第3話 雅人と恭子
1
「恭子、今日は警視庁の通訳の雑用はあるのか?今晩は外人を家に連れてきたいのだが、いいかなぁー?」
「えっ、失礼ね、雑用なんて。通訳はちゃんとした仕事よ。でも急にどうしたの?今日は、残業がないからいいけど」
「いやぁ、今、来ているCIAのマイケルと言う人間が四か月も滞在することになってしまって、来週で1ヶ月目なんだ。その間、週末も仕事ばかりで、観光もせず日本の文化を分からせようにも暇が無い。日本という国を誤解している節があるんだ。夕食一回ぐらいで日本が理解してもらえるとは思わないが、いい経験になるだろう。国籍はアメリカ人」
「でも何を作っておけばいいの?」
「なんでもいいさ。外人だからと言って、特に構える必要はない。寿司でも何でも日本で食っているものなら」
「分かったわ。何時ごろつれてくるの?」
「そうだな、多分7時半ごろ」
兄の雅人と同様、彼らの父が殉職した警察官であったことから、恭子も正義感に燃え、警視庁に職を見つけていた。決して裕福な家族ではなかったので、アルバイトをしながら必死になって勉強した。いわゆる、苦学生であった。特に雅人と同様、これから国際問題に対応する必要が警察にもあると信じ、英語は独学でやりぬいた。英会話学校に通わず独自に本と映画で勉強した。英会話が出来ることは恭子にとって当然有利に働き、警視庁でも重宝がられている。官僚的な警視庁にあって、意外にこの「根性物」 ストーリーは持て囃された。恭子が行った方法は、映画ではまず字幕を無視して見てから、もう一回、字幕を見ながら観る。そのあと、字幕で言葉の意味を把握するという方法だ。これで気になったフレーズを書き取っておき、後で丸暗記した。この方法で英語の独特な言い回しを理解していった。お堅い英会話学校ではやらない方法である。お蔭で映画の評論家としての知識もでき、外国人との共通の話題として映画の知識を使えた。副産物として、学校では決して教えない「汚い」言葉も理解していた。
雅人は警察庁で国家公務員であるが、警視庁の恭子は地方公務員である。恭子は兄の仕事を理解しているつもりだったし、そんな仕事の性格から、逆に、仕事に関する細かな質問をしないことにしていた。二人とも、日本の国民の安全のための仕事をしている……というだけで兄妹は十分理解しあっていると思っていた。殆どがデリケートな内容だろうし、それこそ、国家機密であるはずだから。
そんな兄の仕事の関係でアメリカ人を家に連れてくる、と言う。どの様な仕事の関係なのかは想像するしかないが、自分が英語を得意なことのもあって、妙に興奮を覚える。仕事とは言えないが、兄には重要なことだろう。うわついた気持ちで対応する訳にはいかないが、その日は、なんだか妙に落ち着かなかった。それに、今日の献立を決めて、3人分の材料を計算し、買い物と冷蔵庫にある物を勘定しなおして……。決めた料理に使う調味料は充分にあったかしら……。なんだか、楽しい事であっても大変な事になりそう。
2
恭子は夕刻7時過ぎには準備が終わっていた。兄の雅人は男だから気軽に人を連れてくるが、女の私には、部屋の片付けと掃除、洗濯物の片付け、ちょっとは見栄えの良い食器の準備など、料理以外にしておかなくてはならないことが山ほどあった。花を飾ることも忘れていない。女としてここは譲れない。まったく男の人ってみんな無神経なのだから……。お兄ちゃんなんて、絶対にお嫁さんに嫌われるから……。なんて思いながら準備は意外と楽しかった。男と女の兄妹としては同じ信念があるからかもしれないが、絶対に仲のいいほうである、と思いながら、そして、「どんな人が来るのかしら……」 と、考えながら材料を切っている。
ビーッと旧式のブザーがなった。築30年のマンションではピンポンとは鳴らない。「お帰り!」 と出来るだけ弾んだ声で言ったつもり。
「ただいま」 と、雅人は言いながら、お客をエスコート、と言うか背中を押してその外人をドアから部屋に押し入れる。
「マイケル、これが妹の恭子。恭子、こちらがマイケル・マッケンジーさん」 と、堂々と日本語で紹介する。
「はじめまして、恭子」 とマイケルは、たどたどしい日本語で挨拶しながら握手の手を出す。
「はじめまして、マイケルさん」 と、握手を返す。大きな黒人の人。なぜか白人と思っていた自分が恥ずかしい。人種差別を自分が持っていると思わないが、ちょと、うろたえる。
「さぁ、あがって」 とスリッパを差出す。
マイケルはスリッパのおかげで靴のままあがるという失態を演じなくて済んだ。アジア担当になって出張も多いマイケルであるが、ホテルが多く、「畳」 の生活は経験があまりない。韓国では靴のまま上がるという失態を経験している。
