第4話 富山の冬の海


米田巡査は富山県魚津市北西部の経田漁港近くに位置する魚津警察署管内経田駐在所に勤務している。魚津と黒部の中間に位置する地域である。管内には、経田漁港・経田海浜公園があり、海岸線には富山・朝日自転車専用道路が走っている。

「地域との対話と協調」という大きなスローガンが富山県警本部ビルのバナーに掲げられている。米田巡査はその意を自分なりに理解し、地域住民や地形、交通、など、出来る限り暗記していた。米田巡査は毎日、自転車で管内のパトロールを朝に行なうのが楽しみにしていた。

パトロール中に出会う人すべてに声をかける。みんなも、「米田巡査、米田さん、米ちゃん、米やん」 などと、呼び方はいろいろだが、気軽に声をかけてくれるようになっていた。赴任してもう15年になる。結婚もしたし子供も出来た。家も買った。巡査なんて儲かる仕事ではないが、順調だったし、この仕事が好きだった。昇級試験、つまりテストで出世する警察官よりも、地道に地域を回り、魚津の土地に息づく人々の「生活」 を犯罪や事故から守る事を生き甲斐に感じている。今でも奇人変人的扱いを受ける事もある。地域の安全は絶対に俺が守る……という意気込みで働いている。今では少なくなった熱血正義感派の警官である。そんな充実感がたまらなく自慢である。

それは日本海からに厳しい冬の強風が吹き荒れる雪交じりの朝だった。無言の雲から人を小さくさせる圧力がかかる。

晴れていれば富山平野に広がる町並みの奥には立山連峰がそびえたつ壮大な景色が見えているはずであるが、今日は冬の海から襲ってくる黒い雲と吹き付ける雪交じりの強い風で目も開けていられない。「秋と云う女性」に捨てられた男の冬の海は狂った様に波を激しく打ち付け、ウサを晴らしているかの様である。この地域は気温のわりには雪がすくないが日本海から吹き付ける北風は覆っていない部分の神経を全て麻痺させる。軍手をつけていても、また、慣れているとはいえ両手はとっくにしびれて麻痺している。経田海浜公園付近は、特に海からの風で自転車の運転がふらつく。氷混じりの路面は滑って危険である。富山湾に春を告げる蜃気楼とホタルイカにはまだ遠い。

富山県は日本海に面しており、他の日本海側の県警と同様、米田巡査も拉致発生に対する防止と不審船などの監視の指示が出ていた。何十年にも亘って拉致されたと思われる人のリストのうち米田巡査の管轄内にも二人を確定している。



北朝鮮に拉致された可能性のある失踪者の行方を調べる民間機関である「特定失踪者問題調査会」 が「拉致の疑いが濃厚」 と公表している人のうち、 富山県出身者が何名も含まれている。何名かは失踪場所が特定されており、目撃者がいなく場所が特定できない方が何人も存在している。拉致は基本的に北朝鮮からの船舶や小型潜水艦に乗せて連れ去られるケースが多く、海が荒れる冬は、船の運行や潜水艦の潜航は難しいが、逆に目撃者が極端に少ない利点があるため、県警では一年を通して監視を緩めるな、と指示が出ていた。

米田巡査は海岸に沿って、私道を中心にパトロールしていた。海岸線では時々、海から打ち上げられる色々なものが転がっている。荒れている今日のような日には大きな打ち上げ物が見つかることもある。ハングル文字が書かれたペットボトルや缶詰は韓国のものだろうし、漁船が放棄したロープや網、ブルーシートなどは日本のものもある。自然の生き物の死骸はほとんど上がらない。自浄作用が働いているからで、打ち上げられる物のほとんどが人造物である。殆どが自然破壊に繋がり、そのままでは自然には帰らない物質が多い。定期的に県が業者に委託して清掃と処理をさせている。

