Badass!

橘 哲生

序章 暗黒の陽だまり


 優しい風が桜の花弁を撫でる。銀杏並木を歩いてきた新入生は、咲き誇るその桜の古木を見上げては正門を潜る。門柱に立てかけられた墨痕鮮やかな「日邦大学国際関係学部・短期大学部合同開講式」の看板は脇役だ。

 二〇一七年四月一日。静岡県東部の三島市は快晴だ。門の右手奥にある守衛所に立つ警備員は陽だまりに身を置いて、満開の桜の下を歩く若人に優しい視線を向ける。微笑みの陰で警備員は嗤った。式は一三時から。流石にまだ真面目だな。


 同時刻。日邦大三島キャンパスから北方二キロ程離れたフライドチキン店の駐車場に一台のバイクが乗り入れた。エンジンを止めた男はサイドスタンドを蹴り出し、シールドを付けたジェット型ヘルメットを右のミラーにひっかける。

 鮮烈な碧に塗装されたホンダCB一三〇〇から降り立った彼は、両手のグラブを外してから革ジャケットのジッパーを下げた。遠目には牛革のフライトジャケットとチノパンのラフな格好に見えたが、クリーム色のボタンダウンシャツに碧いネクタイを締めている。長身と広い肩幅が目を引く男は、日焼けした顔を縁取る髪を短めに整えている。

 店から出てきた三人の女性が男とバイクに目を留めた。愉しげに交わされていた三人の会話が途切れる。男の右腰に視線を向けた彼女たちは、店のドアに足を向けた男を避ける。そして彼の背中を見詰めてなにやら囁き交わす。

 レジのタッチパネルを操作する店員は、男の顔とその襟元で竜胆色に輝く階級章に何度も視線を走らせる。以上で、と言われて我に返った彼女は顔を赤らめて追加メニューを勧めるが、彼は微笑みながら首を横に振った。

 フライドチキン二ピースとサラダそしてドリンクが載ったトレイを手に、男は一番隅のテーブルに向かう。チキンを囓る客の何人かは男に気付くと嫌悪感を露わにした。男は無表情を保って滑らかにその横を過ぎる。


 一三時五分。先ほどまで新入生でごった返していた構内を歩く女達から、挨拶の言葉を交わしながら一人の女が離れた。軽やかな足取りで歩く彼女は、男並みの身長と均整のとれた肢体をラフなシャツとデニムパンツに包んでいる。内側に秘めた活力を誇示するかのように跳ねるセミショートカットの髪と眼、そして唇が印象的だ。

 彼女を見る男の目に浮かぶ性的な値踏み、そして女が放つ羨望と僻みの視線を無視した彼女は正門の右脇で立ち止まった。左手首の時計を確認しながら肩に掛けたトートバッグの位置を直し、緊張した面持ちで道路の左右を見る。

「やあ、久しぶり。君も日邦大だったんだ」

 突然声を掛けられた彼女は身体を揺らし、直ぐ横に立つ男を鋭く睨んだ。デニムのパンツにローファー、そして派手なポロシャツの上にこれまた目立つジャケットを着た男を胡散臭げに見下ろす。

「三班にいた三好徹也だよ。君は十一班の……ごめん、ど忘れしちゃった」

 微笑みながら三好が差しだした右手を彼女は無視した。

「身分証」

 素っ気なく告げた彼女に男は笑い、大仰な仕草で右の尻ポケットに手をやった。その身振りに注意をむけた付近の男女は男の右腰にへばり付いた黒い塊を認めて狼狽する。が、彼女は無感心だ。

 取り出した赤皮ケースを三好が胸の高さで開く。下に開いたフラップには金の日輪を二輪の竜胆が取り巻く青紫色の徽章が、男が保持する上側には写真付きの身分証明書が入っていた。

