第一章 途惑


 沼津市高島本町で一際目立つ東部総合庁舎。その地下の一室で小刻みに連続していた銃声が止む。弓弦羽の前二メートルで発砲していた女性射手の左手が腰にはしる。彼女が右手で保持する銃は十五メートル先で右に移動する標的を追い続ける。銃のグリップを握る右手親指が引き金後ろの小さなボタンを押し込む間も彼女は標的に照準を続ける。

 ステンレス製スライドが前進閉鎖した銃が弾倉を吐き出した瞬間、彼女は新しい弾倉を銃把に叩き込む。抜け落ちた弾倉が床に当たって転がる前に左手を右手に添え直し、左に動く的に発砲を再開した。ヘッドホン型のイヤーマフが大きく見えるショートカットの女性射手は小柄だが、大型自動拳銃を難なく操っている。

 三本目の弾倉が滑り落ちた瞬間、弓弦羽が射撃中止の号令を怒鳴った。

 銃口を斜め前の床にむけた彼女は人差し指を伸ばして用心金に添え、銃のスライドを引いて薬室から未発射の実包を弾き飛ばす。それが何処に転がるか目で追いながら、更に二回スライドを引いて薬室の安全をアピールする。その上でスライドを開いたままとした銃を射撃台に置き、一歩下がった。ブザーが長く鳴る。彼女が射台を出、先の実包を拾う。

「かなりよくなった。残弾カウントも正確だね」

 弓弦羽に褒められて射手は微笑んだ。彼女も長袖のボタンダウンシャツにネクタイ、そしてチノパンを着用している。靴はハーフカットのブーツ。襟の階級章は中尉だ。

「追越しざまに発砲を開始して未来位置に弾を送ること、目線をあげて着弾の成果を決して確認しないこと、そして全弾撃ち尽くす前に弾倉交換。これを身体で覚えて自動化するまで撃ち込んで」

 射撃台横のパネルについたボタンを押し込みながら説明する弓弦羽の一言一言を彼女は真剣に頷いて聞く。発射の轟音から耳を護るイヤーマフは、装着したままでも通常の会話は聞き取れる。

「状況下では誰もが平常心を失う。それが昂じると移動目標を直接照準で撃っちまうし、残弾数はおろか全弾撃ち尽くしてスライドが開いているのに気付かなかったり。照準線を維持できずに顔を上げて撃つのも珍しくない。当たり前のことができなくなるわけだ。残弾数が解らなくなったら冷静じゃない。それを自覚したら腹式呼吸で深呼吸な。それと意識して肛門を締め付ける。肩の力が抜けて興奮が収まるからね。そして忘れずに思い切って弾倉交換。不安要素は全て捨て去れ」

 歯を剥く女性が威嚇する写真を印刷した標的紙が射撃台真上で止った。警察や自衛隊が使う的は、腰から上の人型をシルエットにしたものだ。人を撃つ躊躇いを捨て去る効果がある。CGOはよりリアルなこの的紙に拘る。異病者が相手だと参加者に理解させ、躊躇させないためだ。だから女性の標的紙だけでなく、子供の標的紙もある。異病の発症は十歳以上で確認されている。

 弾痕は標的に描かれた異病者の体内にあるが散っている。唇がへの字に曲がった彼女に弓弦羽は微笑んだ。

「最初はこれでいいんだよ。湯浅君も一昨日実感したはずだ。弾着は必ず相手にダメージを与える。筋肉を損傷させ、骨を砕いて確実に異病者の行動を鈍らせる。そして君の銃は四十五口径だ。一撃の威力は九ミリとは比較にならない。どうだ、撃ってみての感想は」

「制御は楽ですね。数を撃つと九ミリより疲れますが」

 身長一六五センチほどの彼女が元気に応える。銃と発砲行為への恐怖心が払底されているから教えるのも楽だなと思いつつ弓弦羽は頷いた。

 湯浅はスタームルガー社製SR四五自動拳銃を支給された。特殊合成樹脂のフレームとステンレス製スライドで構成され、弾倉に四十五ACP弾を十発装填できる銃だ。大型拳銃の範疇だが、複合素材故デルタよりぐっと軽い。トライアル落選で総本部倉庫に眠っていたのを、銃器担当が掘り出してくれた。在庫の三挺全ての他、米国CCI社製ホローポイント弾五千発と弾倉五十本も東部支部が押さえた。

 グロック社も四十五口径の自動拳銃を作っているが、スタームルガーのこれは一挺あたり三百ドル程安い。価格差はライセンス費用に反映される。性能がまともなら見栄に税金を使う必要はない。

「最初は弾幕で包む気持で撃てばいい。徐々にまとまってくるよ」

「はい! そうだ、映画とかだと後ろに吹っ飛びますけど、一昨日は全然。なぜですか」

 弓弦羽が堪えきれずに爆笑した。脇で腕組みして見ていた五十代の男も肩を震わせる。

「ハリウッド効果だよ、そりゃ」

 脇で笑っていた山野井准尉も口を開いた。

「現実はねえ。ライフルでも無理ですね」

「足をぶった切られたようにその場に沈むね。撃った相手の方向に倒れがちだ」

「十二.七ミリや二十ミリ対物狙撃ライフルなら、爆発したように飛散するそうですよ」

「目標の体積と着弾エネルギーの相関関係だね。八九式の五.五六ミリで人の胴体を撃っても倒れるだけだけど、頭部ならば爆発的に飛散する」

「演出ですか。騙された……大尉、見稽古したいので実演してください」

 気軽に頷いて射撃台に歩く弓弦羽に山野井が慌てた。

「大尉、四十五口径を用意します。今日安土を補修したんで、十ミリはやめてください」

 デルタ・エリートそっくりだが、黒い銃を渡されて弓弦羽は脇の射撃席に入った。警察の倉庫から引っ張り出した骨董品を、自衛隊の武器兵站部から来て銃整備を担当する山野井が組み直したものだ。ハムスターのように補修部品を抱え込むのが習性の自衛隊から提供された銃身と引き金機構は新品だ。新品で拳銃一挺を手配するには書類を作成しまくって予算請求を経ねばならない。でも修理なら野党も財務省のうるさ連中も喚かない。補修部品だから棚卸し分の公表を迫られて追求されることもない。斯くして兵站部の修理スキルは銃器メーカーの銃工ガン・スミスのそれを凌駕し、仕事も早い。警察は銃器メーカーもしくは経済産業省の認可を受けた業者に依頼するが。

 ブザー音が短く二度鳴った。弓弦羽は手探りで弾倉を銃把に叩き込み、フレーム左側面のスライド・ストップを右手親指で押し下げる。目線は標的紙が動く空間に据えられたまま、後退していたスライドが前進し閉鎖された。

「ぼちぼちいきますか」

 銃を前方斜め下に向けた弓弦羽に山野井が声を掛ける。と、一呼吸もおかずにボタンを押し込んだ。

 隠れていた標的が左に走る。即座に銃を持ち上げ両手保持とした弓弦羽が腰から上を回して追尾する。湯浅の時より標的の移動が早い。直ぐに標的は右に移動する。両目で照準する弓弦羽は滑らかに腰から上を回転させ、照星が的の中心を追い越した瞬間に速射を始めた。移動する的に目の焦点を当てている。銃が身体の一部になってこそ可能な射撃法だ。なお、動かない固定的を狙うなら照星に神経を集中するのが鉄則だ。

