第6話 北の姉妹

父は南に脱北した。南の磁石に吸い込まれるように。北朝鮮で脱北するということは残された家族が「死んだ方がましい」 という辛い生活を余儀なくされることは知っている。公開処刑もあり得る。多くの場合、女子供も関係なく処刑される。勿論、見せしめの為の公開処刑であるから女子供の方が有効であることは北も十分に理解している。母は無惨にも子供たちも含む大衆の前で処刑された。銃殺であった。勿論、刑の実行の前に兵士による輪姦があった。虚ろな目で銃弾を受け静かに目を閉じながら息たえた。幸いにも娘二人は強制労働をさせられている最中であった為、処刑現場にはいず、後からその内容を聞かされた。その場にいても多分、直視出来ずにうつむきながら銃砲を聞く羽目になったであろう。



それまでの姉妹は、近所でも評判の仲良し美人姉妹であった。父はランクが低いとはいえ朝鮮共産党の公務員であった為、空腹の日々が続いてはいたが健康で健全な生活が出来ていた。父が脱北を決意した最大の理由は理不尽な政策の連続にノイローゼ気味となり悩んでいたことに起因している。

「ミヘ、お前は間違っている」 と、父は口元に泡をためながら大声で戒める。

「父さん、大きな声はまずいよ。落ち着いたらどう?」 娘にたしなめられ余計に赤顔がひどくなってきた父を見ながら、半分薄笑いを浮かべながらミヘは言う。父との口論を楽しむように。

「いいか、ミヘ、我が祖国は間違った方向に進んでいる。将軍様が何を言ってもわが家族や親せきは決して楽な生活を送れない。第一、飢餓で死んで行く人がどれくらいいるか知っているのか?」 

「アメリカ帝国主義の国でも大半の人々はすべての金は1%にも満たない人々で操られているし、アメリカンドリームなんて、所詮、夢物語なのよ。要は、私たちが生きていける事、贅沢しなければ生きていける事、日に一回笑えれば幸せだという事よ」 ミヘも徐々に顔を赤らめながら、突き刺すように父にはむかう。

潔癖性の父には許せない出来事が日常茶飯時の如く続き、半分躁鬱病の状態であった。そんな父と姉は徐々に折り合いがつかなくなり、口論する日々が多くなり、躁鬱状態の父は次第に暴力を振るう様になっていった。母がいつも間に入って壁となったが、その母が殴られて、事を終えていた。父も、自分が正常ではなくなって行く事が徐々に怖くなって自殺を試みた事もあった。しかし、自殺も反逆罪とみなされる北朝鮮では、現実逃避が一番簡単な方法である。そんなある日、父は野菜搬送車に隠れて中国に逃れる事を決断した。北からの野菜は朝鮮人参など貴重品も多いく大切に扱われていた事を父は知っていた。最初は、家族全員での脱出予定であったが、人数が増えると成功の確率は極端に少なくなる。父は最初、自分は中国に逃亡し、母と娘二人には同時刻に別のルートから脱北する計画を立てていたが、姉が猛反対し結局、父だけが実行した。父は家族を思って、脱出ではなく近所の川に流されたということにして行方不明である事にしようとした。

当日、野菜搬送車の下に隠れる時に、一般市民に目撃され通報されたことで、父の目論見は失敗に終わった。通報したのは、この家族と比較的仲のよかった家族だが、自分たちの生活をよくしたいばかりに、通報し謝礼を期待したのだった。脱北した事がばれて党局から追われるはめになり川に流された嘘は通じなくなり、これは、家族全員が党局に捕まり、死刑または強制労働をさせられる事を意味していた。ただ、父にとって中国との国境での橋での検問で運転手に渡しておいたワイロが効をそうし、意外にすんなり国境を超える事が出来た。党員の追手が違う搬送車を追いかけ、ついに追いつけなかった幸運にも恵まれた。

中国から船で韓国に移ってからも、暫くは意識が朦朧とする日々が続いた。半狂乱になっていた時の脱北とは言え、やはり家族を思って躁鬱状態が続き、韓国側が用意した病院でリハビリを受けながら、カウンセリングも並行して受けた。半年ほど、目を開いていても一点を見つめる日々が続いた。その間、韓国政府から何度となく事情聴取を受けたが、ろくな情報を与えずにいた。韓国側にとっても、北朝鮮からのスパイという可能性が残る以上、解放する訳にもいかず、半牢獄生活を余儀なくされていた。

