第二章 躊躇いと疑心
車を指定ロットに止めた弓弦羽は、ヘルメットとジャケットを取り出してドアをロックした。プレハブ倉庫に重い足取りで向かいながら首を回したが、頭蓋に響いた堅い音に顔を顰めた。
ここ六日、弓弦羽は毎日出動している。通算八回だ。県立北高等学校と私立北小学校で各一件、それ以外は全て遠隔地の範疇だ。
昨日は日の出町への出動を要請された。その地域にいたガーディアンが最近転職による転勤をして空隙となった地区だ。湯浅は別の現場に出動していた。谷田にある三島警察署と日邦大出張所を比べれば明らかに三島警察署が近い。だが警察に回せる人員がいなかった。一番近い三嶋大社派出所が大社内の対応で出動中だったから、弓弦羽に声がかかったわけだ。穏やかな日曜日の午後、ありふれた家族の一つが破滅した。母親が発病し、自室に逃げ込んだ娘を惨殺。その後、風呂場に逃げた父親を追って。
心に渦巻く様々な思いを押し殺し、思考を逸らそうと試みるが上手くいかない。普通の人が一生掛かって見送る死者をこの六日で超過したな、と考えて肩を落とした。
シャッターを開けて押し出したCBのエンジンを点火する。エンジンが暖まるまで車体をシリコン布で磨き始めた。タイヤ表面や駆動チェーンを目視確認するその目は暗い。
シリコン布を棚に戻した弓弦羽はシャッターを下ろして施錠した。ジャケットとヘルメット、そしてヘルメットの中に突っ込んでおいたグラブを装着する。次にスマホをメーター手前のホルダーに接続すると表示が変わった。アイコンに触れると、直ぐにヘルメット内蔵のスピーカーから管制官の声が流れ出る。ブルートゥース接続だ。バッテリーは二日持つはずだが、朝スイッチを入れて夜までそのままなので毎晩充電している。
「おはようございます、弓弦羽大尉。気持のいい月曜日の朝ですね」
歌うような抑揚で告げた彼女に苦笑いした。
「おはよう。毎日が月曜日気分だよ。本日も感明五五」
携帯には無用だろ、と内心毒づくのも朝の儀式の一環だ。
「感度及び明瞭度を確認。今日も気を付けてください」
「財布と命を落とさないよう気を付けますよ。では」
通話を終えた弓弦羽はバイクに跨がり、静かにギアを入れた。メーター内の水温計は既に通常値を示している。燃料計も満タン表示。クラッチを繋ぎ、全力加速しつつ全身の感覚を研ぎ澄ます。
百キロを超した瞬間、フルブレーキを掛けた。アンチロックブレーキの作動を身体に感じる。燃料タンクを膝と太腿で挟み込んだ弓弦羽は、姿勢を乱さずに加速及び急制動のテストを終えた。身体に感じる異常はない。停止直前にクラッチを切る。
完全停止しても足は出さない。バランスを保ったままギアを蹴り下げ、右後方を目視確認した。アクセルを大きめに開け、フルバンクで一気にターンする。警察の白バイが得意とする方向転換だ。住宅地に多い四メートル道路でも一挙動で方向転換できる。
十二号館脇に描かれた長方形のグリッドにバイクを止め、右ミラーにヘルメットを差してキーを抜いた。スマホも抜き取ってグラブと共にポケットに突っ込む。朝八時前の構内は人影もまばらだ。守衛さんと麻の挨拶を交わしてから階段を駆け上る。
今日は平穏でありますように、と祈りつつドアを開けた。
窓のブラインドを調整してからパソコンを起動し、電気ポットに残っていたお湯を捨て、水を足した。電気コンロに薬缶を置き、ルイボス茶に使うお湯を沸かす。
支部から送付された電子資料を眺めていた弓弦羽は、小さな電子音を聞き取った。ドアの指紋認証を誰かが作動させた音だ。
ドアを開けた瀬織は椅子に座った弓弦羽を認めて急停止した。大型のスポーツバッグを肩に掛けた彼女は目を大きく見開いている。今朝の彼女はぴったりしたクロップデニムにパンプス、上はシャツだけだ。その装いに夏を感じ、弓弦羽の胸がときめいた。
「よっ、おはよう。早いね」
「お……おはよう。滉は何時もこんなに早くから?」
「勝手に目が覚めちまう。年は誤魔化せないよ」
瀬織の笑顔に気付くことがあったが、問うのは躊躇われた。
「またまた。ええと、シャワー使わせてください」
はいよ、と弓弦羽は軽く頷く。彼女はコネクティングドアに姿を消した。
「朝練か。サークルにしては気合入ってるな」
呟いた弓弦羽が直後に首を傾げた。だが画面に目を戻す。CGOの週報は最初の見出しだけ見て削除した。総本部長の激励や着任連絡に興味はないし、殉職者一覧などは尚のこと。次に開いた異病者発生状況のドキュメントは真剣に目を通す。
戻った彼女をちらりと見た弓弦羽は、疑問の一つに答えを得た。さっきの彼女は化粧を全くしていなかったが、今は何時もの薄化粧だ。
ふむ、と改めて首を傾げた。彼女が此処のシャワーを使うのは今回が初めてだ。ならば構内にサークルが使用できるシャワールームがあるわけだ。本当に朝練だったのだろうか。
ドアに手を伸ばすでもなく何か迷っていた彼女が面を上げた。
「実は……昨日給湯器が壊れちゃって。学校のシャワールームは十時以降だから」
弓弦羽の眉が上がった。
「俺の処も怪しいわけだ。それで修理は?」
「古い型だから部品を手配しないと駄目だって」
三日は最低必要らしい。
「直るまで、此処のシャワー使わせてください」
全く構わないよ、と頷いてから弓弦羽は気付いた。
「毎日着替えを抱えて通うわけ?」
しょうがないですね、と笑う彼女に弓弦羽は頭を振った。
「俺んちの風呂使えよ。シャワーじゃ疲れも汚れもとれないよ」
遠慮する彼女を余所に、弓弦羽はデスクの中に屈み込む。天板裏にはりつけた封筒を引きはがし、スペアキーを取り出して彼女に差しだした。まだ遠慮する彼女に苦笑いする。
「助け合いが基本だろ。夕方六時に給湯開始されるけど、変更していいよ。玄関を見れば津佳沙が使っているかどうか直ぐ解るし」
漸く遠慮していた彼女が漸く鍵を受け取った。
「……お言葉に甘えます」
「うわ、ストレス溜まるわ、それ。厭世気分に陥りそう。ブラインド締めてロッカーの中で膝抱えていようかな」
目を瞬いた彼女がほんわりと笑った。
「うん、有り難う。滉」
「俺のところが壊れたら助けてくれよ。風呂と酒が憩いの時なんで」
笑顔の彼女に弓弦羽の胸が疼いた。が、表情には出さずに彼女を送り出す。
ドアを引き開けた彼女が振り向いた。
「三時半から二時間練習するけど見に来ない? 友達が滉に会いたいって五月蠅くて」
異病者対応のレクチャーでバスケットボールを例に説明した際、自分も以前やっていたと話したのを弓弦羽が思い出した。まあ見るだけならと頷く。
「正門左手の大講堂だよ。待ってるね」
形よい足と腰を見送った弓弦羽は、ユニフォーム姿の津佳沙を想像してにやけ、そして困惑した。
報告書の束を抱えた田原少尉を見送った弓弦羽が溜息を吐いた。もう四時過ぎだ。ポケットに収めたスマホと耳に掛けたヘッドセットを確認し、大講堂に歩き出した。
途中で少し方向を変えた。昼飯は学食でとれという命令を守らないと。
学生用食堂は営業していたが、メニューが限定されていた。肩を竦めた弓弦羽は、食券機の点灯したボタンを適当に押す。
「唐揚げうどん?」
珍妙な食事に結構満足した弓弦羽は、大講堂の観音開きドアから中を覗き込む。男女混合で練習試合をしていた。瀬織を探すまでもなかった。ヘアバンドで髪を押さえ、上気した彼女は生き生きと舞っていた。
「弓弦羽さんですね。会長の柴多です」
流れるような彼女の動きと生き生きとした表情に見とれていた弓弦羽は、近寄った女に声を掛けられて我に返った。
「お邪魔してます、弓弦羽滉です」
身長百六十五程の彼女だが胸が凄い。長い髪をポニーに纏めた彼女が面白そうに弓弦羽を見上げる。彼女の胸に視線を落とすな、と弓弦羽は肝に銘じた。幹部はネクタイを締めている限り紳士であれ。
「弓弦羽さんもどうです? 靴底をあそこで洗えば大丈夫ですよ」
入り口脇に置かれた数台の装置を柴多が指さした。弓弦羽の心が揺らぐ。
「ありがとう。でも万が一怪我をすると任務に障るので。残念です」
拳銃を腰に着けて走り回るのも気が引けるが、一番の懸念を弓弦羽は口にした。なるほど、と頷いた彼女はそれ以上誘わなかった。
バスケを話題に会話を続けるが、弓弦羽の視線は柴多よりも瀬織に向けられ気味だ。それに気付いた柴多はにやりと笑っただけですぐその笑顔を引っ込めた。
試合が終わった。
「大尉、お待たせしました。私とワンオンワンやりましょう!」
すぐに叫んだ瀬織に首を横に振ってみせた。弓弦羽に駆け寄る彼女を仲間が囃している。
「残念だけどやめとくよ。突き指したら銃を握れない」
ああ、そうでしたねと残念そうな顔をした彼女に、弓弦羽は正直申し訳ない気持を覚えた。ボールを介して彼女と真剣に戯れたい気持は確かにある。
だが彼女は引き下がらなかった。フリースローなら問題ないだろうという。弓弦羽もそれならと了承する。恥をかきませんようにと祈りつつブーツを洗浄機に突っ込んだ。
久しぶりの感覚に満足した弓弦羽は、ジャケットを着ようとしたが邪魔された。柴多と瀬織が二人して興味深げに肩と背中に触れている。
「なるほどなるほど。おい、君たちも鍛えろよ!」
最後の部分はコートでロングシュートにトライする男たちに叫ぶ。気合の入った返事が戻った。今、フリースローラインとセンターサークルの中間でシュートする彼らの成功率は三割程度だ。バスケットに届かないシュートも多い。
弓弦羽もフリースローラインから始めたが、最後はポスト反対側のセンターラインの外まで伸ばされた。十四メートル半越えだが、それでも成功率は六割を超えた。
「あのバネは練習プラス、バーベルとプロテインの成果なんですか」
呆れと賞賛が入り交じった瀬織の問いに苦笑いした。
「防大でバスケと一緒に、カッター競技もやったんだ」
オールで漕ぐ手真似をすると柴多が大きく頷いた。
「ボート! トレーニングルームにあったな」
「トレーニング機器のは一人でオール二本のレガッタだね。クルーが担いで運べるボートを使うエイトやフォアが有名だ。俺がやったのは排水量一トン半の船をつかう奴。一本のオールを一人が操るんだ」
目を瞬く二人に、弓弦羽は簡単な説明を始める。
漕ぎ手十二名そして艇長と艇指揮各一名が総木製の短艇に乗り、往復二千メートルを漕ぐ競技だ。防大では部もあるが、全二年生が四月一杯これでしごかれる。弓弦羽はバネと持久力を買われて一年次から部に参加した。十四人が息を合わせる大事さと諦めない気迫を学べたと弓弦羽は思っている。それが切っ掛けで海自を志望したが……。
表に出た弓弦羽は空を見上げた。初夏の今、夕暮れは未だだ。
数歩歩いた弓弦羽は大講堂を振り返り、やれやれと頭を振る。その顔には笑みがあった。
「気遣ってくれたんだな」
詰め所でキーボードを叩いていた弓弦羽は、プリンターのアイコンをクリックしてから腕時計を見た。
「あっちか」
もう六時半だ。彼女は大学のシャワーを使ったらしい。プリンターが吐き出した書類を取り上げたその時、私用の携帯が震えた。
メールを読みつつ笑う。
「飲み会大いに結構。何人風呂を使おうが気にしないよ」
笑顔で返信を終えた弓弦羽は、もう二つやっつけるかと呟いてキーボードに向かった。
書き込みされたプリントアウトと液晶画面を交互に見つつ、キーボードに指を走らせる。弓弦羽の自宅一階のリビングだ。ソファは端に追いやられ、書斎机が中央に据えられている。その脇の組立てテーブルにはパソコンの筐体とレーザープリンターが鎮座し、周囲には本が山積みだ。肘掛けのない椅子に座る弓弦羽は器用に胡座を掻いている。
弓弦羽の指がキーボードから離れた。画面に目を凝らしながら、皿に載った焼目刺しを手探りして一匹咥える。頑丈な顎と歯が頭からかみ砕いていく。布巾で指を拭い、取り上げた英英辞書を捲って別の語を探る。フォントポイントと一頁あたりの行数を論文誌は指定している。行からはみ出す単語はハイフンで繋げば済むが、それが多用された論文はみっともない。
次ページにスクロールする。また手探りでビールが入った保温マグカップを取り上げた。デスク上の書類や書籍に結露が零れるのを嫌って弓弦羽はグラスを使わない。弓弦羽は曲げた膝の上にマグカップを載せ、ブツブツと構文を呟きながら指を折って文字数を考え、頷いてはキーボードに指を走らせた。
