第三章 ペネトレーション
ひとときの平穏を慈しむようにゆったりお茶を啜る大藪と田原を余所に、弓弦羽は渡された資料に没頭する。中佐の権限で調査した結果は次の通り。
研修中及び研修後に、転居及び転職した警護士が異常な割合で存在する。独身もいれば家庭持ちもいる。
転居せず、転職だけしたものもごく少数だがいる。
転職先はいずれも地元では名の知られた企業。同一企業内に複数人が転職した事例も複数確認された。
転職及び転居は東部支部のエリアに収まらない。登用された後、他エリアから東部エリアに来た者もいれば、別エリアに出た者もいる。別エリアから転入したものも。
彼らの共通項は他にもある。彼らの異病対応は優秀かつ積極的と評定されている。
資料を閉じて眉を寄せた弓弦羽を認めて大藪は茶碗を置き、ゆったりと口を開いた。
「同一企業に複数の警護士が転職する時点でおかしい。それを条件とした求人は出来ないからな。CGOからの情報漏洩を疑うべき、そう私は考えるがどうだ」
話し終えた大藪は彼が持参のみたらし団子に手を伸ばした。彼が見つけた店の逸品だそうだ。プラスチックのパックを使わず、昔風の紙包みなのも店の拘りかもしれないと弓弦羽は気付いた。
「異論ありません。問題は警護士を囲い込む目的ですね」
「企業内の安全確保が目的では? ある程度安心して経済活動に専念できますよ」
田原の意見に二人は頷く。だが大藪は躊躇いがちだ。
「私は目的は複数ではないかと思うんだ。理由は簡単。お偉方のいる本社、そして支社若しくは同系列別会社を持つ企業があるんだが、本社に配属されているとは限らない。これは妙だ」
首を傾げる田原に笑った大藪は二人に団子を勧めた。弓弦羽も一本咥え、流しに歩く。
「なるほど、これは確かに美味い。本当に炭火で焼いているのかな」
「あたり。砂糖醤油の香りが一層引き立つ。大尉が私費購入したお茶もなかなか。案外舌が肥えているな」
濡らして絞った布巾をお手ふきとして配った弓弦羽はソファに腰を戻した。
「貴重な資産の無駄遣い。そう中佐は仰りたいわけですね」
お茶を啜った大藪が大きく頷く。
「経営者は「社員は家族」だと公言するがね。でも社員と同レベルの生活に甘んじる経営陣なんて寡聞にしてしらん。別次元の生活をしているよな」
「ああ、社員より自分たちの安全を守ろうとするはずだと」
田原に大藪が頷いた。
「社員は経済家畜。社畜とでも表現するか。社畜が稼いだカネは経営陣である俺たちの物。社畜が役立たずになれば即廃棄。そのくらいがめつく、冷酷でないと役員には成れないね。我々も同じだな。公務員は国民の召使い。恩給を夢見て今日もお仕事。俺たちは民畜さな……民畜も国民なのだが」
嘆く大藪に二人が苦く笑った。
「社畜さんも民畜さんも、定年退職の日を夢見て日夜奮闘してますよ。ささやかな夢を積み重ねて、堪え忍びつつその日を目指すと」
一般国民の大多数と公務員の願いを代弁した田原に弓弦羽も応じた。
「でも年金を期待するに必要な俸給号数は? 結論。権力者にならないと楽しい毎日は過ごせない。同僚は敵だ。上司は利用しよう。権力には擦り寄れと。英語圏でなんというか知ってますか? ファッキン・マイ・ライフですよ」
苦い笑いが部屋に満ちた。
「これから先は監査部に任せないとな。いいかな、大尉」
弓弦羽は頷いた。
「お任せします。その報告次第で監査部担当者の信頼度も解りますね」
大藪が苦い顔で頷いた。
「全く。懲役五年以上十年未満より美味しい餌か……」
士官以上の常勤者はある程度の情報公開が成されるが、非常勤扱いの警護士は除外される。まして研修中の候補者は佐官以上の一部でないと解らない。
「恩給と自由を賭けてまで。馬鹿なことをするものだ」
大藪の呟きに弓弦羽は眼を瞬いた。情報を抜き出せる立場となれば結構な年齢だ。自主退職では逃げられない。間違いなく収監される。長年積み上げたものを全て喪う覚悟。
では、恩給以上の価値を警護士が持つか、と考えると首を傾げてしまう。
「まあ自業自得だが、問題はその後だ。全員を拘束検挙しなきゃならん。今月終了する研修生も結果は予想がつく。CGOの機能が停止しかねない」
より深刻な表情を浮かべた大藪に、弓弦羽も考え込んだ。
「特別利益の供与は懲役三年から十年でしたね……実刑から今後の勤務日数を引いたり、働き如何で減刑とか」
国民は法の下に平等なんだぞ、と大藪が唸る。
「となれば、自衛隊出身者を大量採用するしか道はありません。隊員自身もやる気のあるものが多いです」
「警察出身者は駄目か?」
「現組織で異病者対応している警察に対し、自衛隊員は目の前で異病者が暴れても実力介入できません。国民を守るという誓約は外敵にだけ適用されるものではありません。災害救助に出動する理由も国民を救うためです。CGOに移動した元自衛隊員の多くの動機はそれでしょう。でも現在は幹部職のみに限定され、下士官と士は参加できません。ここに解決策があると私は考えます」
田原だけでなく大藪も頷いた。
「関連法制度の早期改革が必要だな。解った、上申しよう」
「本件を今暫く考えさせてください。何か引っかかるので」
大藪は茶碗越しに、田原は団子を咥えて弓弦羽を見た。
「業務絡みだから構わんよ」
「ありがとうございます。では早速ですが、企業の登記事項証明書と……」
授業の合間に顔を出した瀬織は、中佐の置き土産に顔をほころばせた。ソファに座って幸せそうに団子を頬張る彼女に、熱い緑茶を淹れて差し出した弓弦羽は彼女の笑みを見詰めて微笑む。
「凄く美味しい! 皆にも……あれ? お店の名前がないね」
包み紙をチェックした彼女が首を傾げた。
「中佐に御願いしてみようかな」と呟いた彼女に弓弦羽は苦笑する。
「静岡東部のCGOを統べるあの中佐をパシリにつかう気かい」
「滉が頼めば大丈夫だと思うけど」
「なんだって?」
眼を瞬く弓弦羽に瀬織が笑った。
「凄く気に入ってると思うよ? そうでなければ、お気に入りの逸品をごちそうしたりしないでしょ」
ないない、と弓弦羽は首を横に振る。
「俸給自主返還の件は音沙汰なし。それに年中怒鳴られる。問題児押しつけられて苦労しているんだよ。胃潰瘍が悪性腫瘍になる日も近いかもな」
そうかなあ、と首を傾げる彼女に弓弦羽は微笑んだ。
「唇の右脇に餡が付いてるよ」
あ、と声を上げた彼女はお手ふきを手を伸ばした。が直ぐに止め、代わりに弓弦羽に唇を突き出して微笑みかける。
弓弦羽が指先で拭おうと指を差し伸べる。と、彼女は怒って見せた。
「滉のちょっとした思いやりが私を幸せにするんだよ。やりなおし!」
小さく頷いた弓弦羽が肩に手を添えて顔を寄せる。彼女は目を閉じた。そっと舐め取る間、彼女は息を止めていた。
「今、唇にキスしてくれたね」
耳まで染めた彼女に、弓弦羽は微笑み返した。
「策士め。餡にキスしたのであって国外に侵入しておりません」
「そうきたか……滉って石橋を叩く以前に考え込んで動かない腰抜けだったんだね。私だって国民なのに、自衛隊員の誓約を反故にするんだ。信じられなくなりそう」
膨れる彼女の頬をそっと撫でつつ弓弦羽は心の中で己を呪った。過去をそして現在も。
「ごめんな……待ってくれるか」
「不承不承ね。私、好物は一番最後に食べる主義だから」
頬に触れる弓弦羽に手を添えた彼女がじっと見詰めた。
「それにね、滉が慎重で嬉しい。でも焦れる私の気持も解ってよ」
弓弦羽は苦悩し戸惑う。だが表情は変えなかった。
「うん……ごめん。性分なんだよ」
学生食堂のある八号館に向かう弓弦羽は傘を差し、纏わり付く湿気と熱を無視してフライトジャケットを着ている。脱いだそれを腕に掛けるのも、肩に背負うのも弓弦羽は苦手だ。みっともない格好はするなと防大で先輩に叩き込まれた。シャツの裾を仕舞う癖が染みついたので、Tシャツやポロシャツであってもパンツインしがちだ。同じ理由でどんなに寒くてもポケットに手をいれて暖を取ったりはしない。
自衛隊時代から変化したのは、雨が降れば傘を差すようになった点だ。防水カバーをつけた制帽もケブラー製ヘルメットも被らない今だからこそ。
めざとく弓弦羽を見つけた瀬織が入り口階段で大きく手を振った。今日の彼女はノースリーブのシャツにスカート、そしてヒールの低いサンダルだ。左手を挙げて応えた弓弦羽の頬が緩む。
「お疲れ様。一階と二階どっちにします?」
八号館は上下階にそれぞれ食堂がある。広い一階は定食物が、少し狭い二階は手作りパンがウリだ。弓弦羽の個人的見解では二階は女性の比率が高い。
「金曜日だからカレーかな。瀬織君は?」
周囲に水滴が飛び散らないよう注意しつつ傘の水気を切った弓弦羽が問う。
「今日はサークルがあるからご飯物ですね。じゃあ一階で」
傘袋に傘を入れ、揃って食券機の列に並ぶ。順番を待つ間もたわいない会話を交わす。以前は空いた時間に一人で食っていたが、瀬織のお陰で規則正しい生活になった。それだけではなく、曜日感覚も取り戻した。
瀬織はA定食、弓弦羽はカツカレーの券を買った。
先にトレイを手にした弓弦羽は、少し離れた列に並ぶ津佳沙と眼で会話をする。先に行って席を確保しておくよと。彼女は微笑んで頷いた。
「おまたせ!」
横に座った彼女が箸を取るのを待って、弓弦羽もスプーンを握る。
周囲の学生は、誰も弓弦羽に興味を示さない。CGOが構内にいるのは、もう周知の事実だ。
今日のA定食は千切りキャベツたっぷりのチキンソテーだ。ご飯と味噌汁そして香の物が付いている。弓弦羽のカレーはサラダ付きだ。トンカツは案外厚い。
マナー的には問題だけどと笑いながら、弓弦羽はカレーをまぶしたカツを彼女に勧める。
「ありがとう。じゃ、チキンあげる」
向かいのテーブルに柴多と須古がやって来た。弓弦羽と眼で挨拶を交わすが、おかずの交換に気を取られた瀬織は気付かない。
「うーん、美味しい……ねえ、金曜日はカレーに決めてるの?」
弓弦羽が笑う。
「曜日感覚を保つためにね。海自の艦艇がそうやっていると聞いて真似したんだ」
休み無しだもんね、と瀬織が心配げに弓弦羽を見詰めた。その眼に弓弦羽の胸がちくりと痛む。
付き合いだしてから瀬織も土日関係なく詰め所で過ごしている。彼女は勉強に都合がいいからだと言うが、図書館に行くのは日に一度程度だ。弓弦羽は例の考察や書類仕事を、彼女はレポートを書きながら時間を共に過ごす。帰りは二人で買い物をしたりもする。彼女の胸元に輝くネックレスは、その時購入してプレゼントしたものだ。瀬織の友人達は口にはしないが、当然二人は男女の関係にあると想像しているらしい。
「でも……どうせならもっと美味しいカレーを食べてもらいたい」
姿勢良くカレーを食べる弓弦羽のスプーンが止る。
「カレーも得意なの?」
得意ってほどでもないよ、と彼女は笑う。
「案外難しいよね。陸自は隠し味にコーヒー牛乳使うけど、俺がやると。鍋が小さすぎるのかな。100人分一括製作した時は文句でなかったよな」
苦笑いで締めくくった弓弦羽に彼女は眼を瞬いた。と、前の二人が席を立った。直ぐに柴多と須古が移動し、賑やかに挨拶が交わされる。
「うちではインスタントコーヒーを使うよ。弓弦羽さんのと少し似ているね」
須古の発言に三人がどよめいた。
「うちのママは確かチョコをほんの少し、あと無糖のヨーグルトをどばっと」
津佳沙は、と問われた彼女が躊躇った。勿体ぶるなと急かされて漸く応えた。
「ビール。肉を炒めた後、ビールひたひたで煮込んでから水を入れるんだ。それとニンニクとショウガの摺り下ろしを少量。変かな」
シチューと同じで肉が軟らかくなるのかな、と柴多が尋ねる。
「うん。少しの苦みが辛さを引き立ててくれるし、飲み残しでいいんだよ」
そりゃ美味そうだ、と弓弦羽も持ち上げる。
「カレーは沢山作った方が美味しいけど、そうなると続いちゃうからねえ」
味噌汁を啜りながら考え込んだ瀬織が顔を上げた。
「そうだ。来週金曜日、皆でカレーパーティやろうか!」
パーティーを話題に盛り上がっていると、弓弦羽のスマホが喚きだした。周囲が一気に静まる。口に入れたばかりのカレーを一気に飲み込んだ弓弦羽が画面を注視する傍らで、自分のスマホは反応していないと知った瀬織の顔色が白くなった。
「長泉の桜堤だ」
スマホをポケットに押し込んで立ち上がった弓弦羽に食堂全体の視線が集中する。
「気を付けて、大尉。あとは私が」
瀬織に頷いた弓弦羽は、傘を無視して掛けだした。椅子から立ち上がった瀬織が見送る。その顔色に柴多も須古も声を掛けられなかった。
雨ざらしのCBに跨がった弓弦羽は、尻が濡れるのも構わずエンジンを始動する。燃料噴射式の水冷エンジンは即唸りをあげた。スマホをホルダーに噛ませてからヘルメットを被る。慌ただしく顎紐を留める弓弦羽がブームマイクに吹き込んだ。
「管制、弓弦羽。これより移動開始」
分厚い牛革のグラブにかかる。
「こちら管制。現場は桜堤通りのショッピングセンター。詳細はまだ不明」
「弓弦羽、地図にて確認。出る!」
スタンドを蹴り上げ、クラッチを握り締めてシフトアームを蹴り下ろした。それからサイレンのスイッチを入れる。雨粒がへばり付くシールド越しに、行き交う学生が慌てて退くのが見えた。
「こちら管制。車両情報受信良好」
クラッチを繋ぐ弓弦羽は内心首を傾げた。そういえば先日車両のチェックに来てくれた。その時なにかしたのかなと思いつくが頭から押し出した。濡れた路面を勘案して滑らかに走り出す。守衛さんが今日も交通整理をしてくれている。何時も喚いている連中も脇にどかされている。CGOの駐在に反対する連中だ。
右の方向指示器を閃かせ、大きく右にバンクして県道に乗り入れた。現場までは直線で一キロ一寸。道路は幸いにも空いている。左折予定の交差点は青信号だ。弓弦羽はギアを二速に蹴り上げてフル加速する。
