と館そしてお前を踊らせた奴は舌打ちしてお終い。悠々と次の計画を練るのさ」

 胃液を吐き始めた岳下が落ち着くまで待った。

「お前が取り込んだ政治家も薄薄それに気付いている。だから乗った。欺されたんですと泣いて懺悔した上で辞職し、執行猶予を終えたら再選されて禊ぎは終わり。

 よく考えろよ。何故連中はそれを知った。本当の黒幕から囁かれたからさ。仙北谷は簡単にお前の名前を吐いた。でも鷺山も館の名前も吐かなかったのは何故だ。二人が安全弁だからだ。勿体ぶって二人の名前を自白し、それらしく見せる役目がお前なんだよ!」

 また岳下が震え始めた。

「言ったら俺は殺される」

 低く呻いた岳下に、素っ気なく弓弦羽が告げる。

「今日殺されたら意味ないぞ。いや、忠義の誉れってやつか」

 解ったよ、と汗で光るはげ頭を岳下が揺らした。

織澤鉄哉おりさわてつや先生だよ。ほら、民自党から主民党に入って、鷺山と館と対立して新政党を作ったあの人だ」

「ん? あれも政界を引退したようなものだろうに」

 主民党内の権力闘争を起こした本人が収拾に失敗して追い出され、新党を結成して対抗した。だが東日本大震災で被災地支持者母体への救護を怠って、自分の安全だけを謀ったと伴侶に暴露された上に離婚訴訟を起こされた。この二つが明るみに出てからはぱっとしない。

 だが田中角栄亡き後急速に勢力を伸ばしたが裏方に徹し、闇将軍の後継者と呼ばれた過去を弓弦羽は思い出した。人を踊らせるのが得意な織澤なら、先の二人はいい踊り手になるだろう。だが、織澤とあの二人は犬猿の仲になったはずだと首を傾げ、そう問うた。

「とんでもない。裏切り者への復讐を誓って今も暗躍しておられるよ」

「裏切り者?」

「鷺山と館だよ。首相の座に着けてやったのに、裏切って責任をおっかぶせたと今もお怒りだ」

 持ち上げて梯子を外す積もりなのかと弓弦羽も頷いた。だが一応言葉で聞く必要がある。

「それで?」

「二人が俺たちの総元締めということになっていて、どちらも織澤先生の存在を知らない。スポンサーから直に資金を受け取っていると二人は思い込んでいるが、ペーパーカンパニーだ。遡及しても実態は掴めない。資金は織澤先生が受け取って、それをカバーした上で鷺山館両先生に流しているんだ。あんたのいう被害担当で安全弁だよ。俺だって当初はそう信じ込んだくらい巧妙にやっている」

「俺たちというのは各地域で代議士に連絡し、資金を直に渡す役目か」

「そうだよ。東日本と北海道、関東、中部、西日本、中国地方と九州で五人いるはずだ。中部担当が俺」

「どうやってそれを知った」

「この二人を含む四人の女がベッドの中で織澤先生の口から聞き出した。偶然だったが、それを録音できたんだ。たしか残り四人の名前も記録してあるはずだ」

 改めて弓弦羽は二人の女を見た。共に男好きのするスタイルよい美人だ。

「お前の愛人をあてがったのか」

 岳下が頷いた。

「昔から女の趣味が合ったんだ。正確に言えば、織澤先生は処女に執着される。ある程度先生が楽しんだ後、俺が徹底して仕込む。そしてまた送り返して、当初とのギャップを先生が楽しむんだよ」

 シャトル外交というのは聞くけどな、と弓弦羽は呆れた。

「最終的に面倒を見るのは俺だ。前の二人も俺が資金援助して成功している。それを知っているから、この女たちも俺の頼みを聞いてくれた」

「その音声資料は何処にある」

「さっきの隠し場所の底板の下に、もう一つ隠し場所がある」

 改めて床収納をみても解らない。岳下に作業させると、分厚いプラスチック袋に密閉されたメモリーカードが二つ出てきた。それを先ほどのバッグにしまい、また冷蔵庫の上に上げておく。

