第12話 黒い獣

 復活した魔神がぶち抜いたという天井の大穴を、その崩れた瓦礫を伝ってなんとかよじ登り、外へ出る。ハルトが縁に腕をかけて顔を出すと、そこは森の中だった。アルグが悠々と脇を飛び過ぎて、周囲の木立よりも高く舞い上がる。空はまだ青く、日は充分に高い。

 最後の一踏ん張りに体を持ち上げて、ハルトは草地に座り込んだ。急ぎたい気持ちはある。でもさすがに、これは、大変だった。

 アルグがぐるり一周見渡してから戻ってくる。

 どうやらここは、町にほど近い山中らしい。遺跡の入り口は山の奥深くにあったのに、その最奥は町の側の地中にあったのだ。町の方角に首を伸ばせば、木々の向こう側にその家屋が見下ろせそうだった。

 それに聞こえる。

 物騒な物音。

 胸を揺さぶる、獣の咆哮。

「!」

 はっとして、ハルトは汗を拭うのもそこそこに立ち上がった。

 大穴の周りは樹木がへし折れ踏み潰されて、いびつな円形の空き地のようになっていた。どんな力を加えればこんな有様になるのか。めちゃくちゃという表現がぴったりだ。その光景だけで、ハルトはぞっとした。

 それは山の斜面を下り町へと向かっていて、荒っぽい道を作り上げていた。

 よく見ると、踏み荒らされた草の中には、そのまま萎びているものがある。それらの草には一様に黒い染みのようなものが付いていて、土までが妙に黒っぽく変色していた。夢で見た、古の場面に似ている気がした。

「枯れてる」

『触るなよ』

 アルグが肩に降りながら言う。

 あんな黒いどろどろべたべた。気持ち悪いので触ろうとも思わないけれど……。

 反応の鈍いハルトに、赤い鳥がため息を吐いた。

『神話だ、神話。

 魔神の体は全て毒で出来ている。

 この世の生き物を例外なく死へと追いやる、猛毒だ』

「……!」

 ハルトは息を詰めて瞬きする。急に、目の前の景色が恐ろしくなった。アルグの声も低く切実さを帯びる。

『見ての通り土地も汚染する。触れれば最期か……。解毒薬は聞いたことがない。

 ぐずぐずしている暇は無いぞ。再びアレを封印する手立てがあっても、コードリッカは取り返しのつかないことになる』

 強く、うなずく。

 頭に浮かぶのは、あの人が見せてくれた恐ろしい光景。——あんなこと、させない。

 走り出す。

 アルグが羽音をさせて飛び立った。

 澄みきった胸にある想いに突き動かされるまま、ハルトは坂を転げ落ちるように駆けた。



 徐々に見えてきた町並みに、血が凍るような気分だった。ソレの姿を間近に目の当たりにして、ハルトはただただ立ち竦んだ。

 分かっていたはずだった。夢で、その姿を、その所行を見せてもらっていたから。でも実際にその場に立ち、その存在を肌で感じるのは、まるで違った。

 黒く巨大な獣が町を破壊している。

 大きい。とても大きい。熊よりも、並木よりも、建物よりも——大きい。でも、かつてよりはずっと小さかった。あれは町の大半を覆うような巨大さだったけれども、これは元が心臓だけだからか、獣の姿になっても普通の民家の二三軒分くらいだ。——それで充分過ぎるほど巨大なのだけれども。

 見た目も少し違った。

 真紅のまなこ、緑や紫の艶を含んで湿った長く黒い体毛はそのまま。ずんぐりしていた体はいくらかほっそりと引き締まって、逆に四肢は太く逞しく育ち、もはやかつてのような儚さは消えていた。地を這うばかりのようだったのが、今は立って俊敏に動き回る。

 かつては確かに赤ん坊だった。それが時を経て成獣になったのだ。ハルトにはそう見える。そのおぞましさも醜さも変わらない。あれと同じ黒い獣。

 魔神ムルガン。

 それが、屋根の上から顔を覗かせて、全身をビリビリ震わせる声で吼える。ハルトがずっと暮らしてきた町を、ハルトの故郷を、壊してしまう。

「やめて!」

 と、叫びたかった。そう出来なかったのは、喉を枯らす畏れのせいでももちろんあったけれど、荒れ狂う巨大な獣の頭にあるのが腸を燃やし尽くすような怒りだけで、周囲の状況など何一つ目に入っていないからでもあった。