 直ぐに引き金を緩め、左に方向転換した的に速射する。弾倉が床に転がる前に新しい弾倉を叩き込んで撃ち続ける。

 的紙を見詰めた湯浅の唇が尖った。

「機関拳銃みたいな撃ち方なのに。なんで纏まるんだろう」

 人体の中心に直径五センチほどの赤点がある。弾痕はその赤点端を食い破って左右に六センチほどの範囲を抉っていた。

「引き金の落とし方だよ。逆鈎、つまりシアーが再度引っかかる最小距離を戻せばいい。慣れるとシアーが外れる直前の手応えも、再度それがかかったときの手応えも解る。連射速度も精度も上がるよ」

「ちょいとずれてますね。調整します」

 山野井が背後の壁に掛かった工具の一つに手を伸ばす。アリ溝に圧入された照星を左右に動かして調整する工具だ。銃を取り上げて弾倉が外されているのを目視した山野井は遊底スライドを二度引いて薬室安全を確認した。スペーサーを併用してスライド前端に工具を嵌め、慎重にハンドルを捻り始める。

「こんなものかな。試してください」

 二度目の的は十三発全てが綺麗に赤点に入った。停止した標的紙の頭部に向けて撃った一弾倉分は直径二十ミリほどの弾痕となっている。調整した山野井は自分が射手だったかのように満足げだ。

「これを大尉の予備にしましょう。デルタは一挺だけですから」

「拳銃速射競技の強化選手になれますよ、マジ」

 着弾孔を指で撫でていた湯浅が呟くと山野井は苦笑いを浮かべ、弓弦羽は首を横に振る。湯浅は訝しげに二人を見た。

「緊張感保てなくて全然駄目。静かすぎて飽きるわ眠くなるわ」

「得手不得手は人それぞれ。機械になれる人向きですよ、競技は」

 確かに俺は人間的だと頷く弓弦羽に、山野井は朗らかに笑った。

「苦手な恋愛は克服できたんですか」

 ゴキブリより苦手だよと真顔で返した弓弦羽に、湯浅は失望混じりの苦笑いを浮かべた。

 壁の時計を一瞥した弓弦羽は、イヤー・マフを外して壁に戻す。

「中佐に呼ばれているんで失礼する。湯浅君、今夜はあと二百発」

「私も機械じゃありません!」

「一気に少佐になりたいなら帰れ。銃もならし運転が必要だぞ」

 縁起でもないとぼやく湯浅を残して弓弦羽は防音ドアを押し開けた。


 大藪のデスク前には椅子が用意されていた。それを見た弓弦羽は内心覚悟を決める。自覚していないが、何か不興を買ったのだろう。

「ご苦労さん。まあ座ってくれ」

 腰を下ろした弓弦羽は背もたれに背中はつけない。軽く握った両手を腿の上におき、大藪を見詰める。

「田原少尉は帰らせたんでな。不味くても文句は言うな」

 自ら緑茶の用意をする中佐の横顔には特別変わった節はない。

 田原は先週から大藪の補佐として着任した空自出身の女性だ。管制業務に就いていた彼女は卓越した並行処理能力を持つという話だが、弓弦羽は一度も顔を合わせていない。

「君は異病問題の今後をどう考える」

 マグカップを受け取った弓弦羽は、詮索を諦めた。中佐はデスクに腰をもたれさせ、自分のマグカップを啜りながら返答を待っている。弓弦羽は片手でスマホを弄りはじめる。

「異病発生率は人口十万に対して一日〇.三人です。日本全国で、ええと、一日に約三百八十人、年間約十三万九千人」

 ふんふんと大藪は頷き、お前も呑めと手振りで促した。一口お茶をすすった弓弦羽は結構いいお茶だと感心する。支部で隊員が飲む飲料は、食堂の出がらし以外は自費調達だ。

「問題は異病者が何人殺害するかです。CGOが機能する前は一件平均十人以上。一応の機能を果たせるようになり、同時に市民がいち早く逃げるようになったこの四月は五人ちょっとになりそうですね。五名としても年間……六十九万五千人。異病者も含めて八十三万四千人ほど。従来の平均年間総死者数が約百二十万人を加算すると馬鹿にならない数値です」

 電卓モードのスマホを終了した弓弦羽が大藪を見た。中佐も沈痛な表情で静かに見返えす。

「新生児出生数が年間百万ちょっとですからね。世界的レベルで考えてもお先真っ暗、破滅の危機だと結論します」

「人類の黄昏か」

 大きな溜息を中佐が漏らした。ゆっくり回すカップの中身を見詰めていたが。

「それを理由に白旗を揚げて、静かに論文を書いて過ごしたいか」

 面を上げた大藪は弓弦羽の返答を待っている。

「安全保障では諦観は必須ですが、傍観して破滅を待つのは愚とされます」

 大藪が頷いた。

「国家間の経済交流が海路に限定された結果、経済活動にも支障が出てきました。経済が揺らぐと国家が危うくなります。それは国民生活の破綻を予想させ、人心が荒む。国際社会はアナーキーですが、国家内がそうなったら……人類は何千年後退するのでしょうね」

「私の質問に対する答えは?」

「CGO隊員の増強が必須です。理想は従業員二十名以上の企業や団体に最低二人を配備。最低限の安全が保障されなければ誰も仕事をしませんよ。家に引きこもっちまいます」

「経済の破綻は生活の破綻に繋がるな」

 二人が頷きあう。

「私が最も危惧するのは学校での対応です。教師は逃げ腰ですし、それでいて我々の常駐は断固拒否。既に数件発生しても考えを変えようとしません」

「なぜ学校を」

「若者を護らなければ日本に未来はありません。国家も経済活動も、それを支える優秀な国民が有ってこそです。異病で保護者を喪った児童の保護も大事です。当然未就学児も」

「研究会の分析結果もほぼ同じだ……話が早い」

 眉を上げた弓弦羽に大藪は微笑んだ。

「就学人口保護の新プログラムに参加してくれ。文教地区、つまり学校が集中している地区を重点的に保護するんだ。だが義務教育諸学校は教職員の反対が強い。なので君には大学構内で待機してもらう。上手くいったら全国に展開する。責任は重いぞ」

 ほう、と弓弦羽が声を上げる。

「実績を上げて彼らを黙らせる腹ですか」

 真面目な顔で大藪が頷く。

「教え子を戦場に送るなというのは解る。だが明白な危険から目を逸らして、銃を教育現場に入れるなというのはエゴだ。主義主張は子供より大事なのか? あ、これは私個人の意見だぞ」

 頬を緩めて弓弦羽が頷いた。

「ぜひやらせてください。東京辺りですか」

「冗談言うな。こっちにもある」

 眉を寄せた弓弦羽が目を大きく開いた。

「三島の文教町。小中高校そして大学がありますね」

「正解。小学校が一つ、中学は二つ、高校が通信教育校を含めて三つ、大学は四年制と短大で二つ。教職員も含めると一万人近い。地域住民と合算するのは難しいが、最大計算で三島市総人口の三割だな」