「一寸通路の様子を見てくる。いいか?」

 弓弦羽が頷くと菅﨑は用心しながらでていった。

「それで、織澤のスポンサーは何処の国だ」

 岳下が目を見開いた。また汗をかき始める。

「企業集団でも奴が動かすカネを捻出できない。となれば残るは国家だ。もう想像は付いているが、お前の口から聞きたいんだ」

 岳下の返答を聞いても弓弦羽は全く驚かなかった。連中の武器を見て既に予想はしていた。南スーダンと全く変わらないなと感慨深いものは感じたが。

「やっぱり。お前の私兵もか?」

「ああ。織澤先生が回してくれた。あの国の現役陸軍兵士だそうだ」

 ビンゴ、と弓弦羽は頷いた。幾つか立てた仮説の一つに嵌まったと満足する。

「それじゃ数名捕虜にしなくちゃ。織澤の目的は?」

「異病不安を煽って票を纏める。そして当選後、皆で新党を作り与党となる。当然裏で党を支配するのは織澤先生だ」

 戻った菅﨑が、銃撃戦は終わったらしい、救急車のサイレンが微かに聞こえると告げる。

「解った。ドアを閉めろ。さて、いよいよやばいな。岳下、連中はお前の命令を聞くのか」

「いや……織澤先生だけだ」

「やっぱりね。今後の流れを教えてやろう」

 岳下が不安に満ちた眼で弓弦羽を見詰めた。

「生き残った連中は、この部屋にいる全員を射殺して脱出。その際豪邸に放火して証拠品を闇に葬る。織澤への追求は不可能だ。やってくれるわ、ったく」

 岳下が頭を抱えて呻いた。

「織澤の最終目的は政権奪取だけじゃないだろう。さっさと話せ」

「政権を取って日米安保を破棄する。そのあと鷺山と館を自殺もしくは謀殺に見せかけて処分して、新しい同盟をあの国と結び衛星国家となる。織澤先生が国家主席だ。だからあの国は支援を惜しまない」

 俺の任務も半分終わったなと弓弦羽は内心呟く。

「で、お前はなぜ協力した」

「カネだよ。カネのために政治家になった。だが表より裏のほうが動きやすいと解った。引退して宗教家となったのもそのためだ。莫大な資金を持つ宗教法人は税務署のチェックが厳しいが、目立たなければ一切構われない。やりたい放題だよ。織澤先生も支援してくれて、宗教法人格を獲得できた」

「あの国の衛星国家になったら、美味い汁は吸えなくなるだろうに」

「そりゃね。でも永遠に生きられるとは思っちゃいない。生きている間、面白楽しく暮らせればいい。必要なのはカネだ。織澤先生は従う者には面倒――」

 脇腹を痛打されて弓弦羽は倒れた。内臓に響く激痛に朦朧とするうちに、拳銃とAK等を奪われた。フルオートの咆哮が、薄れ掛けた弓弦羽の意識を呼び覚ます。吐き気を堪え、必死に呼吸して意識をはっきりさせる。

「いろいろ聞き出してくれてお疲れさん、間抜け」

 笑いながら空弾倉を投げ捨てる菅﨑を、弓弦羽は床から睨みあげた。AKの金属製ストックを叩き込まれたらしい。臓物をぶちまけた二人の女は痙攣し、その返り血を浴びた岳下は発狂しそうな表情で震えている。

「何すんだ」

 こいつが一人で来たとき感じた不安が虫の知らせだったかと弓弦羽は悔やんだ。

「馬鹿か。見りゃわかるだろ」

 楽しそうに菅﨑が笑う。

「ナイフを捨てろ」

 AKの銃口がゆらりと動いた。罵りで応えた弓弦羽だが、チノパンのポケットをまさぐる。まだ俺の任務は終わっちゃいない。そう己を叱咤した。

「ベッドの向こうに投げ捨てろ。もう一本もだ」

「くそが……下っ端の癖に態度がでかいな」

 二本目を放り捨てながら弓弦羽は挑発を試みる。

「いいや、CGOでは俺が最上位だ。部下は結構いるぞ。まず人事部の……」

 楽しげに菅﨑は役職と名前を挙げ続ける。

 終わったとき、弓弦羽は安堵した。知る名前は一つもなかった。そして任務の半分は達成できた。

「なんでさっさと殺さない」

 ひとしきり嗤った菅﨑が、憎々しげに弓弦羽を睨む。

「昔からお前が嫌いだったからさ。お前のせいで俺は出世コースから外された。ずっとお前が憎かった。CGOに入ったと聞いて歓喜の声を上げたぜ。異病者に八つ裂きにされちまえってな!」