その日、米田巡査は色々なものを見たが、ふと、小橋の下に黒く丸い物体が見えた。ヘドロか動物の屍骸か。確認の必要があると感じた。その黒い物体の半分は河口から海に流れる川中に埋もれている。自転車を降り、土手の斜面が雪で覆われているので、滑り落ちないように河口の斜面を注意深く降りていく。布のようなもので包まっているような気がする。幸い、長靴を履いているので片足を水につけ、警棒で物体を突っついてみる。やわらかい。顔を近づけて注意深く観察する。と、そのときちょっとした異臭を感じた。凍りつくこの地方では生ものが腐る速度は遅いものの、腐敗臭が確かにする。それに、酒匂い様にも思う。緊張がはしり、文字通りの冷や汗もので布らしき物体を剥ぎ取ろうとしたが、なかなか剥ぎ取れない。しかし、グッ、と引っ張ると2センチ角の白いタグが見えた。「LL」 と記されている。これは黒いシャツか何か、人間が着るものだ。これでもう、この物体が人間の死体である可能性が非常に大である。このあたりでは、交通事故は時々起きるが、死亡事故はめったにない。しかし、この物体が死体だとしても、事故死か他殺・自殺の死亡事件に発展するか、現時点では不明である。もし、殺人事件だとすると、5年ぶりくらいだろう。現場をいじるな、という鉄則を守り、「人間」の体だと確認した時点で、掘り返すのをやめる。



米田巡査は即座に無線で応援を要請した。15分もしないうちに大挙して応援が到着した。まず、検死担当が死体であるかどうかの最終確認を行い、写真撮影をおこなってから、死体を掘り出した。検視官と共に現場を詳細に検証する。事故死と他殺の両面からの捜査となるが、外傷がないため、即座に結論が出ない。しかし、死体の位置からいって、また、川から海へ流れる水量からいって、海から流れ着いて満潮時に現場にたどり着き、潮が引いた後で川の砂に半身埋まった、と判断するのが妥当であった。

もちろん、冬の川に落ちて心臓麻痺で死ぬという、漁師などの事故死の可能性もあるため、その日に近隣各県警や、漁業組合などに行方不明者の確認を取ったが、該当者はいなかった。後は、所持品であるが、財布と小銭以外、衣服だけで特に身元を特定出来るものは何もなかった。これから、検視官の死体鑑定を待つことになる。その結果を待つまで、所持品と身につけている衣類(下着の上下、Tシャツ、作業ズボン、靴下、そして厚手のジャージ)、靴(運動靴)、財布(布製で所持金は1000円札2枚)と小銭(215円)など、鑑定が終わったものから、それぞれの製造企業の特定を急いだ。米田巡査は県警本部に呼ばれ、作成した調書に関する質疑を受けた。現場を知る人間の感性が捜査の方向性を決定付けることが多いからである。意見を求められ、米田巡査は答えた。「はい、私は、管内の住民を全員記憶しておりますが、知った顔ではありません。つまり、管轄外の人間ということになります。近隣のパトロールをしている連中にも面通しを行いましたが、やはりよそ者のようです。捜索願も出ていません。全国の県警に問い合わせしましたが、行方不明者に該当する者はおりません」 

「分かった、米田くん、ほかに何か気になることはないかな」 と巡査部長が聞く。

「ひとつだけあります。死亡時間が未定ですが、いくらなんでも冬のこの時期には軽装過ぎます」 

「そうだな。海から流れ着いたと考えるのであれば、自殺または事故死の場合、船などから落ちたことになるし、他殺なら、殺害されたかどうかは不明だが、海に投げ込まれたことになるな」 

「よし、今日は、固定観念に囚われずに、色々な可能性を模索しながら、鑑定結果を待とう。すべての鑑定結果が出たら、この会議を再び招集するのでそれまで身元と所持品の特定をすすめてくれ」 



鑑定結果がでたのは、それから一週間後であった。今回は、妙な、というかよく分からない物質の鑑定のため科学捜査研究所(科捜研)と鑑定医が協力して鑑定結果を出した。科捜研は指紋を採取したり、DNA鑑定をしたりすることは良く知られている。警察の内部組織に科捜研という名称の部署があり、指紋の鑑定とか偽造パスポートや偽札の鑑定などを行う。また、文書の鑑定や、薬物の鑑定などを行う研究室のような設備を有していることが多い。科捜研と鑑定医とはその職域が重複しているように見える。例えば、血液型の鑑定は科捜研の警察職員が行っており、DNA鑑定や覚せい剤の検出なども通常科捜研が行っている。しかし、科捜研はあくまで警察内部の組織であるため、その目的は犯罪の捜査中心となる。鑑定医は医師であり、医学的見地から人体に関する鑑定などを主に行う。