 素早く男の顔と証明書のそれを見比べた彼女が小さく頷く。

「で、何の用」

「名前で呼んでよ。君は?」

 舌打ちで応えた彼女だが、動じない三好に溜息を吐いた。男と同じ皮ケースを開くが腰の高さでとどめた。

「そうそう、瀬織津佳沙せおりつかささんだ。津佳沙さん、早速だけどさ」

 三好を無視した彼女は通りを眺める。平然と三好は言葉を続けた。

「一緒に仕事するんだからさ、今夜食事して理解を深めようよ」

 蔑みの眼で見下ろした瀬織は「あんたと組めと命令されていない。勝手に決めるな」と冷たく言い放った。

「んじゃさ、俺と付き合ってよ」

 無言で瀬織は道路に眼を戻した。

「君を護りたいんだ。俺、射撃は特級だし」と、彼女の左肘を三好が掴む。

 即座に彼女は鋭く振り払い、にやける三好を嫌悪むき出しで睨む。

「今度触ったら殴るよ! 班対抗射撃競技であんたに競り勝った覚えがないけど」

 一瞬言葉に詰まった三好だが、直ぐに笑顔に戻った。

「当日、急に体調崩しちゃってね。二番に譲ったんだ」

「馬鹿がうつる。あっち行け」

「ビーエムのX四注文したんだ。中古だけど程度よくてさ、ドライブしようよ」

 相手にせず彼女は移動する。が、三好は離れない。瀬織は思わず周囲を見渡したが、注意を向けているのは守衛だけだ。瀬織の眼に苛立ちと躊躇いが浮かぶ。

「私は東部支部の大尉と待ち合わせしているんだよ。ナンパは余所でやれ」

「俺も呼ばれたんだ。南スーダンPKOの弓弦羽ゆづるは二尉その人に」

 眉を寄せた瀬織に三好が首を傾げた。

「前に大問題になった南スーダンPKOの」

 目を大きく見開いた瀬織に三好は言葉を切って頷いた。

「あの弓弦羽陸自二尉と大尉は同一人物。嫌だねえ」

「なんであの人が」

「戦争馬鹿の人殺しだからCGOが適職なのさ」

 瀬織の眼に怒りが浮かび、顔面が染まりはじめた。が、三好は頓着しない。

「勲章を餌に転職したんだろ。あの人のウリはそれだけさ」

 口を開き掛けた瀬織だが、言葉は発しなかった。だが彼女の目は鋭さを増していく。

「俺はちゃんと内定貰ったから、卒業するまでの我慢だけど。君も人生楽しまなくちゃ。今夜、俺のマンションで――」

 構内から湧いた悲鳴が三好の口説きを遮った。生じた騒ぎは急激に激しさを増すが瀬織の位置からは源は視認できない。守衛も持ち場を離れて歩き始めた。

 彼女は三好を指さした。その顔は怒りに赤く染まっている。

「私はね、ちゃらい男は大嫌い!」

「見た目で判断するのは間違いの元。俺は見た目と違って将来設計も完璧な優良物件だってば」

「黙れ。あっちいけ!」

 人懐っこい笑顔のまま三好は頭を振った。

「上官の命令を無視してCGOを首になったら困る。大尉が済んだらさ、談話室でお茶しようよ」

 握った拳を素早く引いた瀬織だが、精神を掻き毟るような警報音がその手を止めた。慌ててトートバッグに手を突っ込み警報の源を手探りする。三好もジャケットの懐に手を突っ込んだ。

 スマートフォンを取り出した瀬織は、画面に赤文字で表示された「異病者発生」の下にある「詳細情報表示」ボタンを躊躇い気味に突いた。

 画面に住宅地図が表示され、自位置を意味する黄色マークが赤いマークにほぼ重なっている。そして「日邦大三島国際関係学部」とある文字列が点滅するとともに、画面最下部で「対応」そして「待機」の二つのボタンが表示された。

 研修の座学で見た資料が、現場写真が、監視カメラが捉えた惨劇が瀬織の脳裏を駆ける。先ほどまで身体を満ちていた怒りは霧散し、怯えが取って代わった。

 突発性激情認知症エピソディック・バイオレントパッション・ディメンシア。通称EVD若しくは異病。

 一切の前触れなく突如として正常人が発狂状態となり、あり得ないほどの怪力で周囲の人を手当たり次第に惨殺する病だ。そのため巷では狂戦士バーサーカーとも俗称される。発病者には説得も麻酔も効かない。道具を使わずに己の手や歯を用い、肉親であっても躊躇せず殺害することから、発病者は論理的思考と識別能力が欠落しているのだろうと推測されている。一度発病したら回復は望めない。脳内物質の異常な分泌に身体が耐えきれずに破滅する。それを待つか、若しくは物理的に破壊するしか止められない。だが打撃を加える位置によっては逆効果となる。つまり攻撃性が増加する。脳若しくは脊髄を破壊して、制御された神経命令を無効にするのが望ましい対処とされる。

 一年と八ヶ月前、異病は突如全世界を席巻した。警察で対応しきれず、各国は自国軍を投入して対応した。それができなかったごく少数の国々で組織されたのがCGOこと市民警護機構シビリアン・ガード・オーガニゼーション。日本のCGOで警護士もしくはガーディアンと呼称される支援要員の一人が瀬織だ。

 父親の最後の姿を思い出した瀬織は身震いした。

「チャンスだ!」

 走り去る三好の背中を唖然と見送った瀬織は我に返った。スマホを見直した彼女は、新しい文面が追加表示されているのに気付く。「対応開始。近辺の幹部一名急行中」と。

 父の遺体と対面したときの怒りが瀬織の胸中に甦った。握りつぶされて陥没したその顔面は包帯で歪に整形されていた。やるせないという言葉の意味を初めて知ったあの時。

 青ざめた唇を引き締めて彼女は震える指でボタンを押した。躊躇い気味に耳に押し当てる。

「瀬織津佳沙、対応します」

 己の声に瀬織は訝しんだ。軋んだしわがれ声は私の声かと。

「本部管制。瀬織警護士、了解。弓弦羽大尉が直ぐ到着します。無理はしないで」

 滑舌よくも暖かい女性の声が瀬織の動揺を少し和らげた。

 シャツの右裾を左手で捲りあげた彼女は、腰につけた合成繊維性ホルスターから拳銃を抜いた。米国のスターム・ルガー社製LC九自動拳銃だ。右手人差し指を一杯に伸ばして用心金に添えたそれのスライドを左手で掴んだ彼女は力一杯引いた。ついで思い切りよく離す。前進したスライドが乾いた音とともに実包を薬室に送り込んだ。側面が赤く塗られた装填警告棒がスライド上部に顔を覗かせる。銃把を握った右手に左手を添えた彼女は、目をきつく瞑って深呼吸する。