 弓弦羽は睨み返す。これをどうにか利用して時間を稼げないかと思案しつつ。

「なのにくたばりゃしねえ。それでも時間の問題だと楽しみにしていたよ。それなのに、またお前は首を突っ込みやがった。ったく、疫病神そのものだ。強制的に排除しようと提案したのは俺だ」

「矢野か」

「そうだ。上が支配している政治団体の下っ端だよ。真横からぶつけて押し潰せばいいものを。馬鹿しか用意できなかった上の連中も無能だな」

 馬鹿はお前だ、と弓弦羽は心の中で嘲った。

「次はソフトな搦め手でとやってみたがこれまた失敗。全くお前は!」

 弓弦羽の眉が寄る。

「なんだって」

「瀬織のレイプ未遂だよ」

 頬を痙攣させる弓弦羽に菅﨑は愉しげに頷いて見せた。

「二度も同じような手段でかかったら誰だって疑うからな。お前を嫌う反対派を手懐けて四柳に接近させたのさ。サークルでぼっち気味だった四柳は簡単に手駒になった。当初は嫉妬を煽って瀬織を刺し殺させる予定だったが、折良くサークルの女が異病者に殺された。お前に憧れていたあの女……万城だ、そいつにそそのかされたとして瀬織をレイプしろと煽ったのさ。平常心を失ったお前は任務でドジを踏むと計算したんだが。あの馬鹿、お前が家にいるときに押し込みやがった」

「なぜだ」

 絞り出すように呟いた弓弦羽に菅﨑の笑みが深まる。

「ヘッドハンティングされたんだよ、警察庁長官殿にな。俺にとって最後のチャンスだ。時流に乗れば俺は復活できる。お前にメチャクチャにされた人生を取り戻せる。尻尾振り振り参加したよ。お陰で小金も貯まったし、来年度は警視正だ。そうだ、お前は今日二階級特進するな。おめでとう。でもお前は永遠に中佐でとまるのさ」

 急に銃口を動かした菅﨑が点射を放った。逃げかかっていた岳下が床材の破片に塗れて突っ伏し、頭を抱えて泣きじゃくる。

「楽しい時間を邪魔するな。そんなに急いで殺されたいのか」

 岳下が呼吸困難に陥った。

「所詮歯車じゃねえか」

「いいや、立場が変わった。解らなかった裏の事情を全部知った。そして資料も手に入った。ここから俺のターンだ」

 楽しげに笑う菅﨑に、弓弦羽は舌打ちで応えた。

「なるほど。お前の上位者以上の知識を得たわけだ。これからは強請に精を出すのか」

「そうさ。岳下の資料とお前の分析。のし上がって織澤を利用してやる」

 ひとしきり楽しげに笑った菅﨑が、急に真顔になった。

「そうだ。これは是非やらなくちゃ。お前の女を残すわけにはな」

 弓弦羽の動揺を認めて菅﨑が楽しげに笑う。

「お前に夢中な津佳沙からお前の記憶を消してやる。名前すら思い出せないほど、徹底して俺が仕込んでやるよ。自分で服を脱ぎ捨てて抱いてくれと懇願するまでにな。そして死んで貰う。問題はその方法だな」

 歯ぎしりする弓弦羽に、菅﨑が笑いながら頷いて見せた。

「そうだ、美和を使おう。年増だから無視していたが、津佳沙にぶつけるには最適だ。美和を落として津佳沙のベッドでセックスし、年増が悶えのたうつ姿を馬鹿女に見せつけて、人格もセックスも全て否定して自殺するまで追い詰める。それでお前は誰の記憶からも消え去る」

 弓弦羽は苦痛を忘れた。こいつだけは絶対殺す、必ず殺すと弓弦羽は決意した。そろそろと手をシャツの合わせ目に動かす。

「お前で満足する女がいるのかね。口先ばっかりだと噂だし」

「なんだと」

 楽しげだった菅﨑が顔を強張らせた。震えはじめたAKの巨大な銃口制退器に目を向けないよう、弓弦羽は己を叱咤した。菅﨑の目に集中する。そして身じろぎするついでにボタンに手を掛けた。