死体解剖は検察官または警察職員が行い、死亡が他殺になる可能性がある場合に行う。鑑定医がおこなう死体解剖は、医師としての資格に基づく鑑定であり、死因を医学的に特定することが目的となっている。さらに殺害時刻や医学的見地からの死因を鑑定する。ただ、最近の科捜研は設備が整っていることもあり、また、科捜研は警察内部の組織であり、独立して鑑定を行うこともあり、警察本部長又は警察署長の指揮のもと検視する場合がある。



まず、今回の鑑定結果で注目を集めたのが、その死因であった。

「ヘロインおよびアセトアミノフェンと思われる薬物の過度の摂取による死亡」 という結果が報告された。

体内から、多量のアセトアミノフェンが混入されたマッコリ(または、マッコルリと呼ばれる「どぶろく」 )と思われるアルコールが大量に検出されたのである。一般的に風邪薬の中には鎮痛解熱薬としてアセトアミノフェンが含まれているが、今回の摂取量はショック死を引き起こすほどの量である。また、マッコリは朝鮮で飲まれている濁酒(どぶろく)でる。

ヘロインに関しては常習者か否かは注射器の跡で見るが、体には一箇所だけであった。常用者なら複数の跡が見つかるものであるが、誰かに強要されて泥酔後に注射器によって一気に大量投与されていた、とみるのが妥当である。一般人が、今では誰でも入手できるマッコリを飲んで泥酔し、初めてのヘロインを注射する事も考えられるが、致死料の麻薬を注射器に入れ、正確に効果のある血管を探し出し注射する事は、泥酔後であれば、不可能に近い。自殺を行うには、アセトアミノフェンが混入されたマッコリを大量に飲んだ後に、自分で注射器を扱うのは不可能なのである。 

これで他殺の可能性が非常に高い事がほぼ判明したことになる。しかし、検視官は簡単に他殺と言う結論を出さず、鑑定に時間をとったのがアルコールと摂取時に一緒に食べたと思われる物質の調査の為である。緑色の根菜と紅唐辛子が胃から検出された。検視官はこの食物が何か調べるために時間を費やした。結論としては「キムチ」 との結果であった。日本人にはキムチは白菜や「カクテキ」 と呼ばれる大根が多いが、韓国または北朝鮮では緑色の根菜を食するか否かを調べていたわけである。

衣類や財布、コインはすべて日本のものであり、特に目立った死因や死亡者を特定できるものは見つからなかったが、運動靴の底と指爪から微量な緑色の油性物質が発見された。残念ながら、この物質は、いまだ特定できていないが、通常の生活に存在する塗装用のペンキ類ではないため、継続して調査する旨、報告された。船舶のペンキという可能性が考えられた。

被害者の身長は180センチ。年齢は70歳くらいで大柄である。しかし体重は65キロと痩せている。血液型はA型であった。死亡時刻は前日の深夜12時から同日3時頃。消化器官の海水量から判断して、死亡後、海に放置されている。自分で落ちた可能性は残る。

富山県警は結局殺人事件と断定し、即座に「経田海岸殺人事件捜査本部」 を立ち上げ捜査にかかった。当然、キムチとヘロイン(断定されていないが……)が発見されたとすると北朝鮮の線が浮かんでくる。

被害者が日本人なのか朝鮮系なのかまったく現時点では不明である。

その日の捜査会議で次のことを決定した。

1 日本人の可能性があるため、年齢、身長、血液型などに該当する行方不明者の特定を全国の警察署に依頼する。

2 韓国人の可能性があるため、日本大使館を通じて大韓民国に1)と同様の特定を依頼する。

3 北朝鮮にはルートがなく、赤十字を通じて依頼しても協力を得られないとの判断から依頼しない。

4 ヘロインおよびアセトアミノフェンの入手経路の特定と緑の油性物質の特定を継続する。

5 所持品の製造業者と製造量と販売地域の特定を進める。

6 富山県魚津市経田海岸を中心とした四方10キロメートルの聞き込み捜査を実施する。

米田巡査は会議終了後、即座に聞き込みを開始した。



全国の警察署からの返答は即座に戻ってきたが該当する人物は特定できなかった。韓国からも同様の返答であった。ヘロインおよびアセトアミノフェンの入手経路の特定は難航している。今や、どこででも手に入るものである。特に、暴力団がらみの組織からは容易である。しかし、両方とも北朝鮮でも製造されていることが判明している。特にヘロインは、お手の物である。