シールドに付着する雨粒が風圧に吹き払われ出した。雨でタイヤのグリップは悪化するし、横断歩道の白線もスリップの原因になる。だが信号が青のうちに通過したい。この速度を維持して、そして最小限の減速で左折しようと弓弦羽は判断する。
その時、左側の税務署駐車場から一台の白いエルグランドが飛び出した。右折も左折もせず、反対車線で停車していた車にぶつかって停止する。
弓弦羽の身体に戦慄が走るより早く、右手と右足が自動反応した。
フルブレーキで生じた慣性でCBはフロントフォークをフルボトムさせつつアンチロックブレーキを作動させた。弓弦羽は車体を垂直に保つ。
急激に車速が落ちる。が、絶対間に合わない。窓越しに運転手が歯をむき出して笑うのが見えた。
逃げ場はない。スリップダウンを考えた弓弦羽だが直ぐに放棄した。何も出来ない。弓弦羽は覚悟を決めた。時間の流れが急に遅くなる。
津佳沙の笑顔が脳裏に浮かんだ。それが弓弦羽の覚悟を別ベクトルに発展させた。迫る白い壁を前に気を奮い立たせ、タイミングを計る。
右グリップ根元のキル・スイッチを押し込みざまにグリップから両手を離し、同時に左右のフットレストを思い切り蹴りさげた。
CBのフロントがエルグランドの横腹にめり込み、慣性でリアが跳ね上がる。跳ね上がったフットレストが足裏にぶつかって跳躍に勢いが付く。だが回転がかかって、ヘルメットの一部がサイドルーフに引っかかった。何とか超えたが回転が強まる。
黒い曇天が、雨に濡れた路面が、そしてエルグランドの白い車体が異様な遅さで巡る。
押さえようのない絶叫が弓弦羽の口から飛び出た。廻る風景にまた彼女の笑顔が混じる。嫌だ。死ぬのは嫌だ! その一言だけを強く意識する。
遠心力に逆らって身体を少しでも丸めようと足掻くうちに、背中と頭部に凄まじい打撃を受けた。思わず眼を堅く瞑る。
滑っていた身体が止まった。恐る恐る目を開けた弓弦羽は薄暗く真っ赤な視界に恐怖した。
頭が割れたかと浅く喘ぎながら眼を瞬く。徐々に明るさが増し、赤みが失せていく。青々とした銀杏の枝葉、そしてその向こうの曇天を弓弦羽は感謝しつつ見上げた。
起き上がろうと身じろぎした瞬間上体に走った激痛に耐えきれず仰向けに戻った。右手そして左手。ついで右足と左足を動かしてみる。
痛むが動く。次の瞬間、弓弦羽の意識に義務感が甦った。
胸部の痛みを堪えて大きく深呼吸し、掛け声を掛けて一気に身体を横に向けた。激痛に喘ぎ、藻掻きながら吐く。必死の思いで膝を突く。汚れ、変形しかかったヘルメットを外し捨て、腰の拳銃を確かめた。
何度も失敗したがなんとか立ち上がる。
三十メートルほど離れたエルグランドの中にも周囲にも運転手はいない。点火系電気回路を切断したからか、CBから火は出ていない。
喘ぎよろめきながらCBの元に戻った。が、スマホは壊れている。私物の携帯を取り出したが、それも壊れていた。
「誰か、携帯を貸してくれ。連絡しないと!」
見知らぬ男が渡してくれた携帯で支部に連絡をとれた。
路肩にへたり込んだ弓弦羽に周囲の人が声を掛けるが、返事すら出来なかった。
護れなかった。頼む、誰か急いでくれ。この二つだけが弓弦羽の脳裏を占めていた。
三島中央病院の一室に天井を睨み付ける弓弦羽の姿があった。
背中を強打した結果、肋骨が三本折れた他多数のヒビがはいり、内蔵にもダメージを負った。ヘルメットのお陰で軽度の脳震盪で済んだのが不幸中の幸い、と医師は言った。視界が赤黒くなったのはそれが原因らしい。
「大尉!」
駆け込んできた田原に顔を向けようとした弓弦羽が呻く。背中一面が猛烈に痛み、息を吸えない。
漸くのことで呼吸を再開した。噴き出した汗を田原がハンカチで拭ってくれる。
「しぶといだけが取り柄でよかったよ。どうなった」
田原は躊躇した。弓弦羽に眼で急かされて漸く口を開く。
「盗難車の運転者は逃亡しました。警察が調査中です。私たちが提供した資料で間もなく特定できるかと」
弓弦羽が聞きたかったのは異病者の対応結果だが。
「資料?」
頷いた田原少尉が説明を始めた。弓弦羽のバイクは、先日の整備時にドライブレコーダー的機材を搭載された。サイレンのスイッチで連動するそれは、映像と車載コンピューターのデーターをスマホ回線経由で支部のサーバーに送ると。
「一部始終を把握しています。運転手が故意に車を停止したと判断しました」
「あの野郎、俺を見て笑っていやがった」
一罰百戒、と弓弦羽が呟いた。CGOへの公務執行妨害は死刑もあり得る。
「桜堤の現場は?」
十一名が死亡した、と言いにくそうに田原が答える。
弓弦羽の顔が歪み、両手が握り締められた。その姿を彼女は辛そうに見、そして顔を逸らす。
目を瞬いて大きく深呼吸してから田原を見詰めなおす。
「一寸教えてくれ。あの件で中佐は調査を上申したんだよね」
ええ、と田原が頷く。
「どの程度報告したか解る?」
法務局から入手した資料を基に、大尉が現在も調査していると担当者に説明した程度と答えが戻った。三日前の件も一昨日と言って彼女は黙る。
黙考を終えた弓弦羽の眼が仕切りのカーテンをねめ回した。六人部屋だ。半分程度は気分転換で部屋の外をうろついているようだが。
書くものをと弓弦羽は彼女に要求し、自分で電動ベッドを起こした。弓弦羽はまた汗にまみれる。
制止しようとする田原を目で制し、ペンを握る。乱れた字を書き殴る弓弦羽を少尉は心配げに見守った。
「これを中佐に直に伝えてくれ。今すぐ支部に戻るんだ」
彼女を見送った弓弦羽は顔を引き攣らせ大汗を掻いてトイレに向かう。赤い尿に顔を顰めた。
戻る途中で看護師に見つかり、こっぴどく叱られる。医師は尿道カテーテルの装着を再主張するが、弓弦羽は断固として断った。
真っ青な顔で駆けつけた瀬織を何とか宥めた。それでも彼女は泣きそうな顔で弓弦羽の汗を拭い続ける。
「本当にすまない」
弓弦羽は謝り続けだ。一緒に来た柴多と須古にも謝った。
「ちゃんと治してね。津佳沙が心配するんだから」
「あー、いや。ちょっと訳ありで今日のうちに退院するよ。二人に御願いがある。俺の状態は絶対口外しないで」
愕然とした瀬織に弓弦羽はまた謝った。
「中佐が先生と電話で話している。詰め所に戻ってから話すよ」
詰め所のドアを潜るまで弓弦羽は苦痛を堪えて普通に振る舞った。胸部を圧迫固定するコルセット頼みだ。
だがドアが閉まった瞬間動けなくなった。時間が経つほど痛みが耐えがたくなるのを自覚する。慌てる瀬織に縋ったまま、田原に窓のブラインドを完全閉鎖してもらった。田原が用意した椅子にしがみつき、乾ききっていないチノパンや背中一面に擦り傷が付いたフライトジャケットを脱ぐ。瀬織がかいがいしく手伝ってくれた。
漸く椅子に座った弓弦羽はタオルで顔の汗を拭った。
「ありがとう、助かった。ごめん、お茶を貰えるかな」
囁くような声で遠慮気味に瀬織に頼むと彼女は直ぐ応じてくれた。
「少尉も好きな物飲んで。説明するよ。三好警護士の件を調べていて……」
弓弦羽は最新の考察を瀬織に伝えはじめる。彼女なら構わないと中佐は認めてくれた。彼女の調査は終わったわけだ。
「最初は企業間の繋がりが解らなくてね。単純な利益供与かと思ったけれど、一つの共通項に気付いた。二人の国会議員に政治献金しているんだな」
田原は目を細め、瀬織は目を瞬いた。
「それが何を意味するかを考えている。で、今日だ。出動を妨げるのが目的じゃないよ、あれは」
瀬織が震え声を出した。
「それって……暗殺?」
唇をへの字に曲げて弓弦羽は頷いた。
「反対派の妨害かもしれない。でも連中が最初から過激な手段に訴えるのは妙だ。あの遣り方で市民の共感を得られるか? 逆効果だよ」
二人が渋々の態で頷いた。
「ごく一部が暴走した可能性はある。でも俺が政治家ルートを探り出したのが原因の可能性もあるだろう。内偵を知るのはCGOの一部だ。そしてガーディアンの情報にアクセスできるのも同じ階層。やれやれだ」
弓弦羽がぎこちなく二口お茶を飲む。カップを置くのを待って、瀬織が退院を強行した理由を聞いた。
「病院は怖い。安全なのは手術室だけだよ。チーム全員が顔見知りだからね。でも他は? 医療関係者、見舞客、患者そして背広を着た薬品会社の社員。急死しても内蔵損傷が原因と思われるだけだ。あそこで眠る度胸はないよ。だから痛み止めも拒否してここに逃げ込んだわけ」
両手で己を抱きしめて瀬織が震える。コーラを手にして突っ立っている田原も深刻な表情だ。
「どうするの?」
暫くして瀬織が問いかけた。
「俺がダメージを負っていると知らせるわけにはね。だから普通に過ごすよ。異病が発生しないのを祈るばかりだ。湯浅君の手を……そうだ、少尉。青バイを手配してくれ」
「何言ってるんですか、大尉! そんな有様で乗れるわけがないですよ!」
苦笑いとともに弓弦羽は頭を振る。
「新しい青バイがあるだけで誰かは信じるさ。あの野郎、ぴんぴんしてやがるってね。頼むから」
呆れ顔でぶつぶつ言いながらも彼女はスマホを手にした。
「滉、私が付き添うから。着替えでもトイレでも、何でも言って」
遠慮しかけた弓弦羽だが、直ぐに諦めた。一人ではなにもできない。大人しく入院できない我が身を呪う。
「ありがとう、津佳沙。でも人の目がある時は、俺も自分で――ん?」
田原が遠慮気味に、だが断固として指で二の腕を突いていた。
「大尉。素敵な彼女と盛り上がっているところ、まことに申し訳ありません。ですが電話です」
瀬織との仲がばれたと知って、弓弦羽が唇をひん曲げた。突き出されたスマホをぎこちなく受け取り、耳に当てる。
「はい、ゆづ――」
慌てて耳から遠ざけた弓弦羽は背中に走った激痛に顔を顰めて呻く。凄まじいばかりの怒声はハンズフリーでなくてもはっきり聞き取れる。大尉の代わりを手配するのにどれだけ苦労しているかわかっているのかと喚くスマホに、免疫のない瀬織は唖然とし、免疫のできた田原は呆れ顔で弓弦羽を見ている。
暫く経った。弓弦羽が用心深くスマホを耳に戻す。
「中佐を巻込んだら申し訳ありませんと先に……いえ、調査活動を煽ってください。それが中佐の安全に繋がります。青バイの手配を御願いします。私も健在をアピールしないと。あとスマホも……始末書ですか。今すぐ書いて田原君に渡します。青バイとスマホで……了解、ヘルメットの分もですね」
デスクまで椅子を押す瀬織に気取られないように弓弦羽は溜息を吐いた。同僚の幹部連中と結託して、始末書のひな形は二十ほど用意してあるから作成は左程手間ではない。でも。この状況でも始末書を要求するお役所仕事には愛想が尽きる。南スーダンでは、と心の中で呟く。弾切れの八九式小銃を放棄したが、万が一を考えて簡易分解してボルトだけを持ち帰った。あの時はそれで一切おとがめ無しだったのに。
横で寝る瀬織の気配を探り、弓弦羽は微笑んだ。間違いなく狸寝入りだ。離れているが安らぎを感じられる距離にいてくれる彼女に感謝した。
自宅のドアを潜るまでは完璧だったなと思い返す。三十分後、食材の入った袋を手にした彼女は普段通りに訪問した。だが彼女はキッチンに向かう前に二階に上り、ベランダを仕切る防火壁の下部をドライバーで外した。これで近所の目を惹かずに彼女は行き来できる。
温かい料理を食べさせてもらい、蒸しタオルで身体と髪を拭いてくれた。そしてトイレも嫌な顔一つせず付き添ってくれた。
「滉。どうしたの?」
彼女が身体を起こした気配を感じた。温かい手が弓弦羽の涙を拭う。
目を瞑ったまま弓弦羽は答えなかった。心配だから寝具を持ち込んで床で寝るといった彼女。それは余りにと断った結果、今彼女は横にいてくれる。拳銃を枕元に置いて。
「滉」
「諦めかけたとき……津佳沙の笑顔がちらついた。死にたくなかった」
彼女は何も言わず、ティッシュで涙を拭き取り続ける。
「でも……俺は津佳沙に何が出来るんだろう」
「支えてくれてるよ」
止めどなく流れる涙を止めることも出来ず、弓弦羽は呻いた。
彼女は弓弦羽に身体を接して頭部を抱きしめる。パジャマ越しの温もりと共に彼女の吐息が顔にかかった。
最後まで彼女を護る。そう心に誓った弓弦羽は目を開けずにその感触に身を委ねた。
でも。俺が死ぬのはしょうが無いとしても、もし彼女を護りきれずに俺だけ生き残ってしまったら。弓弦羽は新たな問題に苦悶する。
八号館で昼食を済ませた弓弦羽と津佳沙は、十二号館に戻る道すがら正門横の掲示板に立ち寄った。休講案内を含む連絡事項が張り出される掲示板を見る学生は多い。ネットでも同じ情報がアップされるが、通りすがりに見れば手間もないからだろう。
横の小さい学生専用掲示板も人気だ。こちらはサークルの活動告知や人材募集。アルバイト情報を得るには本館学生課に足を運ぶ必要がある。
新しい桜色の傘を差した彼女が一枚の掲示物を指さした。
「大尉。大学院の入学試験の案内が出ましたよ」
人目のある場所では二人は互いを改まって呼ぶ。
「九月に受け付け、試験と発表は十月か。瀬織君は来年だね。準備は?」
通常より低く、そして余り抑揚を付けずに弓弦羽が応じる。
「ずっと続けているけど、夏休みから本気出します。英語での口述試験が心配で」
不安が顔に出た瀬織に、弓弦羽は同情した。
「不安なら質問者に質問の意味を確認してから答えるべきだし、難しい表現は止めた方がいい。簡潔に答えるのが一番だよ」
「試験官、少しは手加減してくれますよね」
「それが案外やりたい放題。性格出るよね、そういう場面で」
唸る彼女に声は出さず笑って見せる。声に出して笑うと胸に痛みが走るからだ。
「どんなだったか詳しく教えてください。そうだ、模擬口述試験、やってくれませんか」
「いいよ。黒い本性むき出しで突っ込みまくろう」
と、背後から弓弦羽に声がかかった。
「大尉さん。四日前の件でお話したいのですが。いいですか」
