第13話 心
「ぼくはあなたが嫌いです」
精一杯張り上げた声は掠れていた。昨日からずっと、通訳をやり続けたせいだ。いつにも増して喉を使っている。格好は付かないかもしれない。それでも、ハルトには言いたい事がある。
ギイドが半身のまま、黒い眼だけをハルトに向けた。感情の乗らない冷たい眼差しが、真っ直ぐに見下ろす。今、それと向き合っているのは自分だ。ハルトは喉を鳴らしながらも、両足を踏ん張って、受けて立った。ここは引けない。
「…………」(ハルトがこんなはっきり
脇にいるサビーノの静かな驚愕が感じ取れる。ハルト自身も、自分がこんなにも他人を嫌いになれるとは知らなかった。
普段のハルトは他人を嫌いになれないのだ。
どんなに嫌な人だとしても。
ハルトにはそうする人の心情や本音、そうなった事情——人生まで、分かってしまうから。時にはその人自身よりもはっきりと。だから例えハルトやハルトの大事な人が傷つけられても、それを理解して、納得して——許せてしまう。
ただ同情しているだけなのかもしれない。損をしているのかもしれない。それでも、誰の気持ちも見透かして寄り添えるハルトには、他人を嫌いになるのが、とても難しい。
だから初めてだった。
こんな気持ちは。
ギイドの目的を聞いたあの時。そして今。ハルトの
知らなくていいと思った。
知りたくもない。
たとえそれを知っても、ハルトはこの人が嫌いだ。たぶん、嫌いでいたいのだと思う。
山の中の遺跡でギイドの話を聞いたあの時、深く底の見えない淵を覗き込んだような真っ暗な意識に直面して、真っ先に怖いと思った。それは本当だ。でもハルトはその裏側で、彼の想いをイヤだと思った。否定したくて堪らなくなった。ギイドの想いだけは許容できない。
それが今あらためて、よく分かった。
ハルトもまた真っ直ぐに、空を映す透明な瞳で見上げる。
「あなたは拒絶したんだ。
世界の全てが嫌いだから。
世の中は確かに醜くて、汚いのかもしれない。でもほんの少しでも、美しいものも清らかなものもある。それを理解しながら、そのどちらにも意味が無いって、嫌悪してる」
正直に言えば、ハルトは彼の見る世界を、たぶん理解してしまえる。ハルトの才能は、人の内面のきれいな部分も見えるけれど、汚い部分もそのまま見せる。立前や本音も。その裏表が上手く処理できなくて、悩んだ時期もある。今だって難しい。
ハルトの狭い世界でさえそうだ。
世の中にはもっとずっと、目を背けるしかないような嫌なもの、醜いものもあるのかもしれない。きっとあるのだ。
でも、人間とはそういうもの。
世界もそういうものなんだろう。
ハルトはそうやって、向き合っていくしかなかった。だって、どちらも尊いものなのだ。きれいなもの、汚いもの、両方混ざっているからこの世はすごい。
ギイドは、受け入れなかった。
諦めず、染まらず、ずっと嫌い続けている。
「だからって、壊さないでよ」
そんなのは我が儘だ。
この世界が好きだと言う人がいた。ハルトも好きだ。ハルトがこれからもっと知りたいと望む世界だ。
「それに魔神を使わないで」
ギイドにとってはただの手段かもしれない。でも元は父の研究だ。それに、破滅を望んだのはギイドで、彼じゃない。
「ぼくのお母さんの形見、返してよ!」
肩で息をする。
なんだか、駄々をこねる子供みたいな言い回しになってしまった。でもいい。どうせギイドだって、子供っぽい強引な理屈で動いているのだ。ハルトも正義感ではない。主張の相違はあるのだろう。正反対だから対立するしかない。でも突き詰めればそんな理屈ですらなく、ただ感情的に大っ嫌いなのだ。ただムカついただけ。だから彼の望みは叶ってほしくない。叶えさせない。邪魔してやる、そう決めた。
「ぼくはあなたが大嫌いだ」
もう一度言葉にする。
周りの人が呆気にとられている気配がひしひしと伝わる。それはどうやら、言われたギイドも同じだった。まさかそんな事を言われるとは思っていなかったのだろう。彼にとって、ハルトはおまけの子供なのだから。