 目を開いた彼女は銃口を地面に指向したまま走り出した。必死に逃げる人々にぶつかってよろめくが立ち直り、足を速めた。


 サイレンの悲鳴と共に銀杏並木を疾走してきた碧色のCB一三〇〇が急減速する。絶妙なバランス変化とアクセルの加減で、操縦者はCBの車体を逆時計方向にスライドさせた。

 サイレンと碧く点滅するヘッドライトに気付いて、左に寄せて停車した車の隙間にCBが頭を突っ込んだ。右のマフラーが車のリアバンパーに接触し車体が揺らぐ。が操縦者は気にせずアクセルを捻り、シートから腰を軽く浮かせてショックを身体全体で吸収しつつ正門に飛び込む。

 学生たちが口々に叫ぶ言葉はサイレンがかき消す。だが彼らが指し示す方角は同じだ。操縦者は躊躇いなく左側に大きく腰を落とし、右手を大きく捻り込む。

 過大なトルクでリアタイヤが流れるのを利用して、勢いを殺さずに左旋回を終えた。前方のコンクリート路面に転がる数名と共に、右前方の芝生の上で両手を突き出した女に駆け寄る男、そして隠れるには小さすぎる植え込みに蹲る数人の姿を操縦者は見た。乾いた鋭い銃声がサイレンを圧して連続する。それに連動して女の両手が短く跳ねる。駆け寄る男はその度に身体を捻るが倒れない。

 男が女の両手を掴んだとき、フルブレーキしたCBが植え込みを突き抜けて芝生に突っ込んだ。右グリップ根元のエンジン停止ボタンを押し込んだ男はバイクから飛び降り、受け身を取りつつ芝生を転がる。

 跳ね起きた男は、左手で皮ジャケットのジッパーを下ろしつつ二人に走り寄った。開いたジャケットの右裾を払い、腰の黒い合成樹脂ホルスターに収まった銀色の大型自動拳銃を滑らかに抜き取る。即座に安全装置を解除し、撃鉄を完全に起こす右手に左手が添えられた。

 全身から鮮血を噴き出しつつ吠える男は女を振り回す。その下腹部からはみ出した腸が芝生に垂れて陽光に鈍く光る。異病者の血走った目は怒りと殺意に燃えていた。

 男は異病者の背後を素早く確認する。樹木が点在し、遠くの運動場まで見える見通しのよい場所だ。そして誰もいない。白い点が刻まれた前後の照準器を両目で捉え、異病者の腰に狙いをつける。伸ばされていた右人差し指が引き金に掛かり引き絞りはじめる。火線が女に被らないよう、男は慎重にタイミングを計る。

 異病者の雄叫びを金属質の轟音が吹き消した。続けざまに跳ね上がる大型拳銃の排夾口から金色の輝きが三本跳び、銃声が長く尾を引く。

 異病者は崩れるようにへたり込んだ。だが女の手を離さない。血走った目が新たな攻撃者を探し求め、捉えた。凄まじい吠え声と共に鮮血を吐き出し、腕の力だけで女を投げ飛ばす。芝生に叩きつけられた女が身動きできないと気付いた男は、滑らかにバックステップして彼我の距離を稼ぐ。男を追って腕だけで這う異病者の後ろに腸が長く尾を引いた。

 ウィンチェスター社製シルバーチップ一七五グレイン弾頭の残滓が周囲の人を傷つけるのを男は怖れた。弾頭は大気中を比較的直線で飛行するが、命中後は肉体組織と骨が進行方向を変化させる。命中時に弾頭前部が開傘分離して飛散するが、その質量は軽いから肉体内に留まる。だが弾頭後部は貫通する可能性が高い。何処に向かうかは運だが、隠れている学生と動けない女を火線延長線付近に置くのは危険すぎる。

 途中で横に移動して異病者の後背に芝生面を多く取ったその時、驚くべき俊敏さで異病者が追いついた。血まみれの歯をむき出し、血泡の混じった涎を垂らしながら飛びかかる。

 銃声が轟いた。

 俯角で放たれた弾頭は異病者の鼻梁に大きな穴を穿がち、背後に赤い霧と塊を吹き散らす。着弾の衝撃で眼窩から眼球が飛び出した瞬間、下顎に新たな穴が生じた。上あごから上が爆発的に吹き飛ぶ。