片手に傘を、反対の手で印刷物を抱えた、ひょろりとした男が弓弦羽を見上げていた。どこかで見た覚えがあるな、と内心首を傾げそして得心した。
「十三時までに終わるなら、構いませんよ」
反対派が何のようだと思いつつも弓弦羽は和やかに頷く。さっさと椅子に座って安静にしていたいのが本音だ。事件の翌日は最悪だった。体力勝負で内蔵の組織更新は順調の様子だが、肋骨のヒビはそう簡単には治らない。
「彼は私たちの一員でした。でも、私たちの共通認識から逸脱した様子です。事態が解った時点で、全員一致で除名しました。あなたには申し訳ないことをしたと皆が考えています」
犯人は反対派学生の一員と判明した。確か明日、公務執行妨害と殺人未遂容疑で全国に手配されるはず、と弓弦羽が思い出す。
「人が増えれば意思の統一は難しいですからね。でも、あなたたちもそういう目で見られてしまう。学生諸氏にも除名をアピールすべきでは?」
まあこのくらいの嫌みは許されるだろう、と弓弦羽が突いた。
「あなたには関係ない! 言いがかりで我々の標榜を貶めるのは止めてください」
「それは諸君の認識不足ですよ」
眉を寄せた男に微笑みながら首を傾げてみせる。
「例えば。私が君を殴りつけたとする。あなたはCGOは公式に謝罪したからCGOは関係ない、悪いのは弓弦羽だけだと宣言しますか?」
反論しようとした口を閉じ、唇を噛み締めた男が俯く。
「……我々はCGOの存在が許せない。異病者も人間なのに。人殺しの集団が偉そうにしているのは絶対間違いだ」
「確かに人殺しです。ではあなた方は異病者に殺される市民については諦めろというのですか」
「逃げればいい。簡単なことだ」
吐き捨てるように言った男に弓弦羽はゆっくり頭を振った。
「あの常識外れな敏捷性、持続力を無視しちゃ駄目でしょう」
それは、と男が口ごもった。
「私が倒した相手は発病した異病者と武装した相手のみ。ともに殺意を持って私と相対した。無抵抗な相手、害意を持たない相手を殺傷したことはありません」
顔を上げた男の目に反抗心が揺らめいた。
「南スーダンの件は調べたぞ。夜も殺し合っていたそうじゃないか。逃げる相手を撃っていないと断言できるのか。難民と間違えていないとなぜ断言できる! 暗いのに相手をはっきり識別できるわけがない!」
含み笑いをする弓弦羽に男はいきり立った。それまでは無関心だった他の学生が二人に意識を向ける一方、瀬織は心配げに弓弦羽の横顔を見ている。
口角に泡を溜めて叫ぶ彼を弓弦羽はやんわりと手で押さえる。
「難民キャンプから離れた荒野が戦場になった。そこに住む民間人はいない。水がない場所では暮らせないからね。難民を収容できる場所はその一画しかなかった。利便のよい場所は既に満杯だ。PKOが水道や道路を大急ぎで作った理由はそれ。
では荒野を歩いてキャンプに向かう難民がいたか。キャンプに入れずあぶれた難民がエリア外で暮らしていたか。いや、武装勢力に見つかれば即嬲り殺しだ。武装勢力の目的は二つ。自分と違う種族の根絶とそれを邪魔するPKO部隊の撃滅。難民だって自分の安全を第一に考える。君が難民ならわざわざそこを通過するか? 留まるか? PKOは彼ら用の道路を用意した。
弓弦羽と男を取り巻く学生達が数を増す。弓弦羽は目前の男に意識を集中して続けた。
「次。逃げる相手を撃たなかったかという質問に。夜間行動する予定じゃなかったから暗視装置は携帯していなかった。肉眼で暗闇で相手を探るのは至難の業。暗いから安全だと突っ立って動く奴はいない。身を屈めて、時には伏せて地面と同化するわけです。ではどうやって相手を識別するか。銃火だよ。逃げる相手は撃ってこない。だから銃火は閃かない。私にとって怖いのは撃ってくる相手だから、当然銃火を狙って反撃した」
反対派の男の目が泳ぎ出す。
「それに戦意を喪って恐慌状態にある相手は、後方に走り込ませて敵の混乱を助長させたほうが役に立つ。相手の懐深く潜り込んで同士討ちさせていたからね。銃撃する奴を撃つ以外は自分が安全に移動する時間に利用する。向こうもこちらの銃火目がけて撃ってくるんだから、逃げる奴を無闇矢鱈に狙撃しても自分を危険に晒すだけでしょ。私の銃火も当然敵に視認されるし、そもそも弾の無駄遣いだよ」
取り囲んだ学生から笑い声が聞こえる。男は何か言おうとするが言葉にならない。
「さて、では先の逃げればいいという提案を考えよう。すばしっこいから運次第だね。補足されるのは運の悪い人。友人でも家族でも見捨てられる人ならそれでいいだろう。君はそうするの?」
「私にも発言させて」
瀬織が半歩前に出た。
「異病者に捕まった子供を助けようとした母親に手を貸して、二人を逃がしたけれど殺された人がいる。頭を握りつぶされてね。そういう人にあなたはなんて言うの? お人好しの馬鹿だって言うの? 私の父は馬鹿だったの?」
弓弦羽は正直驚いた。父親の死については彼女から聞いて知っていたが、詳細は……瀬織の肩を数回軽く叩く。弓弦羽に向けられた眼には涙が浮かんでいた。
言葉に詰まった男に援軍が来た。地味な女学生だ。
「一例で全体を論じても無意味だ! 緊急避難という言葉をしらないのか!」
弓弦羽がゆっくり頭を振った。
「沈没しそうな客船で仮定してみよう。客船には乗員乗客全てを乗せても余る数の救命ボートが用意されている。万が一を考えての準備。これが安全保障です」
男と援軍の二人が聞いているのを確認して弓弦羽は続ける。
「でも実際には上手くいくかは解らない。沈み方によっては、その半数も使えないかもしれない。それが現実だ。そのボートに乗るのを争う場面もあり得る。これが緊急避難で、後日処罰されることはない。
君たちの逃げればいいという主張は、客船には救命ボートを用意するな、飛び込んで泳げば済むというのに等しいんだよ。泳げない人、溺れる人、子供や老人のことは考えていないわけです」
口を開こうとした二人を手で押しとどめる。
「まあ、最後まで聴いて。その客船に君たちが乗るのは自由。でもね、他の人に乗船を強要してはいけないのでは?」
見守っていた学生から肯定のざわめきが漏れる。
「最悪を考えるのは難しい。でもそれを考えて、可能な限りの対処をはかるのが安全保障だ。完璧な対策じゃないけれど今はやらなきゃならない。そう考える人もいる。君たちのように考える人もいる。民主主義はかくあるべし。CGOよりいい案を皆さんはお持ちですよね。是非発表して下さい。どのような対案ですか」
顔面に汗を光らせて黙り込んでしまった男にかわり、弓弦羽を睨めつける女学生が鼻を鳴らして頭を振る。
「もっともらしく聞こえるけどさ。CGOに反対する私たちが巻込まれたら、あんたはどうする。救命ボートに乗せる場所がないと見捨てるんだろう?」
それは実に魅力的なと内心笑う弓弦羽だが、表情は真面目を保って答えた。
「私たちは異病者かそうでないかを判断し、異病者を制圧するだけです。その誓いのうえでこの徽章を着けています」
シャツの襟に留まる竜胆のバッチを弓弦羽は指で示す。でも後で馬鹿らしくなるだろうけどね、俺たちも人間だからと弓弦羽は胸の内で続けた。
「英雄ぶりやがって! 綺麗事のプロパガンダなんて真っ平!」
女学生が吐き捨てた。弓弦羽の両眉が一気に下がる。
「やめてくれ。英雄なんてのは権力者に都合がいいから作られた存在だ。私は権力に尻尾を振ったことは一度もない。人殺しと呼んでくれたほうがまし。もういいですか」
「まだだ。弓弦羽さん、あんたを襲った矢木の件だ。聞くか?」
最初の男の目に不穏な光が閃いている。それに気付いた弓弦羽だが頷いた。
「矢木は母親を異病者に殺された。でも我々の活動に共鳴したんだ。あんたはどう思う?」
ほう、と弓弦羽が呟いた。周囲は固唾を呑んで弓弦羽の返答を待っている。警察は既に反対派に注目していないから問題ないなと弓弦羽は判断した。
「大阪府出身、国際交流学科一年生の矢木隆行で間違いないかな」
彼らが頷く。
「彼の両親は健在だよ。それに彼は日邦大の学生じゃない。本名矢野俊之、二十七歳の自称自営業者。でも仕事の内容は不明。彼は盗難防止のイモビライザーシステムを解除して車を盗んだ。素人には無理だよ。変った素性の人間を仲間に迎えたね、君たち」
二人が絶句した。離れた場所で見守っていた反対派の一行も同様だ。純粋なお馬鹿さんたち、と弓弦羽は内心で溜息を吐いた。
「そんな……」
漸く言葉を絞り出した男に肩を竦めた。
「人が沢山集まるとね、そういうものだよ。でも人を利用するより――」
構内の奥から響く悲鳴と絶叫に弓弦羽だけでなく、その場にいた全員が凍り付いた。その方角を怯えた目で皆が見る。短大部が使う校舎の方角だ。
「見てきます!」
傘を放り出して瀬織が駆けだした。彼女を追おうとした弓弦羽だが、数歩走っただけで胸を押さえて膝を突く。胸が猛烈に痛み息ができない。
呻きながら身体を引き起こした。十二号館脇に駐車した青バイに血走った目を向ける。
喘ぎよろめきながらも何とか辿り着いた。新たに支給された青バイはCB一三〇〇ではなく、軽量で自動ギアのNC七〇〇Xだ。
水冷二気筒エンジンが目を覚ました。親指でボタンを押し込み、ローギアで引っ張れるスポーツモードを選択する。メーター内の表示でギアを確認する手間も惜しんでアクセルを大きく捻る。ヘルメットは右ミラーに引っかけたままだ。
緩慢な加速に毒づきながらサイレンのスイッチを入れた。逃げてくる学生が左右に分かれる中、風圧で涙を流す弓弦羽の眼は瀬織を探し求める。流水広場を通り過ぎた。
銃声が一発だけ響いた。弓弦羽の胸中に湧いていた不安が一気に溢れ出す。
本館より更に奥の九号館脇で瀬織を見つけた。
学生二人にしがみつかれた彼女は藻掻いていた。一人は腰に、もう一人はよりによって瀬織の両手にしがみついている。異病者と思われる太り気味の女学生が三人に迫っている。しがみついた二人がその女学生を見、恐慌を増した。
弓弦羽はアクセルを緩めずに異病候補者の移動速度を測り、未来位置に方向を微調整する。
距離が縮まる。目標の表情を確認して異病者と弓弦羽は認定した。
異病者にぶつかるその瞬間、時間の流れが遅くなった。
異病者の左腰にNCのフロントが吸い込まれる。弓弦羽の身体が浮き上がった。
リアを跳ね上げたNCと共に弓弦羽も異病者にぶつかった。異病者が放つフローラルな香りと共に血の臭いを嗅ぐ。
ハンドルから手がもぎ取られる寸前、何とかキルスイッチを押し込んだ。
吹っ飛ばされた弓弦羽はNCが異病者を押し潰すのを一瞬見届けた。恐怖より満足が勝った次の瞬間、剪定された植え込みを一瞬で突破して、校舎のガラス壁を突き破った。
通路で漸く止まった。
咳き込み喘ぎながら懸命に身体を起こし、目眩を堪えてデルタエリートを抜く。眼に入った血を乱暴に袖で拭った。まだだ、と何度も呟きながら立ち上がる。
ぶち割ったガラス壁から外に出た弓弦羽は、バイクを押し退けて立ち上がった異病者と目が合った。まだもみ合っている三人も視界の隅で捉える。意識せずデルタの撃鉄をフルコックとし安全を解除した。
「まだだ!」
弓弦羽の唇から掠れた叫びが放たれる。呼応するように吠えた異病者が突っ込んできた。血に塗れてはいるが、僅かに左足を引き摺り気味なだけだ。
素早く奴の腰に二連射した瞬間組み付かれた。また引き金を絞る。が、銃が反応しない。デルタはスライドを掴まれて、空薬莢の排出に失敗して噛み込みを起こした。奴は弓弦羽の首を右手で締め付けながら、一気に持ち上げる。
弓弦羽が銃把から手を離すより早くデルタがもぎ取られた。異病者はデルタを放り出した左手で弓弦羽の顔面につかみかかる。必死に奴を蹴飛ばし、内側から外へと左手を押して避ける。異病者に右肩と脇腹を殴られた。奴の左手を封じようと足掻くが、頚動脈を圧迫された弓弦羽の視界は古びたブラウン管テレビのように乱れ、色を失い始めた。チノパンの左ポケットを必死にまさぐる。
何とかナイフを取り出した弓弦羽はグリップの突起を親指で回すように押す。微かな手応えを痺れゆく掌に感じた。親指を戻し、確りハンドルを握りしめる。
奴の右側頭部にそれを力一杯叩きつける。堅い物を突き破る感触と同時に異病者が吠える。弓弦羽は残った力を振り絞り抉りまわした。
米国コールドスチール社の折りたたみナイフ、タイ・ライトだ。展開すると全長二十三センチほど。刺突に適した長さ十センチ、幅十七ミリほどの柳葉様の刃は、折れたり刃こぼれしない強靱さを誇るAUS八A特殊ステンレス製。
硬直した異病者の右手が緩んだ。落ちた弓弦羽はそのまま崩れるように倒れた。
喘ぎつつ気力を振り絞って膝を突く。左手に握っていたはずのナイフがないのに気付き、慌てて右ポケットを探った。右手の動きが悪い。
取り出したもう一本のナイフを左手に持ち替え、人差し指でグリップ背中の突起を強めに撫でるとタイライトより堅い手応えとともに刃が跳ね出た。米国カーショウ社の一七三〇SSナイフだ。スピードセーフという刃の展開補助機能を備えている。展開全長十七センチ半程度、刃渡り七センチ半ほど。灰色に処理されたクロモリ鋼の刃は切れ味鋭い。
立ったまま暴れる異病者の膝を横から払って転倒させ、奴の背中にのしかかった。躊躇わず奴のうなじ中央に刃を突き込み刃先で抉る。と、奴が大きく跳ねた。突き上げられて転げ落ちそうになるのを耐えて刃を抜き、左首筋を一気に掻ききる。鮮血が噴き出すのを認めた瞬間、猛烈に暴れ始めた奴に弾き飛ばされた。
起き上がろうと藻掻くが失敗した。脳への打撃は不足かもしれない。でも延髄を破壊したから大丈夫だろうとぼんやり考え、意識が薄れゆく理由を訝しく思う。轟音らしきものを聞いたような気がするが、目を開けていられず瞼が落ちた。
両脇に手が回されて意識が少し明瞭になった。なんとか目を開く。必死の形相をした瀬織に引き摺られている。