「給湯室で笑われていたぞ。激しいだけで全然気持ちよくなかった、指ばかり――」

「黙れ!」

 顔面を怒りに歪めた菅﨑が腰だめで点射した。弓弦羽の左腰を掠めた弾丸が床を砕く。弓弦羽は悲鳴を上げて転げ回った。菅﨑に背中を向けたその時、シャツの腹部ボタンを引き千切り、腹を動かして異物の場所を探る。なんで右だよ、と内心で悪態を吐いた。

「くそ……指に頼るなんてインポに悩むジジイか。ああ、早漏か」

 激怒していた菅﨑が眉を上げた。

「煽って急所を撃たせようって魂胆か。ならそう懇願しろよ、さあ!」

 よろめきつつも立ち上がった弓弦羽に、二歩下がった菅﨑は銃口を腹部に向けた。それに構わず歩み寄る弓弦羽の足元に短い掃射が放たれる。足を止めて歯がみをする弓弦羽に菅﨑は笑った。

「腹だ。腸ぶちまけてのたうち回れ。おい、岳下。お前は楽に殺してやるよ」

 腰を抜かして泣いていた岳下が白目を剥いてひっくり返った。

「覚悟は出来たか。くそ疫病神」

「黙れクソ垂れ。その首へし折ってやる!」

 一歩歩みでた弓弦羽は、菅﨑の背後で開き始めたドアに気付いた。乱入者にこいつが気付いたときにと決断した次の瞬間驚愕する。銃を構えた瀬織がいた。怒りに顔を紅く染めた彼女は目を吊上げて菅﨑に銃口を振り向ける。弓弦羽の様子に気付いた菅﨑は目を強張らせ、左足を軸に素早く身体を回した。二人は同時に発砲した。が、どちらも命中しない。不自然な体勢のまま菅﨑はフルオートで撃ちまくるが、引き金を絞りっぱなしなので反動で右上に射弾がそれる。瀬織はドア枠と壁のコンクリートの破片を浴びながらかろうじて待避した。

 焦る菅﨑の捥を掠めて飛来した四十五口径の巨弾を無視して、弓弦羽は手榴弾を取り出した。安全ピンを怒りにまかせて引き抜き、なにか喚きながらフルオートで撃ちまくる菅﨑の胴を二の腕ごと左腕で締め上げた。それと同時にAKの咆哮が止む。弾切れだ。

「くそ疫病神!」

 一○一。弓弦羽がレバーを飛ばした手榴弾を襟首深く突っ込んだ。直後菅﨑は悲鳴を上げて身を捩る。遅延フューズが噴き出す炎に背中を炙られる菅﨑から弓弦羽は捥を離した。

 二○一。AKで殴りかかろうとした菅﨑に左手のピンを見せつけ、恐怖に歪んだ奴の顎を思い切り殴りあげる。

 三〇一。ベッドの上に倒れた菅﨑がベッドの足側床に転げ落ちるのを、弓弦羽は満足そのもので見送った。

 四〇一。掠れた絶叫に弓弦羽は我に返る。

「手榴弾!」

 怒鳴った瞬間爆発した。衝撃波を喰らって弓弦羽はひっくり返る。

 酷い頭痛と目眩に吐いた。気合を掛けて身体を起こす。耳鳴りも酷い。ベッドの木枠と分厚いマットレスが数百の破片を食い止めてくれた様子だ。

 なんとかベッドを乗り越えて床に転がっていたデルタを掴み、よろめきながらドアに向かった。立ちこめる灰色の煙越しにベッド足側の壁や天井に張り付いた肉片が見える。嗅ぎ慣れた爆薬の刺激臭とともに酷い生臭さを嗅ぎ取った。

 恐る恐るドアの外を見る。

 屈んだ瀬織と目が合った。全身に浴びたコンクリートの粉末で白くなった彼女の口が動く。が聞き取れない。近づきながら弓弦羽は安否を問うが、彼女は耳を叩いてから首を横に振った。弓弦羽も酷い耳鳴りしか聞こえない。