 跳躍の勢いで突っ込んでくる異病者から男は銃を向けたまま跳び退り、更に二歩下がる。頭部の殆どを喪った異病者だが、今も激しく暴れている。

 銃口を異病者に向けたまま、男は左手で腰のポーチから新しい弾倉を取り出し、併せて右手の拳銃から残弾が少なくなった弾倉を滑り落とした。新しい弾倉を銃把に叩き込んで速やかに両手射撃姿勢に戻るまで、男は照準を異病者に据えていた。薬室に一発残しての戦闘時補弾コンバット・リロードだ。

 男は素早く周囲を見渡した。植え込みに潜り込んだ学生と目が合った。まだ動かないでと落ち着いた声を掛けられた学生は、震えながらがくがくと頷いた。二次被害はないらしい。全弾の残滓が貫通したはずだが、運良く地面にめり込んだ様子だ。頭髪をこびりつかせた頭蓋骨の破片と、灰色に赤みを帯びた脳の残骸が周囲に散乱している。

 異病者が静かになり始めた。湯気をあげて蠕動する腸から目を背けた男は、銃を芝生に下ろして身体を伸ばす。眼球から伸びた長い視神経が右腕に付着して振り子の様に揺れている。それに気付いた男は無言で払い捨てた。

 銃口を地面に向けた男は、後退した撃鉄を親指で確り押さえつつ引き金を絞る。前に勢いよく倒れようとする撃鉄は親指に邪魔されて静かに降りきった。ついで引き金を緩め、真っ直ぐ伸ばした人差し指を用心金に添えてから撃鉄を少し起こす。撃鉄が中立位置ハーフ・コックで固定された銃に安全装置を掛けてホルスターに押し込み、ヘルメットを脱いだ男は大きく数回深呼吸する。フライドチキン店にいた男だ。両肩を軽く回す男は周囲をもう一度見渡した。

 周囲に転がる犠牲者に男の目が曇った。遺体の瞼を閉ざして廻る。異病者の他、四人が死んでいる。死者には守衛らしい制服姿もあった。スライドが開いたグロックの九ミリ自動拳銃を握りしめた男の首は噛まれて千切れ掛かっている。立ち上がった男は彼に挙手の敬礼をした。

 負傷した学生を学生食堂入り口の階段に抱き運んだ男は、最後に女の元に向かった。引き攣った呼吸と共に泣きじゃくる女の前で男は屈み、彼女の肩を軽く叩く。息を詰まらせた女が面を上げた。両腕を彼女が庇っているのに気付いて男は狼狽する。

「ごめん、痛かったね……瀬織津佳沙君だね」

 不思議なものを見るように男を凝視した彼女だが、微かに頷いた。

「CGOの弓弦羽だ。遅くなって済まない……救急車を手配するからね」

 小さくそして弱々しく頭を振った彼女が号泣する。その痛々しい様に弓弦羽は唇を噛んだ。瀬織のシャツは破かれ、血に汚れている。ジャケットを脱いで羽織らせる弓弦羽を彼女は泣きながら見詰めた。次いで弓弦羽はハンカチを取り出し、大丈夫だと囁きながら彼女の顔面に付着した血を拭き取りはじめる。

 涙のお陰で何とか拭き取れた。汚れたそれはポケットに押し込み、清潔な一枚を彼女の手に握らせて弓弦羽は立ち上がる。バイクに歩むその背中は少し丸まっていた。

 芝生にめり込んだバイクを起こして芝生から押し出す。メーター手前のホルダーから通話状態のスマホを外し、ハンズフリーとした。

「管制、弓弦羽。状況終了。犠牲者五。警護士の三好徹也は殉職。瀬織津佳沙は負傷。負傷した学生が多数います。彼らが搬送される病院にカウンセラーを向かわせてください」

「支部了解。日邦大三島の養護教諭にも支援を依頼します。三島警察のPCが間もなく到着」

「了解。通信を維持し待機する」

 スマホを胸ポケットに入れた弓弦羽は両手で顔を擦る。その背後にすすり泣く声が近づいた。

 振り返ると、震える瀬織が真剣な眼で弓弦羽を見詰めていた。

「駄目だった、何もできなかった」

 掠れた呟きに弓弦羽は大きく頭を振った。

「君たちは頑張った。ほら、彼らを見て」

 階段に腰掛けて項垂れた学生たちを指さした。その多くが間近に迫った死から逃れて虚脱状態だ。話す者は誰もいない。

「君たちが護ったんだ。よくやってくれた」

 蹲って頭を垂れた彼女を悲しげに見下ろした弓弦羽が膝をつく。羽織らせたジャケットのポケットからミルクキャラメルの箱を取り出し、一粒紙を剥いだ。茫然自失状態の瀬織は差し出されたそれを無視したが、弓弦羽が繰り返して促すと唇を開く。震える舌にキャラメルを遠慮がちに乗せた弓弦羽は立ち上がり、改めて周囲を見渡した。