「滉! しっかりして、滉!」
答えようとしたが声が出なかった。身体が異様に冷えて震え出す。急激にそして猛烈に気分が悪くなる。
彼女の叫びが間延びし始め、手足が勝手に痙攣する。視野が狭まるにつれて彼女の顔が暗闇に覆われていくのに途惑い、その理由をぼんやり考える。
死ぬんだという意識が生じ、確信に変わる。哀しみは満足感が押し流した。それに満足したのを最後に、弓弦羽の意識は途切れた。
「ごめん。そろそろ帰って着替えないと……」
サイドテーブルに置かれた時計を見た瀬織が、申し訳なさそうに告げる。彼女の瞳の動きに弓弦羽は不安を覚えた。
三島中央病院の一室。報道陣だけでなく入院患者の耳目をも警戒したのか、CGOは弓弦羽に個室を用意してくれた。ナースステーションの真向かいなので、意識が戻ってからの二週間邪魔されずに過ごしている。
「一番上の引き出しから財布を出してくれるかな」
二枚の万札を左手でぎこちなく取り出した弓弦羽は瀬織にそれを渡す。右手は肩から肘をコルセットで固定されて殆ど動かせない。
「万城さんのご両親に。香典袋も御願いしていい?」
「うん……お葬式は明日の十時からでね。お昼の退院に間に合わないんだ」
弓弦羽は頭を振った。
「大丈夫だよ」
万城真悠が異病者に殺されたのは一昨日の夜だ。富士市の実家から通学していた万城は帰宅途中、東海道線の車内で異病者に遭遇して逃げ切れなかった。瀬織は強いショックを受けている。
「ごめんね。メールするから。じゃあ」
閉まったスライドドアに暫く顔を向けていた弓弦羽はなにか妙だと呟く。違和感は日々強くなっている。最初は気のせいか、点滴に混入される痛み止めのせいだと思っていた。より正確に言うなら、彼女に再会できた喜びが勝って気にしなかったが。
「なんだろう」
弓弦羽はこの二週間、絶対安静で過ごしてきた。ヒビが入っていた肋骨が更に三本骨折に変化した他、右肩の打滅損傷、頭部創傷と脳震盪が主な受傷だ。ガラスによる創傷は数え切れない。
出血性ショックは輸血で対処できたが、医師は二度目の脳震盪の影響を警戒した。CGOもそれに同意し、弓弦羽に入院加療を命じた。病院内でも銃を携行していいし、部外者の入室を禁じるからと言われて弓弦羽は異議を申し立てられなくなった。例の疑惑が気になるが、その後不審な出来事もない。少しだけ安心して過ごせた。だが退院後も暫くは療養生活だ。
瀬織も通常任務を解かれて予備扱いだ。彼女の場合は神納の指示による。弓弦羽はその理由を知る立場にないし、大藪や神納も、そして本人も口を閉じている。でも弓弦羽はそれが違和感に絡むのではと予想している。
「俺の行動だよな」
体当たりした上に負傷をおして異病者に立ち向かった幹部と、それを支援した警護士長の行動は巷で結構な評判らしい。少なくとも看護師はそう言っている。CGOの宣伝に使われたなと弓弦羽は思うだけだ。行動と実績を告知し、市民の理解を得る重要性は理解している。だが自分がその宣伝に乗る気は毛頭無い。
弓弦羽にとって大事なのはただ一つ、迷いが吹っ切れたことだけだ。弓弦羽は津佳沙にそれを伝える機会を待っていた。だが彼女の様子がおかしいと気付いてからは沈黙を守っている。
「どう思ったか……だな」
薄手のカーテン越しに窓の外を見た弓弦羽が呟いた。七月半ばの今、雨雲の切れ間から青空が覗いている。が、弓弦羽の眼は何も見ていない。
消灯時間を過ぎても目を閉じなかった弓弦羽は、廊下に満ちた悲鳴に慌ててベッドからおりた。サイドテーブルの引き出しからデルタエリートを取り出す。
人差し指は用心金に沿わせて左手親指で撃鉄を一杯に起こしてから、コルセットで固められた右手指でフレーム左後ろの安全装置を外した。軽く握りしめたそれを揺すって左掌に馴染ませる。
滑るスリッパは無視して裸足で廊下に出る。血相を変えて逃げ惑う入院患者を夜勤の看護師が金切り声を上げて誘導している。その流れに逆らって異病者を探した。
異病者は一階上にいた。倒れた人を踏みつけ、その足をもぎり取ろうとする老人を廊下の夜間照明が照らし出している。距離は二十メートルほどか。
躊躇せずに左足を半歩前に出した左自然体で力まず構えた弓弦羽は頭部を狙う。利き目である右目は軽く瞑り、左目で照準した。人差し指が引き金に掛かり引き絞りはじめる。急激に高まる精神集中が苦悶の叫びを意識外に押し出して……病棟を轟音が震わせた。
寝たきりの老人が発症したためか、今回の死者は本人だけで済んだ。衰えた全身の筋肉が幸いして瞬発力に欠けたらしい。重傷者五名で済んだと喜ぶべきか。弓弦羽は苦々しく頭を振る。
股関節を破壊された少女を宿直医に任せた弓弦羽は、その階のナースステーションで警官を待っている。脱出した患者の一部は一階ロビーで夜を過ごすつもりらしいが、現場から離れた病室の患者は自分のベッドに戻る決意をしたらしい。
「お兄さん……ねえ、おにいさん」
発砲の衝撃で痛む肋骨をコルセットの上から擦っていた弓弦羽は、繰り返された嗄れ声に気付いて振り返る。
カウンター越しに弓弦羽を見詰める患者と目が合う。五人を数えた。
「ありがとうねえ。皆の命の恩人だよ」
浴衣姿の老婆がカウンターに隠れるほど頭を下げた。残りも程度の差はあるが口々に礼を言う。
弓弦羽は慌てて起立し、頭を下げた。
「任務です。遅くなって申し訳ありません」
彼らが去った後、カウンターに一本の缶コーヒーが残された。いただきますと呟いて一口啜る。贈賄かなと苦笑いした弓弦羽が真顔にもどった。
「病気になった本人も、止めてくれたと喜んでいる……か」
空き缶を手に廊下に出た弓弦羽は、毛布を掛けられた死体を沈痛な面持ちで見詰める。
深い溜息を吐いて背中を向け、空き缶用ゴミ箱がある北側の休憩所に向かった。
「津佳沙はしがみつかれ、俺はお礼とご褒美貰って。危機を実感すると――」
足を止めた弓弦羽が宙を見詰めて考え込んだ。その眼は徐々に細まり、眉は寄っていく。
久しぶりに一人の風呂を満喫した弓弦羽がコルセットを装着し終えたとき、ドアをノックしてから瀬織が入ってきた。パジャマの上だけを羽織った弓弦羽に、喪服姿の彼女が微笑む。
「遅くなってごめん。お風呂は出来たんだね」
なんとかねと答えた弓弦羽に彼女が真顔になった。
「話しがあるんだけど、いい?」
「うん。お塩やるよね」
「ありがとう」
弓弦羽は彼女をダイニングテーブルに誘った。柔らかいソファでは後が痛いし、冷蔵庫に近いほうが何かと便利だ。
彼女のグラスにビールを注ぎ、その残りを自分用とした。
「退院おめでとう。早くよくなってね」
グラスと缶をあわせ、二人は大きく呷った。久方ぶりの刺激が心地よく弓弦羽の喉を落ちていく。
「あのね、CGOを辞めない?」
もう一口飲もうとした弓弦羽が缶をテーブルに置いた。まじまじと彼女を見る。
彼女の顔色がどんどん青ざめていく。
「私も辞める。大学も辞めるから」
「理由を聞かせてくれるかな」
やっと言葉を探し出した弓弦羽に、彼女がつらそうに微笑んだ。
「正直に答えて。私を護ろうとしてあんな危ないことをしたんだよね」
咄嗟の決断だったが図星だと弓弦羽は認め、そして頷いた。
「あのね、嬉しいんだ。けど……怖い」
口を噤んだ彼女は面を伏せた。手にしたグラスの底を斜めにしてテーブルの上で回す。その細い指が震えているのに気付き、弓弦羽は黙って続きを待った。
「私がいるから滉が危ないことをするのが怖い。私も滉を護りたい。でも滉みたいにやれるか自信がない。失敗したらって思うと怖い。どっちも怖いから……滉と別れようって考えた。私がいなければ冷静な滉に戻る筈だから」
弓弦羽は頭が冷えていくのを覚えつつ俯いた彼女を見詰めた。
「あの日からずっと……でも決断できなくて……あのね」
瀬織が伏せていた目をすっと上げた。まっすぐ弓弦羽を見詰める。
「真悠のお葬式でね、ご両親とお姉さんが泣いていた。真悠は好きな人がいたのか、その人に気持を伝えたのか、全然知らないって。真悠はやり残したことが沢山あったはずなのにって」
だよね、と弓弦羽が呟いた。
「男の人と付き合ったの、滉が初めてなんだ。こんなに好きになったのも滉が初めて」
弓弦羽の心臓が大きく鼓動し乱れた。男嫌いの津佳沙。何故男を嫌いになったのか。それはつまり……。
「滉はもう十分恩返ししたよ。あなたを喪いたくない。ずっとずっと一緒にいたい。だからCGOを辞めて私と一緒にいて」
「俺も同じようなことを考えたんだ」
青ざめていた津佳沙の顔に血の気が戻った。
「津佳沙が大好きだ。あの日迷いがなくなった。恩返しは十分かどうか俺には解らないけれど……でもちょっと津佳沙の考えと違うんだ」
顔を強張らせた彼女に弓弦羽の胸が痛んだ。
「俺は君を護る。それが俺の第一義だ。そして君の夢を奪いたくない。君が夢を諦めたら、君を護れなかったことになる。俺は降伏が嫌いだ。任務に失敗するのはそれ以上に大嫌いだ。だから津佳沙にはもう一つの夢も追って欲しい」
なんでもっと簡単に言えないのかと弓弦羽は己を罵った。
瀬織が考え込んだ。暫くして彼女は眼で弓弦羽を促す。
「その方法を模索してみた。聞いてくれるか」
頷いた彼女に弓弦羽は安堵した。
「俺は今暫くCGOで頑張る。津佳沙は今すぐCGOを辞めてくれ。少しだけど蓄えがある。それと俸給で頑張る。此処までが第一段階」
瞬きだけ返す瀬織に不安になった弓弦羽だが続ける。
「卒業の目処が付いたら俺も転職する。この計画はどうだろう」
彼女が考え込むに任せ、静かに待つ。
「幾つか聞いていい?」
彼女の目に煌めきを見た弓弦羽は頷く。
「時々感じていたんだけれど、昔の滉は死を待っていたような……今は違うよね」
感づかれていたか、と弓弦羽は眼を瞬いた。
「君が俺に自信を与えてくれた。生きていていいんだって」
頷きながら微笑んでくれた彼女が愛おしく、弓弦羽も微笑み返す。
「転職のアテはあるの?」
「正直ない。俺の経歴は特殊だから。でもそれを生かす職を探すつもりはない」
また瀬織が何度か頷いた。
「選り好みせずに考えるよ。体力には自信あるからね」
彼女の目が一瞬強く煌めいたのに弓弦羽は気付いたが、それは直ぐに隠された。
「少し考えさせて。一人で考えたい。滉ももっと考えて」
何か思考に穴があったらしいと落胆した弓弦羽に、彼女は手を重ねた。
「御願い、滉。大事なことだから」
「うん。わかった」
それしかないわな、と諦めの心境で弓弦羽は頷く。彼女は再考の機会を与えてくれた。適当なパッチを当てて誤魔化したら信頼すら喪われる。
「最後ね。迷いがなくなったって言ったけど、それは……」
言い淀んだ彼女が言葉を続ける前に弓弦羽は決断した。
「君の唇にキスしたい」
瀬織の瞬きが急に激しくなった。
「愛してる」
そっと手を離した瀬織の顔が歪んだ。
「ずるいよ……なんで今」
「ごめん。でも伝えたかったんだ」
「今まで何人に言ったの」
笑いを浮かべようとしたらしいが、彼女は失敗した。
「私だってさっき言ったよ」
ある程度は知っておきたいよな、と弓弦羽も納得した。
「津佳沙が初めて。二人と付き合ったけれど、そこまではね」
「どんな人?」
数瞬の間ののち、弓弦羽は眼を瞬いた。高校で振られた直後、告白されて付き合った人。防大の開校日に知り合ったあの人。名前はただの記号だ。なぜ思い出せない。彼女はどういう答えを期待しているのだろう、そう考えて更に戸惑った。
別れてしまえばキャラメルと同じか、と内心溜息を吐く。
「いい人、優しい人だった」
「安心した」
目を伏せた彼女が続けた。
「ごめん……滉は……」
弓弦羽は続きを待った。だが彼女は口を噤んでしまった。
立ち上がった彼女がキーホルダーを取り出した。
「これも返すね」
テーブルの上で鍵が乾いた音を立てた。
暗い一人ぼっちの部屋で鍵を見詰めていた弓弦羽が寂しく、そして苦く笑った。
「俺の口から聞きたかったんだね」
缶に口を付けたが顔を顰めた。炭酸が抜けた温い液体を流しに捨てる。
「君の負担になっちまう。それは嫌だ」
冷蔵庫から新しい缶を取り出し、清冽な液体を一気に飲み干した。
別の缶を手に椅子に戻る弓弦羽は、ゲップの拍子に走った痛みに胸を押さえる。缶を持った手で胸をさすりながら小さく溜息を吐いた。
「護りきれなかったら一発横領するさ」
コルセットを外して洗濯機に押し込んだ弓弦羽は、続けて上体を直立させたままパンツを落とし、片足を持ち上げてそれを手にした。ベルトとホルスターに入れた銃そして予備弾倉ポウチは着替えの上におき、パンツも洗濯機に放り込む。背中を丸めたり身体を捻るとまだ痛む。咳払いや笑っても同じく。痛みを軽減してくれるコルセットだが、夏の陽気で熱地獄だ。汗で皮膚が真っ赤になってしまった。右肩を固定していたコルセットは退院当日に外す許可が出た。でなかったらヘルパーさんを雇わないとならなかったな、と苦く笑った弓弦羽だが直ぐに真顔に戻った。全自動洗濯機に洗剤を流し込む。
髪と身体を洗い、念入りに髭を剃る間も弓弦羽は瀬織を思う。七月最終日の今日が試験最終日で、明日から合宿のはず。
温めの湯に浸かって窓を見上げる。窓を開けてから下ろしたブラインド越しに夕焼け空と吹き込む風に目を細めた。あれから九日。彼女とはメールを偶に交わすだけだ。生活の諸々を心配する彼女に大丈夫と返すだけのどちらも短いメール。でも弓弦羽は有り難く思う。
微かな笑い声に気付き暫く耳を澄ませた弓弦羽は、隣の物音に敏感になっている自分を嗤い、元気を取り戻しつつある様子の彼女に安堵した。
考え込んでいた弓弦羽は、突如点った照明に驚愕した。慌てて腰を上げかかったが、ドアから覗く柴多に硬直する。
「背中流してあげるね」
ドアを全開にした彼女はTシャツを脱ぎ捨てた。タイトミニも落とす。ブルーのブラジャーのホックに手を掛けた彼女に、弓弦羽の呪縛が解けた。
「ばか、止めろ、失せろ!」