一見、囚人服のような看護服にやつれた身を包み、健康はそんなに悪くはなかったが食欲がない。いつも、下のほうから苦いものが上がってくる。しかし、韓国側の治療は一日に3度決まった時間に食事を強要した。もちろん、韓国の病院での食事は北に比べると栄養満点で、北では将軍様の慶事のときにしか食べられないような食事が毎回与えられた。それを思うと、残した家族の安否が余計に気になるのと、家族がろくな食事をしているわけはない筈なので、こみ上げてきてた強い胃酸によって食欲はかき消されてしまう。誰がまだ生きていて、誰が死んだのかも分からない。

韓国側としても、脱北してきたこの逃亡者が、下級とはいえ北朝鮮労働党の職員であるという事なのでいろいろな有益な情報に期待した。しかし、ろくに食事もせず躁鬱気味の患者からは、すでに熟知している情報以外、なにも出てこなかった。半年も過ぎたころからようやく少しずつ重い口を開き喋り出したが、それでも、特記すべき有益な情報は得られなかった。ただ、平壌市ウォンチョン区にあるピョン・ソン商標工場に出入りしていたことが判明して、単に一方的な話を聞くことから、一点に絞った質問が多くなってきた。韓国でも平壌市のピョン・ソン商標工場がどのようなことをしているかはよく知っていたので、裏付けの証拠を得ようとした。


3


父の家族付き合いの仲間が遁走してくれて姉妹の処刑は免れた。二人は別々の場所での強制労働であったが作業内容はほぼ同じであった。北の強制収容所(秘密監獄所)の悲惨さは周知の通りであるが、とくに脱北者とその家族には厳しい待遇が待っていた。犯罪者の家族である事は犯罪者と同じ待遇であり、一般の囚人とは違い非常に過酷な労働を課せられたうえ、美形の女性であるがために警備員による性的な虐待を含む非人道的な暴行を受けていた。通常は、一度投獄されると二度と出所は認められず、政治犯収容所であるので警備員の「好み」 で正当な理由がなくして何時でも銃殺されることがある。彼女たちが収監されているのは、「管理所」 と呼ばれる所で、軽い刑の「労働教養所」 や「教化所」 とは違ってとにかく過酷な労働や、拷問が与えられる。食事はほとんど与えられず、塩の塊が時々、投げ込まれるのを拾って口にする。野菜は土を掘り起こして痩せ細った根菜を土ごと食べる。時々、運が良ければ野ネズミや蛇を捕まえる。もちろん生で食すことしかできない。土がこびりついていない自分の爪を見たのはいつの事だったろう。


姉の名前は金美恵(キム・ミヘ)、妹の名前は金英愛(キム・ヨンエ)。ミヘもヨンエも美形であったがミヘは特に身体能力に勝り、必死に過酷な生活条件の中、生き抜いた。ヨンエも頑張ったが、姉ほど貪欲さがなく手当たり次第に食いまくることができない。度々、栄養失調で倒れることが多く、生き埋めにされる寸前であった。

妹とは違い姉のミヘは父への復讐に似た感情を心に秘め、この管理所から抜け出すことを目標に生き抜いた。特に国家安全保衛部の下級兵から上層部の連中に体を使って徐々に手なずけた。ミヘが体を抱かれる時は、栄養価の高い食事が条件であった。そして、いつもヨンエの為に少しずつ食べ物を残しておき、天日で乾燥させておいたものを、隠しておいた。いつか会えたら雨水につけ戻してから食べさせるつもりであった。

ミヘがかなり高いレベルの保安部兵士の娼婦のような待遇を受けていたころから、妹のヨンエを同じ管理所に移す希望を出していた。ミヘは色香を巧みに使い分け、しかも複数の兵士を操り、競争をさせて徐々に、保衛部に取り入っていった。もちろん、自分は囚人で相手は朝鮮労働党の国家公務兵士であるから、常に低く振る舞い、上下関係を守った。男は従順なオンナには弱いものである。それに、男は女の色香には絶対に勝てないことをミヘはよく知っていた。ミヘは朝鮮労働党の組織や力の構造、国内、国外での活動を必死になって勉強した。兵士を相手にする時は、その兵士の立場と朝鮮労働党の活動などをうまく天秤にかけ、相手を決して怒らせる事がなかった。それに、男が何をすればよいのか経験から熟知していた。