 跪いて彼女の身体を触って確かめ始めた。彼女も弓弦羽の身体をなで回す。チノパンを黒く染める腰の出血に気付いた彼女が泣きそうになった。

「大丈夫、かすり傷だよ。大丈夫」

 悲愴な面持ちでなにか問いかける彼女に笑ってみせながら繰り返す。

「……ね。嘘じゃないよね」

 弓弦羽の聴覚も漸く戻ってきた。更に彼女に顔を寄せて頷いた。

「お陰で助かったよ」

「怒らない?」

 叱られる仔犬のような目で見詰める彼女に、弓弦羽は微笑みながら首を横に振った。

「ありがとう、津佳沙」

 安堵の溜息とともに微笑みを浮かべた彼女が小さく首を傾げた。

「私にも出来たね」

 弓弦羽は彼女を固く抱きしめた。

 血だまりの中で菅﨑はまだ瞬きしていた。腹部の僅かな皮で身体が繋がっている状態だ。弓弦羽を見詰めた菅﨑の口が動いたが声は出ない。そして眼から光が消えた。

「あの世で口説きまくれ、馬鹿たれ」

 目を背けた瀬織が弓弦羽の腕を掴んだ。

「いい人だと思ったのに」

「俺のせいだ」

 弓弦羽の左腕が強く握られた。

「違う。滉は自分を責めるけど、彼は人に押しつけた。それに……考えが纏まったら話すね」

 彼女の呟きを弓弦羽は心の中で復唱する。そうかもしれないと疲れた頭で結論を出した。

 岳下の生存を確認し、冷蔵庫からバッグをおろす。バッグの中身は無事だ。

 通話状態のスマホを取り出した。最小にしていた受話音量を最大にあげる。

「管制、弓弦羽。繋がってるよな」

「管制です。大丈夫ですか、大尉」

 弓弦羽が安堵の笑顔を浮かべた。

「おかげさまで。中佐と直接会話をしたいんだけど」

「了解。待機してください……どうぞ」

「中佐、弓弦羽です」

「怪我は大丈夫か?!」

 大声が即戻った。

「はい。瀬織君も大丈夫です」

「馬鹿野郎、やきもきしたぞ」

 大藪の声が微妙に変化した。弓弦羽が頬を掻く。

「瀬織君に助けられました。岳下と証拠品を確保しました」

「よし。君からの通話は全て記録した。武装した連中も無力化若しくは捕らえた。まず安全だが、どうする?」

 殺害したと直裁に表現しない言葉が無力化だ。

「岳下は失神しています。SRPは汚染されている畏れが強いです。検事さんと中佐を湯浅君と制服警官がガードして、此処に来ていただけませんか」

「馬鹿もん! 俺だって戦ったんだ。SRPは省いて迎えに行くよ」

 弓弦羽が目を瞬いた。

「では御願いします。でも場所をどう説明したものか」

「本部が君の位置を捕らえているから大丈夫。通話状態で待機してくれ」

「待機します」

 弓弦羽の左腕が引っ張られた。

「ちょっといい?」

 弓弦羽が頷くと、瀬織は背伸びして囁いた。

「お母さんが誰も殺さないうちに止めてくれたでしょ。本人が一番喜んでいるよ。それにお母さんの顔を見てお別れできた。本当にありがとう」

 そう、と弓弦羽は呟いた。

「あの時はごめん」

 頷くしか弓弦羽には出来なかった。だが一抹の不安が残る。

「もし私が発病したら御願いできる?」

 生じた不安が吹き消された。真面目な顔で弓弦羽は頷いた。

「俺の時、頼むね」

 彼女が小さく、だが確り頷く。

「じゃ、キャラメル頂戴。約束の証」

 新たな銃声が起きないまま、大藪と湯浅がバディとなって寝室に突入した。視線とMP五短機関銃の銃口を連動させる大藪は、結構様になっている。ただし、引き金に指を掛けてしまっている。

 死角でAKを構えていた弓弦羽と、照準器越しに目が合った大藪は破顔しながら銃を下ろし、両掌の汗を拭う。湯浅も銃を下ろし、顔の汗を袖で乱暴に拭き取った。一瞬遅れて銃を下ろした弓弦羽も歯を見せて笑い返す。