 ああ、と弓弦羽は頷いた。日中と夜間での人口移動だ。

「君は三島市出身で日邦大付属三島高校の卒業生。高校には顔見知りの教師もいるはず。そして土地勘を持つ東部支部の優秀な幹部だ。がんばってくれよ」

「おだてても能力以上の働きはできませんよ」

「複製を作れたらなあ……というわけで引っ越しだ。三島に官舎を用意した」

 眉と肩を落とした弓弦羽に大藪はニヤリと笑う。

「我々の宿命だ。気分転換だと思え」

 引っ越し費用は自腹だぞと念を押した大藪に、弓弦羽は肩を竦めた。

「明後日午前に大学高校合同で会合、その後事務所に案内する。東部支部日邦大三島出張所だ。機材の搬入は完了した」

「了解しました。勤務開始はいつからですか」

「明後日だ。これが宿舎の地図と鍵。でかい車を持っているんだから自分で引っ越せ。現官舎は土曜日までに明け渡すこと」

「今日は水曜ですよ」

「国民の負託に応えろ、特別公務員。そうだ、今朝から菅﨑警視がうろちょろしている。明日も邪魔する様子だから徴用しちまえ。明日は引っ越し優先でもいいぞ」

 菅﨑は警察庁所属の監査役だ。中佐は警察出身だが、今となっては煙たいらしいと弓弦羽が苦笑する。CGOは常に人手不足だ。つまり夜の内に済ませろという謎かけ。

「またぞろ口説いていますか。風紀を乱す奴が監査って何の冗談だろう」

「君みたいに堅すぎるのも心配だがあれは酷いな。そうだ、立場上釘を刺しておく。真面目な交際であっても中高校生には手を出すな。飢えたマスコミに飯を食わすな」

 真面目な顔で言い渡す大藪に弓弦羽は苦笑して見せた。CGOはマスコミに認められたことは一度もない。

「肝と股間に銘じました。青バイの運搬はどうやります?」

「明後日、湯浅君に。帰りは私の車があるからな。正門脇の守衛所前で九時半に。十時から会合だ。駐車場は守衛さんに尋ねること。これからは自家用車通勤だ。通勤手当は五千円な」

 言葉を切った大藪がまだ何か言いたそうにしているので弓弦羽は待った。

「私事に口を挟んで済まんが……なぜ恋人を作らない」

 数瞬躊躇った末、弓弦羽は口を開いた。

「南スーダンの騒動の後、恋人に言われたんです。待つ身の辛さが解るかと。菅﨑も東大法学部出の博士なのに閑職に回されました。私が巻込んだからです」

 大藪が唇を引き結んだ。

「命令を自分なりに遂行した結果を恥じてはいません。でも日本国民に、自衛隊に、そして菅﨑に迷惑をかけた事実は……そして今はCGO。強靱な神経の持ち主かどうか試すわけにも、強いるわけにもいきません。それに最低最悪な私を選ぶ物好きはいません」

「お節介を焼いてすまん。でも君たちを評価した人もいる。それは忘れるなよ」

 寂しげに微笑んだ弓弦羽から大藪は視線をそらせた。

 退室した弓弦羽はちょっと考え込む。

 管制室のガラス越しに中を覗いて頷き、ドアを開けた。

「菅﨑警視」

 管制官に話しかけていた長身の男が顔を上げ、おちゃらけた敬礼をする。三つ揃いのスーツを小粋に着こなす彼は、弓弦羽と同世代のようだが肩幅は細い。

 招き猫様答礼を返した弓弦羽が手招くと渋々やってきた。差し入れらしいドーナツを囓りだした彼に平然と告げる。

「志願ご苦労さん。手伝ってくれ」

「俺のライフワークを邪魔すんな! 無理だぞ。おまえも俺の射撃が下手なのを知っているだろ!」

 ジャケットに飛び散ったドーナツの破片を払いながら弓弦羽は肩を竦めた。

「股間の大砲は訓練しまくっているそうじゃないか」

 管制官は笑い出し、菅﨑は鼻を鳴らす。

「自慢の腰を鍛えてやる。俺の引っ越しを手伝え。朝までには終わる」

「やなこった! 疫病神はあっちにいけ」

「明日の晩までおまえを使えと中佐が仰っている。つまり業務だ。ライフワーク以前に、本業に支障がでるぞ」

 指でついついと壁を示す弓弦羽は、浴びせられた猛烈な悪態を平然と聞き流す。

「菅﨑君、九時から五時までの生活に満足してはいけないぞ」

 ドアから大藪の大声が響いた。菅﨑がびくりとする。

「夜の内に済ませれば大尉は勤務に専念できる。市民のために協力してくれるな」

「ああもう、解りましたよ! 悪霊退散の御札、今度用意して――」

 にやりと笑った弓弦羽が手を上げて遮った。

「自分の額に張っとけ。おまえにとりついた邪淫霊が成仏するかも」

「ひでえ! 愛と酒の神バッカスが俺の守護神だぞ」

 弓弦羽の片眉が跳ね上がる。

「古代ローマでは神だったが、今では酒色の悪魔だよ。ほれ、ローマン馬鹿滓。行くぞ」

 弓弦羽に連行される菅﨑を男女の爆笑が見送った。

 東部総合庁舎では不平たらたらだった菅﨑だが、連れ込まれた部屋では積極的に荷造りを手伝った。

 CGO官舎は冷蔵庫やエアコン、タンスやベッドは部屋付属の官給品扱いだ。転属が多いからというのは建て前で、遺族に送付する荷物を少なくしたいからだと弓弦羽たちは噂する。それ故、菅﨑の手を借りたのは私物の大型書斎机を弓弦羽の車に押し込む程度だ。後は僅かな食器や大量の書籍をダンボールに詰めて終わり。私服は大した量ではない。

「見事なベッドメイクだ。几帳面な彼女が毎朝やるのか」

 ベッドを指さした菅﨑が弓弦羽をからかう。

「防大で先輩に叩き込まれてな。習性になると手早くできるぞ」

「そうだ、昔映画で見た! ちょっと試させろ」

 小銭入れから百円玉を取り出した菅﨑を弓弦羽は訝しげに見る。

「こうやってと」

 菅﨑がトスしたコインは毛布の上で跳ね返った。

「海兵隊のアレ、本当なんだな!」

 無邪気に喜ぶ菅﨑に首を傾げた弓弦羽は壁の時計を見た。

「助かったよ。日が変わらないうちにホテルに送る」

「水くさいぞ、戦友。あのウィスキーでいいぜ」

「俺は飲まないから持ってけ。そうだ、あの管制官だけど旦那さんいるぞ」

「マジ? 気合入るわ!」

「あっそ。レンジャー徽章持ちだ。お前の胴体と首が――」

「やめた!」


 地図を頼りに辿り着いた二人は、目前の建物に首を傾げた。

「官舎って聞いたんだが」

「小洒落た普通の家だ。陸自のくせに地図も読めねえのか。いや、情けない」

 顔を見合わせた二人が揃って住宅地図のコピーを覗き込む。

 降車した二人は、足音を偲ばせてドアの前に立った。

「こりゃ二世帯住宅だ。美人の若妻がお隣さんかもな。よっし、今度泊まろ」

 嬉しげな菅﨑の囁きに弓弦羽は慌てて囁き返す。

「おい、ここではライフワークするな。俺が居所無くしちまう」

「あっちは入居している。となりゃこっちだな。さっさと開けろよ」

 菅﨑に急かされて弓弦羽は鍵を取り出した。恐る恐る差し込み回す。

 安堵の溜息が二つ漏れた。


「残りは俺一人で大丈夫。おまえは風呂で腰をいたわれよ」

「そうする。そうだ、風呂場は見たか? まだか。足を伸ばして入れるサイズだ。シティホテルかよ、まったく」

 帰路の車中で菅﨑が溜息を漏らした。弓弦羽はニタリと笑う。

「くつろげそうだな。論文がはかどるよ」

「おまえなあ。キッチンに隣接したリビングは十畳越え。二階は三部屋。ベッドはダブルサイズだし風呂はムチャ広い。俺は自己負担三万で築二十年のワンルームだぞ。人事院にねじ込んでやる」