 異様な角度で四肢をねじ曲げた被害者達。眼は瞑らせても、その顔には断末魔の苦痛と恐怖が貼り付いたままだ。

「俺のせいだ。飯なんか……」

 瀬織は呟きを聞き取ったかもしれない。だが反応しなかった。溜息を吐いた弓弦羽は、芝生に転がる拳銃の回収に向かう。

 スライドが開いたスターム・ルガーLC九拳銃を拾い上げ、ビリ動きもしなくなった異病者を見る。腹腔から内蔵がはみ出す程の損傷は一発や二発の着弾では与えられない。肺も破壊されたから口と鼻腔からも鮮血が溢れていたわけだと弓弦羽は思い返した。結構な弾数を喰らっても異病者は暴れ続けたわけだ。

 二人の警護士が使ったLC九とグロック二七拳銃は、自衛隊が九ミリ普通弾と呼ぶ九ミリパラベラム弾を使う。日本を含む各国の軍事組織と警察組織の多くが採用する弾だ。だが殺傷能力は左程強いわけではない。

 軍は敵兵を射殺する必要はないと考える。戦闘継続が不能なダメージを与え、その敵兵を救護するのに人手と資材が割かれた方が総合的戦力を減らせるからだ。警察も同様だ。犯罪者を殺さない程度に無力化し、被害を拡大させなければ済む。

 CGOは破壊力の大きいホロー・ポイント弾を使う。人体に命中した際、先端が花弁状に広がって人体組織を大きく破壊してダメージを与えつつ貫通しにくい形状となる弾頭だ。旭精機工業が警察用に製造するそれ弾をCGOは提供され、その威力は十分というが。

「九ミリじゃ厳しいな……」と弓弦羽が呟いた。

 怒り、恐怖そして苦痛はアドレナリンの大量分泌をもたらす。興奮物質を大量に分泌した動物は、それが苦痛を紛らわしてしまうからダメージを自覚しない。より俊敏に、爆発的な筋力を発揮する。ハンターから逃げる鹿は心臓を撃ち抜かれてもその場では倒れず、全力疾走を続けて数キロ先で倒れるのはそれだ。

 異病者も同じ。脳か脊髄を破壊しろと教わるが、動く相手のそこを狙うのは至難の業だ。特に頭部は激しく動く。未来位置に射弾を送り込む技術は簡単に会得できるものではない。撃ちやすい身体の中央部、つまり腹部から胸部を狙撃して動きを封じ、事後脳を破壊するのが妥当な手順となる。

 だがこの現場では不十分だった。弓弦羽が腰に三発撃ち込んだのは今までの経験で学んだからだ。ただし脳を破壊しても油断はできない。興奮した神経系にでたらめな信号が残るのか、先ほどのように暫く暴れ続ける。移動しないだけマシというべきか。合理的科学的な説明は成されていないが、何人もの犠牲が教訓を残した。

 弓弦羽が使うコルト社製デルタ・エリートは一〇ミリオート弾を使う。一〇ミリの拳銃弾はいろいろあるが、これは三五七マグナム拳銃弾に比する威力の自動拳銃弾だ。コンクリート製重ブロックを一撃で大破させる。三発から四発必要とする九ミリとは格が違う。米国の警官や軍人がこの装弾を使う銃を私費購入して異病者対策に使い始めた理由はここにある。リボルバー拳銃でマグナム弾を撃つより、再装填が迅速にできる自動拳銃を使った方が生き残れるからだ。

 だが銃にも大きな負担が掛ける。様々なメーカーがこの弾を使う銃を出したが、銃器破損が相次いだ。結果同じ十ミリでも低威力な四〇SW弾や四〇SIG弾に切り替えた。それらの共通点は軽合金もしくは特殊合成樹脂のフレームとスライドを使う銃だ。コルト社は四五ACP弾を使う総鋼鉄製の一九一一自動拳銃の設計を流用した。それでもフレームにヒビが入って一度販売を中断し、二年をかけて強度確保の再設計と素材の再選定を行った。弓弦羽の使う第二世代は総ステンレス製だ。

 デルタエリートを支給されたのは弓弦羽ただ一人だ。それには二つ理由がある。十分な訓練と実績を積んだ希少な人材であると同時に、その体格を買われたのが一つ。原型の四十五口径自動拳銃は自衛隊でも長年使っていたが、平均的日本人には大きすぎ、反動も重く強すぎると不評だったので九ミリ自動拳銃を新しく採用した。デルタは更にその反動が大きい銃だ。使用者は限定される。

 日本に銃器の余裕がなかったのが第二の理由。政府は警察や自衛隊が使う九ミリ拳銃の大増産を予定したが、軍用、警察用という言葉に異常反応した野党と市民団体が反対した。欧米のメーカーから提供された様々な銃がトライアルされた結果、九ミリパラベラム弾を使うグロック二七とスタームルガーLC九が採用され、長野のミネベア社がライセンス生産で製造納入している。だが要求数を充足してはいない。射撃技術の優秀な警護士から順に支給しているのが実情だ。自国製造できない国も案外多いので、オリジナル品を買い占めるわけにもいかない。

 落選したこの銃を押しつけられた弓弦羽は、陰で文句を言いまくった。一世紀に渡って戦場で使用されて信頼性を証明した銃がベースだが、最初の一発は指で撃鉄を起こさないと撃てない時代遅れな銃だ。だが出動を繰り返した今は、一〇ミリオート弾の破壊力、そして一度も作動不良を起こさないデルタに絶大な信頼を置いている。一キロを超す重量にも慣れてしまった。