所持品の製造業者と製造量と販売地域を特定するため調査したが一般的にどこの大型スーパーやデパートで入手できるもので大量に販売されており、継続して捜査は進めるが特定は難しい、との結論であった。緑の油性物質の分析が県内の大学に依頼して進められているが、もうしばらく時間がかかるようである。

米田巡査や他の捜査員は経田海岸近辺の聞き込み捜査を実施するものの、死亡推定時刻や流れ着いたと思われる時刻が深夜であり、冬のこの時間に目撃者がいる可能性はあまりない。組員関係の人間であるとすると、さらに、特定困難である。

米田巡査は殺害された人物が大柄であるという特徴を前面に出して、引き続き聞き込みを続けた。死体発見現場がなぜ経田海岸であったかを考えると、日本海のどこかで放り込まれて流れ着いた可能性がある。経田海岸は能登湾にあり、能登半島と黒部あたりまでいわゆる袋小路のようになった湾である。したがって、死体を遺棄した場所としては富山湾の中である可能性が高い。検視の結果、海中にいた時間があまり長くないし、死体の損傷も少ないことからも、やはり、富山湾で投げ込まれた可能性が大きい。すると、被害者は生きている時はこのあたりにいた可能性が高くなる。


 「米田さん!オソクサイデスケ(お元気ですか)」 

 「おぉ、松村のばあさん、おはよう。寒いなぁ。散歩か?80越えているのに元気だな」 

 「アンソー(ああそう)犬の散歩じゃ。子供も都会に出て行きよったし、ジーさんは寝たきり、犬だけが一緒に歩いてくれる家族じゃ。ところで、ダレカカワデシンドッカラ(誰か川で死んだのか)?」 

 「そうなんよ。松村のばあさん、最近、六尺ぐらいある男の人、見なんだか?」 

 「トゥシャー(年は)いくつぐらいだ?」 

 「65歳前後だって。70歳前の大きな人」 

しばらく考えてから、「ンナラ(そうなら)ジーさんが言うとったが、定期健診の病院からの帰りに、池田さんちのセガレにようにとう(似ている)人居るってチャ」 

 「池田さんの息子さんって、30年くらい前にいなくなったのだよね。帰ってきたのかな?」 

 「はーそうだ。守男さんとユーチョル(言う)とオモーチャガー(思うよ)。あん人は大柄で、何の連絡もねえで、もうシンドット(死んでいると)オモーチャガー、ダエド(だけど)、まぁ、よー、生きとったと思うね」 

 「ばーちゃん、ありがとうね。池田さんに行って聞いてみるわ。じゃ、気を付けて」 



意外な収穫である。米田巡査は早速、池田家を訪ね、池田守男の母に面接した。90歳近いため、聞き取りに苦労したものの、得た情報を整理すると次のようになる。

30年前の夏に就職先の村山印刷所からの帰りに失踪。警察に届け出るもお蔵入りとなっている。その当時は、県下での優秀な印刷工として県主催の作品展で優勝し、新聞社主催のコンクールでも準優勝している。当時、付き合っている女性がおり、自ら失踪するとは思えない。その女性とは結婚の約束までしていた。(女性はすでに他界)3日前に急に帰ってきたものの、一泊して次の日には出て行ったきり帰ってこない。30年間の生活や仕事に関しては一切話していない。携帯電話でしきりに誰かと話していた。何かにおびえている様子で苛立っていた、という。身体の特徴としては背が高いこと以外に、右鎖骨部分に10円玉サイズの大きなホクロがあることが判明した。肉親のみ知りえる情報である。