 長い歳月封じ込められていた不満を、目の前にある物を壊すことで発散しているだけ。前脚で叩いて壊れないなら、鼻面で押してみる。それでも駄目なら巨体ごとのし掛かる。小さい生き物がわちゃわちゃと群がって尖った棒で突ついてくるから、鬱陶しいので薙払う。大きな体で身動きするたび思いも寄らない建物にぶつかって、そのまま押し潰してしまう。そんな思うようにならない小さな苛立ちが、さらにさらに怒りを募らせる。ざらついた低い声を限りに吼える。

 なんというのか、成長してもやっていることはあまり変わらないのかもしれない。賢さの欠片も感じられない。憐れな獣だ。

 知っていたハルトでさえ恐れおののくばかりなのだから、町の人はどれほどだろうか。

 恐らく、突如として山中から現れ町を襲った巨大な化け物が何なのか、ほとんどの人が分からないだろう。彼らにとって魔神は、未だ架空の存在だ。あれが神話の魔神だなんて、誰も思わない。それでも、正体不明の化け物が着実に町の中心に向かっていて、住み慣れた町を蹂躙しようとしているのは分かる。その不気味な姿形や正体の知れなさが、より一層の恐怖を煽る。人々は驚き、恐れ、悲嘆して、わけが分からないまま逃げ惑う他なかった。

 ムルガンから溢れる怒りの感情だけでハルトの頭は割れそうなのに、町はそれ以上の混沌とした空気——一つ一つが混ざり合わずに渦を巻く、強烈な感情の嵐に包まれていて、胸まで気持ち悪かった。今にも、うずくまってしまいそうなくらいに。

 ——でも……。

 ぐっと拳を握り、奥歯を噛みしめてハルトは堪える。

 先まで行って様子を見てきたアルグが、間違ってもムルガンに目を付けられないように低く飛んで、ハルトのところへ戻ってきた。翼を広げて速度を落とし、正面からハルトの腕の中に収まると、珍しく疲れたような息を抜く。

『吐息にも死の毒が含まれているのだったか。鳥の身にはちとキツい』

 アルグが首を巡らせて、向こうにいるムルガンを見遣る。ぐるるるる、と低く唸る口元から、黒い霞のような吐息が漏れている。それが空気に広がっているのか。直接触れるよりは薄い毒素でも、吸い続ければ肺をやられてしまう。それは人間も同じだ。

『……最悪の形で証明されてしまったな』

「…………」

 それもいつになく重苦しい囁きだった。

 魔神はいる。それはこれではっきりした。こんな証明のされ方は、きっと少しも望んでいなかったのに。ハルトにだって分かる。こんな形でいいのなら、オルレインはもっとずっと早くに成せていただろう。

 痛む頭を意識する。ムルガンの怒りを、自分のものだと錯覚してしまいそうだった。

「……ハ、ハルトぉ……」

 地震と怒号が断続的に続く中で、どこからか、泣き出しそうな声が聞こえた。あまりにか細い声だから、通りを二つ三つ挟んだ先にある凄まじい物音の半端ない存在感に紛れてしまって、一瞬、空耳かと思う。しかし、自分に向けられている意識は確かにあって、ハルトは辺りを見渡した。

 見付けるのに数秒。声の主は道の隅っこにいた。隅も隅だった。民家の軒先に出された植木鉢と並んで、ひっそりとうずくまっている。控えめにハルトを見つめる、キィナだった。

 小走りに側へ。膝を抱えて頭を伏せる彼女は、誰が見ても分かりやすく怯えていた。それでも近寄るハルトを追う黄色の瞳には、いつもの暖簾のような前髪は下がっていない。恐くて恐くて堪らないから、何も見たくない。けれど、だからこそ、見ずにはいられない。

「大丈夫?」

 キィナは微かにうなずく。

 見たところ、擦り傷のようなものはあっても、大事になるような怪我はしていないようだった。

「あ! ハルト! 良かった、合流できたんだ!」

 振り返れば、慌てふためく人の流れに逆らって、サビーノがやって来る。横目にムルガンを見て青ざめた顔をしているものの、こちらも元気そうだ。

 ハルトが首を傾げると、先回りして言う。

「どうしてって? 宿のみんなに頼まれちゃったんだよ。ハルトたちの無事が確認できなければ絶対に避難しないって、女将さんが梃子でも動かないから。今、みんなで説得してるところ」