「東京都じゃないし、俺の自己負担はおまえより高いんだよ……異病者が暴れた家を借りる場合があるって以前聞いた。それかもな」

 助手席でだれていた菅﨑が姿勢を直した。

「今度泊めさせろっていったけど止めた。幽霊は大嫌いだ。学生時代えらい目に遭ってさ。夜中、真っ青な顔した女が寝ている俺の首をぐいぐい締めて――」

 ケラケラ笑われて菅﨑は口を噤んだ。

「暗い部屋でよく顔色が解ったな。夜食食っていこう、って俺は夕食か」

「嘘は言ってないぞ。牛丼特盛り気分だな。厄払いにビールと牛皿も奢れ」

「サラダも食え。健康一番御身大事にご奉公だ」

「異病者如きに殺られんなよ、戦友」

 車内に沈黙が満ちた。


「ちょっと一服させてくれ」

 十四号館から出た大藪中佐が弓弦羽を振り返った。

 大学エリアと高校・中学校エリアを隔てる空き地に喫煙所が設置されていた。大藪と並んで歩く弓弦羽は、思索の森と呼ばれる庭園に目を向けた。あの日の場所だ。

 桜は葉桜に姿を変え、悲惨な現場の痕跡は全く残っていない。暖かい日差しの中、躑躅が暗い過去を振り切るかのように花開いている。時は誰にも変化を促すわけだと弓弦羽は呟いた。

 行き交う学生たちは弓弦羽たちを見てもなにも反応しない。余程奇妙な格好をしないと彼らの注目を集めるのは無理かもな、と弓弦羽は内心笑った。

「やはり理解者ばかりではなかったな。公立校の関係者がいなくて幸いだった」

 ベンチに腰掛けてマイルドセブンを美味そうにふかす大藪が呟いた。頷きながら弓弦羽はキャラメルを口に放り込む。

「大尉も弁が立つな。面白かったぞ」

 含み笑いを漏らす大藪に、弓弦羽は苦く笑う。

 合同会議でCGOの常駐に反対する高校教師が論戦を挑み、大藪に促されて弓弦羽が応じた。感情を排除して話しましょうと布告した上で安全保障の観点で論じ、感情論を元に攻撃する彼に代替案の開示を要求した。追い詰められた教師は席を蹴った。援護していた数人もだ。中高関係者は身内の造反に動揺していたが、大学教授会の反応は異なった。さっさと終わらせてくれという気配を漂わせて辛抱強く待った人もいれば、身を乗り出して二人の論戦に聞き入った人もいた。

「恩師なんですよ。昔も理想主義者でした」

 そうだったのか、と大藪が呟いた。

 高校校舎に目を凝らした弓弦羽は首を傾げた。楽しかったという曖昧な記憶以外湧いてこない。級友そして部活仲間の顔も、交際した下級生の顔も思い出せない。

 キャラメルと同じかな、と呟いた。どんなに懐かしがっても昔の味覚は取り戻せない。時は誰にも平等に流れ、忘却を促して……いや、と弓弦羽は否定した。忘れられないことも、忘れてはいけないこともある。

「さてと。出張所を見てもらおうか」

 煙草をもみ消した大藪が正門脇の十二号館を指さした。赤煉瓦で覆われた外壁が目立つ建物だ。

 一階は守衛室と保健室、三階から上はサークルが使用する一二号館で、大学がCGOに提供した部屋は二階の際奥だ。建物中央を通路が走り、左右に部屋がある。出張所は文教町名物の銀杏並木側ではなく、構内に面していた。南壁の窓から市立北中学校も見える。部屋で暇を託っていた湯浅は、二人の顔を見るなり学食探検に出かけた。

「湯浅君が戻ったら、俺たちも学食で昼を食おう」

 躊躇った弓弦羽に、大藪は首を横に振った。

「昼食を抜くな。学食を利用すること。これは命令だ。常在戦場なんだろう? なら肉体と気力を維持するに食事は必須だ。そして君の存在を主張できる。最初は避けられるかもしれない。だが彼らのために君はいるんだぞ」

 くそ、と腹の中で弓弦羽は罵る。正論ほどむかつくものはない。

「はあ、努めて空気になりますね」

 小さく頷いた大藪が微笑んだ。

「銃器庫と弾薬庫はここだ。君の九ミリ・カービンが入っている。弾薬は十ミリ二〇〇発と九ミリ一〇〇発。そして湯浅君の緊急補充用に四十五口径弾二〇〇発。管理責任者は君だ。管理帳簿を確りつけろ。紛失は許されない。ほれ、鍵だ。確認しろ。指紋認証は登録済み」

 米軍や自衛隊特殊部隊が使うM四カービンそっくりな銃が銃庫に立てかけられていた。コルト社が法執行機関に製造販売する九ミリサブマシンガン、日本式に呼べば九ミリ短機関銃だ。銃身は短く、前後伸縮式銃床が装着されている。銃床を縮めた全長は、僅か六十五センチ。

 俊敏な異病者は散弾銃で大型散弾を連射して制圧するのが最良だが、逸れた大型散弾が市民を殺傷する危険は軽視できない。ライフル銃は命中精度が高いが威力が大きすぎて間違いなく貫通してしまう。ライフル弾は最大四キロ程飛翔するから始末が悪い。そこで新世代の短機関銃が注目された。欧州式呼称のマシン・ピストルを日本の誰かが拳銃を意味する短銃と機関銃を合体させて短機関銃と造語した。昨今は機関けん銃とも。米国では今も昔もサブ・マシンガンと呼ぶが。

 旧世代の短機関銃はボルトが後退位置で固定されて発射準備が整う。引き金を引くとボルトが前進して実包を薬室に送り込み、閉鎖と同時にボルト前面に固定された撃針が実包を激発させる。弾頭と薬莢底部を押さえるボルト面双方に均等に作用するガス圧を利用して空薬莢を排出するブローバック式、つまり吹き戻し式だ。火薬量が絶対的に少ない拳銃弾だから採用できる単純な構造ゆえ、廉価に大量生産できる。その反面、通常の自動銃より遥かに重いボルトの前後移動、閉鎖時のショック、劣悪な引き金、形だけの照準器などが全て重なって命中精度は劣悪だ。そのため第二次大戦以降急速に廃れ、過去の遺物と成掛かった。

 その流れに一石を投じたのがヘッケラー&コッホ社のMP五短機関銃に代表される新世代の短機関銃だ。普通の自動銃と同様に軽量なボルトは常に閉鎖され、銃身からチューブで導いた発射ガスをボルトに叩きつけて排夾装填を行う。命中精度と信頼性そしてライフル弾のような貫通後の二次被害の少なさを誇るMP五だが、警察と自衛隊の特殊部隊が使っているのでCGOは装備できない。コルトのこれは両機関が採用していないし、MP五の半額なので外野も黙った。市民の軍アレルギー感情を配慮してカービン、つまり全長が短い銃と呼称される。ボルトはMP五と同じく常時閉鎖され、引き金機構はM四ライフル銃のそれと同じなので命中精度もなかなかだ。ボルト強制閉鎖機構は省略されているが、幼稚園児でも操作できるM四のバッファ・スプリングより遥かに強力なスプリングを使っているから問題ない。射撃時は単発と三点バースト、つまり一回引き金を引くと三発連続発射する機能を選択できる。標準の固定照準器も確りしているので、上級射手資格をもつ弓弦羽なら光学照準器を使わずに九ミリ弾の有効射程である百メートルまでの頭部狙撃が可能だ。

 拳銃弾サイズの細長い三十二連弾倉が五本と、実包をそれに詰めるときに使う装填アシスト工具もある。弾倉バネが堅いので、十発程度ならまだしも三十二発も詰めると指の皮がむけてしまう。カービンの機関部外側はM四小銃と同寸法だ。なので弾倉挿入部の銃口側にスペーサーが取り付けられ、弾倉は引き金側に挿入する。弾倉は直線デザインで湾曲していない。