海岸の死体が池田守男かどうか不明だが、可能性はある。本人と確認できる物品を池田の母から入手を試みるも30年も前では何もない。面通しも可能であるが、90歳近い老婆には酷だろうし、視力も殆ど見えないくらい低下しているため、本署に指示を仰ぐため連絡した。本署から、村山印刷所の存在確認および聞き込みを実施し、同時に遺体にホクロがあるか確認する旨、返答があった。



三日後、遺体が池田守男であることがほぼ確定した。年寄りの母親がいつ帰ってきてもいい様に使っていたハブラシを袋に入れて残し、保存していた。帰ってくると祈願していたのであろう。DNA鑑定で念を押して本人であると決定された。

富山県警は村山印刷所の存在を突き止め、当時、給与の支給時に本人が拇印を押しており、その受領確認書がまだ保管されていることを突き止めた。埃だらけの段ボールの中から問題の領収書を探し出すのに3時間も要した。指紋確認が可能となったのが決定的となったのである。さらに、母親が言うとおり、右鎖骨部分に10円玉サイズの大きなホクロがあることが判明。30年前の失踪時に富山県警は一応の捜査を行っているが、家出人程度の捜査であったし、40歳を過ぎた男の失踪は、その当時、交通事故や事件で関係がありそうなものがなかったことも加わって、不明のままであった。

村山印刷所の当時の同僚を発見し、話を聞いたところによると、失踪前はギャンブルにのめりこんでおり、悪徳金融機関に大量の借金があった模様である。その金融機関は地元の菱富会系の企業であった。同僚は借金のために雲隠れしたと思っていた。

さらに、その三日後、鑑識が緑の油性物質の鑑定結果を発表した。それは印刷用インキであった。これは通常よく行われる四色印刷という四色ですべてのカラーを表現する印刷方法とは異なり、発見されたインキは「特練(とくねり)」 と呼ばれ、故意に特定の色に使用するために、二色以上のインキを練り合わせたものだという。しかも、大手印刷インキ製造会社に依頼し、その成分を確かめると、通常のオフセット用インキではなく、凹版用のインキであることも分かった。凹版はグラビア印刷とも呼ばれ、インキの深さで色合いを表現するため、濃淡が滑らかに表現できる、とのことであった。戻ってきた時に、印刷にかかわる仕事でもしたのだろうか?

徐々に明らかになってきた。この時点で富山県警は「経田海岸殺人事件捜査本部」 の設置を正式に発表し事件に関する記者会見を行った。しかし、デリケートな問題を含む北朝鮮の影はこの時点では伏せられた。記者からの質問も出たが、「その点については、可能性があるものの、現在、調査中である」 、と答えるのに留まった。記者も、暗黙の了解でそれ以上は聞かなかったという。北の関与がある場合、問題が大きいために正確で確証を持てる内容が揃わないと滅多な事は言えない。それに、北が絡んだ事件となると明らかに全国紙扱いとなるため記者も慎重である。

富山、石川を中心とした地方紙の北信越新聞をはじめ、全国紙も小さくこの事件を取り上げた。中には「北朝鮮関与か?」 の見出しをつけた新聞も出てきたが北の関与に対しては曖昧な表現で終わっている。勿論、県警の発表内容で北の関与を記事にするには材料に乏しく、多少は読者へのモーションであった。テレビやラジオでも取り上げられたが、 単なる殺人事件 としての小さな扱いでたった。しかし、マスコミの影響力は甚大である。新たな事実が浮かび上がることを期待する。



テレビを見た日本在住の脱北者が池田を知っている、と富山署に連絡が入ったのは、放映された次の日であった。しかし、富山県警では北朝鮮との国レベルの話には無力である為、この大阪に住む脱北者との面接に警察庁と国家公安委員会の参加を要請した。また、この「脱北者」と名乗る男が本当の脱北者であるなら、この人間の安全も確保しなければならない。

藤井雅人が呼ばれた。

この脱北者と雅人が東京から到着したのが翌日の昼で、午後に即座に面接が組まれた。証言をしてくれるこの脱北者は中国と第三国を通じて韓国に送られたものの、日本での生活を希望していたため、政府の計らいで日本在住権をもっていたのであった。政府は極秘裏にこれを認めた。理由は、キム・ウンテ独裁支配が、内戦後、2015年に新政権のキム・ソンナム指導になったことによる政策転換があったからである。