 サビーノは己の気を紛らわせるために、強いて肩を竦めてみせた。

 それはとても女将さんらしい。常連のお客さんに囲まれながら、椅子に座って鼻息荒く腕を組む姿が想像できて、ハルトをほんの少し和ませてくれる。同時に心配にもなった。今のところ、被害は金枝亭とは町の反対側に留まっているけれど、それも時間の問題だろう。

 しゃべっていないと落ち着かないらしい。サビーノが口早に状況を教えてくれる。

 魔神が現れたのが内陸方面の町外れだったので、とりあえず町の人たちは、その反対側になる港へ避難しているらしい。町の保安を管轄する警備隊やたまたま居合わせた腕自慢たちは、状況を呑み込めないままに、避難誘導や逃げ遅れた人たちの救助に当たっているのだとか。

「避難はしてるけど、飛空船に島民全員乗れるわけじゃない。あのまま放っとくと、この島自体がヤバいって気がするけど……」

 サビーノの不安げな声に、キィナが膝の上に瞳をのぞかせる。

「……あ、あんな生き物、見たこと無いよ……」

 自分の震え声に、より強く、細い膝を抱える。

「……む、無理だよ……。

 だって、見えるの。体を作る一粒一粒が、ぜんぜん違う。命が、どんどん溢れてくるみたいなの……。あんなの、どうしたって死ぬはずない。

 触れないし、死なない生き物は……倒せないよ」

 髪を揺らして首を横に振る。キィナは恐怖でだけそう言っているのではなかった。彼女の優秀な『目』は、否応なしに気付かせてしまう。生物としての格の違いのようなものを。人間が敵う相手ではない。神話の時代から、分かっていたはずのことだ。どうすることもできない。だから——復活させてはいけなかった。

「魔法は?」

 それならば、足止めだけでもできないだろうか。ヴァイオレットがそうしたように、氷漬けにでもして。魔法ならば遠くから攻撃できるので、魔神の毒に触れる心配も無い。

 ハルトは腕の中のアルグを見て、それからサビーノを見た。サビーノは痛ましく顔をしかめて首を横に振り、後ろ頭をかく。

「それが……魔法、使えないみたいなんだ」

 警備隊も、最初は巨大な獣をどうにかしようと、立ち向かったらしい。しかし剣や弓ではどうにもならない。近付くだけで危険だと直ぐに分かった。だから当然のように魔法で対処しようとした。ところがどういうわけか、誰一人として魔法が使えなくなっていた。魔法使いたちは原因が分からず、途方に暮れるばかり。仕方なく、これ以上住人に被害が広がらないように、彼らは救助活動をしているのだそうだ。

『やはり、か……』

 アルグが思案げに嘴を上下に振る。

「警備隊の魔術部隊だけじゃなくて、外から来た人も突然使えなくなったみたいだった。あそこにいるヤツ以外は——」

 サビーノが横目に見た先。そう離れていない通りの向こうの屋根の上に、黒い影がある。粉塵に外套をはためかせる、影の魔術師サウザング・ギイド。その傍ら、足下の地面にはヴァイオレットもいる。

 その主従の表情は対照的だった。

 ヴァイオレットはひどく強ばった顔で町を見渡していた。そこには、これまでのような余裕も虚勢も見受けられない。キィナと争った結果なのか、乱れた髪もそのままに、震える手で大きな帽子を胸に押さえつけるように抱く。

(魔神……本当にいたなんて……)

 ギイドが探し求めたモノだから、それに疑問を差し挟まなかっただけで、ヴァイオレットは心の片隅ではずっと、信じてなんていなかった。

(わたし……とんでもないことを……。

 どうして、こんなことに……)

 思いかけて、紅い唇を噛みしめる。

 分かっていたはずだ。ギイドはそもそも世界の破滅を望んでいるのだから。こうなることは当然だった。それでいいと思った。どうなってもかまわない、と。でも……——。

 一方のギイドは、淡々と見詰める。

 目的を達成して喜ぶでもなく、破壊される町並みを楽しむでもなく——いっそ、怒りに任せて暴れる醜い獣を汚らわしいと思い、逃げ惑うだけの非力な人々に嫌気がさしている。それだって、表層を僅かに揺らす一時の波にすぎず、水面はどこまでも静けさのうちにある。

(心臓一つではこの程度。これでは全てを破壊するのにどれだけ掛かるか。さっさと他の封印も解いてしまわないと——)

 小さなため息さえ漏れる。彼にとってこの町は、大きな目標を達成するための第一歩でしかない。

「…………」

 ハルトはその姿を、眉を険しくして見上げた。

「どうしよう、ハルト……。

 このまま世界は終わっちゃうの?」

 黄色の瞳に涙を滲ませて、キィナが上目に見つめる。町には変わらず獣の唸りと破壊の轟音が響いて、地面は揺れ、細かい瓦礫が降り注ぐ。

「そうだ!」

 と、拳を打って声を上げたのはサビーノだった。

「神器だよ! 神器!