 弾薬庫も確認し施錠した弓弦羽が身体を起こした。

「九ミリが多すぎますね。パソコンと事務机が二セットありますし」

 大藪が鼻を鳴らした。

「君は優秀だが複製はいない。ならば異病者の時間差発生にどう備える」

「私は誰と組むのですか、と間接的に聞いたんです」

「まだその時じゃないんだよ。ほれ、次はこっちだ」

 壁のコネクティング・ドアに向かう大藪に弓弦羽が盛大な溜息を吐く。

 機能と実用性優先の待機室と違い、横の部屋は居心地を良くする設備があった。

「官舎に戻る余裕がない場合も考慮して、シャワーと折りたたみベッドそしてキッチンシンクも小さいが用意した。可愛い女学生と懇ろになるためじゃないぞ。信用失墜行為は厳禁だ。やはり誓約書を書かせようかな」

 弓弦羽が前よりでかい溜息で応える。が、完璧なまでに無視された。

「出張カウンセリングで神納君もこの部屋を使う。それも学校と交わした約束の一つだ。更衣室がないから適当にな。後は自分で見てくれ。私は買い出し」

 一人残された弓弦羽は遠慮なくチェックを始める。シンクに付属したコンロ台はIHの電磁調理具だ。ベッドは折りたたまれて壁際に二つ置かれている。

「奢りだ。で、どうだ?」

 戻った大藪が一本トスした。大学時代ラグビーをやっていた大藪だからか、綺麗に投げる。ソファに座った大藪はテーブルに二本置いた。

「消火器が見当たりません。大型を二本手配してください」

 ボトルをもてあそぶ弓弦羽は早速要求する。電気魔法瓶、電子レンジ等はあったから忘れたのだろうと踏んだわけだ。

「構内で調達しろ。置き場所が変化しても文句は言われないさ」

 弓弦羽は肩を竦めて笑う。しょうがない、自分で買おうとメモの一番下に書き足した。その上にはIH対応雪平鍋と書かれている。

「冗談だ。連休明けに配達させる。他には?」

「問題ありません。それで私は――」

 此処でいつまで勤務するのかと問いたかったが、ドアのノック音に遮られた。

「時間通りだな」

 ドアに向かおうとした弓弦羽を大藪が制止した。自ら腰を上げた大藪を驚きの目で弓弦羽は見る。

 丈の短いジャケットとスカート姿の女性が入室する。もう一本のペットボトルは湯浅の分だと弓弦羽は思っていたが違ったらしい。その女性に弓弦羽は目を僅かに細めた。見覚えがある。こんな髪型をした女性に以前どこかで……。

 彼女を従えて戻った大藪が紹介する。

「警護士の瀬織津佳沙君だ。弓弦羽大尉とはもう会っているね」

「先日は有り難うございました。あっ、失礼しました!」

 頭を下げてから慌てて右手を挙げて敬礼し直す彼女に弓弦羽は戸惑った。記憶にある瀬織と全く違う。なにより辞めたと思い込んでいた。混乱したまま答礼する。CGO職員は無帽で勤務するので、警察や自衛隊等の着帽時は挙手で、無帽時は腰を折っての敬礼という使い分けはしない。

「弓弦羽滉。改めてよろしく。怪我は治ったのかな」

 なんで続けているんだと問いたい気持を押し殺し、弓弦羽は当たり障りのない質問をする。活力と意思を放射する綺麗な目が弓弦羽を捉えて放さない。

「はい、もう大丈夫です。任務に就けます」

 その返事に弓弦羽はまた動揺した。顔に疑念が出たかと己を叱る。腹式で大きく呼吸をしつつケツの穴を締めた。

「瀬織君は主に日邦大を、大尉は周辺地域をもカバーする。君たちへの期待は大きい」

 漸く落ち着きを取り戻した弓弦羽は彼女を素早く検分する。強靱な精神の持ち主のようだが、今後はどうだろう。

「というのは立場が言わせることだ。瀬織君は学生の本分を果たすこと。いいね」

 形よい各パーツが理想的に配置された小顔の娘。特に目が印象的だがきつくはない。少し上向いた鼻がそう見せるのか、豊かに感情を放射する目が原因かはわからないが。極薄い化粧に弓弦羽は好感を抱く。

 だが美醜は任務には関係ない。大事なのは適性だ、見極めろと弓弦羽は己を律する。背が高い。自分と比較して十センチ程低いだけだ。裸足で一七五くらいか。引き締まった肢体は南スーダンで遠望したガゼルを連想させる。胸は結構あるが、これは信用ならないなと思った己を慌てて叱った。爪は短く切られ、髪は本人の活力を示すかのように跳ね気味だ。だが化粧や髪の毛には手を抜いていない。そして行動に躍動感がある。となると。

「得意なスポーツは?」

 唐突に問われた瀬織だが。

「バスケットボールです。中高とやりました。今はサークルで週二回です」

 弓弦羽の目が彼女の手に走る。女性としては大きめだが綺麗な指だ。突き指の不運に縁がないらしい。動体視力と反射神経に優れ、用心深く先読みする人物なわけだ。彼女に断ってから肩と腕に触れる。密でしなやかな筋肉の感触に満足した。握力を試す必要はない。

「早速だが拳銃を変えないか。九ミリより強力だし、安全機構も二重だ」

 困惑していた彼女が二度瞬きをした。

「私に扱えるでしょうか」

 頭の回転も速いし、確かに慎重だと弓弦羽は満足を覚えた。

「瀬織君なら大丈夫だ。直ぐわかる」

「大尉がそう仰るなら」

 瀬織が躊躇い気味に頷いた。声を殺して笑っていた大藪も頷く。

「早速試してみよう。夕方から夜は空いているか」

 今度は躊躇なく肯定が返る。まっすぐ見詰める彼女の眼力に弓弦羽は戸惑った。

「先に庁舎食堂で夕食を済ませろよ。ところで大尉、引っ越しが済んだのなら旧官舎の鍵を返しなさい。クリーニング費用は俸給からさっ引くからな」

 ペットボトルを瀬織に渡した大藪が弓弦羽を見た。その目は笑っている。

「入ったときより綺麗ですよ」

 平然と鍵を渡す弓弦羽だが、内心では中佐の笑みが気になっている。可能性を総当たりした結果、四十五口径に拘る俺を面白がっているのかと推察する。

「それを聞いて安心した。ここも官舎も綺麗に使ってくれよ」

 何時死んでもいいようにね、と弓弦羽は心の中で呟いた。


 九ミリの鋭い反動に慣れていた彼女は四十五口径の重い反動、そしてLC九より一回り大きいSR四五に当初戸惑った。だが弓弦羽の指導を素直に学び、直ぐに慣れる。指先から手首のサイズが普通の男性並みで、重いバスケットボールを操れる筋力と骨格を持つ彼女なら大丈夫、と踏んだ弓弦羽の推測は正しかった。

「え、ここ?」

 射撃訓練の結果に満足して、自分の車で瀬織を送った弓弦羽が素っ頓狂な声をあげた。言われるままにハンドルを切った結果、辿り着いたのは自分の官舎だ。

「本当に知らなかったんですか。私は大尉の車で気付きました。駐車場のと同じだって」

 助手席で笑う瀬織に目を瞬いた。

「あんのタヌキ中佐め、嵌めやがったな」

 弓弦羽の罵声に瀬織の笑いが大きくなった。

「ええと……味噌や醤油、借りるかも。挨拶しなくてごめん」

 弓弦羽が無精や人嫌いだからではない。隣人の素性が不明だったからだ。CGOは特別利益の提供を禁じている。同じ町内にいるのだから特別目を掛けろとかは厳禁だ。そう周知していても、少しぐらいはと言い出すのが人情。接触を避けるに越したことはない。