「どっちにせよ急ぎすぎだ」

 唇を歪めた弓弦羽がぼやく。死亡した三好警護士は第一期生だ。三ヶ月の研修を経て本日から勤務に就いた。そして死んだ。

「一撃当たりの破壊力を増せば……でも今の研修期間では怖がるだけか」

 呟きながら特殊ポリマー製フレームのグリップ左脇のボタンを押し、空弾倉を抜き取った。小指を掛けやすくして安定度を高める延長底蓋がついた容量七発のそれを手にしたまま、引き金の左真上についたスライドストップを親指で押し下げる。鉄合金のスライドが滑らかに前進して閉鎖した。デルタと違って撃鉄は見えない。外部に突出した撃鉄を持たないダブルアクションオンリーの拳銃は弓弦羽の好みだ。薬室に実包を装填し、撃鉄を中途まで起こした状態で安全装置を掛けるデルタは正直怖い。装填した銃を撃鉄を起こして安全装置を掛けた状態フルコック&ロックで携帯するのは小心者の弓弦羽には耐えられない。かといって異病者を前にスライド操作するのはもっと怖いし、そんな余裕があった例しがない。

 遠巻きに見ていた学生の人垣が崩れ、パトカーの車列が近づいた。サイレンは止んだが回転灯の煌めきが弓弦羽の神経を逆なでする。LC九を彼女に戻すか迷ったが止めた。空の弾倉をグリップに叩き込み、チノパンのポケットに押し込む。

「遅くなりました。三島警察署の皆川です」

 駆け寄った壮年の警官が敬礼する。警部補だ。

 警察官とCGOの階級呼称は違うが、大尉に相応するのは警視若しくは警視正で署長や副署長級だ。巡査が士、巡査長が士長、警部補が少尉、警部が中尉、警視若しくは警視正が大尉、警視長が少佐若しくは中佐となる。警察でも自衛隊でもないCGOの足枷が旧軍隊の階級を流用する結果となった。陸上自衛隊転出組の弓弦羽は一尉の階級をそのまま受け継いだ。

 警部補の年齢を考えて、たたき上げの下士官に接する対応でと弓弦羽は決めた。

「CGO東部支部、弓弦羽です。ご苦労様です。警部補、救急車は?」

 きっちり答礼した弓弦羽が先に手を下ろしてから彼は手を下げた。

「追加手配しまして現在八台です。記録を始めてよろしいですか、大尉どの」

「御願いします」

 警官たちがパトカーのトランクから機材を取り出しはじめる。現時点で死亡確定は異病者だけだ。頭の三分の二を喪った人間が生きていた試しはない。被害者の首が半分千切れかかっていても、病院で医師が死亡診断するまでは保留だ。なので救急車が来る前に、警察官は可能な限り現場を記録する。

 警察とCGOは協力して異病者から市民を護る。

 日本でも当初は他国に倣って自衛隊と警察での対処が検討されたが、市民団体のノイジー・マイノリティとそれに便乗した野党が横やりを入れた。自衛隊が発病した国民に銃を向けるのはけしからぬ、警察権力を増長させて警察国家の礎にするつもりだろう、等と珍論を展開して議会を混乱させたわけだ。時間を掛けて論議すべきだった。でも続出する被害がそれを許さなかった。結果、自衛隊や警察から転職した経験者による市民警護機構の設置が決定されたのが一年ほど前だ。

 CGOの規模にも彼らは制限を掛けた。警察官が元々いるのだから、人口三十万人に付き二人の従事者をあてれば十分だと主張した。弓弦羽が自衛隊から移籍したのはこの時だ。

 だがすぐにその人数では間に合わないと露呈した。代案もださずに反対のみする勢力を世論が封じ、市民が参加すればCGOの暴走は防げると決定された。常勤者は幹部と一般職に限定され、緊急時に限り対応する警護士ガーディアンは市民に委託された。

 CGO構成員の殆どを占める警護士は陪審員制度を流用して選抜される。選抜者が着任拒否権を持つ点と、警察のデーターベースを活用して問題のある人物は最初から除外される点は大きく違うが。銃刀法に基づく猟銃所持希望者に実施される個人審査と医師の精神及び肉体診断を流用して審査される。犯罪傾向があるもの、そして肉体的精神的に不適とされたものは選ばれない。さらに支給される銃を使っての犯罪行為は未遂であっても極刑に処される。ガーディアンと称される隊員への信頼、そして周囲の市民に対する牽制だ。万が一警護士が発症しても道具を使わないので銃の携帯は問題なしとされた。

 二十歳以上の定職をもつ社会人が警護士になるので交代勤務は事実上不可能だ。それ故警察と協力して任務に当たる。日中はCGO主体、そして夜間は警察主体で行動する。

 弓弦羽は静岡県東部支部に勤務してこの六月で一年になる最古参だ。三島市と駿東郡長泉町を担当する。着任してから今日まで休日は一度もない。東部エリアは六人が担当するが、弓弦羽の同期は二人を除いて殉職した。