喚きざま、縁に乗せていた濡れタオルを掴んで投げた。が、激しく痛んだ右肩に息を呑む。
素早く逃げた彼女だが、直ぐに戻って浴室に足を踏み入れた。ホックを外したブラを左手で押さえた彼女がにこりと笑う。
「ヤバイよ、それ」
彼女の目線に気付いた弓弦羽は右肩を押さえたまま慌てて腰を落とした。
「どこから入った。いや、直ちに退去してくれ!」
「はいはい。でも私、明日に備えて手入れしなきゃ。そこのカミソリ借りるね」
彼女がパンツに右手を掛けた。レースのそれに目線を落とした弓弦羽は更に慌てる。
「出て行きなさい!」
柴多が舌を出した。
「微妙にむかつく! けど合格。オカズ代金貰っとくから。じゃあね」
濡れタオルを放り込んで彼女はドアを閉めた。
「ふざけんな。見られた俺にカネ払え!」
罵っていた弓弦羽はリビング方面で湧いた複数の笑い声に口を閉じた。笑い声に混じる瀬織の金切り声を聞き分けた弓弦羽は浴室の天井を見上げ、力なく呟く。
「津佳沙は関与しなかったと」
寝るまでは肌を労ろうと、綿シャツとボクサーブリーフ姿で洗濯機からコルセット等を取り出す。それを入れたカゴを手にそろそろと歩いた弓弦羽はベランダで足を止めた。防火壁の穴はそのままだ。そして昼の熱気が籠もらないよう、寝室のサッシ窓は全開。
「ここからネズミが。対人地雷……は条約違反だ。マキビシでも敷設するか」
ぶつぶつ言いながらコルセットを物干し竿にかけ、朝干しておいた奴を回収して戻る。
冷蔵庫を開けた弓弦羽は眼を瞬いた。昨夜二本抜いたパックのビールが消えている。抜かれていない四つのパックの前に三本が置かれていた。パックに手を当てた弓弦羽が鼻を鳴らす。四つとも温い。冷えているのは手前の三本だけ。それを一本出してドアを閉める。
「彼女たちも元気に……にしてもぼったくりな」
プルトップを引き上げたが、首を傾げて手を止めた。もう一度冷蔵庫を開け放つ。
ラップ掛けした生ハム入りのサラダが上段に収まっていた。
「お、差し入れ。オカズ代金ってこれか」
コンロに鍋が置かれ、炊飯器の電源も入っている。鍋の蓋を取った弓弦羽の笑顔が深くなった。
「今日は月曜だけど。ありがとう」
蓋を戻そうとした弓弦羽の手が止まり、真顔になる。
「約束は約束って……」
弓弦羽の顔が歪んだ。
内偵の結果、殉職した三好の就職内定先、そして警護士の自白を得た企業の聴取を行うこととなった。静岡を中心に愛知県と神奈川県にスーパーマーケットとドラッグストアを展開する企業だ。発祥地である三島市に本部が置かれ、会長や社長の自宅もある。
静岡地方検察局の加苅次席検事とともに大藪、弓弦羽そして菅﨑はニシキダ・グラッツェ本部に出向いた。
事情を聞いた会長は、長男である若い社長を呼びつけて問いただした。
偶然の一致だと主張した社長だが、警護士が自白したと聞くと、自分がスカウトしたのだと言い張った。だが「偶然知った」と情報源を明かさない。
それまで黙っていた弓弦羽が口を開いた。
「恣意的に警護士をスカウトし、近辺に配置したわけですね」
宮藤社長だけでなく、会長も頷いた。
「それ以前の住所、勤務先であれば早急に対処できた筈の事例も確認されました。結果として市民は危険に晒され、その結果何人も死にました」
社長は目をそらせた。
「市民、つまり国民の安寧が脅かされているわけです。これは国家の秩序を危うくしたのと同義です。国家は国民がいないと存在し得ません。領域、国民、主権が国家の三大要素ですね。それを危うくしたらどうなるかご存じですか。内乱罪ですよ」
皆眼を瞬いているが、加苅は大きく身体を揺らした。
「国の統治機構を破壊し、またはその領土に於いて国権を排除して権力を行使し、憲法に定める統治の基本秩序を壊乱する目的で暴動をする犯罪が内乱罪です。
宮藤さん、あなたの行為は秩序の壊乱に当たります。不特定多数の国民を死傷させたのだから、国家の主権者たる国民に対して暴動を起こしたのと同義。
その一方、市民警護機構の組織に恣意的に介入し任務を妨げた。統治機構の破壊とみなされます。
当然単独では出来ない犯罪です。首謀者は死刑若しくは無期禁固。荷担した職務遂行者、つまり首謀者の命令に従って行動したものは一年以上十年以下の禁固。謀議に参与したものは無期または三年以上の禁固です。
宮藤さん、あなたはどのランクに属するんでしょうね」
沈黙が会長室に満ちた。加苅にきつい眼で睨まれても弓弦羽は平然としている。
「検察がどの刑法を適用し、どのような処罰を求めるかは知りません。でも国民はあなた方を許さないでしょう。病気だからしょうが無い。そう諦めていたご遺族の気持がどう変化するか。限界点を超えるまで堪え忍ぶのが日本人です。宮藤さん、あなたの行動が切っ掛けになるかも知れませんよ」
揃って震えだした会長と社長を弓弦羽は冷たく見据えた。
「忠雄! 今ならまだ……いや、間違いを正すには今しかない!」
父親に一喝された社長が項垂れた。
「全部お話しします。でも私だけじゃない。主民党の
つっかえながら宮藤がしゃべり始めた。テーブルに置かれたボイスレコーダーの赤いインジケーターランプを確認した弓弦羽は一安心する。本日の日時と場所、同席者の氏名と録音への同意を先に録音したから法的証拠になる。
「お二人には外部に対して沈黙されるよう御願いします。今後代議士やお仲間と連絡を取ると罪を重ねたとみなされる可能性がある。ご理解よろしいですね」
加苅が釘を刺すと二人は何度も頷いた。懇意にしている大病院に会長は極度の頭痛、社長は原因不明の胸痛を名目に緊急入院すると自発的にいう。
政治家がよく使う手だな、と鼻を鳴らした弓弦羽は内心首を傾げ、そして気付いた。
「まだ全部話していませんよね。買収に使った金銭の出所、そして死亡時の弔慰金の出所は? 会社とあなた方の資産状況を正式に確認してからでもいいですが」
揃って項垂れた二人に弓弦羽の眼が細められた。狸親子が、と内心毒づく。
ストレッチャーに横たわって目を瞑る会長と社長が二台の救急車で運ばれる。本部は騒然となり、疑惑の視線を向けられた弓弦羽たちはさっさと退出した。
「大尉、君には恐喝の素質がある。しょっ引かれる前に転職してくれよ」
大藪の笑いを伴った発言に、ハンドルを握る田原も助手席に収まった菅﨑も笑った。大藪の横に座る弓弦羽だけが苦笑する。加苅次席検事はコメントをせずに帰ったが、それは彼の保身だろう。
「笑うと痛いんですよ、まだ」
「でもいなくなるのも困る。大尉が頑張るお陰で、私の評価も相対的に上がるからな。痛し痒しとはこのことか」
笑う大藪が弓弦羽をちらりと見た。
なんとなく挑発されている気分を弓弦羽は味わう。また何か企んでいるのかと思うのだが。
「菅﨑君、仙北谷代議士には表敬訪問としてアポを取る。それと同じ日、君たちは糸山代議士のグループを聴取してくれ」
「了解。準備を内々に進めます」
総本部と大藪が立てた計画は全国一斉に捜査を開始するのではなく、静岡が先行して一刻も早く、そして情報が漏れないうちに犯罪の根を辿るというものだ。
「中佐、仙北谷代議士の聴取に同行していいですか。ちょっと気になる点があります」
いいよ、と軽く大藪は頷いた。
「監査部一同、お前さんの野性の勘に期待しているよ」
菅﨑に笑い返した弓弦羽は、彼が身体を戻したので物思いにふけった。
宮藤社長がばらまいたカネの全ては、仙北谷代議士から現金で渡された。この点が弓弦羽には引っかかる。
政治家が党の派閥や所属政党をまたいで密約し、それが暴かれて叩かれるのは毎度のことだ。代議士は謀が大好きらしい。
そして個人献金のスキャンダルも後を絶たない。団体献金、つまり企業献金は政党に対してのみ許されるが、トンネル献金と呼ばれる抜け道がある。政治家個人に対しては、個人として一つの資金管理団体にのみ可能なのが建て前だ。その額は年間最大一五〇万円までで、日時と寄付者が記録報告される。
だが年間五万円未満の寄付については、何時何処の誰がと報告する義務がない。政敵の罠を警戒するから、領収書は当然発行してもザルだ。付き合いの長い支援者は信用出来るからそれも省ける。献金を禁止される外国籍の人間でも、その関係となれば誤魔化せてしまう。死人が献金したと問題になったことすらある。電話帳を使って偽造したわけだ。
政党と政治家は、己の収支を政治資金収支報告書に記載し、総務大臣若しくは都道府県選挙管理委員会に報告する義務を負う。これがスキャンダルの火種になる。先の献金の他、不適切な支出も問題になる。空出張で旅費をちょろまかしたり、政治活動資金でエロDVDを購入したり。風俗店に資金援助をしたことすら発覚した。
絶対正しく記載するという性善説に基づく規則なので、疑われない限りばれない。商品コードが記載されたレシートを添付する等経理担当が余程のヘマをしないかぎりは、追求されても訂正する形でうやむやにできる。トドメに原簿を閲覧出来るのは公開の日から三年間だけだ。それでも後を絶たないのをみれば、政治家の遵法意識は非常に低く、かつがめついのが解る。そしてマヌケさ加減も。
カネに汚く謀の好きな連中がホイホイとカネを出すのは、見返りに大きな利益が約束されているからだろうと弓弦羽は前提してみる。でもどのような利益なのかが解らない。一番最もらしいのは、スポンサーから渡された活動資金を代議士がピンハネし、極秘の活動資金若しくは個人資産とする場合だろうか。
だが今回のこれはリスクが大きすぎる。内乱罪を適用される可能性は決してゼロではない。内乱罪はクーデター若しくは革命と同義だ。失敗し捕まれば政治家生命は完全に終わる。絶対成功するという確信がなければ出来るものではない。
言い方を変えれば、連中はローリスク・ハイリターンでなければ動かない筈。とすれば、今回の件は、上にいる奴は身の安全を図るため、尻尾切りの被害担当を間に――。
「おーい、今日は直ぐ帰るのかって聞いているんだがな」
菅﨑の大声が物思いを邪魔した。
「さっさと帰って風呂に入るよ。コルセットが蒸れてあせもがね」
「本当は瀬織ちゃんが今日帰ってくるから、そして俺に逢わせたくないからだろ」
苦笑いで応えた弓弦羽だが、菅﨑は気にしない。
「心配するな。邪魔の二乗以前に幽霊官舎なんぞにゃ行かないよ。真っ平だ」
「お前だって、いつか幽霊になるんだぞ。毛嫌いするな」
一瞬嫌そうな顔をした菅﨑だが、直ぐに表情を変えた。
「死んだら古今東西のいい女にアタックできるよな!」
「気付いたなら早く戻れよ。邪淫霊はこの世の迷惑。あの世で励めば現世は平和」
田原は肩を震わすが、菅﨑はご機嫌だ。
「私は言った覚えはないぞ? 何故知っている」
首を傾げた大藪に、弓弦羽が笑いつつ首を横に振った。
「自己負担六万にしても豪勢すぎますよ。で、どっちで?」
「大尉の居住区で若夫婦がな。瀬織君の居住区にいた親御さんは、辛いからと老人ホームに移ったんだ。彼女には言うなよ」
「了解しました。彼女の心の平穏を揺るがすわけにはね」
「菅﨑さんって見える人ですか」
田原が笑いながら問いかけた。今は信号待ちだ。
「マジやばいって! 長身で髪の毛ショートの美女が取憑いている!」
「え! 窓の外から覗き込むとか風呂から飛び出してくるとか?」
鈍いなと笑った弓弦羽だが、
「大尉に跨がって腰を振ってる。こいつが家に帰りたがる理由はそれさ」
菅﨑の返答に顔を顰めた。田原の顔がみるみる赤く染まる。
「中佐、これは私と瀬織警護士長二人へのセクシャルハラスメントです!」
「私も確かに聞いた。書類を出したまえ。解雇処分にしてくれる」
菅﨑の哀願を無視して大藪はニヤリと笑う。
「ほら、田原君。青信号だぞ」
車窓から外を見た弓弦羽は唇を僅かに曲げた。酷暑にもかかわらず街中は若い男女で溢れている。だがすぐに助手席のヘッドレストに視線を戻した。陽炎の向こうに津佳沙を探す自分に気付いたからだ。
リビングで開いた本のページをぼんやり見詰めていた弓弦羽は、ドアのチャイム音にぎくりとした。机上の時計は一七時過ぎだ。彼女だと直感が囁く。が、躊躇った。
もう一度チャイムが鳴った。覚悟を決めて本を置く。
「やあ、おかえり」
緊張顔の瀬織に努めて気軽に声を掛けた。元気そうなので安心する。
キャスター付きのトラベルバッグを脇に置いた彼女が頷いた。
「ただいま」
少し日焼けした彼女が微笑むが、ぎこちない。
「元気そうでよかった。まだ痛むの?」
無理をしなければ大丈夫だよ、と笑ってみせる弓弦羽は内心の恐れが顔に出ないようにと願った。
「早くよくなってね。あの……」
彼女の喉が上下に動いた。注意していたのに弓弦羽も唇を引き締めてしまう。
「話しの続き。いい?」
死刑執行かと思いつつ頷く。
「いいよ。入って」
「一時間後でいい? 着替えて洗濯とか済ませたいから」
「うん、わかった」
じゃあ、と彼女はいってドアを閉めた。
弓弦羽は本を開くがまったく集中できない。最後まで堅かった彼女の笑みが気になる。
諦めて栞を挟んだ。風呂はまだ用意できていないが、シャワーを浴びようと浴室に向かう。
洗濯機の終了ブザーを耳にした弓弦羽は麦茶のグラスを置いて立ち上がる。首に掛けていたタオルを外して綿シャツを素肌に纏い、きちんとジーンズの中に裾を仕舞った。ベルトを締め直すついでに拳銃の位置を微調整する。出動要請が来ることもないのだが、右腰に常にある一キロほどの物体がないと落ち着かない自分を嗤った。
脱水が終わったコルセットとその他の衣類をかごに押し込み、階段を上ってベランダに出た。
朝干した洗濯物は夏の日差しに炙られて乾ききっていた。賑やかな蝉の鳴き声に包まれて手早く取込み、ベッドの上に放り出す。ついで洗った奴を干していく。