脱北者本人は子供のころに大阪から帰国事業で北朝鮮に帰っている。帰国事業というのは、1959年8月に北朝鮮の赤十字会と日本の赤十字との間で結ばれた帰還協定に基づいて集団的、組織的に在日朝鮮人が日本から北朝鮮へ帰って行ったことを言う。この時は、戦後しばらくは経っていたが、彼らにとって生活は苦しく、やはり祖国での生活を望んだ。それに、北朝鮮が「ユートピア」 であるかのような宣伝が功を奏して、帰国した人々は少なくなかった。

会議はこの脱北者の個人情報を一切、表に出さない約束で始められた。議長は警察庁警備局外事情報部国際テロリズム対策課と中部管区警察庁の二人、さらに国家公安委員会の藤井雅人と米田巡査と彼の上司で進行したが、主に質問と発言をしたのは、この脱北者と雅人であった。

「まず、お伺いします。いつ、どこで池田守男さんを見たのですか?」 

「はい、ピョンヤンの商標工場です。私が五十歳のころですからいまから20年前です」 

「そのとき、彼とあなたは何をしていましたか?」 

「彼は、印刷技術の先生で、私は印刷工でした。ご存知だと思いますが、北では大量のドル紙幣を印刷しています。もちろん偽札です。彼は、どうしたら本物と遜色ない印刷が可能か、私たちに教えてくれていました。しかし、朝鮮語がうまくしゃべれなかったので、日本から来た私が通訳を兼務していました。だから、池田さんのことをよく覚えています」 

「池田さんは、30年前に日本から失踪しましたが、それは北朝鮮の拉致だったのでしょうか?」 

「はい、彼は富山市内での仕事帰りに、最初はヤクザ風の人間数人に捕まり、次に朝鮮語を話す連中に引き渡された、と言っていました。北で、私は指定されたアパートに住んでいましたが、池田さんは社会安全部傘下の寮に住んでいました」 

「それ以外に何か池田さんの特徴で覚えていることはありますか?」 

「はい、右の肩の下の鎖骨部分にこれくらいのあざがありました。月一回の風呂に一緒になったときに見ました」と、指を丸めながらこたえた。 

富山県警では県内に約1000枚の偽米百ドル紙幣が1997年に見つかっている。死体が池田守男である確認を得た後は、主に、北による偽米ドル印刷の内容に話題が集中した。池田守男は、北朝鮮により何らかの理由で、多分、口封じのために殺害されたのではないか、と結論付けた。この時点では30年も北にいた池田を殺害したのなら、なぜ、富山の海で殺害したのか、という点と動機の2点は不明である。高齢となった池田を不要と決めたのか、新たな計画に池田が選ばれなかったのか、と色々理由は考えられるが、いずれにしても、年老いた池田から吸収できる知識や能力はもうないはずである。


10


韓国の国家安全企画部が発行した報告書「二十一世紀の新しい脅威、国際犯罪の実態と対応」 の中で、北朝鮮が経済危機打開のため、偽造貨幣製造機関を運営し、年間1500万ドル相当の極めて精巧な偽造米ドル紙幣をつくり、マネー・ローンダリングを経て世界で流通させている、と報じている。北朝鮮は最近、国際犯罪組織と連携し、中国在住の朝鮮族などを利用して、偽札の韓国への搬入を図ろうとしているという。北朝鮮は1990年代に入って、精巧な偽札の製造を開始、94年以降、東南アジアなどで計13件、約5億5700万円相当の偽札が摘発された。これは発見された量であり、知らずに流通している偽ドル紙幣は計り知れない量である。さらに、それから30年以上も継続して偽造紙幣を製造し続けていることになる。

同報告書によると、北朝鮮は、平壌近郊にある「二月銀色貿易会社」 、「101連絡所」 、「平壌商標工場」 など数カ所の偽ドル製造専門機関を拠点に大量の偽ドル製造している。70年代末までに北朝鮮は、識別しやすいオフセット印刷の偽ドル札を貿易代金決済の際、本物のドルに混ぜて使う程度であったが、90年代に入り経済難が一層、厳しくなってからは、識別し難い、超精密偽ドル札スーパー・ノート、「いわゆるスーパーK」 の製造に手がけるようになったと同報告書は指摘し、偽ドル札の流通には、外貨稼ぎを専門とする北朝鮮商社マンのみならず、各国に駐在する多数の工作員や外交官らも加わっているらしい事がわかっている。