「——ハルバート、とか言ったか」
黒い外套を風に広げて向き直り、ギイドが言う。少しも揺らがない眼差しが、静かにハルトを見下ろす。そしておもむろに懐に手を差し入れ、取り出した。若草色と桜色の透明な石。その二つを手に持って、掲げて見せる。
「こんな物、もう必要ない」
「ッ!」
ぽいっ、と放り捨てる。
ギイドは屋根の上、高い位置にいる。下は瓦礫の散乱する地面。落ちればガラスで出来た飾りなんて、簡単に割れてしまう。
あまりに唐突で予想だにしなかった事態にただただ驚いて、考える前に体が動いていた。ハルトは足を前に、駆け出す。間に合うはずが無い。しかも落下する飾りを追うばかりで疎かになった足下がつっかえて、盛大に転けた。
ものすごく痛い。
そして届かない。
急いで身を起こし、顔を上げたハルトは、そこで愕然となった。
飾りが落ちる、地面すれすれで、影がにゅっと伸びた。
ぺらぺらの紙のような黒い手が、それら二つの鍵を受け止める。音もなく、優しく。そしてそのままギイドの下へ届けた。
「と、言いたいところだが。
これは他の封印を解くのにも使う。壊れたらオレが困る」
——ひどい……。
地面に寝そべったまま、何事も無かったように陰気なだけの声を聞く。
あれで別に、ハルトをからかって面白がっているわけではないのだ。ただの思い付きでこういうことをするから質が悪い。悪い言い方をすれば、ギイドは諸事適当なのだった。その場限りの瞬間的な判断で物事を決めているから、ハルトにさえ、直前までその思考が読み取れない。行動を予測できない。頭の回転が恐ろしく速いのか、勘が鋭いのか。そんな投げ遣りとも取れる態度で場を乗り切れてしまうから、ハルトとしては余計に不気味だった。いっそ、落ち着いた物腰が思慮深くも見える——他の人にはそう見える、らしい。
ギイドが真っ向からハルトを見据えた。それは魔神やアルグに注ぐのと同じ視線。
「これを渡す気はない。
欲しいのなら力で奪え。
それが世の習いだ」
その気迫に負けじと、ハルトは地面の上で拳を握り、ぐっと喉を詰まらせる。その通りだとは思う。ハルトはギイドを否定した。否定とは敵対の意思表示だ。それは望むところ。でも戦う術を持たないハルトには、どうやってそれを為すのかが問題だった。
「同感だな。
口にしたからには、行動で示さなければ」
ハルトの心中を代弁するような声は、空から降ってきた。いつの間にか、ムルガンの相手で手が離せないはずのアルグがそこにいた。白い指先と金の槍先がギイドに向いている。完全に意識の外だったギイドは、回避が遅れた。
数本の、金の雨が降り注ぐ。
ほんの一歩、足を出しかけたギイドの周囲を、槍が貫いた。
始めから当てるつもりはなかったらしい。金の槍の一つがギイドの足下にできた影に突き立った瞬間、魔法使いは軋んだように動かなくなった。無理のある体勢のまま、身動き一つできない。
「影を縫い止めた。
私にだって影は使えるぞ」
「…………」
忌々しそうに、ギイドが魔女の姿で笑うアルグを睨む。その無防備な手には、鍵が二つ握られている。あそこに登れば、難なく取れてしまいそうだった。
ハルトはきょろりと周囲を見渡して、積み上がる瓦礫の山を確かめる。そう言えば、さっきから静かになっているけれど、ムルガンはどうしたのだろうか。気になっても、建物に遮られて向こう側は見えない。察したキィナが、なにやら戸惑いがちに言った。
「ぶっとい鎖で地面につなぎ止められてるみたいだけど……」
不安に揺らぐ黄色の瞳が物語る。
「!」
背中から思い切り殴られたような、それまでにない大音量の咆哮に、ハルトは勢い振り返った。
膨れ上がった怒りが形を持って押し寄せて来るのかと思った。
それは土砂と瓦礫を伴う力の波だ。元は心臓だけに凄まじい力だった。ムルガンが力任せに鎖を引き剥がし、その踏ん張った足で地面をえぐり、さらにその余波が建物を薙払いながらこちらに向かっているのだ。