アイロン掛けする奴を取り分け、残りの洗濯物を畳んで収納した。アイロン掛けは後として、空きかごを手に歩き出した弓弦羽だが、何か妙に重くも堅い音を耳にして足を止める。身体に感じたような気もすると首を傾げたその時、微かな悲鳴が聞こえた。かごを床に下ろし、ベランダから首を突き出した弓弦羽は、蝉の鳴声に混じって男のわめき声と女の悲鳴を聞き取った。その源は。
弓弦羽の顔が強張った。瀬織の居住区からだ。
全力疾走で階下に走り、裸足のまま玄関から飛び出した。
瀬織の玄関ドアは鍵が掛かっていた。が、足下で光る小さな金属片に弓弦羽は目を留めた。ドア・ガード・バーの破片だ。Uの字型をした先端部分。
弓弦羽の顔に汗が噴き出した。ドアを叩きかかった弓弦羽の手が止まった。必死の面持ちで考える。
細めていた眼が見開かれた。そのまま建物の外周を走って庭に向かう。
サッシ窓が開いていた。くぐもった瀬織の泣き声と押し殺した男の声が、風に揺れる白いレースのカーテン越しに漏れている。
走る最中押さえていたデルタから右手を離し、カーテンを捲って中を覗き込む。ダイニングテーブル越しに、ソファの向こうで何かを押さえつける若い男を見た。頭に血が上るのを覚えつつ、素早くそして静かに室内に上がった。L字型のソファが邪魔して、俯いている男は弓弦羽の接近に気付かない。男はナイフを咥えていた。
俯せでソファの座面に押しつけられた瀬織が視界に入る。両手を背中で固定された彼女のスカートは捲りあげられ、日に焼けていない白い尻がむき出しだ。薄紅色のパンツが足に引っかかっていた。左手で彼女の両手首を握る男は、パンツを脱ぎかけのままいきり立ったペニスをしごきながら腰を下げ、彼女の股間に近づける。その気配を察したか、彼女が一際大きな悲鳴を上げた。
弓弦羽は燃え上がるような殺意に駆られた。ソファの背もたれを飛び越え、そのまま男の脇腹を蹴りつける。九〇キロ近い弓弦羽の体重がのった跳び蹴りを食らって男は吹っ飛び、玄関に繋がる引き戸の枠に叩きつけられた。低く呻きながら床で藻掻く。
「離れろ、津佳沙!」
顔を涙で濡らした彼女は放心状態で弓弦羽を見上げている。むき出しの秘部を隠そうともしない。
罵声に顔を戻した。立ち上がった男が憤怒の表情で手斧を振りかざしている。この野郎、と弓弦羽が呟いた。次の瞬間、奇声を上げて男が突っ込んだ。弓弦羽は素早く前進する。退くよりも思い切って前進して敵の見切りを無効にしろと訓練で叩き込まれている。だが脱ぎかけのパンツが邪魔して、男は無様に転倒した。手斧は弓弦羽の身体をかすめもせず、床に深く食い込む。
絶叫しつつパンツを蹴り脱ごうと暴れる男の背中に弓弦羽は飛び乗った。ウシガエルのような声を男が漏らす。膝を曲げてもう一度ジャンプしかけたが、男は白目を剥いて泡を吹いた。弓弦羽の心臓が無茶苦茶なペースで鼓動を開始した。汗も噴き出す。
荒い息を吐きながら、男の足首で絡まったパンツのベルトを抜き取った。それで失神した男の両手首を背中できつく縛る。ついでパンツを引き抜く。男はスニーカーを履いたままだった。それが邪魔してパンツを蹴り脱げなかったのだろう。
男の腰に片膝を乗せて体重を掛けながら、パンツの片足分で奴の足首を縛り上げる。ついで残った片足分で手首と縛った。弓なりに反った男は、意識を回復しても身動きできないはずだ。
立ち上がった弓弦羽は大きく溜息を吐いた。床に打ち込まれた手斧を見ないようにする。津佳沙は、と振り向いた弓弦羽は彼女にしがみつかれた。
震えるばかりで声が出せない彼女を抱きしめる。彼女に囁きながら神に感謝した。
瀬織は病院を断りかけたが、強姦未遂を医学的に証明する必要、つまり身体に残る打擲痕や擦過傷を医師に見せて書類に記す必要があると説得されて頷いた。現場検証を弓弦羽に委ね、婦人警官に付き添われて病院に向かった。男は救急車で病院送りだ。
「手斧でドアガードを叩き壊して押し入ったんですよ。計画的犯行ですね」
警官が小さく頭を振った。
「ナイフも持っていましたよ。最初の蹴りでどっかに吹っ飛んだけど」
疲れた表情で額を揉む弓弦羽が呟くと、鑑識が床を這うようにして探し始めた。血圧が上がりすぎたのか、弓弦羽は酷い頭痛に襲われている。胸も背中も痛いが頭痛が勝る。
「大尉さんがそれを使わなくてよかったですよ」
苦笑いする同年代の巡査長が自分の右腰を見ていると知って、弓弦羽も苦く笑った。
「忘れていました。彼女は私の恋人なんです」
それはまた、と彼は頷いた。
「彼女を迎えに行きたいので、病院教えてください」
裸足で自分の居住区に向かう弓弦羽は内心首を傾げた。現在進行形でいったが、アレはただの願望じゃないかと。
「護れたからいいか……いいんだよ」
遠巻きに見ている群衆に気付き、あの警官の心遣いに改めて感謝した。彼はシャツの裾を出してから表に出た方がいいと助言してくれた。
予約でバスタブに新鮮な湯がたまっているが、シャワーで汗と足の泥を流す。
「怖がっていてもしょうがない」
シャワーを止めた弓弦羽が呟いた。
現場検証が終わり、野次馬も消えた官舎はいつも通りの静けさに包まれていた。車から降りた瀬織は自分の居住区に戻るのを嫌がった。
ダイニングテーブルに座った彼女は俯いたままだ。麦茶のグラスに手を伸ばそうともしない。
「お風呂の準備できているからさ。少し気を休めないと」
うん、と彼女は力なく頷いた。
ベランダを経由して、彼女は着替えを取りに行った。
自分側のベランダで待つ弓弦羽は深い溜息とともに頭を振る。津佳沙を襲った男は、彼女のサークル仲間の四柳真人だった。
ん、と弓弦羽が首を傾げた。果物ナイフはともかく、手斧を常備する家は極々少ないだろう。何処で売っているのかも見当がつかない。となれば合宿前に用意したのか、と思いが至ったからだ。町内会が練習する祭り囃子の軽快なリズムが夜風に漂う中、弓弦羽は考え込んだ。
風呂で長い時間を過ごして彼女は元気を取り戻した。弓弦羽が暖めた冷凍ピザを美味しそうに彼女は頬張る。弓弦羽は改めて運命の神に感謝した。弓弦羽はビールだ。昂ぶりが残っているのか、はたまたこの後への畏れかのいずれかで空腹を感じない。頭痛が収まっただけ有り難いというものだ。
「はあ、落ち着いた。ご馳走様」
白いノースリーブのシャツと短めのスカート姿の彼女が席を立った。シンクで手を洗う彼女の背中に眉を寄せた弓弦羽は必死に考えた。
「夜食に冷製うどん作ろうか。大根おろしを乗っけて徳島の醤油を垂らすだけ。でもいけるよ」
「それって美味しそう。急いで消化しなきゃ」
テーブルに戻った彼女が微笑んだ。声にも表情にも張りが戻ったと弓弦羽は安堵する。
「ええと、それでこの前の話だけど」
姿勢を正した彼女の目は真剣だ。頷いた弓弦羽だが、時間稼ぎは失敗だったと心の中で溜息を吐いた。
「私、滉と一緒に頑張る。院を終えるまでCGOで頑張る」
口を開き描けた弓弦羽だが、彼女に目で制された。
「辞めちゃったら滉を護れない。私があなたを護る。絶対後悔したくないから、自分でやる。許してくれる?」
殆ど瞬きせずに見詰める津佳沙に、弓弦羽は内心躊躇った。自分で決めてくれた点は嬉しいが、それは異病者と戦い続ける道だ。君が一人で対処するときが怖いんだ、と弓弦羽は内心で叫ぶ。でもそれはお互い様か、と続けた。何時もひっついているわけにはいかない。それは普通の家族とて同じ。異病が発現するまえからずっと人は不安に耐えてきたわけだ。
「絶対後悔したくない、か」
彼女は大きく頷いた。
「あれからずっと一人で考えた。でも答えが出せなくて、合宿中にお母さんに電話したの。黙って全部聞いてくれて。こう言われたんだ。「後悔しない人生なんてあり得ない。自分で考えた結果で選択すれば、その後悔も軽いんじゃないの」って。その時はよく解らなくてね」
言葉を切った彼女は軽くビールを口に含み、それを飲み込んで軽く溜息を吐いた。
「一晩中考えても解らなくて。次の日、海水浴だったんだ。私は寝不足だから浜辺で過ごしていた。ふと周囲を見たら、家族連れの海水浴客が何組もいてね。こんな時代なのに、皆一生懸命前向きに生きているんだなって感じたんだ」
彼女が微笑んで首を横に振った。
「怖かった。だから自分から遠ざけてしまおうって。でも滉を諦められるかって考えると無理。でもあなたに頼って、護ってもらってというのもいや。私もあなたを護る。そういう関係でいたい」
彼女が弓弦羽の眼をまっすぐ見詰めなおした。
「私の夢は二つ。一つは大学で教鞭を執りたい。もう一つは滉と家族になりたい。二つとも諦めない。どうかな」
静かに自分を見詰める瞳に弓弦羽は考える。もしも彼女を護れなかったら。その答えは出ている。彼女はその立場になったらどうするのだろう。彼女の性格なら絶対考えて答えを出しているはずだ。でも聞いちゃいけないな、と弓弦羽は結論した。しかし困ったな、と弓弦羽は予想外の事態への対応を考え始めた。
「ソファに移ろう」
一瞬瞳に失望を浮かべた彼女だが頷いた。
先に腰を下ろした弓弦羽の直ぐ左に彼女が座る。腰に手を回すと彼女は肩に頭を預けた。その重みと温もりに弓弦羽は急に緊張を覚えた。尻の穴を締め、数回深呼吸する。
「津佳沙」
ん、と囁き返した彼女が頭を離し、弓弦羽の目を覗き込む。
間近で見る彼女の瞳に弓弦羽の心は落ち着いた。
「二人で頑張ろう。結婚前提で俺と付き合ってくれ」
声に出さず、彼女は頷いた。
彼女が目を瞑ったのは、弓弦羽の唇が彼女の唇に触れる寸前だった。
少し距離をとって見つめ合う。
彼女の頬を伝い落ちる涙を弓弦羽はそっと拭った。
困ったような、でも嬉しそうな微笑みで応えた彼女が両手を弓弦羽の首に回す。
弓弦羽も彼女の背中に手を回した。彼女の元気な髪を撫でると彼女は身体を強く密着させる。
暫く髪の毛を撫でていた弓弦羽が彼女の耳に囁いた。
「困った人だ」
瀬織が身体を強張らせ、身体を少し離した。
「プロポーズされるとは思わなかった」
彼女の顎をそっと撫でて弓弦羽は微笑む。彼女の身体から強ばりが消えた。
「真剣だよって伝えたかったから。でもそうだよね、ごめん」
そうか、と弓弦羽は内心納得した。男嫌いの原因はそれだったのかと。
「滉はまだ……その、気楽でいたい? 私、重いよね」
「ううん。俺が好きになったのはそういう津佳沙だよ」
「いいの?」
「人生のパートナーになってくれ」
頷いた彼女が何度もキスをする。唇を合わせるだけの軽いキスだ。
こんな時代だからこそと胸中で繰り返すうちに弓弦羽は歯止めが効かなくなっていくのを感じた。
彼女の唇を舌で軽く撫でると微かな呻きとともに唇が開いた。背中を撫でさすりつつ舌を差し込むと柔らかい舌が怖ず怖ずと触れる。絡めると彼女は大きく呻いた。だが逃げずに途惑いながらも応じる。キスに没頭する二人は互いを弄りはじめる。
縺れるようにキスを交わしながら二人は二階に上がった。上体の痛みを堪え、弓弦羽は彼女を横抱きとしてベッドに横たえる。薄いカーテンを貫く月明かりが照らす中、キスと囁きを交わしながら互いの着衣を脱がせ合う。
「御願いがあるんだけど」
下着姿の彼女が囁いた。
うん、と応えた弓弦羽は彼女の滑らかな首筋にキスしつつ、両手をブラジャーのホックに掛ける。
「ちゃんと聞いて」
身を捩った彼女の口調が微妙に変わった。
「ごめん。なに?」
渋々の内心を隠して弓弦羽は津佳沙を見詰めた。はっきりと迷いを顔に浮かべた彼女に戸惑うが待った。
「あれ、あるよね」
「退院した日に買ったよ」
不安を軽くするために買ったが、数時間もせず仕舞い込んだ。
「今安全日なんだ。だから使わないで」
思わず弓弦羽は眼を瞬いた。それに気付いた彼女が更に戸惑う。
「絶対確実じゃないよね。でも今日は……」
顔を背けた彼女の頭をそっと撫でると、怖々と彼女が顔を戻した。
「もし出来たら?」
「その時は産む。子育てしながら院に進む」
真剣な眼差しの彼女に弓弦羽は頷いた。
「子育ては二人でね」
うん、と幸せそのもので微笑んだ彼女に愛しさがこみ上げた弓弦羽は強く抱きしめた。
「それとね、少し明かりつけて。確り覚えておきたいから」
弓弦羽はベッドから降りてカーテンを閉めた。天井の主照明ではなく、普段使わない二灯シーリングライトを選ぶ。アンティーク風な茶色のシェードが放つ柔らかな光が純白のブラジャーを片手で押さえ、片足を折った彼女を包み込む。
「綺麗だ」
全身を紅く染めて彼女は恥じらった。
身体を起こした弓弦羽を彼女は潤んだ瞳で見上げ、両手を差し伸べる。
「滉」
見つめ合ったまま弓弦羽は突き入れた。鋭い悲鳴を上げた彼女が身体を捩る。思わず弓弦羽は腰を止めた。彼女は両手で顔を覆う。どうして、と弓弦羽は心中で呟いた。津佳沙の男嫌いは以前の経験が原因だろうと考えて、一切聞かないようにしていたが。結合部を見下ろした弓弦羽の困惑が増す。
「滉……」
彼女は泣いていた。
「嬉しい……滉が初めてでよかった」
弓弦羽を引き寄せた彼女が囁く。
抱きしめ合ってキスを交わすうちに、沸き上がった感動が弓弦羽の困惑を押し流した。泣き止んだ彼女が愛おしくて堪らない。
「触ってみていい?」
恥ずかしげに呟いた彼女は手を差し入れた。戻した指先を見詰めた彼女が何か呟く。
「大丈夫だから」
頷いた弓弦羽は身体を起こし、怖々と腰を進める。彼女は顔を顰めるが制止はしない。二人の腰が密着したとき、彼女は大きく息を吐いた。
「大丈夫?」
なんとか、と彼女は頷く。
「でも嬉しい。凄く嬉しい」
困ったような微笑みを浮かべて見上げる彼女に弓弦羽は微笑み返し、静かにそして長くキスをした。
事件から二日後、三島警察の捜査員が瀬織を訪問した。延長臨時国会で仙北谷との面接が延期になっている弓弦羽も付き添う。二人の捜査員は異議を唱えなかった。
「四柳被疑者が妙な供述をしましてね。一応お話を伺いたいのです」
無表情に瀬織が頷いた。
「万城真悠さんはご存じですね。先日お亡くなりになったサークルのお仲間です」