3LDKの狭いマンションながら、ダイニングテーブルとソファーくらいはあったので、とりあえずソファーに座ってもらう。
「お兄ちゃん、マイケルさんの上着を脱いでもらったら!?はい、ハンガー!」 なに考えているのよ~……という叱咤の目を向ける。すぐにテレビなんてつけないでよね~……と願った。
「マイケル、今日は日本風でいくからな、覚悟しとけ!」
「分かっている。むしろ、それを楽しみにしていた。間違ったマナーや食べ方があったら言ってくれ」
「今日は、色々考えたのだけど、刺身と肉じゃががスターター(オードブル)でメインはしゃぶしゃぶにしたの。最後に、きのこの炊き込みご飯。デザートは蕨もち」
和風にこだわりすぎたかな?また、組み合わせも「日本風」 が混乱して、ちょっとへんかな?それに自分でも妙な説明だな……と思う。
「恭子、マイケルにはスターター、メイン、デザートは分かっても何が出てくるか判らないよ」 と雅人。笑っている。それを見てマイケルは目を白黒させている。
「マイケル、ビールでいいか?」 と、冷蔵庫からビールを取り出してくる。ビールを用意する事は、どんな男でもできるのね、と恭子は思う。
「ああ、お願いする」 とマイケル。
「恭子も飲むか?」
「ええ少しだけ貰うわ。後でいいワインを買ってあるから栓をぬいてね」 どういう訳か、ワインは男が抜くものと日本では決まっているようである。
3
マイケルは殆どの残さず食べきった。でも、刺身を「寿司」 と呼んでいる。ほとんどの欧米人がそうであるように、マイケルは区別が付いていない。最近では、殆どの欧米のどの都市でも刺身・寿司は食べられる。肉じゃがは初めて食べたようで、箸を不器用に使いながら気に入ったようだ。マイケルの祖母、母親と受け継いできた肉じゃがに似た「Olio」 と言う料理を作ってくれたようだ。きのこご飯も材料が理解できるし、しゃぶしゃぶは、アメリカの日本料亭で食べていたので違和感はなかった。蕨もちは、遠慮がちだったが、一応食べてくれた。
この後、料理、マナー、家庭、家具、交通、服装、など、いろいろな「日本のカルチャーとマナー」 についての話題に花が咲いた。深夜遅くまで楽しい会話が続いた。マイケルは、東洋の意外に理にかなったシステムに驚く。
細かいことが色々発見できた。
たとえば、チップというシステムは北米では、すでに機能していない、と、マイケルは言う。ウェーターやウェイトレスに払うチップは、本来、よりよいサービスに対し個々のウェーターやウェイトレスに支払うもので、「当然の対価」 ではないはずだった。よりよいサービスの向上が目的であったが、今では、サービスの質とは関係のない、当然の報酬という態度で、サービスは決して向上していない。これに反して、すでに、サービス料は自動的に支払いの中に含まれているとはいえ、サービスの内容はチップ制度をもたないアジアの殆どの国のほうが絶対に上である。
さらに、マイケルの話が続く。「ホテルのビュフェスタイルのレストランで毎朝食べる日本にしかない西洋料理は何かわかる?実は厚切りトースト」 雅人と恭子は顔を合わす。「トースト?」 1オクターブ高い声でそろって驚く。
「あぁ、トースト。外側はクリスピー(カリカリ)に焼けていて、中は湯気が出るくらいソフトなのは日本のトーストだけだよ。もちろんトーストは西洋からきたものだけど、アメリカもヨーロッパもどちらかというと硬いパンが多い。あんなおいしいトーストは日本だけ!」 意外なことで楽しい会話が続く。
結局、マイケルはその日、泊まっていった。日本の狭い風呂にはひと悶着があったが、それもいい経験の一つとなった。次の日は土曜で休みなので、ホテルに寄って着替えさせてから、浅草観光をした。恭子は、はじめ言葉少なめだったが、得意な英会話を駆使して昼ごろには、マイケルに対して観光ガイド気取りでいる。雅人にとって、父が暴力団との銃撃戦で殉職し、後を追うように母が死んでから、久しぶりに見る恭子のはしゃいだ姿であった。
なぜ、マクドナルド(McDonald)は「Mc」 なのにビッグ・マック「Big Mac」 は「Mac」 なのか、とか「several」 とは数字でいくつからいくつなのかとか、「quite a bit」 を直訳すると「ほんの少し」 だが、なぜ、「いっぱい」 という意味で使われるのか、などなど、マイケルにも答えが分からない質問が続出した。恭子は普段、疑問に思っていたことをすべて吐き出したようだ。そんな些細な事がきっかけで、二人の付き合いが、結婚まで発展する関係になるのに一年とかからなかった。マイケルが帰国してもメールのやり取りが続き、休みが取れると、お互いの国を訪れていた。
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