「ちっ!」
もちろんハルトは慌ててその場を離れたが、一番に危なかったのは動けないギイドだった。
舌打ちすると、ギイドの足下に黒灰色の魔法陣が現れる。何かが割れる澄んだ音をさせて、ギイドの体から力が抜けた。影の呪縛から解き放たれ、片足を半歩後ろについて体勢を整えると、そのまま身を翻して地を蹴る。
(抜けるのは容易い。が、狙いは別か)
走りながら、ハルトはそんな内心の呟きを聞く。よく分からないけれど、ギイドはアルグのせいで影の内に入れなくなってしまったらしかった。影から物を取り出すことも、しまうこともできない。つまり今だけは、影に身を隠してこの島から逃げ去ることもできないのだ。
その為の一手だった。ハルトの為のアルグの援護だ。
ギイドが身軽に跳び離れた時には、既に衝撃は足場にしていた建物にまで届き、半ば崩れ始めていた。そのせいで思ったよりも力が入らなかったのだろう。ギイドは空中で体勢を崩す。直ぐに他の岩を足場に跳び直したものの——、
その手から、透明な石がつるっと抜けた。
「!」
「!」
偶々そちらに気を向けていたハルトも、それを目にした。
瓦礫と共に落ちる、魔神の鍵。
ハルトは形振り構わず走った。砕けた石が当たるのもかまわない。今度こそ。それに飛びついて、掴み取る。
着地のことまでは考えていなかった。
ごつごつした地面に強か転がって、その上いろいろ降ってきて、わけが分からないまま立ち上がり、また駆ける。
嵐から逃げ切ったところで漸く、手の中に握り締めた物を見る。
「…………」
それはよりによって若草色の方だった。
顔を上げた先で、ギイドの視線とぶつかった。
ハルトはその無言の圧力に気圧されて、半歩後退りした。
足下、それに建物、周囲にある影が不穏に揺らめいたかと思うと、
キィナがギイドの横手から飛び出して、両手に一振りずつ持った刃で斬りつけた!
「——……」
それをギイドは紙一重で避けてみせた。まるで分かっていたかのように。たった一歩、無造作に後ろへ下がっただけで。
(これ、避けるのっ!)
キィナの機を計った一撃は、ギイドの目深に被った頭巾を後ろへ下げる役にしか立たなかった。空振りしたキィナは、ギイドの脇を通り抜け、地面を擦りつつ振り返る。驚愕したまま、間を置かずに踏み込み、また斬り掛かる。
すばやすぎて、ハルトにはその刃の動きを目で追えない。ギイドは続く切っ先も身一つでかわし、そして腰の脇に手を差し入れると、黒く細長い物を取り出した。避けきれなかったキィナの剣を、その何かで受け止める。
甲高い音をさせて、キィナの軽い体が弾かれた。
「!」
それは影で作ったような剣だった。
真っ黒の——それでいて半分透けているような不思議な刀身。時折、実体が無いかのように揺らいで見える。それでも金属の硬さ、鋭さはあるらしい。ギイドが振るい、刃を合わせる度に澄んだ音をさせる。
その上、細い体躯からは想像がつかないほど、ギイドは間違いなく手練れだった。
ハルトが見ても分かる。
キィナだってかなりすごい部類だろうに、天眼を持つ彼女の的を射た技に狂い無くついていき、また決定打を与えない。むしろ、押し返してしまう。忙しく動くキィナと比べると、少ない足捌きでほとんど立ち位置を変えずにしのいでみせるギイドの方が、ハルトには余裕があって、上手に見えるくらいだった。
「踏み込みが甘い。
何を恐れている」
そうしてほんの数度、刃を合わせたギイドが、キィナの突撃を押さえながら、低く言った。驚くキィナの足が、勢い余って僅かに浮く。
腕の振りで体ごと押し返すと同時に、刹那反応の遅れたキィナの腹に、強烈な蹴りが叩き込まれた。見ているハルトが思わず顔をしかめてしまう、キツい一撃だった。
キィナの体が吹き飛ばされる。
崩れた建物の残骸だらけになった地面に落ちる間際、どうやったのか、キィナは体勢を立て直して跳ね、何度かそうして後ろへ下がって勢いを殺しながら、倒れることなく着地する。