マネー・ローンダリングとは一般に,犯罪などで得た“汚れた”資金を,その出所が分からないように偽装したり隠したりして,“きれいな”お金に見せる行為を指す。もともと,薬物売買により得た不正な収益がマフィアの大きな収入源となっている。その後,国連麻薬新条約の発効,FATFの設置等により,国際的なマネー・ローンダリング対策が進められるようになった。


11


国際偽造団及び北朝鮮等により製造された偽造米貨が、1988年のオリンピックを契機に国内で流通され始め、93年まで数億ドルが流通されてきたが、その間、国際交流の増大及び外貨自由化措置等の環境変化により、流通量が増加し、94年以後には、ほぼ毎年、平均5万ドルずつ摘発されてきた。

しかし、外貨危機以後、偽札流入が急激に増加し外貨危機克服のために実施された「ドル集め」 運動を通して、偽札が大量に摘発され始めた。97年12月から最近までに摘発された偽造ドルは、33万余ドルも摘発される等、偽札の国内流通が急速に拡散している。実際に、97年12月から3ヶ月の間に実施されたドル集め運動を通して、一般の銀行に入金された米貨を米国RNB銀行香港支店等に輸出する過程で、偽造ドルが14万ドルも摘発されて送り返されたことによって、国家の信任も失墜するのは勿論、国内銀行の経済的な損失も又深刻な実状であった。

日本国内で摘発されている偽造ドルは、低額紙幣はあまりなく、効率のよい、100ドル札が多い。高額代金で観光客等を通して、世界各所で流通されており、特に、我が国と国際交流が活発な中国・ロシア・中東地域から流入する偽造ドルが東・南大門市場とイテウォンで多く発見されており、日本の商人の被害事例も増加している。2000年初頭では、肉眼での識別が不可能な超精密偽札が大量に発見されており、97年12月以後、摘発された偽造ドル33万ドル中、3万7千余ドルが超精密偽札と推定されており、大変深刻な実状である。

現在、国内で発見されている超精密偽造ドルは、いまだに88、90、93年度に発行された100ドル旧券で、96年3月に発行された100ドル新券の超精密偽札も、最近、大量に発見されている。つまり、偽造紙幣を作る能力が、実物のレベルにあることを示している。オフセット印刷された中級新券の偽札の流通も急増し、国内摘発偽札の30%程度を占めている。


全世界で流通している4,500億ドル中、毎年2億ドル程度の偽造ドルが摘発される中、最近になって国内にも外国人観光客・担ぎ商い等を通して、世界各所から流入する偽造ドルが相当量流通しており、深刻性が高まっており、なおかつ真札と同一の技法により製作され、肉眼及び旧式偽札鑑別器では識別不可能な超精密偽造ドル(別名スーパー・ノートと呼ばれたが、新券はウルトラ・スーパー・ノートと呼ばれている。)の国内流通が増加している。

経済秩序の混乱等、社会安定を脅かす要因に台頭しているが、今年4月、外貨市場が全面開放されれば、偽造ドルが物品販売代金及び不動産購入資金において盛んになるものと予想されており、特に、北朝鮮と国際偽造団が偽造ドルを国内に大量搬入する可能性が提起されている。全世界に流通している4,500億ドル中、3分の2にあたるの3,000億ドルが米国を除く世界各国で流通している。全世界で摘発されている偽造ドルも大部分が100ドル札であり、毎年、1億~3億位の偽札が摘発されており、米通貨当局では、数十億の偽造ドルが流通しているものと推定している。2015年の今日でも、流通している偽ドル紙幣は、偽造防止の処理がされた真券が流通しているのにもかかわらず、大量に、特に海外で流通している。全世界で流通している偽造ドルは、主として中級(オフセット印刷)偽札と超精密偽札(凹版印刷)で、印刷されている。池田守男はオフセット印刷も凹版印刷もよく熟知しており、北朝鮮では非常に重宝がられたに違いない。


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