第四章

第11話 悠久の時間

 気が付くと、ハルトは森の中にいた。むせかえるような緑のにおいがする。湿った地面に、両手足を投げ出して倒れている。青い空を覆い尽くすような深緑の天井——。

 ぱち、ぱち、と二度瞬きする。

 がばっ! と起きた。

「? ? ?」

 ここはどこだろう??

 見たことがない、だぶん、知らない森だ。

 いや、森と呼んでいいのだろうか? ハルトが思い浮かべる「森」よりも、ここはもっとずっと——濃い場所だった。何が、と聞かれてもちょっと困る。強いて言うなら、それは命の、濃さだ。

 初めて目にする樹木、草、花。そのどれもが太く、大きく、色鮮やかで、生命力に満ち溢れている。目の前を行き過ぎた甲虫でさえ、光沢のある空色。密集して茂る緑の中は、そんな生命の気配でざわざわしている。

 ——どうして、こんな所に……?

 ハルトは隙間無く大地を覆う草に手を付いて、立ち上がった。

 なにがなんだか、分からない。

 確か、さっきまでは……。

 すると突然、景色が流れ出した。

 ハルトは動いていないのに、そこにある樹木が、風のようにすばやく後ろに動き出す。一つではなく、次々と。森全体が、流される。

 ハルトはよろめいて、思わず顔を庇った。

 ぶつかる! と思った。

 しかし樹木も草も、ハルトの体を素通りする。まるでそこに存在しないみたいに。空気のにおいも葉が擦れる音も、鳥や虫の声も聞こえるのに。そういえば、ハルトが触れた湿る草の感触や、踏み締めた地面の音はしなかった。

 ここにいないのは、ハルトの方だ。

 それに思い至って、ハルトは恐る恐る腕の間から周囲を見る。流れる視界は森を駆け抜け、次第に上昇して、いつしか樹木の遥か上を飛んでいた。

「……!」

 そこから見えたのは、どこまでも続く大地。

 鬱蒼と茂る森。草原の丘陵。遠く連なる山々。そして、光を照り返して波打つ、巨大な湖。

 ——もしかして、あれが「海」?

 それらは、空に浮かぶ島に生まれたハルトが初めて目にする、どこまでも果ての無い雄大な大地の姿だった。

 そして、気付く。

 深い青の空に、浮島が一つも見当たらない。小さな影さえ無かった。そんなはずは……ないと思うけれど。ならばもしかしてここは……——。

「——太古の世界?」

 やがて、視界が下がり始めた。

 景色は再びどこかの森の中へ。さっきの場所とは違って、ここは薄暗く湿気ていた。

 そんな沼地の泥の中。

 何かの獣が鳴きながら蠢いている。たぶん真っ黒い毛並みの獣だ。全身泥まみれになっているせいで、はっきりとは分からない。ずんぐりした体型に、短い手足、尖って突き出た頭。まるまるとして鈍重そうなのに、口は獰猛に大きく裂けて、鋭い牙が見えている。小さなまなこは血を固めたような真紅だ。

 それはお世辞にも美しいとも、可愛らしいとも言えない、醜い姿の獣だった。

「…………」

 獣は何が不満なのか、泥を跳ね散らして暴れている。耳を突き刺すような掠れた高い叫びを上げる。

 ハルトは表情を曇らせた。何かは分からないけれど、確かに、おぞましくさえある生き物だった。でもそのもがく姿が、ハルトにはひどく痛ましく見えた。

「あれが魔神。

 魔神と呼ばれるようになった獣だよ。

 魔神はね、泥の中で生まれたんだ」

「!」

 いつの間にか傍らに人がいた。

 ハルトは驚いて身を引く。

 背の高い男の人だった。——ハルトと比べて高いだけで、身長は平均よりも少し高いくらいだろうか。紫がかった明るい灰色の髪を、肩口から前に垂らしてひとまとめにしている。裾や袖がやけに長い——法衣というのだろうか。偉い魔法使いの人が着るような、見慣れない白い衣服を着ていた。その縁飾りのあるたっぷりとした袖の中に手をしまうように、腹の上で緩く腕を組む。