腹に手を当てる少女の息は、上がっていた。苦痛に歪める顔に、警戒の色が濃い。一呼吸。刃を握り直し、再び踏み出しかけた彼女の周り——影の中に、いくつもの魔法陣が浮かび上がる。それが暗い光を放ったかと思うと、四方を塞いで影が盛り上がった。見る間に黒い人の形を作り上げる。
足の部分を地面に沈めたままの、紙人形のような背の高い人影。それらが一斉に、踏み留まったキィナに向かって襲いかかる。
「……!」
ハルトにはそこまでしか見ていられなかった。ギイドの視線を感じる。手に持った鍵を強く握りしめ、その存在を意識する。ギイドが一歩近付く分、ハルトは一歩後ずさった。
みんなが手助けしてくれるのに、自分は何もできない——否、自分は、どうすればいいのだろう?
この鍵を、渡したくないと思う。
その為には、どうすればいいのか。
ハルトには、一つしか思い付かなかった。
くるり、反転。
駆け出す。
とりあえず、逃げる。
もちろん、逃げるだけでは何の解決にもならない。それは分かっている。
背中に、ギイドのため息の気配を感じた。
「面倒な……」
今も魔神とアルグの争う激しい物音は響いていて、距離も離れていて、そんな声はとても聞こえないはずなのに、低く呟く声まで聞こえる気がした。
ギイドにとってはその程度の意識だ。
ハルトも、いずれ捕まってしまうだろうと分かっている。本当は何もしないうちから全身が痛いし、走る度にずきずきして今にも転んでしまいそうなのだ。
それでも、だから、必死に頭を働かせた。
——どうしよう。どうしよう。
ハルトはギイドをどうにかしたいわけじゃない。できないからではなくて、倒したいとは始めから思っていない。肝心なのは、この状況をどうしたいか、だ。
行く手にあるのは、人通りの消えた商店街だった。魔神が直ぐ側で暴れているこの辺りの住人は、既に避難を終えているらしい。その建物が作る影が、大いに揺らいだ。まるで町全体がギイドの意志に従っているみたいだった。細い路地にでも入って撒こうと思っていたのに、先程と同じように影が人の形を作って道を塞ぐ。
「わわわっ」
急停止。慌てて方向を変える。通りを真っ直ぐ行くしかなかった。
追いかけられている理由。
それは、鍵だ。
必要なのは、鍵。
ハルトは自分の物——母の形見さえ戻ればそれでいいけれど、魔神の封印を解くのにも、再び封印するのにも、鍵は二ついる。つまりなんとかして、こちらの持っている鍵を渡さないうちに、ギイドの持っている鍵を奪わないといけない。——それも、とんでもなく、難しい。
視界の端で何かが動いた。
暗がりから幾つもの黒く平たい手が生えて、ハルトを捕まえようと伸びてくる。絡みつくようなその動きは、体の内側を撫でられるみたいに気持ちが悪かった。
腕を掴まれそうになって、体を捻って無理に避ける。別の方から伸びた手に肩を掴まれ、それも焦って振り払う。しかし、いつのまにか何本もの黒い腕に服や鞄を掴まれていて、ハルトは呆気なく、地面に転がされた。
痛い。けれども起き上がる。
それも叶わなかった。
ほんの少し持ち上げた体が、強く地面に押し留められる。また痛かった。うつ伏せになった体に、何かが巻き付く感触がある。なんとか首を捻って見れば、帯状になって少しも厚みのない影が、直接ハルトの体を這い上って、地面に縛り付けているのだった。力を加えても、びくともしない。
ギイドがゆっくりと近付いてくる。
周りでは影が様子を窺うようにくねっている。
幸いにも、若草色の鍵は体の下に入って、押さえつけられている右手の中にあった。それをぎゅっと強く握る。
——なんとかしないと……。
目の前にあるのは、地面。
そこに引き千切られたハルトの腰鞄があって、中身が散乱していた。筆記具。木片。小銭。木彫用の小刀。手拭い。それからサビーノにもらった小玉がいくつか——。キィナが使ったのは煙の玉だったけれど、確かぱっと光るのもあったはずだ。影は影なのだから、光で散らせないだろうか?