玄関のチャイムが鳴った。両手の指を使いつつ呟いていた弓弦羽が面を上げる。津佳沙かなと呟き、胡座を解いて勢いよく椅子から腰を上げた。
「よっ。行儀悪くてごめんな」
深皿を手にした瀬織が立っていた。ショートパンツにTシャツのラフな格好をした彼女は、口から目刺しの尻尾が突き出た弓弦羽をみて小さく笑う。その笑みに弓弦羽の心は癒やされる。
「お風呂のお礼にこれ。その、騒がしくない?」
肉じゃがが入った皿を受け取った弓弦羽は首を横に振る。
「殆ど聞こえないよ。大丈夫」
安堵した彼女だが、まだ何か躊躇っている。心配なのかと弓弦羽は想像した。言葉より自分の耳で聞けば安心するだろうと手招く。
「肉じゃがは久しぶりだ、ありがとう。お礼に干物を焼くから上がって」
脱いだ靴をちゃんとそろえ直す彼女を感心の目で見る弓弦羽が目刺しを飲み込んだ。彼女がいると、と弓弦羽は内心呟く。心の重荷もそれを忘れる為の論文作成も頭から追い出せるなと。
ダイニングチェアに座った彼女に肴の皿と缶ビールそしてグラスを渡し、弓弦羽は火を付けたグリルに網に乗せた目刺しを突っ込む。火加減に注意を払いつつ、彼も缶ビールを呷る。
「自分で料理しているんだね」
振り返るとグラスを手にした彼女がキッチン周りを見渡していた。
「お袋が死んでから、オヤジと二人でやっていたんだ。今は時間がとれないからレトルトに頼りがちなんだ」
言ってから弓弦羽は後悔した。グリル奥の様子を見る振りで腰を落とす。この後焼くカワハギより気を遣わずに済むのだが。
「自分で作るよりレトルトのほうが美味いしね。干物を焼くのは得意だから安心して。津佳沙は一人暮らし三年目だよね。慣れた?」
饒舌になった自分を叱る。途中椅子が動く音がしたが、彼女の目を見るのが怖くて、弓弦羽は振り向けなかった。グリルの窓を覗き込んで、火加減を調整する。
「うん、作るのは好きだから。でも一人分だけ作るのって結構大変で。食材が余るから」
カウンター横、シンクへの動線辺りに移動する声を弓弦羽は耳で追う。
「今日は人数多いから、考えずに作れて楽しかった」
なるほど、と相づちを打ってビールを呷る。弓弦羽もその辺は苦労している。煮物系が好きだが、少量を美味く作る技術がない。大量に作ると冷蔵庫保管しても痛んでしまう。食中たりで欠勤などもってのほかだ。自作しても日持ちのよい食材で出来る料理となれば、同じ献立が連日続く。自作餃子やハンバーグを冷凍したこともあるが三日で飽きた。作る作業は気が紛れて楽しいが、変化がなく左程美味くもない食事は心を萎えさせる。
でも、と弓弦羽は考えた。彼女と協力して夕飯を交互に二人分作るとしたら。手間は変わらない。俺は自分の得意分野だけにすれば彼女が困ることもないし、献立も変化が生まれるだろう。そして――強く瞬きした弓弦羽は希望をゴミ箱に放り込んだ。寂しさが作った夢は虚しい。彼女が気になるのは俺の弱さ。あぶねえあぶねえ、と内心呟く。
「あの……私、足手まといかな」
思わず振り向いた弓弦羽は、真剣な眼差しの彼女と目が合った。
「滉はてきぱきできるのに……私は……」
俺は優秀じゃないよと呟いた弓弦羽は、彼女が続きを待っているのに気付く。
「ちゃんとバックアップしてくれたじゃないか。動きも判断もいい。いい相棒だよ」
「じゃあ、なぜ視線を逸らせるの。内心呆れてるんだよね」
意味がわからず、目を瞬いた。
「え……逸らしていたか」
悲しげな面持ちで彼女は頷いた。今朝も、そしてバスケの時もと。
弓弦羽は真剣に過去を振り返った。大講堂で舞う彼女に見とれていた自覚はある。彼女の微笑みに惹かれている。彼女が詰め所に来るのを心待ちにしている自分にも気付いている。でも目を逸らしたりはしていない筈だ。黙考を続け、俺の馬鹿さが行動に出ちまったかと内心舌打ちをした。
「無意識だと思う。防衛機制の現れかな」
美和に教わった言葉を探し当てて一息ついた。グリルの中身をひっくり返しながら次の言葉を探す。彼女はいい奴だ。彼女を傷つけないためには、俺の恥を晒すしかないんだろう。だがある一点だけは暈かさないと駄目だ。可能性があるわけはない。でもそれを知ったら彼女の負担になる。それだけは避けねば。
「眩しいんだよ、正直ね」
立ち上がった彼女がカウンター入り口に移動した。弓弦羽はそれを背中で察知する。がそちらを見ずにグリルを閉じて火力を最小とし、皿に電気ポットのお湯を入れて暖めながら言葉を探す。
「四月のあの日。そして今。どっちも津佳沙だ。呆れてなんていない。真逆だよ。でも……ええと、無理はするな。もう限界だと思ったら辞めなさい」
何を言っているのか解らなくなって言葉を切った。彼女は沈黙を続ける。
お湯を捨てて布巾で水気を拭き取った皿に焼き上がった目刺しを載せ、熱い網に小カワハギの干物を載せる。火力を必要以上に念を入れて弄る。ついで目刺しの載った皿にラップをかけてから厚手のふきんで覆って保温した。
何も言わない彼女に、弓弦羽は目を向けられない。苦しさに負けた。
「君がいてくれる、後ろにいると解っているから安心できる」
日邦大から飛び出すとき、彼女がいるから此処は大丈夫と思っているのは事実。弓弦羽は再確認した。洗礼を生き延びた彼女はやれる。
「足手まといじゃない。呆れたり嫌ったりしていない。君は仲間で、私の相棒で」
これ以上言ったらやばいと弓弦羽は口を噤んだ。強引に纏めちまえと自棄を起こす。
「俺の態度が全て悪い。ごめん」
「……一緒に仕事してくれるの」
少しの間があったが、その問いに安心した。さりげない風を装って彼女を見る。彼女はまじまじと弓弦羽を見詰めていた。
「背中預けてるよ。これからも頼むね」
笑顔で幼く頷く彼女に思わず顔を逸らしたくなる。が微笑んで見せた。死なせたくないと胸中で叫び、そしてそう思った己に戸惑った。
炙り終わったカワハギを取り出していると、玄関ドアがノックと共に開けられた。半分だけ身体を入れた柴多と弓弦羽の目が合う。彼女がにやりと笑った。
「こんばんは。津佳沙のお味はいかが」
「里沙、あんた何言ってんの!」
「津佳沙の作った肉じゃが、その味についての質問だよ。何が問題なのさ」
腰を浮かせた瀬織が言葉に詰まった。
弓弦羽の肩が、そして手にした菜箸が震える。我慢したが無理だった。
「ごめん。俺が引き留めたんだ。お礼の干物が焼き上がったから持っていって」
お邪魔します、と上がり込んだ彼女が部屋を見渡した。彼女はチェック地のパジャマ姿だ。胸部のボタンは辛うじてかかっている。
「あ、書き物していたんだ。五月蠅くて集中できませんよね」
「いや、全然。酒は足りてる? ビールなら幾らでも提供できるよ」
無邪気な笑顔を浮かべた柴多は首を少し傾げ、頑として顔から視線を逸らさない弓弦羽を見詰める。
「弓弦羽さんも飲んでいるなら一緒に飲みましょうよ。肉じゃがを口実に津佳沙が誘うはずだったんだけど、当の本人は自分の用事を優先させたみたいだし」
「いや、俺が仕事絡みの話持ち出しちゃってね。でもなんで肉じゃがで釣れるとわかったのさ。俺言ったっけ」
瀬織は頬を染め、柴多はにたにた笑う。
「独身アラサー男が飢えているであろうものをバズセッションでリストアップしまして。その中で津佳沙が得意なものを選択したわけ。ちなみに第一位は津佳沙ごほ――いてっ!」
瀬織に脇腹をド突かれた柴多が騒ぎはじめた。
料理を手にした皆は弓弦羽の部屋に移動した。近所の目を弓弦羽が気にしたからだ。
パジャマとTシャツが半々の皆は賑やかに飲みかつ食う。瀬織と弓弦羽は焼うどんとサラダを出す。弓弦羽は瀬織に言われるままにうどんを電子レンジで温め、レタスを千切っただけだが。
「結構格好いいのに彼女無しってことは、性格や趣味に問題あるんだね。もしかして性的嗜好が普通じゃないとか」
新しい缶ビールを自分で取り出した万城真悠が笑う。この二年生は見た目大人しいが、弓弦羽に向けての発言は結構辛辣だ。派手なTシャツをだぼっと着ている。
確かに振られたけどほっといてくれよと肉じゃがをぱくつきながら笑って返した弓弦羽に、彼女は微妙な笑みを浮かべてみせた。
三年の柴多に趣味を問われた。
「昔は旅行。でも今は休みが取れないからね。ド田舎の温泉に行きたいよ」
田舎の温泉巡りを目的に四駆を買ったけど意味ないね、と弓弦羽は苦笑いした。このご時世でも国内旅行はそこそこ人気だ。識者は海外旅行に航空機が使えなくなった反動だと言うが、弓弦羽は家族との思いで作りを兼ねて心の平穏を保ちたいと皆が願うからではないかと想像している。
「どの辺行ったの?」
関東一円と兵庫周辺、それと北九州周辺と弓弦羽は答え、東北や北海道の鄙びた温泉に行きたいんだよねと続けた。
「その不満を書き物で昇華しているんだよ」
書斎机を見やった皆がなるほどと頷く。
「がちがちの石頭というか、脳も筋肉でできている人だろうと思ったけど」
焼うどんを頬張った三年の須古由莉菜が不明瞭に言い、柴多と顔を見合わせてわらった。彼女のウリは自然体らしい。パジャマ越しにはっきり解る胸ぽっちを全く気にしていない。
「沢山いるズル賢い石頭と一緒にしないでよ。官僚的というか、昇進に人生を掛けている人ね。俺はすこぶる馬鹿な石頭だから」
弓弦羽に皆の目が集中するが、気にせず箸を動かした。肉じゃがは弓弦羽の好物だ。
「弓弦羽さんも偉いんだよね。大尉だっけ」
肴よりビール、ビールが私の血液と公言した石原さやかが首を傾げる。一年だが二十歳だと言い張っている彼女が店で飲むサークルメンバーに合流せず、五人で家飲みする理由はそれかもしれないと弓弦羽は予想している。どう見ても高校生気分が抜けきっていないし、見た目は中学生だ。
「防大の研究科を終えると普通は元の部隊に戻るんだ。でも俺には声がかからなかった。問題幹部を引き取る酔狂な部隊もなかった。餞別で一尉に昇格したんだよ。勉強したくて防大に入った異端児だし、自業自得だね」
高校在学中、母親を事故で失った。生還したが自責で気力を失った父親に負担を掛けたくなかった。授業料は奨学金を狙うとしても、生活費が問題だ。それで全額国費負担の防衛大学に注目した。
高校は特進コースで首席を維持し、バスケで身体を鍛えていた弓弦羽は難関を突破できた。父親は三年ほど後病死したので実家は空き家だ。ご近所は弓弦羽の現職を知っていると思われるので住むわけにも。特別利益の供与は厳禁だ。
「わかった! 上下関係で揉めたんだ」
石原の無邪気な問いに、弓弦羽は笑って首を傾げて見せた。
「面倒見てもらえたから、部下には嫌われてはいなかったと思う。でも上級幹部には睨まれたかな」
「PKOに参加したのは昇進のためでしょ」
柴多の断定に近い質問に、弓弦羽の笑いが苦くなった。忘れられていないのか、それとも彼女が個人的に調べたのかなと嘆息しつつ首を横に振る。PKOに志願する前に二尉に昇進した。あの時は優秀だと上官が騙されたんだろうと笑う。
「防大研究科を受験したいならPKOに志願しろと交換条件を出されてね」
修士課程だよねと瀬織が確認の問いかけをした。
「うん。幕僚長級の推薦が必須なんだけど、実際はそれプラス二年以上の幹部勤務が不文律なんだ。防大の後福岡の幹部候補生学校で九ヶ月学んで、その後第三師団に配属された。その三ヶ月後に三尉になったんだ。この間は曹長だから幹部じゃない。二尉になった翌年六月、研究科に行きたいんですって上官に相談したわけ。中隊長の一尉は励ましてくれた。でも大隊長の二佐には凄く嫌な顔をされた。それでも御願いしたんだ」
部隊の勤務が肉体的に辛かったからではない。勉強時間が確保できない精神的な苦痛に耐えかねて逃亡を謀ったのさ、という本音を弓弦羽は口にしなかった。
「えっと、ごめん。一尉とか二尉って順番だと思うけど、よくわからない」
一番、二番、三番の順番と同様で、尉は一番下っ端の幹部、その上が佐、一番上が昔の将軍になるんだよと簡単な説明をされて石原は頷いた。
「なんでPKOが交換条件になるの?」
弓弦羽が笑った。