ヨンエがミヘのいる管理所に連れてこられた時は、ヨンエは姉妹とは思えないくらいにやせ細っていた。ミヘはヨンエが体力の回復のため、貯めておいた乾燥食料を食べさせたし、妹の分まで体を使って、栄養化の高い余り物を与えた。日に四人を相手にすることもあった。ヨンエの体が回復してくるとミヘは、

「犬に顔をなめられている、と思えばいい。それで生きてゆけるなら」 と、大きな目標のために体を売ることを説いた。兵士をそれとなく誘惑し、兵士からその状況を作らせる。兵士としても上級兵士にばれると身に危険が及ぶが、女の体には決して勝てない。そして、徐々に上級兵士へと登りつめるのである。一旦、上級兵士と関係ができると、今まで相手をしていた下級兵士には無視をする。下級兵士が「上級兵士の女」 に強引なことをすると、兵士自身の首が飛ぶ事をよく知っているのである。このようにして姉妹は囚人から徐々に娼婦に登りつめた。


ミヘには計画があった。囚人の扱いを受けない何らかの職業を身につけ管理所を出ることだった。ミヘは夜の相手の兵士に依頼して中国語や日本語の教材を手に入れたり、朝鮮労働党の組織図や実際に世界で行っている極秘のプロジェクトの内容を情報として受け取ったりしていた。教材は非常に高価で希少価値の高いものであるし、極秘の情報にしても、枕の上でぐったりする兵士の寝言のような内容を少しずつ、つなぎ合わせる程度の断片的なものである。ミヘとヨンエは必死になって情報収集と勉強に没頭した。囚人が隔離された管理所を抜け出すには知識と頭脳を身につけ、外の世界で通用するようにならなければならないのは明らかだった。二人とも、美形であったが体力的に囚人生活から来る弱さがあったので、室内で運動をした。昼は畑に出ての野良作業、夜は兵士の相手、そして、就寝までに勉強と運動、というハードな日程をお互いに励ましながらこなしていった。そして、徹底的に体から「膿」 を出していった。ヨンエが何度もくじけて弱音を吐くと、ミヘは涙ながらに諭し、頑張らせた。ヨンエの体調が悪いときにはミヘが代役をしたが、逆はなかった。

ある時、この明朗で美形の姉妹の囚人が噂となって朝鮮労働党の幹部の耳に入った。当時北朝鮮では世界の異端児として煙たい存在であり、「悪の枢軸」 とまで表現されていた。ソ連が崩壊してから民主主義や自由貿易の流れが押し寄せてくる中、共産主義を貫きとおしている中国の力を借り、国内を制圧しながら、海外での諜報活動で得られる情報をもとに北朝鮮は「生き残り」 を賭けて大きな一手を打つ必要に迫られていた。そこで、海外に送られている「スリーパー」 と呼ばれる休眠中の諜報部員を活性化し情報収集に躍起になっていた。

体力、知力を兼ね備え、さらに美形のキム姉妹は諜報活動に最適であり、二人をとりあえず朝鮮労働党作戦本部の、平壌市中区域蓮花洞にある連絡所に移した。異例のことである。勿論、この決定には「脱北者家族は死刑か強制労働による衰退死」 が不文律な規則であったため反対するものが多数でたが、この二人の利用価値を見出した士官も多くいた。この連絡所は、北朝鮮が長年外貨不足に悩んでおり、その解決策の1つとして1980年代後半からは、大量生産体制に切り替えた偽造紙幣の印刷を管理しており、姉妹も麻薬や武器製造・輸出と並び北の悪の根源である偽造紙幣を勉強させられた。

その後、二人は成績優秀であったため、別々の職務を与えられる。特に成績優秀でトップクラスであった姉のミヘは朝鮮労働党130連絡所という別名で有名な金日成政治軍事大学へおくられ、徹底的に「北のやり方」 を叩き込まれた。ミヘは、日本への諜報活動を主眼に置いた諜報活動のための訓練をやらされた。当時の日本の防衛庁の中でエリートの一人がターゲットとして選ばれており、その人間の日常の生活、飲食の嗜好、家族環境、過去の自衛隊内での功績、などあらゆる要素を暗記させられた。囚人から、スリーパーの段階を踏まず、即座に工作員としての扱いは異例であった。