左手はまだ動いた。
距離はぎりぎり。本当に、届くかどうか。
ばくばくする心臓に急かされながら、歯を食いしばって手を伸ばす。
指先が触れる。
丸い玉が微かに動いて、向こうに行ってしまいそうだった。慎重に、爪を引っかけるようにして——、
その時。
体がぐいっと引っ張られた。
「!」
咄嗟に何かを掴み取る。
細長い感触。
それは小刀だったらしい。
もともと弛んでいた鞘が勢いすっぽ抜けて、使い込んだ小振りな刃が露わになる。その切っ先が、裏返されたハルトの前に屈むギイドを向いた。
ちらとだけ、ギイドはそれに目を向ける。
そしてその刃を、空いた右手で掴んだ。
「悪足掻きするな」
その黒い眼は既にハルトを向いている。
赤い血が、手の平を伝って滴り落ちた。
——痛い……。
その赤を目にして、ハルトは青ざめる。
傷つける気なんてなかった。
ハルトには誰も傷つけられはしない。
その性格を承知していながら、ギイドは単に目障りだったからそうしている。痛みを感じていないわけではないのに。それさえ、取るに足りないことと無視してしまえる。
力の抜けた手から、ギイドは小刀を奪い取って後ろへ放り捨てた。そうして、ハルトが胸の上で固く握る拳に手を伸ばす。
ハルトは今更気が付いた。
相手を傷つける覚悟も、自分が傷つく覚悟もなく、いったい何が為せる気でいたのだろう。少なくともギイドは、目的の為なら手段どころか形振りさえ考慮しないのに。
でも……——。
ギイドが血の滲む手に力を込めて鍵を奪おうとする。ハルトはほとんど無意識に、より強く握りしめ、放さなかった。
ギイドが今度は胸ぐらを掴んで持ち上げる。苦しい。間近で見る、細面の黒い瞳。
「一分の良心をくれてやる。
いま渡せば、腕を切り落とさない」
ハルトは息を呑む。
一点の曇りなく本気だった。
怖い。怖くてたまらない。
死んでしまう。
それでも——!
ハルトは首を横に振った。
何度も何度も、精一杯横に振る。
できない。
それはできない。
渡せない。
絶対に渡したくないのだ。
それなら、なんとかしなくてはならない。
自分で。
他人を傷つけられないハルトにできること。それは、逃げることではなかった。はじめから、たった一つだ。
「イヤだ!」
ハルトは血に塗れた手で、胸ぐらを摘むギイドの手首を取る。透明な瞳に漆黒をうつして、正面から睨み据えた。
ハルトにできること。
それは他人の内を詳らかに見透かすこと。
本当は、人に触れるのも、触れられるのも苦手だ。何故なら、そうしている間は、相手の気持ちがよりはっきりと、流れ込むように全て感じ取れてしまうから。普段はふわふわとした雰囲気のような何かでも、触れていれば明確な映像や音として。それになにより、いま感じている気持ちだけではない。そのもとになる記憶や経験のような、奥底の全てが覗けてしまう。
それはハルトにとって大きな負担だった。キィナのように、相手の急所を一目で見破るような才能でもない。けれど。
人を、世界を拒絶して、一歩たりとも踏み込ませないギイドの心中は、読み取りづらい。だから、敢えて、その真っ暗闇に飛び込むつもりでのぞき見る。
「?」(なにを……?)