 こちらは緑がかった灰の瞳と目が合うと、大人の人なのに、彼は少し照れくさそうにはにかんで笑った。

「はじめまして」

「はじめまして……」

 戸惑う。戸惑うなりに返事をする。

 すると白い服の人は、さらににこりと顔を綻ばせた。

「この景色はね、ボクが見聞きした記憶を元に、ほんの少し脚色を加えて、再現しているんだ。一度滅びる前の、遥か昔の世界だよ」

 静けさのある声で言って、緩やかに腕を広げる。周囲に向けられた優しげな眼差しが、懐かしむように細められた。

 ハルトはその横顔をただ眺める。

 この人は、誰だろうか?

 こんな変な場所に——状況に陥っているからか、この人の心の内が感じ取れなかった。今ならば、いくらでもハルトを騙せる。しかしそんな疑心を浮かばせない、不思議な空気を纏った人だった。

 遥か昔の景色——つまりこれは、神話の舞台となった太古の景色なのだと、その人は言う。自分の記憶なのだと。その景色を知っている人なんて、もういないはずなのに。

 その人はハルトの傍らで、ただ穏やかに微笑んでいる。ハルトの視線にも気付いているはずだった。柔らかな物腰。白い法衣のような服。そう、まるで……——、

「神官、さん? 魔神を封印した?」

 ハルトはまさかと思いながら、それを口にしていた。

 アルグのしてくれた話が思い出された。

 遺跡の最奥にあった、封印の部屋。あの場所で、自らの命をもって魔神を封印した、最後の神官がいた。未来に悲願を託したらしいその神官の魂が、封印と一緒にずっとあの場所に残っていたのだろうか。

 確かハルトは、辿り着いた最奥で、封印の解けた魔神の意識を受け止めきれずに倒れて——。その時、そこに留まっていたこの人の思念も器用に拾って、こうして話をしている——否、語りかけられている?

 それなら、心が読み取れないのも分かるかもしれない。この空間は、この人の意識そのものなのだ。この空間が心の中だから、そもそも読み取る必要がない。だからこんな不可思議な現象も、意のままに起こせる——のかな?

「…………」

 首を傾げて透明な瞳をそそぐハルトに、白い服の人は、何も言わずに灰緑の眼差しを返して微笑する。

 それからまた、前に向き直った。

「少し、早送りしよう」

「!」

 景色が加速する。

 みるみるうちに、豚くらいの大きさだった魔神が牛になり、小屋になり、民家になり——周囲の巨大な樹木よりも大きくなった。

 それにつれて、鬱蒼とした密林が荒らされ、枯れ果て、平地になっていく。

 景色の速度が緩やかになって、普通の時の流れに戻ると、魔神が全身をびりびりと震わせる大声で吼えた。

 牙の並んだ大きな口の隙間から、黒い霞のような吐息が漏れる。いくつも生えた尻尾が不気味にうねり、緑や紫の艶を含む湿った長い黒色の毛の間から、赤い眼が見え隠れする。その四肢は、長い毛のせいか、相変わらず胴の中に埋もれているように見えた。大地を這いずるように踏み荒らす。

 胸の底から怖気が走る。醜く、恐ろしい獣だ。しかしその姿は、ハルトには変わらずどこか儚げに見えた。

 獣が足をつく大地に、黒い染みが広がる。周囲にある草木が黒ずんで、萎れていく。巨大な獣が暴れるたび、森が消え、川が淀み、人の住む都が——現在よりもずっと大きく豊かに見える都が、炎に包まれていった。