 神話では神様からもらった神器で魔神をやっつけるんだ! どっかの博物館に飾ってあるの見たことある! それを持ってくればどうにかなる!」

『残念』

 意気込んで言うサビーノの言葉に応じたのは、鳥ながら難しい顔をするアルグ。ハルトは慌てて通訳する。

『ここから最も近い場所にあるものでも、数日は掛かる。それに現存するのは全て模造品だ。神話で使われた実物ではない』

「そうだった!」

「誰かさんが壊しちゃったから」

 キィナに恨みがましい視線を寄越されて、アルグは居心地悪そうに首を縮めた。くちばしの中でもごもごと言葉が詰まる。

『別に、壊したくて壊したわけでは……。ただちょっと、復元できなかっただけで……。

 しかしなるほど、神器か……——』

 最後だけは、何か核心を得たような呟きだった。ハルトは首を傾げる。

 ばさり、と頭上で布が音を立てた。

「帰るぞ、ヴァイオレット。

 もうここに用は無い」

「……っ。は、はい!」

 外套を払って足下に一瞥をくれるギイドに、ヴァイオレットが一拍遅れて上擦った返事をした。立ち去ろうとする二人に、アルグが「クェエッ」と大きく鳴いた。

『ああ、待て待て!』

「?」

 ハルトの腕から飛び立って、そのままヴァイオレットの頭の上へ。妙な鳴き声に呼び止められ、振り返った少女は完全に虚を突かれ、されるがまま、抵抗する暇もなかった。

 なんだか見覚えのある格好で、アルグが頭の上へどっしりと腰を下ろしたその途端、

 群青色の魔法陣が虚空に瞬いた。

 少女の全身が強ばり、頭の赤い鳥が力を失って落ちる。

 それを、白く細い腕が優しく受け止めた。もちろんヴァイオレットの腕だ。

 魔女は、不適な笑みを、その真っ赤な唇に乗せる。それまでとは明らかに違う、確かな自信に裏付けされた笑み。ゆるりと開かれた瞳が、日が落ちたばかりの薄闇と同じ、群青に彩られていた。

 直ぐに鳥も目を覚ました。菫色のつぶらな瞳でその人物と向き合う。その瞬間、驚き慌てふためいて、真っ赤な鳥は細い腕から転げ落ちてしまった。両の翼を広げてくうを打つものの、まるで飛び方を忘れてしまったみたいに、羽を散らすばかりで下降する。

「あっ……」

 そういうことか、と思う。ハルトは慌てて拾いに走った。地面すれすれ、なんとか受け止める。

 その側で優雅に振り返る魔女。手にした帽子を風に流すように手放すと、それは溶けるようにして消えた。同じ手で肩に掛かった己の長い髪を滑らせる。今、櫛で梳いたように、髪は美しく流れた。紫紺の服までが整ったようだ。

「ほう」

 ギイドが立ち止まって、言った。

「体を入れ替えたか」

 魔女は唇の笑みを返事として、細い腰に手をついてみせた。

「いかにも!

 我が名はアマランジル・アルグカヌク。

 この世で最も偉大な魔術師だ」

 そう言い放つ声はこれまでと同じ花の音。しかし少女特有の明るさは抑えられ、低く落ち着いて——貫禄さえ漂わせる。

 体を入れ替えたというか、意識を交換したというか。ハルトにははっきりと分かる。その人から発せられる感情の、固有の波長のようなもの——恐らく、魂と言ってもそう違いのないものが、そっくり入れ替わっている。つまり、今ハルトの腕の中にいる鳥がヴァイオレットなのだ。

「はあっ??」(今、なんて名乗った?)