真っ暗な部屋だ。
何度となく裏切られ。
何度となく失望して。
何度となく殺されかけた。
ずっと独り。
今も、一人だ。
ハルトは瞬きして、まじまじと黒の瞳を覗き込んだ。
「……そうか、あなたはここにいないんだ」
「!」
初めてギイドの表情が動いた気がした。
驚きを露わに、目をほんの少し見開く。
そして躊躇なく、黒い剣を振りかぶった。
息が喉でつかえる。
ハルトの目は、振り上げられ光を受ける黒い切っ先に釘付けになり——その先にあるものが目に入って、さらにこれ以上ないくらい息を呑む。
ギイドもまた、その異変に気づかないわけにはいかなかった。手を止めて、振り返る。
ムルガンが突進してくるのだ。
それも、一直線に脇目も振らず。行く手にある家屋を残らず蹴散らしながら。そしてどういうわけかその進路は偶然ではなく、荒ぶる獣の怒りの矛先は、ハルトたちの方へ——というよりギイドへと向いているのだった。
——もしかして、ぼくが危なかったから? 通用しないと言っていたのに、助けようとしてくれている?
都合のいい解釈だと思う。ただ単に、寝ているのを勝手に起こした張本人だと、気付いたのかもしれない。他になにか気に障るものがあっただけ、とか。それに仮にハルトの想像通りだったとしても、本末転倒も甚だしかった。
「獣め。アマランジルは何をしている。
——っ!」
その上、転けた。
さんざん壊して回った建物の、大きめの瓦礫にでも足を取られたのだろう。ムルガンは突進する途中で大きく体勢を崩し、勢い余って建物をさらに薙ぎ倒しながらこちらに向かってくる。
その転倒で呼吸がずれた。
ギイドは細腕とは思えない腕力でハルトを持ち上げると、やや慌ただしくその場を跳び離れる。振り回されたハルトは、遠くの空に慌ててこちらに向かう魔女の姿を見た。
頭を振りながら、のそりと身を起こすムルガン。赤い瞳が、明らかにギイドを探している。
ギイドは顔を歪めて舌打ちした。
(面倒だが、一度退くか——)
そう思うが早いか、ハルトをぽいと打ち捨てる。
ハルトは何度目か地面に転がされた。
揺れる黒い外套が離れようとする。
ハルトは思わず、手を伸ばしていた。
掴んだのは、裾だけ。しかし離れるギイドとは反対の力が加わって、布地が張り、足がもつれる。そこをすかさず体ごと捕まえる。
ほとんど、体当たりだった。
外套の上から腰に腕を回してしがみつく。
ギイドは小揺るぎもしなかったものの、寸の間状況が掴めず、自らの背後に首を捻ってきょろきょろした。
「放せ。死にたいのか?」
「死にたくない! 死にたくないけど……!」
体が勝手に動いてしまったのだ。
そしてハルトは、声を限りに叫んだ。
「キィナ! 大丈夫だから! よく見て!」
「? ……あっ! そういうこと!」
「ッ!」
側にいたムルガンは、追いついたアルグが止めてくれる。同じくムルガンの突進から逃れていたキィナが、一息に間合いを詰める。
ギイドがその動きを目にして、ハルトを引き剥がそうと腕を掴んだ。絶対に放すまいと、必死になってしがみつく。上手くないと分かって、ギイドは外套ごとハルトを剥がしにかかった。
足が、腹に入ったのだろうか。唐突に、ものすごい痛みに襲われる。ハルトはたまらず地面に尻餅をついた。ばさりと頭から被さった黒い布に視界を塞がれて、何も見えない。
刃が空を斬る音だけを聞く。
急いで布を手繰り寄せる。
目の前で、キィナがギイドを斬り伏せていた。
思い切りよく、体を真っ二つにする勢いで、二重の斬線が走る。
「ギャーーーーッ!」
耳を裂く悲鳴は、物陰でサビーノと一緒に様子を窺っていた赤い鳥のもの。ヴァイオレットがだき抱えられた腕から抜け出そうと、必死にもがいて翼を広げる。ギイドは体を深く斬り裂かれたようにしか見えなかった。誰が見ても致命傷だ。主のそんな有様に、落ち着いていられるはずがない。
しかし、
当のギイドはひどく不快そうに目元を歪めただけだった。
そしてふわりと消えてしまう。
ハルトの膝の上に、白い紙切れが舞い落ちた。大きな切れ目が入って二つになった、人型の紙だ。それは魔女の使うツギハギの人形によく似ていた。
菫色の小さな眼を見開いて、鳥が声も無く大人しくなる。
「なるほど。影の魔術師か。よく言ったものだ。その名の通り、本人まで幻影だったのだから」
紙を手の平に乗せて見つめるハルトの傍らに、魔女の姿のアルグが降り立つ。
さっきまでここにいたギイドは、魔法でできた幻だった。意識は間違いなくその人のものだったのだろうが——それさえ作り物だったなら、ハルトはもっと早くに違和感に気付いたはずだ。体の方は彼が得意とした人形と同じ、薄っぺらなもの。
「その様子では、お嬢さんも知らなかったのか。私やハルトにさえ気付かせないのだから、本当に大した奴だ。この分だとあの姿も、本物かどうか、怪しいところだな」
と、しかつめらしく言う。
ハルトは腕を組むアルグを見上げ、はた、と思い至った。また、だ。魔神はどうしたのだろうか……?