 蹂躙される。

 あんなに美しかったのに、みんな汚され、壊されていく。

 次々と切り替わる光景に、ハルトは見開く瞳いっぱいに涙を溜めた。

 それらの惨状の中心には、必ず黒い獣がいる。どす黒い一匹の獣。あれが、魔神。狂ったように暴れ、悲鳴を上げる。

 見ていられなかった。

 瞼を伏せる。雫がこぼれた。

「魔神は、この世に産み落とされたばかりだったんだ。どんなに大きくても、子供にさえなっていない、赤ん坊だった。だから本能のまま喚いて、暴れた。他にできることなんて、なかったから。

 それだけで、大地は、滅びてしまった」

 深い悲しみに沈む声だった。後悔に似た色が、そこには含まれている。

現代いまでは、魔神は死と破滅の化身のように言われているけれど、それは違う。

 アレの本質は、怒り。

 魂を燃やし尽くすような、怒り……だけなんだよ」

「…………」

 それは——分かる気がした。

 沼地でもがいていた頃から、あの獣からハルトが感じられたのは、無闇な憤りだけだった。そう不思議と、ハルトには魔神と呼ばれる獣の気持ちは、ほんの少し感じ取れた。

 世界の全てが不愉快であるような、真っ黒い怒りの塊。それを周囲に当たり散らした。止めさせようと攻撃されるたび、さらに怒りを燃やして。それだけ——と言うには、あんまりな結果だけれど。

 不意に、悲しい景色がふつりと消える。

 ハルトは封印の遺跡の最奥に立っていた。

 これも過去の景色なのか、さっき見たのよりもどことなくきれいに見える。白い服の人は、うずくまる赤黒い岩の塊を前にして、見上げていた。

「ここから先は、だいたい魔術師殿が話したとおりだよ。そのほとんどを突き止めたのは、キミのお父上だったね。

 大地の生き物たちが技を結集して武器を作り、魔神は倒され、それでも死なず、封印された。大地と空のあちこちに。

 あれから何百年、何千年、時が経ったのか……」

 深い感慨の滲む声。

 ハルトには想像もできない、悠久の時間。

 白い、背中。

「世界は少しずつ癒されていった。人の営みは空へ移っても、変わらず回り続けた。

 それをずっと見ていた。

 空も大地も、あまさず全て。ずっと見ていたよ。

 そんな長い長い年月としつきを過ごすうちに、いくらか智慧もついた。止めどなく沸き上がる怒りを、御せるだけの理性も。

 かつてとは、ちがう」

 その人は、長い袖を空気に広げながら、ゆるり振り返った。落ち着いた、静かな物腰はそのままに、灰緑の瞳が真剣にハルトに語りかける。

「魔神は破壊を望んでいるわけじゃない。

 でも封印が解けてしまえばそうはいかない。

 無理矢理閉じ込められて、何も出来ず、過ごした鬱積は、同じだけの長い年月に積もり積もって、抑えがたい恨みと憎しみを生んでしまっている。中途半端に一部だけを蘇らせれば、足りない知性がそれを爆発させてしまうだろう。そうなれば今度こそ、世界を破壊し尽くすまで暴れる。それも本意だから、止められない」

 苦笑する。皮肉よりも哀しみが勝る笑みだった。思わず漏れてしまったというような。そしてそれを隠すように、また背を向けてしまう。

「この世界が好きだよ。

 もっとずっと見ていたい。

 だからまだ、眠らせておいてほしい」

「…………」

 ハルトはその白い背中を見つめる。

 優しい声。言葉にしたのは真摯な願い。

 でもその背中は、なんだかとても、寂しそうだった。

 何を想っているんだろう。今のハルトには、分からない。いつもなら、もっとはっきり分かるのに。それが無性にもどかしい。何もできない。こんなにも、自分は才能に頼っていたのか、と思う。不甲斐ない……。