 助け合いは基本ですね、と応えた彼女が荷物を抱えて車を降りた。パンツ用ホルスターとメンテナンス道具はトートの中だが、コンシールド・キャリーバッグは収まらない。ショルダーバッグの外部に拳銃収納部を装備したバッグで、バッグを開けること無く迅速に銃を取り出せる。スカートだとホルスターが装着できないという女性警備士の要望により、米国から海路で取り寄せたものだ。大型のSR四五も問題なく収納出来る。ノートが収まるサイズと小ぶりなものの二つ、そしてパンツ着用時に使うパドルタイプホルスターを支給された。パンツ内側に差し込むヘラ状のパッドが付いたもので、ベルト通しだけのものより安定がいい。代わりにLC九拳銃と予備弾倉二本、そしてホルスターは返却された。警護士は予備弾倉に収まる以上の弾薬保管を認められていない。

「慣しが済むまで送迎するからね。今日はお疲れ様。おやすみ」

 車窓越しに挨拶した弓弦羽に、彼女は怪訝な顔をした。

「買い出しに行くんだよ。食料や出張所に置くお茶とか」

「あ、それなら私も。いいですか」

 足がないと買い出しも大変だよな、と弓弦羽は気軽に頷いた。

 急ぎ足で部屋に入った彼女を待つ弓弦羽は首を捻る。時々彼女は打ち解けてくれる。でも普段は俺を警戒しているような雰囲気だ。射撃姿勢の矯正で彼女の腕や肩に何度か触れた時は殆ど感じなかった。休憩中や車内では壁を感じた。俺が嫌なら、今も同行を希望しないだろうに。仕事だから表向きの顔で演じているのだろうか……あたりまえだ。あんな可愛い子だ。男のあしらいは慣れているさ。

 ドアを開かれて弓弦羽は物思いから醒めた。小ぶりのコンシールド・バッグを持った彼女が助手席に座る。ご飯が好物だから無洗米を十キロ買いたいと笑顔で語りかける彼女に、適当な相槌を返した。

 わからん、とアクセルを踏みながら弓弦羽は心中で呟いた。瀬織も解らないが、彼女をまず女として見た自分も。二十九歳になる俺が八歳も……南スーダンで武装勢力を相手に戦ったとき、不意に空隙が訪れた。敵も動かず、弓弦羽も攻撃しない無為な時間。その時、無性に女を欲した。誰でもいい、熱い肌と舌の感触そして潤んだ秘部を欲した。だがそれは一過性だった。帰国後は戦いの記憶に苦しめられたが、徐々に悪夢の頻度は減った。原隊に戻れていたら逃げ切れたかも、恋もできたかもと弓弦羽は思い返す。だがCGOに移動して一気に悪化した。美和の存在が救いだった。彼女が説明した合理化とやらを信じていいのか。好いてくれた人を拒絶した癖に利用した自分を弓弦羽は嫌悪している。連絡しちゃいけないし、代わりを作るのも駄目だと決意した。それなのに瀬織を女としてみた。終わりが来るのを待ちわびているのに。危険な兆候だと答えを出す。彼女を巻込むわけにはいかない。できるのはただ一つ。死なせないことだ。それなら少しは生産的だ。そう気付いたなら少しはまともか。己を鼻で笑った弓弦羽に、黙り込んでいた彼女が口を開く。

「すみません。私、邪魔でしたね」

 叱られる仔犬のように小さくなった彼女に弓弦羽は慌てた。

「いや、ごめん。一寸考え事をね。悪い癖なんだ」

 護るべき部下に気遣わせる俺はバカだと情けなさがこみ上げる。

「大尉は誰か呼ばないんですか。お友達とか、ご家族とか」

 思わず身構えた弓弦羽に、柔らかな笑みを浮かべた彼女が補足する。

「ほら、転居お披露目パーティみたいな」

 生じた間を瀬織は好意的に受け取ったらしい。立ち直りの早さに弓弦羽は救われた。

「家庭を持っている友達が多いし、両親はあの世だし」

 弓弦羽は慎重に言葉を選ぶ。菅﨑の疑念を口に出すのは論外としても、寂しさを公言したくない。

「済みません……サークル仲間が泊まりで来るんですけど、ご迷惑かと」

 勘も鋭いな、と弓弦羽は内心舌打ちした。

「賑やかなのは大丈夫。賑やかしいほうが眠れるたちだからガンガンどうぞ」

 最初は安堵した瀬織だが、後半で首を傾げた。負の思考を邪魔してくれた方が有り難いだけだと弓弦羽は言葉に出さず呟いた。

「五月蠅すぎたらすぐ言ってください。あ、携帯番号とか交換しておきましょう」

 ますます解らなくなったと思いつつ弓弦羽は私用携帯を手渡した。赤外線通信の遣り方は知らない。

「湯浅中尉とは親しいんですか?」

 携帯を操作する瀬織が普通の口調で尋ねた。学食から戻った湯浅と瀬織がなにやら意識し合っていたのは感じた弓弦羽だが。

「防大の研究科にいたときの後輩でね。先日こっちに配属されたんだ。びっくりしたよ」

 それはびっくりしますよね、と呟いた彼女は弓弦羽の携帯を手渡した。


「これ、全部一人で飲むんですか」

 缶ビールをダンボールで六箱、カートに乗せた弓弦羽に彼女は呆れた顔をした。

「ストックがないと不安でね。へべれけタイムと通知して、自分の時間を作るんだ。君たちの飲み会で必要になったら声かけて。冷蔵庫はこれが九割占めるから」

 瀬織は笑うが、通知しない休肝日だけはちょくちょく要請がかかるから実効はある。異病者対応が理由でも飲酒運転は厳に禁じられている。

 ウィスキー等には手を出すまい、緩慢な自殺だけは真っ平だ。改めて自分に宣言した弓弦羽は一旦レジに向かう。途中菓子売り場に寄ってキャラメルを一カートン、ビールの上に置いた。


 動画再生ソフトを一時停止した弓弦羽は、背もたれに背中をあずけて目頭を揉む。

 昨日午後二時過ぎ、日邦大付属高校で異病者発生。異病者含む死者七名、重傷者三名。駆けつけた弓弦羽の目前で、最後の犠牲者が首を引き千切られた。

 報告書は作成したが、腑に落ちないからと弓弦羽は提出していない。今朝受領に訪れた田原少尉は手ぶらで戻った。直に中佐から雷が落ちるだろうと弓弦羽は溜息を吐く。

「はあ、疲れた。コーヒーもらえる?」

「コップでもバケツでもお好きなだけどうぞ」

 コネクティング・ドアから声を掛けた神納が、弓弦羽の様に気付いて歩み寄る。泊まり込んで被害クラスの生徒へのカウンセリングを続けている彼女のスーツは皺が目立った。

「津佳沙ちゃんは?」

「真面目に受講中」

 以前のカウンセリングで顔見知りになった二人は結構気が合うらしく、互いに名前で呼び合っている。瀬織は時間が空くと詰め所に顔を出し、レポートについて弓弦羽の意見を求めたりもする。が、今も距離感は微妙だ。