 という、サビーノの遅れた驚きはさておき。

 勝手に鳥にされてしまったヴァイオレットは、状況についていけないらしかった。始めは思うようにならない体に混乱して暴れていたものの、今は口を——嘴をぱくぱくさせるだけで、なんの声も出て来ない。それもそのはず。呆然と目の前にある己の体を見つめる頭は、ただただ真っ白。少女の体を得たアルグの方はむしろ活き活きして見えるだけに、ハルトは気の毒の言葉しか思い浮かばなかった。

 ヴァイオレットの姿をしたアルグが、手の平を何度か握り、一通り身体の具合を確かめてから、ひとつ大きくうなずいた。

「多少勝手は違うが、問題なく魔法が使えそうだ。これなら魔力の波長を追われる心配も無い」

 ふわり、とその足が地面を離れ、何もしていないのに体が宙へ浮かび上がる。

「…………」

 ヴァイオレットが着ているのは、ワンピースだ。つまり、スカートを履いている。そんな風に空を飛んだら——下から、見えてしまはないだろうか……?

 自然とその姿を目で追おうとしていたハルトは、思い至って慌てて片手で目を覆い隠した。その指の隙間から、ちらとのぞき見える。

 ——女の子の服のコトはよく知らない。紫紺の衣服を身に纏う少女は、風に広がるスカートの内に、ぴったりとして丈の短い股引のようなものを履いていた。心配……するまでもなかったらしい。こんな時なのに。指の隙間に恥じいる。

 アルグはそのまま屋根の高さを通り過ぎて、ギイドよりも高く舞い上がる。その姿を横目に、ギイドはどこか気怠げに聞いた。

「それで、どうする」

 アルグは笑って腕を組む。そうして胸を張る姿は、いつでも自信満々のアルグの仕草そのものだった。徐々に思考の戻ってきた鳥のヴァイオレットが、そんな様子をはらはらと見守る中、賢者の人格を宿す魔女は、至極楽しそうに言ってのける。

「いざ、尋常に勝負! というのも面白そうだが。

 この体でおまえと戦うのは忍びないし、なにより本人から指名されてしまったのでね。

 私の相手は、あちらなのだよ」

 群青の眼差しが遠くを見遣る。

 あの高さからなら、はっきりと見渡せるのだろう。その眼差しの先には、黒い巨体で町を破壊する魔神ムルガンがいる。建物に隠れて頭の先しか見えなくても、その強烈な存在感は薄れることなく、ハルトにもはっきりと感じ取れた。

 アルグはさらに高く、そして前へ、空を渡って進み出る。

 広い空に少女が一人。地面に顔を向け、民家を前脚でほじるのに忙しいムルガンには、そんな小さな点は目に入らない。

 長い黒髪を風に晒して、

 魔女は虚空に巨大な魔法陣を描き出した。

 紫でも青でもない、それは輝く真紅。空を染めて弾けるように瞬いたかと思うと、入れ替わりに、金色が、どこからともなく滑るように生み出された。

 陽光を照り返して煌めく、金の槍。

 傍らに佇む少女よりもすらりと長い。細く、柄に繊細そうな装飾まで施されているのに、武具としての重厚な威風を損なわない。石突きから刃の先まで曇りのない金色が、首を真上に仰ぎ見るハルトにも、思わずため息が出る、神聖さのようなものを納得させる。

 なにより——。

 知識の無いハルトが一見して見事な品だと分かるその槍が、一振りあれば充分なはずのその槍が、

 次から次へと、

 これでもかと呆れるほどに、

 いくつもいくつもいくつも、

 空を埋め尽くしてずらりと並ぶ。

「……すごい」

 口を間抜けにぽかんと開けて、ハルトは最早そうとしか言えなかった。

 金の輝きの中心で、アルグは胸を張って得意げに言った。

「神器・千枚通し。

 実際の槍は一つだが、これらは全て本物だぞ」

 魔法だからこんなことができる。

 さすがに、これだけ派手な現象が背中で起きれば、魔神も気付く。ブグブグと鼻を鳴らして、ちかちかする金の光に首を巡らせる。魔女はいくらか眼差しを厳しくして、魔神を見据えた。

「さあ、いくぞ」

 おびただしい数の槍が一斉に動いて、切っ先をムルガンに向けた。次の瞬間、流星のように尾を引いて、鋭く地面に降り注ぐ。連続する重い物音。金の槍がムルガンの硬い皮膚を貫き刺さる。狙いが外れ、勢い余った何本かが、側にあった家をぶち抜く。

「ブキギャアーーーッ!」

 どずぅぅうぅんん……。

 悲鳴が大気を震わせ、倒れる巨体が地面を揺らす。建物を避けて下がっても、ハルトにはそれらの様子は見えなかった。キィナが代わりに見通して教えてくれる。

 建物を押し潰して、その瓦礫にまみれて倒れたムルガンの黒い体の下から、どろっと赤い血が流れた。周囲の土を黒く染める。

(おっと。あまり血を流させてはいけなかったな)