 なんでもいい。声をかけたい。

 そう思って、ハルトは必死に言葉を探した。

「あの……」

「ふふふ」

 ハルトが一歩前へ出て口を開きかけたところで、その人は、小さく肩を揺らして笑った。

「?」

「……つい、話し過ぎてしまっているね。

 こうしておしゃべりするのは初めてで。

 上手く話せているといいのだけど」

 至極楽しそうに言う。笑みを堪えて口元に手を添え、改めてハルトに向き直る。咳払い一つ。気持ちを切り替えて、後ろに手を組む。

「それで、少年はどうしたい?」

 灰緑の瞳はそれまで通り温かく微笑んで、口元はそれまでとは打って変わっていたずらっぽく笑う。

 ——次はキミの番。

 とでも言うようにお鉢を回されても、何を問われているのか咄嗟に分からず、ハルトは目をぱちくりさせた。

 そんな反応は予想通りだったのか、その人は愛おしむように首を傾ける。

「魔神は、その一部だけれど、解き放たれた。キミは倒れて夢を見ている。目が覚めた後、どうするのかな?」

 そうだった、と思う。

 まだなんにも終わっていない。

 あの場にいたアルグは、どうなっただろう? ヴァイオレットを止めてくれたキィナは? 町は? 魔神は心臓だけだったけれど、さっき見たような獣が町へ行って暴れたら、大変なことになる。宿は、金枝亭は、どうなっただろう……。

 ——早く、行かなくちゃ……。

 急に不安になって、焦る想いで少し青ざめた顔を上げる。そこには温かな眼差しにほんの少し呆れを滲ませる、その人がいた。

「少年。ボクはキミがどうしたいか聞いたんだよ」

「ぼく?」

「そう。さっきもだけれど、キミはその才能のせいで、他の人にばかり目が行く。キミはもっと、自分の気持ちと向き合った方が良い」

 ハルトは首を傾げて、優しく諭すその人を見つめた。

 日頃から表情が薄いと言われがちなハルトだって、想いもするし、考えもする。イヤなことは嫌だ。それを口にすることもある。むしろはっきりしていると、サビーノあたりなら言う。

 でも——そうだ。

 言われて初めて思い至る。振り返ってみると、あの夕暮れにアルグと出会ってから、怒濤のように流されて、ハルトは今、こんな所まで来てしまった。その間、自分で何事かを考え、決断したかというとそうでもない。ハルトは成り行きに身を任せただけだ。

「…………」

 ——ほとんど当事者。

 そう言ったのは、アルグだ。

 あの時は「違うのに……」と思った。ハルトはその場にたまたま居合わせて、巻き込まれただけ。でもたぶん、違う。

 ハルトはオルレインの息子で、長い間魔神の鍵の持ち主で、そして長久の時間の中に取り残された人の、声無き声を聞ける天恵持ちでもある。

 当事者というなら、誰よりも当事者だったのだろう。

 ——でも……。

 そう気付いても、胸の底の方に噛み合わないような違和感がある。据わりが悪い。それはたぶん、気持ちが付いて来ないから。気持ちが置き去りにされている。

「ぼくの……気持ち?」

「うん」

 白い服の人は微笑んで、ゆっくりとうなずいてみせた。

 何を思ってきただろう。

 ハルトはゆっくりと瞬きして、頭を働かせてみた。これまで気に留められず流されていった、漠然とした想い。それを一つずつすくい上げる。

 初めは、アルグに出会って。

 それから、家を荒らされて。

 あの時は…………。

 もっと言葉を尽くせと言ったのも、確かアルグだ。

「悲しかった。ひどい。どうしてこんなことできるんだろう、て。悲しくて……それに、腹が立ったんだ……」

 顔を上げる。白い服の人は変わらずそこにいて、ハルトの言葉を聞いてくれている。

 ずっと変わらない平和な毎日が過ぎていくと思っていた。それなのに突然壊されて、めちゃくちゃにされて。大切な、とても大切なものだったのに。その理不尽さが、堪らなかった。あの重たい気持ちは——……怒り、だ。