 番号札を地面に置き、基点を決めて距離と位置そして写真を記録し始めた警官が、三好に気付いて敬礼する。その光景から眼を引きはがした弓弦羽は瀬織を見た。震える彼女に掛ける言葉を探したが、何も思いつかない。ポケットに収めたLC九の重みが急に増したように彼は感じた。

 救急車のサイレンに気付いた弓弦羽は溜息と共に顔を上げ、満開の桜を見詰める。暖かいはずの日差しも、柔らかな花弁を揺らす微風も彼には感じられない。

「桜の時期は……もう戻れないのか」

 瀬織が弓弦羽を見上げていたが、彼はそれに気付かなかった。


 プリントアウトに二度目を通した弓弦羽は、万年筆で署名し、印鑑を押す。二三度息を吹きかけてから、書類を大型ステープラーで纏めた。

 フォルダーに収めたそれを手に誰も残っていない部屋を出、殺風景な通路を歩む。ここは沼津市高島本町にそびえる十八階建ての東部総合庁舎の二階だ。静岡県行政が東部を統べる建物の一フロアが市民警護機構に提供されている。

 通路からガラス越しに管制室を覗き込む。と、夜勤対応の管制官と目が合った。微笑んだ彼女に気さくに頷いて応える。CGOは基本夜間活動はしない。だが警察の手が足りないときは支援する。そのための要員だ。彼女が座るコンソールの向こうには壁一面のディスプレイがある。その地図で輝く複数の点がガーディアンの現在位置だ。隊員が携帯するスマホの位置情報を元に表示され、待機中と対応中で輝点の色が変わる。

 通報者の位置情報も表示される。管制官はポイントペンで発生地周辺の輝点を突き、周囲のガーディアンに情報を送ると共に警察をも含めて総合的に管制する。

 スマホにインストールされたプログラムは米国企業が開発し、各国に無償提供されたものだ。司令部と各個人の端末間で様々な情報を暗号として相互通信する。なのでCGO要員には無線機も位置プロッターも不要だ。ただし私用での通話等は禁じられているので、私用の携帯を皆が所持する。弓弦羽は混乱を避けるため、昔ながらの携帯を私用としている。

 管制室脇のドアをノックすると直ぐ返事が戻った。入室した弓弦羽は挙手の敬礼をする。弓弦羽は無帽だが、CGOでは挙手の敬礼が基本だ。

「日邦大三島の報告書だね」

 頷きで応じた支部長の大藪中佐が手を差しだした。白髪が目立つが、まだ六十前だ。関東管区警察局監察部から赴任した元警視長。腹は出ていないが肩幅は広い。大学ではラガーマンとして活躍したらしい。

 報告書に大藪が目を通すあいだ、弓弦羽は勝手に緑茶を淹れて飲みつつ、壁際の液晶ディスプレイをチェックする。管制室と同じ情報だ。現在は平穏。

「この部位は必要ない」

 老眼鏡を外す大藪が指で示す部位を弓弦羽が覗き込む。「二キロほどの至近距離にいながら、私は日邦大三島に直行せず、食事を取っていた故に被害を増大させた」とある。

「削除したり改変する気はありません」

 大藪の目を弓弦羽は直視した。

「CGOの幹部である以前に君は人間だぞ。人には食事と睡眠が必須だ。削除しろ!」

「私たちを人間とみなさない相手への布石です。このように記載しておけば、追求は私で終わります」

 嘆息した大藪がゆっくり首を横に振る。

「誰もが理解者ではない。それは事実だ。だがな」

「三好君も瀬織君も頑張ってくれました。なのに幹部の私は怪我もせず――」

「君とその部下の責任は私が負う!」

 言葉を荒げた大藪に弓弦羽は微笑んだ。

「有り難うございます。でも中佐が上層部に睨まれて飛ばされたらどうなります。誰もが理解者じゃありません」

 何か言おうとする大藪だが、弓弦羽の目を見て彼は口を閉じた。

「命令の遂行手段と実行は己で考えろ。失敗の責任は己が負え。成功したら命令者の功績だ。組織における秩序ある上下関係を維持しようとするのが普通の上位者なわけです」

 眉を寄せて聞いていた大藪が目を細めた。

「南スーダンか」

 弓弦羽のまつげが一瞬震えた。

「瀬織君はもう限界でしょう。引き留めないでやってください」

 話題を逸らした弓弦羽を見詰めていた大藪が静かに頷いた。

「神納君がカウンセリングした限りでは、混乱しているそうだ」

 弓弦羽が僅かに眼を細めた。だが。

「提案です。三期ガーディアンの選出時、批判勢力を何人か入れましょう」

「正気か。拒否しなかったとしても、サボタージュするに決まってる」

 あきれ顔の大藪に弓弦羽が微笑んだ。

「粛々とムショにぶち込みましょう。我々は仕事に専念できます」

 市民参加の警護士だが命令は基本拒否できない。合理的理由なく拒否した場合、三年以上十年未満の懲役だ。スマホのボタンは覚悟を促すためのものだが、通知から受領までの時間を計測するものでもある。警護士を監督する幹部たちからは非情ボタンと呼ばれる代物だ。