 ムルガンは程なく立ち上がった。始めについた前脚にはやや力が入っていなかったものの、直ぐにぴんと立ち直って、槍を体に生やしたまま、水気を払う犬のようにぶるぶると全身を震わせる。倒れた時は確かに傷を負っていたはずだった。しかしもう治ってしまったのか、その姿には少しも堪えた様子が無い。そしてギラリと、空にいる魔女を睨む。

(こ、これはなかなかにやっかいだぞ……)

 上辺は口元に笑みを浮かべたまま、アルグが内心本気で汗をかくのを、ハルトは初めて目にした気がした。神器では傷つけることはできても、やはり倒すことはできないのだ。

「ギャオォン!」

「!」

 ムルガンが憎い相手に一声吼えて、尻尾で手近な瓦礫を弾いて跳ばす。アルグは咄嗟に身をかわしながら、残った槍の柄でぺしんと瓦礫をはたき落とした。わざと狙ったのか、それは傍観するギイドの真上へと飛来した。

 ギイドは億劫そうに岩の塊を見上げると、片腕を振り上げる。足下の影が宙へ伸びて、岩を包み込むように軌道を逸らし、そのまま傍らへぽいと捨てる。

「ハ、ハルト! やばいやばい!」

 キィナに力一杯腕を引かれて、ハルトは一瞬、ギイドの避けた岩がこちらに飛んで来るせいかと思った。しかし、違った。ぜんぜん規模が違った。触れられたことで、キィナの目に焼き付いた光景が見える。

 ムルガンが、空中にいる魔女を前脚で叩こうとでもいうのか、後ろ脚に力を溜めて思い切り跳躍する。もちろん、ひらりと避けるアルグ。そんなことは関係ない。ムルガンが跳んだ方向は、そのままハルトたちがいる方なのだ。

 危ないところだった。

 間にあった建物を押し潰し、黒い獣が降ってくる。あり得ない衝撃と桁違いの地震に、慌ててその場を離れたハルトたちもまた、地面に倒れ込む。

 なんとか巻き込まれないで済んだ。

 ハルトはよろよろと体を起こす。

 ぎょっとするほど間近に、ムルガンの顔があった。

「ブグクク……」

 大きい。大きすぎる。不満に声を漏らす巨大な口の隙間から、巨大な牙が見えている。湿気て波打つ毛並みまで、はっきり見える。不意に顔を上げる、真紅の瞳と目が合った。体が、硬直する。

 小首を傾げる獣の横面に、

 火の玉が弾けた。

「余所見をするな。

 おまえの相手はこちらだ」

 ブヒン! と頭を振って、首ごと意識がそれる。

 ハルトはほっと肩の力を抜く——暇もほとんどなく、怒りの咆哮を側で聞くことになって、耳が割れるくらいに痛かった。その上首根っこを掴まれたと思ったらサビーノで、無理矢理にハルトを立たせると、片手に赤い鳥を抱えて走る。ハルトも足をもつれさせながら走った。

 背中で、また槍の降り注ぐ音がする。

 今度の槍は、ムルガンの体を掠めるだけで刺さらない。傷つけないけれど充分気に障る箇所を狙って、効果的に注意を引く。そうして標的を完全にアルグ一人に絞らせておいて、アルグは森を背に後ろへ下がった。これ以上、町の中心に行かせないためだ。あれだけの獣に狙われていてなお、それだけ冷静に行動できる。それはどれだけの胆力か。

 走りながら、その様子を見上げたハルトは、ほんの一瞬、アルグと目が合った気がした。

 ——こっちは任されるから、そっちは好きにするといい。

 遠すぎて、ハルトでさえその心中は窺えない。けれどもハルトにはそんな意図だと汲み取れた。気のせいかもしれない。それでもいい。そうと決めつける。ハルトは見えないと分かりつつ、固くうなずき返した。

 足を止めて振り仰ぐ。

 ギイドもまた、ムルガンから逃れて別の屋根へと移動していた。なにかの商店の平らな屋根の上。ハルトはそこで戦況を見守る影の魔法使いをきつく睨む。そんな経験無いから様になっているかは知らない。正面から向き合って、ぐっと腹に力を込め、大きく息を吸った。

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