5 


別々に寝食を分けた妹のヨンエは姉とは徐々に生活態度や党に対する考え方などに差が出てきた。妹には北朝鮮の行っている諸策への積極性が劣っていたのと、諜報活動では命取りとなる「優しい心」 を持ち合わせていた。本部もスリーパー扱いが妥当と判断し、日本の朝鮮総連を通じて、富山県から密航させ、朝鮮系住民が多く住む大阪市の淀川区に一般住民にまぎれて住まわせた。仕事も与えられた。大阪で繁華街、「南」 にある朝鮮料理の給仕という、日本の中で堂々と朝鮮人であることを隠さず活動ができるお膳立てが組まれていた。店主もスリーパーでヨンエの監視係であると同時に教育係でもあった。ヨンエは漢字名で「金英愛」 と書き、日本名は「金本英子」 と名乗った。スリーパーであるので本部から特別な指示があるまで諜報活動はせず、日本での生活に慣れ、諜報対象となる政府や自衛隊、警察などの公共機関を朝鮮総連から教材を与えられ勉強した。出生や教育の経歴はすべて朝鮮総連が用意した。

約2年が経ち、「日本育ちの英子」 は近所や朝鮮料理店の日本人を含む仲間と穏便に、疑われることもなく生活していた。そんなある日、 当時の西成地区の調査で東京から出張に来ていた警察庁の男と会う。もちろんこの男は警察庁の人間であることを隠し、日雇労働者として「南」 にいた。出張が長期に亘ったこともあり、きれいな英子ちゃんがいる店で夕食を済ませることが多くなった男と英子は自然に引き合って行った。店主からはこの男が警察の人間で休眠中の工作員を調査している情報は入っていたし、偽ドル紙幣の流通の段階で西成地区の人間が多くかかわっていることへの調査であることも知っていた。もちろん、店主は英子にこの男の素性と行動内容に注意すると同時に、英子の身分がバレルことを強い口調で注意した。その反面、英子がこの男をてなずければ、有益な情報がいろいろ入手できることも事実であり、交際を止めようとはしなかったが、そのかわり逐一、報告させた。この男の本名が藤井雅人であった事が判明した。このことが諸刃の剣であることは分かっていたが、北からくる指示は、切羽詰っているのか、「関係」の促進を指示した。

雅人の出張が終わって東京に帰ってからも電話連絡を取っていたし、休みを利用して時々は会っていた。英子は自分の置かれている立場を雅人に正直に話せないことと、雅人への愛の板挟みになっていたが、雅人への愛だけは信じてほしかった。北朝鮮で囚人のときには苦しさから逃れるために寝たし、姉も辛いことを知って兵士に抱かれていたことも理解している。それなのに、雅人には自ら抱かれた。自分の体の反応や湧いてくる震える感覚が、鈍い恐怖心とともにやってくる。男性を好きになったことはそれまでなかったので、どうしても父と兵士の何人かと「愛」 という抽象的な感情を比べてしまう。もちろん年齢や性格、それに生活の環境が違うし、自分も北朝鮮にいたころと比べること自体に矛盾を感じる。とにかく雅人は日本という豊かな国で育ったからであろうが、感情の大きさや深さにかなりの幅があるように思う。思慮深い行動も選択肢が一杯あっての話であるのに反し、北朝鮮の連中にはそれがない。ある意味では選択が多い中でも選んでくれる雅人に真の愛を感じるし、真の愛を求められる男だと思う。明確に真の愛を知ってしまったようだ。いつか、いや早いうちに正直に話そう、と思う。私の暗い過去を。困難で危険な圧力が狂った嵐の波のように押し寄せてくるだろうが……。


ある日、英子が雅人と東京と大阪の間で会った名古屋を後にし、アパートまで帰って来たのは深夜だった。今日も告白できず、自分が情けなく思ってはいたが、一方では雅人に会ったことだけで心は弾けるくらい楽しい思いで一杯だった。冬の厳しい寒さで鍵まで凍っている。何度か鍵穴に鍵が入らず地団駄を踏んだ。