「なんだ、つまんない。で、不良クライアントの自己分析は?」

 スーツ姿の彼女に弓弦羽は鼻を鳴らして応えた。

「眼精疲労による食欲不振、肩こり、不眠トドメに男性機能障害。映っていない部分を見れる映像ソフトを誰か作ってくれれば解決するよ」

 弓弦羽は一晩中恐怖に責めさいなまれた。ヘッドホンでロックを聴いても駄目だった。さきほど瀬織が顔を出してくれて少し心がほぐれたが。

 パソコン画面の監視カメラ映像に彼女が目を向けた。

「ああ、昨日の……」

 階段を映すカメラは各階のコネクション部分だけで、途中の踊り場はフレームに収まっていない。最後の被害者が殺害されたのは、その一階と二階の踊り場だ。

 神納がパソコン画面を覗き込む。何時もより甘い体臭が弓弦羽の鼻腔を擽り、下半身が熱くなった。昨夜は出張所のシャワーで済ませたのだろう。

「惨劇は映ってないよね。見ちゃった生徒は気の毒だけど私は……おや、嘘つき」

 弓弦羽の股間を指さした彼女が笑う。

「あとで厳しく躾けとく。ごめん」

 彼女に縋れば悪夢を見ずに済む。でも弓弦羽は頼らない決意だ。神納は気にするなと言ってくれたが、甘えていたのは事実。それに彼女は感性が合えば寝るわけではない。好き以上の感情が芽生えたからだろうと弓弦羽は推測している。甘え続けたら彼女を決定的に傷つけてしまう。一方弓弦羽は、整った顔立ちと魅惑的な曲線を持つ彼女を高く評価しているが、心を見透かされる恐怖を覚えてしまった。癒やされるようになってからも彼女に心を開ききれていない。自分に全てを晒す勇気があれば、カウンセラーとクライアントの関係以上に進むことは決してなかっただろう。カウンセラーとして彼女はプロだ。俺が拒否したから対象になったわけで、俺も彼女もややこしいと弓弦羽は内心頭を振った。

「付属品と一緒に氷水責めにしなさい。そうだ、湯浅中尉が凹んでいたけど。なにか覚えがある?」

 彼女の目に浮かんでいる問いに苦笑いで応え、弓弦羽はは自分が感じる疑問だけを口にする。

「俺が駆けつけたその時、他の生徒は運動場を全力で走っていたよ。三階教室から脱出した当該女生徒は、一階と二階の踊り場でやられた。でも二階では人混みの中間にいた。硬式テニス部所属の彼女がとろいわけはないだろ。それと踊り場の厚い窓ガラスが割れていた。だけど被害者を含む生徒にも異病者にも切り傷は見当たらない。ガラスは胸程の高さだ。無我夢中で逃げる生徒が頭部をぶつけただけかも知れないけどね」

 インスタントコーヒーの準備をしながら彼女は黙って聞いてくれた。話し終えた弓弦羽は温いルイボス茶を大きく呷る。勤務中はカフェインを取らない主義だ。それ用の魔法瓶はハンドルにハンカチを巻き付けて識別している。

「二階から踊り場に至るまでの十数段でなにかがおきたと。その生徒って誰」

「保志名怜。六月が誕生日だったのに……関係なかったな」

 コーヒーを啜る音だけが応えた。弓弦羽の手がマウスに戻りかかったその時、神納が声を掛けた。

「医師の諸義務に反しない範囲で。足に怪我をした生徒が何人かいる。そして保志名さんの死はあまり悼まれていない。とくに女生徒には」

 眉を寄せて凝視する弓弦羽の目を神納は真っ向から見返した。礼を呟いた弓弦羽は下駄箱が見切れた下足場奥通路の映像ファイルを開く。一時停止し、映像に記録された引き攣った顔の生徒と、一月前に撮影した集合写真とそれに添付された氏名メモを手に一つ一つ照合しはじめた。

 真剣な弓弦羽の顔を、寂しそうに見詰めていた神納だが仕事に戻る。


 午後三時過ぎ、弓弦羽は封鎖された教室の入り口から中を覗きこんだ。机や椅子が散乱する教室は異様な雰囲気を漂わせている。多くの生徒は本日学校を休み、登校した少数の生徒は別教室で授業を受けつつ順番でカウンセリングを受けたと女性担任が教えてくれた。保志名の席は教室の真ん中付近だそうだ。

 次に階段に移動した。一階と二階間の踊り場は、その半分以上がパイロンとそれを結ぶ黄色のテープで封鎖され、床はブルーシートで覆われている。割られた窓から吹き込む風で乾燥しはじめたのか、血だまりの異臭は気にならない。

 周囲を一通り見た弓弦羽は担任に顔を向けた。

「保志名さんはどういう生徒でしたか」

「活発で面倒見のいい人気者です」

 頑として犠牲者を過去形で語らない彼女に弓弦羽は同情した。合同会議で席を蹴った一人だと思うが、今となってはどうでもいい。

「何か聞いていませんか。何でもいいのですが」

 答えはなかった。弓弦羽は別に驚かない。防大卒業後、福岡で九ヶ月の仕上げ教育を受けてから部隊に赴任した思い出が甦る。自衛隊は階級社会だ。だが階級を振りかざす上官には誰も付いてこない。勤続二十年のベテラン下士官は当然、二年目の一等陸士もだ。まともな相手の命令に応えたいのが人情、そう気付いた弓弦羽は幸運だった。でも部下に全てを打ち明けろと命令はできないし、嗅ぎ廻るのは御法度だ。それは教師も同じだろう。

 さて、と弓弦羽は溜息を吐いた。神納が貰った資料は医師へ渡されたもの。弓弦羽には閲覧は許されない。学校内での人間関係を知る必要がありそうだ。ではどうやるか。そもそもここでなにが起きてああなったのやら。

 低い角度で差し込む日差しに目を細め、窓の外を見た。県道の左右は銀杏の大木が列を成している。銀杏は三島市の象徴の一つだ。ぎんなんの季節になるとビニール袋を持った近隣住民が押し寄せる。色づいた葉を舞い散らす時期が一番好きだった。意を決して告白し、即座に断られたあのときも落葉が……外をぼんやり眺めまわしていた弓弦羽の目が止まった。日差しを手で遮り、向かいの三島税務署の外壁に目を凝らす。

 中腰で真剣に外を見詰める彼に教師は首を傾げていたが。

「有り難うございました。私はこれで」

 頭を下げた次の瞬間、階段を駆け下りる弓弦羽を彼女は唖然と見送った。


 事件から四日後の午後。静岡地方検察庁の加苅かがり次席検事が大藪に頭を下げた。五十代の痩せた男だ。

「早急に対応法令を策定するよう上申します。今回はお手数をおかけしました」

「いえ、ご足労いただいたばかりか、捜査の監督までもしていただいて」

 頭を下げ合う二人に、弓弦羽は内心首を傾げた。どっちが上位者なのか全く解らない。年季の入ったタヌキと狐の掛け合いを見ている気もするが。

「では私はこれで」

 加苅が頭を下げた。素早く気を付けの姿勢を取った弓弦羽と大藪が敬礼する。

 大藪は十二号館の外まで加苅を送っていった。中佐に一服してもらおうと弓弦羽は急須の葉を捨てて新しく淹れ直す。異病者が絡み、気付いたのがCGOだったので誰が担当するかで警察と揉めかかった。双方やりたがらなかったわけだ。結果、今回は検察庁が指揮を執る形で仲介された。

 戻った大藪は無言でソファに腰を落とした。弓弦羽がテーブルに置いた湯飲みに直ぐ手を伸ばす。

 吹き冷ましながら二口飲んだ大藪が小さく頭を振った。

「いろいろと酷かったな」

 茶碗の中で揺れる茶を見詰めた大藪は何度も目を瞬く。

「最後まで見届けるのも苦痛ですね。警察が嫌がるのも納得です」

 弓弦羽もうつむき気味でルイボス茶を啜る。

 税務署の駐車場監視カメラが一部始終を記録していた。保志名を殺したのは異病を発した同級生だが、仕掛けたのは二人の女生徒だった。二人は彼女を一階と二階の階段踊り場で拘束し、追ってきた異病者に突き飛ばした。そして自分たちはどさくさに紛れて割った窓から脱出した。

 だが相手は十八歳未満の未成年者だ。現行犯以外は留意して動く必要がある。検察や警察が動いたら人権団体が騒ぎ出すかもと心配した検察庁は、さりげなく調べてくれないかとCGOに相談した。それが可能なのは弓弦羽だった。