 それから、

「いろいろ聞かされて、びっくりして、何がなんだか分からなくなった」

 それまであったものが全部ひっくり返ってしまったみたいだった。足場ががらがらと音を立てて崩れて、何を拠り所にすればいいのか分からなくなった。なんにもない不安に立ち竦んでしまった。

 だから、ハルトには新しい足場となる、指針が必要だった。流れのまま流されてしまったのは、たぶんそのせいだ。それを目の前にあったものに求めた。

「お父さんが絵の裏側に残した暗号。それが示す先に何があるのか。知りたい、て思った」

「うん」

 興味を惹かれたのも本当。

 ただ行ってみたかったのも本当。

 それに——、

「あの遺跡の残骸を見て、わくわくした。

 ゴーレムと戦うキィナは格好良くて、あの扉はびっくりしたし、白い廊下はちょっと怖くて、それに飛翔石の洞窟は美しかった」

 今まで考えもしなかったことばかりだった。神話も、魔法も、争いも、魔神も——。こんな世界があったんだって思った。あんな、黒い人がいるんだって。

「もちろん恐いのは恐かった。

 でも、たぶん、ぼくは——、

 けっこう、楽しかったんだと思う……」

「うん」

 それも本当の気持ちだ。

 なんだか、新鮮な気分だった。

 こんな風に自分の気持ちをはっきり口にしたのは、確かに、初めてかもしれない。母親が早くに亡くなってから、日々の生活に追われるので精一杯で、自分が何を思っているのか、本当はどうしたいのか、考える余裕なんて無かった。否、それもちょっと違う。考える必要が無かった。日々に不満なんて無かったから。これといった目標さえ、ハルトは持っていなかった。

 ——みんなは、違う。

 ここに集まった人たちは、違う。それぞれに目的があって、想いがあった。キィナも、アルグも、ヴァイオレットも、ギイドも、たぶんハルトの父親も……。

 みんながみんな、どこか身勝手だけど、その想いと真剣に向き合って目的を果たそうとしている。それぞれの想いを真剣にぶつけ合っている。そうやって、たぶん世界は回っているのだ。

 では、ハルトは?

 どうしたいのだろう?

 たぶん、今も指針を求めている。考えると、足下の地面が消えてしまうような不安に駆られる。これまでのハルトは、その指針を他人に見出そうとした。それではダメなのだ。

 魔神の封印は解けてしまった。ここまでやったことは、上手く行かなかった。ハルトに出来ることは少ない。戦いでは足手纏いになる。でもやれるかどうかは関係ない。

 だって彼は、ハルトの望みを、訊ねているのだ。

 ——自分で、見つけないと……。

「ぼくは……」

 盗られてしまったお母さんの形見。返してほしいと思う。

 魔神、コードリッカの町。望まない破壊をさせられるのは、かわいそうだ。町を——ハルトの故郷をめちゃくちゃにされるのは嫌だ。守りたい、と思う。守らないと、困る。

 それにお父さんの研究。悪い事に使わないでほしい。そうしようとする人たちに、腹が立つ。許せない。

「ぼくがやりたいのは…………」

 どれもそうで、どれも違う気がした。

 頭がぐるぐるする。

 まわってまわって混ざり合う。

 なにが……したい……のか……——。

 ハルトはこてんと首を傾げた。

「分かんないや」

「あらら」

 白い服の人が表情を崩す。なんだか気の抜けたような顔になった。

 結局、自分が何をしたいのかなんて、ハルトにはよく分からない。そもそも、今まで考えもしなかったことが、直ぐに分かるようになるはずないのかもしれない。ハルトはこの状況で、キィナのような大義も、アルグのような目的も、持ち合わせていないのだ。ぼんやりとは思い浮かべられるとしても、必死になってやり通そうと思えるだけの望みは、無い。