「噂されるよ。消費者金融の取り立てから逃げついでに稼ぐんだろうとか、孕ませた女から逃げるんだとか。実際はマジに国際奉仕の為に志願するのにね。というわけで俺の志願動機は不純そのものだったな」
大笑いする皆に、弓弦羽の笑みが微妙になった。
自衛隊の一士、二士辺りは消費者金融のカモだ。若い彼らは、恋人と遊ぶ金が足りなくなると安直に消費者金融に走る。その部下の借金を肩代わりする下士官も利用する。親心でもあり、表面化したときの責任問題を怖れるからでもある。借金を苦にした下士官の自殺は案外多い。班長は大変だ。
「研究科を受験した九月で、幹部生活一年と七ヶ月だった。合格通知は南スーダンで受けた。いや、嬉しかったな。任務にも気合が入ったよ」
「そっかあ。でも昇進早いし修士号をとったんだから勝ち組だよね」
ゆるゆると首を横に振った弓弦羽に、皆は怪訝な目を向ける。
「国際安全保障の修士じゃ意味ないよ。カネになる分野じゃない。博士課程を終えても、軍事的色彩が更に強まるから一般企業には縁がない。理系で博士課程を終えると民間企業から声がかかるそうだけどね」
「ふうん。じゃあ目的はなに」
「長期計画だったんだよね。また数年部隊勤務をして、新たな推薦を得て一般大学の博士課程に進む。軍事と経済その他をバランスよく有機的に連結した研究をしたかったんだ。そして防大でも普通の大学でもいいから、教鞭を執りたいと思っていた。ところがどうでもいい金属の塊を渡されて計画はご破算。自業自得だな」
苦く笑う弓弦羽に皆が目を瞬く。だが瀬織だけは頭を振った。
「でもゼミの教授は滉を褒めているよ。忙しいだろうに次々に新論文を発表している。君たちも見習いなさいって」
皆に見詰められて弓弦羽は困惑した。見てくれる人がいたんだと嬉しく思う反面、恥ずかしい。
「気晴らしだよ。口の悪い友達には、変わった爪痕だなって笑われている」
そういう菅﨑は多分、と弓弦羽は心の中で呟いた。女性の記憶に己を残したいと思っているんだろう。
「報道と全く違う……となると南スーダンも実際は違ったんじゃ? 聞かせて」
柴多の要請に弓弦羽ははっきり躊躇った。
「酒の席で語る話題じゃないよ」
「本人から話を聞ける機会だし。私たちだって国際関係学部だよ。真面目に聞くからさ」
真剣に頷いた皆を見渡し、弓弦羽は渋々首を縦に振った。
「解ったよ。判断はそれぞれで。まず南スーダンの概略から。
スーダンから独立して間もない。豊かな地下資源を持つ多民族国家。この三点が問題の根底にある。民族紛争、資源を独占したい外国勢力、そしてスーダンの干渉だ。スーダンと外国勢力が民族紛争を煽った結果がジェノサイドだ。国連で幅をきかせている諸国が絡んでいるから調停も無理。
PKOには諸国が参加しているけど、日本は首都周辺の道路と水道の建設を担当している。アンミスと略称される平和的な任務だ。でも武装勢力の存在を考えると施設隊、工兵部隊だね、彼らだけじゃ不安だ。だから第三師団普通科、歩兵の俺たちから二個小隊が参加したわけ」
言葉を切った弓弦羽はビールを一口飲んだ。
「俺たちの任期は二〇一三年十月から半年。首都ジュバ市に一番近い宿営地でね、他国部隊からは羨ましがられたよ。物資の搬送が比較的スムーズだったから。遠い宿営地を指定されたサウジアラビア隊は苦労していたっけ。まともな道路がないんだよ。ちょっと雨が降るとすぐ泥沼に化けるような道でさ。
十三年十二月、ジュバでクーデター未遂事件が起きた。直ぐ鎮圧されたけれど、各地で民族紛争が爆発的に再燃した。ジェノサイドを煽ったのはスーダンのガシール大統領。奴が裏で暗躍したのさ。国境付近の油田をずっと狙っていてね。ガシールの背後にいた外国勢力はせっせと紛争を煽りつつ、国連では諸外国の介入反対と平和を訴えていやがった」
何処の国がと瀬織が聞いた。弓弦羽が吐き出した複数の国名に全員が仰天する。常任理事国だ。だが日本国内のマスコミは一切報じなかった。
「アフリカの豊富で多様な地下資源は世界中が狙っている。ビジネスとして首を突っ込むのは日本やEUそして米国だ。でも傀儡政権を作っちまえ、紛争地域を独立させた後に併合しちまえという国もある。必要な武器や資金を提供する見返りとして将来資源を独占させろという遣り方ね。現実の国際社会はアナーキーだ。自国の国益のためなら何をしても許されると考える諸国が多い。それを無視すると絶対理解出来ない。ここまでが前振り」
ビールを二口呷る間、皆は静かに待っていた。
「さて、民族紛争は難民の大量発生をもたらした。皆殺しにされちまうから国連も放置はできない。全PKOが新しいキャンプを大わらわで建設しはじめた。俺たち普通科も小銃背負ってスコップを握ったよ。日中は四〇度を越すからしんどかった。それまでは拳銃だけの携帯だったんだ。外務省の馬鹿は心配無用とか言っていたけれど、他国部隊から警戒情報が廻ってきた。不穏だ、警戒しろとね。
隊長の猪川一佐が官僚と大げんかして漸く小銃の携帯が許可された。でも携行する弾の数に外務省が制限を掛けた。小銃弾は一人に六十発だけ。弾倉二つ分だ」
苦々しく鼻を鳴らす弓弦羽に皆は真剣な目で続きを待つ。
「十四年一月四日。宿営地を早朝出発した俺たちは、九時前に新難民キャンプに到着した。さあ今日もがんばんべえとスコップを握ったその時、八十ミリ級の迫撃砲弾が降ってきた。砲弾を筒の先から落とし込んで発射するアレだ。垂直近い角度で砲弾が落ちてくるから始末が悪い。すでにキャンプは難民で溢れていた。迫撃砲を避けるには壕しかない。でも陣地じゃないから穴ぼこなんて用意していない。
砲撃頻度は低調だったけど、むき出しの難民や俺たちには十分だ。建設用重機で待避壕を急造する間も死傷者が続出した。むき出しの操縦席で頑張っていた隊員も破片を浴びて次々に……ジュバのPKO本部にいた隊長は、速やかに難民を警護しての撤収を命じた。でもバスがあるわけじゃない。歩ける難民は歩いてもらうしかない。動けない負傷者は高機動車やトラックに乗せてピストン輸送だ。周囲でバカスカ弾ける中、夢中でやった。パニックを起こさないように、でも速やかに難民を誘導しなくちゃって必死だった。
その最中直属の三佐から命令を受けた。迫撃砲陣地の位置及び武装勢力の侵入度を探り報告しろとね。部下を三名連れて行けと言われて焦ったよ。指名するしかないかと思った。でも志願してくれてね。高機動車で出発したさ。八十ミリ級は最大射程三キロ半ほどだし、落下する砲弾を視認できるから捜索は難しくはなかった。
迫撃砲陣地には、砲弾が山と積まれていたよ。トラック八両の荷台にも弾薬箱と食料が山積み。砲弾が足りないから節約気味に撃っているんだと思っていた。でもそれを見て考えを改めた。連中、日本隊の横にあるモルディブ隊担当キャンプもカバーする位置にいた。直ぐに逃げ出す日本隊を先に攻撃して、出て行ったら主力の歩兵部隊をそこに配備。そして歩兵と迫撃砲部隊の二面でモルディブ隊キャンプを襲撃制圧する作戦だ。用意された資材の量から、それを繰り返して難民キャンプ全域を制圧する積もりだと推測できた。進撃に備えて資材の大半をトラックに積みっぱなしにしていたわけだ。
以上を無線で報告したら、新しい命令を受けた。「難民と部隊の撤収を支援すべく、可能な限りの手段を持って攻撃を遅延させろ。」とね。二度聞き直したし、部下も聞いた。正直頭を抱えたよ。白旗掲げて休戦交渉でもしろってのか。でも連中は絶対交渉に応じない。捕虜も取らない。嬲り殺しにされちまう」
ビールを呷ったが空だった。瀬織が新しいのを手渡してくれる。
「有り難う。ここからは嫌な話になるよ。
部下に撤収を命じた。車を見送ってさ。しょうがねえ、やりますかと腰を上げたら、真っ白なオフロードバイクがとことこ走ってくる。白いのは国連絡みなんだよ。なんだあいつはと見ていたら、いつの間にか進出していた敵の先遣隊に撃たれてバイクは炎上、そいつを助けるために貴重な弾薬を半分以上使っちまった。警察庁から派遣された文民警察の男だったよ。そいつに怒鳴られた。「戦争おっぱじめやがって、この脳筋の大馬鹿野郎」って。いや、むかついたのなんの。派遣時点で認められた自衛戦闘なのに何抜かすか」
蒼白な顔で食ってかかった菅﨑を思い出して笑う弓弦羽を五人は不思議そうに見た。
「おまえだってぱかぱか拳銃ぶっ放しただろうが、って言い返した。そうしたら「警告射撃だ、俺は中てていない」って言い張る。真性の馬鹿だアホだと罵ったら漸く黙った。震えだしたそいつはほっといて迫撃砲陣地に戻り、信管や増薬を取り付けた砲弾を狙撃した。三発で迫撃砲陣地と補給トラックは壊滅したよ。
でも敵が怒り狂っちまった。戻りたくても無理だ。それから三日間、休み無しで戦い続けた。モルディブ部隊に救出されたときは信じられなかった。こんな説明でいいかな」
「その警察の人はどうなったの?」
心配そうに聞く石原に弓弦羽が笑い返した。
「ほっとこうと思ったけど流石にね。でも泣き言ばかり言うし、射撃はド下手でさ。それでも小便ちびりながら戦って生き残ったよ。以来人生観が変わったらしくて、今は出世よりナンパに励んでいる」
一緒に勲章を貰った菅﨑さんだ、と呟いた柴多に頷いた。俺たちのせいで勲章の価値がだだ下がりと笑う弓弦羽に皆が苦笑する。
「なんでイギリスの勲章を?」
「モルディブは英連邦加盟国だし、南スーダンも英連邦に加盟申請中だからかな」
「独断専行って大騒ぎしてたけど違うじゃん。全然違う」
眉を寄せた柴多に弓弦羽は頭を振って見せた。
「命令は「可能な限りの手段を持って攻撃を遅延させろ」だ。反撃しろとは一言も言っていない。いや、実に官僚的な命令ですよ」
弓弦羽は一気にビールを飲み干した。
「別の手段があったかもしれない。でも俺は馬鹿だから……また同じ状況になったら躊躇しない。迷えば犠牲者が増えるだけだ」
隊員も七名死亡した。時系列がはっきり解らないのが弓弦羽の救いであり悩みでもある。部下を帰した後、暫く迷っていたあの時間だったら、と弓弦羽は今も悩んでいる。
皆の顔は揃って暗い。小さく頭を振った須古が「官僚的ってそういう意味か」と呟く。
官僚の自己保身はずば抜けてるのさ。自衛隊にも制服を着た官僚がはびこっているんだよ。そう胸の中で呟いた弓弦羽だが、少し胸のつかえが落ちた気分だ。
「命令したその三佐はどうなったの」
きつい眼をした瀬織が呟いた。
「さあ? 知らない」
瀬織に睨まれて弓弦羽が慌てた。
「俺がやらかしたから難民も部隊も避難できたと思いたいし、他国部隊が挟撃喰らうこともなかったし。後でくよくよ考えるのは嫌なんだ」
ほいっ、と須古が手を上げた。
「国際安全保障の修士としての考察を」
そんな大したもんじゃないし、と呟いた弓弦羽だが。
「情報収集が大事。だから情報源は複数持ち、それを有機的に分析結合して予想する。分析から予想まで複数のチャンネルでやるのも大事。どうしても分析者の経験でバイアスが掛かってしまうからね。情報源の背後に注意を払うのも必須。南スーダンに権益を確保したい外国勢力の影響下にある情報を鵜呑みにしたのが外務省の馬鹿野郎だ。
そして万が一の対処計画を複数用意し、他国部隊と連携して柔軟に打ち合わせておくこと。その際、思い込みは捨てる。あり得ない状況が起きたらどう対応するかも真面目に検討し対処を考える。宇宙人が襲ってきたらどうするか。それを真面目に検討できない人は除外しなきゃ駄目なのね」
全員が噴き出したが、弓弦羽は真面目だ。
「地球人だけが宇宙唯一の高等生命と思うのは思い上がりだよ。いたとしても、人類に出来ないから地球まで来られるわけがないという時点で思い上がり。考えてごらん。五百年前には想像もつかない技術、それを皆は普通に活用しているでしょ。電子通信網、航空機、宇宙技術、軍事力。食生活もね」
嘆息が皆の口から漏れた。
「弓弦羽さんが迫撃砲だっけ、それを壊した後の行動については?」