彼女が戸惑いながらも肯定する。弓弦羽も眼を瞬いた。
「四柳は万城さんに恋愛相談をしていたそうでして。それでですね。弓弦羽さんと瀬織さんが親密になるのを指を咥えて見ているのか、レイプして自分のものにしてしまえと。そう彼女は助言したというのですよ」
弓弦羽は唖然とした。記憶に残る万城は。津佳沙より一年下で、結構おとなしめで目立たない娘。余り俺には話しかけなかったが……弓弦羽がまた眼を瞬いた。
「どうでしょう。何か思い当たりますか」
真っ青になった彼女が頭を振った。
「いえ……誰か聞いていたのですか」
サークルのお仲間にも聞いてみたのですがねえ、と彼は首を横に振った。が、その目は彼女から離れない。
「万城さんの遺品も見せてもらったのですが、日記とかが一切ないのですよ。直にあって相談していたそうでして、メールとかもなし」
「となると、四柳の供述だけですか」
口を挟んだ弓弦羽に捜査員がやれやれという雰囲気で頷いた。
「でも何度もそう助言されたのではなく、一度きりだそうですがね」
一度きりと繰り返した弓弦羽に彼は頷いた。
「考えたけれど、その助言が一番だと思って決行したんですと。でも万城さんは何も言えませんからね」
また彼が瀬織を見詰めた。同行した年配の捜査員は一言も口を聞かず、彼女を注視している。
暫く沈黙が続いた。
「自分の罪を軽減しようと、嘘を言っているのだと我々は考えています」
警官が帰ったあと、瀬織は無口になった。
四柳の両親が弁護士を伴って訪問したのはその後だ。弁護士から弓弦羽の連絡先を聞いてきたという三人は胡散臭げに彼を見た。彼女の婚約者だと弓弦羽が自己紹介に付け加えたその瞬間二人は顔色を変え、弁護士は顔を強張らせた。
瀬織に土下座した両親は、ねじ穴が歪んで修理不能となったドアやフローリング等の賠償とともに瀬織へ慰謝料を払うと申し出た。瀬織は賠償だけを受けると伝え、食い下がる彼らを退出させた。
夕方、瀬織は柴多と須古を呼んだ。事件そのものは津佳沙が柴多に電話で報告していた。須古も柴多から聞いた様子だ。二人とも昨日、訪問した警官が万城についていろいろ聞いていったという。口止めされていたからと詫びる二人に、彼女は「気にしないで、大丈夫だから」と微笑んだ。
「どう思う?」
瀬織に問われた二人は、同時に首を傾げた。
「真悠は四柳を裏表なく毛嫌いしていたよ。あいつと二人きりで話すのなんて見たことないし」
柴多も大きく頷いた。
「あ、滉。お風呂の時間だよ」
可能な限り黙っていた弓弦羽は軽く頷いて立ち上がり、三人に賑やかに見送られて風呂場に向かう。
洗面所のドアを閉めると、ダイニングの三人は密やかに会話を始めた。弓弦羽は気にせず風呂場のドアを潜る。
ひげそりも済ませた弓弦羽は湯船に浸かって目を瞑って黙考する。
四柳が嘘を吐いている可能性はある。でも物証無しで死人に罪をなすりつければ、裁判官と陪審員の心証を著しく悪くする。そのくらい馬鹿でも解るはず……いや、東大の院卒でもアホがいた。馬鹿と言うより常識がないというべきか。常識、順法精神はたまた道徳心……あいつが警察にいること自体、世の矛盾を表わしているわけか。困ったものだ。学歴優秀でも聖人にはなれない。政治家も同じだな。
今得た情報。以前津佳沙から聞いた情報。そしてセックスの際に津佳沙が見せた素振り。あの晩折々津佳沙は恥じらったが、それは一瞬だった。物怖じしない彼女の性格ゆえかもしれない。拙いながらも積極的に学んでいる。互いに攻守を織り交ぜて、二人で高まる愛情のスポーツという主義らしい。俺としては願ったり叶ったり、と頬を掻いた弓弦羽が顔を引き締めた。痛みを訴え、眼で確認した津佳沙は本心から喜んでいた。何故だ。彼女が口にしたのは避妊だけ……なんで。
揺れる湯を見詰めていた弓弦羽が目を瞬いた。持ち込んだのに入れ忘れていた入浴剤をぶちまける。白く濁った湯を掻き回してから黙考を再開した。
「四柳……万城……」
弓弦羽の眼が細まる。
「津佳沙はいつも家飲みだな?」
外では絶対飲まない彼女に首を傾げた。皆で店で飲めば楽しいし、調理や後片付けも無用。学生が使う店は廉価だ。費用対効果はメニューが豊富な分有利なはず。店飲みのデメリットは帰りの手間だ。酔いつぶれたら仲間が送る。普通は同性に任される。そのまま泊まる場合も多い。弓弦羽の眼が更に細められた。万城のあの妙な雰囲気はもしかすると敵愾心。それを俺に向ける理由は……レズだって一定数はいるんだろうさ、と呟く。
朝目覚めた津佳沙は驚愕する。全裸で抱きつく万城。シーツに付着した血。
「千夜一夜物語では、鶏の血を使ったっけな」
焦って問い詰めると「でも先輩だって感じていたじゃないですか」と万城は開き直る。津佳沙は途中で意識を戻したのかも知れない。だが身体を動かせずに……そして翌朝、夢でなかったと知ったのかも。
四柳に彼女は激怒している。だから告訴の取り下げを求めようとした家族を拒絶した。家財の賠償は別問題だ。彼女が負担すべきいわれはない。もしそうなら万城にも激怒しただろう。だが泥酔した自分にも責任があると考えた。問題が表面化すればサークルの公認を取り消されるかも。相手が女では強姦罪は成立しない。強制わいせつ罪に傷害罪程度か。どっちにせよ、面白おかしく噂されるだけだ。金輪際私に触れるなと厳命し、何事もなかったように過ごす選択をしたのでは。
だが津佳沙は酒に強い。飲めば飲むほど賑やかになるタイプだ。彼女を酔いつぶせるとは……いや、今はいろいろな薬が流通している。薬で潰されたと思わなければ、店飲みは調子に乗りすぎる等と考えて家飲み専門になってもおかしくない。それならサークルの皆も無理に誘えない。一年の石原が理由かと思っていたが、このほうが説得力があるだろう。でも聞くわけには――。
「おーい、大丈夫? なにぶつぶつ言ってるの!」
弓弦羽が我に返った。
「うたた寝していたよ。寝言かな」
浴室のドアからジョッキを手にした瀬織が顔を覗かせた。少々怒っている。
「こら。いくらお風呂好きでも寝ちゃ駄目。はいこれ」
氷を入れた水のジョッキが手渡された。浴槽脇で屈み込んだ彼女は縁に頬杖をつき、水を飲み干す弓弦羽を愛おしげに見詰める。
「次は私が入るからそのままでね」
頷く弓弦羽の頬を優しく撫でて彼女は戻った。その彼女に冷やかしの声が掛けられた。が、直ぐに静まる。やっぱり密談ですな、と呟いた弓弦羽は洗い場に出た。シャワーを冷水にして頭から浴びる。睫から垂れる水流を見つつ黙考に戻った。
万城を排除もできず、普通の先輩後輩を装って過ごしてきた。あの夜のことは二人の秘密。それは万城にカードを与える結果になった。だから家飲みするときは柴多たちにガードしてもらう。柴多たちに裏で相談すれば済む。あの三人は親友だ。全て聞かなくても行動してくれる。軽い秘密は絶対拡散するのが女だが、厚い友情があれば別だ。
万城も公言できない。広めたら津佳沙の傍に居られない。自分に残されたカードを捨てるほどの馬鹿でもなかろう。四柳も万城のカードの一枚になった。万城が四柳を嫌う理由はただ一つ。津佳沙を恋愛のターゲットとして見る男だから。
シャワーを止めた弓弦羽は湯船に戻る。縁に後頭部を乗せて眼を閉じた。
「そして万城は賭けた」
万城は愛する津佳沙が思う男を排除するために四柳を利用しようと考えた。レイプされた津佳沙は激怒し、男嫌いに拍車がかかるはず。そうなれば「あの男」も四柳も同時に排除できる。もしかしたら自分を受け入れてくれるかもと計算した。四柳をそそのかすのは一度だけだ。記録に残すドジは踏まない。種を蒔いた後は親身に相談に乗る。事後四柳が自白しても、逆ギレを演じれば終わり。
「愛しい先輩は私だけのもの、誰にも渡すもんか、ってか」
だが万城は死んだ。津佳沙は彼女の死に衝撃を受けた。だが後悔を少なく精一杯生きようと決めた。
四柳も同じだ。一か八かに賭けた。長時間迷ったのは、奴の良心が抵抗したからだろう。その抵抗が潰えたのは何時死ぬか解らないと実感したから。
「でも万城がそこまでするか? いっそ無理心中……おかしいよ」
目を瞑ったまま頭を振った。
風呂からでた弓弦羽は時間を掛けて髪を乾かし、シャツとジーンズを着てダイニングに戻る。三人が賑やかに迎えた。
「じゃあ次は私。滉を肴に飲んでてね」
瀬織は飲みかけのビールを弓弦羽に押しつけ、明るく洗面所に消える。
「夕ご飯、津佳沙が冷製パスタを作るって」
柴多が笑いかける。無理しているなと内心思う弓弦羽だが調子を合わせた。
「そりゃ楽しみだ。そういや君たち実家に帰らないの? ご両親待ちかねてるでしょ」
「就職活動の序盤戦だよ。お盆前に顔出すから大丈夫」
ああ、そういう時期なんだと弓弦羽は納得した。
「楽しみに待っているよ、きっと。俺も転職を考えないとなあ」
嘆息した弓弦羽に意味深な含み笑いが掛けられた。
「いいなあ、未来に向かって一直線」
ペットフードのキャッチみたいだと笑った弓弦羽に二人が笑いに笑う。
「弓弦羽さんも津佳沙も犬だね。少しひねくれた犬!」
「素直だよ。美味しい物にまっしぐら。そして忠実」
「津佳沙はもろにそれ!」
笑い転げる二人に弓弦羽も笑いながらビールを呷る。
「じゃあ素直なわんこにご褒美……これがいいかな、それいけ」
スマホを弄った柴多の笑いに須古が和した。
首を傾げた弓弦羽だが、這いずり始めた私用携帯に目を瞬いた。
「きっと大好物だよ」
須古の笑顔に首を傾げながら携帯を取り上げた。添付ファイルだけのメールだ。開いた瞬間、弓弦羽は素直に微笑んだ。
「ありがとう。いや、肉眼で見たかった」
ビキニ姿の瀬織を写した動画だ。いい笑顔だと呟いた弓弦羽に二人が顔を見合わせて含み笑いする。気付かれたなと弓弦羽は照れた。弓弦羽自身、あの晩以降彼女が輝いて見える。微かに聞こえる津佳沙の鼻歌に弓弦羽は微笑んだ。
「悪いな、完調じゃないのに働かせて」
「いえいえ、夏祭りは人出が凄いですからね」
日邦大三島出張所に弓弦羽が久しぶりに顔を出した。今日十五日から三日間は三嶋大社の夏祭りだ。伝統あるお祭りで、遠く東京や名古屋からも見物客が訪れる。挙兵にあたって源頼朝がこの祭りを利用した話は有名だ。
人が集まれば異病発生の可能性も高まる。なので日邦大三島で研修の仕上げをしていた応援の幹部候補生の二人は夏祭り配属となった。空いた穴は弓弦羽と瀬織が塞ぐわけだ。
「残念だろ。瀬織君と祭りに行けなくて」
「涼しいここがいいですよ。電気代ただで昼寝しまくりですね」
「さっさとリハビリしろ、穀潰し」
「では今夜、仙北谷代議士に夜襲を掛けますか」
「臨時国会は昨日で終わったから二十日まで待つ義理もないな」
「閃光発音筒放り込んで派手にやりましょう」
「スタングレネードか? 馬鹿もん、奴の心臓が止まっちまうわ」
二人はにやつきながら軽口を応酬する。お茶を運ぶ田原は声を殺して笑った。
「さて、文教エリア特別警備の中間評価が十月にでるが」
くそ暑い夏に熱いお茶を飲む大藪に、興味深げな視線を向けていた弓弦羽の眉が上がる。
「君たちが頑張ってくれたお陰で、来年度からは全国区で始まるだろう。あと少し頑張ってくれ」
「励みます」
「春になれば転属だ。希望はあるか?」
弓弦羽は返答に詰まった。移動すれば津佳沙と離ればなれになる。そうなったら彼女を護れない。何故それを忘れていたのか、と唇を引き締めた。
「此処に残りたいんだろう? 何故正直に言わない」
「私事ですから」
大藪が溜息を漏らす。脇に座った田原も同様だ。
「命令に従うのは基本だがな、それが過ぎれば利用されるだけだぞ。君は素直というか、自虐が過ぎる」
弓弦羽が眉を上げた。田原はお構いなしで麦茶のグラスを傾ける。
「今調査している件も、場合によっては大問題に発展するかもしれない。君はまた生け贄になる気か。いい加減にしろ。以上は個人的発言だ」
田原が頷いた。この二人も気が合うらしいと弓弦羽は気付く。
「どうなんだ。此処に残って瀬織君と共に働きたいんじゃないのか」
「本音はそうです。彼女を護りたいですから。これは私の個人的発言です」
大藪たちが揃ってニヤリと笑う。
「では提案するか。が、その前に確認させろ。CGOの週報に眼を通しているか」
「いいえ。誰が着任したの、殉職したのなんて興味ありません。即行ゴミ箱に」
大藪の両眉が下がった。
「ったく。道理で何も言ってこないわけだ。ゴミ箱からサルベージして目を通しておけ。
では本題。日邦大国際関係学部から打診があった。来年度、非常勤講師として大尉に講義をしてほしいそうだ。週に一度、前期そして後期の二期。単位が付与される正規の授業だ」
弓弦羽が激しく眼を瞬く。
「修士ごときの私が?」
重々しく大藪が頭を振る。
「春にはドクターだ。おめでとう」
素っ頓狂な声を上げた弓弦羽に、二人がにやついた。
「先日論文を発表しただろ。あれはな、学位論文公聴会だったんだ」
弓弦羽は目を瞬くだけだ。
「声を掛けてくれたのは教授会だ。俺はお前さんを引っかけたくてね。いや、苦労した」
学位論文申請書の一枚目を偽造し、「論文発表申請書」に題名を変えてPDFファイル化し、それを弓弦羽に送りつけて最後のページに署名捺印させた。学位論文の題名は一枚目にもあったが、そこは直筆でなくても構わないからな、と大藪が嬉しそうに説明する。
「一枚目をすり替えて中佐が提出したんですか」
田原君が手伝ってくれたから可能になった、と大藪が笑う。
「それだけじゃない。減俸を忘れちゃいないだろ。あのカネは学位論文審査料に使った。流石に本人が出さないと不味い。俺の財布から出す気は毛頭無いし」
悪党、と呟いた弓弦羽に大藪が大笑いする。
「というわけで、国際協力学の博士号が認定された」
弓弦羽の胸に疑念が湧いた。一応自分は有名人だ。悪名だが。それが理由で客寄せパンダ的に扱われているのでは。本当にまともな審査が成されたのか。