やっとの思いで部屋に入り、電気をつけると異様な雰囲気がただよっていて、長い間見なかった人の顔が目の前にあった。姉のミヘがたばこを吸っていたのだ。

「おねえさん!!」 と、懐かしく抱こうとした。

しかし、姉のミヘは男のような力でヨンエの顔を平手で叩きつけた。いまだに寒さでしびれている頬に急激な熱さが走り、一瞬、ついているはずの電燈が消えた錯覚に陥るくらいだった。鼻から出血したらしく、畳の上には純粋な血が数滴飛び散っていた。

「なにするの!いきなり殴らなくても……」。 あとは、言葉にならなかった。雅人と会ったことからくる温もりと姉への懐かしい感情という甘い雰囲気に反して、憎しみに満ちたミヘの態度はあまりにも無情で、受けたショックですぐには立ち上がれなかった。

「あなたはターゲットを愛してしまっている。祖国を裏切ると、どんな処刑を受けるか分かっているわね。」 

「でも、雅人さんは信じられないくらい良い人なの。許されるのなら、お父さんと同じく『北』 を捨てて、日本であの人と暮らしたいの」 

「私たちの父親は、『北』 を捨てただけではなく、お母さんやあんたと私を捨てたのよ!お母さんがどういう殺され方をされたかあんたも聞いているでしょう。それに、私たちがどれだけ苦労して、食べるものもろくにない所で、飢えをしのぎながら、汗匂い兵士に抱かれて、やっと這いあがってきたことを忘れたの?あんたの相手は警察庁のエリートで、私達の祖国を失脚させるために訓練されている犬なのよ。そんな人間との関係を認める訳にはいかないでしょう。仮に最初は逃げられても、北の情報網に必ず引っかかって、おぞましい刑罰を受ける事になる事くらいあんたにもわかる筈。本部から、姉である私にあなたの排除命令が出る前に手を打てと指示されている。あす早く、あなたは旅に出なさい」 

そのあと、ミヘもヨンエも一言も話さなかった。ミヘは何本もたばこを吸っていたし、ヨンエは止まらない涙で腫れあがった顔を両手で覆うことしかしなかった。お互い、巨大な力でのしかかってくる現実と淡い恋をしてしまった妹を憐れむ苦しさでミヘまで瞼を薄ら濡らしていた。それに、これからヨンエが受ける苦しみを考えると、心は深海に沈められる鉛のようにまっすぐ落ちて行くようであった。



翌日、ミヘの部下が部屋にやってきた。この男はミヘの言いなりである。労働者風のいでたちで汚いポケットから一本の注射器を出してヨンエの腕に手なれた手付きで薬を打った。睡眠剤である。この男ともう一人外で待つ男と二人でヨンエを運びトラックに乗せ、その後、音もたてずヨンヘの匂いがするものすべてを積み終えた。もともと、アパートの家主から住人に至るまで北の息がかかった人間であるし、音もなく消えた隣人に何も詮索しない、という事にことに慣らされている連中である。隣人や家主だけではなく料理屋の店主も教育されたスリーパーか情報部員であるので、一夜にして英子の影はすべて消えた。

ミヘの計画通り、事は進んだ。英子は北に戻され、窓のない独房で静かに目を閉じながら息を引き取ったのは、それから3カ月後であった。直接の死亡原因は栄養失調であったが生き続けることへの罪悪感と、精一杯の北への恨みを抱えながら死んでいった。十分な食料を与えられなかったのではない。自分で 餓死したのだ。

後になって、アパートや料理屋に訪ねてきた雅人への対応も完ぺきに教育されていた。雅人が地元の警察に捜索願を出したが無駄だった。英子の行方は誰も知らない。雅人には、英子が北のスリーパーであったのでは、と疑いを初めて持った。自分が愛してしまった人がスリーパーだったなんて警察庁の人間としては失格である。むしろ、心のどこかでは疑っていたにもかかわらず、愛する気持ちが疑いを消し去っていたのであろう。

英子はこの世から去っていったと思った。雅人も朝鮮系の人間が忽然と姿を消すのはどういう意味があるかを職業柄よく知っている。特に機密を教えた訳ではないので保安や、漏えい面で心配する訳ではないが、英子が仮にスリーパーとしての諜報部員なら今消えるのはおかしい。第三者が関与をしている事ぐらい察しがついた。家族は姉以外いないと言っていた。仮に姉がいても北では連絡の方法すらない。四方塞がりの状態だ。


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