「咄嗟の思いつきで安全保障は関係ない。敵の歩兵集団は手付かずだ。俺たちが暴れれば進軍を停止させ、俺たちも生き残れる。でも一カ所に留まって戦うと数で圧倒されるから、ヒットアンドランの不正規戦に徹した。奪った敵の武器を使用して混乱もさせた。銃声や残留物で誤解させたくてね。相手は訓練を受けたプロじゃない。ごろつきの寄せ集めだ。ごろつきは仲間を信用しないと踏んだ。敵のど真ん中に忍び込んで「この泥棒野郎!」って現地語で喚いてから菅﨑と背中合わせで撃ちまくる。すると周囲の敵は恐慌状態で撃ち返す。案外気付かずに延々と同士討ちするんだ。疑心暗鬼になった敵の中を、あちこち這い回って応援したよ」
仲間を信じろってことだよな、と思い出し笑いをしつつ続けた。
「偉そうな奴をロケット砲で吹き飛ばしたのも効果があったね。統合指揮を執れる奴がいなくなった二日目から、武装勢力の権力闘争があちこちで始まった。あの三日で武装勢力が受けた被害のうち、八割以上は同士討ちだろ。運がよかったよ、マジ」
毒気を抜かれた皆が思いだしたように箸を動かしたりグラスを傾ける間、沈黙が続いた。
「帰ってくれてよかったよ。津佳沙を助けてもらえたし」
瀬織も大きく頷いた。鰹節を十分絡めた焼うどんを口に入れた柴多が続ける。
「津佳沙も変わったよね。驚くくらい」
今度は瀬織以外が頷き合う。挙動が不審になった彼女に、弓弦羽が怪訝な目を向けた。
「呼び捨てを許された唯一の男だよ」
勲章以上に光栄至極、と缶ビールを持ち上げて応えた弓弦羽に皆が笑う。
「気安く声を掛ける男に津佳沙は――」
「さあ飲め、ぐっといこう!」
口をグラスで塞がれた須古の目は笑っていた。他の連中は身体を捻って笑う。弓弦羽も首を傾げながらも笑いに和した。
椅子に腰を戻した瀬織だが、呼び捨てを許した理由を問われて俯いた。
「滉は……滉だから」
冷やかしの声が渦巻き、瀬織が耳まで赤く染めた。弓弦羽は焦り戸惑う。
「それでも津佳沙に恋い焦がれる四柳。哀れやなあ」
「ああいうのがストーカーになるんだよ。先輩気を付けないと」
「津佳沙に気になる人が出来てもって怖いよな」
須古の一言に瀬織は顔を伏せ、残りは弓弦羽をチラ見する。弓弦羽は強く動揺した。おもわず口から拒否の言葉が出掛かるが、彼女に恥を掻かせるわけにもと、ぎりぎりで踏みとどまった。唐変木の振りを続けようと決めたが、心中を駆け巡る想いが顔に出ないようにと目刺しを囓って誤魔化す。
「弓弦羽さんは紳士な硬派だし」
瀬織にビールを注ぐ柴多が笑いながら言う。軟派で振る舞えば瀬織は俺を気に留めなかった訳だと弓弦羽は苦笑した。
「けど多いよねえ、ナンパ野郎」
「思索の森で語らえるような相手じゃなきゃね」
弓弦羽の記憶が甦った。あそこは恋人たちの語らう場所だ。高校生でも周囲の眼を気にせず過ごせる場。今も変わらないんだとある意味安心した。日邦大三島キャンパスに常駐してから、緩さと共に仲良く語らう男女の多さに正直驚いた。防大も共学だが、みっしり詰め込まれた課業の合間は隊列を組んでの駆け足移動だ。使う机も決められ、講義中は私語厳禁。休講でも教室で自習だ。が、監視役の教員がいるので、背筋を伸ばして居眠りする特技を皆覚える。宿舎に帰れば少しの自由時間はあるが、当然男女は別棟暮らし。その僅かな時間に逢瀬する男女もいたが……四年間そしてプラス二年、そうやって過ごしてきた弓弦羽には緩やかな学生生活を謳歌する男女が新鮮だ。自主休講を声高に宣言する学生の姿は特に奇異に映る。
「弓弦羽さん、ナンパしたことある?」
万城が唐突に問うた。一瞬悪い考えが弓弦羽の頭に浮かんだが、直ぐばれちまうわと却下した。
「性格的に無理。気になる人には勇気振り絞ったけれど、携帯番号を手渡すだけで大汗かいたよ。今も昔もびびりでね」
意外そうな眼で見られて弓弦羽の眉が上がった。駄目元で乱射はしない性格だ。強いる上級生がいなかったのも幸いだった。それでも開校日に出会いがあったが、結果はアレだと苦笑する。研究科に入ってからモテ期が来たが、弓弦羽が逃げ回った。
「一目惚れでもアプローチはまともにか。ふうん」
呟くように言った万城が鋭く弓弦羽を見た。それに気付いた弓弦羽は目を瞬く。
「四年の三好って知ってる? あいつ最低だよね」
万城が話題を変えた。一瞬の間を置いて一年の石原以外が大きく頷く。
口々に非難をはじめた彼女たちに弓弦羽は圧倒された。自分でビールを確保し、石原と共に黙って聞く。
「目が勃起してんだよ。どこ凝視してんだよって怒ったら、にやにやしやがって」
俺はセーフ、ぎりセーフと弓弦羽は内心焦る。
「死んだ人のことは悪く言うなって言うけどさ!」
弓弦羽の目が細められた。躊躇したが口を挟む。
「三好って、CGO警護士だった三好?」
一斉に頷かれた弓弦羽が驚いた。菅﨑の同類だったとは。でもまあ、あの病は欠格事項にはないからな、と声に出さず呟く。でも下手なことを口走ったら。機銃掃射のただ中で立ち上がるのは、やけくそな奴だけだ。気配を消して傍観を謀った。
「マンションでコンパしようとかさ。誰が行くか!」
「外車を中古で買ったから、ドライブしようって。皆が見てるのに、私の話なんて聞かないでべらべら! ああ、思い出してもむかつく。殴りたかった!」
非難に耳を傾けつつ弓弦羽はビールを舐めた。菅﨑も影でいろいろ言われているが。
「それ私も言われた! ドライブしてから、ホテルのスイートで食事しようって」
「私には就職内定を自慢してたよ。給料がいい優良企業だとか」
「一発殴っときゃ、いや、蹴り上げときゃよかった!」
弓弦羽の唇が引き締まった。マンションに外車そしてスイートルーム。身上書で見た住所はアパートだったように弓弦羽は記憶している。詳しく思い出せ、と弓弦羽は態度を変えないように気を付けながら苦悶する。
そう、呉竹荘とかだ。オーナーが一風変わっているのかも。家賃補助はCGOの規則で地域により最大額が異なる。会社員は少なく、学生は多い。
でも三好はCGOの学費援助を受けていた。瀬織もだ。保護者の収入が一定以下であることが条件だ。返還無用の制度なので、学業成績も厳しく継続審査される。
瀬織は父親を異病者に殺されたと特記事項に記載があった。母親は健在だが世帯収入は減ったから申請が認められた。三好の両親やその収入の記載はなかったが、どちらも誤魔化せないはずだ。冷静に考えて、そういう立場で車を買えるかな、と弓弦羽は眼を瞬く。それに四月頭で内定とは早すぎないか。就職活動の経験はないが、国立大学にいった友人は五月頃に内定を貰ったと喜んでいた。あいつは就職に有利な理系だった……目前に差しだされたビールに、弓弦羽は我に返った。石原だ。
「私の前彼、軽いと思っていたけど。話題の人よりずっとまともだった」
「石原君がしっかりしていたからさ」
照れ笑いをする石原に微笑んだ。
「でもあいつ、二月までは違ったんだって」
「誤魔化してたんだよ。弓弦羽さんも案外猫かぶりかもよ」
「違うよ! 滉は一度もいやらしい目で私を見ないし! だから滉を――ぎゃえっ!」
素っ頓狂な声をあげた瀬織に皆虚を突かれた。一瞬早く驚愕から立ち直った弓弦羽は「恐竜が吼えたぞ」と笑って見せる。その瞬間爆笑が湧く。真っ赤になって慌てる彼女の様に笑いが長引いた。
話を戻しつつ情報を、と弓弦羽は思いついた。自分にできるのはこの程度、と寂しく自嘲した。
「三好は他に何か?」
「ええと……あ。警報が出たときチャンスだとか何とか言ってた。それに卒業するまでの我慢だっていったのに、その後CGOを首になると困るとか」
「は?」
弓弦羽は思わず首を傾げた。瀬織以外の三人もだ。学費や俸給が必要ならそれもわかる。だがマンションや車はやはりおかしい。調べようと決意する。
「CGOってそんなに給与がいいの?」
真顔で問われた。瀬織は困惑している。
「警護士の俸給は税引き前で十万八千円。この辺りの学生警護士は家賃手当三万、食費手当が五千円、賞与は年二ヶ月。被服手当や交通費はないよ。高いとは全然思わないけどねえ」
説明を聞いた皆は、三好をすねかじりだと断定して非難し始める。
その騒ぎを余所に、瀬織の溜息に弓弦羽は気付いた。彼女もいろいろ大変だなと思ったとき、目が合った。頑張れよと声を掛けたくなるが飲み込む。追い詰めるようなマネはできない。微笑んだ彼女に内心の動揺を押し隠して弓弦羽もとりあえず笑い返す。
「あー。今、弓弦羽さんと津佳沙先輩が目で語り――」
椅子から飛び上がった瀬織が石原の頭を叩く。石原の泣き真似抗議は笑いがかき消した。万城はいち早く笑いを収め、大きくビールを呷る。
「そうだ、合宿の件、弓弦羽さんに聞いた?」
カワハギを手で千切る柴多が瀬織に問いかけた。
「まだだけど……でもやっぱりね。怪我は不味いし」
諦め笑いをする瀬織に弓弦羽は眉を上げた。自分の発言が原因かと悔やむ。
「参加しなよ。大藪中佐もいったじゃないか。学生の本分を果たせって」
「でも学業じゃないし」
頑固だな、と思った弓弦羽だが言葉を選ぶ。直接上司の命令云々はよろしくないと。
「学内のサークル活動だろ。学生生活のくくりで構わないよ」
それでも躊躇う彼女だが、柴多たちは活気づく。
「伊豆の土肥で八月一日から四泊五日。弓弦羽さんも来る?」
「俺は無理だよ。土肥なら海水浴も楽しめるね。金山跡も……いや、あれは若い人には微妙か。オカルティックそしてエロスな雰囲気を味わえるけど」
「温泉もあるよ。ってかエロスってなに」
坑道内に作られていたという風呂場での男女混浴を再現した人形があるんだよねと弓弦羽が教えると皆が爆笑した。
「滉、本当にいいの?」
「津佳沙が皆を護りなさい。この夏は一度きりだよ。って、まさか今の時点で追試確定?」
思い切り頭を振る瀬織に皆が笑った。
「まさか! こいつはね、博士課程を目指しているんだよ」
また困惑した瀬織だが否定しない。もしや彼女はと思いついた弓弦羽だが、それを口に出すのは躊躇われた。
「もし怪我しても俺がカバーする。気にせず学生生活を楽しんで」
やっと頷いたよ、と安堵した弓弦羽はビールを呷った。
「あ、いいこと思いついた。弓弦羽さん、携帯交換しよう。いいよね、津佳沙」
瀬織が頷いたので、弓弦羽は心配しつつも私用の携帯を渡す。携帯中毒ではないから、メールが押し寄せても困る。順繰りに回される携帯を横目で睨んだ。
「何かあったら誰かに必ず繋がる。津佳沙のことは安心して」
じゃあ任せるねと応えた弓弦羽だが、内心微かな恐れを感じていた。
大藪に三好の件を報告し調査を依頼したが、忙しいんだの一言で弓弦羽も調べることとなった。財務調査などはCGOがやるが、細かいことは弓弦羽負担だ。
それから二日経った今日大藪から妙な話を聞けた。岐阜高山出身の三好だが、昨年から体調を崩した父親は入院しているそうだ。それで二月終わりに学費支援を申請し、受理された。学費は国から大学に振り込まれる。
仕送りと俸給が殆ど手付かずで俸給用口座に残っていた点が問題だ。試用期間を兼ねた研修の三ヶ月分も含めての俸給だ。仕送り用口座から移動していたから母親は気付かなかったようだが、どうやって生活していたのかという疑問が生じた。
三好が学生課に届けていた住所は呉竹荘から移動していた。極小さな建物にオタマジャクシのマークが突き立っている。三好がCGOに届けた呉竹荘の住所で検索した画面だ。
弓弦羽は衛星写真に切り替えた。どう見ても瓦屋根に見える。
「古き良き昭和だな」
屋根を俯瞰する画像の、微かに見える影に弓弦羽は注目した。これで周囲の建物との高低差が少しは解る。低いと呟いた。
「駐車場もない。いや、月極って可能性も……沢山あるな。車庫とばしもあり得るか」
背もたれに引っかけたフライトジャケットを手探りし、ポケットからキャラメルの箱を取り出した。一粒口に放り込んで考え込む。
検索ウィンドウに新しい住所を入力し、エンターを押す。
結構大きい集合住宅にオタマジャクシの尻尾が突き立った。写真から推測すると、かなりの高層住宅だ。
メモに「賃貸の保証人」と書き殴り、検索ウィンドウにマンション名そして賃貸と入力する。
表示された不動産賃貸業者の三番目を適当にクリックした。
「新築三LDK家賃十一万八千円。敷金礼金三ヶ月と。すげえ」
呟きながらページをスクロールすると、学生課に教えられた部屋番号が空き部屋として表示されていた。大当たりと呟き、その会社情報を反転してコピーした。