「なぜ私なんですか」
語気鋭く問うた弓弦羽に、大藪の眉が上がる。
「どういう意味かな」
「私の知名度を利用しようと考えたのでは。CGOの宣伝になりますね」
鼻で笑った大藪を弓弦羽が睨む。
「大学側から話が来たが、切っ掛けはしらん。でも大学側は君が発表した全論文を要求した。そして審査会にかけられ、その上で公聴会で君に発表させた。質疑応答は英語の口述で。違うかな」
まあそうでしたね、と弓弦羽も認めた。
「最終試験は口述試問と語学だ。それを公聴会で同時実施してもよいと日邦大の学位認定要項資料に明記されている。以上の手続きを経て学位論文公聴会報告書が作られ、委員会で審議が行なわれた。私も結果を見せてもらえた。メタくそに貶した委員もいたぞ。だが八割越えの賛成者をえて授与が議決された。合否レベルは三分の二以上だ」
弓弦羽は眉をしかめたまま反応しない。
「ちゃんと手続きを一つ一つ進め、その上で審議された。大学側が恣意的に行動したなら、八割七分なんて中途半端な賛成票になるか? それにだな、大学の運営と教授会は全く別の組織だ。研究教授に関する事柄は教授会に一任される。学長は学校運営に責任を負う。互いに口出しできないんだよ。大尉、君は正々堂々と通過したんだ」
弓弦羽は頭を冷やして考える。学生の確保に四苦八苦するのが大学だ。その学生の聴講数を競うのが教授たち。一コマでも人員が増えれば、その立場が脅かされる。教授たちと契約するのは大学だ。二つが結託して行動するのは確かに難しそうだ。
「穿ちすぎた様子です。申し訳ありません」
深々と頭を下げた弓弦羽に、大藪は笑って返した。
「いいさ。そう思うならまだ大丈夫。どうだ、やるか」
「それ以前に、CGOの規定上不味いのでは」
大藪が頷いた。
「幹部以上は副業で収入を得ることを禁じているからな。だが大学側もカネを出さないと不味い。月五万程だそうだ」
九十分授業を週一だからな、と弓弦羽は納得した。
「その給与はCGOが受け取り、全額異病被害者の支援事業に使うとして総本部長の同意を得た。授業中に状況が発生したら行動して構わないそうだ」
見込み違いなら一年で打ち切りですね、と呟いた弓弦羽に大藪が頷いた。
「あたりまえだ。無能な人材が教鞭を執れるほど世の中は甘くない」
「やらせてください。最善を尽くします」
「では決定。次だ。ゴミ箱を漁らせてからでは時間が勿体ない。でも後で確認しろよ」
なんだろう、と首を傾げつつ弓弦羽は頷いた。
「認定された幹部に上級教育を受けさせる制度が出来る。大尉、君もそれで院の後期に進まないか」
また眼を瞬いた弓弦羽に大藪が概略を説明する。
基本、防大の研究科に進むシステムと同じだ。自衛隊では不文律だった二年以上の幹部勤務ではなく、一年以上の勤務と明記され、且つその制度を利用した者は終了後最低二年間の勤務が義務となる。
「大尉は来年三月末、国際協力学の博士号を授与される。それなのになぜ、と思うだろう。君には保険が必要だからだ」
三年間の後期課程を経た課程博士にはその良さがある。それに準じる知識と教養を持つと判断された修士保持者が論文審査を経て認定される論文博士にも実績という良さがあると大藪は語る。
「課程博士の方が上だと世間では思われている。課程を修了しても博士論文が書けなくて、学位を授与されないオーバー・ドクターが多いからだ。一方そのオーバードクターは、良質の論文を書きまくる論文博士の存在が疎ましい。両方を取得したら強いぞ。ダブル・ディグリーの一種だな」
ダブルディグリーは学位の複数保持者の意味だ。ただし名誉博士号は含まれない。
「国際関係論の学位狙いでの研究を教授会は希望している。講義でも安全保障学修士のエッセンスを加えた教授をして欲しいそうだ。大尉の嗜好に合うかどうかだが、そこはなんとかしろ」
弓弦羽は考え込んだ。研究分野に関しては問題はないし、博士号は権威の看板に過ぎない。多要素を有機的に絡めて研究するには、総合大学の日邦大は最適だ。深層心理に軍事馬鹿が根付くと歪みがちになるのは実体験でわかった。軍人が政治に深く関与する国もあるので、そういう研究も必要だ。それは防大研究科に任せればいい。
もうひとつ。日邦大三島の教授会も常識人の集まりの筈だ。ならば階級組織の中間職相手に直には相談しない。組織の最高責任者に連絡し、理解を得た上で中間職を紹介してもらうのが社会のルールだ。先ほども総本部長の名前が出た。講師を務めろといい、今度はダブルディグリー。となると。
考察を終えた弓弦羽が眼を瞬いた。
「私に研究教授職に進めと仰るのですね」
大藪がにやりと笑った。田原は面白そうに弓弦羽を見詰めている。
「私を含む少数の人間はね。大尉が現場で埋もれるのは勿体ない。本来の道をいくべきだ。なに、新しい世代がちゃんといる。心配は無用だ」
なるほど、と弓弦羽は内心納得する。中佐を含む上層部の人間は、俺が運命のジョーカーを引く前に転身しろと強く勧めたいわけだ。中佐は旧帝大出身だったなと思いだした。上層部と中佐を結ぶパイプがあるとしたら、それは学閥ではないか。
だが、と内心首を横に振った。学費は税金から。そして給与まで出るのなら。
「有り難いお話ですが、院に進んでも出動できる保証はあるのでしょうか」
その点は未定だな、と大藪は認めた。
「ではお受けできません。学生のガーディアンに顔向けできませんし、私個人としても困ります」
「私的な理由か。よければ聞かせてくれ」
「私は瀬織君と婚約しました。彼女を護れないのでは意味がないのです」
大藪の顔に軽い落胆が表れたのに弓弦羽は気付いた。
「なんとも曖昧だね」
「二人の間では話が纏まりました。彼女が大学院を終えるまで頑張って、私も転職するつもりです。瀬織君の母親にはまだ話していませんが」
「指輪を嵌めているじゃないか。婚約成立だろうが。やれやれ」
大藪の反応に弓弦羽は戸惑った。だがそれは置いておき、話を続ける。
「誰も護れないのでは、CGOに在籍する意味がありません。それなら退職して市民と同じ立場に身を置き、自力で博士課程を終えます」
大藪は考え込み、田原は頷いた。
「万が一に備えて、銃の携帯と行動の許可をいただきたいです。それに義務から長く解放されたら、復帰できなくなりそうで怖いのです」
それに国民への負債が増えちまう、と弓弦羽は心の中で叫んだ。
じっと弓弦羽を見詰めていた大藪が頷いた。
「解った。上申してみよう。とりあえず受験手続きしておきなさい。全ては合格してからだ。さんざ騒いでおいて、不合格でしたじゃ話にならん」
たしかにそうですね、と弓弦羽も頷いた。これで考える時間を得たと満足する。
「難しい話はこれで終わり。田原君、あれを出してくれ。大尉、彼女の母上に会うのは早い方がいいぞ」
大藪が笑いながら弓弦羽の左手指を指さした。
「初顔合わせの席で出来ちゃったなんて言われた日にゃ、温厚な俺もぶち切れる。幾つになっても子供は子供なんだ。親の立場も尊重してやれ」
真顔になった大藪に弓弦羽は苦笑いした。気遣いしてくれる中佐にはある程度話しておくべきだと判断する。
「実は今夜こちらに来るんです。二泊三日で。今の話は私から伝えさせて下さい」
ほう、と声を上げた大藪の横でみたらし団子の紙包みを開く田原の手が止まった。
「結納まで一気に?」
いや、そこまではと手を振る弓弦羽の顔には緊張が滲んでいた。
「妻の両親と面識があった俺でも、あの時はなあ……そういえば瀬織君は?」
「事務室で神納少佐とだべってますよ」
田原に呼ばれて二人も来た。神納はサマースーツ、瀬織はデニムパンツに緩やかなシャツを着ている。
「瀬織君、聞いたよ。少し早いかも知れないが、おめでとう」
頬を染めて頭を下げる瀬織の横で、神納がニヤリと笑った。
「私の勝ちですね。逃げちゃいけませんよ」
「くそ、忘れていてくれと願っていたが。十万、盆明けに払うよ」
まいどあり、と神納は高らかに笑う。弓弦羽は呆れ笑いを抑えきれない。
「菅﨑警視は五十万だろ? 奴を日干しにしてやれ」
「フリーズドライ並にからっからですよ。五分前にネットバンキングで入金させました。煩悩男のネタは沢山握ってますからね」
美和さんって勝負師だ、と呟いた瀬織に皆が笑う。
「転んでもただでは起き上がらないのが私だから。津佳沙も見習いなさい」
「ええと……そうですね」
ぶつくさ言う弓弦羽に皆にやついた。
「瀬織君、夫婦円満のコツを伝授しよう。表では旦那を立てる。家では尻に敷け。そしてベッドでは睦まじく。これに尽きるよ」
この私がそうだから、と大藪は明るく笑う。
開いたドアから年配の女性が津佳沙に促されて入室した。
「いらっしゃい、お母さん」
津佳沙と母親の佳織が笑顔を返す。遠目には姉妹に見える親子だ。佳織は津佳沙より五センチほど背が低く、髪の毛を伸ばしているがとても似ている。
「滉、忙しいのに悪いわね」
快活に声を掛ける佳織に弓弦羽は自然に微笑みを浮かべた。娘に案内されて佳織は興味津々で見て回る。その二人を見守る弓弦羽はこの三日間を振り返った。
初日は弓弦羽の部屋で、出前の鮨をつまみつつ会話した。弓弦羽の将来を不安視していた様子の佳織だが、最新情報を聞いて二人は安堵し、彼女は二人の婚約を了承してくれた。それまで弓弦羽さんと呼んでいた彼女が、娘と同じ呼び方に変えたのはその時だ。弓弦羽もそれに習った。
二日目は大社の祭りを親子で見た後、鄙びた日帰り温泉で汗を流してから弓弦羽と合流。三島名物の鰻を三人で味わってから夜の祭りを満喫した。
そして今日、国分寺市の自宅に帰る前に二人の仕事場を見たいと彼女は訪問した。
「もっと殺風景だと思っていたけど、そうでもないわね。特にこっちは居心地がいい」
ソファに座った佳織は笑い、加納さんは何時来るのと続けた。
「神納少佐は沼津で仕事が入りました。次の機会に是非とのことです」
津佳沙も残念そうな顔をする。だが直ぐに切り替えた。
「学祭があるよ。今日は里沙と由莉菜が来るし、あと石原さやかって後輩を紹介するね」
佳織が手を叩いて喜んだ。津佳沙がメールを送信すると、直ぐドアがノックされた。
思索の森を散策した一行は駐車場に向かう。その道すがら、佳織は弓弦羽が纏うジャケットを指さして笑った。
「見るからに新しいわね、それ」
「ええ、古いのは病院が捨てたんでしょう」
雨に濡れた時に備えて弓弦羽はスペアを一着用意していた。濡れた皮は日陰干しでじっくり乾かさないと、縮んで堅くなってしまうからだ。合成繊維で作られた今風のライディングジャケットはその点大丈夫だが、あまりに派手すぎるので弓弦羽は使わない。
含み笑いをした佳織の脇で、津佳沙の挙動が不審になった。
「古いのはね、津佳沙が大事にしているよ。お守りだって」
「お母さん!」
津佳沙が慌てて母親の口を封じようとしたが。
「これを着て大事な人が私を護ってくれたんだって。その時の津佳沙の目ったら」
囃し立てられた津佳沙は真っ赤になった。その彼女の髪を母は優しく撫でる。
「津佳沙は本当の姿を余り見せないんだけど。滉の前では素直だよね」
正門手前で車を止めて下車した佳織に挨拶を終えた弓弦羽は皆に場所を譲った。
お盆でも構内は学生が往来している。学食目当てか、短期のアルバイトを探しに来るのか。はたまた就職課に用があるのかな、と弓弦羽はぼんやりと彼らを見ていた。桜の大木で夏の喜びを歌い上げる蝉は今日も元気だ。
「どうしたの? 気分悪いの?」
振り向いた弓弦羽は、背中を丸めて俯いた佳織が僅かに身体を揺らすのを見た。慌てて弓弦羽も声を掛けたが、彼女は反応しない。柴多たちも口々に声を掛けるが。
肩に手を掛けた津佳沙が揺すぶると、俯いていた彼女が面を上げた。
佳織の形相に弓弦羽は息を呑んだ。目を血走らせ、憤怒の表情を浮かべたその表情は。
「ねえ、お母さん?」
雄叫びをあげた佳織が津佳沙の首を両手で締めあげる。柴多たちは悲鳴を上げてその手を引きはがそうとする。が、腕の一振りで跳ね飛ばされた。悪夢を見ている気分で弓弦羽は待避を叫び、右腰に手をかける。膝を突いた津佳沙の口から、赤黒くなった舌が覗く。飛び出しそうに見開かれた彼女の目から涙が零れた。
デルタエリートを佳織の頭部に指向した弓弦羽は躊躇った。
自分自身に気合を掛ける。撃鉄が落ちる寸前、津佳沙の言葉が脳裏に浮かんだ。銃口を僅かに下げ、全神経を照星に傾注する。
轟音が連続し、佳織の首に穴が穿たれた。
頚椎毎神経束を破壊された佳織は全身を痙攣させて崩れ落ち、暴れ始める。一緒に倒れた津佳沙の襟首を弓弦羽は左手で掴み、一気に引きはがした。
咳き込み喘ぐ津佳沙を抱き留め、右手のデルタを佳織に向け続ける。弓弦羽は何も考えたくなかった。早く目覚めろとそれだけを願う。
「お母さん!」
潰れた叫びと共に津佳沙は藻掻く。銃をホルスターに戻し、両手で津佳沙を制した。身を捩る彼女の肘打ちが当たるが耐える。
暴れていた佳織が徐々に静かになっていく。
泣きわめく津佳沙の声だけが辺りに響く。
さざ波のような痙攣に変わった。弓弦羽は腕の力を緩めた。佳織に縋り付いた津佳沙が泣き叫ぶ。ある者は悄然とその姿を見詰め、ある者は顔を背けた。
歯を食いしばって弓弦羽はジャケットを脱いだ。
佳織の瞼を閉じてからジャケットで覆う。顔が隠れる寸前、彼女の両のまなじりから零れた涙を見た。
嗚咽する津佳沙が弓弦羽を睨む。絶望の思いが弓弦羽の胸に満ちた。
尻餅をついた。頬が熱い。
「なんで! なんでよ!」
飛びかかった津佳沙に押し倒された。殴られても防御する気力はなかった。
死を弓弦羽は切望した。だが右腕は瀬織の足に押されて動かせない。
撃ち殺してくれと弓弦羽は願った。
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