「でも……」

 いろいろ並べて整理して。浮かび上がるものがある。

 黒い影。それがくすぶっている。

「言いたいことは、ある、かも」

「そっか。それで充分だよ」

 その人はとても満足そうにうなずいた。

 全部、見透かされているみたいだった。ハルトの才能みたいに。でも悪い気はしなかった。そうやって、ハルトの背中を押してくれる。——不思議な、人。

「なら、もう帰るといい。

 ずっと呼ばれているよ」

 その人は、不意に上を見上げて言った。

 つられてハルトも天井を見る。そちらの方から、微かに声が聞こえていた。遠い、途切れがちな声だ。名前を——ハルトの名前を呼んでいる。

「長居するのも良くない」

 そう言って、ハルトに向き直る。どうしてかその人はハルトの姿を上から下までゆっくり眺めると、控えめに小さく微笑んだ。静かにうなずく。

「いいかい、少年。アレをもう一度封印したいのなら、二つの〈鍵〉を手に持って、祈ればいいよ。この島の上でなら、ここでなくでも大丈夫。島そのものが封印の術みたいなものだから。いくらか弱らせる必要はあるから、それは魔術師殿に」

 やさしい声で教えてくれる。ハルトを見下ろす眼差しは、その声と同じようにどこまでも優しげで、労りに満ちていて、そしてどことなく寂しげだった。

「…………」

 そんなことを知っているのは、太古の神官さんしかいない。太古の世界や魔神の姿だって。でも……、でも……。

 ハルトもまた、その人を見る。白い法衣。穏やかな物腰。温かな微笑み。

 でも——と思う。

 そんなはずが、なかった。だってハルトには、死んだ人の気持ちは読み取れない。

 ——なら、この人は……?

 それを知るヒトは、現代にも、たぶんもう一人、いる——。

「あなたは……本当は……もしかして……」

 その人は一瞬きょとんとした。

 それからただ、にこりとだけする。

 それだけで、ハルトは先を言えなくなった。

 その人は灰緑の瞳を少し伏せることで気持ちを持ち直して、再びハルトと向き合ったときには、変わらない穏やかだけど控えめな——底の知れない微笑みを浮かべている。

「気をつけて。

 キミはボクの初めての友達だから、いつだって心から応援しているけれど、地上に出て行ったアレには通じない。だからくれぐれも、気をつけるんだよ」

「——ハルトーー……!」

 また遠くから声がした。

 ハルトも白い服の人も、その声に気を取られて目を向ける。

「さあ、もう行って。

 またこうしておしゃべりしよう。いつか、かならず」

「あ——」



「ハルト!」

 はちっと目が覚めた。

 勢い、がばっ! と体を起こす。

 驚いた鳥が舞い上がって、赤い羽根を散らした。ゆらりゆらり降りかかる羽の合間からきょろきょろと見渡せば、そこは元いた——倒れる前にいた封印の遺跡の最奥だった。夢——といえば夢でしかないのだろうあの場所で見た「ここ」よりも、いま目の前にあるこの場所は、長久の時の経過を感じさせる。

 その入り口直ぐの階段の上部に、ハルトは倒れていたようだった。

「…………」

 座り込むハルトの目は、自然と部屋の奥に向けられた。そこにあったはずの赤黒い塊が無い。影の魔術師の姿も無い。代わりに天井に大きな穴が空いていて、明るい日の光が射し込んでいた。どこからか、不穏な地響きまで聞こえてくる気がする。

 アルグが翼を鳴らして、側の手摺りに留まった。

『正気か?』

 群青のつぶらな眼が真剣にのぞき込んで聞いている。

 ハルトは首を傾げてから、こくり、うなずいた。

『会えたか?』

 重ねての問いかけ。ハルトにはその真意が正確に汲み取れた。ここは夢ではない、現実だ。時折煩わしくもあるその感覚がはっきり戻って、実感する。

 ハルトは立ち上がった。

「ぼく、行かないと」

『……いつになくやる気だな』

 意表を突かれたアルグの声。

 ハルトはこくり、強く、うなずく。

 体の奥からふつふつと沸き上がるこの想い。今からそれを、ぶつけに行かないといけない。

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