「管制、弓弦羽。中佐と合流した」

 これで負債はチャラと弓弦羽は内心で宣言した。

「津佳沙、クリア!」

 冷蔵庫の影から用心深く顔を出した彼女は、全員の手をみてから銃を下ろした。


 午後三時を過ぎて、漸く弓弦羽たちは帰宅を許された。薄汚れた二人は大藪の気が変わらぬうちにとさっさと辞去する。

 FJの助手席に座った瀬織が弓弦羽の肩に触れた。

「朝の話しの続き、いい?」

 東部総合庁舎横の一方通行路を左折し、信号待ちを始めた弓弦羽が眼を一瞬細めた。彼女はあの後長い時間考え込んでいた。何事かの結論が出たのだろうと頷く。

「先に幾つか確認させて。南スーダンでも、あの人は一人で来たんだよね」

 菅﨑かと呟いた弓弦羽が肯定した。

「目的は聞いた?」

「いや。現場では切羽詰まっていたし、終わってからはどうでもよくなったから」

「何しに来たんだろうね」

 弓弦羽が肩を竦める。

「俺たちの行動監視だろ。正直な話、背広組の官僚は自衛隊を信用していない。クーデター予備軍の集まりと思っているんだよ」

「なら、なぜ一人で来たの?」

 弓弦羽は返答に詰まった。交差点を左折するがまた信号待ちだ。

「救助隊が来るまで三日もかかったんだから、ジュバ市近郊のキャンプから結構離れた場所だよね。道路状況も悪いって前に聞いた。攻撃が始まるより前に、ジュバのキャンプを出ないと間に合わないんじゃないの」

「確かにそうだね」

「ここからは私の想像だよ。攻撃が始まった時点で部隊を撤収させる積もりだったと思う。所属組織は違ってもある程度の発言力はあるでしょう。だから予定時間にまにあうようにキャンプをでた。でも計画より早く攻撃が始まった。何も知らない自衛隊指揮官は偵察に出た滉に別の命令を出した。それを現地で知って慌てて追いかけた。戻る三人があの人を警護しなかったのも変だよ。同じ派遣された日本人だよ。危険そのものなのに放置する?」

「そういえば……彼らと擦れ違わなかったわけはない」

「あの人と外務省の一部は、自衛隊を南スーダンから撤収させたかった。外圧じゃなくて日本国民の圧力でね。簡単だよ。多くの隊員を死傷させ、任務も失敗したらそうなる。だから携行する弾に制限を掛けて戦う気が起きないようにと謀った」

 ハンドルを握る弓弦羽の指が白くなった。目付きも鋭くなっている。

「日本隊が去って得をするのは、今日も名前が出たあの国。あの国にぺこぺこして、巨額の税金を差しだすのが外務省だよね。核兵器を持ち、軍備を増強し、宇宙開発をする国には必要ないのに。政治家と官僚が結託している証拠は今日も出た。あの国に便宜を図ろうとした一派がいたから、PKO部隊にまともな情報が与えられなかった」

 歯ぎしりする弓弦羽に構わず、彼女は続ける。

「滉は自衛隊の上官から命令を受けた。あの人の権限でそれを解除できないよね。となれば滉と部下三人全員を殺すしかない。そのつもりであの人は来た」

 弓弦羽は黙ったまま大きく深呼吸を繰り返した

「でも戻ってきた三人は殺す必要はない。強圧的に命令して三人をキャンプに戻した。三人は後で首を傾げたでしょう。でも漠とした疑問だけで証拠はないし、二人が結果戻ったから何も言えなくなった。

 残る一人を探している最中武装勢力に襲撃されて殺すはずの人に助けられた。滉を殺したら自分が生きて戻れない。やむなく生き延びる道を選んだ」

 信号が変わった。弓弦羽は左折してリコー通りを北上する。

「日本のPKO隊はその後も南スーダンで活動を続けている。滉の行動が国際社会でも、日本でも評価されたからだよ。でもあの国の不興を買い、政治家と市民団体の圧力で滉は居場所をなくした。目的は滉の存在を忘れさせるため。発言力を持たせたら後々邪魔になると考えた」