大藪に宛てたメールに、判明事項を短く列記してから先のそれを貼り付け、調査を依頼する。併せて三島警察の車庫証明係に問い合わせをと付記して送信した。
ディーラーや販売店をしらみつぶしに探すより、警察に確認すれば購入の有無と販売店情報が同時に解る。普通の学生は車庫証明を自分で取るかもしれないが、中古でも外車を買う人はそこまで節約しないだろう。販売店から現金一括購入か割賦販売を用いたかなどとともに、同伴者の情報も得られるかもしれない。足がないと中古車を探すのは大変だ。電話すれば商談に来てくれる新車とは違う。
口中の甘みを楽しみつつ「大学内交友関係および研修時の同班員に聞き取り、就職課に問い合わせ」とメモに走り書きをする。
メモをボールペンで突きながら暫く考え込んでいたが、首を傾げてペンを放り出した。
「意味あるのか、これ」
そもそも学生が金持ちで悪いという法はない。CGOは警護士のアルバイトを禁じていない。弓弦羽たちは厳禁だが。先物取引に才能ある学生だったのかもしれない。学費支援はそれを想定していないが、苦学生にむけた餌では。津佳沙を思った弓弦羽の顔が曇った。
と、スマホが警戒音を発し始めた。素早くパソコンに別ウィンドウを開き、詳細を確認する。インターネット回線を利用して本部と繋がったシステムだ。
椅子を蹴った弓弦羽はスマホの対応ボタンを指で突く。ヘッドセットで本部と会話をしつつジャケットを着、ドアから飛び出した。
弓弦羽の出動に気付いた守衛たちが歩道の通行人と道路の車をせき止める。
サイレンを喚かせたCBの方向指示器を右に出したとき、門の左手から津佳沙が飛び出した。三島駅北口校舎から戻ってきたらしい。心配そうな彼女に頷き、大きく車体を右に傾けた。アスファルトに右のステップが触れて火花が散る。彼女の顔を見れてよかったと唐突に思う。津佳沙がいれば学校は大丈夫。
ギアを三速に上げて更に加速する。
「弓弦羽大尉、管制。裾野警察署から応援が出ました」
「弓弦羽、了解」
今日も近所に警護士がいない。なんだかおかしいなと思ったその時、突如押し寄せた衝動に弓弦羽は唇を引き締めた。生きて帰りたい。帰って彼女の笑顔を見たい。胸をかきむしりたいような思いを必死に堪えた。
重い気分で出張所のドアを開けた弓弦羽は、出迎えた瀬織に、その表情に驚いた。
「お帰りなさい」
掠れた声が掛けられた。
彼女の顔に浮かぶ安堵に戸惑うと共に、気持が和らぐ。
「ただいま。授業は?」
だが、と内心舌打ちをする。
「自主休講。次の時限はちゃんと行くよ」
そう、と呟いて自分の椅子にむかったその時、津佳沙の表情が強張った。
「怪我したの?」
血痕が散るチノパンを彼女が指さす。そして今、彼女の目はジャケットから覗くシャツの襟を凝視している。濃い茶色のジャケットに付いたのはともかく、と諦め気分で首を横に振り、椅子に腰を落とす。
「参ったよ。急に飛びかかられて……天井が高いとああいう攻撃もするんだな」
乳製品加工工場に出動した弓弦羽は、事務所に異病者を閉じ込めたと聞いて一人突入した。
だが姿が見えない。犠牲者の残骸が散らばる室内を警戒しつつ捜索していると、ロッカー越しに宙を舞った異病者に襲われた。
真剣に聞いている彼女に弓弦羽は説明を少し省いた。
異病者の描いた放物線が僅かに逸れていたから助かった、とは言えなかった。
「無事でよかった。着替えついでにシャワー浴びれば?」
そうだねと呟き、腰を上げようとしたが失敗した。掛け声を掛けてやり直す。
ジャケットを拭いておくと手を差しだした彼女の眼に気付いた。弓弦羽は必死に平静を保つ。
血に汚れたシャツとチノパンそしてネクタイをゴミ箱に放り込んだ弓弦羽は、熱いシャワーに打たれながら跳ね散る床の水流を睨み付けた。
シャワーを終えた弓弦羽と入れ違いに彼女が別室に入る。デスクには湯気を立てるマグカップが置かれていた。感謝の言葉を呟き、ルイボス茶を啜る。
いけね、と呟いて装弾庫を開ける。使った分を補充し、消費分を記録しないと。銃の手入れは家に帰ってから。
暫くして戻った彼女は袖をまくっていた。目で問いかけた弓弦羽に、彼女は照れくさそうな微笑みを浮かべた。
「染み抜き。多分綺麗になるよ。今までも捨てていたの?」
弓弦羽が途惑いながら頷いた。
「どうしても染み跡が……洗濯も得意なんだ。凄いな」
女だからと言いにくそうに応えた彼女に、弓弦羽は己のうかつさを呪った。
「料理も上手だし明るいし。素敵な奥さんになれるよ」
「そうかなあ。でも嬉しい」
組み合わせた指を見詰めた彼女が笑う。その笑顔に弓弦羽の胸中に複雑な思いがわき上がった。
市民には「カネで雇われた処刑人」とガーディアンを蔑む人もいる。確かに俸給を受け取っている。危険の代価を安いとは思わない。高いとも思わないが。
でも、と内心で溜息を吐いた。皆普通の市民だ。そう、彼女のように。
戦場から戻った俺がそう見られるのはしょうがない。けれど……動機はどうであれ、誰もやりたがらない仕事に就く警備士を貶すのは間違いでは。自分も参加した上で批判するならまだしも……。
「大学で研究しながら教えるのが夢で、結婚なんかって」
結婚がゴールというのもなと弓弦羽は納得した。人それぞれだ。
「それなら講師若しくは准教授以上を目指さないと。頑張れよ」
うん、と恥ずかしげに笑う彼女が首を小さく傾げた。
「でも……両立できないかなって最近考えているんだ」
夢の成就に全てを傾注するつもりでいた。が、心の支えがあってもいいと思うようになった。そういうことかなと疲れた頭を絞って弓弦羽は仮定し、深化を試みる。
大成するまでの経済的支援を得るため等ではないだろう。それをよしとする性格なら、普通の奨学金を選んだ筈だ。後日夫となる人を説得し、共働きで返済すればいい。
彼女は己の命を賭けて大学で学ぶ決意をした。今年も入れて最低七年だ。案外自分に似ていると思っていたが、実は俺より強いんだと弓弦羽は気付いた。国費で学ぶ代償を理解して、弓弦羽は防大の門を潜った。だが確実ではなかった。異病は切実な恐怖だ。それを考慮して踏み切った彼女ならば、と考えが纏まった。
「やらなかったと後悔するより、やって後悔した方がいい。自分が決めることだから。俺はそうやって生きてきた……悔やむことも多いけどね」
瀬織が考え込んだのは一瞬だった。
「機会は大事にすべきだよね。そうだよね」
何か頭に引っかかるなと首を傾げたその時、電話が鳴った。
「CGO日邦大三島出張所。あ、中佐。ええ、なんとか。先ほど御願いした件ですか……え? 英文翻訳は終わりましたけど。はい? そりゃ以前の論文も全て保存してありますよ……中佐、冗談はやめてください。アレは私の趣味――はあ?」
憤然と顔を上げた弓弦羽だが、不安げに見詰める瀬織に気付いた。被りを振ってみせる。
「命令ですか……CGOが笑いものに……了解。資料をメールで送ってください。御願いした件は……はい。失礼します」
受話器が荒っぽく戻された。
「くそったれの古狸め。俺に何の恨みがあるんだ」
心配げに見詰めている瀬織に気付き、両手で顔を擦って寄った眉を解しつつ深呼吸した。
「講演会で論文発表だと。CGOのイメージアップなんて知るか!」
「論文?」
眼を瞬いた彼女に弓弦羽は小さく、そして忌々しげに頷いた。
「二週後ここで開かれるセミナーで発表、参加者と応酬しろとさ。俺の趣味を利用すんな、クソ狸!」
「ちょっとまって、滉」
窓際で吊されたジャケットに瀬織が走った。そのポケットに手を入れた彼女を弓弦羽は怪訝な眼で見る。
戻った彼女は微笑みと共に手を差し伸べた。
「落ち着くよ」
弓弦羽はあっけにとられた。細い指先がキャラメルをつまんでいる。
「ほら、口を開けて」
苦笑いする弓弦羽の口中にそっと入れた彼女は、その指を彼の唇にあてた。
「溶けきるまで喋っちゃ駄目。あの時はありがとうね。それと……ええと」
温もりが唇から離れる。こみ上げた寂しさに弓弦羽は戸惑った。が、迷いを捨てた彼女に気付いて目を瞬く。
「私ね、滉が――」
警告音が瀬織を遮った。彼女はスマホを、弓弦羽はパソコンを睨む。
「北中!」
先を争うように二人はドアから飛び出した。
暗澹とした気分で弓弦羽は辺りを見回す。呻きと悲鳴の合間に宥め励ます声が響く校庭にジャージ姿の死体が一つ転がっている。そして白衣の救急隊員が手当をする負傷者の群れ。
駆けつけた弓弦羽と瀬織は、押し倒した生徒の腕を引き千切ろうとする異病者を確認した。その周囲には恐慌状態の生徒が。発砲は躊躇われた。弓弦羽は瀬織に声を掛け、全力疾走のまま異病者に体当たりした。
校庭に転がった異病者は即座に矛先を転じ、起き上がろうとする邪魔者の胸に強烈な蹴りを入れて転倒させた。そして組み付こうとしたその時、タイミングをはかった瀬織が頭部を狙撃した。
発病者は中学校の体育教師。幸いにも死者は彼女一人。だが男女生徒十七名が重傷をおった。軽傷者を数える気にはなれない。
異病者の行動には特徴がある。捉えた獲物は殺す異病者だが、途中で誰かが至近で動くと手にした獲物を忘れ、新しい獲物を補足しようとしがちだ。生物学者はいう。ゴキブリを襲う足高蜘蛛の習性に近いと。
今回は広い校庭で発生し、パニックを起こした生徒が走り回ったことが結果として事態の悪化を阻んだ。異病者は目の前で右往左往する獲物に混乱したのだろう、と考えながら深呼吸した弓弦羽は胸部に走った鋭い痛みに顔を顰めた。
自分の負傷は無視して、泣き叫ぶ生徒を宥め励まして廻る。救急隊員を手伝うのは養護教諭だけだ。校庭に出てきた教員は呆然と立ちつくしている。
到着した救急車の数が足りない。トリアージが行われた。
少し遅れて到着した警察も、現場検証は後回しにして救護活動に加わる。
教室の窓から多くの生徒が暗い顔で覗いている。
慌ただしく発車した救急車を見送った弓弦羽は、完了報告をしていないのに気付いた。救急車の追加手配状況も確認しようとシャツのポケットに手をかけたその時、背後から金切り声が浴びせられた。
「遅い! みろ、この有様を!」
振り向いた弓弦羽はこのおっさんは誰だ、と疲れた頭で考える。背広姿と指そしてシャツの袖口にホワイトボード・マーカーの汚れがないことから責任者、多分校長あたりかと見当を付けた。
弓弦羽は苛ついた。無視して救急車追加手配の確認をとるよう瀬織に命じる。
「税金泥棒の人殺しの癖になにやってんだ! おい、答えろ!」
「ああ、人殺しだね」と、素直な言葉が弓弦羽の唇から飛び出した。
男に向き直った弓弦羽は静かに尋ねた。
「あんたは何をした」
避難訓練などはできる限りしている、と目を吊上げた男が喚く。
「そりゃ当たり前だ。俺が聞きたいのは、あの生徒達を護るためにあんた方が今日なにをしたかだ。刺股は何処だ。警棒はどうした。俺たちが来たとき、教師たちは何処で何をしていた。素手で立ち向かったか。なら何故教師に怪我人が一人もいない。あの子供たちを見殺しにして、自分が生き延びようとしたんじゃないのか」
「責任を我々に押しつける気だな! そもそも貴様らは我々市民とその子供達を護るのが役目だろうが! 失敗の責任を市民に押しつける公僕がどこにいるか!」
泡を吹いて喚き散らす男を、弓弦羽は鋭くにらみ据えた。
「これほど被害がでるまでなぜ来なかった?! 真横にいるんだろうが! おい答えろ! 警察もそうだ。こそ泥や痴漢相手にはすぐ動くくせに、バーサーカー相手となると逃げ腰だ。お前らCGOもそうなんだろう! 給料泥棒の人殺し共!」
「だまれ! お前たちは何をした。答えろ!」
校庭を震わせた怒声に、男は息を呑み数歩後ずさった。泣き喚く負傷者を手当てする救護隊員と警官は聞き耳を立て、突っ立つ教員は顔を伏せている。
「お題目唱えてりゃ生き残れるのか。そりゃお前の勝手だ。だがな、それを子供たちに強要するな。生徒を護ったうえで主張しろ!」
「馬鹿を言うな! 納税者を庇って死ぬのが貴様らの役目だ! 納税者に楯突く公僕がどこにいる!」
弓弦羽の顔は赤黒くなった。周囲の警官も程度の差はあれど顔が強張りはじめる。