思った途端。
「ブゴオォォォオオン!」
ハルトの頭を、今度は横殴りにするような怒声が響いた。距離も、驚くほどに近い。ムルガンは再び金色の太い鎖で地面に繋がれていた。はみ出た足で地面を叩く度、どすんどすんと重い振動が足下を揺らす。
ひらひらと宙を舞う小さな生き物に翻弄され、金色の棒で刺されて、怪我をして、その上なんだか腹の立つ黒いモノを叩けなかった。身動きもできず、積もり積もった不満を晴らせない。
ムルガンは激烈に怒り狂っていた。
全身の毛を逆立て、膨らませる。
これまでになく力を溜めている。
今にもその怒りを爆発させそうだ。
アルグが腕と一緒に取り繕った表情を崩して、ハルトを振り返る。
「ハルト! もう私の手にも負えないぞ!
鍵はどうした!」
そうだった、と思う。
一つは右手の中にある。
もう一つは——……。
ハルトの膝には、消えずに残ったギイドの外套がある。しがみついた時、何か固い物を触った気がした。今も妙な重みがある。ハルトは急いで布地をあさった。ほろりと、透明な物が落ちる。外套には内に隠しが付いていたのだ。
「あった!」
淡い桜色の、母の形見。
これで、二つ!
アルグが横で急かしている。
鍵は二つ揃った。それで、どうすればいいのだったか。ハルトは半ば混乱しながら、頭を働かせた。
——祈る? そうだ、祈ればいいんだ。でも祈るって、どうやって……?
よく分からない。
よく分からないけれど、脇でまた、ムルガンが吠える。よく分からないなりに、ハルトは二つの鍵を両手で包み込むように持って、額に合わせた。
固く、目を閉じる。
祈りはよく分からないから、願った。
いま、ハルトの内にある、素直な願い。
——これ以上、町が壊れませんように……。
——魔神が、静かに眠れますように……。
手の中で、光が溢れた。
それを瞼に感じて目を開く。
手の中の光はゆっくりと明滅していた。
ハルトは溢れそうな光に、そっと、手を開いた。手の平から光がこぼれて地面に落ちる。そこから見る間に広がって、地面全体が光を放ち始めた。
びっくりする。
その柔らかな光は見渡す限り——恐らく島中に広がって、また、地面にうずくまる獣を取り囲むように、少しずつ寄り集まる。繭のような光に包まれて、ムルガンが見えなくなった。地響きが止み、うなり声が聞こえなくなる。
繭の光がどんどん強くなって、
眩しさに、目を細めた瞬間、
ぱっと弾けた。
空に、雪のような光をふり蒔く。
後にはなんにもいない。
静けさの戻った町と、光の余韻だけが残った。
「…………はぁー……」
ハルトは張りつめた息と一緒に肩の力を抜いて、そのまま後ろ向きに倒れた。
そこにあったのは、ハルトの瞳と同じ、透きとおる青色。
どこまでも続く空があった。
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