 無言でハンドルを操る弓弦羽の顎にはクルミの如きしこりがうき、呼吸は浅くせわしない。

「出世コースから外れたってあの人は言ったけれど。三十前で警視ってキャリアとしては普通だよ。中佐だってあの歳で警視長だよ。あの人が思い描いていた出世ってなんだろう。お父さんが聞いたらひっくり返ると思う」

 弓弦羽は呻くしか出来なかった。菅﨑がぼやくから、そうなんだと思い込んでいた。確認しようとも思わなかった己のうかつさに腹が立つ。瀬織の父は大卒ノンキャリアで警部になった。四十代でそこまで出世するには能力だけでなく、かなりの努力が必要となるはず。

「私の仮定に基づく結論。あの人は別の組織で裏切り行為をしていた。南スーダンの一件で組織から見放されて、新しい組織に身売りした。その背後にいたのが同じ国なのが偶然かどうか私にはわからない」

 瀬織は黙り込んだ。弓弦羽は運転を続けながら考え続ける。

 国道一号線を上ったFJは箱根登り口の初音台で左折し、三島駅北口方面に繋がる裏道に入った。

 陸橋を走る車内で弓弦羽が溜息を吐いた。

「筋は通るね。なんで気付かなかったんだろう」

 弓弦羽の左肩に手を掛けた瀬織が大きく頭を振る。

「負い目のフィルターを自分に掛けたから。それに人を信じたい人だからだよ。でもね、私はそういう滉だから好き」

「他にも見込み違いがあった。間抜けで馬鹿な最低男だよ」

「やだ。私にとってあなたはバッダースなんだよ」

「考えが三六〇度変ったみたいなあのスラング?」

 そうそう、と瀬織は大きく頷いた。

「妙なスラング知ってるね。決して褒められないよ、それ」

 滉もね、と笑った彼女が真顔に戻った。

「それより滉。これからが正直怖いんだけど」

 弓弦羽は車を左に寄せて止め、彼女の話に聞き入った。

 対外的には公表されなくても、時間が経てば弓弦羽の名前は漏れる。今回の事件に絡んだ連中の全てを検挙できるかどうかは怪しい。織澤の同格者若しくは上級者がいる可能性は否定できない。安全弁は複数置くはずだ。そいつらが邪魔した弓弦羽を排除するかもしれない。そう彼女は懸念した。

 それを避けるには可能な限り目立たず静かに過ごし、その状態でゆくゆくはCGOから身をひくべきだと二人は結論を出した。引き摺っていた負い目に終止符を打てた弓弦羽に異存はない。

「傍から見れば儚い一生。でも当人にとっては充実した一生、か。それでいいんだよな」

「誰の言葉?」

 首を傾げた彼女に、弓弦羽は肩を竦めて応えた。

「昔読んだ本の一節。虫のカゲロウ絡みだったかな。結構深いなあと思って、これだけ覚えていた」

「私と二人で充実しようよ」

「また申し込まれちゃった」

 微笑んだ彼女が顔を寄せ、目を閉じた。

 唇を離した二人は上気した互いの瞳を暫く見つめあう。

「ね、早く帰ろう」

 走り出した車内で、弓弦羽に左手をシフトレバーに置いてくれと瀬織がねだる。素直に従うと、彼女は嬉しそうに自分の右手を重ねた。伝わる温もりに弓弦羽の心の強ばりは溶けていく。

「着替えて食事に行こうよ」

 開放感と充足感に包まれて弓弦羽は気軽に提案した。

 弾が掠めた腰の傷は、衝撃波に叩かれて皮膚がミミズ腫れとなり、一部が裂けただけの軽傷だ。抗生物質入りの軟膏を塗り、ガーゼで覆って手当は終わった。顔面に刺さった弾片も針でほじりだして絆創膏を貼っている。

「……やだ」

 彼女が膨れた。それを横目で認めた弓弦羽の頬が緩む。

「晩夏の夜を二人で過ごしたい?」

 うん、と恥ずかしそうに頷いた彼女の掌が熱を帯びた。弓弦羽はシフトレバーから手を離し、彼女の右太腿に置いてみる。連れて移動した彼女の掌が急激に汗ばんだ。

「大好きだよ、津佳沙」

「私も大好き……道路、混んでるね」

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