「校門脇にパトカーを置くことさえ拒否したのは誰だ!? お前たちだ! 警護士任命を拒否して国相手に裁判を起こし、生徒に偏った人権思想教育をはじめたのは誰だ?お前たちだ! 子供を盾に善人ぶる無能で人殺しは貴様共だ!」
脇で誰かが叫ぶのは確かに聞こえた。悲鳴も聞こえた。だが目の前の男から弓弦羽は視線を外せなかった。噴き出した激情が理性を押し退けてしまった。
「本当に子供たちが大事なら、お前たちも銃をとれ! この似非聖職者――」
重厚な銃声が遮った。激怒したまま弓弦羽は振り返る。瀬織だ。迫る救護隊の白衣を着た男に、彼女は速射を開始した。
一撃ごとに男は身を捩らせ、白衣が染まる。裾からこぼれ落ちた腸が引き摺られる。弓弦羽は躊躇なくデルタを抜いた。自動化した身体が一連の準備を素早く整える。
「こっちだ!」
叫びざま、狙い越しを取ってぶっ放す。肩を砕かれた男は大きくよろめくも数歩前進した。だが倒れずに血走った目で弓弦羽を睨み、大きく開けた口からくぐもった絶叫と共に鮮血を噴き出した。浅い俯角で放った銃弾が肩関節と肺臓を破壊したな、と冷静に弓弦羽は評価する。
弓弦羽に身体を向けた異病者は右手を突き出して小走りに迫る。と、泥にまみれた腸を自分で踏みつけてよろめき足を止めた。右手でそれを引き千切り、前にも増して急速に弓弦羽に駆け寄る。
背後で金切り声が上がったが、弓弦羽は行動しない。瀬織が二人を結ぶ延長線に近い。それに気付いた瀬織が大きなストライドで横に走り、替弾倉を取り出す。
「滉!」
弾倉を交換した彼女が足を止めて叫ぶ。
それでも弓弦羽は撃たない。冷静に俯角を強めて照準を続けた。
急速に狭まる弓弦羽と異病者の距離に瀬織は発砲を躊躇う。警官たちも銃を抜こうと焦るが、蓋付きのホルスターに手間取った。
鋭い銃声が二度轟き、異病者の頭部が炸裂した。校舎で跳ね返った残響が校庭を震わせる。転倒した異病者は勢いで弓弦羽の足下まで滑った。弓弦羽は躊躇いなく異病者の背骨を撃ち砕く。
暴れる肢体を照準器越しに睨んでいた弓弦羽が振り向いた。背広の男は腰を抜かして震えていた。その股間は濡れている。
銃口を地面に向けて安全処置をした銃を腰に戻した弓弦羽が、身体を回して正対した。
「現実から目を逸らしても、異病者は見逃しちゃくれない」
異病者の右手が弓弦羽の足首を掴みかけるが、五月蠅そうに蹴って振り解く。
「お前はどうする。子供達を護るか」
「絶対首にしてやる。貴様も、お前たちも!」
弓弦羽が男に近寄って屈み込んだ。至近で覗き込まれた男は、掠れた悲鳴をあげて這いずり下がる。新たな失禁が筋となって校庭を黒く濡らす。
「お前の相手は俺だ。名刺だ。俺は弓弦羽だ。間違えるなよ」
差し出した名刺を男は受け取ろうとしなかった。男の股間に名刺を投げて弓弦羽は立ち上がる。大股で歩き出した弓弦羽を小走りで瀬織が追った。
北中学校異病事件から三日後の午後。梅雨入りした静岡の空そのもので瀬織の表情は暗い。弓弦羽と瀬織は出張所で来客を待っている。
弓弦羽が怒鳴りつけた相手は校長だった。CGOと弓弦羽を非難する校長の弾劾演説は新聞やテレビで報道された。世論が沸き上がったのは当然だ。CGOは通報受領時刻と現場での対応開始時刻を発表しただけで沈黙している。
一方、通行人と北中生徒が撮影した動画がインターネットに投稿された。通報を告げる声が記録された通行人の動画は、弓弦羽たちが立ち去るまでを記録していた。これにより学校側が主張していた対応の遅れが疑問視され、同時に生徒の動画で教師陣の反応の悪さが露呈した。校庭で逃げ惑う生徒を誰も誘導しなかったわけだ。
投稿者を探し始めた学校側に生徒は反発し、登校を拒否して憤懣をネットの匿名掲示板にぶちまけ始めた。保護者もそれに同調している。風を読んだ一部のマスコミは学校の体制そのものを批判しはじめ、事態は収集がつかなくなっている。
弓弦羽が受けた命令は一つだけ。マスコミの取材に一切応じず、粛粛と任務を果たせ。
弓弦羽は当日から出張所に泊まり込んでいる。官舎を知られたら瀬織の日常を壊してしまう。マスコミは彼女を補足し損なった。警護士情報は一切公開されないし、幸いにも投稿動画では彼女の顔を判別出来ない。知っているはずの学生たちは無関心を貫いてくれた。長身の彼女に注目した取材陣もいたが、彼女の右腰を注視して興味を失った。暫くコンシールドバッグを使えと彼女に指示したのは弓弦羽だ。日邦大三島は取材許可を出さないので、取材陣は正門から中には入れない。
弓弦羽の出動時が取材のチャンスだが、行動を妨げると公務執行妨害に問われるので取材陣も無茶は出来ない。CGOの公務は異病者の排除だ。妨害して人的被害が増したと司法が判断すれば、最悪極刑もあり得る。
大学構内を闊歩する限り弓弦羽は自由だ。擦れ違う学生は興味の眼を向ける者が殆ど。CGOの存在と常駐を非難する少数の学生がいるが、これは五月の連休あけからで目新しくはない。馬耳東風で過ごせば済む。
生協で雑誌を買うでもなくネット環境のみの出張所で暮らす弓弦羽だが、瀬織が情報を細細と伝えてくれる。彼女は怒っているが、馬鹿に腹を立てても疲れるだけだよと弓弦羽はいうだけだ。
「何をしに来るんだろう」
スーツ姿の瀬織がぽつりと呟いた。
「記者会見は十時の筈だ。俺の処分が決まったのさ」
言いながら弓弦羽は内心首を傾げる。なぜ津佳沙を同席させろと指示されたのか。
処分、と呟いた彼女の表情が更に暗くなった。
「美和ネエも、なにも聞いていないみたいだし」
神納は泊まりがけで北中生徒のケアに専念している。今日も二人と軽く話した上で北中に出向いている。
「ま、俺がまいた種だから。嵐でも何でも受容しなきゃ。津佳沙に迷惑かけるほうが胸に堪えるよ」と弓弦羽は笑ってみせた。が、俯いてしまった彼女に口を閉じた。改めて口を開こうとした弓弦羽だが考え直す。会話の代わりになぜ今回は悪夢を見ないのか、その考察を始めた。
考えた挙句、相棒を護ったという意識が勝って精神的負担が大幅に減少したのではという説を捻り出す。ちらりと彼女を見た。まだ俯いている。その姿が弓弦羽の心をかき乱す。
毎日着替えを用意し、家で洗濯してくれる彼女に感謝しつつも、弓弦羽は己の気持を持て余している。普段の彼女は明るい。鼻歌交じりに生活する彼女の笑顔は、弓弦羽の中で大きな存在になっていた。それを自覚してしまったのが最大の問題だ。確認するわけにも行動するわけにもなと弓弦羽は密やかに溜息を吐く。
と、ドアがノックされた。二人は椅子から飛び上がる。開け放ったドアを背中で押さえた田原少尉が姿勢を正した。髪を後ろで纏めた地味な女性だが、表情を押し殺した今日は殊更雰囲気が固い。
少将の階級章を付けた男が入室する。次に大藪そして菅﨑が続き、ドアが閉められた。
「総本部監察局、栗林です」
答礼を終えた少将が低い声で名乗った。腕を下ろした二人は弓弦羽そして瀬織の順で返答する。最悪解職だと弓弦羽は覚悟を決めた。減俸や降格程度で東京から将官が来るわけがない。菅﨑だけは瀬織に感嘆の眼差しを向けている。
大藪が前に出た。
「弓弦羽大尉、一歩前へ」
即座に歩み出た弓弦羽は顎を引いて胸を張る。
大藪が一呼吸置いた。弓弦羽は左横からの緊張を感じ取るが目線は動かさない。
「馬鹿者! マスコミに餌をやるなと何度言えば解るか!」
大藪が一喝した。身体を揺らした田原と菅﨑に、怒られているのは俺なのにとおかしく思いつつも弓弦羽は真面目な表情を保って判決を待つ。
「弓弦羽大尉?」
栗林の問いかけに、思わず弓弦羽は眼を瞬いた。
「申し訳ありません」
言い訳は絶対出来ない。ただかしこまるのみ。
「よろしい。任務に励んでくれ。では私たちはこれで」
軽く手を上げた栗林が身体を回した。残念そうに瀬織を一瞥した菅﨑もドアに向かう。弓弦羽は唖然として二人を見送った。
横の部屋でソファに腰掛けた大藪が面白そうに弓弦羽を見上げる。
「処分に不満か」
首を横に振る弓弦羽だが、内心の困惑は隠せない。瀬織はずっと黙ったままだ。
「今回は幸運だった。我々の音声記録とそれに伴う時間記録、ネットの動画、市民の声。救急隊と警察の証言。それに生徒を黙らせておけると思った教師の思い上がり。全てが幸運な方向に向いた。校長が自滅しただけだ」
田原少尉が淹れたお茶を大藪は美味そうに啜る。そして続けた。
「大尉と瀬織君が揃ってスマホを切らなかったのが大きいな。最強の証拠資料だ。でもな。一人は盛大に罵りながら報告書を作成中に気付いて終了。残る一人はシャワーを終えてから気付いた。監査委員会であれを聞いた委員の心証がどうであったかは推測できるよな。私はただただ居心地が悪かった」
弓弦羽はばつの悪い顔をし、瀬織は真っ赤になった。
「今後は忘れずに終了報告をして切れ。回線が生きていると管制の手を塞いでしまう。記者会見で口論に限定した音声資料とともに、大尉が提出した報告書の抜粋を配付した。異病者に自分を襲わせたという非難への反論だ。大尉と発病した救急隊員の身長差をも明記した。市民への二次被害を怖れて、角度が深くなるまで待ったという合理的説明は誰しも納得する。それに先に襲われるのは大尉だ。
今、北中で保護者説明会が開かれている。記者会見に参加した記者が、それらの資料を校長に突きつけた。午前中我々を非難していた校長は、午後からつるし上げ喰らっているよ。
というわけで、記録に残らない叱責処分と決まった。だが市民には五月蠅いのもいるから、それ対策で保険を掛ける。田原君、例の書類を」
頷いた田原がブリーフケースに手をのばす。
「問題を起こした男が反省し、俸給の一部を辞退する。自発的減俸だな。だが今後の流れが読めないし、大尉の働き如何で我々も考えなきゃならん。なので書類には額とその期間は記していない。取り合えず今月は八万ちょっと引こう。質問は?」
田原から受け取った書類に弓弦羽は目を通した。確かに文章に空白部がある。
「ご希望は」
任務に手を抜くわけはない。他に何か要求している筈と弓弦羽は問うた。
「例のセミナーだ。手を抜いたら十二ヶ月フルに適応してやる。大学が認める発表をすれば一ヶ月でお終いだ」
渋い顔をした弓弦羽に大藪は声に出して笑った。
「諦めろ。一緒にセミナー参加の申込書も寄越せ。さっさとやらんか」
弓弦羽の署名と捺印を確かめた大藪は、それを田原少尉に手渡した。
「申請のあったナイフの件だが、本部から許可が出た。自費購入が条件。大尉への話はこれで終わり」
北中の一件で、発砲出来ない状況でどうするかを考えた結果だ。通販で二本、折りたたみナイフを手配する。大型戦闘ナイフが欲しいのが本音だが、流石に周囲を刺激しすぎると判断した。
「次は瀬織君だ。身分証を渡しなさい」
瀬織が手渡した皮ケースの中身が取り替えられた。
ソファから立ち上がった大藪がそれを彼女に手渡す。
「よく頑張ってくれたね。今日から警護士長だ。おめでとう」
「ありがとうございます」
はにかみながら敬礼した瀬織は、差し出された大藪の手を握って微笑んだ。
「昇進が遠のいた大尉を手助けしてやってくれ。何をおっ始めるか解らない奴だと解ったと思うが。どうだろう、頼めるかな」
元気な返事に弓弦羽は首を傾げた。なんだかさっきより嬉しそうだ。
「彼女に恨まれないようにしろという意味だぞ。解っているのか」
笑いたい気持を押し殺して弓弦羽は真面目な表情を装った。
「私如きに有能な人材を付けていただき恐縮です。中佐、例の調査はどうですか」
「今は発表を優先しろ。本任務だってあるんだぞ」
「もう準備は終わりましたよ。発表用映像資料の作成も完了です」
「要旨や論文目録は? 以前発表した論文も?」
弓弦羽は平然と頷く。昼食休憩時に作業するためにメモリーカードに入れて官舎と往復していたのが幸いした。
「新作はまだ
弓弦羽が苦笑いする。
「主査がいないので不安と言えば不安ですが、リジェクトされない程度には」
審査拒否で突き返されるのがリジェクト。論文として体を成さないと跳ねられる。論文誌でも無条件に掲載されるわけではない。編集部が著者を秘して主査にチェックさせ、その後審査を経て掲載となる。主査なども非公開が多い。人間関係に左右されないわけで論文とそれを掲載する論文誌の格も高まる。ジャーナルの常連となった弓弦羽は、それなりの地位を築いているわけだ。