 保志名の彼氏への聴取が解決の糸口となった。彼女の部活仲間から彼氏は直ぐに判明した。漸く登校したその男に弓弦羽が接触。それで複雑な人間関係が判明した。主犯と目される女生徒と保志名の彼氏は以前付き合っていた。恋多きその男をつなぎ止めるため、女生徒は様々な努力をした。互いの友人をまじえての乱交などだ。だが男はこの春、保志名を選んだ。理由はセックスの相性がいいから。元カノとなった女は数日荒れたが、その後は平静を取り戻した。一方男と保志名は評判を落としたが、二人で過ごせばそれも気にならなかった。そう言って男は肩を震わせた。

 本日生徒指導室に呼び出された二人は泣きじゃくって無罪を主張したが、監視カメラの映像を突きつけると態度を豹変させた。どうしてこんなことを、と加苅に問われた二人は悪びれずに笑って答えた。男に捨てられた女の怒りは保志名に向けられた。乱交に参加した同級の親友も同情した。「あんな奴、異病者に殺されちまえ」という実現困難な呪いが種となった。万に一つ程度の可能性が現実になったその時、二人は機会を逃さなかった。

「私たちは十八才未満だし。国と法律が私たちを護ってくれる。ならやらなきゃ損だよね!」

 半狂乱となった保護者と学校関係者の姿を弓弦羽は暗澹とした気分でみた。大藪も同様だった様子だ。

「……すまないが、アレを頼むな」

 報告書を仕上げますと告げて弓弦羽は腰を上げた。


 重い気分を抱えたまま部屋のドアに鍵を差し込んだ弓弦羽は、瀬織の部屋から漏れる笑い声に気付いた。どこかで聞いた声だなと思ったが、そのまま浴室に直行し、予約設定しておいたバスタブに飛び込んだ。熱めの湯に包まれてるのに気持はほぐれず、身体が震える。揺れる水面を弓弦羽は睨み続ける。

 バスタオルを腰に巻き付けて二階に上がりかけたが、連打されるチャイムに邪魔された。

「やかましい! テレビはないし新聞――」

 ドアを乱暴に開けた弓弦羽は言葉を喪った。皿を抱えた瀬織と神納の目が揃って上下に動く。

「横に住むのは凶暴な変態だぞ。襲われる前に引っ越しなよ、津佳沙」

 缶ビールを抱えた神納が笑う。瀬織は微妙な笑顔だ。

「着替えを用意せずに風呂に入っちゃって」

 面目ないと頭を下げた弓弦羽の頭頂部が叩かれた。今はシャツとデニムパンツだ。そしてホルスターに収めた拳銃を律儀に携帯している。

「アホたん! そのうち手ぶらでバーサーカーに突っ込んじゃうぞ」

 豪快に笑う神納に弓弦羽は頬を掻いた。駐車場に停まっていた黒いトヨタ八六になぜ気付かなかったのか、自分でも首を傾げる。常在戦場。緊張を維持しつつも平常心を喪っちゃいけないってことだとこじつけた。

 瀬織が笑いながら頭を振る。

「大尉なら微笑みながらキャラメル差し出しますよ。落ち着くよって」

「ああ、やりそうだ。湯浅中尉はまだしも私の誘いを断るアホスケだし。ったくむかつく!」

「美和ネエの好みなの?!」

 眉を顰めた瀬織に神納が笑った。

「なにそれ。私の趣味が悪いって? ほっといてよ。どーせ相手にされませんでしたよ。かまとと中尉を振ったのは褒めてやるけどね」

 目を瞬く弓弦羽に瀬織が食いついた。

「なんでですか、大尉!」

「ええと……自覚がなかったのが正直なところだけど。強いて言えば自分がその気にならないと。押されてその気になっても続くわけはない。来週までが未来の学生気分で付き合うわけにもいかないよ。だろ?」

「屁理屈こねやがって。私が四歳年上だからってはっきり言いなよ」

 神納がビールを呷る。その横で瀬織は目を瞬いていた。

「オヤジは年上女房の良さを懇懇と説いていたよ? お袋が二歳上だった。だからそういう考えは持っていないんだけどね」

「決定的駄目出しか! 甘えてくれる年下の男、誰か紹介してよ、津佳沙あ」

「美和ネエにふさわしいのなんて私の周りにはいないし。それに安売りは駄目だよ」

「えー! じゃあ津佳沙が慰めて!」

「よしよし」

 でこぼこ姉妹だなという言葉を飲み込み、弓弦羽も二人の笑いに和した。

 弓弦羽は嬉しかった。瀬織は覚えていてくれた。

 神納も高等部の指導室に同席した。瀬織も弓弦羽の疑惑を知っていた。でも何も言わないでくれる。

「いつもお持ちのようですけど、キャラメルがお好きなんですか」

「演習の増加食で配られてね。結構気に入ってるんだ」

 面白い物を配るんですね、と彼女が笑う。

「クリーム挟んだビスケットやチョコレートバーとかが人気だよ。増加食と呼べばらしいけどおやつだね」

 へえ、と驚きの声を上げた瀬織と神納に弓弦羽は笑った。ごつい連中が増加食を楽しみに演習に励んでいるとは想像できないだろう。増加食は戦闘服のポケットに収まるサイズなのが絶対必須で、小分けで防水袋に入っているとベストだ。チョコレート系は溶けにくい冬期に配られる。ラーメンをと要望された新人陸士が袋ラーメンを買ってきたときがあったな、と思い出した弓弦羽の肩が震える。なんでも略す古株が新人にラーメンスナックと言わなかったのが悪い。演習地で配られて皆困った。お湯を沸かす時間がなかったし、食器もない。でも食わないと新人の立場が更に悪くなると弓弦羽が率先して粉末スープを振りかけてバリバリ囓り、水筒の水で胃袋に流し込んだ。美味いよと笑って見せたのも指揮官だからだ。

「この唐変木にも繊細な部分がちょっとある。リラックスさせると高評価かもね」

 胡散臭げな目で弓弦羽は神納を見た。

「肩を揉むとか?」

 額を小突かれた瀬織が目を瞬く。

「ゴマスリ少尉か、津佳沙は。表では一線引かないと駄目だけど、それ以外では普通に接して、そして下の名前で呼べば?」

「え! ええと、滉さんって?」

 急に頬を染めた瀬織に見詰められた弓弦羽は唇を曲げて首を傾げた。首を傾げ返した彼女に、響きが悪いかなと苦笑いしつつ説明する。

「あ! でも、呼び捨てはさすがに」

 気のせいか、と弓弦羽は思う。急に彼女が壁を取り払ったようなと。

「こーちゃんでどうよ。可愛いあんたにぴったり」

 神納がにやにや笑いながら提案した。

「名古屋コーチンかよ。あ、犬のコーギーも連想するぞ。やめてくれ」

 憮然とした弓弦羽に神納はテーブルを叩いて笑う。

「あんたの潜在意識おもしろい! 犬はまだしもなぜにニワトリ!」

 鼻を鳴らした弓弦羽は瀬織に顔を向けた。

「呼び捨てでいいよ。この人に任すと碌な呼び方されないから」

 私も呼び捨てがいいと、真っ赤になった彼女がはっきり言う。

 こっそりウィンクする神納に弓弦羽は片方の眉をあげた。


 翌朝五時、目覚ましを叩き止めた弓弦羽は、昨夜一度もうなされなかったと気付いた。盛大なあくびをしつつベッドから出、ランニングの支度にかかる。

 ドアを開け放った弓弦羽は思い切り深呼吸をしてから準備運動する。

 身体がほぐれた。夏の訪れを告げるオオルリのさえずりに見送られて、十分ごとにペースを上げての一時間が始まった。

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