「檻の中で彼らも安全保障の意味を学ぶかもしれませんし」

 二人の笑いは乾いている。

「出張講義は修士の君がやれよ。専門だろ」

「自発的に学びたいというなら行きましょう」

 何故笑えるんだ、と弓弦羽は自分に問うた。答えは出ない。虚しくなっただけだ。

「日邦大から貰い受けた防犯カメラの映像だ。評価してくれ。研修教材に使いたいから三日で頼む」

 大藪が差しだしたDVDロムのケースを弓弦羽は受け取った。

「それとな、君に新人幹部を一人つける。君と違って土地勘がない。水曜日から頼む」

 弓弦羽の両眉が上がった。帰着時に沼津エリア担当の中尉と顔を合わせたが、彼は何も言っていなかった。担当エリアに固執せず、相互に協力するので関係は良好だ。

「私だけですか」

「大尉が一番先だ。幹部増員の許可が出たんでな」

 人事記録を差しだした大藪が嬉しそうに笑って見せた。

 弓弦羽は記録に素早く目を通す。舞鶴の海上自衛隊所属の女性二尉。

 写真を見直した彼に、大藪が小さく笑った。

「大尉の好みか」

「防大研究科に入ったとき、二尉は四年でした。湯浅君は優秀ですよ」

 目で笑った大藪に弓弦羽は毒づきそうになった。人事記録は数種類ある。弓弦羽が閲覧できるのは一番無害なものだ。それ以上は統率者のみに許される記録で、事細かに私事も記載しているという。

「特別警備隊志願だったが気が変わったそうだ。で、どう教育する」

「一週間、バディで流します。二週以降は単独で。射撃は夜みっちり撃ち込ませます」

 弓弦羽達は機動力重視で青バイを使う。静岡では雪が降らない限りは青バイだ。

 自衛隊出身といっても、自衛隊は拳銃射撃に重点を置いていない。基本は小銃だ。特警等の特殊部隊色が強い部署に配属されてから拳銃射撃を仕込まれる。ちなみに警察官は拳銃重視だが、それでも年間五十発しか練習しない。こちらもSAT等と俗称される特殊部隊員になってからだ。

「結構。今月末までに鍛え上げてくれ」

 中佐の追加情報に弓弦羽は満足した。これだけでも十分だ。なので腹に溜めていた警護士の研修期間の延長と共に、拳銃の威力問題と解決案を手短に説明する。中佐は賛成寄りの慎重案を提示した。


 エアコンの柔らかな暖風に弓弦羽は汗ばんだ裸身を委ねた。

 余韻に浸る女が甘い溜息を漏らして肢体を絡めてくる。その背中を愛撫する弓弦羽だが、見事な曲線を照明に晒す彼女ではなく天井を見詰めている。女はそれに気付いている様子だが、厚い胸板に頬をあてて甘える。

「寝ていいよ。うなされたら直ぐに起こすから」

 うん、と頷いた弓弦羽が彼女のつむじを見詰めた。

「転属らしいよ」

 頭をもたげた神納の唇が細くなった。

「何時?」

「今月いっぱいかな。美和には感謝してる」

 無言で数回頷いた彼女は長く優しいキスをする。弓弦羽も応えた。

 慈しむように交わされるキスが徐々に熱を帯びていく。二人の手がそれに呼応して彷徨い始めた。

 戻ってきた彼女が恥ずかしげに微笑む。身体を接したまま弓弦羽は彼女を見詰めた。

「一人で大丈夫?」

「わからない。でも何時までも甘えていたら駄目になる」

こうだからだよ。心を開いてくれない悪質クライアントだからじゃない」

「ごめん」

 激しくうなされた弓弦羽を心配して、隣に暮らす神納がドアを叩いたのが始まりだった。以前複数回のカウンセリングを受けても明かさなかった弱さを知られてしまった弓弦羽は彼女を招き入れ、酒を飲みながらの会話から添い寝へ、そして熱く柔らかな肉体に癒やしを求めた。

 彼女の気持に気付いていたのに、と弓弦羽は後悔した。

「いいんだよ。滉が気になっていたし……でも」

 弓弦羽の背中を撫でる彼女が小さく首を振った。その眼は優しく弓弦羽を見詰めている。

「俺は何処で間違えたのか今も解らないよ。ごめん」

「自分で答えを出さなきゃ」

 瞑った弓弦羽の瞼が痙攣する。

 彼女の両手が弓弦羽の首に掛けられた。その両手に力が込められ、二人の頬が接する。

「一言だけ。素直になりなさい」

 きつく目を瞑った弓弦羽の耳に、彼女は囁きを吹き込んだ。頷いた弓弦羽は緩やかに律動を再開する。頬に涙の筋を光らせた彼女は喉を反らせた。

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