「明日までに教務課窓口に提出しろ。話は通しておく。さて、帰ったらメールに添付して資料を送るが、要点を話しておこう。かなり妙な展開になってきた。まずな……」
話を通しておくという言葉に首を捻った弓弦羽だが、大藪の話に直ぐ忘れた。
大藪たちは帰り、明るさを取り戻した瀬織も本業に戻った。一人部屋に残った弓弦羽は、ルイボス茶を啜りながら考え込む。
三好の母親を最近訪ねた男たちが死亡補償金とは別に、CGO共済からの給付金をと現金で一千万円を置いていったという。領収書は彼らが用意していた。
この話の問題は二つ。共済制度は現時点ではまだ機能していない。そして青色申告の必要は絶対ないと説明した彼らの名刺に印刷された住所や電話は正しかったが、氏名と所属はでたらめだった。
CGO隊員の殉職時に国と県が出し合う弔慰金制度がある。その丁度半額が一千万円だ。一般人が異病がらみで死んでも、特約を付けていない限り免責扱いとして保険会社は保険金を払わない。警護士になれば特約を付けていても断られる。なので弔慰金制度が定められ、更なる遺族保護の目的で共済制度を整備している。残す相手もいない弓弦羽は保険に加入もしないし、弔慰金の受け取り相手も指定していない。
三好は中古のBMWを現金一括で購入していた。だが所有者は三好が内定を貰った会社名義。四月の頭に使用者も会社にと変更指示があったという。三好と一緒に店に来た男の詳細は不明だが、珍しい車に乗っていた。ベンツのゲレンデヴァーゲンだ。カネはその男が払い、併せて会社の印鑑証明書と実印を持ってきた。
不動産業者の記憶は曖昧だったが、三好と男が二人で乗ってきた車は憶えていた。ベンツのゲレンデヴァーゲンだ。保証人は保証会社を立てて契約したそうだ。
三好の実力は未知数だ。学費絡みでCGOに提出された成績はそこそこだが、会社勤めでは参考にしかならない。なのに何故そこまでしたのかが。
「経営者に余程気に入られたにしてもな」
三好がガーディアンだったのは偶然か。
「ガーディアンが金になるとしたら……特別利益の提供か」
銃を携帯するガーディアンを特別警備に雇うという案を思いついた弓弦羽は、その方向で考えてみる。
だが、と首を傾げた。三好は大学生だ。幾ら普通の大学、正確には文系の四年生が暇だと言っても、大学に縛られているのは事実。
「今日は卒論指導だからお仕事できませんじゃあな。あの日だって躊躇なく同意したし。防大だって任官拒否する人がいるのに……」
彼が女性に対し積極的になったのはこの二月からだと瀬織の仲間が言ったのを思い出す。それまでは目立たない奴だったのに、急に金回りがよくなってと。研修仲間も同じような意見だ。
「二月は研修期間真っ只中。引っ越したのもこのときだ。学費納付は……」
考え込みながら、時々メモする。
はっと顔を上げた。
「弔慰金、受け取りを津佳沙にすれば大学院は……彼女が納得しないか」
弓弦羽が首を振った。
「ええと、ガーディアンの自由を保証した上で、莫大な利益を得るにはだ」
キャラメルを口に放り込み、ボールペンを回しながら考える。
「異病者排除……互助会みたいな……特定地域にガーディアンを集めて、安全特区とするとか……その特区に縛り付けないと意味がないし、住民の口を封じておけるかな」
メモに書き殴りながら首を傾げる。警護士を配置しても犠牲者がゼロで済む保障はない。身内に被害者が出たら文句を言いたくなるのが人情だ。
メモをボールペンで突きながら黙考する。
時々胸の左右をシャツの上から掻く。ヒビが入った肋骨を瀬織の手を借りてテーピング治療しているが、そろそろ皮膚がかぶれて痒い。
暫く考えていたが、冷え切ったルイボス茶で口内に残った甘みを洗い流した。カップを持って横の部屋に行く。冷蔵庫を漁り、冷凍ピザを電子レンジに放り込んだ。終了を待つ間にカップを洗い、皿を用意する。
ピザを完食して弓弦羽はデスクに戻った。熱いルイボス茶を啜り、息抜き中に鳴らずにいてくれたスマホに目をやった。
「人数が少なすぎる。最低二倍いればより厚くカバーできる。幹部は三倍で」
それだけいたら、月に一度は交代で休みも取れるだろうにと鼻を鳴らした。
「カバー……三島と長泉のガーディアンは今何名なんだろう」
担当エリアの警護士と逢っておこうと思いついて、大藪の許可を得て名簿と履歴を得た。本来は名簿どころか何人いるかも知らされない。
そして昨今、何度も弓弦羽の頭をよぎった疑問。なぜ至近にガーディアンがいないのか。絶対数が少ないのに転居や転職がそれほど重なるのは妙だ。
パソコンでCGOのウィンドウを最大表示し、三島市と長泉町を選択する。三島市南部の長伏で異病者が発生しているが対応中。表示されたコード番号は幹部のものだ。つまりこれは湯浅中尉を意味する。
「気を付けろよ、湯浅君……ふうん、やっぱり」
事件周辺にガーディアンはいない。
地図上の輝点を数える。弓弦羽と湯浅以外で十三人。四月当初と比して六名減少だと溜息を吐いた。殉職したのは三好のみ。社会人だから所在に偏りはでるだろうけど、と弓弦羽は呟いた。
四月以降三島市で発生した事案数を検索、表示させてメモをとる。次に長泉町を。報告書の控えを書類棚から引っ張り出し、捲りながらメモに正の字を書き始める。それには湯浅の分もファイルされているが、警察対応事案については結果のみ。現場は密に協力しているが上層部はあまり馴れ合いたくないわけだ。
「俺単独が四割弱。津佳沙と合同で一割ちょい。湯浅君単独が二割ちょい、だが急速に上昇傾向。残りがガーディアン単独若しくは警察対応……うーん」
警護士候補の選抜要件は、と弓弦羽が呟いた。まっとうな生活を送ってきた二十歳以上の正常な判断力を持つ社会人。縮めればこれにつきる。
考えている間に湯浅の表示が通常に戻った。弓弦羽が安堵の溜息を漏らす。
「お疲れ。ええと、それが目的だとしたら」
メーラーを起動すると大藪のメールが届いていた。それを開き、添付資料のチェックは後回しにして返信を作成しはじめた。警護士の転居、転職の詳細を確認していただきたい。携帯だけ届け出ている警護士は全てリストアップ。会社勤めなら社会保険の絡みで追跡可能なはずと念を押し、送信した。社会保険の半額程度は勤務先負担だ。退職した人間の保険料を払い続ける馬鹿はいない。
添付資料をチェックしていた弓弦羽は固定電話への着信に顔を上げた。
「CGO日邦大三島出張所。あ、中佐。資料ありがとうございます。ええ、お手数ですが詳細に――」
顔を顰めた弓弦羽が受話器を耳から遠ざけた。怒鳴り声が収まるのを待つ。
「御願いですから聞いてください。任務に支障があるから御願いしました」
メモを取り上げ、先の担当割合を口述する。
「人手不足は解っています。でもこれはおかしすぎます。三好警護士の件もこれに絡むかもしれません」
またメモに目を落とし、チェックを入れながら列記した疑問点を述べた。
眼を細めて受話器から流れる声に集中した弓弦羽が微笑んだ。
「CGOを利用しているのかもしれません。この疑問を放置してマスコミに噛みつかれるのを座視しますか?」
お茶を一口啜った弓弦羽が頷いた。
「候補者の詳細を知る立場にいる人間が関与していますね。例えば中佐とか」
慌てて受話器を遠ざけた弓弦羽が頬を掻き、冗談なのにと呟く。
「すみません、百パー冗談です。そうでなければ中佐に相談しませんよ」
大藪の返事を聞いて数瞬考え込んだ弓弦羽が口を開いた。
「中佐が判断してください。いや、監査部はどうでしょう。私なら真っ先にそこを押さえて握り潰します」
受話器を置いた弓弦羽は、ブラインドの隙間から雨空を見る。
「カネは満足できる結果若しくは期待される代価に対して支払うよな……あ」
鼻を鳴らした。
「とんでもない種を蒔いちまった。嵐を収穫するのは真っ平だ」
自分のノートパソコンを開き、メモを取りながら考え込む。
「新しい質問もないようですので終わりといたします。弓弦羽さん、お疲れ様でした」
司会役を務める研究助手が宣言すると、ざわめきと共にそこそこの拍手が湧く。演台の弓弦羽は頭を下げて唇を歪めた。発表というより修士論文の最終口述試験みたいじゃねえかと思いつつ、降り注ぐ質問に答えていたからだ。不測の事態に備えよという習性が幸いして、資料を慌てて捲ったりせずに即答し続けたが。
階段教室の後背に熱心な学生を従えた教授連はと見れば、皆面を伏せてせっせと何か書いている。教授諸氏の参考になったなら驚きだと呟き、資料を纏めてさっさと降りた。映像資料を操作していたスーツ姿の瀬織が出迎えてくれる。その笑顔が嬉しかった。
「ありがとうね、津佳沙」
彼女は微笑みをうかべて首を振ってみせた。
「私も勉強になったから。滉の英語、綺麗でびっくりした」
「防大の公用語なんだ。各国の派遣留学生がいるからね。でもスラングを覚えただけのような」
笑いを深めて首を横に振った彼女は、用意されたパソコンからメモリーを抜いてバッグにしまう。ブレザーを脱いでフライトジャケットに着替えた弓弦羽は、嫌々ブレザーを腕に掛けた。
三島駅北口校舎から表に出て傘を広げた弓弦羽は周囲をさりげなく見渡す。
「やっと家の風呂に入れるな」
カメラとレコーダーを牙とする腐肉喰らい共は三日前から姿を消した。だが弓弦羽は今日まで様子を見た。潜んでいれば北口校舎に徒歩で向かう弓弦羽に群がったはずだ。
傘を差す生活にも慣れたなと弓弦羽が思ったとき、瀬織に背中を軽く叩かれた。肋骨はもう痛まないので平然と彼女を見る。
「打ち上げやろうよ。里沙たちと計画していたんだ」
「いいね。あ、その前に津佳沙の昇進祝いをしなくちゃ。遅れてごめんな」
「え、私はいいよ」
遠慮する彼女だが、その目に喜びが湧いているのを弓弦羽は読み取った。
「駄目だよ。昇進祝いこそやらなくちゃ。鮨とピザを頼もう。後で人数教えて」
「ありがとう。じゃあ両方一緒に。美和ネエも呼んでいいよね」
「中佐が付いてこなきゃ大歓迎」
無邪気な笑顔に愛おしさがこみ上げ、弓弦羽は思わず溜息を漏らした。だが傘体を叩く雨音で彼女は気付かなかったらしい。
暫く無言で二人は歩く。結構足早な弓弦羽だが、長身の彼女は苦もなく付いてくる。
「ね、滉。ちょっといいかな」
弓弦羽が慌てた。溜息に気付かれたか、それともまた誤解させたのかと。
「滉は家事を頑張っているよね。洗濯物綺麗に畳まれていたし、アイロンがけもね」
着替え等を運んでもらうために、また弓弦羽は彼女に合い鍵を渡した。汚れ物を洗濯してくれた彼女は、弓弦羽のプライベートを垣間見たはずだ。
「でも、お料理は少し苦手だよね」
かなり苦手だよと苦笑して弓弦羽も頷いた。
「私は一人分だけ料理するのに苦労しているわけで。それで提案」
はにかんだ彼女に弓弦羽は眼を瞬いた。
「協力しない? 材料は折半で、調理は私がやる。そうすれば食費も節約できるし、滉の健康も維持できるよ。あまりおいしくないと思うけど」
地方裁判所の角を左折し、北上しながら弓弦羽は彼女の提案を検討する。彼女に惹かれている自分には願ったり叶ったりだ。彼女が自分に厚意を向けてくれていると感じていたが思い上がりではなかったようだ。正直嬉しい。凄く嬉しい。だがそれを受け止める立場に俺がいないんだ、と弓弦羽は心中くさった。どう伝えるべきかと思い悩む。
「凄く嬉しい提案だけど……津佳沙に悪い。もっと君自身の時間を大事にしないと。この二週間でもう十分だよ」
歩道橋を登る彼女の足が乱れ、弓弦羽から少し遅れる。弓弦羽はそれに気付いたが歩調を緩めも止めもせずに歩み続ける。
北中側に下り始めたとき瀬織は追いつき、真横に並んだ。
「私がやりたいの。私の気持とか考えてくれるなら、やらせて」
銀杏並木を歩く弓弦羽は内心頭を抱えた。弓弦羽の頭は好きな女がいると言ってはっきり断れと喚く。だが感情がそれを拒否する。
「……考えておくよ」
決定の先延ばしは戦局を悪化させる要因であるという言葉を思い出し、表情が苦くなる。
瀬織が足を止めた。ちょうど北中の正門前だ。
「滉。ちょっと」
声の調子に弓弦羽の心がざわめく。足を止めて振り返った。
朝焼け色に紫陽花の花を散らしたような傘を差した彼女が真剣な顔で見詰めていた。
「もう一つ提案。というより私の気持」
躊躇う心と裏腹に弓弦羽は頷いてしまう。
「私、滉が好き。だから御願い」
行き交う車の走行音も、通行人の会話も全て弓弦羽の耳から消えた。己の鼓動だけが頭蓋に響く。蒼白な顔で見詰める彼女から目線を逸らせられない。胸中に噴き上がる喜びが全身を満たしていく。彼女に心惹かれているのは事実。詰め所であったあの日から。これはつまり両思い……弓弦羽は歯を食いしばった。彼女は現実を直視しているのか。その日がいつ来るか。未熟故の楽観論に彼女が頼っているとしたら……絶対耐えられるわけはない。結果どうなる。最悪彼女は殺される。ぐだぐだ考える俺が生き残っているのは、その場になると完全に切り替えるからだ。でも彼女にそれができているか、できるようになるかは解らない。ならば俺は彼女になにをすべきだ。なにができる。
俺はなによりも彼女に生き残ってほしい。そう、最善の選択は決まっている。
小さく深呼吸しつつ弓弦羽は彼女の眼を捉えなおした。
「俺は最悪だよ。まともな人じゃなきゃ駄目だろう」
強張った彼女の顔をまともに見られない。己の弱さに弓弦羽は恐怖した。
「行こう」
彼女の足音は聞こえなかった。
昼食の気分にもなれず、寂寥感に全身を覆われた弓弦羽は、詰め所でパソコンの画面を見詰めている。拳で目を擦り、キャラメルの箱から一粒取り出した。だがへばり付いた包み紙がうまく剥がせない。
暫く格闘していたが諦めて机に放り出し、神経を逆なでする音を発しているエアコンを睨み付けた。
私用の携帯が震えた。慌てて発信者表示を見た弓弦羽が肩を竦める。
「ごめん。今忙しいんだ」
面倒くさそうに応答した弓弦羽の眼が見開かれた。
ジャケットに腕をとおしながら弓弦羽は部屋を飛び出した。全力で通路を掛ける。その背後でオートロックがかかる音がした。
ずぶ濡れで駆けつけた弓弦羽に柴多と須古は驚いた。が、直ぐに二人は同時に説明を始める。両手で遮った弓弦羽は、柴多を指名して説明を頼む。
「学食から出るとき、時々構内で演説している連中が津佳沙をからかったんだ。そしたら津佳沙が切れちゃって」
「なんて言われたの」
躊躇った柴多は須古と顔を見合わせた。が、顔を戻す。
「最低の人殺しに振られた気分はどうだよ、って」
唇を引き結んだ弓弦羽の顎にしこりが浮き上がった。二人はきつい眼で睨む。
「津佳沙は?」
大食堂の東に広がる思索の森を二人が指さす。
「野外ステージ脇のあそこ。私たちが話しかけても……」
二百メートルほど先、木立の下のベンチに一人座る人が雨のブラインド越しにかろうじて見えた。傘を差していない。須古が慌てて口を挟む。
「津佳沙の傘、踏まれて。私たちのを渡そうとしたんだけれど」
「解った。ありがとう」
返事を待たず走り出した。
項垂れた瀬織はずぶ濡れで座っていた。弓弦羽が近づいても顔を上げようともしない。芝生に吸い込まれない雨水を跳ね散らかす足音は聞こえている筈だ。
津佳沙の前に屈み込んだ弓弦羽は、彼女の左肩に手を掛けた。
「風邪引くよ」
びくりとした彼女は、顔を上げぬままその手を振り払う。
「ほっといて」
その勢いに弓弦羽は動揺した。
「ごめん。それは出来ない」
彼女は応えなかった。少し距離を置いて彼女の横に座る。が、直ぐに腰を上げた。ジャケットを脱いで彼女に羽織らせる。今度は拒否されなかった。濡れてしまっていても冷たい雨が染み込み続けるよりはいい。彼女の唇が震える。座り直した弓弦羽は待った。
「はっきり……なんではっきり言ってくれないの。なのに優しく……わかんなくなった」
弓弦羽は覚悟を決めた。衛星電話で恋人と交わした会話を話すしかない。大きく深呼吸した弓弦羽は意識を集中した。自分になにが欠けていたかを話さなくては。救出後ベッドでチューブだらけになったあの日から。
「俺はあの人の気持に気づけなかった。絶対帰るなんて約束はお守り程度のものさ。誰だって死にたくない。でも帰れない人も出るし、身体が不自由になる人も。本人もつらい。でも待っている人はそれ以前から辛い時間を過ごしている」
瀬織は黙って聞いている。顔を上げ気味にして雨粒に顔をさらした弓弦羽は続ける。
「漸く気付いたよ。どれほどあの人を苦しめたのか。あの言葉は……独り善がりで生きていた俺への忠告だ」
恋人より自分の希望を優先し、PKOにほいほい参加した自分を弓弦羽は嗤う。その弓弦羽を瀬織はちらりと見た。
「皆自分は大丈夫と思って、恋をして、家庭を持って家族を護ろうとする。でも俺は考えが変った。何時出動命令が出るか解らない。俺を思ってくれる相手は、もしもを考えて怯える。それから逃れるには自衛隊を辞めるしかない。修士課程を終えて、ある程度勤務して借りを返してから退職しよう、そう思ったけどさ」
大きな溜息が弓弦羽の口から漏れた。研究科に入らずに退職しようとも思ったが、自分が選ばれた陰で誰かが落とされたと思うと出来なかった。上に推薦してくれた直属上官への恩義も。いや、これも自己擁護だなと内心呟く。
「戻る場所がなかった。原隊も他部隊も問題児の俺を忌避した。でも退職は躊躇った。納税者への恩義がある。だからCGOに参加した。俺だって解る。何時までも幸運が続く訳はない。いつかは殺られる。だから……」
弓弦羽が躊躇った。今も俺は独り善がりだ、と呟く。
「それが理由だよ。津佳沙を苦しめたくない」
「それで全部? 違うよね」
雨音を縫って突き刺さった言葉に弓弦羽は硬直した。
「ええと、今年二十九歳だぜ。津佳沙はまだ二十一じゃ――」
「あ、そう! やっぱり私は信頼されていないんだ」
弓弦羽は大きく頭を振った。条件講和しかないかと諦める。
「君が好きだ。ずっと気になっていたよ。でも君を護りきる自信がない。苦しめるだけだ。だから――」
二の腕を掴まれた弓弦羽が彼女を見る。真っ赤な眼をした彼女が見詰めていた。
「二人が互いに相手を護る。支え合うでもいいけど。私たちならできるよ」
「馬鹿か、お前」
「好きな人のためなら馬鹿になる! ねえ、答えて。寿命ってなに?」
唇を開きかけた弓弦羽だが声は出なかった。激しく瞬きするだけだ。その弓弦羽を彼女は睨むがごとく見詰める。
「異病じゃなくても人は死ぬよ。病気でも事故でも。それが天命じゃないの? でもそれがいつどんな形で訪れるかは誰も解らない。自分自身も、大事な人も、家族でも。解らないから生きていけるんだよね?」
弓弦羽が雨を跳ね散らかす芝生を見詰めて考え込む。
「なんでそんなに死にたがるの。勝手に決めないでよ! 対価を払ったうえで天命のその日まで頑張るってなんで言えないの! それに滉は負債を払ったら辞める気だったんだよね。それがなんで――え、なに?」
肩を竦めた弓弦羽を、彼女は不思議そうに見詰めた。
「吊り橋効果。聞いたことあるだろう」
怖ず怖ずと彼女が頷いた。
「俺たちの出会いから今日までを思い返してごらん。違うと言い切れるか? 俺は俺自身を疑っている。俺の弱さが求める幻覚じゃないのかって」
彼女は応えなかった。
「俺は日本そのものに迷惑かけちまった。でかい借りだよ。やめとけ、こんな死亡保険金狙いの多重債務者。最低を通り越しているよ」
「それは私が決める。誰を好きになるか、誰に賭けるか」
呆れかえった弓弦羽に構わず、彼女は続けた。
「吊り橋効果かも知れない。でも私は違うと思う。平穏な時のほうが長いじゃない。滉が断言する根拠はなに?」
応えられない弓弦羽に瀬織が微笑んだ。
「時間を掛けて確かめようよ。今すぐ結婚してって言ってるわけじゃない。そうなれたらいいなって夢見てるけど」
「お前、案外押しが強いな」
彼女から笑みが消えた。
「大人しい、待ってるだけの女が滉の好みなら……私駄目だ」
首を横に振る弓弦羽に彼女は溜息を漏らした。
「よかった。答えは?」
「じゃあ……互いを知るって事で友達で」
彼女の目に不満が沸き上がった。
「降参はいやなのに逃亡はいいの?! そんなの卑怯だよ!」
組んでまだ二ヶ月ほどだろうが、と言いかけた弓弦羽は言葉を飲み込んだ。
「お前、なんでそんなに……」
彼女は応えず、ただじっと弓弦羽を見詰める。
「俺が気になるのは津佳沙だけだ。今はこれでよしとしてくれよ」
見詰め続ける瀬織に、弓弦羽が降参の仕草をした。
「俺はストイックな男じゃない。真逆だ。でも今は津佳沙を抱きたくない。不安を紛らわすためとか……そう思われるのは嫌だ」
「したことあるんだ」
少しは遠慮してくれよと弓弦羽は内心呟くが。
「……ある」
間違いなく津佳沙の眼に浮かぶはずの軽蔑を探したが、不安の色しか見当たらない。
「今も?」
諦めを胸に弓弦羽は頭を振った。
「ならいい。ね、滉」
何を言い出す積もりだ、と弓弦羽は身構えた。
「私に希望を頂戴。滉も希望を持てたらキスして」
弓弦羽は地面を見詰めて考え込んだ。彼女は支え合って明日を掴もうと願っている。その相手に選ばれたのは正直嬉しい。踏ん切ったらキスをしろと言うのだから、当然セックスは論外だ。だが今までよりは親しい関係となり、それは……津佳沙がガーディアンを辞めて普通の生活に戻るのが俺の願いだ。俺が少し彼女を受け入れれば、彼女も納得してくれるのでは。可能性はある。
それになにより。俺が理由で彼女が笑われるのだけは我慢できない。
黙考を終えた弓弦羽は、彼女の目を見詰めた。
「俺と付き合ってくれるか。その、愛していると言えるまで我慢してくれる?」
頷いた彼女が距離を詰め、至近で覗き込む。そして恥ずかしげに呟いた。
「本気なら唇以外で……」
軽く頬にキスした弓弦羽は熱い頬に驚き、そして心配になった。
「大好き、滉」
強く抱きしめ返した弓弦羽は彼女の背中を優しく叩く。
「さっきはごめん。ほら、早く熱いシャワーを浴びて着替えなきゃ。熱発したら大変だ」
顔を離した彼女は眉を寄せていた。
「ねっぱつ?」
発熱の意味だと聞いた彼女が頷いた。が、首を傾げる。
「もし寝込んだら、看病してくれる?」
「おかゆ作って、プリンも山と用意するよ。リンゴの摺り下ろしも」
「リンゴはいい。今の時期美味しくないし…ねえ、蒸しタオルで身体拭いてくれたりは?」
「もちろん……厳重に目隠しして清潔なゴム手袋を嵌めてからね。俺は弱いから」
ようやく微笑みを浮かべた彼女に弓弦羽は安堵した。
促されて素直に立ち上がった彼女は、躊躇いなく弓弦羽の左手を握る。
「一緒にご飯食べようね。少しでも一緒にいたいから」
冷たい指の感触に、弓弦羽の心が痛む。
今だけは特別だよと囁いてそっと手を離し、改めて瀬織の腰に手を添える。彼女は弓弦羽の肩に頭を寄せた。
「滉は私のなにに惹かれたの?」
「君の躍動感かな。よく知ってからは内緒。津佳沙は?」
「ふうん……私はね、ジャケットを掛けてくれたあの時。きっと滉は今日もあの時と同じ目をしていたと思う」
目を瞬く弓弦羽に彼女は笑った。
「その後は私も内緒!」
微かに聞こえる笑い声を聞きながら、弓弦羽は盛大にのびをする。飲み会に参加した皆が瀬織区画で泊まりだ。弓弦羽も予備の寝具を提供した。
今夜の飲み会は盛況だったなと微笑んだ。遠くで一部始終を見ていた柴多と須古に突かれて、二人があっさり認めたからだ。万城と石原は驚愕し、神納は微笑んだ。
プリンターのアイコンをクリックした弓弦羽の顔が曇った。俺は馬鹿な選択をしたのかもと唇が呟く。津佳沙も皆も欺しているんじゃないか、と続けた弓弦羽が眉を寄せた。そういえば万城の様子が――。
レーザープリンターの小さな鳴き声が弓弦羽を現実に引き戻した。
温もりを帯びた書類に署名し実印を押す。弔慰金受取り人を瀬織津佳沙とした書類だ。
封筒に入れた遺書と共にそれをクリアファイルに収めた。遺書には弓弦羽の銀行預金を全て瀬織に譲る旨、そして銀行名と口座番号が記載されている。
ビジネスバッグにファイルを仕舞い、明かりを落として階段に向かった。
ベッドに潜り込んだ弓弦羽だが、その眼は天井を見詰めて閉じられることはなかった。
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